【「ユダヤ王支配」に関する記述一覧】

【「ユダヤ王支配」に関する記述一覧】
 イスラエル王がヨーロッパの捧げた王冠を神聖な頭に戴くときは、世界の族長となる。そこに達するまでに王が供する犠牲は、ゴイム政府が何世紀かにわたって強者を競った狂人じみた張合いが供した犠牲の数に比べれば物の数にも入らない。 (プロトコール15)
 ユダヤ王は真の世界の法王、世界にまたがる教会の総大司教となる。 (プロトコール17)
 我らが王国はインドのヴィシュヌ神になぞらえ擬人化すると、我らが百本の手の一本一本は、社会という機械のバネを握っている。警察というのは、我々がゴイムのために入念に作り上げ、しかも政府は覗けない望遠鏡であるが、その警察の力を借りずとも我々は何もかもが解るのである。(プロトコール17)

神に選ばれた者≠ヘ、理性ならぬ本能によって、また人間性ならぬ獣性によって動くばかげた力を粉砕すべく天から下される。この力は本能から生まれでておりいわば動物域のものである。それは知恵から出ておらず人間の魂に支えられていない。今は自由の原理という仮面をつけて略奪とあらゆる種類の暴力をはたらき凱歌を挙げているが、この力が社会秩序を破壊した跡にイスラエル王を王座に据えるのである。(プロトコール23)

 その時、我々は世界の人民に次のように言うことができるだろう。「神に感謝せよ、祈れ。額に人類宿命の験(しるし)を付けた方の前にひれ伏せ。その験は神おん自らが星を導いてその方に付けられたのだ。その方を措いては生来の罪と悪から解き放って下さる方はいないのだ」。(プロトコール23)

 ダヴィデの聖なる子孫である全世界統治王その人は、人類の支柱であり、宇宙の支柱である。王は、人民のためにはいかなる個人的希望をも犠牲にしなければならない。我らが王は、至高にして完全無欠の権化、非の打ち所のない者でなければならない。(プロトコール24)


【「ユダヤ王支配下の強権政治論」に関する記述一覧】
 ヨーロッパを我々の政治の中心にする。我々の政府の発布した法令は絶対的で、これの変更はできず、これに対する控訴も嘆願も許さない。

 ゴイの社会には、根深く対立抗争の種を植え込んでおいたので、秩序を回復するには強権的に容赦ない手段を執るよりほかはない。将来の至福の為に、どれだけ多数の犠牲者を出そうとも一顧だに与えてはならない。

 真に己の政府の存続を忠実に考え、特権維持ではなく職責完遂を顧慮する政府ならば、いかなる犠牲を払ってでも例え虐殺に手を染めても、断じて遂行しなければならない義務というものがある。

 我々の政府の支配を揺ぎないものとする原則は、権力の威光を輝かせることにある。つまり官僚権力の権威を高めることである。且つこれを揺るぎなきものにしなければならぬ。(プロトコール15)
 我々の力が及ぶところでは、ゴイムの法律は最小限度にしか適用しないようにしてきた。法の尊厳威信なるものは、その分野に流し込んだリベラルな解釈を駆使して存分に失墜させてきた。最重要かつ根本的な事項や問題は、我々の口をはさんだとおりに裁判官が決定し、我々がゴイムの政府機関に示したことに従って事を裁定する。(プロトコール15)
  我々が公然と世界の支配権を確立したときには、その成果を踏まえ、我々の恩恵を示すためにも、一切の法律を革変するだろう。我々の法律はすべて簡潔明瞭、それに確定的であり、あれこれ解釈に迷うこともない。いかなるよけいな解釈をする余地もなく、何びとにも完璧に解る、簡潔、明白、確固としたものであるだろう。

 そこに貫徹させておくべき原則は、官権当局に対する絶対服従である。この原則によって荘重高潔なものとなる。こうして最高権力者に属する権威の前には最下層の者に至るまで責任を負う結果、権力の乱用は行われなくなる。

 次席以下の権力乱用もまたなくなる。一人の例外もなくとうてい再犯ができないほど容赦なく峻厳に処罰を受けるであろう。我々は国家機構の円滑な運営をはかるために、官憲に対しても事細かに点検するであろう。一部分の腐敗はあらゆる所での腐敗を惹起する。一片の不法行為、一片の権力乱用といえども処罰の見せしめを免れさせはしない。

 犯罪の隠蔽、行政の怠慢等この種の悪事はすべて、最初に峻厳な処罰を科せば以後は影を潜めるであろう。我々の政権の後光は適切な罰則すなわち、至高の威信に対しての侵害は軽微なものであっても、とりわけ私利私欲と結びついた場合は、厳罰を科さなければならない。厳罰を蒙る者は、たとい過失の度合いに比べて罰が重過ぎるとしても、主権、政綱ならびに法を擁護する行政の戦場で倒れる兵士と見做して然るべきであり、公共乗合馬車の手綱を執る人間が、公道を外れて私用に馬を走らせたら、どんな人間であろうとも許されないのである。(プロトコール15)

 我々の国家体制のためには、服従する訓練が必要な政府機関の重要位置からは皆、リベラリズムを一掃する。かかる位置にはもっぱら行政支配のために我々が訓練してきた人間のみを据える。(プロトコール15)

 我々の絶対主義は万事にわたって論理が貫徹しているので、どの判決一つをとってみても、我々の最高意志は尊重され一点の疑念もなく遂行される。あらゆる種類の不平苦情を無視し、あらゆる種類の示威抗議には制裁を加えて見せしめにする。

 我々は控訴権のような、決定を覆す権利を廃棄する。そういうことはもっぱら我々の一存即ち支配する者の判断に預けられる。我々が任命した裁判官が誤った判決を下すことがある、というような考えを人民に与えることは断じて許してはならない。しかしながら、万一裁判に過失が有ったことが判明し、判決に変更を加える必要が生じた場合は、我々自身が決定を廃棄する。

 その際には直ちに裁判官に二度と同種の過誤を犯さない旨の約束をさせ、自己の義務過怠に懲罰を課して見せしめにする。重ねて申し上げるが、我々の行政においては一段階ごとに、一応は我々を満足させてくれている人民に密着してよく監視する必要があり、善良なる政治は善良なる官吏を要求する権利があるということを銘記していただきたいのである。(プロトコール15)

 先刻御承知のように、私は権利と義務に対する絶対支配についてお話し申し上げた。我々の専制は権利と義務に立脚している。義務を実行させる権利は、臣民に対する父たる政府の第一の責務である。人類を天然が定めた秩序すなわち服従に立脚させることは、強者の権利である。

 この世の万物は、他人の力か、環境か、そのもの自身の本性か、いずれにしても自己の力以上の力に服従させられている。であるからこそ、善を実現するためには、我々はさらに強い者になろうではないか。

 我々は確立した秩序に違反する者は何びとでも、躊躇なく犠牲にせざるをえない。見せしめに悪に懲罰を加えることは、一大教育課題である。

 イスラエル王がヨーロッパの捧げた王冠を神聖な頭に戴くときは、世界の族長となる。そこに達するまでに王が供する犠牲は、ゴイム政府が何世紀かにわたって強者を競った狂人じみた張合いが供した犠牲の数に比べれば物の数にも入らない。

 我らの王は絶えず人民と接し、特使を通じて演説させ、その名声は全く同時間に全世界に報道されるだろう。(プロトコール15)

 王を公然と外面的な警備で防衛するのは、強そうに見えるもののその実その権力の弱さを露呈していることになる。

 我々の王が人民の中を巡察するときには常に、見た目には全く偶然そこに居合せた物見高い男女の群集に取り囲まれたかのように見せる。それらの男女は王に近い前の方の数列を占め、後の列を制止し、いわゆる大衆にはあまり接近させないようにする。こうした模範を示すと人民大衆もやがて静かに慎み深い態度をとるようになる。他の者から見れば、尊敬の念からよく秩序が保たれているように見える。これは他の場合でもそうすることに慣れるように種を蒔くことになるのである。

 もし大衆の中から請願人が現われて、王に請願書を手渡そうとし列を分けて進んできたら、最前列の者が請願書を受け取って請願人の目の前で王に取り次がなければならない。そうすれば誰の目にも直接請願書が王の手に届き、王自身が国政を監督していることが知れ渡る。人民が「王様がこの事を御存知だったらなあ」とか「王様が聞いて下さった!」と言えることが、権力の後光となるのである。

 公然たる護衛警察は王者の神秘的権威を失わせる。少々大胆さを持ち合わせていれば、誰でも自分は護衛を自由に操れると思い込み、暗殺者は自分の力に自信を抱き、時至れば官憲に一撃を加える瞬間をうかがう。ゴイムには、我々は正反対のことを教えてきたが、目立つ護衛策がどんな結果をもたらしたかを、事実そのものによってとくと見ることができた。(プロトコール18)

 我々は、犯罪者とあれば根拠が十分であろうと不十分であろうと、まず逮捕する。万一間違えるといけないということで、政治的堕落や犯罪を犯した疑わしき者に逃亡の機会を与えるとは、とんでもないことである。政治犯の場合は、文字通り峻厳でなければならない。単純犯罪で動機の再審議を許可し、特別扱いをすることが可能な場合でも、職権を持った者の他には何びとといえども事件に介入する口実は存在しない。すべての政府が真実の政治を理解するものではないのである。(プロトコール18)

 反政府活動屋は象に対してキャンキャン吠え立てる小犬以外の何ものでもない。組織的に活動している政府にとっては、警察の見地からではなく公共の立場から見ても、小犬が象に吠え立てるのは、象の強さや力を全く知らないからであると見做す。これには両者の力関係を一度だけ見せてやる以外は何もする必要はない。そうすれば小犬は吠え立てるのを止め、次からは象を見ると尻尾を巻いて逃げ出すであろう。(プロトコール19)

 政治犯罪者が主義に殉ずるものとして尊ばれ英雄視されることをなくすためには、裁判の際には、彼らを強盗、殺人犯、その他言語同断破廉恥極まる犯罪者と同じ席に坐らせ扱う。 そうすると世間は、政治犯をその種の犯罪と同種の不道徳な犯罪と見做し、軽蔑の眼差しで見下げるようになる。

 ゴイムが反政府活動を圧殺するのに同じ手段を用いないよう、我々は極力努力してきたし、今後もその努力は継続したいと思う。新聞や演説講演、間接的には巧みに編集した歴史教科書を通じて、我々は反政府屋を公共の福利のために殉じた殉難者として宣伝してきたのは、以上の理由からである。この宣伝がふくれ上って、リベラルたちが増加し、何千というゴイムをわれわれの家畜群に引き込んだのである。(プロトコール19)





(私論.私見)