「逆読み『血の中傷』考」

 更新日/2018(平成30).8.30日



 「ウィキペディア血の中傷」を参照し、逆読みする。 ユダヤ人に対する憎悪によって生み出された迷信であり、
 「血の中傷」(ヘブライ語:עלילת דם)は、特にキリスト教社会において、ユダヤ人の悪行の一つとして数えられるものである。過越祭の数日前、キリスト教徒の子供が行方不明になる。祭が終わった頃になると子供の遺体がユダヤ人の家の近辺で発見される。その遺体には血を抜き取られた形跡があるとの事例が報告されており、それは、過越祭の期間に過越しのパン(マッツァー)の中にキリスト教徒の子供の血を混ぜる儀式と関係しているとされる。これが「血の中傷」という言葉の由来である。「血の中傷」は、当初はイギリスとフランスでのみ囁かれていたが、次第に各国へと伝えられ、やがてはヨーロッパ全土を席巻するに至った。

 ユダヤ教には殺人についての厳格な禁止事項があり、古来より肉食には細心の注意を払っており、タルムードでは人肉食についての警告を発してもいるが、ユダヤ教徒は特別な儀式において祭具に滴らせるキリスト教徒の血を必要とし、そのために密かにキリスト教徒の子供たちを殺害し、その遺体から血を絞り出していると云う。さらには、過越の晩餐に供されるワインにも血が注がれていると云う。「血の中傷」にまつわる流言は、中世以降の八百年の間におよそ二百のバリエーションが数えられている。


 「血の中傷」がユダヤ人に対する憎悪を一層掻き立てユダヤ人迫害、追放、虐殺の要因となっている。血の中傷の起源は古代にまで遡ることができる。それがキリスト教社会固有の潮流としてヨーロッパ地方の各地で爆発的に拡散したのは中世末期のことである。但し、時の権力者、及び教会の上層部が必ずしもその迷信に加担していたとは限らない。
 各時代における中傷
 古代
 フラウィウス・ヨセフス(ヨセフ・ベン・マタティアフ)は『アピオーンへの反論』でのユダヤ人を擁護する記述の中で、反ユダヤ主義信奉者がユダヤ人の誹謗中傷をヘレニズム世界の各地に蔓延させていたと述べている。ヨセフスが紹介した中傷は次のような話であった。

 アンティオコス4世エピファネスがエルサレムの第二神殿の中に入った際、収監されていた一人のギリシア人男性の姿を見つけ、彼が何者で、そこで何をしているのかを尋ねた。するとその男は、ユダヤ地方を訪問中に捕らえられて囚人として神殿に連行されたのだが、そこで食料をたらふく食べさせられていると答える。アンティオコスはさらに質問し、その言葉の意味を質したところ、彼は答えた。「ユダヤ人の律法では、国外から訪れるギリシア人を捕らえて丸一年かけて十分に太らせた後、生贄として神に捧げ、その肉を食べながら全ギリシア人を呪い殺すべく誓いを立てるよう定められている」と。

 ヨセフスがユダヤ人に対する中傷への反証のために持ち出したこの屈辱的な逸話は、自らもユダヤ人であったヨセフスがあえて書物に記録したことにより、ヘレニズム期からローマ時代にかけて流布した。

 中世
 ノリッチのウィリアム -最初の血の中傷

 血の中傷が最初に知られるようになったのは、イギリス東部の町ノリッチで発生した事件によってである。1149年、トマスという名の修道士によって噂が広められ、瞬く間に有名になった。ただし、資料学的な検証の末、現在では1144年に起きた出来事と推定されている。

 ある日のこと、ウィリアムという名の幼児の遺体が森の中で発見された。その遺体は腐敗こそしていなかったものの、暴力が加えられた痕跡が残されていた。事件の調査に当たったトマスは、聞き込みによってユダヤ人の関係を仄めかすいくつかの証言を集めた。ユダヤ人富豪の屋敷で働く家政婦によると、彼女は屋敷内でその幼児が縛られているのを目撃したという。また、キリスト教徒のひとりは、遺体を森の中へと運ぶユダヤ人の集団と遭遇したと報告した。さらには、トマスの友人のユダヤ人キリスト教改宗者も、ユダヤ人が毎年フランスのナルボンヌに集まり、その年の過越の生贄をどの町から調達するのかを協議していると告白した。

 当時の資料に基づいた歴史家の推論によれば、すべての証言はユダヤ人キリスト教改宗者がトマスに吹聴したものと見られている。このユダヤ人に関連して別の歴史家は、彼の証言は当時一般的に語られていたもののひとつになったに過ぎず、その背景ではもっと悲惨な事件が多数起きていたと述べている。トマス証言は独り歩きし、その後に誕生する何百というバリエーションのプロトタイプとして世代を通じて語り継がれていった。

 ブロワ
 1171年にはフランス中部の町ブロワでも血の中傷が発生した。但し、いくつかの点で特殊な事例であった。
  • 遺体の発見や幼児の行方不明といった伏線がない状況で発生した。どうやら、あるユダヤ人とキリスト教徒の使用人がすれ違った際、加工された皮の包みをユダヤ人が落としたことが火元になったと見られている。使用人はその皮が子供の遺体から剥ぎ取られたものと疑ってすぐさま主人に報告したところ、その主人は以前にユダヤ人の富豪ともめた経緯があって復讐の機会を窺っており、その報告を好機と見た。
  • その他の事例とは違って当件にはブロワの権力者も積極的に絡んでいた。それは当地におけるユダヤ人がらみの裁判を円滑に進めることを目論んでいたからである。
  • この事件は、三十二名(一説では四十名)のユダヤ人が家の中に閉じ込められたまま建物ごと燃やされるという痛ましい結末を迎えている。

 ブロワにおける惨殺によって大変な衝撃をうけた同時代のユダヤ人たちは、その日を心に刻み込むためにシバンの二十日を断食日に制定した。その制定は、今日ではラベィヌー・タム(ラビ・ヤアコブ・ベン・メイール)の一連の業績のひとつに帰されている。また、当時行われた断食については、ゲダルヤの断食よりも大規模なものであったと伝えられている。

 ボン出身のラビ、エフライム・ベン・ヤアコブは自著"ספר הזכירה"(追悼の書)においてブロワのユダヤ人の受難を次のように描写している。「女性や子供をも含めた共同体の全住民が賛美歌アレィヌーを口ずさみながら積み上げられた薪の上に載せられた。厳かな低音の声で祈りは続いたのだが、最後には悲鳴と絶叫に変わっていた。そして全員で声を合わせて『アレィヌー・レシャベァフ』と祈った後、火の中で燃え尽きた」。

 プルダー
 1235年、ドイツのプルダーにてキリスト教徒の粉引きの息子五人が森の中で惨殺されるという事件が起きた。すると瞬く間に、その町の三十二名のユダヤ人が復讐心から子供たちを殺したというデマが広まった。事件当時のプルダーにはフリードリヒ2世も滞在していた。彼はすぐさま調査に協力し、キリスト教に改宗したユダヤ人学生を集めて参考までに彼らの意見も聞いてみた。すると彼らは、ユダヤ教の儀式でキリスト教の血を使うなどありえないと断定的に答えた。フリードリヒは彼らの言葉を信じ、血の中傷が単なるデマであるとする勅旨を公布し、そのデマを広げた責任者たちを厳罰に処した。

 1247年にはローマ教皇インノケンティウス4世も血の中傷の問題の対処に乗り出し、各地の大司教、及び司教宛に次のような手紙を送っている。

 「権力の要職にある者たちがユダヤ人の土地を略奪するためにドイツ全土にて蛮行を働いていると彼らは抗議しているが、我々はその抗議を全面的に受け入れる。これらの蛮行に加担した者たちは、キリスト教の教義がユダヤ教の旧約聖書の上に立脚していることを忘れた愚か者である。旧約聖書にはこのように書かれている。『殺すなかれ』と。あなたたちはユダヤ人が過越祭において子供を殺してその死体を食べていると訴えているが、彼らは過越祭の期間中、死体に触れることさえも許されていないのである。あなたたちは殺人事件で容疑者が不明の場合、いつでもユダヤ人にその罪を被せている。しかも十分な捜査は行われず、目撃証言もなければ裁判も開かれず、あまつさえ抗弁や自白さえもまいまま、ただユダヤ人を迫害したいが一心に愚かな蛮行を繰り返している。ローマ教皇庁の慈悲によってユダヤ人に土地の所有権が与えられていることに不満を抱いている者は、彼らに対して監禁や尋問といった様々な虐待を加えた挙句、極刑に処している。なればこそ、敬愛すべき兄弟であるあなたたちに忠告する。初心に立ち返り、法に背かないよう自戒しなさい。また、ユダヤ人に非がある場合以外は、彼らに対するいかなる迫害をも許してはならない」。

 この文面はインノケンティウス4世に続く歴代の教皇によって繰り返し引用されていた。

 リンカン

 1255年、イギリスのリンカンにて貧困層の子供が森の中で行方不明になった。遺体は井戸の中から発見されたのだが、容疑者として真っ先に疑われたのはユダヤ人であった。尋問の末、彼らの中の一人が罪を自白したものの、その自白は減刑には結び付かなかった。彼は馬の尾に結び付けられて市内を引き回された挙句、その他17名のユダヤ人と共に処刑された。

 それから二百年後の時代の詩人ジェフリー・チョーサーは著書『カンタベリー物語』の逸話、「女子修道院長の話」のなかで、リンカンでの血の中傷を取り上げている。

 トロワ
 1288年のフランスのトロワでの異端審問裁判にて、十三名のユダヤ人が儀式に使う血を採取するために子供を殺した廉で火刑に処せられている。
 トレントのシモン

 1475年、イタリアのトレントでのこと、ユダヤ人の家の井戸の中からシモンという名の少年の遺体が発見された。おそらく、キリスト教徒の殺害者が安易に罪を逃れようとして遺体を投げ込んだものと見られる。地域のユダヤ人たちはそのように推定したものの、当局に対して立証する手立てが何もないために動揺した。さっそく、ユダヤ人の家の中から子供の泣き声がするのを聞いたと証言するキリスト教徒が現れた。尋問は凄惨を極めたため、家族の者は事件への関与を認ざるを得ず、当局の調査内容に沿った事件の詳細を供述した。首謀者とされたユダヤ人は水磔、他の者たちは白熱したやっとこで肉を割かれた後、火刑に処せられた。この事件では十三名の命が奪われ、残されたトレントのユダヤ人たちも町から追放されてしまった。

 その後、ローマのユダヤ人たちの請願が通じ、教皇庁は事件の再調査を命じた。すると密告者が現れ、彼は身の危険を案じながらも、ユダヤ人に対して行われた裁判が公正な訴訟手続きを踏まないまま、尋問による自白のみを頼りに進められたことを暴露した。この調査結果を受けて教皇庁は事件の究明委員会を設置したが、最終的に採択された決議は玉虫色のものであった。つまり、インノケンティウス4世の禁止令を改めて批准する一方、トレントでの訴状手続きが適正であり、これ以上委員会が干渉する理由はないと結論付けたのである。

 後代になるとシモンの伝記が複数執筆されたのだが、いずれの内容にも様々な奇跡譚がちりばめられていた。その奇跡のおかげで彼は1588年、教皇シクストゥス5世によって列聖されている。ただし、1965年になるとパウロ6世によって列聖は無効とされた。トレントの教会には現在、次のような碑文が彫られている。「かつてこの場所では、人類史上の黒い一頁として記載されている耐え難い出来事があった」

 イスラエルの歴史家でバル・イラン大学の教授アリエル・トアフは、教皇庁の依頼に応じて当件の調査にあたり、その結果を著書"פסח של דם"(血の過越)にまとめたのだが、同書では、シモン殺害は戒律を破ることさえも厭わないユダヤ人急進派による行為であると結論付けている。それによると、当時集められた証言を検証したところ、公判記録に残っている血と砂糖を取引していたとされるベネチア出身の商人の実在が裏付けられるなど、証言には十分な信憑性があるとしている。しかし彼の著作はイスラエルでは酷評に晒され、非科学的で査読に耐えらない書物を大衆に公表したとして、学者としての姿勢もろとも糾弾されている。彼に対する反論の主なものは、過去に十分検証され尽くした資料を強引に解釈するその方法論に向けられている。また、五百年以上も時を経た今日に至っては、過去の証言だけではいくら検証し直しても尋問を否定するに値する情報を見出すことは不可能であり、仮にその証言に信憑性があると判断するのなら、中世ヨーロッパの魔女裁判において、サタンとの情交の嫌疑で火炙りにされた何千人もの女性の自白さえをも認めざるを得なくなってしまうと述べている。

 ラ=ガーディア -心臓の中傷

 1491年、すなわちユダヤ人のスペイン追放前夜のこと、ラ=ガーディアにおいて多数のユダヤ人が、儀式において子供を惨殺したうえ遺体から心臓を取り出したという嫌疑で告発された。しかし、子供が行方不明になったという報告はなく、死体が見つかったという記録さえも残されていない。にもかかわらず、告発されたユダヤ人たちは極刑に処されたのである。現在では殺されたという子供自体がそもそも実在していなかったと見られているのだが、この話を広めた者たちは、子供が犠牲になった瞬間に地震が起こり、太陽が暗闇に覆われたなど、あたかもこの事件がキリストの受難の再現であるかのごとく吹聴していたのである。また、遺体が見つからないことに関しては、天に召されたからだと言って納得させていた。

 一部の歴史家たちは、この事件が不測の事態から生じたのか、あるいはスペイン追放を控えた時勢を鑑みれば、土地を接収するために取られた計略の一環だったか、その真偽についての解明を進めている。

 ラ=ガーディア発祥のこの物語は後代に戯曲化され、スペイン文学史において数百年の間、歌い継がれるのであった。

 近現代
 ポーランドとロシア

 17世紀になるとポーランドにも血の中傷が波及し、西ヨーロッパと同様の現象が起きた。ただし、同国のカトリック教会は時勢に惑わされることなく伝統的な教義から逸脱することはなかった。

 18世紀から19世紀の初頭にかけて、ポーランドとロシアにおいて血の中傷が波状的に流行し、殺人事件をも含む様々虐待行為が惹き起こされるようになった。ポンザン、ザスロウ、ジトームィル、ベリジュといったゲットーのある地域では特に酸鼻を極めた。

  • 1736年、ポンザンにおける血の中傷で四人のユダヤ人指導者が虐殺された。
  • 1747年、ザスロウでは過酷な拷問の末に四人が命を落としている。
  • 1753年、ジトームィルで十二人のユダヤ人が生きたまま切り刻まれた後、火炙りにされている。
  • 1823年、ベリジュにて多数のユダヤ人が牢獄に監禁され、数年間も拷問を受けていた。
 ロシアでの血の中傷裁判

 19世紀のロシアでは、儀式的殺人の廉で告発されたユダヤ人の裁判が複数回執り行われたのだが、一件の例を除いたすべての件で無罪が確定している。にもかかわらす、時の皇帝ニコライ1世は1817年における布告で、「ユダヤ人の中にはキリスト教徒の血を必要としている者が多数いる」と公式に述べたのである。特殊な例としては、1852年から翌年にかけて、サラトフで多数のユダヤ人が血の中傷によって告発され、二名のユダヤ人が15年もの間、牢獄で拷問を受けていたというケースもある。

 ただし、1855年には血の中傷に関する調査委員会が設置されており、いずれもがデマでしかなかったことが立証されている。

 イズミールとコンスタンティノープル
 1872年から1874年にかけてのオスマン支配下のイズミールとコンスタンティノープルで広まった血の中傷は、当地のユダヤ人に様々な悲劇をもたらしたのだが、その多くはギリシア人によるものであった。
 ダマスコ
 1840年にダマスコで起きた血の中傷にまつわる事件は、世界中のユダヤ人社会に凄まじい衝撃を与えた。この時期はムハンマド・アリーによるフランス傀儡政権がダマスコを統治しており、イギリスとオーストリアを後ろ盾にしていたオスマン帝国との交戦中でもあった。血の中傷の背景には、1840年2月5日にトマソという名前のイタリア人修道士と付き人のイスラム教徒がユダヤ人街の市場を訪れたのを最後に行方不明になるという事件があった。

 ダマスコのフランス領事ラティ・メントンは反ユダヤ主義者として知られていたが、彼はこの機会を逃さず、すぐさまユダヤ人が関与しているとして告発した。一方、フランスの首相アドルフ・ティエールは政府主催の代表者会議をダマスコで開催し、エドモンド・ジェイムス・デ=ロスチャイルドとの話し合いの中で次のように述べている。「もし中世のユダヤ人たちの儀式的殺人への関与が自明であるなら、今日のダマスコの薄汚いユダヤ人が彼らと同じ事を行わない理由とは何なのか?」すると、あるユダヤ人に疑惑の目が向けられたのでさっそく取調べが始まった。厳しい尋問によって自白せざるを得なくなった彼は、苦し紛れにユダヤ人共同体の七人の有力者の名前を挙げた。彼らはすぐさま逮捕され、尋問の挙句に数人が命を落とし、残された者たちは観念して自白した。この事件の首謀者とされたのはハイム・ファルヒという実業家で、ユダヤ人によるパレスチナ開拓や教育をはじめとした公共施設に多額の献金を行っていた人物である。彼は様々な尋問を受けたものの、幸い嫌疑不十分で釈放された。同じく容疑者としてダマスコの著名なラビ、ヤアコブ・アンテビも拷問を受けたのだが、後に名誉を回復している。

 この間、ユダヤ人街から豚のものと見られる骨が発見された。ところが当局によって修道士の骨として公表され、教会内で厳かに埋葬されたのである。これを受けて、ユダヤ人が貯蔵していると噂される血の在り処の捜査がはじまったのだが、当局はユダヤ人からの自白を引き出すため、3歳から10歳までの彼らの子供たち六十名を誘拐するなど手段を選ばなかった。

 ダマスコでの事件は噂となって世界中のユダヤ人の耳に届けらてはいたものの、当初はわずかな援助しか差し伸べられなかった。ところがこの誘拐事件によって関心が高まり、子供たちの救出へ向けての各方面からの働きかけが増加したのである。これには多分に民族、及び宗教闘争の要素が孕んでいた。この過程においてモーシェ・ハイム・モンテフィオールの努力が実り、オスマン皇帝アブデュルメジト1世によって、帝国内の事件でないにもかかわらず、血の中傷の流布を厳禁する布告がイスラム教徒に出されたりもした。中でも目立った活動をしたのはドイツの詩人でパリ在住のユダヤ人キリスト教改宗者ハインリッヒ・ハイネであった。彼は血の中傷への反論を声高に叫び、その迷信に内包された反ユダヤ主義者のコンセンサスを明らかにした。また、イギリス政府も罪なき被害者の救出活動に全力を注いだ。ダマスコでの血の中傷がユダヤ民族史上のひとつのターニングポイントとなったことは間違いなかろう。この事件を通じて、中東のユダヤ人とヨーロッパのユダヤ人との間の溝が埋められたのである。

 一方、ロスチャイルド家のメンバーはオーストリア領事の協力を得て事件の詳細を文書にまとめ、それを新聞を通じて世界中に配布した。すると思惑通り国際世論から激しい非難の声が上がった。そのため、アドルフ・クレミューを団長とするフランスのユダヤ人使節団がエジプトに赴き、事件の仲裁に乗り出すようムハンマド・アリーに働きかけた。こうして、二ヶ月にも及んだ監禁生活から子供たちが解放されたことにより、事件そのものの一応の決着を見たのである。また、この事件の責任を問われたダマスコの知事は処刑されている。

 1986年、シリアの国防相ムスタファ・タラスは公表した書籍の中でダマスコでの血の中傷に触れ、儀式用の血の採取を目的としたユダヤ人による修道士の殺害は実際にあったことだと述べている。 イスラエルの劇作家アロン・ヒルはこの事件をモチーフにした小説"מות הנזיר"(修道士の死)を2004年に発表した。

 ティツァ・エズラ
 1882年、ハンガリーのティツァ・エズラという村でキリスト教徒の少女エステル・ソリモシが行方不明になった。すると当地の反ユダヤ主義の議員たちの扇動によって血の中傷が焚き付けられ、すぐさま地域のユダヤ人が告発された。

 法廷に立たされたユダヤ人は十五人に上ったのだが、その中には屠殺人のシェロモー・シェヴァイツも含まれていた。このときは裁判所も教会も事件にあまり関心を示さなかったが、続いて公務員ヨセフ・シャープのふたりの子供が誘拐され、教会の近くで監禁されるという事件が発生した。すると、この両事件によっていわば洗脳状態に陥った住民たちから、あたかもエステルの殺害現場を目撃したかのような証言が相次いだ。そのほとんどが、シナゴーグの中でシュヴァイツがエステルの喉を引き裂く様子をドアの鍵穴を通して見たというものであった。マウリッツ・シャープという名のユダヤ人の若者は、傷口から滴り落ちる血をどのようにしてシュヴァイツが器の中に注ぎ込んでいたのかといった細部にまで言及している。また、犯人はシュヴァイツだけでなく、告発された残りの十四人の他、自分の父親も事件に関与しており、彼らはエステルが暴れないよう押さえつけていたと証言した。さらには教会関係者の指示通り、地域のユダヤ人有力者の姿も現場で目撃したと供述した。シュヴァイツが抗弁の際、人間の首を切断した場合、傷口からは猛烈な勢いで血は噴出するので、一方の手で首を切断し、もう片方の手で血を受け止めるのは不可能であると主張したときは、これらの疑問に抵触しないよう証言し直している。

 事件を担当した弁護士、兼作家のカーロイ・エトベスは現場検証のために複数の裁判官をシナゴーグへ派遣したのだが、現場からは若者の供述を裏付けるものは何も出てこなかった。それどころか、シナゴーグのドアには鍵穴さえもなかったのである。

 この裁判は反ユダヤ主義者による暴動を惹き起こし、ついにはパラシュブルグ(現ブラチスラバ)をはじめとした各都市でポグロムが発生するに至るのである。ハンガリー政府は戒厳令を敷くと共にユダヤ人居住区のある地域に軍隊を派遣した。首相ティサ・カールマーンは要職者に対して、公権力の立場にいる限りは決して無実のユダヤ人に危害を加えることを許してはならない警告した。

 後日、ティサ川からエステルの遺体が引き上げられたのだが、その遺体に暴力が加えられた痕跡がないのは明白であった。ところが、彼女の母親は教会からの圧力を受けて、その遺体が自分の娘であることを否定したのである。また、遺体を引き上げた漁師たちは当局によって拷問を受け、公判の際、その遺体がユダヤ人によって引き渡された別人のものであると証言した。それによると、ユダヤ人が地域の病院から密かに遺体を搬出し、行方不明時にエステルが着ていた衣服を着せてから漁師たちに引き渡したというのである。つまり、ユダヤ人の依頼に従ってその遺体を川に投げ捨て、数日後に自分たちで引き上げたという自作自演説を主張するのであった。とはいえ、遺体が消失したという記録はどこの病院にも残されていなかった。遺体はブタペストに搬送され、政府が派遣した病理学者の手で解剖されたのだが、調査の結果、エステルが死亡時に妊娠していたことが判明した。おそらく、愛人の子を妊娠したものの、その相手に逃げられてしまい、将来を悲観した挙句に入水自殺したものと見られている。エトベスの熱心な弁護により、告発されたユダヤ人全員の無実を訴える抗告がなされたのだが、ブダペスト高裁において棄却された。

 エトベスはこの事件の詳細を記録し、三巻立ての書籍にまとめて発表した。また、彼が下院議員でハンガリー民主党の党首だったときは、ユダヤ人の権利を守るために彼の承認のもと自発的に訴訟費が支払われている。その後、彼は政党から除籍され、議員資格も剥奪されてしまった。そして各方面からの迫害に耐えながら不遇な生涯を送った。しかし今日のハンガリーでは、彼は国民的な英雄として尊敬されている。一方、偽証したマウリッツ・シャープは事件後にオランダに移住したが、そこでユダヤ教の信仰を取り戻し、事件に関する自伝的書物を発表した。アルノルト・ツヴァイクは1918年、戯曲"Ritualmord in Ungarn"(ハンガリーの人柱)を補完するため、マウリッツの自伝を基にして小説「サマエルの使命」を執筆している。

 ポルナー
 1899年、チェコのポルナーにて19歳の少女アネズカ・フルゾワが殺害された。この事件は過越祭の期間中に起きたため、すぐさまユダヤ人の知的障害児レオポルド・ヒルズナーが告訴された。しかし彼を犯人と断定する証拠にはいくもの問題があった。

 ヒルズナーの裁判には政治的、かつ反ユダヤ的な思惑が絡んでいることは明らかであった。そのため、トマーシュ・マサリクがヒルズナーを救うべく仲裁に乗り出したのだが、力添えにはなれなかった。ヒルズナーには死刑が宣告されたものの、彼の支援者が皇帝フランツ・ヨーゼフ1世に圧力をかけたため終身刑に減刑された。その17年後の1918年、皇帝カール1世によって恩赦が出されている。

 ケルキラ島
 19世紀末、ギリシアのケルキラ島にはおよそ五千人のユダヤ人が定住していた。彼らの共同体はイタリア出身者とギリシア本土出身者に別れていたのだが、共に経済的に成功しており、キリスト教徒とも表面上は友好的な関係を築いていた。ところが1891年のこと、ユダヤ人の家の中庭にあった袋の中から首を切断された少女の遺体が発見されたことにより、潜在的に秘められていた反ユダヤ感情が爆発したのである。殺された少女はユダヤ人の仕立て屋の娘であった。しかしキリスト教徒は、その遺体が仕立て屋に養子に出されていたキリスト教徒の娘のものと主張して譲らなかった。このため、腹に据えかねた多くの住民がユダヤ人を裁くために大通りに集まる騒ぎに発展した。そこで、ラビの訴えもあって地元の司教が仲裁に当たったところ、かろうじてポグロムの発生を食い止めることができたのである。ただし、この事件によってユダヤ人の多くが同島での生活を諦めざるを得ず、富裕層を中心におよそ三千人がイタリアのトリエステやエジプトのアレクサンドリアといった他国のユダヤ人居住区に移住してしまった。
 キエフ
 1911年、ウクライナのキエフにて、儀式のために少年を殺害した嫌疑でメナヘム・メンデル・ベイリースが告訴された。この裁判は帝政ロシアの末期という時勢もあって、リベラル派と保守派との政争にも利用された。ベイリーズの支援には大勢の学生が参加し、彼に有利な世論を形成した。裁判が続けられた二年間、彼は拘置所での生活を余儀なくされたのだが、最終的には陪審員による無罪判決を勝ち取っている。
 ナチス・ドイツ
 ヨーロッパにおける血の中傷を再燃させたのはナチス・ドイツであった。それはアドルフ・ヒトラーの著書『我が闘争』の記述において如実に見て取れる。第三帝国期には実際に血の中傷絡みの訴訟が起こされている。
 キエルツェ
 1946年、ポーランドのキエルツェにて、ユダヤ人が儀式のためにキリスト教徒の子供の血を利用しているという噂が広がり、ポグロムを惹き起こした。

 事の発端は、二日間の行方不明の末に発見された9歳の少年が地元警察での事情聴取の際、ユダヤ人の議会施設に監禁されていたと供述したことにあった。彼はそこでユダヤ人がキリスト教徒の子供を殺害するのを目撃したという。そこで警察は、狂信的なユダヤ人が過越のパンに混ぜる血を採取する目的で殺害したと推理し、捜査のために当該の施設に向かった。すると、噂を聞いて激怒した地元民たちが暴徒と化して警察の後を追って来るのであった。当時現場に居合わせた目撃者によれば、暴徒らはユダヤ人が所有する武器が押収されるのを見ると、家屋に向かって投石を始めたのだが、やがては警察官や軍人までもがその行為に加わり、ついにはポグロムへと発展してしまったという。この騒動によって約二百名いたユダヤ人住民のうち、四十二名が命を落とし、八十名もの負傷者が出たのだが、彼らは皆、ホロコーストの生き残りであった。また、暴徒からも二名の死者が出ている。

 ソビエト政府とポーランドの右派は、このポグロムにはユダヤ人と暴徒の双方に責任があるとして告訴した。暴徒から数名が法廷に立たされたのだが、警察官や軍人は含まれていなかった。それから六十年を経た2006年の追悼式典にて、ポーランド政府はこの事件に関して公式に謝罪し、「キエルツェでの悲劇はユダヤ人だけでなく、ポーランド人に対しても耐え難い屈辱を与えた」と述べている。

 アラブ世界
 20世紀になると血の中傷はアラブ世界にまで浸透している。その背景には中東戦争があった。例えばエジプトではユダヤ人の人身御供の習慣に関する書物が多数出回っていた。また、第二次インティファーダの期間、同国のテレビでは、パレスティナ問題に絡んで血の中傷を煽り立てる番組が盛んに放送されており、中にはアリエル・シャロンがアラブ人の子供の血を飲んだと訴える番組もあった。堪りかねたムバラク大統領は急進的なテレビ番組を非難する声明を発表したが、彼はその声明において「すべてのユダヤ人がそのようなことを行っているのではない」という旨の発言を行っている。これはすなわち、一部のユダヤ人は血を飲んでいると公式に述べたも同然なのであった。またエジプトと同様、第二次レバノン紛争時にはヒズボラも独自のテレビ網を通じて血の中傷を視聴者に吹き込んでいた。

 その他の代表的な中傷

 ホスチアの中傷

 ユダヤ人は血の中傷だけでなく、それ以外の様々な中傷に耐えてきたのだが、そのひとつに、ユダヤ人がキリスト教のミサで用いられるホスチア(薄焼きのパン)を冒涜するというものがある。ホスチアはキリスト教徒によってイエスの体(聖体)の象徴と見なされており、敬虔なキリスト教徒は、ホスチアを刺すとそこから血が滴り出るという話を信じている。

 1290年、パリに住むユダヤ人夫妻に関する中傷が広まった。それによると、この夫妻がとある教会の秘密の部屋で、床が血で溢れかえるまでホスチアを刺していたというのである。異端審問にかけられたふたりは火刑に処せられている。同様の事件は1556年にポーランドのソハシェブでも起きており、三人のユダヤ人に死刑が宣告されている。

 1298年の夏、ドイツでもホスチアまつわる中傷から惨劇が起きている。フランケン地方のレッティゲン(Röttingen)という町のあるユダヤ人の家屋から赤子の泣き声が聞こえたのだが、これが何と、ホスチアの呻き声として噂されたのである。すると「リントフライシュ王」König Rintfleisch(※ドイツ語で「牛肉」を意味するRindfleischとは異なる)と名乗る騎士(屠殺人という説もある)は、 ”天から、聖体に対する冒涜の容疑でユダヤ人を絶滅させる使命を受けた” と宣言。彼の指揮のもとに煽動された群衆が暴徒と化し、4月20日レッティゲン在住のユダヤ人56名を惨殺した。群集はその勢いのまま各地を巡行し、フランケン地方の二大中心都市ヴュルツブルク(7月24日)、ニュルンベルク(8月1日)ほか、バイエルン地方、シュヴァーベン地方などで146もの町を破壊した。今日では、この一連の暴動によって、およそ2万人ものユダヤ人が虐殺されたと見積もられている。(de:Rintfleisch-Pogrom

 ペストにまつわる中傷

 1347年から1350年にかけてヨーロッパで猛威を振るったペストは、全人口の三分の一から半数にあたる約二千五百万人の命を奪ったとされている。この間の1348年から1350年にかけて、井戸に毒を投げ込むユダヤ人についての噂が広まり、血の中傷やホスチアの中傷をも上回る惨劇が起きている。

 ユダヤ人は律法の規定もあって日常的に衛生面や食料には注意を払っていた。それゆえ、ペストによって深刻な被害を受けることがなかったのだが、キリスト教社会ではまだ衛生面とペストの因果関係が認識されていなかったため、両者の被害の差が歴然となっていた。すると、ヨーロッパの各地で、ユダヤ人が世界からキリスト教徒を抹殺するため井戸に毒を投げ込んでいるという噂が立ち、それに殺気立った群集がユダヤ人の集落を襲撃するようになった。放火や略奪を伴った暴動はフランスやスペインの沿岸地域からスイス、ドイツといった内陸地へと波及し、およそ三百のユダヤ人の町が破滅に追いやられた。

 血の中傷の真相

 歴史家たちは、中世において血の中傷が拡散するに至ったいくつかの要因を挙げているのだが、その中でも興味深い、対極的な二つの説を紹介する。

 養育問題

 マグダレーナ・シュルツ女史は、中世の貧困層では児童の待遇が劣悪だった点、特にユダヤ人の家庭での親子関係とキリスト教徒の家庭でのそれは雲泥の差があったと指摘している。また、ユダヤ人の社会では婚姻外交渉によって生まれた子供が殺害されるケースはなかったとしている。シュルツ女史の説明によると、血の中傷とは育児放棄、あるいは児童虐待による子供の死についての弁明であり、家族が負った罪悪感が発露されたものだとしている。この説明に最も該当する例はプルダーにおける粉引きの子供五人が殺された事件で、そのとき起きた血の中傷は、子供たちを家庭内で放置して死なせたことによる良心の呵責から両親を解放したであろうと述べている。

 殉教

 周知のように十字軍の時代、多くのユダヤ人がキリスト教への改宗を迫られたのだが、アシュケナジムの社会では改宗を拒み、子供を殺した上で自殺するユダヤ人が大勢いたという。その理由はキリスト教徒になることに対する抵抗感だけでなく、キリスト教徒によって殺されることに対する屈辱感にもあった。1993年に刊行されたイスラエルの月刊誌『シオン』に寄せた記事において、ヘブライ大学教授イスラエル・ヤアコブ・ユバルは、当時のキリスト教社会ではアシュケナジムによる殉教はよく知られていたため、ユダヤ人は簡単に子供を殺すという先入観を招き、ひいては血の中傷に信憑性を持たせてしまったと主張している。つまり、自分の子供を殺せるのなら、他人の子供など容易く殺せるだろうと思われてしまったのである。過酷な情勢の中でユダヤ人が自らの手で血の中傷を完成させたとするユバルの説はイスラエルでは厳しい非難に遭い、中世史の研究者によるアカデミーにおいては記憶に残る論争を巻き起こした。詩人で文献学者のエズラ・フライシャーはユバルの見解について、「語られていないことこそ語られるべきであった。語られてしまったことは書かれないべきであった。書かれていないことこそ書かれるべきであった。書かれてしまったことは忘れられるべきである」と評している。その他の研究者にとってもユバルの説は、十字軍の後にも長期間、血の中傷が発生していたという現実を踏まえれば、その正当性に疑義を挟まざるを得ない代物でしかなかった。だがユバルにとっては、その後の血の中傷の実在性こそ、殉教に象徴される堅固な文化をアシュケナジムのユダヤ人が育んでいたことの証左になるとしている。



 ★阿修羅♪ > カルト13」の仙芳丸氏の014 年 6 月 18 日付け投稿「アイルランド、スペイン、カナダの集団墓地から30万人以上の子供たちの死体が発見。ナチスの大虐殺は嘘である。ビンさん再登場」。
 昨年春、カナダの先住民インディアンである、モホーク族の寄宿舎で五万人の大虐殺を行なっていたことがあきらかになり、また、先日、アイルランドの「母子収容施設」から約800人の子どもの遺骨がみつかったとの報道があったが、今回の30万人は、それと同じ性質の事件である。6歳を上限とする子供を宗教上の儀式により殺すというなんとも、異常で猟奇的な奴らが偽ユダヤなのだが、これは、元々のユダヤ教ではなく、モロク神という異教から拝借した儀式のようだ。偽ユダヤにとっては、自分たちの仲間以外の人間を殺すことは、とても名誉なことで、誇らしいことであるから、その子供となると、さらに精神が研ぎすまされて、性的興奮を覚えたり、麗しい気持ちになれるということらしい。まあ、ぜんぜん、意味が分からないんだが。

 かつてイギリスでは、ユダヤ人がこんなことばかりするので、たびたびユダヤ人排斥運動がおこり、とうとう、1290年、エドワード1世が、イギリス国内のユダヤ人全員を追放するに至った。この時、1万6000人のユダヤ人が追放されたが、その後、16世紀の宗教改革の時代になって、ヨーロッパ大陸から再びユダヤ人が、帰ってきたらしい。その頃の偽ユダヤの振る舞いについては、かつてルターの文章「ユダヤ人と彼らの嘘」を引用してアップした。キリスト教会の人もこの文章の存在すら知らないという禁書であるが、偽ユダヤの異常行動がよく分かる文章である。

 ユダヤ人について、この種の事件の言及を行なう際には、「根も歯もない噂」とか、「あらぬ噂」などの表現で、言及されているが、今回の30万人虐殺事件報道で、それが真実であること、また、偽ユダヤがカトリック教会に深く侵入していることの二つを、確認することができた。

 と、同時に、どんなに頑張っても虐殺できるのは、子供で30万人くらいだなということも分かり、600万人とも、1000万人ともいわれる、ホロコーストが大嘘だということも、これで判明した。マルコポーロ事件のヌレギヌも晴れたというものだ。そもそも、第一次大戦前の1897年バーゼル会議(第一回シオン会議)において、こんにちのイスラエル国の建設の青写真が話し合われたのだし、そのころから、大きな嘘というか「大きすぎる嘘」をついて、しかも、自分たちへの批判を人間の良心を盾にしてかわした上、イスラエル国を建設させるという、「ホロコースト詐欺」を綿密に計画したのだということを、もう一度、思い起こすべきであり、お前の母ちゃんデーベーソー!と叫んでいた子供時代の捨て台詞が、長い効力を持たないのと同じように、南京大虐殺も従軍慰安婦も同じ作戦であって、誇張された絶対悪を盾にして、自虐的な思考へとみちびくトラウマ手法というのは、偽ユダヤお得の詐欺商法だということに、すでに被害者同盟の非偽ユダヤ人は気付いているが、知らないのは、ココ、花の金融植民地・日本人だけである。

 911詐欺においても、(ポスト先生の丁寧な解説で皆さん重々承知のあれだが)ビンさん歌劇団が悪役を演じて、事を前に進めたのだが、大量破壊兵器がなかった事が分かった後でも、ビンさん一味を使い続け、そして、今回も、またまた、またのイラク攻撃にビンさん一味を使うなど、どんだけ役者不足なのか、こっちが心配してあげないといけない感じだが、帰還兵に寄ってバッジを投げつけられたり、ヨウツベに告発動画を連発されたりと、自国での戦争詐欺商法も、すでにオワコンであるにもかからわず、それでもまたまた、同じ手法で展開してくるとは、よっぽど金のない状況があり、仙芳丸銀行も四代上が一時は金融業に手を出したらしいが、そしてすぐにヘマをこいて止めたらしいが、偽ユダヤも産業革命以後三百年が過ぎようとしている最中、資本主義詐欺を通り越して、戦争詐欺のやり過ぎと、自分たちの先輩が作った商法を猛スピードで口潰しすぎたために、切羽詰まっているというか、むしろ、もう病気であり、麻薬患者の禁断症状がでて、本人も意志決定ができず、発作気味の自動反復運動をしてるというのが、今回のイラク戦争詐欺の状況説明である。世界中で今回の戦争詐欺が通じるのは、日本だけである。











(私論.私見)