補足・パリサイ派との問答考 |
【「ユダヤ教原理派からするイエス・キリスト教批判の構図」】 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
I・B・プラナイティス師著「仮面に剥がされたタルムード」というのがあるようである。その見出しを転載しておく。ユダヤ教原理派からするイエス・キリスト教批判の構図が分かる。
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【「荒野での悪魔思想との問答考その1」】 | |||
イエスのパリサイ派との問答は、そもそもイエスの立教の始発に認められる。いわゆる「荒野での悪魔との問答」がそれである。この時、イエスは、パリサイ派とどういう遣り取りをしたのか。それを確認する。「イエス・キリスト論の「イエスの概要履歴その1、誕生から『山上の垂訓』まで」の「荒野での悪魔思想との問答」に既述しているが、これを確認する。 イエスは、ヨハネの洗礼を受けた後、期間はどれくらいか分からないがヨハネ教団の集団生活に入った。しかし、その禁欲主義、修行主義に得心できなかったのか、既に全てを修得したのか、やがてそこを出て自立していくことになる。イエスはさし当って、40日間に及ぶ荒野での断食修行を行い、自らの霊能力を試している。この時、「荒野での悪魔思想との問答」に出くわしている。公認キリスト教義ではこれを神秘的に解しているが、れんだいこがこれを解釈するのに、イエスの名声を聞いたパリサイ派の然るべき地位の者(仮に「パリサイ派長老」と命名する)がイエスの修行の場へ出向き、彼らの組織する秘密結社への勧誘いわゆるオルグしたのではないかと思われる。 パリサイ派長老は、その秘密結社に入ることによる便宜即ち立身出世が保証され然るべき権力が与えられる等世俗的な利点を縷々述べたようである。一通りの説明を聞いた後のイエスの言葉は次のようなものであった。
つまり、イエスは、パリサイ派長老による便宜主義的な甘言オルグに対して、「神の義の信仰」に反する旨を指摘し、断ったと受け取らせていただくことができる。「悪魔の囁き峻拒その1」である。 パリサイ派長老は、便宜主義的な甘言オルグが功を奏さなかったことに対して、言葉ではなく現実を見せて説き伏せにかかった。パリサイ派長老は、イエスを非常に高く市内を一望できる山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、「もし、ひれ伏して私を拝むなら、これを全て与えよう」と約束した。それに対し、イエスは次のように応答している。
つまり、イエスは、パリサイ派長老による手を変え品を変えの執拗な甘言オルグに対して、「退け、サタン」とまで宣べて、イエスは「神の義の信仰」に生きることを明らかにした。「悪魔の囁き峻拒その2」である。 パリサイ派長老は呆(あき)れ果て、それほどまでに「神の義の信仰」に生きようとするイエスに対して、次のように「神のご加護の試し」をした。イエスをエルサレムに連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて言った。「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。というのは、こう書いてあるからだ。『神はあなたのために天使たちに命じて、あなたをしっかり守らせる』。また、『あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える』」。 神が万能なら、それほどまで篤い信仰を見せるイエスを救済するだろう。万能神を信ずるなら、「神殿の屋根の上から飛び降りてみたらどうだ」と挑発したことになる。これに対し、イエスは次のように応答している。
かくて、パリサイ派長老はあらゆる説得を試みたが、イエスは動じなかった。かくて、パリサイ派長老はイエスのスカウトを諦めた。公認キリスト教義ではこれを、「悪魔の囁き、悪魔との荒野問答」として戯画化している。 イエスは、そういう出来事を経験しながら、暫く修行を続けた後故郷のガリラヤに帰られた。イエスは霊の力に満ちていて。イエスの評判が周りの地方一帯に広まった。 さて、この「荒野での悪魔思想との問答」をどう窺うべきであろうか。れんだいこは、それを拒否したイエスの評価はここでは問わないとして、パリサイ派長老の甘言にこそ注目してみたい。それは、イエスの求める信仰とは逆の契機のものであった。 実に、パリサイ派とは、ここでも良し悪しは問わないとして、信仰の義の世界に居ながら世俗的な価値を求める、つまり、世俗の基準に於いて信仰を下僕させる論法を持つ宗派であることを見て取れるのではなかろうか。 |
【「荒野での悪魔思想との問答考その2」】 |
この時の「悪魔との思想問答」は格別の重要な指摘をしているように思われる。突如「悪魔」という語彙が出てくるのも不自然で、気にかかる。これをれんだいこが解すれば次のようなことになる。 まず、ここでいう「悪魔」とは例えであり抽象的な悪魔ではない、のではなかろうか。実際には、宗教界の新鋭イエスが予言者ヨハネの洗礼を受けたことを知ったある反ヨハネ派の陰謀団体(それは、歴史的見てユダヤの民が得手としてきた秘密結社と考えられ、後の展開から見て本部神殿派に通じている団体と思われる)のエージェントを指しているのでは無かろうか。「悪魔との思想問答」とは、そのエージェントとイエスの間で問答が為されたことを暗喩しているのではなかろうか。れんだいこは、そういう史実があり、イエス伝に隠喩的に伝えられているのではなかろうか、と拝察する。 では、どのような「囁き」がなされたのであろうか。その一、「洗礼後のイエス」は見初められて、何処かのクラブ入りを勧誘された。イエスは、種々の問答と遣り取りを経て、「神の義を求めよ」なる御言葉を返歌した。この御言葉は、秘密結社入りを勧められたイエスが、「そこにいくら利益があろうとも、その道は神の義にそぐわない」と判断し、峻拒したことをメッセージしているのではなかろうか。 この遣り取りの意義は次のような問いに一般化することが出来る。人は、生きていく為にやむを得ずオマンマ稼業に精出すことを余儀なくされているが、人はそれだけで生きるのではない。その稼業の中にあっても信仰を持つべきであり、神の義に従う生活をしなければならない。つまり、人はオマンマ稼業にあってもパンだけで生きるものではないことを知り、神の義に生きねばならない、と分別したことになる。 イエスは、人の生活上における「物質的富たるオマンマ稼業の自己目的的専念」を批判し、「精神的富たる信仰及び思想の格別の重要性」を認識し、神の義を求める生活を指針させていることになる。事実、イエスの生涯は、この言葉通り自ら「神の義」に対する類まれなる純潔の奉仕者となり、その「ひながた」を見せていくことになる。 その二、「悪魔の囁き拒否」は次のことを示唆している。秘密結社入りを拒否したイエスに対して、更に執拗に、自分達に魂を売るならその代わりにこの世での立身出世、栄耀栄華、時の権力、地位名誉を約束しようと囁いた。イエスは、これを断乎拒否し、ひたすら信仰の義に生きる姿勢を鮮明にした。 つまり、イエス的信仰の道は、「立身出世、栄耀栄華、時の権力」に背を向けたところから始発していることになる。この遣り取りも興味深い。事実、イエスの生涯は、この言葉通り「立身出世、栄耀栄華、時の権力」とは無縁の神一条の人となり、その「ひながた」を見せていくことになる。 その三、「神のご加護の試し」は次のことを示唆している。エージェントは、その熱心な勧誘にも拘らずこれを拒否するイエスに対して、将来に希望が開けないと脅しをかけた。続いて、我々の勧めを断りそれほどに神の義信仰を一途にするのなら、その「神のご加護の試し」をしてみよ、と捨てセリフを告げた。これに対して、イエスは、落ち着いて対処し、その策略に乗らなかった。信仰をそのように証する必要は無く、「神のご加護の試しをするなかれ」と返歌した。 イエスは、洗礼後の思想問答において、この三原則つまり、1、秘密結社入りの拒否。ひたすら神の義に生きることの宣明。即ち、現世的富よりも精神的富の重視。2、利益誘導、立身出世、栄耀栄華、権力誘導に対する峻拒。即ち、現世利益信仰に堕さない孤高の姿勢の確立。3、合理的信仰姿勢の確立。 実に、これがその後のイエスの軌跡となり、ここがイエスのその後の布教活動にあたっての原点となった。そういう意味で、この立教始発時の「イエスの思想問答」は今日に至るも意味深いように思われる。人は昔も今も、生きていくうえでこの三条件が問われているのではなかろうか。イエス教義を信奉する者は、このイエスの「ひながた」を銘すべしではなかろうか。 |
【「荒野での悪魔思想との問答考その3」】 | |||||||||
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(私論.私見)