補足・キリスト教話、聖書の名言 |
(新約聖書)「マタイによる福音書」第4章(日本聖書教会『聖書』、1955年) |
人はパンのみにて生くるにあらず |
(解説)
「さて、イエスは御霊(みたま)によって荒野に導かれた。悪魔に試みられるためである。そして、四十日四十夜、断食をし、そののち空腹になれた。すると試みる者がきて言った。『もしあなたが神の子であるなら、これらの石がパンになるように命じてごらんなさい』。イエスは答えて言われた。『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言葉で生きるものである』と書いてある」
このイエスの答えは旧約聖書「申命記」第8章の次の言葉のことである(出所、同前)。
「主はあなたを苦しめ、あなたを飢えさせ、あなたも知らず、あなたの祖先たちも知らなかったマナをもって、あなたを養われた。人はパンだけでは生きず、人は主の口から出るすべてのことばによって生きることをあなたに知らせるためであった」。 なお、「マナ」とは天から与えられた食物(植物の種のようなもの)のことである。
しかし、戦後の左翼知識人によるこの言葉の使われ方は聖書とは少し違うものだった。拡大解釈して使っていたのである。
[人間が生きる目的はただ食べることではない。人間には食うこと以上に大切なことがある。人間はより高い理想の実現のために生きるべきだ。世界平和のために、搾取のない自由で平等な社会をつくるために生きるのだ……]。こうして聖書の言葉が戦後左翼運動の一つの旗印になった。左翼知識人のなかには少数のキリスト教社会主義者や非マルクス主義者もいたが、大多数はマルクス主義の信奉者だった。聖書のなかの言葉が唯物論者によって盛んに使われたのである。
第2次大戦後のわが国では、唯物史観の信奉者が、聖書の言葉を使って、大衆に反体制運動への決起を呼びかけていた。「人はパンのみにて生くるにあらず」というキリスト教徒にとっての大切な言葉が、戦後の激動期に左翼陣営の一つの旗印になった。言葉は一人歩きする。人の心を打つ力をもつ言葉は本来の意味とは独立して使われる好例である。
「イエスは答えて言われた、『よくよくあなたがたに言っておく。あなたがたがわたしを尋ねてきているのは、しるしを見たためではなく、パンを食べて満腹したからである。朽ちる食べ物のためではなく、永遠の命に至る朽ちない食べ物のために働くがよい。」(新約聖書ヨハネによる福音書6章2節、27節)
「わたしは命のパンである。あなたがたの先祖は荒野でマナを食べたが、死んでしまった。しかし、天から下ってきたパンを食べる人は、決して死ぬことはない。わたしは天から下ってきた生きたパンである。それを食べる者は、いつまでも生きるであろう。」(新約聖書ヨハネによる福音書6章48節ー51節。アンダーライン筆者)
「弟子たちのうちの多くの者は、これを聞いて言った、『これは、ひどい言葉だ。だれがそんなことを聞いておられようか』。しかしイエスは、弟子たちがそのことでつぶやいているのを見破って、かれらに言われた、『このことがあなたがたのつまずきになるのか』。、、、それ以来、多くの弟子達は去っていって、もはやイエスと行動を共にしなかった。」(新約聖書ヨハネによる福音書6章60節、61節、66節)
(新約聖書)新約聖書「テサロニケ人への第二の手紙」(日本聖書教会『聖書』、1955年) |
働かざる者食うべからず |
「汝の額に汗して、パンを食すべし」(in the sweat of face shall thou eat bread)
all they that take the sword shall perish
with the sword.(KJV Mat. 25:26)
剣をとる者はみな、剣で滅びる。(口語訳 マタイ25:26)
「己の如く、汝の隣人を愛すべし」(マタイ福音書第19章)
(God is not mocked, for) a person will reap
only what he sows,(NAB Gal.6:7)
人は自分のまいたものを、刈り取ることになる。(口語訳
ガラテヤ 6:7)
(私論.私見)