補足・キリスト教正義とユダヤ教正義の類似と差異考

仏独が云うことを聞かない訳についての一考察 れんだいこ 2004/11/15
 「キリスト教の国教化の裏事情考」で、西欧諸国家がキリスト教国家として立ち現れることになった裏事情について愚考した。この対立は根深く、少なくとも二千年来続いている。れんだいこにこのことを気づかせたのが、ブッシュ一統によるイラク侵略戦争であった。米英ユは鉄の同盟を見せ、「聖戦」を遂行したが、この経緯で仏独が必ずしも同調しない妙な動きを見せた。この背景に何があるのだろうか。

 れんだいこは容易にわかる。恐れ多くもいやしくも曲がりなりにもキリスト教国家として自存してきた西欧諸国の人々は、米英ユ同盟の紛うことなきユダヤ式急進派の悪の論理と攻勢に嫌悪感を覚えたのではなかろうか。

 事を為すには論理が要る。その論理がいい加減なままに無慈悲なまでに絶滅戦争に向うその遣り口を見て、西欧諸国の人々は「先祖伝来の血の騒ぎ」を覚えたのでは無かろうか。やってやり返されまたやってやられて云々の長い歴史がある故に。

 これはキリスト教国家の遣り方ではない、勝手にしろ、という思いが憤然と沸き起こってきたのでは無かろうか。この時初めて損得の利害計算を超えて、彼らは正気に戻った。れんだいこはそう理解する。これを各国の帝国主義的思惑で語るものも居るだろうが、恐らくそれは半面の真理に過ぎず、残りの半面は宗教的イデオロギーの問題になっているのではなかろうか。

 ここのところが判らず、我が小泉君は、「強い者に巻かれろ、しからば御身も国家も安泰」式の処世法で今もブッシュにチンチンして自悦している。読売他のマスコミがこれに追従している。

 それはかっての軍部ににじり寄って提灯した姿と寸分変わらない。連中の頭脳はいつもこの程度の自称インテリ性でしかない。この連中が権力を持つからややこしいことになる。連中は権力を刃物と心得、それを振り回すことしか知らない。

 大東亜戦争時の大本営発表体制は今でも面白おかしく語り伝えられているが、れんだいこは、かってそういう時代があった、とばかり思っていた。ところがあにはからんや、今のご時世も又新種の大本営発表体制時代に入っているみたいだ。これ如何に。

 ラジオ、テレビ、各種メディアの発達が、世の中をもっと自由にするのかと思ったら、何のことはない洗脳、マインドコントロールの道具としてのみ利用されている。れんだいこは私事多忙でテレビを見ることが滅多にできないが、時に覗くとくだらない番組バヤリである。これに罹りつけになるときっと頭脳がやられ、ブッシュ御一統のやっていることが正しく、テロリスト撲滅戦万歳になるようである。

 こういう手合いが増えている。喫茶店で話を振ったら確立8割でそういう論調になる。れんだいこは概ね話を合わし、無用なトラブルを避けるが、由々しい事態の到来である。してみれば、インターネット空間こそもっと強化せねばならぬ。新聞、雑誌、ラジオ、テレビの愚説より読んで為になる情報を交叉せねばならぬ。著作権野郎を一瞥し、どんどんコピペして行かねばならぬ。著作権レフト思想を高く掲げ、有益情報を対抗的に流して行かねばならぬ。

 そんなことを考えた秋の夜長のれんだいこであった。

 2004.11.15日 れんだいこ拝


福音派ロックとファルージャ総攻撃 [町山智浩アメリカ日記 2004-11-09]
http://www.asyura2.com/0411/war62/msg/1099.html
投稿者 レイ 日時 2004 年 11 月 13 日 00:10:09:mRt2rX4ca0PnA

 キリスト教福音派。実はテロ以来、福音派の説教師たちは、イスラム教徒をTVなどで堂々と悪の帝国と呼んで悪魔視し続けてきたのである。ブッシュはイラクをEvilと呼んだが、その言葉にはキリスト教原理主義的なニュアンスが強くあるのだ。冷戦時代のソ連に代わる宗教上の敵、文字通りの異教徒を見つけたのだろう。この対テロ戦争は、キリスト教原理派にとっては対イスラム原理派戦争という側面も持っているのだ。

 キリスト教原理主義のコラムニスト、アン・コールターは「(対テロ戦争の最終目標は)イスラム教徒を殺し、残った者をキリスト教に改宗させること」とはっきり言っている。

 Evangelical は福音派と訳されるが、特定の宗派名ではなく本来は「聖書(福音書)の教えに忠実に従おうとする信仰のあり方」なので、「あなたはEvangelicalですか?」と聞かれるとアメリカ人の半数近くがイエスと答えるという。しかしその大半は穏健な中道保守の人々で、狂信的でもなんでもない、普通の音楽も聴いている普通の人々だ。

 「聖戦/蛮族との戦いに備える福音派海兵隊たち

 ファルージャ近くに集結したアメリカ軍において、イラク侵攻以来最大の戦いになる戦闘に備えて、35人の海兵隊員がクリスチャン・ロックに熱狂しながら、イエス・キリストに祈りを捧げていた。神の加護を求めて」


Re: ある老年キリスト者の(苦しい)思索 - 長文引用につき分割1
http://www.asyura2.com/0411/war62/msg/1109.html
投稿者 NAVI 日時 2004 年 11 月 13 日 02:33:35:HX//G5Ne7CBAk

(回答先: 福音派ロックとファルージャ総攻撃 [町山智浩アメリカ日記 2004-11-09] 投稿者 レイ 日時 2004 年 11 月 13 日 00:10:09)


 「ローマ帝国においてキリスト教が国家公認宗教になって、キリスト教会はそれまでとってきた非戦・平和主義の立場を変更し、キリスト者が軍人になるのを否定しなくなった。それまでは異教的な儀式が中心となって軍隊が統率されていたが、それが取り除かれたという事情が働いた。しかし、それとともに戦争は殺人行為であって、殺人を禁じた教えに反するという面もあって、教会も国家の宗教と個人の宗教との関係に苦慮している。それは聖と俗、教会と国家との関係。国家が持っている軍隊の精神的な支柱をキリスト教が請け負ったからである」(井上圭典「正戦論 bellum justum (正義の戦争論)とイラク問題」)。

 アウグスティヌス(354-430)は、キリスト教は正義の戦争を禁止してないと説いた。戦争はその意図において平和を獲得するための手段として遂行される場合には、そしてその原因において敵対する側の不正を正すものであれば正当化される。侵略者の不正行為を防止し、それを罰することを狙いとし、その成員の犯した悪事に対して賠償を払うことを拒否した国家に対する戦争と、不正に占有された財産を返却することを怠った国家に対する戦争と、を正戦とみなした。

 トマス・アクイナス(1224-1274)は「戦争論」で、戦争が認められる条件として、
(1)、合法的な権威の命令によって行われること。すなわち、主権者の命令を要件とする(私人の武力行使を認めない)。
(2)、正しい理由(justa causa)のあること。不正を正すこと、すなわち、被った悪または害に対する匡正救済であるべきこと。
(3)、志向の善であること。すなわち、善を勧め、悪を懲らしめるという意図に基づくこと。たとえ正しい理由による場合でも、敵に対する残忍な復讐感情とか、権力欲というようなものによって動かされるときは、正義の戦争としての資格を失う。
(4)、正しい方法によって行われること、などがあげられている。

 宗教改革者ルター(1483-1546)は、「二つに王国論」において聖権は教会に属し、俗権は王国に属するとし、キリスト者は職業を通してこの世と関わるとする。剣の権能すなわち「正義の戦い」の権能は社会の平和を維持し、国を守るためのものであるとした。そこで、教会が宗教的な理由から行う戦争や、武器を用いる何の権威も持たない者による公共の秩序に対する反逆は承認してない。

 同じく宗教改革者カルヴァン(1509-1564)は、世俗の権力は教会の純粋さを擁護するものとみなした。しかしそれは教会国家主義でも国家教会主義でもない。もし行政の施策が「敵意をもって攻撃される」なら「武力に訴えて」防御することは聖書が保証するところだと論じた。戦争は平和回復を目的とし、しかも最後の手段であるべきで、憎しみをもって行ってはならぬとする。

 国際法の父と呼ばれるグロティウス(1583-1645)の開戦法規(jus ad bellum)には次の6つの条件をあげている。
(1)、開戦の理由が正義に基づいていること(Just Cause)。
(2)、正当な権威が開戦の決定を下すこと(Right Authority)。
(3)、正当な目的をもって開戦を決定すること(Right Intention)。
(4)、戦争が最後の手段であること(Last Ressort)。
(5)、戦争の目標が新たな平和にあること(Emergent Peace)。
(6)、目的と手段の釣り合いが取れていること(Proportionality)。

 交戦法規(jus in bello)には次の3つの条件があげられている。
(1)、戦闘員と非戦闘員との区別(Discrimination)。無辜の民を攻撃することは、正戦において悪である。
(2)、二重結果(Double Effect)。戦闘行為は二つの結果をもたらすことがありうる。第一は、正当な軍事目標の破壊という意図した結果であり、第二は無辜の民の殺傷という意図せざる結果である。第二を意図しない戦闘は意図せざる、あるいは付随的損失として許容される。
(3)、目的と手段との釣り合い(Proportionality)。
 交戦法規は、戦略や戦術あるいは兵器の選択に「限界、すなわちそれを越える型の行動は考えられないような線、を設定し」、軍事行動の遂行を倫理的に制約する。
 (なお、湾岸戦争でも今日の英米軍によるイラク攻撃でも、盛んにミサイルを打ち込むことに倫理的な後ろめたさのないのは、「核兵器は非倫理的な武器であるが、精密誘導兵器は、倫理的な兵器である」との一般的な理解が、軍事的な世界ではなされているからである。)

 今日のカトリック教会では、「正義の戦争論」に大幅な修正が加えられている。たとえば、1963年のヨハネ23世の「国家間の紛争は、武力・謀略・あるいは欺瞞行為によって解決すべきではない」、「正義、正しい理性、人道主義は、軍備拡張を廃止し、個々の国ですでに所有している兵器を、同時に縮小してゆき、核兵器を禁止し、ついには、すべての国が協定を結んで、相互に有効な監視を続けることによって、軍備撤廃に至ることを要求する」。

 1965年のパウロ6世の「もし人類が戦争に終止符を打たないならば、戦争が人類を滅ぼすであろう、とのジョン・ケネディの言葉を引用し、もし皆さんが、ともに兄弟であることを望むならば、武器をその手から捨て去らねばならない。好戦的武器を片手に持ちながら、人を愛することは出来ないからである」の言葉からうかがえる。(中世のキリスト者は、「人を愛しつつ、殺すことができるか、否か」とまじめに論じあっていた。汝の敵を愛しなさいと実践しつつその敵を殺すことが出来るか否かの論争に、カトリック教会は結論を出したといえば言える。日本の時代劇で、相手を切り倒したあと、片手をあげて「ゆるせ」と成仏を念じる場面に出くわすことがある。洋の東西を問わない人間もつ二面性を見せられる。3月21日のテレビ画像では捕虜となったイラク兵に米兵が二人がかりで水を飲ませていた。一人は水筒をイラク兵の口にあてがい、一人は銃口を兵士の胸に向けて。助けたい、しかし自爆するかもしれない。アフガニスタン攻撃では爆弾を投下しつつ片や食料を投下していた。)

 日本長老教会が宣教協力を結んでいる米国長老教会(Presbyterian Church of America,PCA)のホームページにイラクに関しての投稿が掲載されている。たとえば、「イラクとの戦争、それは正義か?」という文章にも、evil(邪悪)という言葉がしばしば出てくる。「邪悪は日が経つにつれ、年が経つにつれ大きくなってきており、独裁者、宗教的アナーキスト、侵略者が増殖しつつあるように見える」というよな風に。

 ダグラス・ラミス(1936生)という日本通の政治学者は次のように発言している。
「それぞれの国で、それぞれのやり方で、それぞれのいわゆるテロリストを取り上げて具体化しようとする。そして、おそろしいのは、何か人間の中にもう一つの種類があるような言い方をしている。ザ・テロリスト。ザ・テロリストは悪です。だから犯罪者と違って反省する能力が心の中のどこにもない。悪はevilと言うんだけれど、evil の前にdを付けるとdevil。だからevil というのは基本的には宗教用語です。本当に悪な人はキリスト教の文脈では悪魔の代表。悪魔がこのように悪くするために、人に苦労をかけるために人を送った、という。人が苦労したということで反省するのではなく喜ぶ。だからその人達に人権を与えても意味はない。ザ・テロリストという今作ろうとしているイメージとその扱い方は合っているわけです。ああいう人に人権なんか与えるなんて冗談じゃない、そういう言い方をしているわけです。」(日本語での発言。文中の「苦労」は「苦難」と置き換えて読むのが、氏の意図に合致するのではないかと思う。井上)

 ブッシュ大統領の背後にあるキリスト教原理主義は、正戦論を自己流にこじつけ、キリスト教の悪を、自分に反対するものすべてに当てはめて、それを悪とみなす、二重の誤りを犯している。キリスト者でない人は、キリスト者のいう正戦論・悪と原理主義者の使う正戦論・悪の解釈・適用の区別がつかないが故に、キリスト教国家が何故あのような形でイラク攻撃をするのか、という非難の一つもしたくなるのであろう。

 日本人の知識人には親米主義者は多いが、その中でも米国の建国精神の基盤にあるキリスト教嫌いも多い。このような人々の反キリスト教キャンペーンに惑わされるようであってはならない。いうなれば、親米日本主義者とでも言える人々が論陣を張っているのである。和魂洋才の現代版である。英語を巧みに操り、米国留学し米国通ではあるが、魂は排外主義、日本的なものへの無条件な心酔者の存在に注意したい。米国の原理主義的な傾向に警告を発すると同時に日本の反動的保守主義の回帰現象にも注意しなければならない。
 
 
●米国キリスト教会の動向はどうなっているのかをインターネットでサーフィンしてみた。かなりの数のイラク攻撃反対の声明文、文章を見ることができた。その一例として米国カトリック教会の声明文を訳出した。カトリック教会は正戦論の立場に立っているが、その正戦論を適用するとイラクへの武力攻撃は否定されている。( 仮訳:井上圭典 )
★ イラクに関する声明
カトリック司教団合衆国会議 ワシントン、DC 2002年11月23日
 我々カトリック司教団がここワシントンで会合を開き、正義と安全保障について探求せねばならぬほどに、我々の国、イラク、そして世界が戦争か平和かの重大な選択を迫られる局面に立たされている。これらは単に軍事、政治に関わるのみならず、生死の問題をはらむ道徳に関わることでもある。伝統的なカトリックの教えは倫理的な原理と、ぎりぎりな状況での選択の指針とすべき道徳規準とを示してきた。

 2ヶ月前、カトリック司教団の合衆国会議の総裁であるウィルトン.グレゴリー司教が、過去11年間数々の国連決議の要求をイラクが拒否してきたこと、大量破壊兵器の開発を続けていることに世界の注目を集める努力がなされていたことを歓迎する旨の書簡をジョージブッシュ大統領に送っている。この書簡は、合衆国司教団管理委員会の公認を得ているものであって、イラク政府を転覆するために軍事力の先制的、一方的な使用の道徳的な正統性への真剣な疑問を提起していた。その後の推移、殊に11月8日の合衆国安全保障会議での満場一致の採決などを考え合わせると、我々共同体の一員としてのグレゴリ司教が提起した書簡の疑問と関心事は我々も共有するものである。

  我々はイラク政府の行動と動向に少しの幻想も抱いていない。イラク指導者は国内における抑圧政策を終えるべきであり、隣国への脅迫行為を止めるべきであり、テロリズムへの支援を停止すべきであり、大量破壊兵器展開の努力を放棄すべきであり、すべての現存するこのような兵器を破壊すべきである。我々は合衆国が、イラクが武装解除の責務を受け入れることを確実にするために、合衆国安全保障会議によって新しい行動を起こす働きかけをした事実を歓迎する。我々は最近の安全保障会議決議に十分従うようにイラクへの働きかけを他の人々とともに連帯しておこなう。我々は すべての団結した意志で、国連の活動が単なる戦争への序曲になるのではなく、戦争防止を確かなものとする活動であるようにと、熱心に祈るものである。

 我々は来るべき数週間に何が起こるかは予測出来ないが、事態収拾までに許される目的と手段についての質問を繰り返したい。我々は決定的な結論を提示することはしないが、むしろ道徳的な判断に向けての我々すべてを勇気づける希望についての真剣な関心と疑問を提示したい。善良な人々の間では簡単に結論が出せない特殊な場合、正戦論の規範を如何に適用するかについて異論があり得る。しかも特に事態が急速に動いている場合、事実はすべて明らかにならないものである。我々が知り得た限りの事実に基づいて、我々は対イラク戦争の正当性、すなわち明らかで重大な事柄への差し迫った攻撃を受けるに十分な証拠が欠けている状況下において戦争に訴えることを正当化するのは無理ではないかと見ている。中東と全世界のからの大司教と司教団の訴えと共に、我々は、現在の状況下で流布され公開されている情報の光に照らして、軍事力行使を強調できるような、カトリックの教え(注1)の厳密な条件を満たす状況が認められない。

  「正当理由」
 カトリック教会の教理は(戦争の)正当理由を以下のような場合に限定している。すなわち「国民あるいは国民共同体に対しての持続的で、重大な、明白な侵略者の打撃によって損害を受けている」(#2309) 場合である。 我々は正当理由に関し、体制転覆の威嚇とか、大量破壊兵器を処分するとかのため、軍事力を予防的に使用すること、すなわち伝統的な制約を早急に拡大解釈して、これを認めさせようとする建議について、深く思案検討した。国際法に含まれている禁止条項とは矛盾しない仕方で、受け入れ難い政権の行動を変更させる働きかけの努力と、その政権の存在そのものを抹殺する行動との間には明白な区別を設けるべきである。

  「正統権威」
  我々の判断では、イラクとの戦争可能性に関する決定に際し、合衆国憲法の緊急権の合法性、国民の間の広範な合意、そして国際的な支持が判断材料として必要と考える。これらは議会と合衆国安全保障会議によって行動を起こす際に考慮すべき重要事項である。大司教が指摘したように、もし力に頼ることが必要なことだと考えるとしても、イラク市民に及ぼす影響の重大性、地域のまた地球規模の安定を考慮したのち、国連の枠内での力の行使にとどめておくべきである。(大司教 ジーン-ルイス タウラン、政府関係ヴァティカン秘書官 2002/10/9)

 「成功確率と均衡」
 力の行使は「成功への真剣な見通し」を持たねばならぬことと、「悪が消されることより重要なのは諸々の悪と無秩序を生み出してはならぬ」(教理、#2309)ことである。我々は軍事行動がそれ自身否定的な結果をもたらすことに使われてはならないことを認識している。この視点から我々は対イラク戦争がイラクにばかりではなく、中東全域の平和と安定に対しても予測不能な結果をもたらすことを憂慮している。力の行使はあらゆる種類の攻撃を誘発する。すなわち防御の名の攻撃、すでに長期間辛抱してきた全市民に新らたな恐怖を植え込み、その地域に一層広範囲の衝突と不安定さをもたらすことになる。イラクへの戦争はまたアフガニスタンへの正義と復興への建設の手助けへの責任を忘れ去ってしまい、テロリズム防止の全世界の努力を台なしにしてしまう。 

 「戦争行為を支配する規範」
 戦争理由の大義は市民社会に存在する「免責と釣り合いの基準」という道徳的責任を無視して掲げられるものである。たしかに、我々は戦争において市民を直接標的としすることを避けるための改良された能力と大きな努力(訳者井上注。ピンポイント攻撃、そのための精密誘導兵器の開発のこと)は認められるが、イラクにおける軍事力の使用は戦争がもたらす非常に多くの抑圧、衰弱した通商停止の苦痛を受ける市民に計算不能の代償を支払わせる結果となる。  
  「戦争当事者相応の損傷」が均衡しているかどうかの判定の際には、イラクに住む男性、女性、子供は、我々自身の家族、我々自身の国の住民と同じの価値(訳者注:人権、生きる権利という価値)を持っているとの基準に照らすべきである。

  以上にあげた数々の疑問の評価は われわれの国民と世界が中東での戦争に使われる資金を他の活動に引き続いて用いることに向けたらという思いを強くする。我々国民は 侵略的なイラクの活動と脅威を阻止し思いとどまらせるための建設的、効果的そして合法的な道筋のための広範な国際的な支持を取り付けた上で、相手にそれを思いとどまらせるという、大変困難ではあるがこのような方法にこだわる。我々は武器の輸出入禁止の効果的な実施と国際政治的制裁の持続を支持する。我々は無垢なイラク市民の生活に脅威を与えないようにより一層注意深く絞り込んだ経済的活動の要求を繰り返したい。イラクの大量破壊兵器破棄はより広く強く拡散防止協定上の判断からのものと合致していなければならない。相互抑制の原理を基礎に据えたこのような努力は、他の事柄の中にあって、大量破壊兵器を保持しているすべての国家がその安全管理と棄却、ミサイルと兵器技術の輸出のより一層厳密な規制、生物・化学兵器協定の改良・実施、核不拡散条約の下での核の軍備縮小の忠実な交渉遂行に関しての合衆国の履行責任、などの作業過程をより強力に推進することも含まれていなければならない。

 「安易な回答はない」
 究極的にはわれわれが選んだリーダーが国家の安全保障の決定に責任を負っているが、しかし、我々は我々の道徳的な関心事と疑問は我々とすべての市民とによって真剣に考慮されるべき事だとの希望を抱いている。我々は他の人々、とりわけカトリック信徒は---彼らは福音の光の下で社会秩序の変革の主要な責任を負っている---「平和と正義の証人であり代理人である」(教理 #2442)信徒の識別力を見守り、引き続いて意見を請うものである。イエス・キリストは言われた「平和を創り出す者は祝福されている」(マタイ 5章)。

 我々はこの潜在的な衝突によっておそらく影響を受けるであろう人々、格別にイラクの民衆、我が軍に身を捧げる男女の関係者のために祈るものである。 我々は我が国を守るために命の危険にさらされている人々を支える。我々はまた、過去においても存在していたような、良心的な異議申し立て、選択的な良心的な拒否の権利を実践する人々を支える。

 我々はブッシュ大統領と他の世界の指導者たちが、イラクとの戦争の崖っぷちから引き下がる意志と道筋を発見するように、即刻それを終わらせ平和のために働くように祈るものである。

 我々は、イラクの脅威に有効な全地球的な対応の様式は従来からの自衛の正当性と軍事力の使用に関しての伝統的な道徳的な限界に踏みとどまることを他国の者とともに認め合い、これを熱心に推進するものである。

 (注1)「正戦の教えは時代とともに発展してきた。戦争を防ぐ努力は、もし戦争が合理的に防止出来ないならば、そのときはその恐怖を限定し切りつめることを探し求める方向で行われる。宗教的条件のいくつかは、 もし戦争に向かうことが決定された場合、それが道徳的にも許されるべきであるとうことが含まれていなければならない。このような決定は、特に今日、平和を愛好し戦争に反対する根拠に立つ人々にも説得できるような格別に強い理由提示を要求する。これが、何故、正義の戦争の教えに良心的な不賛成条項が付加されているかの重大な理由の一つである。」(訳者注1)
 参考文献:平和への挑戦:神の約束ととわれわれの応答(1983) , #83
(訳者井上の注1:正義の戦争だと教会が認めたことに、個人が良心的に反対することは、正義に反する意志・行為を意味しない、ということである。今回の場合は、これは正義の戦争ではないと教会が判断したことを、個人が内なる心の声に従って正義の戦争であると判断しても、それが神のみ心に反したことであると断定はできないというのである。)
 
●イラク攻撃反対の世界的な運動、消えないうねり、を理解するために。次の三点を指摘したい。
 
★非戦論、絶対平和主義、無抵抗主義、非暴力抵抗運動
 キリスト教の教派には絶対平和主義を主張する教派が存在する。ディスペンセイショナリスト、アナバプテスト、メノナイト、アーミッシュなどがその代表例である。戦争を認めないし、戦争に参加しない。このような態度に対する批判は、戦争があり不正が行われているのを傍観することになり、間接的に不正に加担しているというものであった。その批判を真摯に受け止め、この教派の人々は戦争を未然に防ぐために広範な活動をしてきた。学問的には平和学への貢献も大きい。内村鑑三は日清戦争には主戦論を展開したが、日露戦争には非戦論を展開した。マーティン・ルーサー・キングは非暴力抵抗運動の主唱者で、マハトマ・ガンジーからその運動形態を受けている。ただし、新約聖書--->トルストイ--->ガンジー--->キング という流れのなかに、聖書解釈の変質を指摘する学者がいる。運動そのものの批判ではなく根底にあるものへの学問的な検討の結果として。

 日本長老教会はウェストミンスター信仰告白を信仰基準としている。その信仰告白の中に、「敬虔と正義と平和の維持」が政府の義務であり、その為政者の職務にキリスト者が就くことは合法的であり、この政府の義務を果たすために、「戦争をすることは、やむを得ないことであるが、合法的である」という条項がある。
 日本国憲法は前文と第九条で非武装・戦争放棄を明記している。日本政府の有権解釈では第九条には国家の自衛権の放棄まではうたってないとしている。
 この両者の一見矛盾する戦争観を深く、歴史的に検討した結果、その基礎にある平和主義では一致することを見いだし、その調和点として、”われわれは戦う権能はもっているが、その行使は留保する”との結論を得た。
 
★新保守主義
 新保守主義は英国のサッチャー首相、日本の中曽根首相などがその同調者である。保守主義は、現在が過去と連続性をもち、未来は現在の延長線上にあるべきという主張である。新保守主義は、そうではあるが、時代状況では、連続性よりも断絶・変化の必要性があるのではないか、それを積極的に推進すべきとの主張である。修正保守主義といってもよい。勿論革命的な変革ではなく、社会構造は温存しての変革である。その変種としてレーガン大統領の「強きアメリカの復権」をとなえたネオ・コンサバティブの運動が始まった。一方、米国には第一次世界大戦後、キリスト教界ではファンダメンタリスム運動が起きてきた。聖書解釈への根本的な反省からである。このまた変種がブッシュ大統領も信奉するキリスト教原理主義である。一般に、原理主義とは信条なり綱領なりの異なる解釈を一切認めない、積極的に排除する主義である。敵を見つけてはそれをつぶし、存在をゆるさないのである。宗教的なカルトの特徴で、そのためには手段を合法化する。
 ネオ・コンサバティブとキリスト教原理主義とが結びつくと、すでに存在しているグローバリズム(アメリカ文化の世界大の宣布)と単独行動主義(国連無視、超大国の覇権、一人勝ちの傲慢)に拍車がかかることは当然の帰結ともいえる。我々が、「何故なのだという疑問」が、彼らにとっては「疑問のない当然」なのである。
 西欧の近代保守主義は、何を保守するのかというと、「個人の自由」「私有財産」「平和・安全」「秩序」「社会福祉(公共善)」「伝統文化・制度」などである。この保守主義と自由主義との関係、保守主義と民主主義との関係が常に問題となっている。日本の保守主義はその変種である。西欧近代保守主義に手本を求める衝動と、日本の歴史・伝統・文化を根底に据えようとする衝動の二本線が競合しているようである。しかも前者には、キリスト教文化を是認(受容ではない)するものと、キリスト教文化を批判(拒否に近い)するものとがある。これを二本に分けるならば、日本の保守主義は三本線となるといえようか。
 
★「心情倫理」と「責任倫理」
 西欧では、民衆は「心情倫理」で物事を判断し、政治家は「責任倫理」の支えで行動するなどと言われる。民衆は「かく信じて行動するが、結果は神に委ねる」、しかし、政治家は、結果責任をとらねばならぬので、民衆から遊離した決断もあり得るというのである。
 キリスト教倫理の中で「個人倫理」と「社会倫理」とを区別する学者もいる。さらには「キリスト教倫理」と「一般倫理」とに分ける学者もいる。(学問の自由と学者の良心の成果。その実を食うか食わぬかは個人の自由。)
 しかし、アジア人、とくに日本人には、このような分類でよいのだろうか。民衆には対支配者の「体験からの知恵・洞察」がある。それは生きのびるために身に付けたものである。代々の支配者には「責任倫理」はなく、「支配欲からでた狡知と武断主義」だけが存在するよに見える。かえって中間支配層中に希ではあるが、板挟みから追いつめられた代理的な「責任倫理」が窺えるのみである。民衆の中からの飽くなき責任追及を、変質者の仕業とみなす支配者が存在する。すべてを水に流すことを美徳(?)とする精神文化が横溢している。
 今回のイラク問題でも政治家は「状況の推移を注意深く見極わめて」決断するので、結果の責任はとらない。時の流れの読み違いがあったというのである。渦巻く濁流を筏で下る竿師が政治家で、転覆は濁流と竿師の両方にあるとする。「責任倫理」とは程遠い倫理である。敗戦時、「一億総懺悔」という言葉を政治家は振りまいた。民衆にも責任はあると。

http://members.jcom.home.ne.jp/tsudoi/dansyou.htm


Re: ある老年キリスト者の(苦しい)思索 - 2
http://www.asyura2.com/0411/war62/msg/1111.html
投稿者 NAVI 日時 2004 年 11 月 13 日 02:37:33:HX//G5Ne7CBAk

(回答先: 福音派ロックとファルージャ総攻撃 [町山智浩アメリカ日記 2004-11-09] 投稿者 レイ 日時 2004 年 11 月 13 日 00:10:09)

求道者へ(2)       2003/3/31 井上圭典
 
 米英合同軍によるイラク攻撃に関して、日本のキリスト教会の中でも、その是非を巡って異論がある。それもはっきりと2分されているのではなく、日光をプリズムで分光させるとスペクトルが現れるように分散された状態にある。前回に続いて、まとまりのない断章を綴る。推敲して批判を受けないような文章を書こうという意図は全くない。答えの見いだせない何故を共に考えるための、老年キリスト者の発言である。共感する人もあれば、反発する人もあろう。
 
●戦争は政治家の頭の中から始まる

戦争は実際にドンパチが始まる前から起きている。政治家が戦争を決意した時から情報戦争がはじまり、「真相」を覆い隠すための「大義」の画策が始まる。と同時平行してに勝利のための戦略・戦術が練られる。
 たとえばテレビの戦争画面の「画像」は事実には違いないが、全体の事実の一コマに過ぎない。無数にある画像から報道管制というフィルターを通過し、さらに通信社の幹部の認可を経て、われわれはその画像を目にすることができる。
 そして、画像は事実の一部であり、その事実を無数につなぎ合わせても、「真相」に迫ることはできにくい。「真相」は政治家の頭の中に存在するものである。「真相」の一端は政治家の回顧録から窺うことができるが、それは粉飾されていているものである。第一リアルタイムで知ることができないのが欠点である。
 結局我々は、事実の積み重ねと、過去の諸々の真実から、現在の「真相」に迫るしかない。
 しかしながら、我々は刻一刻起こりつつある事象に対して判断を迫られる場合がある。事実を前にしてそれをどのようにとらえ、予測するのか。その判断の基準にあるのは、それぞれの持っている倫理でり、直感であり、好悪であり、信頼する識者の論であり、マスコミであり、友人・家族であり、インターネット情報であり、歴史観であり、法的な社会規範であり、場合によっては憲法解釈、国連憲章の自分なりの解釈である。世論調査などで即答を迫られる場合は、以上のような基準の総合的判断を、意識的にか無意識的にか行い回答するのであろう。
 時の経過とともに事実が積み重ねられてゆくと、世論も変動する。対象社会が生み出す事実が変動すれば世論も変動する。これはまともな変動、当然の変動である。世論は事実の関数なのであるから。問題なのは、対象社会を政治家が人為的に変動操作することである。事前に世論を操作して変動させ、世論を錦の御旗として堂々と政策を推進する場合である。
 
●戦果報道から考える

 自爆テロは日本の特攻攻撃と同じではとの意見に、ある好戦的な評論家か激怒した。特攻は戦時中のことで崇高な精神から出たもの、テロとは次元が違うと。この場合の次元とは、戦争倫理とか正戦理念とかの違いのことを言っているのだろうか。日本の陸海軍の特攻攻撃には数千人が参加し、天皇の賞賛を得ている。現在、イラクは米英合同軍の侵入と戦っている。戦時中となった。それでも自爆テロという言葉が使われている。フセイン大統領はジハードを実行せよと呼びかけている。「自爆テロ」もその実行形態の一つである。先の評論家はどのように評価するのであろうか。
 米英合同軍は、市民だか民兵だか区別がつかないという。市民の格好をした民兵を自衛のために殺戮できるという。区別のつかないものを、区別することを現場の戦闘員に要求する。頭が狂ってしまうであろう。
 南京大虐殺は多数の非戦闘員を銃撃したが、非戦闘員の服装をした民兵・正規兵(便衣兵)が混ざり込んでいたという弁護論がある。村落に民兵が逃げ込んだら、それを見つけ出すことが不可能だから村全体を焼き討ちにする戦術を中国戦線では行われていた。
 体制が崩壊、あるいは崩壊に近い状態でも、山河、村落、住民の生活は存続する。そのような環境に武力攻撃を仕掛けられたたら、抵抗は当然である。体制を守るためではなく、村の命、生活防衛のための抵抗である。
攻撃する側の大義はすでに失われいる。それは自衛権を奪い去る行為となる。地上戦は村落共同体が「人質」とされ、双方からの挟撃の対象となる。どちらも「人質」を守るため、奪い返すためとと称して、多数の犠牲者が出るだけに終わる。降参しようとすると後方から撃たれ、降参しないからと前方から撃たれる。
 太平洋戦争(最近では大東亜戦争という戦時中の呼称が大分盛り返してきた。)が始まった当時、軍国歌謡で「東亜侵略百年の野望をここに覆す」「ああ、一億の胸鳴る」というのが流行った。怨念というマグマの大爆発を誘発し、戦争エネルギーに転換しようとしたものである。西欧諸国の植民地戦争への「義憤」は日本国民の中に確かにあった。「東洋平和」のための戦争論はそれなりの説得力はもっていた。実態は違っていたが。今回の紛争の奥に潜むものへの考察は欠かせない。肉体を殺しても精神は奪えず、それは人から人へと受け継がれてゆくものである。それを政治家が善用するか、悪用するかはともかく。
 
●群れの一人一人に働く求心力と遠心力
------ヘレニズム文化の分析・理解法
 人類の戦争の歴史は、それぞれの地域の支配者の心のなかに宿った「支配衝動」の衝突の歴史であるように思われる。人類は「群れ」として、一つの集団を形成しないと存続できない。赤ん坊を一人野原に置いておけば数日して死んでしまう。乳離れした後でも生きてゆけない。しかも、人は成長の段階で社会的な訓練・教育を受けなければ集団生活を営むことができない。しかも、集団には指導者が必要である。家族の長が必要であり、村落の長が必要であり、国の長が必要である。
 ギリシャの学者の言葉であるが、人間は指導者が必要である。しかもその指導者も人間であるが故に、指導者が必要である。最高の指導者とても例外でない。最高の指導者に指導者がいるなら、それは最高の指導者とはいえない。人類の悲劇性はここにあると。
 人類は「群れ」として一丸となって、マンモスに立ち向かうことができた。「群れ」ることは人類にとって「存続」の絶対の必要条件であった。しかしながら、人間の心には群れへの求心力とともに群れから独り立ちしたいとの遠心力も働いている。求心力は「平安、安全保障、秩序」をもたらすとともに、人間の心をしばる諸々の規範力としても働く。遠心力は「自由」への希求である。束縛から自由でありたいとの根元的な願望でもある。 

 求心力が強い国は、独裁国家であり、遠心力が強いと規律・秩序が弱く、最後にはアナーキーとなる。求心力と遠心力とが均衡した国家が理想の国家となるが、それを成り立たせるのが理想的な指導者である。
 
 人類の歴史を客観的に眺めてこのような議論を積み重ねてきた、その発端はギリシャの哲学者者達である。その流れは西欧の歴史観・人間観を強くリードしてきた。具体的な事例を抽出して概念を措定し、概念相互を論理の操作でつなぎ合わせ、元にもどって具体的な事例を説明したり、理解したり、あるべき姿への指針とするという操作を繰り返してきた。この間に概念もそれを説明する言葉も、論理操作も記号化されて一般の人には近づけなくなってきた。このような流れ、根元に神を措定せず、人間の理性をもとに、またそれを道案内に作り上げた文化を、ヘレニズム文化と総称しているようである。
 
●一切の事象の背後に神の手-----ヘブライ文化の分析・理解法
 しかし、これとは全く対極的な流れが旧約聖書・新約聖書に立つヘブライ文化である。これは神が地球、地球環境、動植物、人類を創り、人間にこれらの支配を委ねたが、隠れた最高の支配者は神であるとの文化である。神は万物の根元であり、また万物を支配される方である。人間の目に見えるものを作るだけでなく、見えないもの、たとえば心、を支配される方の実在信仰を基礎にした文化である。日本長老教会はプロテスタント教派の中のカルヴィニズムの流れを汲んでいて、この隠れた最高の支配を神の主権と称している。この世に起きているすべての事象の背後に神の手が働いているとの信仰である。ライプニッツの「予定調和」、アダム・スミスの「神の見えざる手」などもヘレニズム文化思考法の底にヘブライ文化思考法が見られる。
 
●西欧の文化-----ヘレニズム文化とヘブライ文化との混淆
 しかしながら、西欧の文化はヘレニズム文化とヘブライ文化とが、あざなえる縄のようになって一本のようになって、それを切り離すことができない。相矛盾する文化、特に人間中心と神中心の文化が緊密に結び合わされて、ある時代には融合し、ある時代には結合がゆるむという歴史を経てきている。カルヴィニズムとてその例外ではない。カルヴィニズムの唱道者はジャン・カルヴァンであるが、カトリック教会の役員の子として生まれ、法律を勉強する。当初ユマニスト(ルネサンス時代の人文主義)として立ったが、やがてプロテスタントに回心し、宗教改革の神学を組織化した人物である。
 
●自然科学と社会科学
 科学技術分野で生きてきたものとして、以下のように考えている。いずれの研究の基礎には厳しい倫理の規制がなければならない。
 物を数える場合、手の指10本からの10進法、手足の指20本からの20進法が発達したが、経済・交易活動が発達すると、12進法が発達した。12は2,3,4,6で割れるので、割り算が苦手の中世人には便利な表現法であった。負数が考え出され引き算の世界は広がり、更に虚数が導入され、ベクトル算法、行列算法、などなど、自然現象を表現し、解決するために次々と数学的手段を進化させてきた。ニュートンの力学法則と万有引力の発見は、自然界の現象を力学という武器で説明し、予測できる道を開いた。これに触発されて社会現象をニュートン的な手法で解明することを学者は試みた。社会現象を単純な原理があって、それが複合したものとして社会現象を説明し、予測することを試みた。
 科学の研究・実験でも無数の犠牲者が出、その犠牲の上に科学が発達する。犠牲を恐れては発達は不可能な面がある。
 社会科学のうち、政治理論などは、実験した場合大変な犠牲者がでる。経済理論などの適用で人民は苦しまなくてもよい貧困を経験する。ある体制がある国家理論を実際に当てはめ、経済政策をある経済理論で推し進め、それがうまく適合しなくなると、その矛盾・しわ寄せを人民に押しつける。その犠牲は科学に実験の被害者の比ではない。
 アメリカの科学技術の研究開発の手法は、フロンティア精神があって、どんどん未開の分野を開拓してきた。その成果が人類に便利さをもたらした。コンピュータを世界のネットワークに結びつける通信技術、カードによる買い物などが卑近な例。その裏に危険性・犯罪性が常に潜んでいるが。
 アメリカの新保守主義は、政治思想の分野を開拓者精神で、アメリカにとって不都合だということで、古いヨーロッパ生まれの政治思想を脱ぎ捨て、新しい政治思想をうち立て、それを先端技術の助けをかりて、イラクに戦争を仕掛け、「思想の実験場」化としている。
科学技術畑の人間として、自然科学の実験ではないぞ、いい加減いしろと言いたい。 
 政治思想には厳しい政治倫理が裏打ちされていなければならない。科学も、核・遺伝子操作・情報などが厳しい倫理の裏打ちがなければならない。
 
●日本のキリスト教、特に政治運動

 日本のキリスト教は、日本人の民族性・文化・伝統を必然的に背負いつつ、西欧文化が築いたキリスト教を受容してきたものである。木にに竹を接いだような点がある。とくに人間観・歴史観はキリスト教のものを選択している。しかし、それが身に付いているかどうか。いや、身に付けなければならないのだろうか。

 織田・豊臣時代にはキリシタン大名も出たほどにキリスト教が一時、開港地を中心にして広がっていった。しかし豊臣秀吉の禁教令以来、激しい弾圧で信徒は激減し、一部の信徒は地下に潜るほかなかった。徳川時代も禁教令は継承された。

 島原の乱、一向一揆(これらの用語は政治の側からの反体制という意味合いがあるが)などは、宗教が政治の家僕である限り、政治は宗教を飼い慣らして保護するが、その枠をはみ出し、宗教が政治を批判・反抗するようになると政治は宗教を徹底的に弾圧するようになる。日本の場合政治がすべての上位にあってすべてに君臨する。宗教指導者が政治家気取りとなって権勢を振い時の権力と衝突するのは、宗教の政治的利用で戒められねばならない、弾圧を法難と言い張るのだろうが。

 明治維新の政策は、統一国家成立のための求心力として「尊皇攘夷」精神・心情を採用し、統一がなった時点で近代国家を成立させるために「開国」は必要条件となった。近代国家の制度文物を移植するため高給で外国人を雇い入れた。お雇外国人の「外圧」の中にキリシタン、邪宗門の解禁、日曜日休日などがあった。禁制の高札の取り下げ理由は、十分周知されているからいつまでも掲げていることもあるまいというのであった。「攘夷」は「開国」となったが、政策の変更はあったが「尊皇」は維持され天皇を国家の機軸にした。「王制復古」「神武創業」の昔に帰るというのであった。政治思想としては後期水戸学(国学)を基にした。「和魂洋才」のスローガンが西欧文化受容に際してのフィルターの役目をした。
 明治期のキリスト教は宣教師によって養成された元武士階級出身者が指導者となって広がっていった。この特殊な出発が日本独特のキリスト教を形成してきた。

 伊藤博文が憲法の先頭に天皇を置いたのは、西欧ではキリスト教が国家の機軸となっている、日本では機軸になるものは天皇であるとしたからである。この時点でキリスト教は少なくとも国家の機軸とはなりえず、その周辺にある存在となっていった。周辺から中心に近づこうと試みた指導者がいたが、信仰を貫きつつ近づくと挫折させられ、信仰を捨てると中心近くには入り込めるという状態が続き、戦後の現在もその様子は変わらない。国家の機軸が天皇である限り、国家を動かす政治家がキリスト教信者では都合はわるいことは当然。キリスト者政治家は、キリスト者であるつつ政治家であることが、日本では二律背反の苦悩を背負ているのである。キリスト教主義で政治を動かそうということは、国家の機軸を天皇においている明治体制を根本から変革してキリスト教を機軸に置き換えるという大難事業に取り組むことから始めることを意味する。

 モーセのような指導者でも、奴隷状態におとしめられていたイスラエル民族を解放するためにはエジプトを脱出しなければならなかった。日本の居続けつつ日本をキリスト教国家にすることは不可能事に近い。ところが、外国人宣教師はその変革を難事とは思ってない節がある。現在、日本のキリスト者が行っている政治的な運動の大半は、キリスト者が多数派となれば、必要ないものとなるとの楽観論である。まず多数派工作を、すなわち福音宣教を、というのである。これははき違えてた考えで、キリスト者が多数派となっても、政策が正しければ多数でそれを曲げてはならない。危険をはらむ考えである。 
 
●預言者の伝統

 旧約聖書には預言者が存在していた。預言者とは神のことばを預かっている人のことである。王室のお抱え預言者もいれば、在野の預言者もいる。王はその政策決定に預言者の意見、すなわち神の意志を参照している。在野の預言者は王の政策を批判した。王の上に神がいたのである。王の内面に芽生えた政策は、常に預言者によってチェックを受けていた。すなわち、神の承認を得ていた。最高の指導者は王であるが、究極の指導者は神であった。神の言葉は巻物に記されていたし、口伝のものもあった。政治が王の恣意によるものではなかった。参照されるべき基準があった。政策に継続性、安定性があったということである。

 古代ローマは一地方都市国家が急成長し、共和制政治を採用し、次いで君主制そして帝国になった。その帝政の時期にキリスト教が公認宗教となった。この頃教会には預言者と呼ばれる者は存在しなかったが、教父と呼ばれる学者がいた。この人達はイエス・キリストの使徒の教えを正しく伝えているとされ、たとえば、キリスト教徒が軍隊に入り、戦ってよいかどうかの最終決定者となっていた。
 
●旧約聖書にみる神による人間の罪の審き

----洪水・言葉の乱れ・都市の滅亡・戦争・捕囚----
 旧約聖書には壮絶な戦争が数多く記されているが、イスラエル民族のカナン侵入では、カナン人が皆殺しに近い被害を受けている。その後の戦争ではイスラエル人とペリシテ人(現在のパレスチナ)との絶え間ない戦争、イスラエル民族が大量捕虜となる戦争などが記されている。聖書は人間の罪を主題にしていることからして、罪の処理の方法、罪の結果の状況などが書かれている。戦争も罪との関係で記されていると見られている。聖書は戦争を肯定していると単純に見てはならない。

 一つの見方は、ノアの洪水の事件からの歴史から考える。人間を創った神は、「地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな悪いことだけに傾くのを」見て「人を地の上から消し去ろうと」決心し、地上に大洪水を起こし、箱船に乗ったノアと家族と動物達を除き、全部滅ぼしてしまった。

 このノアの子孫が、バベルの塔を築き神に対抗しようとしたとき、神は人々の言葉を乱し、一致団結して神に逆らうことが出来なくした。
 神は、ソドムとゴモラの町が罪に満ちていたのでそれを滅ぼすことを、アブラハムに告げた。アブラハムはその町に一人でも罪のない人がいたら、神の正義に悖るのではないかと、神に抗議している。

 その後に、カナン侵入の記事、人と人との戦争の記事が出てくる。これはカナン人の罪の増大に関係する。ノアの洪水、バベルの塔、ソドムとゴモラの滅亡、カナンの皆殺しも、人間の罪の処罰とみる。

 もう一つの見方として、シャロームという言葉にその鍵を求める。シャロームとは、決してカオス(混沌・無秩序)の侵入を許さない領域、また、その中で命が、それを衰えさせたり滅ぼそうとするあらゆる脅威から自由になって発展することができる領域を指している。このシャロームの領域に侵入してそこをカオスの状態にさせる力をミルハーマーと呼ばれている。このミルハーマーの中に戦争という概念が含まれている。また、ミルハーマーの侵入を押し返す力も一種の秩序再建のための争いである。ある人がシャロームの状態にあるとは、単に健康な状態にあるというだけでなく心身ともに充実しきった状態のことで、人との出会い、別離の時の挨拶ともなっている。共同体がシャロームの状態、国家がシャロームの状態も同様な意味をもっている。

 非情な神、峻厳な神というより、人間の罪深さ、神への反逆という立場から聖書を読みたい。
 米英が善、イラクが悪というつもりも、イラクが善、米英が悪よいうつもりもない。神は、悪を持って悪を滅ぼし、その生き残った方の悪をまた滅ぼすというような手法をとられる。絶対の正義というものは、罪あり堕落した人間世界にはあり得ないから、悪を用いざるを得ないという神がわの事情があるのであろうか。
 人間の罪の救済者メシアの到来を予告し、旧約聖書は終わる。

●新約聖書も人間の罪の指摘を止めないが、救い主の到来、救いへの道も示される。そして人とこの世界の終末を語り告げる。
 長老教会の教理では、人間は全的堕落の状態にある。全的とは知・情・意のすべてにわたることをいう。やることなすことすべて完全だということはあり得ないとうのである。人間がエデンの園に置かれた状態(堕落前の状態)に回復する道は、救い主イエス・キリストへの信仰であると教えている。救いの完成は終末時の復活のときである。
 人間は自由意思が与えられ、自己の責任においてすべてを決断し、実行する。神は人間に産めよ増えよ地に満ちよ、そして神が創った一切を支配するようにと委ねられた。神はすべてを創りそれをすべて善とされた。それを善とし続けるよう委託されたものである。いたずらに戦争して地上を荒廃させることは委託に応えることにならない。
 
●戦争という「野獣」を「家畜」化するための歴史、法的な束縛、倫理的な束縛の試み
 旧約聖書の戦争から、戦争一般のの話に戻るが、人類は「戦争という野獣」と格闘し、これを飼い慣らすための努力をしてきた。まず、法律の支配下に置こうとした。グロティウスの「戦争と平和の法」がその代表である。開戦と交戦のルールを作ってきたのである。最近盛んにウェストファリア条約が持ち出される。これは「神聖ローマ帝国の死亡証明書」と呼ばれるように、主権国家の分立がここに始まり、国家間の戦争はルールに則れば可能となった。この正義の戦争論はやがて無差別戦争論(開戦のルールによる正戦論は破綻し、戦争に区別はつけられないとした)に学説は移った。この頃、ヨーロッパ諸国のアフリカ、アジア植民地争奪が続いた。相手はキリスト教統一社会が分裂して生まれた主権国家ではないから、戦争ルールは適用されなかった。”喜望峰の東では、良心は無用”などと公言されアジア植民地争奪戦は続いた。しかし、第一次、第二次大戦を通じ近代国家間の戦争では交戦ルール生き続け、その精神は国際連盟、国際連合などに引き継がれている。
 この国際連合の在り方では無法者国家は縛れないという理屈を立て、単独先制攻撃を合法化するようにとの論がブッシュ・ドクトリンと呼ばれているものである。この理論の提供元がアメリカ新保守主義である。
 さらに、兵器の殺傷能力の向上に伴って、倫理の上からも交戦ルールに網をかけようと国際世論は高まった。核兵器は戦闘員も非戦闘員も差別なく大量殺戮の兵器でるから、人道上使用してはならない。バランス・オブ・パワーの戦略兵器として睨みをきかすだけに止め置かれている。 精密誘導ミサイルは戦闘員、戦闘施設だけを破壊するから、「人道的兵器」だとされる。弾道ミサイルは、ならず者国家は持ってはならぬとされている。ならず者すなわち無法者であるから国際法規を無視して、弾頭に核・生物・化学をつけて戦争行為をするおそれがあるからだという。
 最近のアメリカ軍兵器は、核・生物・化学でなければよいとばかり、異常に殺傷力の強いものになりつつある。これらも国際間の話し合いで倫理の網をかぶせ規制すべきであろう。テロが無法の野蛮なら、このような兵器は「合法」(?)な野蛮である。開発当事者が選び抜かれた科学者であり、指示者が合法的な権威者であろうとも。
 
●カインとアベル----恨みを持つ人間
アダムとエバとの間にカインとアベルが生まれた。兄カインは土を耕すもの、弟アベルは羊を飼うものであった。神のカインとアベルに対する取り扱いに差別があるとみたカインはアベルを野に誘い出し殺してしまった。何で打ち殺したかは記してないが、何か耕作器具を使ったのかもしれない。
 包丁は調理のため、鋤・鍬は耕作のため、自動車・列車・民間航空機は輸送のためにあるが、ならず者はこれらを殺人兵器として転用するというのである。
 文明の利器は人類に大きな益をもたらしたが、目的外使用の禁止が暗黙の了解事項である。文明人には通用する注意事項は、野蛮人には通用しないという。確かにそうであるが、文明人の間から野蛮人が生まれるのではなく、文明人が知らず知らずに文明人を野蛮人に育て上げてしまうのではないか。
 「気狂いに刃物」の被害は狭い範囲の事件だが、独裁国家が人民を動員して大量破壊兵器を振り回せば、その被害は計り知れない。その予防にはどうするか。これは難問であるが、武力征伐だけが唯一の選択ではない。国際間で時間をかけて説得する選択もある。
 同時にならずもの国家を生み出す土壌を消滅させる努力が国際間であらねばならない。9・11事件の起きる以前の50年も前からCIAの間では「ブローバック」ということばが内輪で使われていたという。これだけ全世界に謀略を繰り返していたら、いずれその揺り戻しがくるだろう。それを「ブローバック」という隠語で使っていた。それが徐々にジャーナリズム、政治家の中に広まったという。強者の抱く底知れない恐怖がそれをさせたのであろう。チャルマーズ・ジョンソン(米国国際学者)は9・11事件のようなものを数年前から予告し、著書・論文で警告してきた。
 
●目的と手段、それ以前の動機
 「目的達成のためには手段を選ばない」ということがいわれる。これは否定的な、許してはならない意味を持っている。しかしながら実社会ではこのようにして目的を達成して優位な地歩を占める場合がある。
 目的がよくても手段が悪い場合、目的はよくないが手段は悪くない、目的も手段もよい、目的も手段も悪い
など、目的と手段との関係は様々である。さらに目的・手段がよいか悪いかの判定が分かれるのは普通である。 国家間の戦争では国際的な取り決め、ルールをつくりそれで、目的・手段の善し悪しを判定するしかない。
 野蛮な行為を取り締まるためには、結局野蛮な手段に訴えざるを得ないと諦観する人がいる。しかし、そのような人でも、野蛮な行為をするかも知れないからと、先制的に野蛮な行為をすることは是認しないであろう。
 それをしも是認する人は、タカ派というより、野蛮派というべきだろう。
 
●キリスト者の祈り
 冒頭で米英合同軍によるイラク攻撃に対するキリスト者の意見がばらばらであると書いたが、それが事実としても、互いに自説を強く貫かない。その大きな理由は、この戦争の背後にも神の御手が働いているとの信仰がある。複雑な事件を決定的に断定することは神の領域に踏み込むことになるからである。このような場合、為政者のために熱心に祈りなさいと勧められる。それは神が為政者の心を変えさせてくださるからだとの信仰から出たものである。為政者も悩みに悩んでいる、責任の重さにうちひしがれている。想像もできない位の重荷に耐えることができるよう励ますこと。また戦場にいる両対戦国の兵士の恐怖が早く取り除かれるように。国家の命に従って戦場に立っているが、人間としての心に平安があるだろうか、それを思いやる心でもって祈るように。攻撃を受けている市民の苦難が一刻も早く除かれるように。これらの祈りは、戦争そのものへの意見の相違を越えて祈られねばならないし、事実共にそれを祈っている。各教会の祈祷会の共通の課題となっている。
 戦争は人類の悲劇である。その悲劇を今一部の人間が直接に負わされている。その痛みを早く取り除こうと世界中の市民が街頭に繰り出している。その人たちは直接・間接に痛みを知っている人たちである。
 祈りは、当然の結果として行動と発言などに導かれる。平和に向けての活動を励まし、支え、後押しするのは一人びとりの決断に属する。誰がすすめるからとか、誰が制止するからとかで左右されてはならない。
 
 
以下の資料1,2,3は 2002年10月09日(水)萬晩報通信員 園田 義明 の記事から抜粋
 
資料1.ブッシュ・ドクトリン(2002/9/20)の大要
・自由と全体主義の戦いは「自由」の側の勝利に終わり、今日の敵はテロリストの暗黒のネットワークだ。この敵は大量破壊兵器を獲得しようとしている。
・世界の力のバランスで自由諸国が優位に立つことが、米国の目標だ。
・我々は、テロリストとテロを支援する者とを区別しない。米国は国際社会と協調するが、必要なら単独行動も辞さない。
・冷戦時代は抑止戦略を強調したが、ソ連崩壊で環境は激変した。テロリストは国家を持たず、伝統的な抑止は機能しない。必要ならば先制行動も辞さない。
・これまでの開発援助は最貧国の経済成長を促進せず、失敗した。今後、本当の内政改革を行った国に対して援助を大幅に増やす。
・日本には、地域や世界規模の問題で指導的役割を期待する。中国が強く平和的で豊かであることを歓迎するが、依然、一党独裁を維持している。
・現在の米国の国防組織は、冷戦時代に構築されており、すべて改革が必要だ。米国の力を凌駕しようとする潜在的な敵国を思いとどまらせるため、我々は十分な軍事力を保持するであろう。
(読売新聞「米国家安全保障戦略」要旨より)
 
新戦略は、共産圏を目標とした冷戦時代の「封じ込め」や「抑止」戦略から転換し、テロ撲滅と大量破壊兵器の脅威には、単独での先制攻撃もためらわないとしている。
ブッシュ政権のユニラテラリズム(アメリカ単独主導主義)の集大成とも言われている。
資料2.アメリカ新保守主義者(ネオコン)の論客 ロバート・ケーガンの論文の反響
 ネオコン系シンクタンク「新しいアメリカの世紀のためのプロジェクト」1997年(PNAC=Project for the New American Century)の設立者の一人ロバート・ケーガンはの論文
『Power and Weakness』 がヨーロッパの指導者に衝撃を与えている。
 
 欧州と米国の違いが修復不能な状態に達し、米国の新世界秩序建設にとって欧州はいわば「用なし」になったと書いている。そして米欧関係を「虚構」と決めつけ、「互いに道が分かれたことを認め合おう」と呼びかける。それは、離縁状とも受け取れる内容。
「力に背を向けて、法と規律、交渉と協調を重ねればカント流の永続平和を築けるという理想論にひたっている」と欧州を批判し、米国の世界観は「万人の万人に対する闘争」というホッブス流の無秩序・無政府的世界だとする。
 ネオコン系の論客である「歴史の終わり」を書いたフランシス・フクヤマも「西欧文明における民主的正当性という問題で、米欧が異なる観点を持つことの反映である」とし、『西欧』という言葉や観念でくくられていた世界の崩壊の兆しだと指摘している。
 
なお、PNACの設立趣意書には「レーガン時代の強力な軍事力と道徳的外交を堅持し、自由、民主主義などの原則を世界に拡大する」とうたっている。





(私論.私見)