イエスの概要履歴その3、エルサレム神殿乗り込みから拘束されるまで

 (最新見直し2006.11.3日)

 これより以前は、「イエスの概要履歴その2、本格的伝道からエルサレム神殿乗り込みまで

【イスラエルに乗り込み前のイエスの教示】
 イエスはいよいよエルサレムへ向う。先頭に立って進んで行かれた。上って行く途中、十二人の弟子だけを呼び寄せて自分の身に起ころうとしていることを話し始められた。次のように宣べられている。
 「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して、異邦人に引き渡す。人の子を侮辱し、唾を吐きかけ、鞭打ち、十字架につけ殺す。そして、人の子は三日目に復活する」。

(私論.私見) 「人の子は三日目に復活する」の予言について

 イエス派は、いよいよエルサレムへ向った。この旅路が冥土へ向うことを承知していた。十字架刑に処せられて後三日目に復活することも予言されている。これを史実と看做すか後世の脚色と看做すべきか。


【イエスの後継者談議】
 これを聞いて案じたヤコブとヨハネが進み出て、イエスに言った。「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが」。イエスが、「何をしてほしいのか」と尋ねると、二人は言った。「栄光をお受けになるとき、私どもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください」。これを解するのに、ヤコブとヨハネが「イエスの後継者的地位を私どもに与えてください」という申し出をしたことになる。

 イエスは宣べられた。
 「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。この私が飲む杯を飲み、この私が受ける洗礼を受けることができるか」。

 彼らが、「できます」と言うと、イエスは宣べられた。
 「確かに、あなたがたは私が飲む杯を飲み、私が受ける洗礼を受けることになる。しかし、私の右と左に誰が座るかは、私の決めることではない。それは、私の父によって定められた人々に許されるのだ」。
(私論.私見)

 これを解するのに、イエス没後の後継者はイエスの一任になるのではなく、神の御心による、と返答していることになる。

 他の十人の者は、ヤコブとヨハネの後継者自薦の動きに反発した。そこで、イエスは一同を呼び寄せて宣べられた。
 「あなたがたも知っているように、異邦人の間では王侯貴族たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。彼らは守護者として崇められている。しかし、我々の組織ではそうであってはならない。我々の組織の中で一番権限を持つ者は、皆に最も仕える者になり、最上級の者は皆の下僕にならねばならない。人の子は、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。食事の席に着く人と給仕する者とは、どちらが偉いか。食事の席に着く人ではないか。しかし、私はあなたがたの中で、いわば給仕する者である。あなたがたは、私が種々の試練に遭ったとき、絶えず私と一緒に踏みとどまってくれた。だから、私の父が私に支配権をゆだねてくださったように、私もあなたがたにそれをゆだねる」。
 「あなたがたは、私の国で私の食事の席に着いて飲み食いを共にし、王座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる」。
(私論.私見) 「イエスの後継者に関する御言葉」について

 イエスは、イエス教義の法灯を継ぐ者に対して、「我々の組織の中で一番権限を持つ者は、皆に最も仕える者になり、最上級の者は皆の下僕にならねばならない」と宣べられている。それは、上席へ行けば行くほど偉くなる世上の組織の権威主義的基準の逆を行くようにとの御教えとなっていた。イエス派はこのことを深く銘しておくべきだろう。同時に、イエス派のみならずに通用する御教えではなかろうか。

 ところで、イエスは、末尾の「王座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる」という物言いをしただろうか。新約聖書の福音書は各書に於いて記述が違っているが、それは福音者の思想がイエスの言葉を借りて書き付けられている可能性があることを証しているに思われる。この物言いは典型的なそれではなかろうか。

【イスラエル乗り込み道中の様子】
 イエスは、十二人の使徒のほかに七十二人を任命し、御自分が行くつもりのすべての町や村に二人ずつ先に遣わされた。

 ユダヤ人の過越祭が近づいたので、イエスはエルサレムへ上って行かれた。イエスは、子ろばの上に自分の服をかけ、それにお乗りになった。多くの従者を引き連れてそのままエルサレムに入られた。街中が騒然とし、「主よ、ダビデの子よ」と叫ぶ者もいた。「この方は、ガリラヤのナザレから出た預言者イエスだ」と紹介する人もいた。「大預言者が我々の間に現れた」、「遂に予言が実行される日が来た」、「神はユダヤの民を心にかけてくださったのだ」と云う者も現れた。イエスについてのこれらの話がユダヤの全土と周りの地方一帯に広まった。

【イスラエルに乗り込む。神殿乗り込み時のイエス及びイエス派の行動】
 遂にイエス派がエルサレムに到着し、神殿に乗り込んだ。境内に入り、神殿の境内で牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを御覧になった。イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、売り買いをしていた人々を皆追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、鳩を売る者の腰掛けをひっくり返された。境内を通って物を運ぶこともお許しにならなかった。その者たちにに次のように宣べられた。
 「こう書いてあるではないか。『私の家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである』。ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしている。このような物はここから運び出せ。私の父の家を商売の家としてはならない」。
(私論.私見) 「神殿乗り込み時のイエスの行動」について

 新約聖書は、イエス派がイスラエル神殿に乗り込んだときの振る舞いはこうであったと伝えている。我々はこれをどう解するべきだろうか。今日的な道徳道理基準で云えば、イエス及びイエス派の行状は激しく弾劾されることになろう。我々はどう観るべきだろうか。れんだいこは、イエスが信仰的原理派であり、それ故にイスラエル神殿内外での商行為を神の神聖を冒涜しているとして、それを許容しているイスラエル神殿本部派の信仰の腐敗まで見通し、「私の父の家を商売の家としてはならない」との御言葉をもって追い出し行為に出たと思料する。

 実にイエスの信仰とはかく純潔を尊ぶものであることを逆に知るべきではなかろうか。以下の逸話も同じである。

【イエス派の所業に抗議する神殿権力派、これに対するイエスの御言葉】
 神殿を管轄している祭司長たちや、律法学者たちは、イエスの所業とその説法に憤慨した。イエスに、意訳概要「何というひどいことをする。あなたは、こんなことをするからにはその権限を証さねばならない。どんなしるしを私達に見せるつもりか」と迫った。イエスは次のように宣べられた。
 意訳概要「今や神殿はその取り巻き派により穢れている。神殿は立て直されねばならない。私の御技をみたいと云うなら、仮にこの神殿を壊してみよ。私なら三日で建て直してみせる」。

 司祭達は、「この神殿は建てるのに四十六年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか」と言ってあきれた。


 イエスが神殿の境内を出て行かれるとき、弟子の一人が神殿が見事な石と奉納物で飾られているのを指さして言った。「先生、御覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう」。イエスは宣べられた。
 意訳概要「大きな建物に幻惑されてはいけない。これらの見せ掛けは何の役にも立たない。滅びの日がやってくきた暁には、ここにある石一つでさえ崩されずに他の石の上に残ることはない」。

【「心よりの献金」について】
 この時のことと思われるが、イエスの次のような教話が刻まれている。イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。大勢の金持ちがたくさん入れていた。ところが、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚を入れた。イエスは、弟子たちを呼び寄せて宣べられた。
 「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、誰よりもたくさん入れた。金持ちたちは皆、有り余る中から献金したが、この人は、乏しい中から自分の為しえる目いっぱいのもの入れたからである。神はこういう信仰を喜ぶのだ」。

 この問題に関連するイエスの教えに次のようなものもある。イエスは次の例え話をされている。
 「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はパリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。パリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、私はほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。私は週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています』。他方、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人の私を憐れんでください』。言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのパリサイ派の人ではない。誰でも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々神の御心に適わない」。

【イエスの神殿境内での群集との対話の様子】
 イエス派はその後何度も神殿にやって来て、イエスは境内で教えを宣べ始めた。日中は神殿の境内で教え、夜は出て行って「オリーブ畑」と呼ばれる山で過ごされた。大勢の群集がイエスの話を聞こうとして、イエスのもとに朝早くから集まって来た。群衆の間では、イエスのことがいろいろとささやかれていた。「良い人だ」と言う者もいれば、「いや、群衆を惑わしている」と言う者もいた。

 群集達が驚いたのは、イエスの学識の深さであった。「この人は、学問をしたわけでもないのに、どうして聖書をこんなによく知っているのだろうと不思議がった」と記されている。これに対し、イエスは次のように宣べられた。
 「私の教えは、自分の教えではなく、私をお遣わしになった方の教えである。この方の御心を行おうとする者は、私の教えが神から出たものか、私が勝手に話しているのか、分かるはずである」。

【イエスの神殿境内での神殿本部派との問答と教話】
 祭司長、長老、律法学者達がやってきて問答が始まった。「あなたは何の権威でこのようなことをしているのか。誰がそうする権威を与えたのか」と詰問した。イエスは次のように宣べられた。
 「では、私も一つ尋ねる。それに答えるなら、私も、何の権威でこのようなことをするのか、あなたたちに言おう。ヨハネの洗礼はどこからのものだったか。天からのものか、それとも、人からのものか」。

 彼らは論じ合った。意訳概要「『天からのものだ』と答えれば、『では、なぜヨハネを信じなかったのか』と我々を責めるだろう。『人からのものだ』と答えれば、ヨハネを預言者として信奉しているヨハネ派の反発が必死だ。それは拙い」。そこで、彼らはイエスに、「分からない」と答えた。すると、イエスも宣べられた。
 「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい」。

 イエスは更に宣べられた。(イエスは例え話をしているが、却って分かりにくいので、れんだいこがその真意を次のように意訳する)
 意訳概要「教義を信ぜずとも御教えを守る者と、口先では教義を唱えつつも御教えを守らない者と、どちらが偉いか、悪いのか。この二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたか。どちらが先に神の国に入るだろうか」。

 尋ねられた祭司長や長老が訝りながらも、「御教えを守る者の方が神の国に入る」と応えると、イエスは宣べられた。
 「はっきり言っておく。『口先では教義を唱えつつも御教えを守らない者』とはあなた方のことである。それに対して、『教義を信ぜずとも御教えを守る者』とは徴税人や娼婦たちのことである。今あなた方は、『教義を信ぜずとも御教えを守る者の方が神の国に入るべし』と云われた。ならば、徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。なぜなら、ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたたちは彼を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。あなたたちはそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとしなかった」。

 更に、イエスは宣べられた。
 意訳概要「本来、神の国のものを勝手に私物化し、その利益の為に専横をままにする。法律でそれを正当化しようとしている。その禁を破る者に対して報復の論理で刑罰を科する。やられた方も報復する。これが繰り返される。こうして、果てしなく混乱し次第に世の中が悪くなっている。これがあなた方の遣り口であるが、これは、あなた方が恩義を軽んずることから起こっている。聖書にはこう書いてあるのを読んだことがないのか。『家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、私達の目には不思議に見える』。間もなくやってくる神の国はまず、私物思想で邪険に凝り固まった者達の財産を奪い、健全な社会づくりを為す人々に権力を渡す。これは神の断固たる決意である」。

 更に、イエスは宣べられた。
 意訳概要「あなた方は、間違った仕組みの中で、善意を呼びかけ、その善意が敵意で返され、ならばと帳尻あわせで善意を売り物にしている。あなた方の虚実を見抜き、それに服さなかった者を罰している。あなた方の遣り方は全て砂上の楼閣である。我々は、この歪みを正さねばならない」。

 イエスは次の言葉も刻まれている。
 意訳概要「モーセはあなたたちに律法を与えたではないか。ところが、あなたたちは誰もその律法を守らない。なぜ、私を殺そうとするのか。うわべだけで裁くのをやめ、神の道に適う正しい裁きをしなさい」。
 「あなたたちは、悪魔である父から出た者であって、その父の欲望を満たしたいと思っている。悪魔は最初から人殺しであって、真理をよりどころとしていない。悪魔が偽りを言うときは、その本性から言っている。自分が偽り者であり、その父だからである。あなたたちのうち、いったい誰が、私に罪があると責めることができるのか。私は真理を語っているのに、なぜ私を信じないのか。神に属する者は神の言葉を聞く。あなたたちが聞かないのは神に属していないからである」。

 祭司長、長老、パリサイ派の人々は、イエスのこれらの話を聞いて烈火のごとく怒りイエスを捕らえようとしたが、群衆を恐れた。群衆はイエスの言に信を置いたからである。それで、イエスをその場に残して立ち去った。

【イエスとパリサイ派とのもう一つの問答、婦人の姦通、離縁問答】
 イエスは朝早く、再び神殿の境内に入られた。民衆がやって来たので、座って教え始められた。そこへ、律法学者たちやパリサイ派の面々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、イエスに言った。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか」。明らかにイエスを試そうとしていた。イエスを訴える口実を得ようとして、このように問うた。

 イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。律法学者たちやパリサイ派の面々がしつこく問い続けた。イエスは身を起こして宣べられた。
 「あなたたちの中で、心の中でさえ姦通の罪を犯したことのない者が居れば、その人たちがまず、この女に石を投げなさい」。

 そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、最後にイエスひとりと、真ん中にいた女が残った。

 イエスは、身を起こして宣べられた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。誰もあなたを罪に定めなかったのか」。女が、「主よ、誰も」と言うと、イエスは宣べられた。
 「私もあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」。

 いつの頃の遣り取りか不明であるが、婦人の離縁問題に対して次のような遣り取りをしている。パリサイ派が、「夫は妻を出しても差し支えないでせうか」と尋ねた。イエスは、次のように宣べられている。
 「モーゼはあなた方に何と命じたのか。(これに対して、パリサイ派が「モーゼは離縁状を書いて妻を出すことを赦しました」と答えた) モーゼは、あなた方の心が頑(かたく)ななので、あなた方の為にこの定めを書いたのである。しかし、天地創造の初めから、神は人を男と女に造られた。それ故に、人はやがて父母を離れ、二人の者は一体となるように造られている。彼らは、神が合わせた者であり、神の義に添っている者達を人の義で離してはならない」。

【パリサイ派の謀議、教義問答】
 パリサイ派は、イエスの言葉じりをとらえて罠にかけようとして謀議し始めた。パリサイ派は、ヘロデ王派の者を巻き込み、イエス派を騙ってイエスのところに向かわせ、ヘロデ王の怒りを買いそうな問題を質問させた。「先生、私達は、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、誰をもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てせず、真理に基づいて神の道を教えておられるからです」と褒め称えた後、「ところで、どうお思いでしょうか、お教えください。皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。納めるべきでしょうか、納めてはならないのでしょうか」。

 イエスは、その質問の裏にある悪意を見抜き、次のように宣べられた。「偽善者たち、なぜ、私を試そうとするのか。税金に納めるお金を見せなさい」。彼らがデナリオン銀貨を持って来ると、イエスは、「これは、誰の肖像と銘か」と言われた。彼らは、「皇帝のものです」と言った。すると、イエスは宣べられた。
 「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」。
(私論.私見) 

 れんだいこが解するのに、世上の話と信仰の話を混ぜて質問し、あわよくば税金を納める必要が無いとの返答を引き出し、さもなくとも返答に窮せしめようとする彼らの企み見事に衝いて、「世上権力のことは世上で解決すれば良い。私が問題にしているのは、信仰の在り方の問題である。願わくば、信仰論議で遣り取りされんことを」と切り返したことになる。

 彼らはこれを聞いて驚き、イエスをその場に残して立ち去った。

 ならばと、パリサイ派の律法学者の権威が、イエスを信仰論議で試そうとして尋ねた。「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか」。イエスは宣べられた。
 意訳概要「イスラエル神殿に巣食う者達よ聞け、私達の神である主は、唯一の主である。その主はは、『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい』と指導されている。これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい』と指導されている。本来の律法全体と預言者の言は、この二つの掟に基づいている。この二つにまさる掟はほかにない」。

 律法学者のうちの或る者は、イエスに抗すべくも無く次のように返答させられるはめになった。「先生、おっしゃるとおりです。『神は唯一である。ほかに神はない』とおっしゃったのは、本当です。そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています」。イエスは、或る者が律法学者の権威が邪心を捨て、教義に誠実な答えをしたのを見て、「あなたは、神の国から遠くない」と宣べられた。

【イエスの逆攻勢教義問答】
 イエスの方からパリサイ派の集いに出向き、逆に質問し試されている。
 「どうして律法学者たちは、『メシアはダビデ王の子だ』と言うのか。あなたたちはメシアのことをどう思うか。誰の子だろうか」。
(私論.私見) 

 これを解するのに、当時の律法学者たちが、世上権力に阿ねて、「創造主メシアは世上権力者ダビデの子だ」と教説していたことが判明する。

 彼らが、「ダビデ王の子です」と言うと、イエスは宣べられた。
 「では、どうしてダビデは、霊を受けて、メシアを主と呼んでいるのだろうか。ダビデ自身が聖霊を受けて言っている。『主は、わたしの主にお告げになった。“わたしの右の座に着きなさい、わたしがあなたの敵をあなたの足もとに屈服させるときまで”と』。このようにダビデ自身がメシアを主と呼んでいるのであれば、どうしてメシアがダビデの子なのか」。
(私論.私見) 

 これを解するのに、イエスは、当時の律法学者たちが、世上権力者に都合の良いように教義を歪めている不正に対して、その核心部分を鋭く衝いたことになる。

 「大勢の群衆は、イエスの教えに喜んで耳を傾けた。これには誰一人、ひと言も言い返すことができず、その日からは、もはやあえて質問する者はなかった」と記されている。

【サドカイ派との教義問答】
 イエスを批判する者は、司祭者、律法学者、パリサイ派だけではなかった。パリサイ派と対立していたるサドカイ派も又イエスを試そうとして教義問答を仕掛けた。或る時、復活はないと言っているサドカイ派の人々がやって来て、イエスに尋ねた。「先生、モーセは言っています。『ある人の兄が死に、妻を後に残して子がない場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と。さて、私達のところに、七人の兄弟がいました。長男は妻を迎えましたが死に、跡継ぎがなかったので、その妻を弟に残しました。次男も三男も、ついに七人とも同じようになりました。最後にその女も死にました。すると復活の時、その女は七人のうちのだれの妻になるのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのです」。

 イエスはお答えになった。
 「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている。復活の時には、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。死者の復活については、モーセの書の『柴』の個所で、神がモーセにどう言われたか、読んだことがないのか。『私はアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。あなたたちは大変な思い違いをしている」。

 群衆はこれを聞いて、イエスの教えと遣り取りの見事さに驚き感嘆した。

【イスラエルでのイエスの公開教話、激烈な律法学者、パリサイ派批判
 こういう遣り取りを終えた後、イエスは、群衆と弟子たちを前にして、次のように律法学者たちやパリサイ派批判を宣べられた。
 意訳概要「パリサイ派の者達は偽善者である。マムシの子である。あなたたちは悪魔である父から出た者であって、その父の欲望を満たしたいと思っている者達である。悪魔は最初から人殺しである故に人殺しを好んでいる」。

 それはあまりにも痛烈で激烈なものであった。この時、「山上の垂訓」以来のイエス教義の体系的開陳が為されている。   
 概要「パリサイ派のパン種話しに注意しなさい。それは偽善である。『覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはない』。いずれその悪事は裁かれる。恐れるべきは、裁きの日に地獄に投げ込む権威を持っている方である。この方を恐れなさい。人の子の悪口を言う者は皆赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は赦されない」。
 概要「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。あなたがたのうちの誰が、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。野原の花がどのように育つかを考えてみなさい。働きもせず紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。それはみな、世の異邦人が切に求めているものだ。ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる。自分の持ち物を売り払って施しなさい。擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい。そこは、盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない」。
 概要「律法学者たちやパリサイ派の人々は、モーセの教えを守るという口実の元にその座に着いている。彼らが言うことは、、モーセの教えであるから、それを行い、守れば良い。問題は、彼らの行いにある。これを見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである」。
 概要「彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない。そのすることは、すべて人に見せるためである。聖句の入った小箱を大きくしたり、衣服の房を長くしたりする。宴会では上座、会堂では上席に座ることを好み、また、広場で挨拶されたり、『先生』と呼ばれたりすることを好む」。
 概要「だが、地上における『先生』呼ばわりは僭越である。本来、師は一人だけで、あとは皆一列兄弟である。地上の者を『父』と呼んではならない。父は天の父おひとりだけである。『教師』と呼ばれてもいけない。教師はキリスト一人だけである。あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。誰でも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」。
 概要「律法学者に気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって歩き回ることや、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを望み、また、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる」。
 概要「律法学者たちとパリサイ派は偽善者である。天の国を見せながらそれを閉ざす為に立ち働いている。自分が入らないばかりか、入ろうとする人をも入らせない。信奉者を獲得するために熱心に活動しているが、天の国に招くのではなく、地獄の子にしてしまっている。律法学者たちとパリサイ派は分別の愚かな案内人である。神殿での純粋な信仰心が軽視され、祭壇の黄金が崇拝されている。供える黄金の多寡が信仰心の厚さを証しているとしてそれが義務化されている。余りにも御教えを愚弄している。祭壇の黄金と、黄金を清める神殿と、どちらが尊いか。黄金を重視させようとするする律法学者たちとパリサイ派の教えは邪宗である。祭壇を崇拝する教義ではなく、神殿にかけて誓う教義、神殿とその中に住んでおられる方にかけて誓う教義を再興せねばならない。神の玉座とそれに座っておられる方にかけて誓う宗教を取り戻さねばならない」。
 概要「律法学者よ、パリサイ派よ、あなたたち偽善者は不幸だ。あなた方は、律法の中で最も重要な正義、慈悲、誠実をないがしろにしている。これこそ行うべきことである。もとより、献げ物は大事でありないがしろにしてはならないが。律法学者よ、パリサイ派よ、あなたたち偽善者は不幸だ。外形的な信仰は見栄え良くしているから美しく見えるが、内側は強欲と放縦と悪意に満ちており汚れている。信仰心の内側こそきれいにせよ。そうすれば、外側もきれいになる。あなた方は、外側は人に正しいように見えながら、内側は偽善と不法で満ちている」。
 概要「律法学者よ、パリサイ派よ、あなたたち偽善者は不幸だ。預言者の墓を建てたり、正しい人の記念碑を飾ったりしている。しかし、『もし先祖の時代に生きていても、預言者の血を流す側にはつかなかったであろう』などと平気で言う。その言は、己が預言者を殺した者たちの子孫であることを自ら証明している。先祖が始めた悪事の仕上げをしたらどうだ。蛇よ、蝮の子らよ、どうしてあなたたちは地獄の罰を免れることができようか」。
 概要「律法学者よ、パリサイ派よ、あなたたち偽善者は不幸だ。幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である。しかるにあなた方は、人には背負いきれない重荷を負わせながら、自分では指一本もその重荷に触れようとしない。知識の鍵を取り上げ、自分が入らないばかりか、入ろうとする人々をも妨げてきた」。
 概要「あなた達の手により、預言者、知者、学者が殺され、十字架につけられ、会堂で鞭打たれ、町から町へと追い回されて迫害された。正しい人アベルの血から、あなたたちが聖所と祭壇の間で殺したバラキアの子ゼカルヤの血に至るまで、地上に流された正しい人の血はすべて、あなたたちの所業である。はっきり言っておく。これらのことに対して責任が問われ、報いを受ける日が必ずやって来る」。
(私論.私見) 「イエスの公開教話、激烈な律法学者、パリサイ派批判」について

 イエスの口から迸り出たこの珠玉の教説を見よ聞け。信仰的には、これぞまさしく神の御言葉であった。そう拝するべきだろう。

【オリーブ山での「滅びの日の予言」】
 イエス派は、「オリーブ畑」と呼ばれる山に篭っていた。この山はエルサレムに近く、安息日にも歩くことが許される距離の所にあった。

 イエスはオリーブ山で神殿の方を向いて座っておられた。弟子たちがやって来て、ひそかに言った。「おっしゃってください。滅びの日はいつやって来るのですか。また、そのことがすべて実現するときには、どんな徴があるのですか」。

 イエスは、「滅びの日」の兆候を次のように語って聞かせた。
 意訳概要「惑わされないように気をつけなさい。私の名を名乗る者が大勢現れ、『私がメシアだ』、『時が近づいた』と言って、多くの人を惑わすだろう。ついて行ってはならない。戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞くだろうが、慌てないように気をつけなさい。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。世の終わりはすぐには来ないからである」。
 「民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい現象や著しい徴が天に現れる。しかし、これらはすべて産みの苦しみの始まりである」。
 「そのとき、あなたがたは自分のことに気をつけていなさい。苦しみを受け、殺される。また、私の名のために、あなたがたはあらゆる民に憎まれる。あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で打ちたたかれる。また、私のために総督や王の前に立たされて、証しをすることになる。しかし、まず、福音があらゆる民に宣べ伝えられねばならない。引き渡され、連れて行かれるとき、何を言おうかと取り越し苦労をしてはならない。そのときには、教えられることを話せばよい。実は、話すのはあなたがたではなく、聖霊なのだ」。
 「そのとき、多くの人がつまずき、互いに裏切り、憎み合うようになる。兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して殺すだろう。偽預言者も大勢現れ、多くの人を惑わす。不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える。あなたがたは親、兄弟、親族、友人にまで裏切られる。中には殺される者もいる。また、私の名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない。忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい。そして、御国のこの福音はあらゆる民への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。それから、終わりが来る」。
 「預言者ダニエルの言った憎むべき破壊者が、聖なる場所に立つのを見たら(エルサレムが軍隊に囲まれるのを見たら)、その滅亡が近づいたことを悟りなさい。その時、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。都の中にいる人々は、そこから立ち退きなさい。田舎にいる人々は都に入ってはならない。書かれていることがことごとく実現する報復の日だからである。この地には大きな苦しみがあり、この民には神の怒りが下るからである。屋上にいる者は、家にある物を取り出そうとして下に降りてはならない。畑にいる者は、上着を取りに帰ってはならない。それらの日には、身重の女と乳飲み子を持つ女は不幸だ。このことが冬に起こらないように、祈りなさい。それらの日には、神が天地を造られた創造の初めから今までなく、今後も決してないほどの苦難が来るからである」。
 「神がその期間を縮めてくださらなければ、だれ一人救われない。しかし、神は選ばれた人たちのために、その期間を縮めてくださるであろう。そのとき、『見よ、ここにメシアがいる』、『いや、ここだ』と言う者がいても、信じてはならない。偽メシアや偽預言者が現れて、大きなしるしや不思議な業を行い、できれば、選ばれた人たちをも惑わそうとするからである」。
 「あなたがたには前もって言っておく。だから、人が『見よ、メシアは荒れ野にいる』と言っても、行ってはならない。また、『見よ、奥の部屋にいる』と言っても、信じてはならない。稲妻が東から西へひらめき渡るように、人の子も来るからである。死体のある所には、はげ鷹が集まるものだ」。
 「彼らは剣の刃に倒れ、又捕えられて諸国へ引き行かれるであろう。そしてエルサレムは、異邦人の時期が満ちるまで、彼らに踏みにじられているであろう」。
 「その苦難の日々の後、太陽と月と星に徴が現れる。たちまち太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は空から落ち、天体は揺り動かされる。地上では海がどよめき荒れ狂う。そのとき、地上のすべての民族は悲しみ、なすすべを知らず、不安に陥る。その時、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。人の子は、大きなラッパの音を合図にその天使たちを遣わす。天使たちは、天の果てから果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ」。

 イエスは、次のようなたとえ話しもされた。
 「いちじくの木から教えを学びなさい。枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる。それと同じように、あなたがたは、これらすべてのことを見たなら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい。神の国が近づいていると悟りなさい。はっきり言っておく。これらのことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない。天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」。
 「その日を迎えて、放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい。さもないと、その日が不意に罠のようにあなたがたを襲うことになる。その日は、地の表のあらゆる所に住む人々すべてに襲いかかるからである。しかし、あなたがたは、起ころうとしているこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい」。
 「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである。稲妻がひらめいて、大空の端から端へと輝くように、人の子もその日に現れる。しかし、人の子はまず必ず、多くの苦しみを受け、今の時代の者たちから排斥されることになっている。ノアの時代にあったようなことが、人の子が現れるときにも起こるだろう。洪水になる前は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。そして、洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気がつかなかった。人の子が来る場合も、このようである。ロトの時代にも同じようなことが起こった。人々は食べたり飲んだり、買ったり売ったり、植えたり建てたりしていたが、ロトがソドムから出て行ったその日に、火と硫黄が天から降ってきて、一人残らず滅ぼしてしまった。人の子が現れる日にも、同じことが起こる」。
 「その日には、屋上にいる者は、家の中に家財道具があっても、それを取り出そうとして下に降りてはならない。同じように、畑にいる者も帰ってはならない。ロトの妻のことを思い出しなさい。自分の命を生かそうと努める者は、それを失い、それを失う者は、かえって保つのである。そのとき、畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。二人の女が臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである。それは、ちょうど、家を後に旅に出る人が、僕たちに仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目を覚ましているようにと、言いつけておくようなものだ。このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒が夜のいつごろやって来るかを知っていたら、目を覚ましていて、みすみす自分の家に押し入らせはしないだろう。だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである」。
 「主人がその家の使用人たちの上に立てて、時間どおり彼らに食事を与えさせることにした忠実で賢い僕は、いったいだれであろうか。主人が帰って来たとき、言われたとおりにしているのを見られる僕は幸いである。はっきり言っておくが、主人は彼に全財産を管理させるにちがいない。しかし、それが悪い僕で、主人は遅いと思い、仲間を殴り始め、酒飲みどもと一緒に食べたり飲んだりしているとする。もしそうなら、その僕の主人は予想しない日、思いがけない時に帰って来る」。

【イエスの天国論、救済論】
 イエスは、次のような「天国論、救済論」を宣べられている。
 「そこで、天の国は次のようにたとえられる。十人の乙女(おとめ)がそれぞれ灯(とも)し火を持って、花婿を迎えに出て行く。そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった。愚かな乙女たちは、灯し火は持っていたが、油の用意をしていなかった。賢い乙女たちは、それぞれの灯し火と一緒に、壷に油を入れて持っていた。ところが、花婿の来るのが遅れたので、皆眠気がさして眠り込んでしまった。真夜中に『花婿だ。迎えに出なさい』と叫ぶ声がした。そこで、乙女たちは皆起きて、それぞれの灯し火を整えた。愚かな乙女たちは、賢い乙女たちに言った。『油を分けてください。私たちの灯し火は消えそうです』。賢い乙女たちは答えた。『分けてあげるほどはありません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい』。愚かな乙女たちが買いに行っている間に、花婿が到着して、用意のできている五人は、花婿と一緒に婚宴の席に入り、戸が閉められた。その後で、他の乙女たちも来て、『御主人様、御主人様、開けてください』と言った。しかし主人は、『はっきり言っておく。私はお前たちを知らない』と答えた。だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから」。
 「天の国はまた次のようにたとえられる。ある人が旅行に出かけるとき、僕たちを呼んで、自分の財産を預けた。それぞれの力に応じて、一人には5タラントン、一人には2タラントン、もう一人には1タラントンを預けて旅に出かけた。早速、5タラントン預かった者は出て行き、それで商売をして、ほかに5タラントンを儲けた。同じように、2タラントン預かった者も、ほかに2タラントンを儲けた。しかし、1タラントン預かった者は、出て行って穴を掘り、主人の金を隠しておいた。さて、かなり日がたってから、僕たちの主人が帰って来て、彼らと清算を始めた。まず、5タラントン預かった者が進み出て、ほかの5タラントンを差し出して言った。『御主人様、5タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに5タラントン儲けました』。主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ』。次に、2タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、2タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに2タラントン儲けました』。主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ』。ところで、1タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠しておきました。御覧ください。これがあなたのお金です』。主人は答えた。『怠け者の悪い僕だ。わたしが蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集めることを知っていたのか。それなら、わたしの金を銀行に入れておくべきであった。そうしておけば、帰って来たとき、利息付きで返してもらえたのに。さあ、そのタラントンをこの男から取り上げて、10タラントン持っている者に与えよ。だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。この役に立たない僕を外の暗闇に追い出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう』」。
 「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、私が飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ』。すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつ私たちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか』。そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、私にしてくれたことなのである』。それから、王は左側にいる人たちにも言う。『呪われた者ども、私から離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。お前たちは、私が飢えていたときに食べさせず、のどが渇いたときに飲ませず、旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかったからだ』。すると、彼らも答える。『主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか』。そこで、王は答える。『はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、私にしてくれなかったことなのである』。こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかるのである」。

【イエスの十字架刑予言】
 イエスはこれらの言葉をすべて語り終えると、弟子たちに宣べられた。
 「あなたがたも知っているとおり、二日後は過越祭である。人の子は、十字架につけられるために引き渡される」。

 そのころ、祭司長たちや民の長老たちは、カイアファという大祭司の屋敷に集まり、計略を用いてイエスを捕らえ、殺そうと相談した。しかし彼らは、「民衆の中に騒ぎが起こるといけないから、祭りの間はやめておこう」と言っていた。

 この頃、イエスはベタニアでらい病の人シモンの家に居た。この時、一人の女が、極めて高価な香油の入った石膏の壷を持って近寄り、食事の席に着いておられるイエスの頭に香油を注ぎかけた。弟子たちはこれを見て、憤慨して言った。「なぜ、こんな無駄使いをするのか。高く売って、貧しい人々に施すことができたのに」。

 イエスは、次のように宣べている。
 「なぜ、この人を困らせるのか。私に良いことをしてくれたのだ。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、私はいつも一緒にいるわけではない。この人は私の体に香油を注いで、わたしを葬る準備をしてくれた。はっきり言っておく。世界中どこでも、この福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう」。
(私論.私見) 「イエスの公開教話、激烈な律法学者、パリサイ派批判」について

 イエスのこの予言能力はそれとして窺うべきだろうか。れんだいこは定見を持たない。いずれにせよ、イエスはここで、みき教義で云うところの「後々の話の台になるほどに」と宣べていることになる。そう解すべきだろう。

【ユダの裏切り】
 そのとき、十二人の一人であったイスカリオテのユダが、祭司長たちのところへ行き、「あの男をあなたたちに引き渡せば、幾らくれますか」と言った。そこで、彼らは銀貨三十枚を支払うことにした。そのときから、ユダはイエスを引き渡そうと、良い機会をねらっていた。
(私論.私見)

 福音書はかく記しているが、ユダがなぜイエスを裏切ったのか、それにはどういう事情があったのか、本当のところは未だ明らかにされていない。いずれにせよ、ユダの末路は哀れであった。「後悔して祭司長の元へ賄賂を返し、出て行って首を吊って死んだ」とも「或る土地を手に入れたが、まっ逆さまに落ちて、腹が真ん中から引き裂け、はらわたが皆流れ出てしまった」と記されている。要するに、碌な目に遭わなかったということであろう。

【最後の晩餐】
 除酵祭の第一日目の夕方、イエスは十二人と一緒に食事の席に着かれた。イエスは杯を取り上げ、感謝の祈りを唱えてから宣べられた。
 「あなたがたは、私の試練の間、私と一緒に最後まで忍んでくれた人たちである。私は、あなたがたとこの過越の食事をしようと切に望んでいた。これを取り、互いに回して飲みなさい」。

 イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、使徒たちに与えながら宣べられた。
 「取って食べなさい。これは私の体である。私の記念として取りなさい」。

 イエスは、イエスが飲み干した盃を廻しながら宣べられた。
 「皆、この杯から飲みなさい」。

 一同が飲み干したのを見届け、杯を取り、感謝の祈りを唱えた後、次のように宣べられた。
 「この杯は、私の血による新しい契約である。はっきり言っておく。私の父である神の国で新たに飲むその日まで、今後ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい」。

 イエスは更に宣べられた。
 「はっきり言っておく。あなたがたのうちの一人が私を裏切ろうとしている。私と一緒に手を食卓に置いている。人の子は、定められたとおり去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ」。

 弟子たちは心を痛めて、「誰がそんなことをしようとしているのだ。まさか私のことをそのように云われているのだろうか」と代わる代わる言い始めた。

 イエスはお答えになった。
 「私と一緒に手で鉢に食べ物を浸した者が、私を裏切る。人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった」。

 イエスを裏切ろうとしていたユダが口をはさんで、「先生、まさかわたしのことでは」と言うと、イエスは宣べられた。
 「それはあなたの言ったことだ」。

 経緯は分からないが、この時、弟子たちが護身用の二振りの剣をイエスに差し出したとも伝えられている。してみれば、最後の晩餐の真相は未だ藪の中と云えそうである。

【イエスの最後の予言】
 一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた。

 そのとき、イエスは弟子たちに宣べられた。
 「今夜、あなたがたは皆私につまずく。『私は羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散ってしまう』と書いてあるからだ。しかし、私は復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く」。

 するとペトロが、「たとえ、みんながあなたにつまずいても、私は決してつまずきません」と言った。イエスは宣べられた。
 「はっきり言っておく。あなたは今夜、鶏が鳴く前に、三度私のことを知らないと言うだろう」。

 ペトロは、「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と言った。弟子たちも皆、同じように言った。

 一同がゲツセマネの園という所に来ると、イエスは弟子たちに、「わたしが祈っている間、ここに座っていなさい」と宣べられた。そして、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを伴われたが、イエスはひどく恐れてもだえ始め、彼らに宣べられた。
 「私は死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい」。

 少し進んで行って地面にひれ伏し、「できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るように」と祈り、こう宣べられた。
 「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯を私から取りのけてください。しかし、私が願うことではなく、御心に適うことが行われますように」。

 それから、戻って御覧になると、弟子たちは眠っていたので、ペトロに宣べられた。
 「シモン、眠っているのか。わずか一時も目を覚ましていられなかったのか。誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い」。

 更に、向こうへ行って、祈られた。
 「父よ、私が飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように」。

 再び戻って御覧になると、弟子たちは眠っていた。ひどく眠かったのである。彼らは、イエスにどう言えばよいのか、分からなかった。イエスは彼らを離れ、また向こうへ行って、三度目も同じ言葉で祈られた。戻って来て宣べられた。
 「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。もうこれでいい。時が来た。人の子は罪人たちの手に引き渡される」。

 ゲツセマネの園が、イエス逮捕直前の最後の苦悩の夜となった。

 これより以降は、「イエスの概要履歴その4、拘束から処刑されるまで





(私論.私見)