第4章 キリスト教徒迫害の基因はユダヤにある

 (最新見直し2012.04.06日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 「第四章 キリスト教徒迫害の基因はユダヤにある(1)」、「第四章 キリスト教徒迫害の基因はユダヤにある(2)」、「第四章 キリスト教徒迫害の基因はユダヤにある(3)」を転載しておく。

 2012.04.06日 れんだいこ拝


 パリサイ派は、巨敵キリスト謀殺したことによって、彼らが三年間悩んできた恐威を駆除防遏し得たと思った。それで最初彼らはキリストの弟子らの伝道を少しも意に介しなかったが、エルサレムに於てキリスト教に帰依する者の数が益々増加した為、彼らはペテロとヨハネを最高評議会(シネドリオン)の会議の際に引き連れ来って、伝道を中止しろといって威嚇した。しかしキリストの教えの伝道に熱烈なるこの使徒達が仲々中止しなかった為に再び拘引(こういん)されて釈放はされたが、鞭打ち制裁を受けた。かくしてキリスト教への帰依する者を阻止することはできなかった。これが為、彼らが不安が増すに従って、その暴虐の程度も愈々過酷を極め、輔祭(ほさい)長ステパーは石を以って撃ち殺された。死を前にしてステパーは、裁判官らに向って、古代に於けるイスラエルの預言者を迫害した祖先と彼らとが、流血の連絡を続けていると侃々と述べた後、更に言った。「項強(うなじこば)くして、ただ儀式においてのみ割礼を受けたる心と耳とに割礼なき者よ、汝らは常に聖霊に逆う。その祖先らの如く汝らも然り。汝らの祖先達は預言者のうちの誰かを迫害せざりし。彼らは義人の来るを予め告げし者を殺し、汝らは今この義人を売り、かつ殺す者となれり。汝ら、御使(みつかひ)だちの伝えし律法を受けて、なおこれを守らざりき」(使途行實7章)。

 しかるにキリストの門徒達は、互にその伝達の地区を分配して、町から町へ、会堂から会堂へと巡歴して、全ローマ帝国の各地に別れて活動し、至るところに新進信徒の数を増加した。パリサイ派の人々は、全世界に普及せしめんと努めていたユダヤ人に対する、彼ら宗派の主権が危殆(きたい)に瀕しつつあることに疑いの余地なきことを悟った。彼らはキリスト教に対して決死の奮闘をなし、世界中何処でもこの教道を宣伝する者を迫害することに決した。
この目的を達成する為には、彼らはその方法に於て欠くるところはなかった。他民族の間に於けるイスラエル民の散居は、既に久しい以前から既成の事実となっていた。それでシネドリオンは、各国に於て協力者、密使、忠実なる代理者らの必要なる人員をもっていた。最高評議会(シネドリオン)の実体は、キリスト教に傾いていたガマリエル及びパリサイ派と同様にキリスト教の酷烈なる敵であったサドカイ派の数人を除き全部パリサイ派から成っていた。

 西暦35年頃のユダヤ人の状態に関する的確なる疑念を得る為には次の事情に着眼すればよい。即ち幾多世紀の間にわたって、これ程世界中に分散していた国民は他に一つもない。それと共にこれ程固く自国民の一致を意識している国民も他に一つもない。そもそもユダヤ人の散在は西暦紀元前1000年頃、ソロモン王の治世に始まった。ソロモン王はユダヤ植民地をスペインのタルシシ及びエチオピアのオフルにまで発展した。この二ヶ所の植民地は、金と象牙と高価なる木材である白檀木を供給する義務を負わされていた。その後バビロンの俘囚が始まってユダヤ国の領地は荒廃した。もっともペルシャ王キロスの全勝の後、追放の民ユダヤ人は故郷に帰る許可を得たのであったが、彼らの中の多くの者は、この機会を利用しなかった。故にバイブルの中にあるエステル書によると、ユダヤ人は、当時のペルシャ帝国の版図の至る処に住んでいた。この時分また多数のユダヤ人は脱走してエジプトに注ぎ、古代のパロの国に住所を求めた。

 アレキサンダ大帝の勝利はユダヤ人の分散を一層助成した。ユダヤ人は直ちに帰順の意を表明して大いに大帝の好意を得た。大帝は多くのユダヤ人にアレキサンドリヤに移住することを許した。他のユダヤ人はギリシャに赴いた。或る者は大帝の軍隊に従って行った。クウイント・クールチイは彼等の軍隊中に加わっていたことを指摘していた。ローマは共和国存在の末頃から始めて多数のユダヤ人が住んでいた。彼らは勝ち誇ったローマ軍隊に従軍して、食糧を供給したり、軍事税を微収したりしていた。この時分彼らは、ローマ人集会所または法廷の役人になっていたので、その広場を威嚇して擾乱(じょうらん)を惹起させるほどの強力な者となった。

 地方総督フラックスは、追放されたユダヤ人がエルサレム聖殿の維持の為に納めていたデイドラクマ(ギリシャの貨幣)の租税(殿税)を没収した。これが為に彼はローマのユダヤ人から公衆の面前で非難され、そしてその是非を法廷で争うことになって、シロセはこれを弁護した。裁判の当日広場はユダヤ人の大衆に満ち溢れていた。彼らは弁護人と被告を威嚇する態度を持していた。シロセはユダヤ人の原告に向って声を張りあげて言った。「おお、レリウスよ、何故にこの事件がアウレウスの階段の下で取り調べられるか余はよく知っている。汝がこの場所を撰んで、この下層民の群衆に取り囲ませたのは、汝がこのユダヤ人の数多きことと、彼らの団結力と集会に於ける群衆に対する彼らの努力をよく知っているからである。余はただ裁判官のみに聞こえるが為に、故さらに声を低くしよう。何となれば、彼らの間には、常に余個人に対し、あるいは市民中の優良分子に対して、彼らを煽動せんとしている指導者がいる、余が彼らのこの仕事を容易ならしむるに助力するものと汝は思うか」(シロセ「マラックスの弁護」18)。

 端的に云えば、西暦一世紀の初めに書いた古代ギリシャの地理学者ストラボンの雑記中にある次の断篇よりも確実な証拠を有するものは他にないと思う。即ち、「ユダヤ人は、あらゆる都市に普及している。この地球上に彼らの至って鞏固(きょうこ)に生活を営んでいないような場所を探し出すことは困難である」(ヨセフ・フラウィー著「ユダヤ古代史及びユダヤ人の戦争」)。

 実際ユダヤ人は、到る処に牢固たる地位を占めている。そして或る処、例えばアレキサンドリヤなどは、全人口の三分の一を占めている。のみならず彼らは殆んど総ての場所に於て、次のような特別な権利を獲得していた。 (一)・特別区域ゲットと云う居住権、(二)・或る種の租税に対する免税権、(三)・自国民から選んだ裁判官による裁判権。イエス・キリスト及び最初の使徒たちの時代に世界を網羅していたユダヤ人の各殖民地は一種の共和国を成り立てていた。そしてその宗教上及び行政上の中心となっていたのは彼らの会堂であった。しかしこの地方的会堂は追放せられたユダヤ人の憧憬の的となっていた聖地、エルサレムの聖殿の単なる繁栄に過ぎなかった。ただこの聖殿に於てエホバの神に対して行われる献祭のみが効力あるものと認められていた。そして他のすべての都市に於てはこれを行うことが禁じられていた。それでエルサレムの聖殿の維持の為に、毎年世界の四方からの租税が集められて、エルサレムに送られていた。この目的によるドラクマ人頭税は一種の貢で、これを納めることにはユダヤ人は皆喜んで同意していた。何となれば、この貢が彼らの国民的団結を強化すると共に、その宗教心を満足せしめるからである。以上、我らの記述したる組織によって、ユダヤ人は西暦35年には極度の分散と最も緊密なる宗教的及び政治的一致団結との互に相矛盾せる状態を呈していた。幾百と云う、ローマ帝国、アジヤ諸国の都市、あまつさえ野蛮国の各地はその中にあるゲット―(ユダヤ人居留地)に於て古代ユダヤ国の人口の四分の三を収容していたのである。

 しかし最高評議会(シネドリオン)とエルサレムの聖殿は、これら追放せられたる国民の為にも、パレスチナに踏み留まった同胞と同様な憧憬の的となったり、且つ同様なる権威を保持していたのである。皆同様の殿税を納め、同一の献祭を精神的中心として団結していた彼らは、シネドリオンにとっては皆な臣民であった。しかしこれと交渉を保つことは一層困難であったが、とにかく屡々(しばしば)これに飛脚を送っていた。もしその当時或はそれよりも久しき以前からシネドリオンがパリサイ派の手中に牛耳られていたことを想起するならば、ユダヤ民の最高会議の名によるこの宗派の単なる布令によって、直ちに全世界を網羅している無数のユダヤ人居留民団を駆って、キリスト教排斥運動の為に起たしめることが、易々たる業であることを解するに難しくないであらう。そしてキリスト教の伝播の迅速なることが一般に明白となるや否や、このことが現実化したのである。それは即ち紀元35年であった。

 初期キリスト教の伝説を保守していた教会の師父らが、我らに伝えた動かすべからざる事実に基いて検討するならば、この問題は疑うべき余地を有しないのである。二世紀の最も有名なる殉教者の一人なる聖哲学者エスティヌスは、ただに教会に知られているのみならず、その反対者も否定していない事実について、「ユダヤ人トリフォン(多分秘密教諸書中にその名を知られている祭司トリフォンであらう)との談話」と題する著書中にこう記している。「イエス・キリスト及び我らに加えられる侮辱に対する罪に於て、他の国民は汝らユダヤ人に比すれば遙かに軽い。汝らは我らに関する偏見と、我ら及び義人(キリスト)についての悪評の基因を成す者である。実際汝らは彼(キリスト)を十字架に釘づけた後、彼の復活と昇天のことを確実に知りながら、悔い改めなかった。しかならず、あたかもこの時に当って自分らが厳選したる密使を世界中に派遣した。この密使らは、到る処に於てキリスト教を背信的宗教と称し、それが如何にして起こったかと説いて、我らに関する聞くに堪えざる悪評を宣伝した。そしてこの悪評は今日もなお我らを知らざる人々によりて繰り返されている」(17節)。本書の18節に於て、聖哲学者エスティヌスは、再びこの非難について一層決定的に述べている。その言に、「余の既に云った如く、汝らは自分らの計画を実行するに適する人々を選抜して、彼らを四方に派遣し、彼らを通じて、ガリラヤから出たイエスなる者が律法に反し、神に背く宗教を起したと宣伝せしめた。なお汝らは、イエス・キリストが忌むべき犯罪を行うことをその弟子らに教えたと附け加えた。そして今日に至るまで汝らは、イエス・キリストを救世主又は神の子と見做している人々が、皆この犯罪をその固有のこととして行っていると力説している。我らについて云えば、我らは汝らに対しても、又汝らに関するこの悪評を汝らから聞いている人々に対しても、憎悪の念を懐くものではない。そして我らは、神は彼らにも汝らにも、その宥怒と恩恵とを賜らんことを祈ってさえいるのである」。

 シネドリオンの使者らが、全政界に分散しているユダヤ居留民団に対し、またその集団にあった諸国民に対して、キリスト教を非難するために指摘した「忌むべき犯罪」とはそもそも何であったろう。これを明らかにする為には、その当時に於けるキリスト教徒以外の学者達の著書を繙(ひもと)けば足りる。彼らはこう言っている。「キリスト教徒は忌むべき秘密の教道を宣伝したり、驢馬(ろば)の頭を拝んだりしている。そして自分らの聖餐の時に、捏粉(ねりこ)を塗りつけた嬰児の体を分ける(聖体機密の曲解)。彼らはまた近親相姦その他種々の犯罪を事としている。終に彼らは反逆者で、シーザーの命に服せざる者、あらゆる社会の敵である」と。

 紀元前三世紀の間、これらの非難によって幾何のキリスト教徒の虐殺が行われたか、また幾何の殉教者が残酷なる苦悩の中に、叙上の如き、讒誣(ざんぶ)によって煽動された群衆の喊声(かんせい)を聞きつつ亡びたかは周知の事実である。この讒誣(ざんぶ)が何所から出たかを明らかにし、且つ教師を十字架につけた手が、その門徒達をも苦しめたのであることを知るのは無益なことではない。

 テルトリアヌスの証明も、聖エスティヌスの指摘したところと同一である。聖エスティヌスは、「主の名が諸国民の間に誹(そし)らるるは、これ汝の故なり」との聖書の言をユダヤ人に適用して、なお附け加えてこう記している。「実際今日我らが恥ずべき状態に陷ち入れられている原因はユダヤ人にある」。他の個所に於て彼はその同時代のキリスト教信者が、カルタゴに於てユダヤ人から受けた総ての侮辱を枚挙している。彼の云うには、「下層民もユダヤ人を信じていた。何となれば世界中ユダヤ人の如く我らについても忌むべきことを宣伝する人種が他に何処にあらうか」。終に「異教徒についての書」に於て、彼は簡単にして且つ感動深き、歴史的真実を適切に述べた次のような定義を用いている。即ち「ユダヤ人の会堂は我らの受くる迫害の源泉である」と。

 オリゲヌスも記して云うに、「ツェリス、その書中に我らを知らざる自分の読者らに、我らを以って神を冒涜する者となして、争闘と交える希望を起さしめている。我らはこの点に於てユダヤ人に似ている、ユダヤ人はキリスト教の開基以来、我らについてあらゆる讒謗(ざんぼう)を流布していた。彼らはキリスト教徒が嬰児を人身御供となし、その肉を食し、自分の暗い行為をなそうと欲して燈火を消し、行き会う姉を捉(とら)えては姦淫を事とすると言っている。これらの讒誣は、如何に荒唐無稽であろうとも、多くの人々をして我らに反対せしめる力あるものである」(「ツェリスに対する反駁」6の27)。

 エ・パンフリも同様にその預言者イザヤの書の注解中にこう述べている。「我らは我らの学士等の書中に次の如き事を見出した。即ちエルサレムに於けるユダヤ人の祭司ら及び長老らは総てのユダヤ人に遍(あまね)く書翰(しょかん)を送って、イエス・キリストの教道を神に逆う新設として非議し、これを排斥すべきことを命じた。このユダヤ人の使者らは、書翰を託された諸海を航し、全地を巡歴し、自分の讒誣(ざんぶ)を以って到る処に我らの救主について醜悪なる風説を流布した」。

 当時の著書から同様の事実を証明している、なお数十の抜粋をここに列挙することもできよう。しかし我らはモスヘイムがその著書の中に述べている次の結論を引用するに止めておこう。「ユダヤ国民の祭司長ら及び長老らは、自分の使者らを諸州に派遣して、同胞を使嗾(しそう)し、ただにキリスト教徒を忌避し、且つ憎むのみならず、あらゆる方法を以って彼らを窘迫(きんぱく)し又は検挙せしめた。全世界のユダヤ人は、自分の指導者らの命令を実行して、讒誣(ざんぶ)及び各種の奸策を弄し、地方長官、裁判官及び民衆を煽動して、キリスト教に反抗せしめようと努めた。この讒誣(ざんぶ)の中、主なるものは、今日もなお繰返されている次の如きものであった。即ちキリスト教は国家のため危険なる宗派で帝王の権力に対して敵意を懐くものである。と云うのは、この宗派は総督ピラトによって全然合法的に十字架につけられたイエス・キリストと云う悪人を神とし、又王と認めているからである。かかる所為は、最初のキリスト教徒をしてユダヤ人の憎悪と残忍とに対する怨訴(おんそ)を絶叫するに至らしめた。彼らはユダヤ人のかかる態度を以って、異教徒即ちキリスト教徒及びユダヤ人以外の者の迫害よりも、一層危険且つ困難なるものと認めていた。民衆を駆ってキリスト教徒に反抗せしめる命令を以って派遣された、かかるシネドリオンの使徒等の一人に、タルス生れの若いパリサイ派の学者サウロがあった。聖輔祭(ほさい)長ステパーを石を以って撃ち殺したユダヤ人らが、彼の足下に自分の衣服を脱いで置いたと云われるほど、彼はこの事件に密接な関係を有していた。しかるに彼はその後ダマスコに同じ目的を以って赴く途中、奇蹟的に俄然キリスト教に転向して聖使徒パウロとなった。これについて使徒行伝にこう記してある。『パウロは教会をあらし、家々に入り男女を引き出して獄に付せり……パウロは主の弟子達に対して、なお恐喝と殺害との気を充たし、大祭司にいたりて、タマスコにある諸会堂の添書を請う。この道の者を見出さば、男女に拘わらず縛ってエルサレムに曳かん為なり』」(8章及び9章)。

 後に、聖ポーロとなったタルスのパウロは、他の使徒たちと同様、彼を殺そうと謀っていたユダヤ人の絶間なき迫害に遭遇した。使途行實にこの事を次のように記してある。「次の安息日には神の言を聴かんと、殆んど町は挙って集りたり。しかれどもユダヤ人は、その群衆を見て嫉みに満たされ、パウロの語ることに言ひ逆ひて罵れり。……ユダヤ人らは、敬虔(けいけん)なる貴女達及び町の重立ちたる人々を唆(そその)かして、パウロとバルナバとに迫害を加え、遂に彼らをその境より逐ひ出せり」(13章)。また、ルステラに於ける聖パウロの奇蹟の後、「数人のユダヤ人、アンテオケ及びイコニヤより来り、群衆を勧め、而してパウロを石にて撃ち、既に死にたりと思いて町の外に曳き出せり」(同14章)と。

 テサロニケに於ける彼の伝道の際、「ここにユダヤ人ら嫉みを起して、市の無頼漢を語らい、群衆を集めて町を騒がし、……ヤソンと数人の兄弟とを町司(まちつかさ)達の前に曳き来り、呼(よば)わりて言う。『天下を転覆したる彼の者共、ここにまで来れるをヤソン迎い入れたり。この曹輩(ともがら)は皆なカイザルの詔勅(みごとのり)に背き、他にイエスと云う王ありと言う』。これを聞きて群衆と町司達と心を騒がせり」(同17章)後に聖パウロは、使徒たちを甚しく苦しめたユダヤ人の冷酷に対して、エペソ教会の長老らに痛く訴えた。彼がエルサレムに帰った後、シネドリオンは彼に対して群衆を扇動した。彼はただ自分はローマの市民権を有する者であることを主張して、始めて危害を免れることができた。何となれば、この市民権を有する者の生命を保護することは、ローマ版図内に於ける総ての有司の任務であったからである。その後パウロの幽囚中にも彼を殺そうとの試挙は一再ならず繰り返された。

 終に西暦64年に、ユダヤ人はパリサイ派に煽動されて、自分らの勝利の時期が到来したと決した、ローマの帝位に暴君ネロが就いた。彼はキリスト教徒迫害を発布して、彼らを死刑に処することを定めた。或る者はこう云う疑問を起している。即ちアレキサンドリヤの聖主教クレメントはこの迫害のことをその書中に記しているが、何故に彼はその原因を断然ユダヤ人の嫉悪に帰しているのであろうかと云うのである。しかし彼のこの証言は説明に難くない。ネロがキリスト教徒に対して迫害を起す動機となったローマの火災は、サーカスの附近にあったユダヤの商店から始まったのであった。自然死刑は第一にユダヤ人に宣告せらるべき順序であった。しかるにユダヤ人はネロ皇帝の宮中に有力なる擁護者を育っていた。その上ネロの愛妾なるポンペヤはユダヤ教の信者であった。彼女はただに皇帝を説服して赦免せしめたのみならず、ユダヤ人に及ぶべき迫害をキリスト教徒に転ぜしめたのである。そこでローマに於けるユダヤ居留民は、爾後(じご)三年間或は猛獣の牙にかかり、或は火焔の中に投ぜられて、甚だしき苦悩を嘗めて死んだ数千のキリスト教徒の惨状を見て満足をすることができた。西暦67年の6月、ユダヤ人は遂に久しく待ちつつあった歓喜即ち聖使徒ペテロ及びパウロの殉教者としての死去を見ることができた。

 ユダヤ人によって惹起されたこの迫害は、初世紀以来キリスト教会に於て、こう云う説教を確定した。即ちユダヤ人は神の民なることを止めて、悪魔の民となったと云うのである。この説教の言葉を我らは、「ディダスカリィ」即ちエルサレムの使徒公会の際に編成せられたと云う、今日カトリック教会に保存せられている「十二人の人及び主の門徒の教訓」に見るのである。この教訓のギリシャ語の原本は既に失われている。我らはただシリヤ語の訳文だけを得た、それはホーレルがイタリ―の町ウェロナで一つの古写本中に古代のラテン語訳文の断片を発見した。尤もこの訳文は頗(すこぶ)る低劣なものである。以下はその直訳である。「彼(神)はその民を棄てて、その衣を裂いて荒れ果てた聖殿を去った。そして彼より己の聖霊を奪って、彼を信じたる異邦人に対した。これは預言者ヨエルの預言した如くである。その言に曰く『我、我が霊を一切の人に注がん』。彼は実際その民より聖霊を奪った。己の言の力と総ての己の祭司班を奪って、これを己の教会に移した。同様に誘惑者なる悪魔(サタン)も教会を攻撃するためにその民を棄てた。そして以後悪魔(サタン)はその民を誘惑しないであらう。それはこの民は自らその悪しき行為によって悪魔の手中に陥り、同様に教会を誘惑し、これに苦悩を与え、これに対して、迫害、誹謗、偽教及び分派を起さしめるからである」。この終尾の言葉は預言的である。実際一世紀頃のキリスト教会には一つの異論もなかった。後世現われた異端はほとんど全部ユダヤ人の背信的奸計によって起こったのである」。〔傍註〕

 ◆囲み記事

 自由がもし敬神を根拠とし、服従を規定せる天地の法則に背反せるが如き平等の観念を去った同胞主義に立脚する時は、国民の幸福を阻害することなく、国家組織の中に無害なるものとして存する事ができる。その如き宗教と信仰とを持って居る時は、国民は地上に於ける神の摂理に従い教会に統御せられ、謙遜、柔順に精神的慈父たる牧師に従うものである。それであるから吾々は宗教の根底を覆えし、非ユダヤ人の脳裡から神霊の観念を奪い取り、その代りに個人主義的打算的利欲と肉体的享楽主義欲求とを植え付けねばならぬ」(ユダヤ議定書第4章)。





(私論.私見)