以下は「日本人が知らない さらに恐るべき真実」、「タルムードの位置づけ.編纂史」からの引用です(見出しはタコ)。
 ①、あんたら何様?

 「掟の言葉より法師の言葉を敬え」〈アシ法師〉、「律法は多少とも重要ではあるが、長老方が聖典に記された言葉は常に重要である」〈アシ法師〉、「汝知るべし、法師の言葉は、預言者の言葉より美しい、と」〈アシ法師〉。「教法師の言葉は、生ける神の言葉なり」〈ベハイ法師〉。「教法師の日常の言辞も、戒律同様に重んずべきなり」(1516年版ヴェネツィア版ミトラッシュ)。「ラビの言葉を変える者は死罪に処すべきである」(エルビン、ニーのb)。「ラビの命令は聖書の命令よりも重要である。ラビの命令に従わないものは誰でも死に値し、沸騰している糞の地獄で懲らしめを受けるだろう」(エルビン21b)。「ラビの言葉に背くことはトーラー(モーセ五書)に背くことより、さらに悪い」(ミズナ、サンヘドリン、十の三)。

 ②、おいおい……

 「神は夜の間にタルムードを学び給う」(メナヘム・ベン・シラ法師)。「天上に於(お)いて困難なる問題の生じる時、主なる神この世の法師にも諮問(しもん)し給(たま)う」(メナヘム・ベン・シラ法師)。「エホバは天国にあって刻苦勉励(こっくべんれい)してタルムードを学び給う。それほどこの書物に敬意をはらわれているのである」(メチラ訳)。「天上にも地上と同じ数の高等なる学園あり。神もそこにて熱心にタルムードの研究に従事する」(ロイベン法師)。「タルムードの決定は生ける神の言葉である。エホバも天国で問題が起きたときは、現世のラビに意見を聞き給う」(ラビ、メナヘン、第五書の註解)。「あるラビは神と討論し彼を打ち負かした。神はラビに負けた事を認めた」(パパメツイア59b)。

 ③、あれ!?
 「“汝殺すなかれ、との掟は、イスラエル人を殺すなかれ、との意なり。ゴイ(非ユダヤ人)、ノアの子等、異教徒はイスラエル人にあらず”」〈モシェ・バル・マエモン〉。「ノアの息子は小銭たりとも盗めば死罪に処せられるべきであるが、イスラエル人がゴイに損害を負わせることは差し支えない。汝の隣人を傷つけるなかれとは書いてあるが、ゴイを傷つけるなかれとは書いていない」(ミズナ、サンヘドリン、五七)。

 ④、??何??
 「全てゴイは月経時の子にして、根絶されるものなり」〈ベハイ法師〉。

 以上引用終わり。

 ①のようにモーセ五書より法師、教法師、ラビの教えが優先されるなんてところで、すでにトンデモな話ですが、②では完全に神を冒涜していますよね。この時点で、タルムードの一部が悪魔の聖典だと言うことがよくわかります。何故、神を敬うはずのラビ達が、実は神を敬う気持ちがさらさらないのか?というのは、③と「エノクの黙示録」をよく読めば分かりますが、堕天使とその息子達の霊が、神と人類に対して“八つ当たり”しているわけですね。アブラハムもイサクもヤコブもダビデもソロモンもユダヤ人も全人類もノアの子孫ですからね。しかし、最も注目すべきことは④で、月経を経ずして生まれるものって、何???鶏の一部は日経又は2~3日から週経で、は虫類・鳥類は年経又は半年経……??やはり、彼らは実在するようですね。

 「木が良ければその実も良いとし、木が悪ければその実も悪いとしなさい。木の良し悪しは、その結ぶ実でわかる。蛇よ、マムシの子らよ、あなた達は悪い人間であるのに、どうして良い事が言えようか。人の口からは、心に溢(あふ)れている事が出てくるのである。善い人は、良い物を入れた倉から良い物を取り出し、悪い人は、悪い物を入れた蔵から悪い物を取り出してくる」(マタイによる福音書』12:33~35)。

 「律法学者達とファリサイ派の人々、あなた達偽善者は不幸だ。預言者の墓を建てたり、正しい人の記念碑を立てたりしているからだ。そして、『もし先祖の時代に生きていても、預言者の血を流す側にはつかなかったであろう。』などと言う。こうして、自分達が預言者を殺した者たちの子孫であることを、自ら証明している。蛇よ、マムシの子らよ、さっさと自分達の先祖が始めた悪事の仕上げをしたらどうだ。蛇(レプティリアン=爬虫類人)よ、マムシの子らよ、どうしてあなた達は地獄の罰を免(まぬが)れることが出来ようか」(マタイによる福音書』23:23~33)。

 「彼らは(ユダヤ教)を信仰する者に会えば、『私達は信仰する。』と言う。だが彼らが仲間の悪魔(シャイターン)達だけになると、『本当はあなた方と一緒なのだ。私達は、ただ(信者達を)愚弄(ぐろう)していただけだ。』と言う。だが神(アッラー)は、このような連中を愚弄し、不信心のまま放置し、あても無くさ迷わせられる」(アル=クーラン2:14)。

 「あなた方は、彼ら(ユダヤ人)があなた方を信じることを望めようか。彼らの中の一団は、神のお言葉を聞き、それを理解したあとで故意にそれを書き換える。(中略)災いあれ、自分の手で啓典を書き、わずかな代償を得るために、『これは神から下ったものだ』と言う者に。彼らに災いあれ、その手が記した物のために。彼らに災いあれ。それによって利益を得たために」(アル=クーラン2:75~79)。