サイコパス考 |
更新日/2018(平成30).12.7日
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、「サイコパス考」をものしておく。 2018(平成30).12.7日 れんだいこ拝 |
【小泉首相はサイコパスの典型である】 |
「小泉首相の精神異常の可能性」がとやかく云われ始めている。一般に人をそのように決め付けることは慎重を期したいが、小泉政権時代の売国奴性及び破滅狂的な諸政策による政治責任の重さを考えると判断せねばなるまい。小泉政治の異常性はもはや看過できない。ナベツネが飼育した読売が今なおお先棒を担いで旗振りし続けているが、断じて許し難い。 本稿で、「緊急小泉首相サイコパス論」を打ち出し、認識の共有を得たいと思う。従来、別サイト「小泉首相の詭弁術、非情性に丸め込まれる自称インテリのボンクラ考」、「小泉首相の気質、気性、性格、性癖、能力考」で考究してきたが、ここに「小泉サイコポス論の検証」として纏め一括する。 小泉は、去る日の首相選で「奇人変人」を売り物にした。以来3年有余、小泉首相の「奇人変人」ぶりは冗談のそれではなく真性のものであることが判明しつつある。学術的にはこれをサイコパスというらしい。れんだいこは、小泉首相史の一連の検証で、紛れもなくサイコパスであることを確信する。 政権下野以降の小泉は反原発に転じる等、本稿時点の小泉から転生しつつある。よって多少は書き換えなければならないようにも思う。今はその為の時間がない、と言い訳しておく。 2018(平成30).12.7日 れんだいこ拝 |
【「サイコパス概念」及びその歴史的経緯について】 | |||
れんだいこは、サイコパスという用語を使う。なぜなら、この用語は対象に対して的確な概念規定であると思うから。しかし、サイコパスなる学術用語が歴史的に纏ってきた経緯を考慮すれば、既成既存の解釈をそのまま使う訳には行かない。そういう訳で、この用語を生かして使う以上、既存の解釈の中身を替え、れんだいこなりの新定義を押し出さねばならないと心得る。そうなるとその前に、既存の「サイコパス」がどのように理解されてきたのか見ておかねばならない。 「精神病質(サイコパス) psychopath」、「診断名サイコパス」、「サイコパス」、「サイコパス」その他を参照する。別サイトで、「THE PSYCHOPATH - The Mask of Sanity」を転載しておく。 |
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「サイコパス」は、「サイコ」とも云われ、精神医学用語「Psychopath」のカタカナ訳語である。和訳語としては「精神病質」という概念があてがわれている。1950(昭和30)年から1960(昭和40)年代ごろに広く使われていたが、その定義は定まらぬまま「精神病と正常の中間的病名」即ち「異常だが病気ではではない程度の疾患」として理解されてきた。 歴史上初めてサイコパスについて書いたのは19世紀フランスの精神科医世紀フランスの精神科医・フィリップ・ピネルで、彼は、「譫妄なき狂気」という言葉を使って、「良心や自制心が全くない行動パターン」の説明を試みた。ピネルのサイコパス論については、「ピネルは、サイコパスが『病人』だと考えたが、単なる『悪魔』であるという考えも多く、『病人か悪魔か』という論争は、現在にいたるまで解決の糸口すら見出せないまま、連綿と継いている」と評されている。 サイコパス問題の難しさについて次のように解説されている。
そういうややこしさからであろうか、サイコパス患者も又精神病者同様に待遇され、精神病院に隔離され、時にはロボトミー手術が施術されてきた。しかし、既に、精神病者全般の社会的待遇問題が喧騒されている折柄、ましてや「精神病と正常の中間的病者」であるサイコパスにも精神病者同様の扱いが為されるのは如何か、という問題が発生する。 1960年代に勃興してきた新左翼運動の見地から、若き青年精神科医達が、精神病者及びサイコパス患者の待遇問題を告発した。当時の精神医学界はこの問題で揺れることになった。「精神病質(サイコパス) psychopath」に次のように記載されている。
こういう経緯で、「精神病質」という概念のあやふやさと、その医学的と言うよりも保安処分的な意味合いが追及され、1975(昭和50)年代以降はこの言葉はほとんど使われなくなった。とはいえ、これに該当する病疾者は依然として存在するので、サイコパスという用語の代わりに、「精神病」の響きがない「ソシオパス(社会病質者)」という言葉が使用されることになった。「サイコパスが厳密に言って病気でない以上、psycho=精神、path=病理、という言葉は本来適切ではない」という観点に拠ったものと思われる。 しかし、現在では、サイコパスもソシオパスという言葉も学術用語としては使われていない。アメリカ精神医学会の分類マニュアル等からも削除されており代わりに、「反社会性人格障害(APD)」という名称に変更・統一されている。その意味するところ、「異常だが病気ではない性格異常」的認識を強めていることになる。いずれにせよこれに相当する患者は人口の凡そ1%程度いると推定されている。 「サイコパス、ソシオパス、反社会性人格障害(APD)」、そのどちらの用語を選ぶかは、精神異常の内容と原因を診断者がどう考えているかによる。この臨床的症候群のうち生物学的・遺伝学的・心理学的要因を重視する学者は、サイコパスと呼ぶ。社会の影響や幼年期の経験に由来すると考える学者(社会学者・犯罪学者)は、ソシオパスという言葉を使う。それらを踏まえて「病疾ではなく反社会性人格障害である」と考える学者は反社会性人格障害(APD)と云う。学問的には決着が付いておらず、「誰が診断するかによって診断名が異なる」状況にある。 サイコパスの発生原因は分かっていない。また、いったん青年期に入るとほぼ治癒が不可能であることが経験的に明らかになっている。学者の意見を総合すると、遺伝的要因と幼少期の環境が両輪になっているという結論になる。しかし、この観点で充分であるとは思えない。これについては後にれんだいこ観点で補強、訂正することにする。 サイコパスの治療法について次のように述べられている。
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【サイコパス規定の留意点について】 |
以上を踏まえれば、サイコパスの定義を正確にしておかないといけないと思う。サイコパスという言葉を使うに当たっては、この用語が纏う以上の様な歴史、規定上の曖昧さを踏まえておかねばならない。従来の保安処分対象理解からくる措置に対しては、東大精神科医師連合が厳しく批判してきたところである。安易に先天性気質疾患あるいは脳疾患ないしはホルモン変調ないしは遺伝子レベルの問題に収斂させ、特別犯罪者扱いし、保安処分の対象者扱いしていくのは人権侵害であろう。 精神病者に対する待遇も又種々論があるところであるがここでは述べない。ここで触れてみたいことは、サイコパスが精神病者と同様に措置されることの危険性についてである。なぜなら、人は誰しも云われるところのサイコパス的要素を持っており、人は正常の状態において誰しもある種のサイコパス者であるから。要は程度問題に過ぎない面もあるのだから。そういう意味で、サイコパス患者見立ての仕切り線が難しい。故に、他人事ではないという観点からサイコパスの定義をしていかなければならないであろう。故に、誰が何の権限に基づいて「見立て」るのかの限定が無いままにサイコパス診断が為されていくと恐ろしいことになる。サイコポス規定にはそういう弁えが必要ということになる。 れんだいこは、サイコパスという病疾を認め、とりあえずそれを程度問題として理解する。逆に云えば、ある一線を越せばはっきりとサイコパスとして認識せざるを得ないという観点を持っている。 |
【通説「サイコパスの特徴」について】 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
サイコパス者の特徴をれんだいこが概括すれば、通俗的には次のように云われている。「精神病質(サイコパス) psychopath」、「診断名サイコパス」、「サイコパス」、「サイコパス」その他を参照するが、範疇の括り方が雑なので、れんだいこ風に整理する。 小泉首相を念頭において書き上げたので、ピッタリし過ぎるであろう。あまりに当てはまり過ぎ気味が悪い。
このようなサイコパスの性癖は通常、「異常性格、人格異常」と見なされる。「社会の捕食者」とも評されている。近年、「反社会性人格障害(APD)」という名称があてがわれているが、なるほどこの方が正確かも知れない。 サイコパスを狭義に理解するのか、広義に理解するのかという問題もある。狭義では、粗暴犯サイコパスが典型となる。次に知能犯サイコパスが順ずる。広義では、一見正常サイコパスまで含まれる。しかし、広義になるとその他健常人との仕切りがはっきりしなくなる。他に、「政治的サイコパス」というのも考慮せねばならない。 この特徴を、「生まれつきの脳疾患ないしはホルモン異常ないしは遺伝子異常」というように何らかの病理学的疾患と結びつけて理解しようとするのが既成のサイコパス学であった。れんだいこは、サイコパスを病理学的疾患と結びつけるのには反対である。そこに原因を求めるのは却ってサイコパス定義をややこしくするように思われる。認められる線として、「社会環境説」又は「トラウマ説」の方が考慮に値すると思われる。いずれにせよ、サイコパス論の奥行きは深く、「異常」とは何かという人間論的、哲学的・形而上学的な問題にまで話が及んでしまう。 |
【れんだいこ式サイコパス論】 | |||||
れんだいこは、「サイコパス」を次のように理解する。
れんだいこは、最近問題になりつつある「適応型サイコパス」のうち最も危険な「悪魔主義被れサイコパス」に注目している。「阿修羅雑談2」のHAARP氏の2003.8.27日付投稿文「欲しいものは何が何でも欲しいという幼児的ドライブが高度な知性と同居する」の中で次のように記されている。
ここで云う「かの勢力」とは何ものか。曖昧多義的に述べられているが、れんだいこ流に直截に述べれば、「シオンの議定書派の流れにしてユダヤ王国再建世界征服思想を持つ現代世界の最大権力体であるネオ・シオニスト」ということになる。ここから論を組まないと「悪魔主義被れサイコパス」が見えてこない。よって、れんだいこは次のように見立てる。
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【「小泉首相売国奴性サイコパス」論の検証】 | |||||
上記のれんだいこ式サイコパス論に基づけば、小泉は、「典型的な政治的サイコパス人間」であることになる。小泉首相の行状を評するのにその程度は重度サイコパスの域に入っているように思われる。れんだいこは、彼ほど適切なサイコパス的人間を知らない。従って、れんだいこは、小泉首相をサイコパスと認定する。 |
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「スキャンダル大戦争8」(鹿砦社刊)は早くよりこの問題を指摘している。前レバノン大使の天木直人氏と国際政治コメンテーターの藤原肇氏との対談に次のような一節がある。
但し、同対談では、田中真紀子をもそのように見なしているが、これはれんだいこのとる立場ではない。せっかくの対談の冴えを台無しにしていると受け止めている。 |
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2003.8.27日付けHAARP氏の「欲しいものは何が何でも欲しいという幼児的ドライブが高度な知性と同居する」が:割合早くより「小泉首相サイコパス論」に触れている。既に取り込み済みのところ以外で重要な指摘の部分を紹介する。
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「阿修羅・政治、選挙6」の2004.10.10日付けものぐさ太郎氏「小泉純一郎はサイコパスか精神異常者か」は次のように指摘している。
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2004.10.20日付 Dr.ブッシー氏「Re: 小泉純一郎のサイコパスは確実である」は次のように指摘している。
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以上簡略ながら、「サイコパス首相小純一郎論」を述べてきた。このサイコパス首相を持ち上げ追従してきた者達は、当然にその責を歴史に負うべきであろう。一々誰とは云わないが、れんだいこはしっかりノートしておくぞ。 2005.5.23日 れんだいこ拝 |
【悪魔的政治術を駆使するネオ・シオニストの政治思想考 】 | |||
ジョン・コールマン博士(文脈からそう思われる)は、1983年、「タヴィストック研究所‐‐不吉かつ破壊的なるもの」、「タヴイストック研究所。アメリカの政策に対する英国の支配」を著し、現代米国を襲っている「黒魔術的陰謀政策」を告発している。博士は同書の中で、タヴィストック研究所の重鎮で300人委員会のキーパーソンのクルト・レウィンの悪魔的政治学の手法を暴いている。 これは、マリリン・ファーガソン著「アクエリアン革命」(「水瓶座の陰謀」)で明らかにされた。同書には次のように記されている。
れんだいこは、以上のように纏めたが、原文は次の通りである。 「阿修羅雑談2」のHAARP氏の2003.8.27日付投稿文「欲しいものは何が何でも欲しいという幼児的ドライブが高度な知性と同居する」の後半で興味深い指摘が為されているので、消されないうちに転載しておく。
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【小ネズミエール考】 |
そういう小ネズミをエールし続ける提灯屋の弁を検証しておく。角栄研究でその名を知られている作家の大下英治氏は、「小泉純一郎という政治家の〝喧嘩師〟としての胆力」、「任侠宰相」、「最近の政治家の中で、小泉ほど度胸の据わった喧嘩上手はいない」等々と囃し始めている。 |
(私論.私見)