補足・パリサイ派との問答考


【「ユダヤ教原理派からするイエス・キリスト教批判の構図」】

  I・B・プラナイティス師著「仮面に剥がされたタルムード」というのがあるようである。その見出しを転載しておく。ユダヤ教原理派からするイエス・キリスト教批判の構図が分かる。

第一部  基督教徒に関するタルムードの教え
第一章   タルムードの中のイエス・キリスト
第一節  イエス・キリストの名前について
第二節  キリストの生涯 十字架についての注
第三節  キリストの教え
第二章  タルムードの中の基督教徒(正統なるユダヤ教徒!愛)
第一節  タルムードの中で基督教徒に与えられているいくつかの呼び名
第二節   タルムードは基督教徒について何を教えているか
第三節  基督教徒の儀式及び礼拝
第二部  基督教徒(正統なるユダヤ教徒!愛)に関するタルムードの戒め
第一章  基督教徒は忌避されねばならない
第一節  基督教徒がユダヤ的習慣を分かち合うに値しないが故に
第二節  何故なら基督教徒は穢れているから
第三節  何故なら基督教徒は偶像崇拝者であるから
第四節  何故なら基督教徒は邪悪であるから
第二章  基督教徒は絶滅されねばならない
第一節  基督教徒に対し間接的に危害を加えよ
     
壱、 基督教徒に善行を施してはならない
弐、 基督教徒の仕事に対しては損害を与えられねばならない
参、 基督教徒は法的な事柄によって危害を与えられねばならない
四、 基督教徒は生活に必要なものに損害を与えられねばならない
第二節  基督教徒は殺さねばならない
壱、 最後にタルムードは基督教徒は無慈悲に殺されねばならないと命じる
弐、 洗礼を受けたユダヤ人は死なねばならない
参、 君主達取り分けローマの君主(教皇)は殺されねばならない
四、 最後に彼等(ゴイム(異教徒))最良の部分を含む全ての基督教徒は殺されねばならない
五、 基督教徒を殺したユダヤ人は罪を犯してはいない。かえって喜ばれる犠牲を神(悪魔ダビデ)に捧げるのである
六、 エルサレムの神殿破壊後の唯一のなくてはならない生贄は基督教徒の根絶である
七、 基督教徒を殺す者達は天国で高い位を獲得する
八、 ユダヤ人はゴイム絶滅を止めてはならない、 彼等を平和にしておいてはならない、彼等に服従してはならない
九、 全てのユダヤ人達は彼等の中の反逆者を抹殺する為に互いに一つに結び合う義務を負わされている。
十、 例えどんなに荘厳な祭りでも基督教徒の首を切る事を妨げてはならない
十一、 ユダヤ人の全ての行動と祈りのただ一つの目的は基督教を破壊する事でなければならない
十二、 その祈りの中でユダヤ人は復讐に燃えるメシヤの到来を待ち焦がれる、とりわけ過ぎ越しの祭りの前夜には

【「荒野での悪魔思想との問答考その1」】
 イエスのパリサイ派との問答は、そもそもイエスの立教の始発に認められる。いわゆる「荒野での悪魔との問答」がそれである。この時、イエスは、パリサイ派とどういう遣り取りをしたのか。それを確認する。「イエス・キリスト論の「イエスの概要履歴その1、誕生から『山上の垂訓』まで」の「荒野での悪魔思想との問答」に既述しているが、これを確認する。

 イエスは、ヨハネの洗礼を受けた後、期間はどれくらいか分からないがヨハネ教団の集団生活に入った。しかし、その禁欲主義、修行主義に得心できなかったのか、既に全てを修得したのか、やがてそこを出て自立していくことになる。イエスはさし当って、40日間に及ぶ荒野での断食修行を行い、自らの霊能力を試している。この時、「荒野での悪魔思想との問答」に出くわしている。公認キリスト教義ではこれを神秘的に解しているが、れんだいこがこれを解釈するのに、イエスの名声を聞いたパリサイ派の然るべき地位の者(仮に「パリサイ派長老」と命名する)がイエスの修行の場へ出向き、彼らの組織する秘密結社への勧誘いわゆるオルグしたのではないかと思われる。

 パリサイ派長老は、その秘密結社に入ることによる便宜即ち立身出世が保証され然るべき権力が与えられる等世俗的な利点を縷々述べたようである。一通りの説明を聞いた後のイエスの言葉は次のようなものであった。
 概要「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。この言葉を味わうべきである」。

 つまり、イエスは、パリサイ派長老による便宜主義的な甘言オルグに対して、「神の義の信仰」に反する旨を指摘し、断ったと受け取らせていただくことができる。「悪魔の囁き峻拒その1」である。

 パリサイ派長老は、便宜主義的な甘言オルグが功を奏さなかったことに対して、言葉ではなく現実を見せて説き伏せにかかった。パリサイ派長老は、イエスを非常に高く市内を一望できる山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、「もし、ひれ伏して私を拝むなら、これを全て与えよう」と約束した。それに対し、イエスは次のように応答している。
 「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。この言葉を味わうべきである」
 
 つまり、イエスは、パリサイ派長老による手を変え品を変えの執拗な甘言オルグに対して、「退け、サタン」とまで宣べて、イエスは「神の義の信仰」に生きることを明らかにした。「悪魔の囁き峻拒その2」である。

 パリサイ派長老は呆(あき)れ果て、それほどまでに「神の義の信仰」に生きようとするイエスに対して、次のように「神のご加護の試し」をした。イエスをエルサレムに連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて言った。「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。というのは、こう書いてあるからだ。『神はあなたのために天使たちに命じて、あなたをしっかり守らせる』。また、『あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える』」。

 神が万能なら、それほどまで篤い信仰を見せるイエスを救済するだろう。万能神を信ずるなら、「神殿の屋根の上から飛び降りてみたらどうだ」と挑発したことになる。これに対し、イエスは次のように応答している。
 「『あなたの神である主を試してはならない』と言われている」

 かくて、パリサイ派長老はあらゆる説得を試みたが、イエスは動じなかった。かくて、パリサイ派長老はイエスのスカウトを諦めた。公認キリスト教義ではこれを、「悪魔の囁き、悪魔との荒野問答」として戯画化している。

 イエスは、そういう出来事を経験しながら、暫く修行を続けた後故郷のガリラヤに帰られた。イエスは霊の力に満ちていて。イエスの評判が周りの地方一帯に広まった。

 さて、この「荒野での悪魔思想との問答」をどう窺うべきであろうか。れんだいこは、それを拒否したイエスの評価はここでは問わないとして、パリサイ派長老の甘言にこそ注目してみたい。それは、イエスの求める信仰とは逆の契機のものであった。 実に、パリサイ派とは、ここでも良し悪しは問わないとして、信仰の義の世界に居ながら世俗的な価値を求める、つまり、世俗の基準に於いて信仰を下僕させる論法を持つ宗派であることを見て取れるのではなかろうか。

【「荒野での悪魔思想との問答考その2」】
 この時の「悪魔との思想問答」は格別の重要な指摘をしているように思われる。突如「悪魔」という語彙が出てくるのも不自然で、気にかかる。これをれんだいこが解すれば次のようなことになる。

 まず、ここでいう「悪魔」とは例えであり抽象的な悪魔ではない、のではなかろうか。実際には、宗教界の新鋭イエスが予言者ヨハネの洗礼を受けたことを知ったある反ヨハネ派の陰謀団体(それは、歴史的見てユダヤの民が得手としてきた秘密結社と考えられ、後の展開から見て本部神殿派に通じている団体と思われる)のエージェントを指しているのでは無かろうか。「悪魔との思想問答」とは、そのエージェントとイエスの間で問答が為されたことを暗喩しているのではなかろうか。れんだいこは、そういう史実があり、イエス伝に隠喩的に伝えられているのではなかろうか、と拝察する。

 では、どのような「囁き」がなされたのであろうか。その一、「洗礼後のイエス」は見初められて、何処かのクラブ入りを勧誘された。イエスは、種々の問答と遣り取りを経て、「神の義を求めよ」なる御言葉を返歌した。この御言葉は、秘密結社入りを勧められたイエスが、「そこにいくら利益があろうとも、その道は神の義にそぐわない」と判断し、峻拒したことをメッセージしているのではなかろうか。

 この遣り取りの意義は次のような問いに一般化することが出来る。人は、生きていく為にやむを得ずオマンマ稼業に精出すことを余儀なくされているが、人はそれだけで生きるのではない。その稼業の中にあっても信仰を持つべきであり、神の義に従う生活をしなければならない。つまり、人はオマンマ稼業にあってもパンだけで生きるものではないことを知り、神の義に生きねばならない、と分別したことになる。

 イエスは、人の生活上における「物質的富たるオマンマ稼業の自己目的的専念」を批判し、「精神的富たる信仰及び思想の格別の重要性」を認識し、神の義を求める生活を指針させていることになる。事実、イエスの生涯は、この言葉通り自ら「神の義」に対する類まれなる純潔の奉仕者となり、その「ひながた」を見せていくことになる。

 その二、「悪魔の囁き拒否」は次のことを示唆している。秘密結社入りを拒否したイエスに対して、更に執拗に、自分達に魂を売るならその代わりにこの世での立身出世、栄耀栄華、時の権力、地位名誉を約束しようと囁いた。イエスは、これを断乎拒否し、ひたすら信仰の義に生きる姿勢を鮮明にした。

 つまり、イエス的信仰の道は、「立身出世、栄耀栄華、時の権力」に背を向けたところから始発していることになる。この遣り取りも興味深い。事実、イエスの生涯は、この言葉通り「立身出世、栄耀栄華、時の権力」とは無縁の神一条の人となり、その「ひながた」を見せていくことになる。

 その三、「神のご加護の試し」は次のことを示唆している。エージェントは、その熱心な勧誘にも拘らずこれを拒否するイエスに対して、将来に希望が開けないと脅しをかけた。続いて、我々の勧めを断りそれほどに神の義信仰を一途にするのなら、その「神のご加護の試し」をしてみよ、と捨てセリフを告げた。これに対して、イエスは、落ち着いて対処し、その策略に乗らなかった。信仰をそのように証する必要は無く、「神のご加護の試しをするなかれ」と返歌した。

 イエスは、洗礼後の思想問答において、この三原則つまり、1、秘密結社入りの拒否。ひたすら神の義に生きることの宣明。即ち、現世的富よりも精神的富の重視。2、利益誘導、立身出世、栄耀栄華、権力誘導に対する峻拒。即ち、現世利益信仰に堕さない孤高の姿勢の確立。3、合理的信仰姿勢の確立。

 実に、これがその後のイエスの軌跡となり、ここがイエスのその後の布教活動にあたっての原点となった。そういう意味で、この立教始発時の「イエスの思想問答」は今日に至るも意味深いように思われる。人は昔も今も、生きていくうえでこの三条件が問われているのではなかろうか。イエス教義を信奉する者は、このイエスの「ひながた」を銘すべしではなかろうか。

【「荒野での悪魔思想との問答考その3」】
Re:れんだいこのカンテラ時評その121 れんだいこ 2005/10/28
 【「小ネズミ的政治的サイコパス」考】

 ryoさんちわぁ。こちらに振ります。サイコパスの心がどのようなものであるのかの議論になって参りましたが、れんだいこは一般的に論ずる能力はないので政治的サイコパスについて考察してみたいと思います。

 れんだいこが興味を覚えているのは「イエスの荒野問答」です。これについて再検討してみようと思います。

 概略は、イエスキリスト論(religion_christ.htm)の履歴その1(religion_christ_rireki.htm)に記しました。

 れんだいこの思いはそこで確認いただくとして、この時の「悪魔との思想問答」はかの昔から連綿と続いており、今の世でもあるのではなかろうか、と見立てております。最簡単に言うと、お前に権力とお金とその他この世の栄耀栄華を与えよう。しかし、以降は私の下僕になり言うことをきくか、という囁きにどう対処するのかというものです。要するに「但し、心を売れ。イエスかノーか」という問題だろうと思います。

 この契約にサインアップするのかしないのか。イエスはかの時、それを蹴った。こういう人は少ない。ここにイエスの凄さがある。生活レベルのことなら人は誰しも多少なりとも応法して生きているのでせうが、イエスに問われていたのは最高度の宗教的命題に対してであり、ここを曲げると全てに絡んでくることを察知したのでせう、イエスは蹴った。

 れんだいこは、イエスキリスト教の原点はここにある、と思っております。よって、イエス教徒なら余計にこの教祖のひながたを辿り、悪魔の囁きに動じない精神の自律を持つことこそが信仰の始まりではないのか、と思っております。

 いわゆるキリスト教はこの考察をしない。なぜなら、イエス教はその後キリスト教となり、国教的地位をえることにより体制化し、その限りで今度はいつしか悪魔側に廻ることになり、この問題を考察することが不都合になったからである、と考えております。こうなると、「悪魔との思想問答」は、大なり小なり組織一般につきものの普遍問答になるのかも知れません。

 問題は、サインアップした連中のその後がどうなったかです。約束通りに権力とお金と地位を与えられました。その代わりにエージェントを誓約しているからして言いなりを余儀なくされ、これに楯突こうものなら一挙に全てを失う仕掛けの中に生きることになります。実際、約束に反すればテロられたり社会的地位を一挙に失う。

 れんだいこなぞは味気ない人生だと思うけれども、権力とお金と地位こそ全てと思う人も後を絶たない。思えば、日本人が育んできた武士道とは、このあたりに於いては潔癖な倫理観を持っていたのではなかったか。今はそれが廃れているからエージェントまみれの世の中になっている。

 この状態に置かれたエージェントに心があるのか無いのか、という問題は案外難しい。小ネズミのようになんのわだかまりもなく、お陰さまで約束通り権力を掌中にさせていただきこれほと感謝することはない。今後も精力的に頑張りますので宜しく云々で嬉嬉としていられる者も居る。逆に、これ以上は悪事に手を染められないと悩み始める者も居るのではないでせうか。

 どちらにしても、ひとたびエージェント契約に応じた者達の心の中は惨めはなかろうかと思うのだけれども。そういう心理が屈折して裏表の有る隠微な行動をし始めることになるのではなかろうか。政治的サイコパスの社会的要因はここにあるのではないかと思っております。それを思えば、政治病理学なる学問を生み出し、このあたりを問うべきでせう。社会心理学が全盛ですが、政治病理学に向わないその種の学問が真っ当なものなのかどうか。

> 20世紀の中葉までは、心を売り渡すかどうかが問題でした。現代では心があるかないかが問題になっています。

 という問いかけは意味が有りそうであんまり無いとも思います。「心があるかないかが」の有る無しにも人によって微妙に差が有るのではないでせうか。そこを集団的に且つ個別具体的にも見ないといけないのではないでせうか。

 気になることは、「心を売り渡すかどうかが問題」が「心があるかないかが問題」に至るまでの定向進化の問題です。そこまで嵩じているということでせうか。れんだいこ的には少しオーバーランな気がします。

 2005.10.28日 れんだいこ拝

【「その後のイエスのパリサイ派批判】
 「荒野での悪魔との問答」を通じてパリサイ派との対決を鮮明にしたイエスはその後ますます、反パリサイ派主義信仰の義を打ち出していく。「山上の垂訓」で、信仰の在り方を廻って総論から各論に亙って詳細に弁じている(「イエスの教義考、山上の垂訓考」参照)。イエス派の伝道が活発化し、み教えが広まるに連れて、パリサイ派の妨害は日増しに強まった。それと共にイエスの論難は鋭さを増していった。今やはっきりと、パリサイ派の信仰は悪魔主義被れていると批判している(「イエスの概要履歴その2、本格的伝道からエルサレム神殿乗り込みまで」参照)。圧巻は、聖地エルサレムに乗り込み、神殿で行われた論争である(「イエスの概要履歴その3、エルサレム神殿乗り込みから拘束されるまで」参照)。

 イエスのパリサイ派批判の要旨は次のようなものであった。パリサイ派の信仰は、神の御名を騙って神を冒涜する悪魔の信仰である。神の義信仰と悪魔信仰は両立し得ない。彼らは陰謀を得手とし、常に戦争を求めている。彼らは「マムシの子」であり偽善者である。いずれ裁きの日がやって来る。その日には彼らは滅ぼされる云々。「ヨハネ伝」8章はイエスの次のような詰問を記している。
 「あなたたちは悪魔である父から出た者であって、その父の欲望を満たしたいと思っている。悪魔は最初から人殺しである」。

 しかし、そのイエスは捉えられ、あらゆる辱めを受けた末ににゴルゴタの丘で十字架の刑に処せられた。しかし、イエスの発した言は歴史に光芒を放ち続けていると云うべきではなかろうか。

 2006.1.22日 れんだいこ拝




(私論.私見)