パリサイ派の創造せるタルムードの教義と、この教義が我らの文明全体に脅威を与えている危険を説明することは容易な業ではない。実際、我らキリスト教信者中、信仰上の問題に対して、冷淡、無関心なる人々でさえも、とにかく無意識的ながらキリスト教会の教義に浸透せられているので、キリスト教の感化を受けた道義的基礎に全然反対なる精神的機構の上に立てる存在を許容し得ない。
この人々の思惟(しい)する所によれば、各宗教の教義は何れも皆善良なる情操を発達せしめ、慈善的行為によって各自の救済を達成せしめる事を以ってその目的としている。勿論、人間の想像は気候風土の如何によって神の定めたる任務に対して千差萬別の模様を織り成し得たのであろうが、しかしそれは決してその内部的本質を変ぜしめたことはなかった。これが即ち我が多数の同胞の斉(ひと)しく信ぜんとする所である。たまたま彼らの間に誤れる意見の存ずることありとすれば、それは畢竟(ひっきょう)無意識的にキリスト教に払われる貢献である。何となればキリスト教は善その物をその基礎とせざる宗教の存在し得ることを信ずる可能性さえも彼らの心に滅却したからである。
だが、我らが本書の初頁に於て指摘したように、古代の文化に於ては悪その物、例えば残忍性や淫慾の如きものを神体として崇拝する宗教もあった。現代に於ても殊にアフリカ及びアジアの奥地にかかる暗黒なる宗教が多少は存在している。しかし三千年以前に住んでいた民族やコンゴポリネシア等の野蛮人の間にあり得べきものとして、我らの想像し得る所の事を、今日我らの間に住居し、我らの政治的乃至個人的生活に伍(ご)し、我らの現代文化的社会に於て商工業者は云うに及ばず、裁判官、将校、官吏、弁護士、医師等の職を有し、我らの想念に於て一般の福祉に対する奉仕の理想、少なくとも名誉もしくは廉直(れんちょく)の観念と不可分の関係を有する業務に携わりつつあるユダヤ人に、かかることが有り得べき事を思惟することさえ我らの困難とする所である。我らの社会の一員となり、外部的に我らと渾然(こんぜん)一体となっているこの民族が、啻(ただ)にキリスト教国民の法律と没交渉なるのみならず、これを全然否定し、これを常に矛盾せる道義的乃至宗教的律法を有していることを理解せんとするが為には、少なからず努力を要する。何となれば彼らの律法は、キリスト信者が『殺す勿れ』と云う場合に『殺せ』と云う、『盗む勿れ』と云う場合に『盗め』と云い『偽証をなす勿れ』と云う時に『偽われ』と云うからである。
これを理解する事の困難なのは、なおその間に或る内部矛盾が存じているからである。キリストの律法はモーゼの律法の敷衍(ふえん)であり且つ追補である。しかるにユダヤ人はキリストを十字架にかけた殺神行為の時より今日に至るまで、絶えずしかも公然自らモーゼの律法の信奉者と称している。「もし彼らが完全なる権利を以ってこれを行っているならば、疑いなく潔浄なる源泉から発する彼らの教義を如何にしてかくまで根本的に壊乱せしめる事ができるだろう」。この議論は、タルムードに記載せられている規則に憤慨せる最も深刻なるユダヤ排斥論者をさえも往々その了解に苦しましめたのである。