第11章 現代に於ける「タルムード」の意義

 (最新見直し2012.04.06日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 「第十一章 現代に於けるタルムードの意義(1)」、「第十一章 現代に於けるタルムードの意義(2)」、「第十一章 現代に於けるタルムードの意義(3)」、「 第十一章 現代に於けるタルムードの意義(4)」、「第十一章 現代に於ける「タルムード」の意義(5)」を転載しておく。

 2012.04.06日 れんだいこ拝


 パリサイ派の創造せるタルムードの教義と、この教義が我らの文明全体に脅威を与えている危険を説明することは容易な業ではない。実際、我らキリスト教信者中、信仰上の問題に対して、冷淡、無関心なる人々でさえも、とにかく無意識的ながらキリスト教会の教義に浸透せられているので、キリスト教の感化を受けた道義的基礎に全然反対なる精神的機構の上に立てる存在を許容し得ない。

 この人々の思惟(しい)する所によれば、各宗教の教義は何れも皆善良なる情操を発達せしめ、慈善的行為によって各自の救済を達成せしめる事を以ってその目的としている。勿論、人間の想像は気候風土の如何によって神の定めたる任務に対して千差萬別の模様を織り成し得たのであろうが、しかしそれは決してその内部的本質を変ぜしめたことはなかった。これが即ち我が多数の同胞の斉(ひと)しく信ぜんとする所である。たまたま彼らの間に誤れる意見の存ずることありとすれば、それは畢竟(ひっきょう)無意識的にキリスト教に払われる貢献である。何となればキリスト教は善その物をその基礎とせざる宗教の存在し得ることを信ずる可能性さえも彼らの心に滅却したからである。

 だが、我らが本書の初頁に於て指摘したように、古代の文化に於ては悪その物、例えば残忍性や淫慾の如きものを神体として崇拝する宗教もあった。現代に於ても殊にアフリカ及びアジアの奥地にかかる暗黒なる宗教が多少は存在している。しかし三千年以前に住んでいた民族やコンゴポリネシア等の野蛮人の間にあり得べきものとして、我らの想像し得る所の事を、今日我らの間に住居し、我らの政治的乃至個人的生活に伍(ご)し、我らの現代文化的社会に於て商工業者は云うに及ばず、裁判官、将校、官吏、弁護士、医師等の職を有し、我らの想念に於て一般の福祉に対する奉仕の理想、少なくとも名誉もしくは廉直(れんちょく)の観念と不可分の関係を有する業務に携わりつつあるユダヤ人に、かかることが有り得べき事を思惟することさえ我らの困難とする所である。

 我らの社会の一員となり、外部的に我らと渾然(こんぜん)一体となっているこの民族が、啻(ただ)にキリスト教国民の法律と没交渉なるのみならず、これを全然否定し、これを常に矛盾せる道義的乃至宗教的律法を有していることを理解せんとするが為には、少なからず努力を要する。何となれば彼らの律法は、キリスト信者が『殺す勿れ』と云う場合に『殺せ』と云う、『盗む勿れ』と云う場合に『盗め』と云い『偽証をなす勿れ』と云う時に『偽われ』と云うからである。

 これを理解する事の困難なのは、なおその間に或る内部矛盾が存じているからである。キリストの律法はモーゼの律法の敷衍(ふえん)であり且つ追補である。しかるにユダヤ人はキリストを十字架にかけた殺神行為の時より今日に至るまで、絶えずしかも公然自らモーゼの律法の信奉者と称している。「もし彼らが完全なる権利を以ってこれを行っているならば、疑いなく潔浄なる源泉から発する彼らの教義を如何にしてかくまで根本的に壊乱せしめる事ができるだろう」。この議論は、タルムードに記載せられている規則に憤慨せる最も深刻なるユダヤ排斥論者をさえも往々その了解に苦しましめたのである。

 ユダヤ人は二様の意義に解せられる種々の場合を、常に巧妙に利用し来たったものである。例えばソロモン・レイナクは儀式的殺人行為に関する自分の論文中に述べて云うには、ユダヤ人がかかる行為をなそうとは全く考えられない。「何となればモーゼの律法は、獣の血さえも食物に用いることを禁じているからである」。ソロモン・レイナクはタルムード学者である、故にユダヤ会堂が「バイブルは水の如く、ミシナは酒の如く、ゲマラは芳醇の酒の如し」との本文に従って、バイブルをタルムードに従わしめていることを知っている。しかるにタルムードは前既に述べた如く、儀式的殺人行為を許しているのみならず奨励さえもしている。ソロモン・レイナクは左様な瑣事(さじ)は意に介さない、彼は読者の大多数が彼の言明を根底から排斥しているタルムードの本文を審査するものでない事を予想している。それ故に誰もよく知られているモーゼの律法についてのみ説いている。二様の意義はこの場合に於てもその目的を達したと云うべきである。この矛盾を全然解除するが為に、我らはタルムードの本文を叙述するに先だってタルムードを編纂した。パリサイ派の発達した歴史的様相を明らかにした。この書を一読する光栄を我らに供与した者は、今や既にユダヤ民族の古来の宗教なるモーゼの律法と、その現代の宗教なるタルムードの律法との間には何らの交渉もないことを明らかにしたであろう。

 十五世紀の間、預言者らが宣伝した正義と仁愛の律法に対して、五百年間に亘るパリサイ派の秘密結社の活動は、漸次憎悪と虚偽の教義を対立せしめた。殺神行為の実行された刹那以来、この不義の律法は、嘗(かつ)ては神の選民たりしユダヤ人の会堂に於て宣伝せられ、攻究せられ遵奉せらるる唯一の律法となっている。しかし我らの任務が之だけで完了したものでないことを、我らは敢えて自ら隠蔽しない。何となれば我らに対して為し得る二つの辯駁(べんばく)が残されてある。

 その一は、タルムードが如何に厭忌(えんき)すべきものであろうとも、とにかくこれは最も古代の記念物で、その教義を実生活に適用しようとの意図を全然別にして、単に伝統に基づく外部的尊敬を会堂から払われ得べきものであろう。もしそうしたならば、ユダヤ人は必ずしもタルムードによって風紀を紊乱(びんらん)せられることもなく、またこれに由って各国民の恒久的且つ不倶戴天(ふぐたいてん)の敵となることもなかろう、と云うのである。

 その二は、現代のユダヤ会堂もタルムードの教義の総ての基礎を認め、ユダヤ人の道義的世界観全部の構成を之に準拠せしめているとしても、とにかく道徳堅固なる個人は、何時でも受けたる教義を修正する事を得る。そしてユダヤ教との関係を絶つ事なく、自分の社会的且個人的行為を一般に認められている名誉を、廉直(れんちょく)との通則に合致せしめて行く事ができると云うのである。この最終の一章に於て我らは上記の弁駁(べんばく)を検討して見よう。

 タルムードが、例え虫に蝕い荒され、既にそれ自身の時代も経過して了ったものであるとしても、とにかくユダヤ歴史の最も古い記念物であるが故だけで、現代のユダヤ人の為に尊敬すべきものたる事を失わないと云う思想は真面目に支持するに足らない。否その反対に現代のユダヤ人がタルムードとその世界観及びその教義に対して、古代のユダヤ人と同様に無限の敬意と従順とを保持していると云う事について数多の証拠がある。

 我らは既に革新派ユダヤ人の声とも云うべき雑誌「ユダヤ古文書」中にタルムードについて云えば、我らはモーゼのバイブルに対するその完全なる優越性を認めると記してある言葉を引用した。我らは更に1867年の発行にかかる保守派ユダヤ人の声なる雑誌「世界的ユダヤ民族」の中にユダヤ神学校長大教師アール・トレネルの名を以って述べた左の言葉を引用しよう。

 「タルムードはすべての時代に於て、酷烈なる誹謗者と熱情的擁護者に逢着(ほうちゃく)した。二千年の間タルムードは、その宗教的法典となっているイスラエル人の崇敬の的となっている。他の一向に於てタルムードは屡々(しばしば)之を源泉として我らに対する闘争の武器を汲み取る我が教義の背反者の拠る所の基礎となっていた」。

 これによって見れば、ユダヤ民族を両分する二大潮流は何れもタルムードとその教義を高壇に祭り上ぐる事に於てその揆(はかりごと)を一にしている。主としてパレスチナにイスラエル国を復興せんとして運動しつつあるシオン主義者については彼らは熱烈なるタルムード信奉者で、自ら之を以って誇りとしている者である。かくの如く次第で第一の弁駁(べんばく)は既に何らの理由なきものとなった。

 イスラエル民の伝統的崇拝の目標となっている神を嘲笑するタルムード、パリサイ派の神秘学的乃至汎神論的信仰を高唱するタルムード、すべての非ユダヤ人に対する憎悪を宣伝し、之に対する闘争の方法として詐欺、窃盗、殺人、背信等の行為を用うる事を奨励するタルムードは、今日に至るまでもなお依然として宗教的経典となっている。ユダヤ人中学校に於ても之を教授し、これを以ってユダヤ人の児童の心を薫陶(くんとう)している。多くの事はこれによって説明されるのである。

 残っているのは第二の弁駁である。即ち廉直(れんちょく)の法則を以って実生活の基準とすることができると云うのである。この可能性は我らに絶対に排斥することはできない。しかし我らの知る所によれば、イスラエル民の宗教の教義に関してかかる自由なる態度を持することは、之を敢えてする所のユダヤ人に最も重大なる困難を招来せしめ、且つ少なからざる危険に遭遇せしめる結果となるのである。実際忘れるべからざる一の事情がある。即ちユダヤ人はその居住する国の中で、民族意識のかくまで鞏固(きょうこ)でない他の宗教の国民に比較すると、遙かに単一で、はるかに固く結合している民団を組織している。この民団は疑いもなく宗教上の目的を有している。それと同時にまたユダヤ人が世界の各地に分散しているにも拘らずその間に民族的結合を謀ることを目的としている。これによって彼らの統治は稀に見る牢固たる基礎を有している。この統治者に公然背反するユダヤ人は、宗教上の見地から背教者と認められると同時に、民族的見地から反逆者と云う烙印を押されるのである。ユダヤ会堂は直ちに彼を破門の処分を以って罰する。これは他の如何なる宗派も未だ嘗(かっ)て行わなかった事のない苛酷な処罰であった。

 タルムードには、この破門の宣告せらるべき場合と、これに因って生ずべき結果が精確に規定せられている。ユダヤ人が会堂から破門せられる場合は、自分のラウウィンの命令に服従せざる時。宗教上の儀式に対して軽慢の態度を表わせし時。他のユダヤ人を非ユダヤ人の裁判に告訴せし時、自分の同教者に対して假令(たとひ)最も正直なる供述をも敢てなしたる時等である。しかして破門には三つの段階がある。第三、即ち最後の段階に於ては全ユダヤ民団に由って石撃の刑が行われる。この風習は追放民の君主(民族長)の統治時代に於て行われたものであったが、勿論今日キリスト教乃至回教の法律の実施せられている。社会の機構に於ては実行せられない。故に現代に於ては破門の第一及び第二段階だけが問題となっている、即ち第一はニッドウィと云い第二はへレムと云うのである。

 ニッドウィに処せらるる者は、その結果ユダヤ人の社会から追放せらるるのである。妻子及び召使を除くの外誰もこの者に四「ロコライ」(「一ロコライ」は約二尺)以上近づくことはできない。彼がもし会堂と和睦(わぼく)せずに死んだ時は、彼の棺の上に石を置かねばならぬ。それは彼が石撃せらるべき者であるとの表章である。この場合に於ては他人は勿論親族と雖(いえど)も、彼の遺骸を墓地まで葬送し、又はこれが為に喪に服することはできない。ニッドウィの課せられる一期間は30日間であるが破門者の如何によっては、この期間は猶ほ更に二期を追加せられることもある。90日経過せし後猶ほ服従せざる者に対しては喇叭(ラッパ)の吹奏と、消した蝋燭(ろうそく)の煙の立ち昇る間に於て、へレム即ち大破門が宣告せられる。

 へレムの宣告文は次の如くである。
「某の子某は高等、下等両裁判に於て諸王の裁判に由って破門せらるべし。彼は至高なる諸聖者より破門せらるべし。セラフィム及びオフアニンより破門せらるべし。大小のカガルの長老会より破門せらるべし。あらゆる不孝、恐るべき重病は彼を襲うべし。彼の家は龍の住処となるべし。彼の星は雲の中にその光を暗くし彼に対して兇猛、苛烈、険悪なるべし。彼の死骸は投げ捨てられて野獣と毒蛇の餌食となるべし。彼の敵と競争者とは喜ぶべし。彼の金銀は他人に配與せられ、彼の子らはその敵らの権下に渡さるべし。彼の子孫は彼の生誕の日を咀うべし。彼の咀いはアティリオンとアクタリエルの口を以ってせらるべし。サイタルフォンとハドウラニエルの口を以って、アンティフイエルとパトシエルの口を以てセラフィヤとサゲンザエルの口を以って、ミカエルとガブリエルの口を以って、ラファエルとメホレティエルの口を以ってせらるべし。ザファザウィフと大なる神ハファウイフの口を以って、且つ宰相ヨルタクの口を以って、彼は咀わるべし。コレイとその徒党の如く彼は大蛇に呑まるべし。アヒトフェルの如く彼は窒息せしめらるべし。魂は恐怖と、戦慄とを以って彼より出づべし。ギエジイの如く彼は癩疾(らい)に悩まさるべし。彼は倒れて、再び起きざるべし。彼はイスラエル民の墓地に葬られざるべし。彼の妻は他人に付され、他人は彼の死後彼女と共に棲むべし。その子らはこの咀いに留まるべし。而してこの咀いは彼の遺産たるべし。我と全イスラエル民の上に平安と神の祝福とは降らん。アーメン」。

 へレムは破門者との一切の交通を遮断せしめ、誰も彼に援助を与える事も、又他人が彼より奉仕を受くることもできない。彼の妻子は、彼から隔離せられ、彼の財産は没収せられねばならぬ。彼の死骸は野獣の餌食として投げ捨てられねばならぬ。全ユダヤ民国は挙って、あらゆる厳重さを以ってへレムの実行を助成せねばならぬ。これは単なる呪文に過ぎないが、その実行は現代の法律制度の下にあっては、全然不可能であると言う者があろう。けれども、これは甚だしい謬見(びゅうけん)である。陥っているものヘレムは単なる呪文ではない。この罰に処せられたる不順のユダヤ人は、啻(ただ)に厳重なる遮断を受くるのみならず、その財は没収せられ、その妻子と離別せしめらる。これは啻(ただ)に近東諸国や或るロシヤ及びオーストリヤの地方(ユダヤ人の多数居住し、且つキリスト教及び回教を奉ずる政府がユダヤ人に対して寛大である)のみならず、西部ヨーロッパ、就中フランスに於てさえも実行されている。

 これを疑う者は、ツールのユダヤ大教師ヘンリー・ブラウエルに関する事件を見ればよい。ヘンリー・ブラウエルは、カトリック修道院長ウィアルが百二十頁に亘る最も興味あるパンフレット(「フランス大教師の反逆」、1904年、パリ発行)を献じたる人である。彼は1866年、ポーランドで生れたが、幼少の頃エルサスに携えられ、ここでメッツ市のユダヤ神学校に学び、後フランスに移り、ルジェモン・レ・シャト(ぺリフォール付近)ラマルシ(ウォゲザ)、ヂュンケルク、クレルマン・フェランらに於てラウウィンの職についていた。彼は1898年にフランスの国籍を受けた。そしてユダヤ人の大きい居留民団のあったツール市のラウウィンに任じられた。フランス及び外国の高級ラウウィンらは皆彼をユダヤの有らゆる学問に精通した碩学(せきがく)と認めていた。しかし、これらの学問の疑なく、ヘンリー・プラウエルをして破廉恥漢たらしめることはできなかった。実際1900年の末に彼は大金を稼ぎ獲ると同時に、これを以って自分の有名な同胞に援助を与え得る機会に恵まれたが、彼はそれもこれも実行しなかった。何となれば彼の良心がこれを許さなかったからである。そもそもヘンリー・ブラウエルの事件と云うのは次のような事情の下に生じたのである。

 ツール市の一人の武器製造技手ジュリアス・メニエなる者が軽量、遠距離射撃、弾丸飛行速力、速射力等、他に比較のない特徴を有する銃を発明した。彼はその当時、自分の訴訟事件によって全フランスを騒がせていた売国奴ドレイフスにこの銃を20万フランで売却しようと考えた。ドレイフスがもしこの銃をフランスに献納したら、この美学を以って自分の無罪の貴重なる証拠を自分の後援者らに握らせることができたであったろう。上記の発明家はこの20万フランの中から5万フランをラウウィンのブラウエルに与えてドレイフスに自分を紹介せしめ、且つ之との交渉に援助せしめようと努めた。「カトリック修道院長ウイアルの書中に彼らがこの交渉の間に交換した書簡及び公文書が掲載してある。著者の援用している証拠書類が極めて豊富である為、ユダヤ人の首領らは、これを修正せんとしても如何ともすることができない」〔傍註〕。

 実に信じられないような事件ではある。このラウウィンのブラウエルはドレイフスの敵であった。この事情は左の事がその原因となっているかも知れない。即ちエルサスで商業を営んでいた彼の両親が1870年の戦争の際、プロシヤ人に銃殺されたと云う事実である。彼は懇願された援助を断然拒絶し、提供された5万フランも受けなかった。そして発明家メニエフに対しドレイフスは売国奴で、当然有罪の宣告を受くべき者であるとの確信を明言した。
この不成功に激怒した武器製造技手は、ツール市のユダヤ長老会長レオン・レウィにブラウエルを告訴した。レウィは直ちにこの事を、当時ドレイフス事件の高級上演者の役割を務めて著名となっていたフランスのユダヤ大教師ザドックハンに報告した。1901年1月2日、ラウウィンのブラウェルは、フランスのユダヤ大教師から「辛辣なる非難」を聴取せしめられた。同月26日、ツール市のユダヤ長老会長は、ブラウエルに対して翌月以後彼に俸給の支払いを停止すると通告した。その間に有罪と認められたブラウエルの頭上にヘルムの刑罰がふりかかって来た。そしてその峻嶮(しゅんけん)なる呪詛(じゅそ)は、その困難なる結果を彼の一身に招来せねばならなかった。即ちブラウエルはその聴と財産とを奪われ、その家から追はれ、その妻子と離別せしめられねばならなかった。

 カトリック修道院長ウイアルの書中に、この事から生じたる総ての結果について必要なる総ての証拠が連載せられてある。ツール市に広く知られていた窃盗犯人を先頭としたユダヤ人の群衆は、夜中ラウウィン・ブラウエルの住宅を襲い、その金庫を破り、家具を打ち毀(こわ)し、拳銃をブラウエルに疑して、有価証券を現金と合せて1万4500フランに過ぎざる彼の貯蓄を横領した。そして彼の手には、わづか八十サンチムを止めたのみであった。

 ブラウエルは訴訟を起した。しかしそれはあたかもドレイフス政権の旺盛時代に逢着したので、当時既に知られていた国賊らは検事の監視を意にも介しなかった。その後数日を経て「ヨムキブル」の祭日、即ち大赦の日にあたって、ラウウィンのブラウエルが礼拝式を行っていた時、そこにいたものの内の一人が、会堂に向って彼がツール市の一の旅館で豚肉を食べたといって彼を非難した。ブラウイルは頻(しき)りに旅館の主人の供述に基いて弁解したが、その效(こう)はなかった。後に至ってこの主人はブラウエルをかって見たことがなかったと証言した。会衆は彼に襲いかかって、これを殴った。そして半裸体にしてこれを会堂の外に突き出した。「へレム」の第二の結果も実行せられた。破門者はその職を免ぜられ、三日を経て彼はこの事について公然の通知を受けた。

 最後は、彼を妻子と離別せしめることであった。しかしこの事については、タルムードの詭計(きけい)も失敗に終った。何となればブラウエル夫人は、これを服従せしめんとのあらゆる試みにも拘わらず夫を離れる事を拒絶した。彼女の抵抗を挫折せしめんとして、ユダヤ人らはその母をエルサレムから呼び寄せて、娘にその家庭を棄てさせるため、母の感化力を利用しようと謀った。しかし総ての努力は空しく其の效(こう)を奏せず、タルムードの権力は失敗に終った。

 ブラウエルの一家は、ツール市を去ることを余儀なくせしめられ、パリに居をうつしたが、甚だしき貧苦の裡に生計を営んで行かねばならなかった。終に1902年前ユダヤ教師ブラウエルは国政参議院に対して自分の迫害者らを告訴した。そして法律の保護を受けることになった。しかし秘密の勢力によって事の進行は、何時までも判らず妨碍(ぼうがい)せられた。而して九年を経過した後、即ち1911の末ブラウエルとその家族がカトリック教会の慈善的援助によって、餓死するに至らなかったことが確実に知られた時、この事件の審査を許可するに決した。本件はあまりにも明白であったので、男爵ダスタク・ロッシリドを会長に載いていたフランスのユダヤ長老会は有罪の宣告を受けた。しかし、フランスの法曹界に対するユダヤ人の勢力が頗(すこぶ)る大であったので、前ラウウィン・ブラウエルはその受けた損害に対する賠償として僅かに数千フランを受くることを以って満足せねばならなかった。

 今や少なくともラウウィン・ブラウエルの試練が、これを以って終を告げたと確信し得られようか。我らはこれを保証するに躊躇するものである。自分の高級教師らを対手どって前ラウウィンは売国奴なるユダヤ人の名誉恢復(かいふく)に対する援助を拒絶した以上に重き犯罪を新たに行った訳である。彼は、今やタルムード中のアドタ・ザラ章に記されてある左の規定の打撃に逢着(ほうちゃく)しているのである。その文に、「他のユダヤ人を裁判によって脅迫するユダヤ人もしくは単にこれをキリスト教団の裁判に起訴する意図を有するユダヤ人は、その罪、死に当る」と証してある。「彼は裁判の手続きを経ることなく石撃せらるべし。当該地方会堂長は第一に彼の頭上に石を投ぐべし。彼はユダヤ民の社会より排除せらるべし。何となれば唯一の神の言たるモーゼの五書の『トーラの命令を軽んぜしを以てなり。彼の不法は重く彼の上にとまるべく、全イスラエル民は石をもって彼を搏(う)つべし。彼は死せざるべからず。彼はトーラ及びタルムードの審判を見てこれを畏(おそ)るべし』」と記述したものが、1904年パリに於て「フランスのユダヤ大教師の反逆」が発行された。





(私論.私見)