芥川龍之介のイエス論

 (れんだいこのショートメッセージ)
 芥川龍之介の作品の中に西欧宗教の「切支丹もの」、キリスト教、ユダヤ教に関するものがある。「奉教人の死」、「るしへる」、「きりしとほろ上人伝」、「神神の微笑」、「おしの」、「糸女覚え書」「報恩記」、「おぎん」、「黒衣聖母」、「南京の基督」、「西方の人」、「続西方の人」「煙草と悪魔」、「さまよえる猶太人」。





(私論.私見)


芥川龍之介とキリスト教 −切支丹物を中心に−」

芥川龍之介には切支丹物と呼ばれる一連の作品がある。これらの作品群から芥川がどのようにキリスト教を考えていたのかを探ってみたい。どの小説が切支丹物であるかは研究者により異なるが、大概次のようである。(注1)
芥川の切支丹物
作品名 発表時期
煙管 1916(大正5).11月
煙草と悪魔 1916(大正5).12月
『尾形了斉覚え書き』 1916(大正5).12月
さまよえる猶太人 1917(大正6).5月
『るしへる』 1918(大正7).8月
奉教人の死 1918(大正7).9月
邪宗門 1918(大正7).11月
きりしとほろ上人伝 1919(大正8).4月
『じゅりあの・吉助』 1919(大正8).8月
黒衣聖母 1920(大正9).4月
南京の基督 1920(大正9).6月
神神の微笑 1922(大正11).1月
『報恩記』 1922(大正11).3月
『おぎん』 1922(大正11).8月
おしの 1923(大正12).3月
糸女覚え書 1923(大正12).12月
西方の人 1927(昭和2年).7月
続西方の人
侏儒の言葉 1927(昭和2年).
「侏儒の言葉」の序 」 1927(昭和2年).



芥川は聖書を最初は「クリスト教の為に殉じたクリスト教徒たちに或る興味を感じていた。殉教者の心理はわたしにはあらゆる狂信者の心理のように病的な興味を与えた」(西方の人1.この人を見よ)ところから始まる。

最初の切支丹物である『煙草と悪魔』 は、三好行雄に「才能の浪費にすぎぬ失敗作」と言われたのを始め、キリスト教の本質に触れていない、等今でも高い評価を受けていない(注6)しかし、私はこの小説は芥川の聖書理解をよく表していると思う。

「南蛮の神が渡来すると同時に、南蛮の悪魔が渡来すると云う事は――西洋の善が輸入されると同時に、西洋の悪が輸入されると云う事は、至極、当然な事だからである」(『煙草と悪魔』)

という認識は、『るしへる』の「悪魔亦性善なり断じて一切諸悪の根本にあらず。」などのようにしばしば現れる。聖・善・神は相対概念であり、俗・悪があるからこそ成り立つと言う考え方である。

また、『さまよえる猶太人』には「イエス・キリストに非礼を行ったために永久に地上をさまよはなければならない運命を背負わ」された男を登場させ、この男は「御主を辱めた罪を知っている」ためにイエスの呪いがかかった、と言わせている。

「罪を罪と知るもの」だけが苦悩を背負うと言う解釈を提示するなど、キリスト教に対して自己の知識からの不信を申し立てている。そこには、自らの人生に重ね合わせて聖書を読む姿はなく、単なる知的読み物として読みその矛盾をつく作者の態度がよく表れていると思う。


「日本近代文学の中のキリスト教―芥川龍之介の切支丹小説―」



 
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