【「国債」、「外債」、「国家破産」に関する記述一覧】

【「プロトコール20」】
 「シオンの議定書」には、各国政府の「国債」、「外債」、「国家債務」に関する記述があり、これを一覧する。

 「プロトコール20」で、彼らが押し進める「国債発行誘導政策」について次のように述べている。
 我々が計画したゴイムの財政制度と原理の改革案は、誰も肝を潰さないように衣をかぶせてある。我々は、ゴイムがしでかした不始末によって財政に撒き散らした混乱の結果、改革が必要であることを指摘する。

 我々が指摘する第一の不始末は、次々と起こる原因で年々膨れ上る年次予算に初めから仕込まれている。その予算は、上半期まではダラダラと行われ、それから補正予算を要求し、三ヵ月ぐらいかかって補正予算を作ると、もう清算予算を出さなければならない時期になって終りである。だが、翌年の予算は前年の総支出に基くので、経常の必要よりも年間50%にも達し、十年もたつと三倍に膨れ上る。ゴイム政府の無頓着なやり方のお蔭で、国庫はついに空になる。ここで国債時代が始まるのだが、国債は国庫以外のものまで呑み込み、かくてゴイ国家全部がご破産となるのである。

 しかし、各国政府崩壊後に創られる彼らの王国下の政策としてはこれを採用しない、として次のように述べている。
 先刻御承知であろうが、かくのごき財政管理法は我々がゴイムに授けた方法であって、我々の王の支配下ではこのような施策は適用してはならない。

 国債の本質について次のように語っている。
 国債はどんな種類であろうとも、国家が脆弱であり自らの機能を理解することすら欠如している証拠である。国債は支配者の頭の上にぶら下っているダモクレス(註、紀元前四世紀、シュラクサイのディオニシオス一世の臣。抜き身の剣を馬の尻尾で吊るした宴に列なり、常に身に迫る危険を教えられた)の剣のようなもので、いつも支配者の頭上にぶら下がっている。支配者は国民から税金を取る代わりに、我々ユダヤ人の銀行家に掌をさしのばして憐れみを乞うようになる。

 国債そのうち特に外債について次のように説明している。
 細かい点は別として、国債とは、とりわけ外債とは何であるか? 

 国債とは、発行総額に比例して利息が上って行く、政府発行の手形借金である。かりに国債に五分の利息が付いているとすると、二十年間に国家は国債総額と同額、四十年間にその二倍、六十年間に三倍の利息を払い、なおかつ元金は未払いのまま残っている。

 この計算を見れば次のことが明らかである。国家は、どういう徴税方法かで一人当りから徴税し、余計な利息など払わずに必要な額を調達すべく小銭をかき集める工夫をすれば良かろう。ゴイム国家はそれをせず、富める外国人から金を借りてしまうことによりその利息払いに追われることになり、その挙句遂には貧しい納税者から最後の小銭まで巻き上げてしまうことになる。

 国債が内国国債であるうちは、ゴイムは貧民の懐から集めた金を富豪の懐に収めただけだったが、我々が特定の人間を買収して、国債を外国に売らせるようにしてからは、ゴイム国家の富はすべて我々の金庫に流れ込むようになり、ゴイムは我々の家来となり、我々に貢物を献上し始めるのである。

 国債発行に至る彼らの誘導策とそれに呼応する各国政府の売国奴達の生態について次のように述べている。
 ゴイムの王者たちの国務に対する浅薄な態度、大臣たちの腐敗、国政を預る者たちの財政問題に対する理解の欠如が、彼らの祖国を我々の金庫に対する払い切れないほどの巨額の債務者にしてしまった。今日ではもはやいつまで経っても借金返済が出来ず、我々の手から自由になり得ない有り様となった。この過程は、我々の側の労力と金銭の多大な出費なしには容易にできることではなかった。

 「ゴイム政府の借金膨張政策」について次のように述べている。
 我々は貨幣の流通になんらの障碍も許さないし、一%利ものを除いては利付き国債は発行しない。従って、国家の力を吸い取る吸血の蛭どもに利息を払う ことがない。利付き公債発行権はもっぱら、利益から利息を払うことが無理でない工業関係の会社に与える。国家は、会社のように借りた金で利益を収めるのではない。 国家は消費のために金を借りるのであって、運用資金として借りるのではない。 

 政府もまた工業公債を買うけれども、政府の立場は現在のように配当を払う債務者ではなく、利息を受ける債権者の立場になるのである。この方法ならば、貨幣の流通停滞や奇生資金や遊休資金をなくせる。

 ゴイム政府の借金膨張政策は、ゴイム政府が独立しており我々の支配に従う気がない期間に対して我々が採用した政策であった。それは、ゴイム政府に対する有効な手だてだった。我々の政府になるとそういう必要はなくなる。

 国債発行策を勧めるユダヤの頭脳とそれに乗ぜられるゴイムの頭脳の比較をして、「我らのゴイムに対する頭脳の勝り」として次のように誇っている。

 ゴイムの頭というのは、思考力の発達していないことにかけては、全く野獣並みであることが明々白々ではないか!  ゴイムの頭脳は後先が見えない。彼らは、我々から利子付きの金を借りてい る。その元利を返そうと思えば、国庫から取り出す以外に手はなく、結局また我々から借りなければならず、どうあっても我々の懐に戻るということを考えても見ようとしない。再度云うが、彼らが必要とする金は、直接納税者から取り立てた方がはるかに簡単であったのに!

 だが、ここにこそ我ら選ばれたる民が如何に天才であるかの証しがある。我々は、公債発行という手段が如何に彼らの利益になるか彼らに持ちかけ、その気になるよう仕向けてきたのである。ここに我らのゴイムに対する頭脳の勝りが確認できよう。


【「プロトコール21」】
 発行済み国債の利息を払うための「利払い国債」について次のように説明している。
 我々は行政官の腐敗と支配者の怠慢に乗じて、ゴイム政府には少しも必要でない金を貸して、その二倍、三倍、さらに数倍を我々の金庫に収めた。いったい誰が我々をそんなにしてくれたのか? そこで、私は内国債について詳しくお話ししようと思う。

 政府が政府の為替手形すなわち利付き債券の購入者を公募したとする。額面は小口大口いろいろ設けられる。一般の誰でも買えるように額面を安くし、百円から千円までにする。早くから申し込んだ予約者には額面よりも割引いた金額で売る。が、翌日になると、小細工を弄して、何しろ購入者が殺到したのでという口実で人為的に値上げする。数日後に、予定発行高に達し、超過申し込みの処置に窮している、大蔵省の金庫はあふれんばかりで、予定額をはるかに超過したと発表する。それなら、なぜ申し込みを引き受けたのか?と詰問されるだろう。この場合には、 「申込額が発行予定額を数倍も上回ったからだ」と発表される。かくして、公衆が国債に対して信用を抱いていることを示す。目的は達成される。

 こんな芝居は芝居ですむが、新たに発生した債務をどうするのかという問題が起こる。途方もない額の債務が生じたのである。利息払いの為の新たな公債を発行することになるが、新たな債券は初めの元利を清算するのではなく、ただ単に新たな債務を上乗せするだけにする。

 政府の国債発行の限度を超えたら、新しい課税で取り立てる必要が生じる。それも国債元金返済のためではなく、ひたすら利払いのためである。 新税はひたすら借金のための借金となる。
 そのうち債券書替えの時期がやってくる。だが、これとても利率を下げることはできても、債務をなくなしてしまうわけではない。それだけではなく、債権者の同意がなくては書替えはできない。書替えにあたっては、同意しない人々には金を返済すると公告する。もしも誰も彼もが、書替えは嫌だ、金を返せと言ったら、支払い不能になることは火を見るよりも明らかであり、政府は自ら墓穴を掘ったことになる。幸いにもゴイム政府の臣民は経済のことはとんと事情にうといから、金を新しい事業に投資して危険を冒すよりは利が薄くなる方がまだましだと思って同意する。かくして臣民は数百万という政府の債務を穴埋めすることに協力してやる。

 こういう国債発行政策に乗ぜられた国家の国家破産について次のように記している。
 今日では、ゴイムといえども外債でこんな芝居を打つことは、ごまかしが利かないことが判ってきた。我々が全額払戻しを請求し得ることが判ったからである。このようにして明らかな破産倒産状態が生じ、人民の利益と支配者のそれとは一片も共通する所がないことが明々白々となった。

 短期国債について次のように記している。
 今お話したこと、これからお話することには格別の留意を払っていただきたい。現在では内債はいわゆる短期公債、すなわち、多かれ少なかれ期間の短いものに整理されているという点である。これらの借金は貯蓄銀行に収納され資金として確保される。政府はこの資金を外債の利子支払いに当て雲霧消散させてしまい、その穴埋めに同額の公債を当てているのである。

 ゴイムの国庫からの資金漏出をとりあえず穴埋めしているのは、実にこれらの短期国債なのである。


【れんだいこ評】
 「シオンの議定書」のこの下りを読めば、我が国の国債発行過程が「シオンの議定書」の記述そのままであることが判明する。してみれば、その策に誰が呼応したのかはっきりさせなければなるまい。

 見えてくるのは、佐藤内閣の福田蔵相時代に先鞭が付けられ、以降、三木首相、福田首相、中曽根首相、その後無策時代が続いて今日の小泉首相時代がその積極呼応派であることが判明する。逆に、これに抵抗したのは、田中首相、大平首相、鈴木首相時代であったことが判明する。つまり、タカ派が押し進め、ハト派が抑制しようとしていた経緯が見えてくる。

 2005.1.16日 れんだいこ拝




(私論.私見)