イエスの概要履歴補足1 「イエスの教義考、山上の垂訓考」

 (最新見直し2006.11.2日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 「山上の垂訓」として知られるイエス教義の骨格を検証する。「マタイ伝」、「マルコ伝」、「ルカ伝」、「ヨハネ伝」その他を参照するが、各伝はそれぞれ異なった記述となっており、それをそれぞれ検証していくのは別稿で行うとして、ここではれんだいこが意訳しつつ概要次のように宣べられたのではないかと推定することにする。但し、これ以前に宣べられた御教えと後に宣べられたイエス教義をもここで一括することにする。

 「山上の垂訓」は、ヨハネの教えを更に磨いて練っており、時の支配的仕組み、思想、論調を徹底的に批判している。信仰の内面性を重視し、教義に対する忠実さを求めており、一種の宗教革命を呼びかけている。非常に多岐にわたって論を展開しており、巧みに例えを使って諭しており、名言にちりばめられている。

 以下、「山上の垂訓」の論旨を要点整理する。総論として、1・体制派の信仰批判、2・真の信仰の義の称揚、3・「愛の哲学」を諸事作法とせよの3観点を説いている。その上で、パリサイ派の虚礼挙式、虚偽、欲張り、残忍、報復主義等々を鋭く批判している。これを検証する。


 2006.11.2日再編集 れんだいこ拝


【「山上の垂訓」の論理考】
 イエスの教義を総論と各論に仕分けして整理してみる。まず、イスラエルの律法学者及びパリサイ派、次にサドカイ派(これを仮に神殿本部派と云うことにする)の信仰実態を次のように批判している。これを仮に「総論1、神殿本部派(律法学者、サドカイ派、パリサイ派)の信仰実態批判」とする。

 イエスは、ヨハネ教義を継承して次の御言葉から説き起こしている。
 信仰心篤くして欲すれども為し得ない貧しき者は幸いである、天国は彼らのものである」(マタイ伝5章1-3節)。
(私論.私見)

 イエスは、ヨハネの言葉を語ることにより、ヨハネの信仰を受け継ぐ者であるとの立場を鮮明にしている。通常「貧しき者は」と訳されているが、「義の為に貧しき人は」という意味であり、れんだいこは「信仰心篤くして欲すれども為し得ない貧しき者は」と意訳した。この後の言葉との辛みで、こう訳す方が適切と思われる。 

 2006.11.2日 れんだいこ拝

 以下、神殿本部派の説く教義を全面否定し、諄々と新しい道を説いた。イエス教義はここに歴史的意義が認められる。イエスは、神殿本部派に対して次のように批判した。
 意訳概要「彼らは宮殿で、しなやかな長い服、華やかな衣を着て歩き回りたがり、人目につくことを好み、広場で挨拶したがる。会堂では上席、宴会では上座に座ることを好む。そして、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをしながらぜいたくに暮らしている。彼らは義の人を自認して品行法制を嘯き、他方で人を見下げている。こういう人たちは、『見ても見えず、聞いても理解できない』人たちである」。
 「イザヤの預言はかく述べている。『あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、見るには見るが、決して認めない。この民の心は鈍り、耳は遠くなり、目は閉じてしまった。こうして、彼らは目で見ることなく、耳で聞くことなく、心で理解せず、悔い改めない。わたしは彼らを癒さない』。彼らの行状はここに戒められている通りのものである」。
 「律法学者、パリサイ派の人たちは、イザヤの預言そのままを実現している。彼らは御言葉を聞くが、世の思い煩いや富の誘惑が御言葉を覆いふさいで、実らない人である。そういう者達が権勢を振るっている現在は、神に背いた罪深い時代である。このような者たちは、裁きの日には人一倍厳しい裁きを受けることになる」。
(私論.私見)

 キリスト教団は、次のように評している。
 概要「律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れた。いまだかって、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである」。

 これがキリスト教の一般的受け取りようであるが何と味気ないことだろう。イエスは、ここではっきりとヨハネ以来の信仰の内面性重視を踏襲する立場から、神殿本部派の制度主義、それによる聖なる信仰世界に於ける俗化の持込みを直接的に厳しく批判している。この指摘を拝さねばならない。

 2006.11.2日 れんだいこ拝

 次に、イエスは、神の御業を畏敬し、その偉業を信奉するよう宣べ、信仰に於ける真の信仰の意義を次のように称揚している。これを仮に「総論2、全知全能の神の御業(技)を知れ。真の信仰の義の称揚」とする。
 『神にできないことは何一つない』。主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返される。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」。
(私論.私見)
 
 これも間接的な本部神殿派批判であり、神の御業を畏れぬ本部神殿派の信仰の在り方を衝いている。

 2006.11.2日 れんだいこ拝

  次に、イエスは、「この世で一番大事なものは愛である。人は須らく愛で応接せよ」と宣べ、全てを癒す新しい思想として次のように「相互博愛主義」を諭している。これを仮に「総論3、「愛の哲学」を諸事作法とせよ」とする。
 「私があなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である」。

(私論.私見)

 イエスは、パリサイ派教義のように人の罪を裁くのではなく、「あなたの罪は赦された。悔い改めよ」と宣べ、今後の生き方、心の持ち方を重視した。逆に言えば、神殿本部教義派の「今後の生き方、心の持ち方」を問わない非信仰的政治的懲罰主義を批判したことになる。その上で、相互博愛主義を諭した。それは、単に受け取るのではなく、本部神殿派の教理否ユダヤ教の教理に対する鋭い批判であり、新テーゼの提起であったとして拝さねばならない。

 2006.11.2日 れんだいこ拝


【「山上の垂訓」各論概括】
 以上を総論として、各論的に次のように宣べている。
 各論1、御教えの原義に立ち戻れ。
 「私が律法や予言者を廃する為に来たと思ってはならない。廃する為ではなく、成就する為に来たのである。よく云っておく。天地が滅び行くまでは、律法の一点一画も廃(すた)ることなく、ことごとく全(まっとう)されるのである」。
(私論.私見)

 イエスはここで、興味深い立場を明らかにしている。律法や預言の否定の立場からの神殿本部派批判ではなく、律法や預言の成就の為に神殿本部派批判している。これによれば、イエスは、律法や預言の正しき実践を求道する側にいることが判明する。

 2006.11.2日 れんだいこ拝

 各論2、「神の国信仰」に忠実なれ。
 イエスは、当時のイスラエルの神殿本部教義派により「神の国信仰」が形骸化されており、その活動が御教えの反対物に転化していることを批判し、「御教えの原義に立ち戻り、『神の国の義信仰』に忠実なれ。神の御心に適うその義を求める生き方をせよ」と宣べている。この限りで、イエスは「神の国思想原理派」の立場に立っていることが判明する。
 「肉体の罪は良くない。しかし、心の罪はもっと良くない。故に、神の義に忠実な信仰でなければならない」。
(私論.私見)

 イエスは、神殿本部派特にパリサイ派の1・フェチ的独善主義、2・自己宣伝癖、3・無慈悲な律法主義、4・護符の権威化と商売的利用、5・信仰の表裏性と卑劣性、6・小事に拘り大事を免責にする得手勝手性、7.世の日陰者や生活困窮に起因する下層民の行状に対する容赦ない侮蔑、8、報復主義、9・メシア再臨信仰の捻じ曲げ等々を痛烈に批判している。

 2006.11.2日 れんだいこ拝

 各論3、「財物拝跪、拝金主義、権力者的威勢」を排せ。
 イエスは、「神の御心に適う基準」として、「財物拝跪、蓄財拝金、権力的威勢」主義こそ最も神の御心に適わない」と宣べ、次のように諭している。
 「富を貪るな。富は、地上に積むのではなく天に積め。人は神と富との両方に仕えることは両立しない」。
 概要「明日のことまで思い悩み蓄財に耽るな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である」。
(私論.私見)

 これもまた神殿本部派特にパリサイ派の信仰俗化ぶりに対する痛烈な批判となっており、「今後の生き方、心の持ち方」を問わない非信仰的政治的懲罰主義からの転換を指針させたことになる。特に、パリサイ派教義に濃厚な蓄財主義を強く批判していることになる。今日的にはロスチャイルド主義批判という事になろう。 

 2006.11.2日 れんだいこ拝

 各論4、暮らしの中に神の義を求めよ。
 イエスは、「暮らしの中に神の義を求めよ」と宣べ、次のように諭している。
 意訳概要「人は誰しも生きるためにパンを求めざるるを得ない。しかしながら、オマンマ稼業に勤しむとしてもこれを自己目的としてはいけない。オマンマ稼業の生業(なりわい)の内に神の国と神の義を求める生活に向わねばならない。御教えに反するような生業、生業の為の生業は異邦人のそれであって、我々の求める生活ではない」(生活の糧をバンという言葉で表現している。ここではパンの延長の意味するものを仮に「オマンマ稼業」とする)。
 意訳概要「人はパンのみにて生きるにあらず。御教えに従ってパンを食べ、御教えを血とする者は永遠に生きる。その人は神の元に居り、神もまたその人の中に居る。私の教えは天から降って来たパンである。このパンを食べる者は永遠に生きる。このことを信じない者も居る。しかし、これが真理であり、世を生かす道である」。
(私論.私見)

 これもまた神殿本部派特にパリサイ派の信仰ぶりに対する痛烈な批判であった。

 2006.11.2日 れんだいこ拝

 各論5、心構え、気持ちが大事であり、神の義に添う生き方をせねばならない。
 イエスは、「人の心の持ち方」について「心構え、気持ちが大事であり、神の義に添う生き方をせねばならない」と宣べ、次のように諭している。
 概要「素直にして悲しみの共有できる人になれ。柔和にして、憐れみ深く、心清く、平和を愛する人になれ。人は常に神を見、神の子としてその義に生きよ。そういう人が救われる。天国はそういう人たちのために有る」。
 「むしろ、幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である」。
 「ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である」。
(私論.私見)

 これもまた然り、神殿本部派特にパリサイ派の信仰ぶりに対する痛烈な批判となっている。

 2006.11.2日 れんだいこ拝
 このことに関連して、イエスは、パリサイ派の信仰に対して次のように批判している。
 「あなたがたパリサイ人は、杯や盆の外側を清めるが、あなたがたの内側は貪欲と邪悪とで一杯である。盲目なるパリサイ人よ、まづ杯の内側を清めなさい。そうすれば外側も清くなるだろう」。
(私論.私見)

 神殿本部派特にパリサイ派の信仰にある偽善を見つめるイエスの眼にはかく鋭いものがあった。

 2006.11.2日 れんだいこ拝

 各論6、因果応報の理を知れ。
 イエスは、「因果応報の理を知れ」として次のように宣べている。
 「悪い実を結ぶ良い木はなく、また、良い実を結ぶ悪い木はない。木は、それぞれ、その結ぶ実によって分かる。茨からいちじくは採れないし、野ばらからぶどうは集められない。善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出す。人の口は、心からあふれ出ることを語るのである」。
(私論.私見)

 これもまた然り、神殿本部派特にパリサイ派の信仰ぶりに対する痛烈な批判となっている。

 2006.11.2日 れんだいこ拝

 各論7、報復の論理を捨て愛の思想を打ちたてよ。
 イエスは、「報復に代わるに愛の思想を打ちたてよ」として次のように宣べている。
 「汝の敵を愛し、憎む者に親切で報いよ。悪口を言う者、侮辱する者に祈りで応ぜよ。『あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも差し出しなさい』。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。あなたがたの父が慈悲深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい」。
(私論.私見)

 これもまた然り、神殿本部派特にパリサイ派の信仰ぶりに対する痛烈な批判となっている。

 2006.11.2日 れんだいこ拝

 各論8、人を裁くな。「許せ」
 イエスは、「人を裁くな、むしろ許せ」として次のように宣べている。
 「立って祈るとき、誰かに対して何か恨みに思うことがあれば、赦してあげなさい。そうすれば、あなたがたの天の父も、あなたがたの過ちを赦してくださる」。
 「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。裁けば裁かれる。好んで人に罪を被せることは止めなさい。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである」。
(私論.私見)

 これを解するのに、「うわべだけで裁くのをやめ、神の道に適う正しい裁きをしなさい」に真意があったものと思われる。これもまた然り、神殿本部派特にパリサイ派の信仰ぶりに対する痛烈な批判となっている。

 2006.11.2日 れんだいこ拝

 各論9、「祈り」が信仰生活の第一歩である。
 イエスは、「祈りが信仰生活の第一歩である」と宣べ、次のように諭している。
 意訳概要「我々の為すべきは祈りである。但し、祈りは、異邦人の信仰の如く現世利益的であってはならない。彼らのまねをしてはならない。ひたむきに全知全能の神の御心に他力本願信仰で添い合わせなさい。それは眼を見れば分かる。体のともし火は目である。目が澄むように生きよ」。

 具体的な祈り方として次のように宣べられている。
 「祈るときには、こう言いなさい。『父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように。私たちに必要な糧を毎日与えてください。私たちの罪を赦してください、私たちも自分に負い目のある人を皆赦しますから。私たちを誘惑に遭わせないでください』。天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」。
(私論.私見)

 これを解するのに、「うわべだけ祈るのをやめ、神の道に適う正しい信仰をしなさい」に真意があったものと思われる。これもまた然り、神殿本部派特にパリサイ派の信仰ぶりに対する痛烈な批判となっている。

 2006.11.2日 れんだいこ拝

 各論10、信仰基盤を確固としたところに確立せよ。
 イエスは、「信仰基盤を確固としたところに確立せよ」と宣べ、次のように諭している。
 「私のもとに来て、私の言葉を聞き、それを行う人が皆、どんな人に似ているかを示そう。それは、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置いて家を建てた人に似ている。洪水になって川の水がその家に押し寄せたが、しっかり建ててあったので、揺り動かすことができなかった。しかし、聞いても行わない者は、土台なしで地面に家を建てた人に似ている。川の水が押し寄せると、家はたちまち倒れ、その壊れ方がひどい」。
(私論.私見)

 これは、何事も基礎が大事という一般的な御教えであろう。

 2006.11.2日 れんだいこ拝

 各論11、主体的に生きよ。
 イエスは、「主体的に生きよ」と宣べ、次のように諭している。
 概要「求めよ。そうすれば、与えられん。探せよ。そうすれば、見つかられよう。門をたたけ。そうすれば、開かれよう。人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ本来の律法と預言者の御教えである。狭き門から入れ。滅びに通じる門は広く、その道は広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く細い。しかし、それを見いだす者は少ない」。
(私論.私見)

 これは批評的な御教えであろう。文句が秀逸である。

 2006.11.2日 れんだいこ拝

 各論12、種蒔く人になれ。
 イエスは、「種蒔く人になれ」と宣べ、次のように諭している。
 「種を蒔く人は、神の言葉を蒔くことに例えられる。悪い土地に蒔かれた種はなかなか育たない。困難に打ち勝てない。サタンに誘惑され邪魔される。この人たちは御言葉を聞くが、この世の思い煩いや富の誘惑、その他いろいろな欲望が心に入り込み、御言葉を覆いふさいで実らない。種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、人に踏みつけられ、空の鳥が食べてしまった。ほかの種は石地に落ち、芽は出たが、水気がないので枯れてしまった。ほかの種は茨の中に落ち、茨も一緒に伸びて、押しかぶさってしまった。また、ほかの種は良い土地に落ち、生え出て、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍の実を結ぶ」。

 この意味が釈然としない弟子たちに次のように諭している。
 「このたとえの意味はこうである。種は神の言葉である。道端のものとは、御言葉を聞くが、信じて救われることのないように、後から悪魔が来て、その心から御言葉を奪い去る人たちである。石地のものとは、御言葉を聞くと喜んで受け入れるが、根がないので、しばらくは信じても、試練に遭うと身を引いてしまう人たちのことである。そして、茨の中に落ちたのは、御言葉を聞くが、途中で人生の思い煩いや富や快楽に覆いふさがれて、実が熟するまでに至らない人たちである。良い土地に落ちたのは、立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、よく悟り、忍耐して実を結ぶ人たちである。ともし火をともして、それを器で覆い隠したり、寝台の下に置いたりする人はいない。入って来る人に光が見えるように、燭台の上に置く。隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、人に知られず、公にならないものはない。だから、どう聞くべきかに注意しなさい。持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っていると思うものまでも取り上げられる」。
(私論.私見)

 これは運動実践上の要諦に関する御教えであろう。

 2006.11.2日 れんだいこ拝

 各論13、信仰は修行の道である。
 イエスは、「信仰は修行の道である」と宣べ、次のように諭している。
 概要「天の国はからし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔けば、どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる。耳のある者は聞きなさい。信仰もまた同じである。弟子は師にまさるものではない。しかし、だれでも、十分に修行を積めば、その師のようになれる」。「知恵の正しさは、その働きによって、それに従うすべての人によって証明される」。
(私論.私見)

 これも運動実践上の要諦に関する御教えであろう。

 2006.11.2日 れんだいこ拝

 各論14、悪魔思想の誘惑に負けれるな、闘え。
 イエスは、「悪魔思想の誘惑に負けれるな、闘え」と宣べ、次のように諭している。
 「不法を働く者ども、私から離れ去れ」云々。
(私論.私見)

 これも運動実践上の要諦に関する御教えであろう。

 2006.11.2日 れんだいこ拝

 各論15、陰謀に与するな。
 イエスは、「陰謀に与するな。悪事は露見する」として、次のように宣べられている。(マタイ伝4・19−23)
MAR04:18  また、ほかの人たちは茨の中に蒔かれるものである。この人たちは御言葉を聞くが、
MAR04:19  この世の思い煩いや富の誘惑、その他いろいろな欲望が心に入り込み、御言葉を覆いふさいで実らない。
MAR04:20  良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて受け入れる人たちであり、ある者は三十倍、ある者は六十倍、ある者は百倍の実を結ぶのである。」
MAR04:21  また、イエスは言われた。「ともし火を持って来るのは、升の下や寝台の下に置くためだろうか。燭台の上に置くためではないか。
MAR04:22  隠されているものは何でも、露(あら)わにならないものはなく、秘密にされていることは必ずや明らかにされる。聞く耳のある者は聞くが良い。
For whatever is hidden is meant to be disclosed, and whatever is concealed is meant to be brought out into the open. If anyone has ears to hear, let him hear."
MAR04:23 聞く耳のある者は聞きなさい。」

 各論16、偽預言者を警戒せよ。
 イエスは、「偽預言者を警戒せよ」と宣べ、次のように諭している。
 「彼らは羊の皮を身にまとってあなたがたのところに来るが、その内側は貪欲な狼である。「私を『主よ、主よ』と呼びながら、なぜ私の言うことを行わないのか」。
(私論.私見)

 これも運動実践上の要諦に関する御教えであろう。

 2006.11.2日 れんだいこ拝

 各論17、背教の言に丸めこまれるな。妥協なく闘うべし。
 イエスは、「律法学者やパリサイ派の教えは背教である。彼らの言に丸めこまれるな。妥協なく闘うべし」と宣べ、次のように諭している。
 意訳概要「律法学者やパリサイ派は、神の御心に適わない財物拝跪、拝金主義、権力者的威勢を正当化するイデオローグである。彼らの言に屈してはならない。この問題では、我々は、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。イエスの教えを採るのか、律法学者やパリサイ派の論法に屈するのか、はっきりせよ。盲人が盲人の道案内をすれば二人とも穴に落ちむであろう。律法学者やパリサイ派の論法は盲人の道である。これに付き従ってはならない」。
(私論.私見)

 これも運動実践上の要諦に関する御教えであろう。

 2006.11.2日 れんだいこ拝

 各論18、願うらくは、論理、思想、理論において律法学者やパリサイ派に打ち勝て。
 イエスは、「願うらくは、信仰者としてのその義は、論理、思想、理論において、律法学者やパリサイ派に勝らねばならない」と宣べ、次のように諭している。
 概要「彼らの義はことごとく神の御心を冒涜している。世俗的形式的で、偽善的で、刑罰主義的であり裁きを得手としており、それらは神の御心に添わない。根本的な解決になるものではない。全能の天の父の命を聞き分けそれに従うことが相応しい。律法学者やパリサイ派は、人の目にあるおが屑は見えるのに、自分の目の中の丸太に気づかない。自分の目にある丸太を見ないで、兄弟に向かって、『さあ、あなたの目にあるおが屑を取らせてください』と、どうして言えるだろうか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるおが屑を取り除くことができる。そういう類の彼らの義に対して、我々の義がまさらなければならない」。
(私論.私見)

 これも運動実践上の要諦に関する御教えであろう。

 2006.11.2日 れんだいこ拝

 各論19、私が雛形を示す。
 イエスは、「私が雛形を示す」と宣べ、次のように諭している。
 概要「自分の十字架を担って私に従わない者は、私にふさわしくない。自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、誰であれ、私の弟子ではありえない。だから、同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたの誰一人として私の弟子ではありえない」、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでも私のもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、私の軛を負い、私に学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、私の荷は軽いからである」。
(私論.私見)

 これも運動実践上の要諦に関する御教えであろう。

 2006.11.2日 れんだいこ拝

 各論20、迫害に屈するな。
 イエスは、「迫害に屈するな」と宣べ、次のように諭している。
 概要「神の国思想原理派として歩むことは、ヨハネにせよ私の教義にせよ、イスラエル神殿派の権力、時代的風潮の利益に反することになるから迫害される。しかし、怯むな、悲しむな、むしろ喜べ」。
 概要「地の塩、世の光になれ。天国はその人たちのものである。天には大きな報いがあり必ず報われる。人はその実で見分けられる。『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。天の父の御心を行う者だけが入る」。
(私論.私見)

 これも運動実践上の要諦に関する御教えであろう。かく叱咤激励している。

 2006.11.2日 れんだいこ拝

 各論21、「世の終わりの日の裁き」について。
 イエスは、「世の終わりの日の裁き」について、信仰の例え話として「種まき論」、「真珠論」を披露しつつ次のように宣べ諭している。
 「良い種を蒔く者は人の子、畑は世界、良い種は御国の子ら、毒麦は悪い者の子である。毒麦の背後には悪魔が潜む。刈り入れの時、それは信仰上世の終わりの時に例えられるが、天使達が刈り入れする。天使達は、つまずきとなるものすべてと不法を行う者どもを燃え盛る炉の中に投げ込み識別する。真珠も同様で網の中に入れられる。良いものは器に入れられ、悪いものは投げ捨てられる。世の終わりにもそうなる。天使達が、正しい者と悪い者どもをより分け識別する。天の国のことを学んだ学者は皆、自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている」。
(私論.私見)

 これはイエス教義の内容に関わっている。

 2006.11.2日 れんだいこ拝

 各論22、「救済」について。
 イエスは、「救済」について次のように宣べている。
 「詩編にはこう書いてある。『その住まいは荒れ果てよ、そこに住む者はいなくなれ。』また、『その務めは、ほかの人が引き受けるがよい。』主の名を呼び求める者は皆、救われる』」(使徒言行録)。
(私論.私見)

 これもイエス教義の内容に関わっている。

 2006.11.2日 れんだいこ拝

【「山上の垂訓」の論法考】
 「山上の垂訓」は非常に多岐にわたっている。これを整理し運動論で見れば次のような論法になっているのではなかろうか。
 「神の国」思想に添い、神の御心に適うその義を求める生き方をせよ。現世的な貪欲な権勢者こそ最も神の御心に適わない。彼らの生き方は排斥されるべきである。それに比して、生活苦にあえいでいる人のほうが生き方としては神の御心に適っている。人は、素直にして悲しみの共有できる人になれ。柔和にして、憐れみ深く、心清く、平和を愛する人になれ。人は常に神を見、神の子としてその義に生きよ。そういう人が救われる。天国はそういう人たちのために有る。
 信仰者として迫害されても怯むな。神の御心に適う生き方をした為に迫害され、ののしられ、悪口を浴びせられたとしても悲しむな、むしろ喜べ。地の塩、世の光になれ。天国はその人たちのものである。天には大きな報いがあり必ず報われる。人はその実で見分けられる。『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。天の父の御心を行う者だけが入る。
 律法学者やファリサイ派に屈してはならない。願うらくは、信仰者としてのその義は、律法学者やファリサイ派の義にまさっていなければならない。彼らの義はことごとく神の御心を冒涜している。世俗的形式的で、偽善的で、刑罰主義的であり裁きを得手としており、それらは神の御心に添わない。根本的な解決になるものではない。全能の天の父の命を聞き分けそれに従うことが相応しい。
 祈れ。異邦人の信仰は現世利益的である。彼らのまねをしてはならない。二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。
 他力信仰で神の御心に添い合わせ。体のともし火は目である。目が澄むように生きよ。寿命をわずかでも延ばすことができない。
 富を貪るな。富は、地上に積むのではなく天に積め。神と富との両方に仕えることは両立しない。オマンマ稼業を貪るよりは何よりもまず、神の国と神の義を求めよ。明日のことまで思い悩み蓄財に耽るな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。
 主体的に生きよ。「求めよ。そうすれば、与えられる。探せよ。そうすれば、見つかる。門をたたけ。そうすれば、開かれる。人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。狭い門から入れ。滅びに通じる門は広く、その道は広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く細い。しかし、それを見いだす者は少ない」。
 偽預言者を警戒せよ。彼らは羊の皮を身にまとってあなたがたのところに来るが、その内側は貪欲な狼である。
 因果応報の理を知れ。
10  信仰基盤を確固としたところに確立せよ。
11  不法を働く者ども、私から離れ去れ。

【「マタイによる福音書」の山上の垂訓】
 「マタイによる福音書第5章による山上の垂訓」は次の通りである。れんだいこがこれを意訳する。原文から当りたいが今は叶わぬ。
 イエスは彼らと一緒に山から下りて、平らな所にお立ちになった。大勢の弟子とおびただしい民衆が、ユダヤ全土とエルサレムから、また、ティルスやシドンの海岸地方から、イエスの教えを聞くため、また病気をいやしていただくために来ていた。汚れた霊に悩まされていた人々もいやしていただいた。群衆は皆、何とかしてイエスに触れようとした。イエスから力が出て、すべての人の病気をいやしていたからである。

 さて、イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた。
 (心の)貧しい人々は、幸いである、天(神)の国はその人たちのものである。悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。
 柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。
 義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。
 憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。
 心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。
 平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。
 義のために迫害される人々は、幸いである、天の御国はその人たちのものである。
 私のためにののしられたり、迫害されたり、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。あなたがたには天において大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。
 あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。
 あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。
 わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだ、と思ってはならない。廃棄するためではなく、完成するためである。はっきり言っておく。天地が消えうせない限り、律法の文字から一点一画も決してすたれることはない。全部が成就される。
 だから、これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の御国で最も小さい者と呼ばれる。しかし、それを守り、そうするように教える者は、天の御国で大いなる者と呼ばれる。
 言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の御国に入ることができない。
 あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『人を殺してはならない。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、私は言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『能無し』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。
 だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとしている時、兄弟に恨まれていることをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置いたままにして、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。
 あなたを訴える人と一緒に道を行く場合、途中で早く和解しなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡し、あなたは牢に投げ込まれることになる。はっきり言っておく。最後の一クァドランス(コドラント)を返すまで、決してそこから出ることはできない。
 あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。
 もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。体の一部を失っても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである。もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切り取って捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に落ちない方がましである。
 『妻を離縁する者は、離縁状を渡せ』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。不法な結婚でもないのに妻を離縁する者はだれでも、その女に姦通の罪を犯させることになる。離縁された女を妻にする者も、姦通の罪を犯すことになる。
 また、あなたがたも聞いているとおり、昔の人は、『偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。一切誓いを立ててはならない。天をさして誓ってはならない。そこは神の玉座である。
 地をさして誓ってはならない。そこは神の足台である。エルサレムをさして誓ってはならない。そこは大王の都である。また、あなたの頭をさして誓ってはならない。髪の毛一本すら、あなたは白くも黒くもできないからである。
 あなたがたは、『然り』は『然り』、『否』は『否』とだけ言いなさい。それ以上のことは、悪しき事になる。
 あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。
 誰かがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。
 誰かが、一ミリオン(マイル)行くように強いるなら、一緒に二ミリオン(マイル)行きなさい。求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者には、背を向けてはならない(断わらないようにしなさい)。
 あなたがたも聞いているとおり、『汝の隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。それでこそ、天に居られるあなたがたの父の子となれる。
 天の父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる。
 自分を愛してくれる人を愛したところで、報われるほどのものではない。徴税人でも、同じことをしているではないか。自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。
 だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。
 人に見せるために人前で善行をするようなことはしないように気をつけなさい。そうでないと、あなたがたの天の父の報いをいただけないことになる。
 だから、あなたは施しをするときには、人からほめられようとして偽善者たちが会堂や街角でするような、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。はっきりあなたがたに言っておく。彼らは既に報いを受けている。
 施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。
 祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。
 だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。
 また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。
 だから、こう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように。御心が天におけるように地の上にも行われますように。私たちに日ごと必要な糧を与えてください。私たちの負い目を赦してください、私たちも自分に負い目のある人を赦しましたように。私たちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください。全能の神よアーメン』。
 もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。
 断食するときには、あなたがたは偽善者のように沈んだ顔つきをしてはならない。偽善者は、断食しているのを人に見てもらおうと、顔を見苦しくする。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。
 あなたは、断食するとき、頭に油をつけ、顔を洗いなさい。それは、あなたの断食が人に気づかれず、隠れたところにおられるあなたの父に見ていただくためである。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。
 あなたがたは地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食い、さび付き、また盗人が忍び込んで盗み出したりする。富は、天に積みなさい。そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない。あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。
 体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、全身が暗い。だから、あなたの中にある光が消えれば、その暗さはどれほどであろう。
 だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富の両方に仕えることはできない。
 だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。
 空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。けれども、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりもすぐれたものではないか。
 あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。
 しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか。
 信仰の薄い者たちよ。だから、『何を食べようか』、『何を飲もうか』、『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。
 何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。
 だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。
 人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量られる。
 あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太(梁)に気づかないのか。兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太(梁)があるではないか。
 偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除けなさい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からもおが屑を取り除くことができる。
 神聖なものを犬に与えてはならず、また、真珠を豚に投げてはならない。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたにかみついてくるだろう。
 求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。誰でも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。
 あなたがたの誰が、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。子供が魚を欲しがるのに、誰が蛇を与えようか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。とすればなおのこと、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。
 だから、何事でも、人にしてもらいたいと思うことは、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法であり預言者の云おうとしている真髄である。
 狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道は細く狭い。それを見いだす者は稀である。
 偽預言者を警戒しなさい。彼らは羊の皮を身にまとってあなたがたのところに来るが、その内側は貪欲な狼である。あなたがたは、その実で彼らを見分ける。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるだろうか。
 すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。良い木が悪い実を結ぶことはなく、また、悪い木が良い実を結ぶこともできない。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。このように、あなたがたはその実で彼らを見分けることができよう。
 わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。
 かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、私はきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ』。
 そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。
 わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった」。
 イエスがこれらのことばを語り終えられると、群衆はその教えに驚いた。というのは、イエスが、律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように教えられたからである。

【仏陀の博愛思想考】
 仏陀は次のように述べている。(出典不明)
 そしられてそしり返す者は敗れ、そしられてさしらぬ者は二重の勝利を制す。その人は相互の幸福を求む。我らを憎む者は憎まねば実に幸福に暮らし、我らを憎む者の中にありて憎しみより離れて生きる。よしや、凶賊が汝の四肢を断つともつとめて平静自若の心を抱け。ゆめにも悪口するなかれ。常に慈愛と善悪分別を旨とし、心に憎しみを抱くなかれ」。




(私論.私見)