イエスの概要履歴その5 | イエス処刑以降の使徒の動き(「使徒行伝」) |
(最新見直し2006.11.3日)
これより以前は、「イエスの概要履歴その4、拘束から処刑されるまで」
【イエス派高弟12使徒の困惑】 |
新約聖書のイエス伝各書は、イエス処刑直後のイエス派高弟12使徒の様子を全く記していない。れんだいこは、イエスの薫陶を受けた高弟達さえも何の役にも立たず大いに信仰が揺らいだものと思われる。それを記すことはイエスキリスト教史にはよほど不向きであることから割愛されていると推測する。しかし、イエスの埋葬地を廻る不思議な事件が相次ぎ、幻影的にイエスが登場するなどしたことからイエスの復活が信じられていく。それと共に、一旦はちりぢりになった弟子たちがイエス信仰を再開し始める。 |
【イエスの復活】 | |
百人隊長がイエスのそばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「本当に、この人は神の子だった」と言った。また、婦人たちも遠くから見守っていた。その中には、マグダラのマリア、小ヤコブとヨセの母マリア、そしてサロメがいた。この婦人たちは、イエスがガリラヤにおられたとき、イエスに従って来て世話をしていた人々である。なおそのほかにも、イエスと共にエルサレムへ上って来た婦人たちが大勢いた。 既に夕方になった。その日は準備の日、すなわち安息日の前日であったので、アリマタヤ出身で身分の高い議員ヨセフが来て、勇気を出してピラトのところへ行き、イエスの遺体を渡してくれるようにと願い出た。ピラトは、イエスがもう死んでしまったのかと不思議に思い、百人隊長を呼び寄せて、既に死んだかどうかを尋ねた。そして、百人隊長に確かめたうえ、遺体をヨセフに下げ渡した。ヨセフは亜麻布を買い、イエスを十字架から降ろしてその布で巻き、岩を掘って作った墓の中に納め、墓の入り口にとても大きな石を転がしておいた。 マグダラのマリアとヨセの母マリアが、イエスの遺体を納めた場所を墓守していた。安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った。そして、週の初めの日の朝ごく早く日が出るとすぐ墓に行った。彼女たちは、「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていた。来てみると、墓の入り口に置かれていた石がわきへ転がされていた。 墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚いた。若者は言った。
「イエス復活神話」はここに端を発する。イエスは生前「自分は三日後に復活する」と宣べていたことが重なり、俄かに真実味を帯び始めた。しかし、当初はやはり驚きであった。次のように記されている。 婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。それは恐ろしいできごとであった。婦人たちは「天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げた」ことを使徒たちに話したが、使徒たちは、婦人たちの言を信じなかった。 明くる日、すなわち、準備の日の翌日、祭司長たちとパリサイ派の人々は、ピラトのところに集まって、こう言った。「閣下、人を惑わすあの者がまだ生きていたとき、『自分は三日後に復活する』と言っていたのを、わたしたちは思い出しました」。 |
【イエスの幻影宣教】 | |||||
復活したイエスは、マグダラのマリアの前に現われた。次のように記されている。
イエスは、近寄って来て宣べられた。
ユダを除く十一人の使徒が食事をしているとき、イエスが現れ、その不信仰とかたくなな心をおとがめになった。復活されたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである。それから、イエスは言われた。
主イエスは、弟子たちに話した後、天に上げられ、神の右の座に着かれた。 |
【使徒のキリスト活動】 | |||
ペトロとヨハネは、イエス復活の奇跡を確信し、イエスが間違いなく「主」であったと気づいた。かくしてエルサレムで伝道活動を開始した。聴衆の中には、パルテア人、メジャ人、エラム人、メソポタミア、ユダヤ、カパドキヤ、ポント、アジア、フルギヤ、パンフリヤ、エジプト、リビアの人たちが居た。ペトロは次のように宣言した。
二人が民衆に話をしていると、祭司たち、神殿守衛長、サドカイ派の人々が近づいて来た。二人が民衆に教え、イエスに起こった死者の中からの復活を宣べ伝えているので、彼らはいらだち、二人を捕らえて翌日まで牢に入れた。既に日暮れだったからである。しかし、二人の語った言葉を聞いて信じた人は多く、男の数が五千人ほどになった。 次の日、議員、長老、律法学者たちがエルサレムに集まった。大祭司アンナスとカイアファとヨハネとアレクサンドロと大祭司一族が集まった。そして、使徒たちを真ん中に立たせて、「お前たちは何の権威によって、誰の名によってああいうことをしたのか」と尋問した。そのとき、ペトロは聖霊に満たされて言った。
議員や他の者たちは、ペトロとヨハネの大胆な態度を見、しかも二人が無学な普通の人であることを知って驚き、また、イエスと一緒にいた者であるということも分かった。しかし、足をいやしていただいた人がそばに立っているのを見て、ひと言も言い返せなかった。そこで、二人に議場を去るように命じてから、相談して、言った。「あの者たちをどうしたらよいだろう。彼らが行った目覚ましいしるしは、エルサレムに住むすべての人に知れ渡っており、それを否定することはできない。しかし、このことがこれ以上民衆の間に広まらないように、今後あの名によって誰にも話すなと脅しておこう」。 そして、二人を呼び戻し、決してイエスの名によって話したり、教えたりしないようにと命令した。しかし、ペトロとヨハネは答えた。
議員や他の者たちは、二人を更に脅してから釈放した。皆の者がこの出来事について神を賛美していたので、民衆を恐れて、どう処罰してよいか分からなかったからであった。 |
【ステファノの殉教】 | |
ギリシャ人の弟子ステファノは、律法学者らに捕らえられ、衆議会に引き立てられた。彼が所信を述べたところ、群衆は彼を町の外に引き出して、石を投げて殺した。ステファノは最後に次のように述べたと伝えられている。
これには後日談が有る。この時、一部始終を見ていたのがサウロという青年で、ローマ市民権を持つ父と熱心なユダヤ教徒の母との間にタルソで生まれ、既にエルサレムで有名なラビ(教師)ガマリエルについてユダヤ教義を修得していた。忠実なパリサイ派で、異端者ステファノ殺害是認の立場で眺めていた。以降も、イエスの弟子たち根絶を使命に各地を回っていた。 その途次、ダマスコの近くで突然天からの光に包まれ、地に倒れた。自分の名前を呼ぶ声を聞いた。「あなたはどなたですか」と問うと、声の主は、「私はお前が迫害しているイエスである」と次げた。サウロは一転して回心し、その後使徒となり、イエス教の熱心な宣教者となった。彼がパウロである。 |
【パリサイ派の政策転換】 | |
大祭司とその仲間が、イエスの使徒を捕え、イスラエルの子らの長老会全体の会議である最高法院を開き使徒を裁き始めた。イエス死してなお復活が囁かれ信仰が継続している問題について話し合い、対応を協議する為であった。 議論は百出したが、民衆全体から尊敬されている律法の教師で、ファリサイ派に属するガマリエルという人が、議場に立って、使徒たちをしばらく外に出すように命じ、それから、議員たちにこう言った。
一同はこの意見に従い、使徒たちを呼び入れて鞭で打ち、イエスの名によって話してはならないと命じたうえ、釈放した。それで使徒たちは、イエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜び、最高法院から出て行き、毎日、神殿の境内や家々で絶えず教え、メシア・イエスについて福音を告げ知らせていた。 |
【原始イエスキリスト教が開教する】 |
イエスの死後、イエスの復活が信じられ、12使徒達が再結集し、イエスの行状と弁証を想起し、イエスをキリストとして再認識しつつイエスの御教えを伝道して行くことになった。この頃はイエス教と称されるに相応しい。 最初に、エルサレム教会が創設された。主としてペトロが主導し、禁欲主義の下に財産を共有して生活をする一種の修道的な教団を形成し、布教活動を開始した。パウロが加わり、使徒立ちはシリア、小アジアなどパレスティナ以外の地にイエス教を広めていった。この間、ユダヤ教パリサイ派による迫害が続いており、イエス派は各地に離散した。その先で精力的な伝道を展開した為、異邦人の改宗者が多数加わり、パウロ主導によりアンティオケイア教会が設立された。た。こうして、イエス教はエルサレム教会とアンティオケイア教会の二派により反目しつつ牽引され教勢を伸ばしていくことになった。 当初エルサレム教会の最高指導者であったペトロが殉教すると、イエスの兄弟または親戚と考えられている「主の兄弟」ヤコブが代わりの指導者になった。ヤコブはキリスト教共同体の最長老格として君臨し、エルサレムで使徒会議を主宰し、異邦人への文化適合を重視するアンテオケ教会と、律法の厳格な遵守を重視するエルサレム教会の間の激しい対立を仲介し、妥協案を提示して解決を図った。 妥協案成立以降、エルサレム教会とアンティオケイア教会はそれぞれ別個に管区を設置し、相手の管区に対しては干渉や越権行為を行わないこととした。パウロの用語で「自分の割り当てられた範囲内で誇る」と言われる管区の独立性と自治性は、その後設置されたアレクサンドリア、コンスタンティノープル、ローマの各管区の在り方を基礎付ける原則となり、さらに、古代教会における教区裁治権の前提となった。 ローマ帝国において、キリスト教は瞬く間に人々の間に広がっていった。殺されても、殺されても、殉教者は後を絶たなかった。ユダヤ会堂がユダヤ教と決別してイエスキリスト教に転換する事例も出てきた。 1世紀から2世紀にかけて、イエスキリスト教とユダヤ教の教徒間の抗争が熾烈になっていた。この間、次第に教義形成され、ユダヤ教に対抗する新教として生み出されていった。これがいわゆる原始キリスト教と称せられるものである。原始キリスト教時代にあっては、彼らは引き続きユダヤ教神殿派の律法学者、パリサイ派らのサタン同盟から迫害され続けた。 50年頃、パウロは、アテネ近くのコリントに教会を建て、その後エフェソに向かい、コリントの信者たちに手紙を書き送った。福音書より20年前のことである。、 |
【使徒ペテロ考】 |
「ウィキペディアのペトロ」その他を参照する。 |
ペトロ(本名はシモン・ペトロ。ケファともいわれる。生年不明-67年?)は、イエス・キリストに従った使徒たちのリーダーで新約聖書に登場する人物。カトリック教会はじめ多くのキリスト教派において聖人であり、その記念日は6.29日である。本名はシモンであるが、イエスにより「ケファ」(アラム語で岩という意味)というあだ名で呼ばれるようになった。パウロも書簡の中で、ペトロのことをケファと呼んでいる。後に同じ言葉のギリシア語訳である「ペトロス」(主格。格変化語尾を除いて名詞幹のみにした慣用日本語訳表記で「ペトロ」となる)という呼び名で知られるようになる。この名はイエスが「私はこの岩の上に私の教会を建てる」(マタイ16:17-19)と言ったことに由来している。この一節は全ての共観福音書に見られるが、ただマタイのみが「天の国の鍵」をペテロが受けるだろうとしている。
マタイによる福音書、マルコによる福音書によればペトロはガリラヤ湖で弟アンデレと共に漁をしていて、イエスに声をかけられ、最初の弟子になった。ルカによる福音書ではイエスとの出会いはゲネサレト湖の対岸にいる群衆への説教に向かうイエスが彼の船を使った時とされる。伝承ではペトロはイエスと出会った時には既に比較的高齢であったという。共観福音書はいずれもペトロの姑がカファルナウムの自宅でイエスに癒される姿を記している。ここからペトロが結婚していたことが分かる。幾つかの伝承ではペトロに娘がいたとも伝えている。 ペトロは弟子のリストでも常に先頭にあげられており(マタイ10:2ほか)、イエスの問いかけに弟子を代表して答えていること(マタイ16:16)などから、イエスの存命中から弟子たちのリーダー的存在であったことがうかがわれる。また、イエスの変容(姿が変わって神性を示した出来事)をペトロはヤコブとヨハネの選ばれた三人だけで目撃している。イエスの受難においてペトロが逃走し、イエスを否認したことはすべての福音書に書かれている。また『ヨハネによる福音書』によれば、イエスの復活時にはヨハネと共にイエスの墓にかけつけている(ヨハネ20:1-10)。 使徒言行録ではペトロはエルサレムにおいて弟子たちのリーダーとして説教し、イエスの名によって奇跡的治癒を行っている。やがてヤコブ (イエスの兄弟)がエルサレム教団のリーダーとして活躍しはじめると、ペトロはエルサレムを離れ、各地を巡回するようになる。カイサリアではコルネリウスというローマ帝国の百人隊長に教えを説いている。「コリントの信徒への手紙一」によれば、ペトロは妻を連れて各地の教会をめぐっていたようである(一コリント9:4)。 外典である「ペトロ行伝」にも見られる伝承では、ペテロはローマへ宣教に出向き、ネロ帝の迫害下で逆さ十字架にかけられて殉教したとされている。次の逸話がある。ペトロが迫害の激化したローマから避難しようとアッピア街道をゆくと、師のイエスが反対側から歩いてくる。彼が「主よ、どこへいかれるのですか?(Domine, quo vadis?)」と問うと、イエスは「お前が布教に行かないので、もう一度十字架にかけられるためにローマへ赴く」と答えた。彼はそれを聞いて悟り、殉教を覚悟してローマへ戻ったという。このときのペトロのセリフのラテン語訳「Quo vadis?(クオ・ヴァディス)」(「どこへ行くのですか」の意)はよく知られるものとなり、1896年にはポーランドのノーベル賞作家ヘンリック・シェンキエヴィチがローマにおけるキリスト教迫害を描いた同名小説を記し、ハリウッドでも同名タイトルで映画化されている。 カトリックではペトロを初代のローマ教皇とみなす。これは「天の国の鍵」をイエスから受け取ったペトロが権威を与えられ、それをローマ司教としてのローマ教皇が継承したとみなすからである。一方東方正教会などではペトロが初代アンティオキア主教であり、のちにローマにいきその初代主教となったとするが、全世界の教会に対する権威をペトロがもっていたとは認めていない。さらに司教ないし主教という役職は、キリスト教が発展するなかで生じたものであり、ペトロの時代にはまだそのような意識はなかったはずだとする意見もある。
一方、カトリックから分離した経緯をもつプロテスタント諸教会では、ペトロの権威は継承されるものでなく、彼一代限りのものであるという解釈を示している。また多くのプロテスタント教会ではペトロを「聖ペトロ」と呼ぶことはしない。 新約聖書の公同書簡に属する「ペトロの手紙一」と「ペトロの手紙二」はペトロの書簡という体裁をとっているが、現在では彼自身のものではないというのが通説になっている。アラマイ語を母語とする漁師出身のペトロが、書簡に現れる一定の水準をもったギリシア語をつづる能力があったと考えることは困難である。ただし第1書簡については、ギリシア語を話すペトロの同伴者のもので、比較的よくペトロの思想を反映している可能性を指摘する学者もいる。第2書簡は、2世紀以後の著作である可能性が指摘される。第2書簡が正典視されたのは4世紀半ば以後であり、シリア教会では6世紀まで第2書簡を正典には数えなかった。 また新約外典のなかにも、「ペトロの黙示録」などペトロの名を関した文書があるが、これらは初代教会の時代からペトロのものとは考えられておらず、正典におさめられることがなかった。 |
【使徒パウロ考】 | |
「ウィキペディアのパウロ」その他を参照する。 | |
パウロ(希 Paulos,、英 Paul、紀元前後に誕生 ?-65年?)は、新約聖書の著者の一人である。但し、彼は、イエスの直弟子ではなく「最後の晩餐」に連なった十二使徒の中には数えられない。ヘブライ名で「サウロ」とも呼ばれる。古代ローマの属州キリキアの州都タルソス(今のトルコ中南部メルスィン県のタルスス)生まれのユダヤ人であった。 新約聖書の「使徒行伝」で、パウロの入信経緯が記されている。それによれば、パウロの職業はテント職人で、生まれつきのローマ市民権保持者でもあった。元々は熱心なユダヤ教徒であり、ファリサイ派に属し、エルサレムで高名なガマリエル1世(ファリサイ派の著名な学者ヒッレルの孫)のもとで律法を学んだ。この頃キリスト教徒を迫害する側についていた。 パウロの著作には新約聖書中『ローマの信徒への手紙』『コリントの信徒への手紙一』『コリントの信徒への手紙二』『ガラテヤの信徒への手紙』『フィリピの信徒への手紙』『テサロニケの信徒への手紙一』『テサロニケの信徒への手紙二』『フィレモンへの手紙』がある。『コロサイの信徒への手紙』がパウロの真正書簡であるかは議論があり、『エフェソの信徒への手紙』およびいわゆる牧会書簡(『テモテへの手紙一』、『テモテへの手紙二』、『テトスへの手紙』)はパウロを擬してパウロの死後書かれたとする見方が今日では一般的である。なお伝統的にパウロ書簡とされる『ヘブライ人への手紙』は近代までパウロの手によるとされていたが、そもそも匿名の手紙であり、今日では後代の筆者によるものとする見方が支持されている。他にもパウロの名を借りた「パウロの黙示録」「パウロ行伝」といった外典も存在し、パウロという人物の影響力の大きさを物語っている。 パウロの最後の言葉は次の通りである。
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(私論.私見)