イエスの概要履歴その1 | 誕生から「山上の垂訓」まで |
(最新見直し2007.2.27日)
【イエス誕生】 |
紀元前4年(8年という説もある)、イエスは、ユダヤ地方イスラエル(パレスチナ)の北のガリラヤ湖のあるガリラヤ地方のナザレという小さな村で生まれた。異説として、「ダビデ王治下のイスラエルのベツレヘムの馬小屋で、マリアとヨセフの長男として生まれた」とも記されている。 |
![]() イエス誕生地に於けるナザレかベツレヘムの違いは、イエスがユダヤ人かどうかという問題に繋がる。ナザレ誕生の場合にはガリラヤ人になり、ベツレヘム誕生の場合にはユダヤ人という事になる。もっとも、「イエス=ナザレ人」とした場合でも、ガリラヤ人も大きな枠組みではユダヤ人という説も有る。「ガリラヤ・ナザレのユダヤ人説」が唱えられており、どうしてもイエスをユダヤ人と看做したい見方が強固に存在することが分かる。こうして、「イエス=ユダヤ人説」が流布されているが、イエスの風貌の記述を見るとユダヤ人とは違う特徴が判明する。ということは、「イエス=ユダヤ人説」は間違いという事になる。歴史考証的に見ても、「イエス=ナザレ人」とすべきであろう。れんだいこは、プレ・ユダヤ教文化圏に属するガリラヤ人と見立てる。 「イエスベツレヘム誕生説に基づくイエス=ユダヤ人」説は、旧約聖書のミカ書の一節「ベツレヘムからイスラエルを治める者があらわれる」、「メシアはダビデの子孫で、ダビデのいたベツレヘムから出現する」という預言者の予言に合わせた後世の創作聖譚ではないかと思われる。 |
![]() イエス誕生を廻って「精霊を受胎し、神を父とする神の子」的逸話が数多く為されている。れんだいこは、そういう聖譚逸話を理解するも見解は留保する。というか、これもユダヤ教神学の対極ではあるが形を変えたものではなかろうかと理解している。 2007.2.27日 れんだいこ拝 |
【イエスの誕生祭りとしてのクリスマス考】 |
「クリスマスって何?:クリスマスについての質問と答え!」その他を参照する。 イエス・キリストの誕生日に関する記録は残されていないため、正確な日付はわからない。西暦273年、時のローマ皇帝アウレリアヌスは、12.25日を太陽神の誕生日と定めた。この頃キリスト教が浸透し始め、イエス・キリストも又「正義の太陽」、「世の光」と崇められていたことから同視され始めた。336年、当時の教会が、この祭日をイエス・キリストの誕生を祝う日と定めた。以来、4世紀頃よりキリスト教圏では、12.25日をイエスの誕生日と定め、イエス・キリストがこの世に生まれたことをお祝いする祝祭としてクリスマスを催すことになった。 初期のイエスキリスト教に於いては、キリストの出現を祝う日として、1.6日の公現祭が祀られてきた。現在でも、ギリシャ、ロシアなどの東方キリスト教では、12.25日は祝わず、1.6日を大祭としている。 クリスマスは、英語では「Christmas」と表記される。これは「キリスト(Christ)のミサ(mass)」という意味である。ドイツ語では「Weihnacht」と呼ばれ、これは「聖夜(キリストが生まれた夜)」という意味である。「Xmas」とも表記されるが、「X」は、ギリシャ語の「Xristos」(キリスト)の頭文字で、「X」で「Christ」(キリスト)を代用している。12.14日をクリスマス・イブと云う。イブ(Eve)とは「前夜」という意味である。メリー(Merry)は、「楽しい」とか「愉快な」という意味で、「楽しいクリスマスを!」ということになる。 クリスマス・カラーとして緑や赤が用いられる。その意味は次の通りである。緑はクリスマスツリーに使われるが、常緑樹の緑は、強い生命力、永遠を表している。それは、神の永遠の愛や、イエス・キリストが与える永遠の命を象徴してる。赤は、イエス・キリストが十字架にかかって死んだ際に流した血を表している。 補足すれば、サンタ・クロースの起源は、4世紀の小アジア(今のトルコ)に実在したニコラスという司教をモデルにしている。ニコラスは、貧しい人や子供達を助けたことで多くの人に慕われ、後に聖人とされて聖ニコラス(Saint Nicholas)と呼ばれた。カトリック教会が、聖ニコラスをクリスマスのお祝いと結び付けるようになった。オランダ語で「Sinterklaas」と呼ばれていたが、17世紀になってオランダ人がニューアムステルダム(今のニューヨーク)を建設した際、その伝統も一緒にアメリカに渡った。この時、英語的な発音になおされて、「Santa Claus」つまりサンタ・クロースとなった。19世紀に入るとサンタ・クロースが夢物語にしたてられ、トナカイのそりに乗ってやって来て、煙突から入って来るといったイメージが確立した。 |
【イエスの家系と誕生前後の経緯】 |
父はヨセフ、母はマリアであった。父ヨセフ、母マリアにつき種々に記載されているが略す。ユダヤの王として君臨していたヘロデ王は、「ユダヤの救世主誕生」の噂を耳にすると、それを阻止するために実子殺しを強行し始めた。それを恐れたイエスの両親は、イエスを連れてエジプトに逃れたと伝承されている。これも、後世の創作聖譚ではないかと思われる。 |
【イエスのナザレ時代】 |
ヘロデ王の死と同時に、イエスと両親はナザレ村に帰ってきて、イエスはガリレアのナザレ村で少年時代を過ごす。ヘロデ王の迫害経緯、イエス一家の逃亡経緯の真相は分からないが、イエスがナザレ村で少年時代を過ごしたのは確かである。なお、ガリレア地方は歴史的に四通八達の通商の盛んな地で且つ圧制に対する抵抗運動の根強い土地柄であった。イエスが、こういう歴史的風土で育っていったことは注目されてよい。 |
【イエスの幼少よりの宗教的天分の開花のご様子】 | |||
イエスは、幼少より宗教的天分を如何なく発揮していた。「ルカによる福音書」は、「イエスの幼少よりの宗教的天分の開花のご様子」を次のように記している。
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![]() 「ルカによる福音書」によれば、イエスは12歳の時の両親に連れられての過越祭旅行時の様子を明らかにしている。それによれば、イエスの両親は過越祭期には毎年イスラエル詣でをする敬虔な信者であったことが判明する。イエス12歳の時、イエスは親から離れ、三日間にわたって「神殿篭り」していたことを伝えている。 「イエスが神殿の境内で学者たちの真ん中に座り、話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた。聞いている人は皆、イエスの賢い受け答えに驚いていた」をそのまま受け取れば、イエスは宗教的天分において天才的な早熟児ぶりを見せていたことになる。この逸話の真偽は不明であるが、幼少期のイエスの宗教的天分を知る上でのかなり重要な指摘のように思える。 |
【ヨハネの伝道活動、ヨハネ考】 | |||||||||||||||||||||||||||
紀元27年この頃、洗礼者ヨハネが活動を開始する。ヨハネは、預言者的威風で影響を及ぼしていった。旧約聖書では、イザヤ、エレミヤ、エゼキエル、ホセア、アモスなどの多くの預言者の教えと行跡を伝えている。最後の預言者が紀元前420年頃のマラキであり、ヨハネはそのマラキ以来の預言者の出現と噂された。 この当時、ユダヤ教は旺盛な教義形成期の頃であり、教義を廻って大祭司、律法学者を権威とし、その座を廻ってサドカイ派とパリサイ派の対立が続いていた。他にエッセネ派が孤高の教団を形成していた。非常にドラスチックに教義形成されつつある時期であり、他にも有象無象の預言者、霊能者が跋扈していたと思われる。それらのうちの最大の能力者がヨハネであった。(このヨハネとイエス福音書執筆者ヨハネを区別する必要が有り、前者を「預言者ヨハネ又は単にヨハネ」、後者を「イエス派ヨハネ」と称する事にする) |
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![]() ヨハネの伝道開始時期を紀元27年頃とすると、イエスがエルサレムのゴルゴタの丘で十字架磔刑されたのが紀元30年であるから、イエスの伝道活動が僅か三年間で非常に慌しかったことになる。年代考証的にこれが正しいのかどうかわからない。いずれにせよ、イエスの伝道活動に先行してヨハネの布教活動が為されており、イエスはこのヨハネに相当の影響を受けていることを踏まえる必要があるように思われる。 なお、イエスの誕生を紀元前4年とすると、イエスはヨハネが伝道を開始した紀元27年には30歳を越していたことになる。青年期を終え、十分な年齢に達していたことになる。 |
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ヨハネについては、「ルカによる福音書」、「ヨハネによる福音書」が詳しい。これによると、ヨハネは「モーゼ以降の最大の預言者」ということになる。「イエス派ヨハネ」の「ヨハネによる福音書」は次のように記している。
ヨハネは、当時の名門の出である祭司ザカリヤの子として生まれた。長ずるに及びエッセネ派で学び、預言者として自他共に任じてからはヨルダン川沿いの地方一帯で洗礼(バプテスマ)を授け、「悔い改めよ。天の国は近づいた。最後の審判の日が近い」と唱えつつ福音を宣べ伝えていた。 ちなみに、ヨルダン川は、ユダヤ教に於いては宗教的に重要な歴史的意味を持つ。即ち、紀元前1200年頃、ヘブライ民族はモーゼに率いられて40年にわたる放浪の末、ヨルダン川の浅瀬を渡って「約束の自由の地カナン」に入った。この由来で、ヨルダン川は「神に近づく道」の象徴として位置づけられていた。洗礼も信仰上大きな意味を持つ。ユダヤ教に於いては、水や水浴は神の御前に於いて清澄な身にして臨むべしとする儀礼に関わるものであり重要視されている。ヨハネのヨルダン河畔での洗礼は、これらを踏まえていたことになる。 ヨハネの洗礼はもう一つの意味で画期的であった。ユダヤ教徒は、エルサレム神殿で生贄の血による浄めの儀式を受けるのが伝統的であったが、ヨハネはそれに拠らずヨルダン川の水による洗礼で入信せしめるという方法を創案したことになる。ヨハネは、そのヨルダン川の畔(ほとり)で、既成宗派の権威主義的な信仰ぶりを批判し、神殿にも会堂(シナゴーグ)にも行かず、自前のヨハネ教団を形成しつつ集団生活し始めていた。「預言者ヨハネ」は、野生のイナゴ豆と野蜜(蜂蜜、ナツメヤシの蜜)を常食し、粗末な毛皮の衣をまとっていた。 「預言者ヨハネ」教義の特徴は、煩雑な儀礼を重視する神殿派の形式教義に比して信仰の内実を重視しているところにあった。そういう位置づけから、人々に罪の告白→改心→洗礼を入信手順にしていた。心の持ち方として、正直さ、他者の尊重、分かち合いの精神を涵養するよう説いていた。「汚れ忌避の清め」を重視したが、神殿派のように制度に於いて捉えるのではなく、個々の信者の心と生活に於ける浄化こそ大事と説いていた。そういう意味で、神殿派の教義を信仰の制度主義、ヨハネの教義を信仰の内面主義と評することができよう。 ヨハネは、その言を見れば、激しく律法学者、サドカイ派、パリサイ派の偽善主義を攻撃していた。
ヨハネは、次のように説法していた。
こういうヨハネの立ち居振る舞いを見、その説法を聞いた民衆は、メシアを待ち望んでいて、ヨハネこそもしかしたらメシアではないかと賛辞していた。ヨハネは、ほかにもさまざまな説法で民衆に福音を告げ知らせた。 しかし、ヨハネのこの説法は、ユダヤの律法学者、パリサイ派にとって不愉快な教説であった。次の批判が記されている。
思うに、ヨハネは、「イザヤの預言」の忠実な司祭であったように思われる。「イザヤの預言」には次のような名句がある。
この「預言者ヨハネ」とユダヤの律法学者との尋問が次のように為されたことが記されている。「マタイによる福音書」13章14節、15節が伝えている。れんだいこがこれを対話形式で整理してみると、注ぎのようなやり取りになる。
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【イエスのヨハネ論】 | |||||||||
イエスは次のような「預言者ヨハネ」論を説いている。
イエスは、「しかし」と述べ、次のように云う。
イエスは更に、「しかし」」と述べ、次のように云う。
イエスは、「しかし」と云う。
律法学者やパリサイ派の悪しき行状について、「使徒言行録」では次のように記されている。
ちなみに、キリスト教義では、「預言者ヨハネ」とイエスを比較して、「ヨハネは水で洗礼を授けたが、イエスは聖霊による洗礼を授けられる」と評している。 |
【イエスがヨハネの洗礼を受ける】 | ||||
イエスの宗教的天分は驚くべきものであり、幼少より啓発され、既成の教義を充分に咀嚼し聞き分け、特に「預言者ヨハネ」の教えに傾倒していた。長ずるに及び、イエスはガリラヤから足を運び、このヨハネからヨルダン川で洗礼を受けている。このことは、イエスがヨハネ教団に入ったことを意味する。同時に、イエスが神殿派の信仰制度主義に対するヨハネの信仰内面主義に列なったことを意味する。ヨハネがエッセネ派系譜であることを思えば、イエスもエッセネ派系譜ということになる。 メシアの再来と評されていたヨハネは、「ヨハネが自身を凌ぐ次にやって来る者イエスの出現」を予言していた。そのイエスが現れた時、次のように述べたと記されている。
ヨハネは、次のようにも述べたと伝えられている。
それに対して、イエスは、次のように応じている。
イエスのこの言により、ヨハネは、イエスに洗礼を施した。 |
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![]() イエスがヨハネの洗礼を受けたことには深い意味を悟らねばならないように思う。イエスはそれまでの教義研鑽によって、ヨハネこそ信仰上の正しき義を継承しているとして自ら進んでヨハネの門徒になった拝察すべきであろう。ということは、ヨハネが激しく対立していたユダヤの律法学者、サドカイ派、パリサイ派に対して、イエスも又同じくこれを論難していく立場に立ったことを意味しよう。 |
【イエスが、ヨハネ教団の集団生活に入り、やがて抜け出し故郷ガリラヤに戻る】 |
洗礼後のイエスは、期間はどれくらいか分からないがヨハネ教団の集団生活に入ったように思われる。イエスもやがて洗礼を授けるようになった。このことが、ヨハネの弟子から疎まれたとの説もある。イエスはやがて、ヨハネ派の禁欲主義、修行主義に得心できなかったのか、既に全てを修得したのか、ヨハネ教団を出て自立していくことになる。イエスは、故郷ガリラヤに戻った。 |
![]() イエスのヨハネ教団入りとそこからの出家は、「青は藍より出で藍より青し」の過程として拝察すべきであろう。 |
故郷ガリラヤに戻ったイエスの行状は不明である。イエスは、粗末な毛皮の衣を纏ってイナゴ豆と野蜜を好むヨハネと違って、普通の服装をし、宴会にも出席し、「大食漢で大酒飲み」の面も見せていたとの逸話もある。つまり、イエスには、身なりも暮らしぶりも何ら風変わりなところがなかった、と伝えられている。 |
![]() イエスのヨハネとの違いは、イエスがヨハネの厳格な戒律をヨハネほど重視せず、むしろ世俗とまみれることに抵抗を持たなかったことにあるように思われる。分かり易くいえば、ヨハネは「山の仙人」を目指し、イエスは「里の仙人」を目指したという差になるように思われる。これは、天理教教祖中山みきの「山の仙人、里の仙人」教話による類推であるが。 |
【「荒野での悪魔思想との問答」】 | ||||||
この頃のこと、イエスは、40日40夜に及ぶ荒野での断食修行を行い、自らの霊能力を試している。この時、「悪魔との思想問答」をしており、かなり重要な内容を伝えている。伝えられる遣り取りは次のくだりである。 その一、「神の義を求めよ」の件(くだり)である。次のように宣べている。
その二、「悪魔の囁き峻拒」の件(くだり)である。悪魔がイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、「もし、ひれ伏して私を拝むなら、これを全て与えよう」と云った。それに対し、イエスは次のように応答している。
その三、「神のご加護の試し」の件(くだり)である。悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて云った。「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。というのは、こう書いてあるからだ。『神はあなたのために天使たちに命じて、あなたをしっかり守らせる』。また、『あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える』」。イエスは次のように応答している。
かくて、悪魔はあらゆる誘惑を試みたが、イエスは動じなかった。悪魔はイエスから離れた。イエスは霊の力に満ちてガリラヤに帰られた。その評判が周りの地方一帯に広まった。 |
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まず、ここでいう「悪魔」とは例えであり、神学上の抽象的な悪魔ではないのではなかろうか。実際には、宗教界の新鋭イエスが「預言者ヨハネ」の洗礼を受け、ヨハネ教団の仲間入りし、今そのヨハネ教団から自立して自前のイエス教団を立ち上げつつあったことを知ったある反ヨハネ派の陰謀団体(それは、歴史的に見てユダヤの民が得手としてきた秘密結社と考えられ、後の展開から見て本部神殿派に通じている団体と思われる)を指しているのではなかろうか。「イエスの悪魔との荒野問答」とは、その使者とイエスの間で問答が為されたことを暗喩しているのではなかろうか。れんだいこは、そういう史実があり、イエス伝に隠喩的に伝えられているのではなかろうか、と拝察する。 では、どのような「囁き」がなされたのであろうか。その一、「洗礼後のイエス」は見初められて、彼らの秘密結社への仲間入りを勧誘された。イエスは、種々の問答と遣り取りを経て、「神の義を求めよ」なる御言葉を返歌した。そして、「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。この言葉を味わうべきである」と補足した。この御言葉は、秘密結社入りを勧められたイエスが、「そこにいくら利益があろうとも、その道は神の義にそぐわない」と判断し、「利益を餌に心を売る気は無い」と峻拒したことをメッセージしているのではなかろうか。 この遣り取りの意義は次のような問いに一般化することが出来る。人は、生きていく為にやむを得ずオマンマ稼業に精出すことを余儀なくされているが、人はそれだけで生きるのではない。その稼業の中にあっても信仰を持つべきであり、神の義に従う生活をしなければならない。つまり、人はオマンマ稼業にあってもパンだけで生きるものではないことを知り、パンの為に心を売ってはならず神の義に生きねばならない、と分別したことになる。 イエスは、本部神殿派の「教団本部の聖壇に座しながら物質的富たるオマンマ稼業の自己目的的専念」を批判し、「精神的富たる信仰及び思想の格別の重要性」を認識し、「神の義を求める生活」を指針させていることになる。事実、イエスの生涯は、この言葉通り自ら「神の義」に対する類まれなる純潔の奉仕者となり、その「ひながた」を見せていくことになる。 その二、「悪魔の囁き拒否」は次のことを示唆している。秘密結社入りを拒否したイエスに対して、本部神殿派の秘密結社は更に執拗に、自分達に魂を売るならその代わりにこの世での立身出世(地位名誉)、栄耀栄華(金)、時の権力を約束しようと囁いた。この申し出に対し、イエスはこれを断乎拒否し、ひたすら信仰の義に生きる姿勢を鮮明にした。それが如何なる不利益を蒙る道になろうとも。 つまり、イエス的信仰の道は、「立身出世、栄耀栄華、時の権力の甘言に背を向けた」ところから始発していることになる。この遣り取りも興味深い。事実、イエスの生涯は、この言葉通り「立身出世、栄耀栄華、時の権力」とは無縁の神一条の人となり、その「ひながた」を見せていくことになる。 その三、「神のご加護の試し」は次のことを示唆している。エージェントは、その熱心な勧誘にも拘らずこれを拒否するイエスに対して、将来に希望が開けないと脅しをかけた。続いて、我々の勧めを断りそれほどに神の義信仰を一途にするのなら、その「神のご加護の試しをしてみよ」と捨てセリフを告げた。これに対して、イエスは、落ち着いて対処し、その策略に乗らなかった。信仰をそのように証する必要は無く、「神のご加護の試しをするなかれ」と返歌した。 イエスは、洗礼後の思想問答において、この三原則つまり、1、秘密結社入りの拒否。心を売らずひたすら神の義に生きることの宣明。即ち、現世的富よりも精神的富の重視。2、利益誘導、立身出世、栄耀栄華、権力誘導に対する峻拒。即ち、現世利益信仰に堕さない孤高の姿勢の確立。3、合理的信仰姿勢の確立を範示したことになる。 実に、これがその後のイエスの軌跡となり、ここがイエスのその後の布教活動にあたっての原点となった。そういう意味で、この立教始発時の「イエスの思想問答」は今日に至るも意味深いように思われる。人は昔も今も、生きていくうえでこの三条件が問われているのではなかろうか。イエス教義を信奉する者は、このイエスの「ひながた」を銘すべしではなかろうか。 その後のイエス教からキリスト教への転換に当り、「イエスの悪魔との荒野問答」の重要性が抜け落ちた。れんだいこは、それは意図的にそうさせられたと思っている。キリスト教徒に於いて「イエス・キリスト教の原義に帰る」とは、この「元一日」に帰ることを意味する。実際にはそのようになっていない。れんだいこは、「イエスの悪魔との荒野問答」を教義に取り込むかどうかがリトマス試験紙になっていると解している。 れんだいこの思うイエス教義の白眉さは次のことにあると思われる。その1は、この「イエスの悪魔との荒野問答」である。その2は、「山上の垂訓」である。その3は、エルサレム神殿乗り込み時の神殿派及びパリサイ派との教義問答である。その4は、十字架上の磔刑死の経緯である。これを学ぶ事がイエス教であるところ、キリスト教は肝心要のこの事歴の意義をぼかし、さして重要でもない奇蹟信仰へ変質せしめている。ここにイエス教の不幸があるのではなかろうか。 2006.9.8日再編集 れんだいこ拝 |
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【ヨハネが捕らえられる】 | |
イエスが「布教活動にあたっての三大原点」を確立した頃、ヨハネが捕らえられた。その理由が次のように記されている。
こうして、ヨハネは牢に入れられた。「こうしてヘロデは、それまでの悪事にもう一つの悪事を加えた」と記されている。 ヘロデ王はヨハネを殺そうと思っていたができなかった。それは、ヘロデが、ヨハネの名声が高く人民から強く支持されていたこと。且つ、ヘロデ自身がヨハネが正しい聖なる人であることを知っており、彼を恐れ、その教えを聞いて非常に当惑しながらもなお喜んで耳を傾けていたからであった。かくて、ヨハネは幽閉されることになった。 |
【イエスがヨハネ法灯を次ぐかのように福音を述べ始める】 | ||
ヨハネが捕らえられた時、イエスは凡そ30歳であった。故郷ガリラヤに戻っていたイエスは、幽閉されたヨハネの法灯を継ぐかのように次のように福音を宣べ始めた。
これにつき次のように記されている。
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【イエスは同時に本格的な教義研究に耽る】 |
この頃、イエスは故郷のナザレの諸会堂に籠もり、本格的に教義研究に打ち込んでいる。安息日には会堂に入り、聖書を朗読した。皆はイエスの信仰の深さに驚き、褒め、その口から出る恵み深い言葉を有り難がった。 |
![]() イエス伝各書ではこの時代のイエスの教義研究の様子が語られていない。恐らく、過度なるイエスの神秘化、神格化を企図せんが為に軽視されているのであろう。 |
【「預言者イザヤの言」がイエスに天命を知らせる】 | ||
ある時、イエスに預言者イザヤの巻物が渡され、イエスがお開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。
預言者イザヤのこの語りはイエスの道しるべとなった。イエスは、会衆に話し始めた。
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![]() 「預言者イザヤの言」こそイエスの信仰立脚点になったからして、「預言者イザヤの言がイエスに与えた影響」が注目される。それによれば、主の霊が宿されいわば「神の社(やしろ)」となって神の思いを遂行する者に言及されており、イエスは我こそがその者であるとの自覚を持ったということになる。つまり、これを教義的に捉えれば、「イエス=神のやしろ」説こそそもそもの始発であったということになろうか。 |
【イエスの反イスラエル主義説法と最初の迫害】 | ||
教義研究を最終的に終えたイエスは次のように宣べた。
イエスは、福音活動を開始した。ユダヤの諸会堂に行って宣教し始めた。「ルカによる福音書」は、この頃のイエスのヨハネ同様の反イスラエル主義について次のように記している。ある時、次のように言われた。
これを聞いた会堂内の人々は皆憤慨し、総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした。しかし、イエスは人々の間を通り抜けて立ち去られた。 |
【イエスの説法の人気】 | ||
イエスはその後もガリラヤの町で請われるままに出向き教えを述べ続けた。イエスは町や村を残らず回って、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた」。安息日には会堂で教えられた。 「マルコによる福音書」には次のように記されている。
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![]() 「マルコによる福音書」は、「イエスの御教えの新鮮さ」につき、「権威ある者としてお教えになったから」と記している。果してそうであろうか。れんだいこが思うに、「人々は、律法学者の教えとは全く異なる新しい教えに驚いた」ということではなかろうか。してみれば、「権威ある者としてお教えになったからである」なる理解は為にする聖化であり、真相は、同じ神の話でありながら、日頃の律法学者やサドカイ派やパリサイ派の弁と全く違っており、内容が斬新で人々の胸を打つものがあったということであろう。 |
【イエスの病治し奇跡の御技】 |
イエスは、至るところで超能力を示し、数々の奇跡を起こし、「病直しの霊験者」としての評判を呼ぶことになる。事実、多くの人が病を治癒された。各書のイエス伝はその様を詳述している。れんだいこは、この方面のイエスの事跡を省略する。こうしてイエスの評判は高まり、不思議な技を行う者として物見高い連中に付き纏われるようになった。イエスの大いなる技を見ようとして、群衆が押し集まった。 |
【イエスの「悔い改めよ」説法、その特質】 | ||
イエスの布教には大きな特質があった。イエスは奇跡の御技を示すと共にヨハネ式福音「悔い改めよ」から始まる改心説法を続けていた。この両面に於いて、イエス=神信仰が生まれ、賛美されていった。 イエスは次のように宣べている。
「ルカによる福音書」は次のように記している。ルカ伝は癖があるのでれんだいこが意訳する。実際には次のような諭し方ではなかっただろうか。
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![]() れんだいこは、イエスの説法に対し次のことに注目する。まず、相手に応じて相応しい教義を説いていること。次に、イエスは、病助けに際し、単に病直しで終わらず、「あなたの罪は赦された」と神に変わって言葉を宣べ、「悔い改めよ」とも宣べ、今後を神の御心に添ってその義に生きる新しい生き方を促している。つまり、助かるだけではなく、その心根の変革を望む発言を残されている。この両面の卓越で、イエスの噂(うわさ)がその地方一帯に広まったと理解したい。 「ルカによる福音書」のイエスの位置づけが、「私はこの世の救世主メシアとして現れた」も注目される。 |
【最初の使徒とイエス派の伝道活動】 | |||
イエスの評判は、たちまちガリラヤ地方の隅々にまで広まった。ガリラヤ湖のほとりで、シモン(後のペトロ)とその兄弟アンデレが海で網を打っていた。この時、イエスは、次のように宣べられた。
これを聞いたシモンとアンデレは、直ぐに網を捨てイエスに従った。この二人が最初の弟子になった。ヤコブとその兄弟ヨハネが次の弟子となった。父ゼべタイと共に舟の中で網の手入れをしているのが目に留まった。イエスがこの兄弟に語りかけると、彼らもイエスに付き従い福音を述べるようになった。次に、フィリポとバルトロマイが従った。次にトマス、マタイと列なる。 「マタイによる福音書」に、この頃のイエスの福音活動が次のように記されている。
イエスが弟子を確保するのに誰でも受け入れたのではない。次の逸話が残されている。
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【この頃のイエスの性情】 |
イエスは、がリラヤ全土を廻る宣教の旅にでた。この頃のイエスの性情として、1・自然を愛する人だった。2・子供好きで子供がイエスの周りに近寄り、弟子がそれを諌めるのを叱った。3・「陰気な顔」を嫌い、「陰気な顔つきするな」と叱った等々の逸話が伝えられている。 |
【山上の垂訓】 | |||
イエスの行くところ大勢の人たちが付き従うようになった。イエスの教えをもっと聞きたいと云うものが続々現れた。次のように記されている。
こうした折の或る日、イエスは山に登り、座につかれると、近寄ってきた群衆に対して次のような説法を宣べられた。世に「山上の垂訓」と云われる。我々は、「山上の垂訓」を通じてイエス教義の何たるかを知ることができる。イエス教義はヨハネ教義を請けながらその教えを更に磨いて練っており、時の支配的仕組み、思想、論調をことごとく否定しており、信仰の義に忠実さを求めており、一種の宗教革命の呼びかけともなっている。 「山上の垂訓」が体系的な意味での「イエス教義」の初開陳となる。非常に多岐にわたって名言にちりばめられており、これはこれで値打ちがあるが、ここでは、「イエス教義」の論理を概括することとする。これを為すのは難しいがれんだいこが敢えて挑む。この時の訓示、後の説法をここで纏めてイエス教義の骨格を描写してみたい。詳細は別章「イエスの教義考、山上の垂訓考」で考察する。 その御言葉は群集の度肝を抜いた。次のように記されている。
「山上の垂訓」はイエスの名声を高め、より大勢の群衆がイエスの御教えを求めて群がることになった。 |
これより以降は、「イエスの概要履歴その2、本格的伝道からエルサレム神殿乗り込みまで」
(私論.私見)