第10章 ユダヤ道徳教の他の鉄則(4)

 (最新見直し2012.04.06日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 「第十章 ユダヤ道徳教の他の鉄則(1)」、「第十章 ユダヤ道徳教の他の鉄則(2)」、「第十章 ユダヤ道徳教の他の鉄則(3)」、「第十章 ユダヤ道徳教の他の鉄則(4)」を転載しておく。

 2012.04.06日 れんだいこ拝


 前述の如く財産に関するユダヤ人の理念は、非ユダヤ人と根本的に相違しているが、さらにまたゴイ即ち非ユダヤ人に対する生命についても、彼ら独特の勝手な断案を下している。即ち、「殺す勿れと云う誠命は、イスラエル人を殺してはならぬと云う意味であり」「ゴイ及びユダヤ教に背きたる異端者はイスラエル人ではないから、もし邪魔になる場合は遠慮なく殺して差支えない。のみならず危険が伴わざる時は、努めてゴイの最優秀なる者を殺害せよ」(アボダ・ゲーラ)、「ユダヤ人が、運搬する荷物の重量に耐え兼ねて、倒れる動物を見た時、その荷物も動物も非ユダヤ人の物ならばこれを助けてはいけない」(同上)、「もしユダヤ人の目の前に於て同胞のユダヤ人が瀕死の状態にあらば、例えその者が罪人たりとも霊の体より分かれんとする時、哀悼(あいとう)の記念として、己の衣類の一部を割けり。しかれども非ユダヤ人及び非ユダヤ人に転向せるユダヤ人の臨終に際しては、この哀悼の表示を禁ずる。何となればこれは却ってユダヤ人の喜ぶところだからだ」(ゾファリム)「ユダヤ人が仲よき非ユダヤ人を殺すは、直接の義務に非らざるも、彼を死より救うことを禁ず。例えば非ユダヤ人が水中に溺れんとする場合、救命の報酬として厖大な財物を提供せらるるとも、これをしてはならぬ」「ユダヤ人は生活の資となる職業を非ユダヤ人に伝授してはいけない」、「もし汝がゴイをその落ちた穴から引き上げるならば、それは人を偶像崇拝に支持することになるからである」「ゴイが川に溺れているのを見た時、これに同情するは厳禁す。如何に死に近づいていてもこれを救ってはならぬ」(ジャード・シャツ)、「ユダヤ女の母乳は例え報酬を受くるとも、飢えに泣く非ユダヤの赤子に授乳するな。それは非ユダヤ人の成長を助くる事となるからだ」、「ユダヤ人の医師は非ユダヤ人患者を治療することを禁ずる。但し彼らの怨を遺(のこ)す場合はこの限りに非らざるも、その機会を得た時は、薬の活殺力を必ず試験せよ」、「汝は、汝の神エホバが汝に渡し賜はぬ民を悉(ことごと)く絶滅せよ。決して彼らを憐れみてはならぬ」、「彼らの神に決して事うべからず。それは汝の炎となる」、「汝は、他の民は多ければ、我が如何にしてこれを遂い散らすことができるかと思うが、汝、彼らを恐るる勿れ、汝の神エホバが、パロとエジプトとで為し給いし事を想起せざるか? 汝の目撃したる大なる試練と、奇蹟と、魔術と、強き腕を伸べたる手とを記憶せざるか? 汝の神エホバは、汝の怖るる一切の民に対して為し給う。そしてこれらの民を汝の前より遂い散らし給わん。恐らくは野山の獣殖えて汝に迫らん。汝の神エホバは彼らを汝に渡し、大いに怖れ戦かわしめてこれを絶滅し、彼らの王等を汝に渡し給うであらう。汝に当る事を得る者なくして、汝らにこれを滅し尽すに至るであらう。汝、彼らの名を地上より削除すべし」。

 云々(うんぬん)と申命記第七章及びアボダ・サーラジャドシャツにある。以上の教訓はモーゼが神の名を以ってユダヤ民族に言い遺した所のもので、ユダヤ人が最も厳粛に尊守している。故にゴイがユダヤ人に数知れず殺されるが、救われた場合は極めて稀である。

 タルムードにその文献を集められている総ての学士、就中アブラワネルの論旨は叙上の教訓と同様である。アブラワネルは、「会堂に属せざる者或いは之に離反したる者は、すべてこれを憎み、苛(いじ)め、滅亡さすべし」ことを命じ、なお、「もし異端者(ユダヤよりキリスト教に転向したるユダヤ人)が壕(ごう)に落ちたならば、彼を救ってはならぬ。もしその壕の中に梯子があるならば、それを取り除かねばならぬ。そしてその時、余の畜類が入らない為に、余は之を為すのである」、また、「もし穴の口に石があるならば、それをその場所に於て、余は余の畜類がこの中に落ち込まない為に斯くなすのであると言わねばならぬ」とアボダ・ザーラに記してある。

 終にタルムードは、モロクの神を崇拝した古代のユダヤの残虐性を悉(ことごと)く復活せしめたかと思われるような成文を唱道している。その成文はイスラエル民の歴史にしばしば繰り返されていた、宗教儀式上の殺人行為を全く正当化するものである。それには、「ゴイらの血を流す者は、神に献祭を行う者である」(ジャルキュ・シメオン)。1071年にブルーアで行はれた宗教儀式上の殺人行為を始めとして、最近キエフにあった犯罪に至るまで、宗教的儀式の為にユダヤ人に惨殺された数万のキリスト教徒の児童の血はタルムードの以上の成文を鮮やかに説明するものである。〔傍註〕

 ゴイを殺すことを希望する者の功績は、誤ってゴイの代りに他のユダヤ人を殺したユダヤ人を全然無罪とする程に偉大である。実際「動物を殺そうと欲してはからずも人を殺した者、或いはゴイを殺そうと欲して誤ってユダヤ人を殺した者は無罪で処罰を受けない」が、もし故意にユダヤ人を殺したゴイは「その罪が全世界の人を残らず殺した程に大きい」、「神を冒涜し、女を誘惑し、或いは他のゴイを殺したゴイも、もしユダヤ教に転向するならば無罪と認めらるべきである。しかしもし彼がユダヤ人を殺したならば、割礼を受くると否とに拘わらず、彼は当然殺さるべき者である」(サンヘドリン章)。

 ゴイの財産と生命とがかくの如くユダヤ人の左右する所となっている以上、ゴイの妻に関する総ての事に対してもユダヤ人は、これを大切に取扱う義務を負うべき筈がないことは云うまでもない。実際モーゼは、「汝の隣者の妻を望む勿れ」と述べている。しかし隣者の妻とはユダヤ人の妻を云うのである。最も博学の教師であるラシ、ベカイ、レウィ・ベン・ゲルゾンらが一斉に教えて曰く、「結婚のない所には姦淫もない。ゴイは動物の異種に過ぎない」故に正当な婚姻を取結ぶことはできない。何となれば、正当な婚姻は神から出るからである。そしてその結論に於て、「ゴイの妻を誘惑する事は許される」と云っている。故にタルムードは不体裁極まる最も厭忌(えんき)すべき物語に満ちている。そしてこの物語の中には栄誉の最も高いラウウィンなる教師ユリゼルやチクマシその他の教師まで担当している。その役割は玆(ここ)に載せるさえ極めて醜耻(しゅうち)な性質のものであるが、ユダヤの会堂は之に婉曲(えんきょく)なる言辞をもって賛意を表している。

 さらにタルムードはハッキリと変態的交○を許している。その中に「男は自分の妻に対して自ら好むがまま何でも為すことができる。あたかも肉屋から取った肉を焼くとも煮るともその趣味によって何うにでもして食することができる肉片と同様である」。これを裏書きする為にタルムードはラウウィンの言葉を引用している。そのラウウィンは自分の夫の男色の習慣を訴えた妻に答えて、「わが娘よ、余は汝に助力を与えることはできない。何故ならタルムードは汝を犠牲に供しているからである」と。この教義はタルムードの古版ばかりでなく、1864年のワルシャワ版のネダリム章にもある。そしてこの淫猥(いんわい)の極みであるタルムードが依然会堂の教授課目の一課になっている。

 この教義が余り崇高である為、ユダヤ人は、キリスト教徒に対して厳格なる態度を持する権利を有するものと考えているのであらう。それはキリスト教徒の奉ずる宗教は、道徳純潔を最高として貴んでいるからである。それでタルムードの現れた当初からその編纂者らは、殺人、男色、獣姦が総てのキリスト教徒の特性であり、且つ彼らの教義の基礎を成し立てている者であると努めて力説していた。「キリスト教徒はタルムードに従えば偶像崇拝者である」(アボダ・ザーラ章)。

 「彼らには、異邦人に対する律法のすべての規定を厳重に適用せねばならぬ。彼らは他の偶像崇拝者よりも罪が深い。何となれば、彼らは祖先の信仰に背き、魔術を事としている悪しきユダヤ人であるキリストを神として崇拝しているからである。このユダヤ人の名さえも、それを指して呼ぶ場合には、『その記念の抹殺せらるべき者』と云う言葉を以ってこれに代えねばならぬ。故に教師ラシは他の多くの人々と共に『キリスト教徒中の最優良者を殺せ』と叫んでいる」。(出埃及記)

 キリスト教徒を偶像崇拝者とするこの非難は、タルムードの中には到る所、常に繰り返されている。そして最も多くの場合これは聖体機密(或は聖餐)に対して言われるのである。キリスト教徒の家を貸し渡す事については、タルムードは之をユダヤ人に許している。何となればタルムードは、「彼らは自分の偶像を家に臓って置かない。彼らの中誰か死に瀕する場合にのみ、それを家に持込むのみであるからである」。日曜日の問題については「これは異邦人の祭日である」と云っている。

 マイモンド、キミシその他の教師(ラッピ)らは、キリスト教徒が、一面にはナザレのイエスの崇拝者として、他の一面には異邦人なるカナン人から出たものとして、二重に偶像崇拝者である事を立証する為に、荒唐無稽な族譜(ぞくふ)を捏造している。例えば彼らは、「ドイツの住民はその出生から云うとカナン人である。何となればヨシュアの侵略前、最後のカナン人が遁走して、今日ドイツと称する国へ去ったからである。イエス・キリストについて云えば、以上既にタルムード中に彼のことを如何に記しているか、また彼の地獄に於ける境遇を如何に述べているかを説明した。至潔(しけつ)なる童女マリヤに対する態度も勿論それより良好な筈はない。即ちタルムードの著者ラウウィンらは、彼女を呼ぶにシヤリヤと云う侮辱的呼名以外の名を用いない。キリスト、聖母及び諸聖人を侮辱する物語、著書は冒涜、不敬の言辞はタルムード中に無限である。キリストの世に出た後、最初数世紀の間に書かれたラウウィンらの醜悪なる文集を成し、それが後世年と共に増補せられつつある。この源泉からキリスト教の敵らは、之を攻撃する資料を汲み出している。この事は有名なドレイフス事件の企画者なるユダヤ人ベルナル・ラザル文稿中から次の抜粋によっても確証せられる。

 「十八世紀の恐るべきキリスト教反対に於て、余は敢えてユダヤ人とは言わないが、ユダヤ精神が如何なる直接の関係を有して居たかを検討する必要があろう。ここに忘るべからざる事がある。即ち十七世紀に於てワゲンティル、バルトロッチ、ビュクトルフ、ウォルフその他の権威ある学者研究者ら三位一体とか、藉身(せきしん)とかその他のキリスト教の信条及び機密に対し、ユダヤ特有とも云うべく、殊にタルムード編纂者らの比類なき論理的著書を人々の記憶に喚起した。彼らは啻(ただ)に教義上の著書及び批判的労作を発表した計りでなく、『キリストの伝記』と題する侮辱的諷刺文や、二世紀に於けるパリサイ派の醜悪なる伝記を翻訳した。これらは何れもウォルテル及びパルニの著書中にも引用せられている」(ベルナル・ラザク著、ユダヤ排撃主義)。

 これらの著書が世に公にせられた後、ユダヤ会堂の大立物なるマイモンドは次のような結論を述べている。「ナザレのイエスとその信徒の如きイスラエル民のすべての反逆者らを殺し、且つ滅亡の壕に投げ込むことを命じる」と。また彼より以前「アボタザラ」と題する書物に一つの布令が載ってあった。それによると「ユダヤ人は常にキリスト教徒を攻撃し、武力を以って之を殺す権利を有している。現在の地位によってそれを実行する便宜を有するユダヤ人は、種々の口実を設けて、総てのキリスト教徒を公開的死刑に処する不可避的義務を有するものである」。疑いもなくこれらの戒命に基いて、ユダヤ人は総てのキリスト教団に於て、政治的権利と総ての国家の職務に就く権利を認めしめようと努めているのである。

 これらの職務につく権利を彼らに供与するどころか、単なる警戒の必要は、その反対にユダヤ人の言に有する国民的権利の大部分を彼らに褫奪(ちだつ)する事を要求する。実際パリサイ派がタルムードによってユダヤ国民につくり与えたる相貌(そうぼう)は、多くの場合に於て他の国民との同権をユダヤ人に認めることを許し難い底のものである。例えば法律上の観点から見て、ユダヤ人の宣誓は、非ユダヤ人の関係を有する事件に於ては決して重視することはできない。その原因となるものは、第一、タルムードはゴイの財産と生命さえユダヤ人の支配権に属するものと看做(みな)す権利をユダヤ人に与えている。第二にタルムードは裁判或は他の場合に於てゴイに害を加えるために、虚偽の宣誓をなす事をユダヤ人に許している。

 このユダヤ人の特異性は先に最も周知の事実となっていたので、裁判所ではユダヤ人の宣誓は、ユダヤ教の会堂に於てユダヤ人間に宣誓の行われる場合に、その儀式を繞(めぐ)らす所の恐るべき呪文が唱えられなければ認められなかった。この全然合理的な風習をつくるに至らしめた意図は大いに称賛すべきものであった。しかし我らの思惟する所によれば、ユダヤ人の行う宣誓の誠意を保証する為には之だけではなお不十分である。実際タルムードの中には、イスラエル民は宣誓を行った後でも良心を少しも毀損(きそん)する事なく、無辜(むこ)のキリスト教徒を有罪と認め犯罪者たるユダヤ人に、無罪の判決をなすべき勧告とその実例が記述してある。

 例えばタルムードはこう力説している。「ユダヤ人はもし心の中で宣誓の意味を全く変更し得るような否定を追加するならば、宣誓を破ってもその違反にはならない」。そしてその実例を示している。教師ヨナハンは一人の貴婦人から秘密の告白を聴取した。この際彼は予めこの秘密を口外しない事を誓った。「イスラエルの神に余は之を洩さない」と彼は言明した。貴婦人は、彼がイスラエルの神にさえもこの秘密を洩らさない義務を負うものと考えた。然るにヨナハンは心の中で、しかし余は之をユダヤ民に洩らすと追加した。こうして彼は秘密を洩らした。しかし宣誓は破らなかった。この巧妙さをタルムードは極めて礼讃している。

 モーゼ第二世とも云うべき教師(ラッピ)アキバの主張する方法は一層簡単であった。彼について伝うる所によると、彼は宣誓の際、自ら心の中で、「この宣誓は真正なものではない」と云う口実を設ければ、それだけで良心を安らげるに充分であると認めて居た。タルムードはゴイの国の官憲がユダヤに宣誓を要求する時は、その都度叙上の如く行って差支えないと教えている。例えばユダヤ人が重罪で告訴された際、他のユダヤ人がこの事件について知っている所を供述すべく求められても、同胞を無罪による為には、心の中で否定する口実を設けつつ、宣誓の下に虚偽の供述をなす権利を有するものである。

 もし、ゴイの国の偽政者がユダヤ人にその国から出ない事を誓約すべく要求せられたならば、ユダヤ人は宣誓を行う時、「今日は国から出ない」と心の中で思っていなければならぬ。また偽政者が、ユダヤ人に決してその国から逃走せぬように誓う事を求めたならば、ユダヤ人は心の中で、「但しかかる条件に下に於て」との言葉を追加して、それを同時に最も実行し得られないような条件を案出しなければならぬ。かくの如くしてユダヤ人は宣誓を破ることなくゴイの国から脱出することができる。

 けれども、タルムードは急いで之に左の言葉を追加している。「これらは皆ゴイに悟られないように自分の宣誓を破り得られる場合に限る。もしこれに疑があればかく行うことが禁じられる、それは左様にしてエホバの名が毀損(きそん)せられるからである。この説明は、必ずしも我らをして法廷その他の場所に於て、ユダヤ人の行う宣誓の重要性を信ぜしめるが如き性質のものとは云えない。

 ユダヤ会堂に於て施行せられる儀式的呪詛(じゅそ)を以って補はれる宣誓について云うならば、これも同様に何の保証をも与えるものでない。実際ユダヤ人は、ゴイがただ真正の人間の外形と権利とを我が物とせる動物であると深く信じているものであることを忘れてはならぬ。もしゴイが殺されたとしたら、ユダヤ人は何時でも人間の血が流されたのでないと誓って云うことができる。もしゴイが掠奪に遭ったとしたら、ユダヤ人は左様な事は何もなかったと確信することができる。何となればユダヤ人のみ自分の財産の所有主であるからである。それ故に唯一の有数なる方法は、ユダヤ人の供述とキリスト教信者、回々教徒自至異教徒の供述とに同等の価値を認める事を法規を以って禁ずるであろう。

 その如き警戒の特に必要なことは、左の理由に因って明らかである。ユダヤ会堂は毎年ヨム・キプルの祭、即ち大贖罪日を設けている。これは来年中、ユダヤ人が彼らの神から解放されることを願う為に設けられたのである。この日は、ユダヤ人の居住している総ての国、換言すれば全世界に於てユダヤ人は会堂の周囲に集まる。そして一番星が天に現われる時、大教師或いはこの祭典の司会者が左記の如き言葉を大声にて激唱する。「我らが唱えんとする、そして我らが履行する事を総ての盟約、総ての義務、総ての約束、総ての宣誓は、この大贖罪の日より来年のこの日に至るまで延期せられ且つ破棄せらるべし。それらは効力と価値とを有せざるべし。我らは我らの盟約が盟約たらざん事を、また我らの宣誓が宣誓ならん事を望む」。ユダヤ人の宣誓が、彼ら自身の眼中に於ても、何らの価値をも有せざるものであることを、これ以上明白に表現する事はできないであろう。況(いわ)んや非ユダヤ人の眼中にそれ以上の価値を有すべき理由が何所にあろうか、と1888年ブリュッセルに於て発行された「タルムード信奉者なるユダヤ人」の49頁に書いて居る。





(私論.私見)