第1章、古代に於けるイスラエル民の反逆(6)

 (最新見直し2012.04.06日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 「第一章 古代に於けるイスラエル民の反逆(1)」、「第一章 古代に於けるイスラエル民の反逆(2)」、「第一章 古代に於けるイスラエル民の反逆(3) 」、「第一章 古代に於けるイスラエル民の反逆(4)」、「第一章 古代に於けるイスラエル民の反逆(5)」、「第一章 古代に於けるイスラエル民の反逆(6)」を転載しておく。

 2012.04.06日 れんだいこ拝


 第一章 古代に於けるイスラエル民の反逆(1)
 ユダヤ人の宗教的堕落を助成せしものが、その人種的特性であったと云うことは、我らの既に述べた通りである。実際ヤコブの子孫である所のユダヤ人は、早くから神から与えられた約束(その子孫から救世主が生れ、そしてパレスチナを与えられると云う)に当らざるものとなった。彼らの国民的存在が創始され、神がモーゼによって約束の地を占領する為に、彼らを召したその当時に於て、既に彼らはその心の底に、近東諸国の異邦民(ユダヤ人はユダヤ教を奉ぜざる諸国民を異邦民と呼称して蔑視する)の神々に対する抑え難き憧憬を感じていた。この神々を崇拝する魅惑が非常に強かったので、彼らは僅かな機会をも利用し、例えば神が彼らに与えたる立法者モーゼの暫時(しばし)の不在に乗じて、一度斥けられた偶像を復興し、禁じられた敬礼をこれに捧げた程であって、ヤコブの子孫は、エジプト記の初めに記録されている時代から、既にかかる背教的思想を現わしていた。しかも神は彼らのかかる態度にも拘らず、彼らを選ばれた民として偉大なものに為さんが為に、多くの奇蹟を行いつつあった時に於てそうであったのだ。

 一つの周知の事実は、ある時ユダヤ人はシナイ山の麓に天幕を張って野営した時、モーゼは、全山に轟く雷鳴を、雲間に閃らめく電先の中から、神に授けられた十戒を刻みつけた二版の石板を奉じて山を下った。モーゼは麓にあったユダヤ民全体に向って神の彼らを庇護する旨を告げようとした。しかるに豈計らん、ユダヤ人は、モーゼの留守の間に、兄弟のアロンを強要して造らせた金の犢(こうし)の偶像を囲んで、これに対する礼拝の舞いをしていた。かくまで早く豹変したユダヤの反逆に対して、聖書(エジプト記32章9節)は神の口から発せられた次の如き痛恨の言を記している。「我、この民を観たり。視よ、これは項(うなじ)の強き民なりと」。

 この聖書の言葉は、イスラエル民がその反逆を重ねて行い、放埒(ほうらち)と残酷とを神体化して祀る近東諸国民の宗教に立ち戻る頑迷なる態度を表わす毎に聖書に重ねて宣べられてある。また年既に老いたる預言者サムエルが、自分に対するユダヤ人の忘恩を訴えた時、神は次の如き有名な言葉を宣べて彼を慰撫した。「汝らを斥くる時、彼らは汝を斥くるに非ず、我を斥くるなり。それは今より我が彼らの王たらざん為なり。彼らが汝に対して行う所は、我が彼らをエジプトの引出せし時以来今に至るまで行いしなり。彼らは他の諸神に仕うるが為に我を棄てたり」(サムエル前書3章)。

 第一章 古代に於けるイスラエル民の反逆(2)
 我らの既に述べた如く、神の選抜はアブラハムとヤコブの子孫について、その祖先の功績に対する褒賞であったが、それはこの同一の子孫の心に於て他の諸国民の歴史にその比を見難き程の反抗に逢着したのである。彼らは自分の運命として担った使命に怖れをなして、ひたすらこれを免れんことを夢想していた。バイブルはユダヤ人の歴史の前半即ち彼らがエジプトを出てからユダヤ王国建設に至るまでの西暦紀元前1096~1625年に於て預言者ら及び国民指導者の偉大なる俤(おもかげ)を伝えている。それと同時にバイブル中にはこれらの人物が、同胞の偶像崇拝癖と、絶間なき奮闘を続けつつあったことを物語っている。

 なお二つの事情がユダヤ人の間に、その反逆に対する生来の傾向を助成したのである。第一は、人種的血統の混淆(こんこう)であって、これが遠き昔からイスラエル民の大半の支派に於ける血統の単一性を弱めたのである。第二はユダヤ国に於ける政治的闘争の影響である。以下、この二つの原因を考究して見よう。

 イスラエル民が征服し定住していた土地は、約束の地全部ではなかった。その南部に住んでいたクリト島から出た慓悍(ひょうかん)な土民ペリシテ人は彼らから征服されなかった。北部には強力なフィニキヤ王国の都市があったが、ここにはただアセル、ナフタリ、ダンの三支流のみその領域内に居住を許されて居たにすぎなかった。パレスチナの内部に於ては、カナン人の都市が久しい間、ユダヤ人がますます強大化するに対して個々の反対運動を起こしていたが、終りにはその領域を占領したるイスラエルの支派と帰属的条約を締結した。

 カナン人の都であったエルサレムは、約十世紀の間独立を保っていたが、紀元前1042年に至ってダビデ王の攻略する所となって、その王都とされた。この争闘の結果、新たに移住し来たユダヤ人と、古代からこの地に住んでいた土着民との接近が行われた。そして他国民との結婚がモーゼによって厳禁させられていたにも拘わらず、多くの場所に於ては混血が行われ、カナン人の風俗と宗教はイスラエル民の間に浸透し、カナン人の諸神の崇拝はユダヤ人をしてエホバの神に対する奉仕を忘れさせた。

 これらカナン人の諸神はフィニキア人のそれと同一であった。フィニキヤの町ツロと勇敢なるシドンの航海者らは、カルタゴのみならず、地中海の全沿岸、ヨーロッパの西岸と北岸アフリカ北岸、紅海に至るまで、彼らの寄航するあらゆる地に、彼らの崇拝する諸神の祠堂を建設した。これはモロク及びアシタロテと称する神々であった。モロクは牛を神としたものである。或る地方ではこれをメリカル又はワアルと称していた。即ち内部の空虚となっている巨大な鋳鐵製の偶像を造り、その中に火を燃やして真っ赤に灼熱させ、人身御供(ひとみごくう)をこの中に投げ込む風習があった。

 この神の崇拝者は、最も苦痛な犠牲を払わねばならなかった。それは長子を人身御供として獻(ささ)げる義務を負うのであった。この厭忌すべき礼拝式は、我らの口にするさえ忌わしいことだ。ローマ人が、多年フィニキア人の支配下にあったサルディニヤを征略した時、灼熱したモロクの偶像を到る所に見た。偶像の内部に投入された人身御供の苦しみ喚く声と、その外側で揚げる破れるような笑い声と合して、果たしてこれが人間の世界であろうかと云う戦慄すべき感じを与えたものであった。このような笑い声は、今日に至るまで「サルディニヤの笑い声」と云われている。

 第一章 古代に於けるイスラエル民の反逆(3)
 アシタロテは淫慾の女神である。これに奉仕する者は、何れも神聖な者と称せられている淫乱な女であった。そしてその祭礼の日には、すべて婦人は淫蕩行為を義務としていたのである。 ユダヤ人がその国を領有した後、土地の時代に於ても、王制の時代に於ても、彼らの大半はモロクとアシタロテを崇拝し、これに祭壇を築いて奉仕した。そして自分の子女に対して火中を通過する儀式を行った。預言者らはこの人間を犠牲にする風習の為に、絶えずユダヤ人を譴責(けんせき)したが、この風習は今日に至るまでユダヤ人の間になお廃止されないで、そのいわゆる儀典的殺人に幾分この風習の痕跡を見ることができる。

 この重要なる問題をここで解説することは適当ではないと思うが、この問題の為に各国民は一再ならずユダヤ人を攻撃した。何となれば彼らの中の或る者が、この非人道的行為を敢えてした時、他の者らが団結心の為にこれを庇護したからである。正教会諸聖人伝記中に、モロク宗を奉ずるユダヤ人に苦しめられて殺された多数の児童の事蹟が記されてあることに想到せば、この間の消息を知るに十分であらう。20世紀の始め、僅か25年間に各国政府のユダヤ人に対する好意があったにも拘らず、裁判手続きにより法律的に立証せられたるいわゆる儀典的殺人犯の数は十件に上がっている。

 西暦紀元前976年に、ある政治的原因によって、イスラエル民の支派の大半にこの邪道的宗教が全くその根底を堅めたのであった。ユダヤ人の歴史の当初に於て、彼の政体は神権政体と民主的無政府態度の混合を宣していた。「当時はイスラエルに王なかりしかば、各人その目に善しと見ゆる所を為せり」。こうした文句はバイブルの諸書に屢々(しばしば)繰り返されているが、この政体は重大な欠点をもっていた。これが為にその周囲にある異教の諸国民と対立していたユダヤ国は常に弱体化されていた。何となれば、それら諸国民はその政体が何れも専制政治であった為に皆戦いを好み、他国に対する侵略を事としていたからである。そこでユダヤ人は、「我らを率いて、我らの戦いに闘わしめる王」を戴く為に王の選出を要求した。選立せられた王らは、その権力を執って後なお多くの年月を経なかったので、その時まで、神権の代表者として民を治めていた僧侶は、自分の権力の一部を奪われる為、王らを遇するに極めて冷淡であった。王らは又僧侶が真の神の奉仕者として民間に道義的勢力を有するを嫉むと共に、彼らはその教権をもって自分らの放肆(ほうし)を抑制することを快らず思っていた。その結果、自然両者の間に暗闘が生ずるに至った。それは紀元前1095年、ユダヤ王に即位したソールの時代に最も激烈を極めたが、後40年を経た1055年、卑賤より身を起し敵フィリスタインの大軍を撃破した預言者ダビデは、ソールの後を嗣(つ)いで王位に就いた。

 この時代には、対僧侶との粉擾(ふんじょう)が一掃された。その子ソロモンが王位についた1000年時代の始期は国内大いに治まり、国民からは古代賢哲の再現なりと崇敬されたが、晩年に至り異邦民、異教徒の美人を籠愛し、奢侈(しゃし)に流れ、荒淫を極め、剰(あま)つさえ教祖エホバの神にさえ仕えなくなくなった。これが為に国内大いに乱れて僧侶との暗闘は再燃した。そしてその結果、遂にイスラエル民の十二支派から十支派の分裂を見るに至った。

 第一章 古代に於けるイスラエル民の反逆(4)
 976年、ソロモン王没後、パレスチナの北部に居住していたイスラエル民の各支派は、エルサレムを美化する工事の為の重税に悩まされて、ソロモン王の子ロウオアム王に対して叛旗を翻えし、収税の為に派遣された役人アドラムを石をもって打ち殺し、先に故ソロモン王の逆鱗に触れてエジプトに遁去(とんきょ)を余儀なくされていた故王の将軍ヤラベアムを立てて王となした。これによってユダヤ国は分裂して、再び融合し難き二国を形成した。即ちヤラブアムを王として戴いた北部のエスライル国と、ダビデ王の後裔に忠誠を守ってエルサレムを王都としていた南部のユダヤ国(大多数の人口を有するユダヤの支派からその名を取った)であった。

 古来の伝説に根拠を有するこの二国に於けるイスラエルの十二支派の分配を認めて、イスラエル国を十支派より成るものとし、ユダヤ国をユダ及びベンヤミンの二支派よりなるものとする。かかる分界法は、少なくとも地域上の観点から云う時は正確性を欠いていると言い得る。しかしユダの支派の領域内に突出しているシメオン支派の領域はレハベアム王の国、即ちユダヤ国の一部となった。隨(したが)って、レハベアム王は二支派を納めていたのではなく、事実三支派の王となっていた訳である。他の一面に於て、ペテロを主要な町としていたベンヤミンの支派の北方の半分はイスラエル国の一部となり、そしてダンの支派の領域は、南方の半分はレハベアム王に忠誠を守っていた。イスラエル国はユダヤ国に比し領域に於て三倍、人口に於て二倍であった。しかし南方に境を接していた強大なる二国、即ちフィニキア及びアッシリアとの抗争は、イスラエル国にその優勢を十分利用する便宜を与えなかったのである。

 約櫃(アーク)は、モーゼがシナイ山で神から授かったユダヤの神器とも云うべき十戒を刻みつけた石板を納めたる箱であって、ユダヤ人の会堂で最も尊崇せられていた。そしてソロモン王によってこの約櫃を安置せる殿堂が建設された首都がレハベアム王の手中に握られていると云う事情は、王位簒奪者なるヤラベアムの行動を大いに抑制した。実際モーゼの律法は獻祭を行う場所をただ約櫃の守られた聖堂に限り、他の場所に於て行われた獻祭はすべて無効であると規定した。それでユダヤ人は毎年各地から獻祭を行う為にエルサレムに集まったのであった。イスラエル国のユダヤ人はエルサレムに上る時、正統の国王に属し、王権の最も盛んに行われていた領地に入って、預言者なるダビデ王の後裔と密接につながっていた祭司を輔(たす)けて聖儀を執行するレビと交渉した。ヤラベアム王の臣民にとっては、この機会が分裂を棄てて、ユダヤ国に復帰するための一大誘惑となったのである。

 そこで、ヤラベアム王は、この危険を防ぐ最善の方法がモーゼの宗教をイスラエル国内に撲滅して、その代りにソロモン王が既に隱然(いんぜん)信奉して異教の諸神の崇拝を普及させるにあると考えた。この事はバイブルの次の言葉からも明らかに見える。「ここにヤラベアムその心に謂いけるは、国は今ダビデの家に帰らん。もしこの民エルサレムにあるエホバの家(神の聖殿)に禮物を捧げんとて上らば、この民の心ユダの王なるその王レハベアムに帰りて、我を殺し、ユダの王レハベアムに帰らん」と。「ここに於て計議して二つの金の犢(こうし)を造り、人々に言いけるは、汝らのエルサレムに上ること既に足れり。イスラエルよ、汝をエジプトの地より誘き上りし汝の神を視よと、而して彼一つをベテルに安(す)ゑ、一つをダンに置けり。このこと罪となり、そは民ダンにまで往きて、その一つの前に詣でたればなり。彼また崇邸(たかきところ)の家を建て、レビの子孫に非らざる凡民(よのつねのたみ)を祭司となせり」(「列王記略上」12章26~31節)。

 こうしてヤラベアム王は、純正なる宗教を信奉するユダヤ人の迫害者且つ配信者なる多くのイスラエル国王の嚆矢となった。そしてこの諸王中、最も有名なる者はアハブである。彼ら臣民中、多くの人々は彼らの往く所に従うことを辞し、また先に異教に転向したユダヤ人の例に做(なら)うことを拒絶したが、どうともすることができなかった。レビの人々が続々ユダヤ国に脱出して留まる者がなかったので、預言者が民間から現れて真の神の言葉を聴くべく宣伝した。しかしそれも効果がなかった。

 第一章 古代に於けるイスラエル民の反逆(5)
 イスラエル国は神職の拘束を離脱して、独裁政治を行うに便利な政策を取った。ただ王位簒奪者エヒウの治世のみ預言者エリシヤによって、暫時ながらユダヤ人の間に純正なる宗教の復興を見るに過ぎなかった。エヒウ王の死後、その子孫は直ちに以前の諸王の政策を再興して、真の神の奉仕者等を死刑に処した。かくしてイスラエル支派分裂後二世紀を経た紀元前721年、イスラエル民の半数は自発的に、他の半数は強制的に純正なる信仰を棄てた。そしてモーゼの律法は、イスラエル国内に於てただ少数の忠実なユダヤ人によって、密かに信奉せられていたのみであった。

 この年、イスラエル国王オシヤに租税を課したが、アッシリヤ王サルマナサルは、オシヤ王が納税を免れようとしていることを察知して、エジプトと交渉を開始した。アッシリヤの軍隊はイスラエル国を猛撃してオシヤ王を虜にし、その都サマリヤを包囲攻撃して、三年の後これを完全に陥落した。イスラエルの十支流は、アッシリヤ軍に攻略されて、諸国民と同様の運命に逢着した。生き残ったすべての住民は皆集められて遠くエフラト河の彼方に移住せしめられた。こうしてユダヤ人は他国民と共に雑居せしめられた。祖先の伝説に依拠した宗教、それを中心として彼らが追放や分散に抵抗し、一致団結すべかりし宗教の支持を得ることは最早不可能となった。まして彼らはその征服者に同一の諸神を崇拝するようになっていたから、彼らは忽ちその雑居していた諸国民に同化して、永久にその国民的存在を喪失した。

 人里を離れた所に隠れて追放を免かれ得た人々は、大風一過と同時に再び元の居住地に立ち帰った。アッシリヤ王の命令によって、アッシリヤに移住していたユダヤ人が、エフラト河の彼方から再び故郷に帰ってきた時、彼らは自分の土地をこの同胞らに分け与えた。ここにも人種の混淆が偶像の伝播を助成した。それにも拘らず、少数のイスラエル民は祭司もなく、規定の儀式もなく、ただ祖先の神に対する崇拝を続けていた。幾冊か保存されていたモーゼの五書に僅かに彼らの宗教的伝説との連繁を維持する楔となっていた。しかしイスラエル国のユダヤ国に対する敵愾心は、エルサレムに於て信奉されていた宗教に彼らの復帰する障碍となった。そこで彼らはサマリヤの町の側に従えていたゴリジム山の頂上で真の神に獻祭を為すことに決した。この山は、かってヨシュアがイスラエル民を率いてカナンの地に入る際、全民を祝福して各支派に聖地の分配を行った古蹟である。

 イスラエルの支派の分裂は、エルサレムがハルデヤ人の占領する所となって以来一層深刻になった。紀元前536年に、ユダヤ国の住民がバビロンの幽囚となるを免れてその故郷に帰還した時、サマリヤ人は、約束の地または聖地とユダヤ人の呼んでいたカナンとパレシチナに住んでいた多くの異教徒をユダヤ教に転向せしめた。彼らはユダヤ人がエルサレムの聖殿を再建せんとする企てを嫉視の眼をもって見ていた。そして百万これを妨害しようと努めた。この事は多年彼らとユダヤ人との間に醸成されつつあった宿世の怨恨をいよいよ激化するのみとなった。

 紀元前331年、アレキサンドル大帝のパレスチナ攻略の時、エルサレムの祭司長の兄弟マナシヤがサマリヤ人の婦人と結婚していた為に追放処分を受けた。マナシヤは自分の味方となった多数のレビを共にしてサマリヤに去った。そしてアレキサンドル大帝の許可によってゴリシム山上に聖殿を建設し、サマリヤ人のために祭司の職を規定した。エルサレムから追放された総ての人々はその所に安全なる楽土を見出した。これが為にユダヤ人はサマリヤ人を極度に憎んだ。そして如何に重要なる場面に於ても彼らと一切交際することを厳禁した。キリストに向けられた非難の一つは、彼がサマリヤ人を近づけたと云うことにあった。サマリヤ人は今日までその生存をつづけている。そしてパレスチナにもまたエジプト及びトルコの或る町にも彼らは居住している。彼らのユダヤ人に対し、又ダヤ人の彼らに対する憎悪は、キリストの出現前と今日と少しも変わりはない。

 バイブルの諸書中、彼らはただモーゼの五書のみを認めている。但しこれに彼らはなおヨシュアの書と称せらるる年代記を附加している。この書中には、旧約歴史を最も空想的な形式に於て叙説し、又ゴリジム山上の聖殿をエルサレムの聖殿に比較して前者の優越性と年代の古き事を立証するに努めている。このヨシュアの書は、この預言者の存命中に著わされたものとされているが、甚しい時代錯誤を含んでいる。それによるとこの書は五世紀に書かれたものといって差支えない。

 第一章 古代に於けるイスラエル民の反逆(6)
 ユダヤ国に於いては、エホバ―ユダヤ教―宗教は比較的容易に保持せられていた。何となればレベアム王は、その祖父なるダビデ王の宗教的魅力とレビらの支持によってその王位に堅立していたからである。しかし王権対モーゼの律法の闘争を惹起すべき原因はエルサレムにもあった。ユダヤの王らは、自分の権力を司祭らに分かつことを煩わしく感じていた。彼らはイスラエル国の王らの独裁権をもっていることを妬んでいた。そして終にはモーゼの律法の勢力を弱める為にイスラエル王らの例に做って、偶像崇拝を国内に伝播せしめた。この変革は宗教上の目的と云うよりは、むしろ政治上の目的から行われたのである。アタリヤとヨアシ王の著名なる実例はこの事を証して余りある。ヨアシ王はレビらによってアタリヤの残虐から救われ、彼らの助力によって王位についたのである。

 王位についた彼は、程なくレビらの拘束を離脱せんとする希望に燃えた。彼はレビらと軋轢(あつれき)を起し、アタリヤの政策に立戻って祭司長を聖殿の入口に於てユダヤ人の死刑の一種である石撃することを命じた。ヨアシ王の後継者の歴史の大半も殆んどこれと大同小異であった。しかしユダヤ王らの敵対的態度にも拘わらず、真の神の崇拝はユダヤ国に於ては連綿として絶えることなく、大多数のユダヤ人は皆その祖先の宗教を信奉していた。

 イスラエル人と云う名称は、神と格闘する者即ちイスラエルの意で、ヤコブの子孫全部を指したものである。またユダヤ人と云う名称は、特にユダヤの支流に属するイスラエル人で、これを広義に解釈すると、ユダヤ国に属するイスラエル人を指示したものである。イスラエル十支流がアッシリアと混血した結果、純血なるイスラエル人はユダヤ以外にいなくなったのである。ユダヤ人と称されるサマリヤ人の如きは新たにユダヤ教に転向した外国人で、殆どユダヤ人の血統を受けていないからである。

 紀元前606年にエルサレムはバビロン王ネブカドネザルの手中に帰した。そしてヤキム王とその人民の一部は捕虜としてバビロンに送られた。残された人民の為にネブカドネザルは自ら王を選んでこれを納めさせた。この王らはその覊絆を脱しようと努力したが、ネブカトネザルは十六年を経て再び攻めて来て、エルサレムを徹底的に破壊した為、先に寛大にして残留を許した者の内、エジプトにも脱しなかったもの全部を捕虜としてバビロンに連れ帰った。これが即ちユダヤ人の宗教的運命に徹底的影響を及ぼしたバビロン大幽囚の初めであった。

 ネブカドネザルは、別名をナウホドノッソルと云って、ハルデヤ王のナボボロッサルの子である。そして彼の首都をバビロンと云ったのである。ハルデヤ人は多年アッシリヤ人の権下に服していたが、ナボボロッサルの治世に至ってその覊絆を脱し、以前の統治者をその権下に服せしめた。ハルデヤ国のアッシリヤ国に対する勝利は、教化あるも、しかし純軍国的なるアッシリヤ独裁王国に対する典雅的なる旧時代の文明の勝利であった。





(私論.私見)