別訳「シオンの議定書」考

 (最新見直し2006.10.27日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 第一日目の抗議録である。「プロトコール1」から「プロトコール9」がこれに入る。いわば総論のような箇所となっている。

 2006.10.27日 れんだいこ拝


【プロトコール 】
 「★阿修羅♪ > カルト1」に投稿された仙芳丸氏の2013.6.27−**日の「シオンの議定書」を転載しておく。「偽ユダヤ思想を持つバビロン一味の考え方を理解するための基礎資料として投稿します。http://18.pro.tok2.com/~solht0920070/shion/shion01.htmから転載 全部で24まであります」とある。これによれば「シオン賢人議定書」が出所のようである。れんだいこ訳との比較の興味から確認しておく。
 シオン議定書(1)

 美辞麗句はさておいて、ひとつひとつの思想の意味を語ろうと思うのである。我々を取り囲む諸事実に比較と推論の光をあてようと思うのである。ここに朕が提案したいのは 二つの視点、我々自身(ユダヤ民族)の視点と畜生(非ユダヤ人)共(非ユダヤ民族=ユダヤ人以外の人類)の視点から見た我々の見解の体系なのである。

 悪い本能をもった人間の数、 善い人間の数をはるかに凌ぐからである。朕は 指摘せねばならない。やつら(人類=畜生ども)を統治するには、学者風情の論議によってではなく、暴力と恐怖によって達成することが、最良の方法である。如何なる人間も権力を目差し、誰も彼もが、できることなら独裁者になりたがるのである。わが身の利益を手中にすることを抑えて、万人の利益の為にわが身を犠牲にしようという者は、めったにおるものではないからである。

 人間という名の猛獣を抑えてきたのは何であったのか。今までやつらを牽引してきたものは、何であったのか。社会の仕組みが始まった頃には、やつらは残忍で盲目的な力に服したのである。後には、法律に服したのである。法律も同じく力であり、仮面をつけた暴力に過ぎない。朕は、自然法則に従って、権利は、力の中に横たわっておると結論するのである。

 政治的自由は、単なる思想であって、いささかも事実ではないのである。であるが、政権を持っておる党派を粉砕すべく、この思想を餌として人民大衆を自陣に引きつける必要があらば、その撒き方や使い方を知っていねばならない。その際、相手方が自由思想、いわゆる自由主義に感染していれば、そして、思想の為になら喜んで全力を投げ打つ積りあるならば、仕事は、さらにやり易くなるのである。この場合には、我々(ユダヤ人たち)の所説が勝利することは、目に見えておるのである。支配の手綱が緩められると直ちに、新しい手に手綱が執られるのは、自然法則の赴くところなのである。国家は、盲目な力であって一日たりとも指導者無しにはすまされず、新しい権力者は、単にすでに自由主義によって弱められた前任者の地位に座るだけだからである。

 我々(ユダヤ人たち)の時代では、自由主義的であった支配者の位置にとって代るのは、金力なのである。かつては、信仰が支配した時代があった。自由思想は、誰ひとりとしてほどよい使い方を知らない。ゆえに、実現不可能なのである。人民を無秩序な群集に一変させるには、やつらに一定期間自治を与えるだけで十分なのである。与えた瞬間から、共食い闘争が勃発し、階級間戦争に発展し、その真っただ中で国家は焔に包まれて炎上し、やつらの権威は、一山の灰燼に帰するであろうということである。

 国家が内乱によって消耗するか、内部不一致の為に外敵の手中に落ちるかである。どのみち、その国は、回復できず滅亡するほかはないのであるが。その時こそ、我々(ユダヤ人)たちの出番なのである。完全に我々(ユダヤ人たちの手中にある資本の専制力が、その国に救いの藁を差しのべると、否応なくやつらは、それに縋りつけねばならない。拒めば、底に沈むだけのことである。

 自由主義的な考えを持っておる人が、上述のような考えを不道徳であると言うならば、朕は、次の問いを投げ返したい。どの国も両面の敵を持っておるとする。外敵には、あらゆる策略を用い、たとえば、敵には、攻撃防御計画を伏せておき、夜間奇襲あるいは圧倒的優勢な戦力で撃破しても不道徳ではないとされるならば、さらに悪質な敵、社会と福利の破壊者に対して同じ方法を用いることが、いかなる理由で不道徳かつ許しがたいと呼ばれねばならぬのか?

 愚にもつかぬものではあっても、反対とか批判とかはありうるし、上辺のことにしか理性の力が働かぬ人民は、反対ということを喜ぶものである。かかる場合に、健全で論理的な精神が、道理の通った助言や議論の助けをかりてうまく大衆を導く希望をもてるのであるろうか?

 専ら浅はかな情熱、つまらぬ信念、習慣、伝統、感傷的な理論だけに囚われておる間違いだらけの人々は、党派根性に囚われるのである。そうなると、完全に理の通った議論を基にした如何なる合意をも妨げるのである。群衆の解決というのは、どれも偶然の結果か、表向きの多数決によるものであり、政治の裏を知らずに管理の中に無政府主義の種子を蒔くという奇妙な解決を出航させるのである。

 政治は、道徳とは全く関係がない。道徳で統治する支配者は、練達の政治家ではないから、彼の王座は、動揺するのである。支配したいと思う者は (我々が所有する新聞に感謝するところである)気付かれぬように欺瞞と偽善との双方を用いねばならない。率直とか正直とかのような、偉大な国民資質と称されるものは、政治にとっては悪徳なのである。それらは、支配者を王座から転がり落とすのに効果あるもの、最も強力な敵よりも確実な破壊力をもつものなのである。そのような資質は、畜生(非ユダヤ人)共の王国の属性でなければならぬが、我々は 決してやつらの轍を踏んではならない。

 我々の権利は、力の中に横たわるのである。「権利」なる言葉は、抽象的な思考であって、なんら具体性はないのである。その言葉は次のことを意味するに過ぎない。「わが欲するものを我に与えよ。 我が汝らよりも強きことを証せんが為に。」

 権利はどこから始まるか?  どこで権利は 終るか?

 権威の仕組が薄弱で法律が空疎であり、自由主義の濫用により権利を乱発し支配者たちが脆弱となった国家なら如何なる国でも、朕は、新たなる権利を行使できる。強者の権利によって打撃を与え、既存の秩序と法規の一切を粉砕し、すべての機構を再構築し、自由主義の中で放棄されて我々に残されたやつらの権威ある権利を継ぐ王者となるのである。

 すべての形態の権力が動揺しておる現在、我々の権力は 他のいかなる権力にもまして目に見えぬであるろう。いかなる狡猾な者もくつがえせぬ強さに到達する瞬間まで、我々の権力は、表面には現われぬのであるから。我々が目下用いざるをえぬ一時的な悪から、確固たる支配という善が顕現するのである。この善は、自由思想によって形無しにされた国民生活の仕組を平常の状態に修復することになろう。目的は、手段を正当化するのである。しかしながら、我々の計画においては、必要と有効なこと以上には、善とか道徳とかにはこだわらぬことに留意しようではないか。

 我々の前には戦略的に敷かれた計画が有るのである。数世紀にわたる我々の辛苦の労働が無に帰する危険を顧みるならば、この路線から逸脱することは許されない。

 満足すべき行動を練りあげる為には、群集の狡猾さ、だらしなさ、情緒不安定、やつら(非ユダヤ人たち=畜生)の理解力の欠如を考慮に入れ、やつら自身(非ユダヤ人たち=畜生自身)の生活状況、あるいはやつら自身(非ユダヤ人たち=畜生自身)の福利を顧慮する必要が有るのである。群集の力は、盲目的であり、愚かしく、何かからの暗示にかけられるがままに動き、道理をわきまえぬということを理解せねばならない。盲人が盲人を導けば奈落に落ちこむのは、必然なのである。群集の何人かが天才的な賢者であったとしても成上がり者であり、政治を理解することはできず、指導者として前を進めば全国民を滅亡の淵に落としこむのは、必然なのである。

 幼児時代から特別の方式によって訓練された者だけが、政治の基本を成り立たせておるイロハを理解することができるのである。

 人民が人民に任せれば、すなはち、人民の中から出た成り上り者に任せれば、権力と名誉を追うあまり党派間の軋轢とそこから生ずる無秩序状態に自滅するのが関の山なのである。人民群集がおだやかに、つまらぬ嫉妬を交えた非難を言いたてずに、個々人の関心をごちゃまぜにしておる国の諸問題を処理することが可能であるろうか?

 外敵に対して自分自身を守ることが可能であるろうか? 

 それは、考えられない。群集の頭数と同じだけバラバラになった計画が、一切の同質性を失って理解を絶し、実行不能となるからなのである。

 全体を適切に国家のいくつかの部分に割り当てるといったふうに、大規模かつ明確な諸計画を念入りに練れるのは独裁支配者だけなのである。このことから、如何なる国でも申し分ない統治形態は 一人の責任ある人間の手に全機能を集中したものであるという明白な結論が得られるのである。絶対的な独裁なしには、その人が誰であろうとも、群集によってではなくやつら(非ユダヤ人たち=畜生)を指導することによって遂行される文明の存在はありえない。群集は、野蛮人であり、ことごとくの機会にその野蛮さを発揮するのである。群集は、自由を手にしたとたんにいち早く無政府主義に転ずるのである。無政府主義それ自体は、野蛮の最高の段階なのである。

 飲酒で馬鹿になりアルコール漬けになった野蛮人どもを見よ。自由がやつらに節度なき飲酒の権利をもたらしたのである。それは、我々や我々一族の歩む道ではない。畜生(非ユダヤ人)共は、アルコール飲料に酔いしれ、やつらの若者たちは因習陋習とごく若いうちから性的堕落に痴呆状態となって成長するのである。その性的堕落は、我々の特別な代理人、富豪の邸宅の家庭教師、下男、女性家庭教師によって、書記その他によって、しばしば畜生(非ユダヤ人)共の娯楽場におる我々の女性たちによって手ほどきされたのである。やつら代理人の最後に、朕は、頽廃と奢侈に他の者たちを引き込む尖兵である、いわゆる「社交界の貴婦人たち」も入れておくのである。

 我々の合い言葉は、力と偽善なのである。

 特に力が、政治家に本質的に必要な才能の中に隠されておるならば、力のみが政治的諸問題を克服するのである。暴力は、原則でなければならず、新権力の代理人の足もとに王冠を置こうとせぬ政府に対しては、欺瞞と偽善が鉄則でなければならない。この悪は、終局である善に達するための手段にすぎぬ。それゆえに、我々は、目的達成の為に役立つときは、贈収賄、詐欺、裏切りを躊躇してはならない。政治の上では、支配権を握って屈伏させるためならば、躊躇なく他人の財産を奪い取る方法を知っていねばならない。

 平和的な征服の道を進んでおる我々の国家は、盲目的な服従を強いる為に恐怖を維持する必要から、目にはつかぬが効果のある死刑宣告をもって、戦争の恐怖にとって代わる権利を持っている。仮借ない厳しさだけが、国家の強さを見せつける最大の力なのである。単に利益を得るためのみならず我々の義務としても、また、勝利の為にも、我々は暴力と偽善による計画を保持し続けねばならない。報復主義は、使われる手段と同じく、有無を言わさず強力なのである。それは、手段そのものであるというよりも、我々が勝利し、すべての政府を我々の超政府にひざまづかせる厳格な教義なのである。我々は、容赦なく不服従というものを根絶することを、十二分に思い知らせるのである。

 はるか以前の時代にさかのぼれば、我々は、人民群集の中にあって「自由・平等・友愛」という言葉を叫んだ最初の人間であったのである。以来、幾度となく愚かな鸚鵡たちが四方八方からこの餌に群がり集まり、世界の福利と、以前は、群集の圧力に対してよく保護されていた個々人の真の自由とを、この餌をもって破砕し去ったのである。畜生(非ユダヤ人)共のうちの賢者になりたがり屋ども、知識人たちは、もともと中味のないこれらの言葉から何も作りだすことができなかったのである。これらの言葉が意味するものと相互関係とを否定することには考え及びもしなかったのである。どこをどう見ても平等はなく、自由などありえず、自然そのものは、その掟に従わせるように作られておるのと全く同じく、気質、性格、能力が不平等に作用しておることを見なかったのである。群集が盲目であること、支配を頼む為にその中から選挙された成り上がり者は、政治に関しては群集と全く同じく盲人であること、政治の奥義を授けられたる者は多少愚かであっても統治ができるが、反面、大天才であったとしても奥義を授けられぬ者は政治に関しては無知蒙昧であることを、決して考えようとはしなかった。これらのことを、畜生(非ユダヤ人)共は、一切顧みなかったのである。しかも一貫して王朝支配が保たれたのは、これらの奥義に依ってきたからなのである。王室以外の者や統治される者には、誰にも知らされぬ政治統治の奥義は、父から子へ一子相伝で伝えられたのである。時代が過ぎ、政治の要諦を一子相伝する意義が失われたのである。これこそ、我々の主義を成功に導く絶好の機会であったのである。

 地球のいたる所で、我々の盲目の代理人たちのおかげで、「自由・平等・友愛」という言葉が、我々の旗印を熱狂的にかざす大群を、我々の隊列に引き入れてくれたのである。これらの言葉は、また常に、畜生(非ユダヤ人)共の福利に穴をあけ、いたる所で平和、安寧、協同に終止符を打ち、畜生(非ユダヤ人)共の国家の基礎を破壊する生きた害虫であったのである。後に述べるように、このことが我々の勝利を助けたのである。とりわけ、我々が切札を手中にする可能性をもたらした。特権の破壊、言い換えれば畜生(非ユダヤ人)共の貴族支配の存在そのものの破壊なのである。唯一、人民と国とを守るこの階級は、我々に敵対したのである。畜生(非ユダヤ人)共の血統的な、系図上の貴族階級を滅亡させた所に、我々は、金力の貴族が主導する、我々の教育を受けた階級を貴族として樹立したのである。我々は、この貴族政治の特徴を、我々自身のものである富と、我々が学識ある長老たちが備蓄した知識とによって確立したのである。

 我々の勝利をいっそう容易ならしめた事実が有る。好ましい人物たちとの関係を保つことによって、我々は 常に人間の心の琴線に触れ、金銭欲に、貪欲に、人間のあくことをを知らぬ物質的欲望に働きかけたのである。言うまでもなく、これら人間の弱点のひとつひとつには、独創性を麻痺させる効果が有る。この弱点のゆえに、やつらの行為に金を出してくれる人間に、自分の意志の最終決定をゆだねるのである。

 自由という言葉の抽象性のゆえに、我々は、すべての国の群集に、やつらの政府は、国の所有者である人民のための豚小屋の番人に過ぎぬのである。番人は、破れた手袋のように取り替えていいものなのだと説きつけることができたのである。

 人民の代表は、取り替えられるものなのである、ということは、我々が自由に利用できるということであり、言うなれば、任命権を我々に預けたことになるのである。  

 シオン議定書(2)

 我々(ユダヤ人)の目的には戦争は、欠くべからざるものなのである。が、できる限り、戦争が領土的な利益をもたらさぬように仕向けるべきなのである。さすれば、戦争は 経済に基盤を置くようになり、各国は 我々(ユダヤ人)の支配の強力さを思い知らされるであろう。また、当事国は、双方とも我々が国境を越えて放った代理人団の思うがままに操れるのである。朕は、如何なる制約があろうとも、やつら(非ユダヤ人=畜生)が百万の眼を持っていて監視するから、身動きがとれぬなどということはないであろう。世界にまたがる我々(ユダヤ人)の権利は、各国の権利を一掃するだろうが、国家の市民法が国民の関係を律するのと全く同じように、普通の権利という意味で、我々の権利が正確に各国を律するであろう。

 我々(ユダヤ人)が公衆の中から選んだ行政官たちは、奴隷のように従順な資質であるかどうかを厳しく監視され、支配技術に長けた人物にはさせない。それゆえに、やつらが、全世界の諸問題を律すべく幼年期より養育された助言者・専門家である学識者と天才の手の内にある駒となるのは容易なのである。諸氏(ユダヤ人の賢人会のメンバ−)もご存知のように、これら我々(ユダヤ人)の専門家たちは、歴史の教訓や一瞬一瞬の現実の出来事の観察から、我々(ユダヤ人)の政治計画に必要とする知識を体得しておる。畜生(非ユダヤ人)共は、偏見なく歴史的観察を実際に適用することなく、一連の結果に厳しい批判を加えることなく空理空論に走るのである。ゆえに、我々は、やつらに一顧も与える必要もない。時が一撃をくらわせるまで楽しませてやろうではないか。過去の栄光に新しい形を与える希望に生きさせてやろうではないか。古き良き思い出にひたらせてやろうではないか。やつらには、我々が「科学が説くところでは」(学説)と吹きこんだことを後生大事にいつまでも守らせておこうではないか。我々が一貫して、新聞を通じて、声を大にしてそれらの学説を盲信させておるのは、そのことが目的なのである。畜生(非ユダヤ人)共の知識人たちは、やつらの知識にいい気になり、論理的検証を行なうことなく科学から得た知識すべてを信じこむであろう。その知識たるや、我々の代理人団たる専門家が、畜生(非ユダヤ人)共の心魂を手なづけて我々が望む方向におもむかせんが為に、巧みに断片を寄せ集めたものなのである。

 ここに述べたことは根も葉もないことであるとは、瞬時たりとも考えんでいただきたい。我々が仕掛けたダーウィン主義、マルクス主義、ニーチエ主義が、いかに功を奏しておるかに注目していただきたいのである。我々ユダヤ人にとっては、少なくとも、これらの指導者たちが畜生(非ユダヤ人)共の心魂に及ぼしたことどもを直視すれば、事は、明白であるはずなのであるから。

 政治上の、また、行政上の諸問題の方向において、些細な誤りを避ける為には、各国民の思想、性格、傾向を顧慮することが絶対に必要なのである。我々(ユダヤ人)の方式は、我々(ユダヤ人)が遭遇する人民の気質に応じて、さまざまに仕組の組み合せが案配されるが、もしも現在の光に照らして過去の教訓を集約することを怠れば、この方式の勝利はおぼつかぬであるろう。

 今日の国家は、人民の世論を創り出す強力な力をその手に持っておるのである。すなわち、それは、新聞なのである。新聞が果たす役割は、必要欠くべからざると考えられることを指摘し、人民の愚痴に、はけ口を与え、不平不満を表明し作り出すことに有るのである。言論の自由の勝利が具体的になるのは、新聞においてなのである。であるが、畜生(非ユダヤ人)共の国家は、いかにこの力を効果的に使うかについては知っていたためしがなく、したがって新聞は、我々の手中に落ちた。新聞を通じて、我々は、その背後にあって、影響力を行使したのである。ヴァイスマン博士が、我々が血と汗の大洋を越えて集結してきたにもかかわらず、金力が我々(ユダヤ人)の手中にあることを知悉しておることは他言を要さない。我々(ユダヤ人)である為に、あまたの同胞を犠牲にしてきたが、十分に報いられておるのである。わが方(ユダヤ人たち)の犠牲の一人一人は、神の見られるところでは、畜生(非ユダヤ人)共一千人に相当するのである。  

 シオン議定書(3)

 今日、我々(ユダヤ人)は、あと数歩で目標に到達せんとしておると言ってよい。横切るべき空間は、あとわずかを残すのみであり、我々(ユダヤ人)が歩んできた長い道のりは、今まさに象徴の蛇の輪を閉じようとしておる。その蛇は、わが民を象徴しておる。この輪が閉じられるとき、ヨーロッパのすべての国家は、強力な万力によって締め上げられるのである。

 当今の国政機構(非ユダヤ人たちの国家機構)の天秤は、ほとんど破壊しておるも同然なのである。なぜならば、我々(ユダヤ人)が、支点を軸として揺れ動き、転回させるべく、正確な均衡を欠くように設定してあるからなのである。畜生(非ユダヤ人)共は、しっかり固定してあると思い込んでいて、天秤が釣り合いを取り戻すはずだと、ずっと期待し続けておるのである。であるが、支点(王座についておる王たち)は、自分たちで押えが利かず無責任極まりない力に困惑する阿呆の役を演じる代議員たちに取り巻かれておるのである。この力は、宮殿内に吹き込まれてきた恐怖支配に負うておるのである。王たちには、人民に近付く手だてがない。まさに取り巻き連中のド真中で王位に就いておる王たちは、もはや人民を受け入れ、権力を追い求める者たちに対抗する強い力を与えてやることができない。明敏な統治権力と人民の盲目の力との間に、双方ともが、あらゆる意味を失うように、我々(ユダヤ人)は、深い溝を設けたのである。盲人と彼の杖のように、両者は、離れ離れにされれば全くの無力となるのである。

 権力を追い求める者たちを煽動して権力を誤用させるため、我々(ユダヤ人)は、すべての勢力を相対立させ、独立を得ようとする自由主義傾向を鼓吹するように仕向けてきたのである。この目的に向って、我々(ユダヤ人)は、如何なる形の企てでも指嗾教唆し、あらゆる政党に戦闘準備させ、如何なる野望の目的をも権威に対して向けるようにさせたのである。国家というものを、我々(ユダヤ人)は、混乱した問題の大群が争乱する競技場と化せしめたのである。ほどなく、混乱と破綻があまねく広がるであろう。

 後から後から出てくるおしゃべり屋たちが、議場と行政会議の場を討論会場に変えてしまったのである。向う見ずなジャーナリストと破廉恥なパンフレット屋が毎日のように政府当局を攻撃するのである。権力に対する悪口雑言は、すべての制度を転覆させる最後の一太刀となり、ことごとくが狂乱した群集のめった打ちに会って空中に吹き飛ばされるであるろう。

 なべての人民(ほとんどの人民)は、奴隷や農奴として縛り付けられていた、かつての時代よりもきびしく、貧困なるがゆえに重い労働の鎖につながれておるのである。なんとかしてやつら(非ユダヤ人=畜生たち)は、この束縛から逃れようとするかも知れぬが、この重荷を取り除くことはできず、決して貧困からは脱却できない。我々(ユダヤ人)が憲法に書き込んだ大衆に関する権利というようなものは、虚構であって実際に使える権利などではないのである。いわゆる「人民の権利」なるものは、単なる観念、実際生活では決して実現されるはずのない観念としてのみ存在することができるのである。おしゃべり屋には、無駄口をたたく権利があり、ジャーナリストには 良いことも書くが阿呆なことを書きなぐる権利があるとして、生活の重荷に打ちひしがれ、重き犠牲に腰を二重に折り曲げておる労働者には、何があるというのかなのである。かって労働者階級共は、我々(ユダヤ人)が説きつけたことに賛成し、我々(ユダヤ人)が権力の中に潜ませておいた我々(ユダヤ人)が代理人団の手下に賛成して投票した見返りに、我々(ユダヤ人)が食卓からパン屑を恵んでもらっただけで、憲法からは、何の利益も得られなかった。貧者についての共和国の権利とは、皮肉以外の何ものでもない。なぜならば、ほとんど一日中働いておる労働者に必要なものは、憲法を使うことによっては、全く与えられない。であるが、その一方で、彼(非ユダヤ人=畜生たち)は、仲間たちが打つ同盟罷業や主人が行う工場閉鎖によって、確実な生活の資をすべて奪われるからなのである。

 我々(ユダヤ人)の誘導によって人民は、貴族階級を全滅させてしまったのである。人民の福利と密接に結びついた貴族自身の利益の為に、貴族階級は、人民の唯一の保護者であり養い親であったのである。現今では、貴族階級の滅亡によって、人民は、労働者の首に残酷無慈悲な頸木をつないだ守銭奴の手中に落ちたのである。

 我々は、労働者にわが戦列(社会主義者、無政府主義者、共産主義者)に加わるよう提案し、振りかかる圧迫からやつら(非ユダヤ人=畜生たち)を救出する救世主を買って出るのである。我々(ユダヤ人)は、我々(ユダヤ人)がフリーメーソン員が言われなく唱えた(人類団結という)兄弟の定めどおりに、一貫して主義者たちを支援している。貴族は、法律によって労働者が提供する労働の恩恵を受け、労働者たちがよく食べ、健康で、強壮であるかどうかに関心を払っていたのである。我々は、全く反対のこと(劣化、畜生(非ユダヤ人)共から生命を奪うこと)に関心を寄せておるのである。我々の権力は、労働者の慢性食料不足と肉体的虚弱を必要とするのである。まさにそうしておいてこそ、彼(非ユダヤ人=畜生たち)は、我々(ユダヤ人たち)の意のままに従うようになり、我々(ユダヤ人たち)に敵対する強さも意志もなくなり、自分たちの権威を見つけ出そうとはしなくなるのである。王たちが正当に貴族に与えた権力よりも、さらに確実に労働者を資本の権利に従わせるのが飢えなのである。

 飢えが引き起こす貧困と嫉妬と憎悪によって、我々(ユダヤ人たち)は、群集を動かし、やつら(非ユダヤ人=畜生たち)の手を使って我々(ユダヤ人たち)が行く手を阻む者すべてを掃討するであるろう。全世界王が王冠を戴く時が至れば、同じ方法を用いて障害となるものをことごとく一掃するであるろう。

 畜生(非ユダヤ人=畜生たち)共は、我々(ユダヤ人たち)の専門家たちの助言なしには、考えるという習慣を失ってしまったのである。為に、やつら(非ユダヤ人=畜生たち)は、我々(ユダヤ人たち)の王国が実現したあかつきには、直ちに採択せねばならぬ必要欠くべからざることが見えない。すなはち、公教育の場においては 唯一単純かつ真実の知識、全知識の基礎を教えることが肝要であるということで有るのである。それは、人間生活の構造に関する知識、社会存在のあり方に関する知識、労働には分業が必要であるとする知識である。従って、人々は、階級と身分(ユダヤ人たち=貴族階級と非ユダヤ人=畜生たち=奴隷階級)に分かれねばならぬということなのである。人間活動の実際には、さまざまな差異があって、平等などというものは、ありえず、なんらかの行為で階級全体に累を及ぼす者と、自分自身の名誉を傷つけるだけの者とは、法律の前では平等の責任を負うはずがないということは、万人が心得ておくことが肝要なのである。畜生(非ユダヤ人)共には、知らされていぬ秘密であるが、社会構造の真の知識は、身分とかけ離れた仕事をさせぬようにせねばならず、個々人に要求される仕事と受ける教育との落差が悩みの元にならぬように、万人に実地をもって示そう。この知識を完璧に身に付けたあかつきには、人々は進んで権威に服従し国家に指示された仕事を受け入れるであるろう。現状の知識と我々(ユダヤ人たち)が人民(非ユダヤ人=畜生たち)を育成してきた方向からいえば、印刷されたものを鵜呑みにし (我々ユダヤ人たちがやつら非ユダヤ人の畜生に誤りを吹き込んできたためと、やつら非ユダヤ人の畜生自身の無知のおかげとで)これまでに考察した身分という身分に対して、全面的に憎悪を燃えつのらせるのである。それは、階級と身分の意味を全く理解しておらぬことから生じておるのである。

 この憎悪は「経済危機」の効果で数倍もの火の手を挙げるであるろう。経済危機たるや為替取引を中止させ、工業を停止させるであるろう。我々(ユダヤ人たち)は、自分(ユダヤ人)たちが熟知しておる隠密な方法を総動員し、すべて我々(ユダヤ人)の手中にある金力の助けを借りて、大規模な経済危機を作りだし、それによって全ヨーロッパ諸国の労働者群集をいっせいにまとめて路上に放り出すであるろう。これらの群集は、ただ単に無知であるがゆえに、揺籃時代から羨み妬んでいた連中を喜んで血祭りにあげ、連中の財産を略奪できるであろう。

 やつら(非ユダヤ人=畜生たち)は、「我々(ユダヤ人)のもの」には手をつけない。なぜなら、襲撃の時機を知っておるのは、我々(ユダヤ人)であり、我々(ユダヤ人)は、財産を守る手が打てるからなのである。

 我々(ユダヤ人たち)は、すべての畜生(非ユダヤ人)共に、進歩こそが理性の支配をもたらすだろうと強調してきたのである。我々(ユダヤ人たち)の専制は、一分の隙もない独裁なのである。それがいかに、炯眼厳格な方法によってあらゆる不満を鎮圧し、すべての制度慣習の自由主義を麻痺させるかを知るであろう。

 非ユダヤ人=畜生たちの一般大衆は、あらゆる種類の利権特権は自由の名のもとに生み出されたと見ていて、君主がそれを握っておると思い込み、怒涛のように襲いかかったが、盲人のならいでおのずとあまたの石に蹴つまづく結果となり、案内人を求めて猛進したが、今さら昔の状態に戻ることはできず、我々(ユダヤ人たち)の足下に全権をゆだねてしまったのである。フランス革命を想起していただきたい。それを「大革命」と名付けたのは 我々(ユダヤ人たち)であった。その準備が秘密裡に行われたことを、我々(ユダヤ人たち)は、熟知しておる。あの革命は、全面的に我々(ユダヤ人たち)の手で遂行した一大事業であったのである。

 その時以来、我々(ユダヤ人たち)は、人民を幻滅から幻滅へと導き、その帰結として最終的には、やつら(非ユダヤ人=畜生たち)は、我々(ユダヤ人たち)が世界の為に準備しておる、シオンの血を受けた専制君主に、我々(ユダヤ人たち)にも頼らずしても賛同するに至るはずなのである。

 今日、我々(ユダヤ人たち)は、多国家にまたがる勢力として無敵なのである。何ものかが攻撃しようとも、我々(ユダヤ人たち)は、他の国家に支援されるからなのである。畜生(非ユダヤ人)共人民の底無しの無気力さ、力の前には、腹這いになって這いつくばるが、弱者には、無慈悲であり、他人の過失には、厳しく、罪悪には、寛容、自由社会制度の矛盾は、認めようとせぬが、思い切った専制者の強圧に対しては、殉教者のように耐える。我々(ユダヤ人たち)の今日をあらしめたのは、畜生(非ユダヤ人)共のそれらの特徴に助けられたところが多いのである。現在の首相という専制者のもとで畜生(非ユダヤ人)共人民は、呻吟しておるが、かってなら、その何分の一かの権力濫用でもあれば、王の二十人ぐらいは打ち首にしたであろう。

 この現象、同じ性質の事象と見えることだが、 非ユダヤ人=畜生たち人民大衆のこの矛盾撞着は、どう説明したらよいのか?

 ここには厳然たる事実が有るのである。

現代の専制者たちは、やつら(非ユダヤ人=畜生たち)の代理人(大統領・首相・官僚・財閥などなど)を通じて、非ユダヤ人=畜生たち人民に向い、こう囁くのである。権力をこういうふうに使えば、国家には害を及ぼすが、崇高な目的には適っておるのだと。非ユダヤ人=畜生たち人民の生活保護、国境を超えた非ユダヤ人=畜生たち人民どうしの友情、連帯、平等の権利という目的の為には、言わずもがなのことではあるが、やつら(非ユダヤ人=畜生たち)は、これらすべては、我々(ユダヤ人たち)の統治支配のもとで初めて実現するものだとは言っていない。

 かくて、非ユダヤ人=畜生たち人民は、正しいものを罰し、不正なるものを許し、前にもまして、望んだことは何でも実現できると信じ込まされるのである。このような事態のおかげで、非ユダヤ人=畜生たち人民は、あらゆる種類の安定をくつがえし一歩一歩混乱を生み出している。

 「自由」なる言葉は、さまざまの人間集団に、あらゆる種類の権力、あらゆる種類の権威、さらには、神や自然の掟に対してまで闘争することに入らせたのである。このため、我々(ユダヤ人たち)が我々(ユダヤ人たち)の王国を実現したあかつきには、群集を血に飢えた獣に改造する暴力的概念であるこの言葉を、我々(ユダヤ人たち)は、目に触れる辞書からは抹殺するであるろう。

 獣たちは、血をたらふく呑んで腹がふくれると眠り込むので、鎖につなぐのはいとも容易いというのは、事実なのである。であるが、血を呑まさねばやつら(非ユダヤ人=畜生たち)は、眠らず、引き続き闘争を続けるであるろう。  

 シオン議定書(4)

 如何なる共和国もいくつかの段階を経るのである。その最初は、かなたこなた、右に左に攪乱された盲目の群集の狂瀾が猛威を振るってやまぬことから始まるのである。 次は、デモゴギー、つまり民衆煽動なのである。ここから無政府状態が生じ、無政府状態は、必然的に専制に向う・・合法的とも明白とも言えぬ専制、専制の総本山、目には見えず密かに姿を隠し、にもかかわらず目立ってそれと解る、あれこれの秘密組織の手による専制、その活動は幕の蔭であらゆる代理人の背後で働くだけに、手きびしいことでも平気でやるのである。それら代理人たちは交代するので、不当に襲われぬばかりか、秘密の勢力を効果的に助けておるのである。しばしば交代するおかげで、長期活動の報酬が節減できるのである。

 見えぬ勢力というものを転覆する位置にあるのは、一体誰か?

  ここにこそ我々の特徴が有るのである。非ユダヤ人を入れてあるフリーメーソン員は、我々(ユダヤ人たち)と我々(ユダヤ人たち)の目標の前に立てられた屏風として隠密裡に活動するが、わが勢力の活動計画は、その所在すら人民には全く謎に包まれたままにされるのである。しかし、自由が神に対する信仰や人類愛に支えられ、平等思想と結びつかぬならば無害なものであり、人民の安寧幸福になんら害を与えず、国家経済の中に居場所があってもよろしい。

 しかし、平等思想は自然法則に悖るものであって、平等思想が一段下の思想であることは動かぬところなのである。このような信仰をもって、人民が教区の保護のもとにあり、地球に対する神の支配に従う牧師の手に導かれ満足して敬虔に歩んでくれるならいいのである。そうでないからこそ、我々は、信仰という信仰をむしばみ、畜生(非ユダヤ人)共の心から神の摂理と霊魂なるものを引き離し、代わりに損得勘定と物欲を入れることが絶対不可欠なのである。

 畜生(非ユダヤ人)共に考えたり留意観察したりする暇を与えぬ為には、やつら(非ユダヤ人たち=畜生たち)の気持を工業や商業に向き放しにさせねばならない。そうしてこそ、非ユダヤ人=畜生たち国民という国民が利益追求に没頭し、そのあげくにやつらの共同の敵に気をとめなくなるであるろう。重ねて述べるが、自由が畜生(非ユダヤ人)共の社会をきっぱりと崩壊滅亡せんが為には、投機を産業の基礎にせねばならない。その結果、産業が国土から引き出したものは、いくつかの手を通り抜けて投機に手渡される、すなはち、我々(ユダヤ人たち)が階級に転り込むであろう。

 他人よりも優位に立とうとする激烈な闘争と、経済生活に加えられた打撃とは、薄情冷酷きわまりないな社会を生み出すだろう。いや、すでに生み出している。かように社会は、政治・宗教など高度のものに対する反発を強めるであるろう。やつら(非ユダヤ人=畜生たち)の生きがいは、唯一、利益、すなはち金を集めることなのである。やつら(非ユダヤ人=畜生たち)は、金があれば手に入る物質的喜びを求めて、まぎれもなく拝金教徒と化すであるろう。次いで時至れば、高尚な目的のためでもなく、また、富を得んがためですらなく、ただただ特権畜生(非ユダヤ人)共憎しの為に、畜生(非ユダヤ人)共の下層階級は、権力をめぐる我々(ユダヤ人たち)の競争相手、畜生(非ユダヤ人)共の知識人たちに逆らって我々の指導に従うであろう。

 シオン議定書(5)

 見せ物団体、言説混乱による疲労困憊、いたる所で腐敗が広まっておる社会、富者だけが詐欺同然の悪賢い奇策に富んだ社会、たるみ切った社会、道徳が進んで守られるのではなく懲罰厳罰によって維持される社会、信仰心や愛国心が無国境主義的信念に一掃された社会に、如何なる種類の統制支配なら適用できるか?

 あとで述べるような専制支配以外に、如何なる支配形態ならこのような社会にあてはめられるか?

 我々(ユダヤ人たち)は、社会の全勢力をこの手に掌握せんがため、強力に集中化した政府を樹立しよう。我々(ユダヤ人たち)は、新たな法律によって、非ユダヤ人=畜生たち国民の政治生活すべてを手加減することなく律しようと思うのである。それらの法律は、畜生(非ユダヤ人)共が許してきた寛大とか特典とかを一つづつ全部取り潰すであるろう。いかなる時にも、いかなる場所でも、行動や言葉で我々(ユダヤ人たち)に盾突く畜生(非ユダヤ人)共を一人残らず一掃する立場で臨み、専制ということの強力さを遺憾なく発揮するのが、わが(ユダヤ人たち)王国の特徴なのである。

 朕が述べておるような専制は、時代の推移には、そぐわぬという意見も聞くが、事実は、正反対であることを証明しよう。

 非ユダヤ人=畜生たち人民が王は、神の意志を純粋に体現した者だと見ていた時代には、なんの不平不満も鳴らさずに王の専制権力に従ったのである。であるが、非ユダヤ人ち=畜生たち人民には、権利というものがあるという考えを我々がやつらの心に植えつけてからは、やつら(非ユダヤ人=畜生たち)は、王座に座る者を単に普通の人間とみなし始めたのである。「神権による王」の聖油は、人民が見ておる前で王たちの額から消えうせてしまい、我々(ユダヤ人たち)が人民から信仰心を奪った時に、権力の強力な力は飛び散って公共の所有権となり、我々(ユダヤ人たち)がそれを押収したのである。

 加えるに、巧妙に仕組まれた学説と詭弁により、社会生活の制約やその他ありとあらゆる方便により、あるいは、畜生(非ユダヤ人)共には、まるで解らぬ手段を動員して群集や個々人を支配する技術は、他の技術と相並んで我々(ユダヤ人たち)が支配の中枢である専門家がもともと手中にしていたものである。分析、観察、精緻な計算に育てられ、この種の熟練技術に関しては、我々(ユダヤ人たち)には肩を並べる者がいないこと、練り上げられた政治行動と固い結束のどちらかでは我々(ユダヤ人たち)の競争相手がいないのと同じなのである。おるといえば、イエズス会(キリスト教会)だけは、我々(ユダヤ人たち)と比べられるだろうが、我々(ユダヤ人たち)は、無分別な群集の目には見える組織として存在するとは信じられぬように工夫してきたのである。その裏で我々(ユダヤ人たち)は、終始一貫秘密の組織を維持し続けてきたのである。カトリックの首領であろうとシオンの血を得た我々(ユダヤ人たち)の独裁者であろうと、専制君主は、専制君主であることに変わりはないのである。が、神の選民である我々(ユダヤ人たち)にとっては、このことは、無関心ではいられない。

 ほんの一時は、我々(ユダヤ人たち)が全世界の畜生(非ユダヤ人)共連合にうまくしてやられることもあったやも知れぬが、畜生(非ユダヤ人)共の間には、今では決して取り返しのつかぬほど深く根を張った不一致があるので、我々(ユダヤ人たち)は、ついぞ危険にさらされずにおるのである。我々は、畜生(非ユダヤ人)共を宗教的・人種的憎悪によって個人も国民も対立反目応報を繰り返すように仕組んだのである。このことを過去二千年にわたって営々と積み重ねてきたので、手が付けられぬほど劇しいものになっておるのである。これが、我々(ユダヤ人たち)に腕を振り上げたとしても、支持してくれる国は、どこにもただの一国もない理由なのである。我々(ユダヤ人たち)に対抗する同盟を結べば自分が不利になることを、どの国も肝に銘じておるからなのである。我々(ユダヤ人たち)は、あまりにも強力である・・我々(ユダヤ人たち)の力を逃れおおせるものはないのである。国家は、我々(ユダヤ人たち)の蔭の関与なしには、ほんの些細な協定を結ぶことすらできぬようになっておるのである。

 Per Me reges regnant.(王は 我によりて支配する)のである。預言者たちによれば、我々(ユダヤ人たち)は、世界のすべてを支配すべく、神自身に選ばれたのである。神は、我々(ユダヤ人たち)がこの使命を遂行できるように、我々(ユダヤ人たち)に天与の才を授けられたのである。仮に反対陣営に天与の才が授けられたとしたら、我々(ユダヤ人たち)に闘いを挑んでいたであろうが、駆出し者というものは、しょせん古くから定着しておる者には太刀打ちできないのである。我々(ユダヤ人たち)とやつら(非ユダヤ人たち=畜生たち)のと闘いは、この世が始まって以来見たこともないような熾烈を極めたものとなったであろう。さよう! やつら(非ユダヤ人たち=畜生たち)の天才は、現われるのが遅過ぎたのである。すべての国家機構を動かす車輪は、エンジンが駆動するのである。エンジンは、我々の手中に有るのである。国家機構のエンジンとは・・金なのである。わが学識ある長老たちが創造した政治経済学は、長期にわたって資本に君主のような威信を与えてきたのである。

 資本、それが束縛なく相携えて力を発揮するには、存分に工業と商業の独占がはかられねばならない。そのことは、すでに世界のあらゆる隅々で、見えざる手によって実践に移されておることであり、そのことは、非ユダヤ人=畜生たち人民を圧迫する助けとなろう。今日では、非ユダヤ人=畜生たち人民を武装解除させることは、戦争に赴かせることよりも重要なのである。さらに重要なことは、我々(ユダヤ人たち)の都合からいえば、非ユダヤ人=畜生たち人民の焔を抑えることよりも燃え上らせることなのである。さらに重要なことは、他人の考えを根絶するよりは、その考えをすばやく掴みとり我々(ユダヤ人たち)に都合がよいように翻案することなのである。我々(ユダヤ人たち)の役員会が採択しておる原理に次のことが有るのである。非難によって非ユダヤ人=畜生たち大衆を意気阻喪させること、抵抗心をかき立てるまじめな思考をさせぬようにすること、心の力を空理空論の論争にそらさせること。

 いつの時代でも世間の畜生たち人民は、個人も同様であるが、言論と行動とを混同してきたのである。競技場で見ることに満足しておるが、約束されたことが実行されておるかどうかを考えてみようとする者は、めったにいなくて、専ら見せ物を見るだけで満足しておるのである。そこで、我々(ユダヤ人たち)は、人民の利益が進歩に向っておると声高く証明する見せ物を行う団体を作るであるろう。

 我々(ユダヤ人たち)は、あらゆる問題について、自由主義的な顔つきを装おって全政党に入り込み、聞き手が嫌になるほど喋り立てて、弁論に対する嫌悪を植え付けるであるろう。

 非ユダヤ人=畜生たち世論をわが方(ユダヤ人たち)に引き寄せるには、あらゆる角度から意見続出させ、相反する説をいくつも並べ立て、ある期間、十分畜生(非ユダヤ人)共の頭を迷路に迷い込ませて、一番いいのは、政治上のことには何も意見をもたないことだと思い至らせねばならない。政治のことは、一般大衆には解らない。なぜなら、大衆は、自分たちを導く者を通じてしか理解できぬからなのである。これが第一の秘訣なのである。

 統治に成功するのに必要な第二の秘訣は、次のことにかかっておるのである。すなわち、広い範囲にわたり非ユダヤ人=畜生たち国民の欠点、習慣、情欲、市民生活の状態を増殖させ混沌に陥れ、その中にあっては自分がどこにおるのか見当がとれぬ有様にさせると、その結果、非ユダヤ人=畜生たち人民相互の理解ができなくなるのである。これこそ別の意味で我々(ユダヤ人たち)にとっては、有利なこととなるのである。すなわち、諸党派の中に軋轢の種子を蒔き、まだ我々(ユダヤ人たち)に従わおうとせぬ集団を撹乱し、どの程度のものであれ我々(ユダヤ人たち)の仕事を妨害するような個人の企てに対して片っ端から気勢をそぐことになるのである。個人の企てほど、またとなく危険なものはないのである。その裏に天才があろうものなら、このような企ては、我々(ユダヤ人たち)が軋轢の種子を蒔いた非ユダヤ人=畜生たち人民何百万人にも勝る力を持つのである。我々(ユダヤ人たち)は、畜生(非ユダヤ人)共の社会の教育を指導する際には、やつら(非ユダヤ人=畜生たち)が何か創意を示す徴候があれば、いつでも気力を失って絶望してしまうように仕向けねばならない。自由奔放な活動というものは、別の自由奔放さに出会うと無力になる傾向が有るのである。衝突すると、容易ならぬ精神的打撃、失望、意気消沈が起こるのである。これらありとあらゆる手段を駆使して、我々(ユダヤ人たち)は、畜生(非ユダヤ人)共を疲労困憊させたあげく、国境を越えた現実の力を我々(ユダヤ人たち)に提供せざるをえなくなるであるろう。その現実の力は、いかなる暴力も用いることなく、世界中の国家支配力を次第に吸収して、超政府を形作るのである。今日の支配者たちに代わって、我々(ユダヤ人たち)は、超国家管理機関という怪物を設けるであろう。その手は、鉗子のようにあらゆる方向に伸び、その組織は、巨大な規模に広がり、世界中の人間という人間を制圧せずにはおかぬであろう。  

 シオン議定書(6)

 我々(ユダヤ人たち)は、近く巨大な独占を確立し始めるであろう。それは、畜生(非ユダヤ人)共の巨万の富がすっぽり入るような、並外れた富の貯水池なのである。政治的破滅に続く時期には、政府の債権ともども畜生(非ユダヤ人)共の財産も枯渇するであろう。

 御列席の経済人諸君は、この連携作用の趣旨を評価されるのにやぶさかではなかろう。

 あらゆる手だてをつくして、我々(ユダヤ人たち)に進んで従う者すべての保護者、恩人を代表するものとして、我々(ユダヤ人たち)が超政府の重要性を強調せねばならない。

 畜生(非ユダヤ人)共の貴族は、政治的勢力としては死んだ・・我々(ユダヤ人たち)は、やつら(非ユダヤ人=畜生たち)に考慮を払う必要はないのである。であるが、土地の所有者としては、やつら(非ユダヤ人=畜生たち)が生活しておる土地の資源を使って自給自足しておるという事実をもってする限り、無害な存在ではあるであろう。従って、本質的な問題は、原価がいくらかかろうとも、やつら(非ユダヤ人たち=畜生たち)から土地を奪うということに有るのである。この目的達成の最も良い方法は、土地を所有しておることが、だんだん重荷になるようにすること・・負債で土地を圧迫することなのである。この為には、土地所有の状態を監視し、高慢にさせずに無条件に服従させ続けるであろう。

 畜生(非ユダヤ人)共の貴族は、生れつき足りることを知らぬので、急速に燃えつきたり、初めは、うまく行っても失敗に帰するであろう。

 そうなったらすかさず、我々は、無条件に商業と工業の保護者にならねばならぬが、真先になさねばならぬのは、投機なのである。それは、産業に平衡力をつける役割が有るのである。投機産業が無いと個人の手中にある資本がふくれて、土地銀行からの負債をなくさせ農業の復活を助けることになるであろう。我々が欲するのは、産業に土地から労働と資本を吐き出させることであり、投機という手段で世界の金すべてを我々(ユダヤ人たち)の手に移すことなのである。そうしてこそ、畜生(非ユダヤ人)共は、ほかに生きる理由がなくて生存する権利を得ようというなら、我々(ユダヤ人たち)の前にひざまづくほかはなくなるであろう。

 畜生(非ユダヤ人)共の産業を完全に滅亡させるには、投機の助けを借りて、我々(ユダヤ人たち)が畜生(非ユダヤ人)共の間で盛んにしてきた奢侈、何もかもを呑み込んでしまう奢侈に対するあくなき欲望をつのらせるであろう。しかしながら、我々(ユダヤ人たち)は、労働者には好都合にならぬ程度に賃金の上昇をはかるであろう。同時に、農業や家畜飼育が駄目になったから上がるのだという理由を付けて、生活必需品の価格をあげるであろう。我々(ユダヤ人たち)は、さらに進んで、労働者を混乱に浸し、酒漬けにし、それに加えるに、畜生(非ユダヤ人)共の頭の良い者たちを、すべてこの世から根絶すべくあらゆる処置を講じ、生産の根源力を巧みに深く蝕むであるろう。

 時期尚早のうちに畜生(非ユダヤ人)共に真相をさとられぬようにする為に、我々(ユダヤ人たち)は、仮面をつけて、我々(ユダヤ人たち)の経済学説が精力的に宣伝する偉大な政治経済原理のもと、いかにも労働者階級に役立つかのように情熱を傾けて説き伏せるであろう。  

 シオン議定書(7)

 軍事力増大と警察力強化・・この二つを欠いては 前述の計画を完成させることは全くできない。我々(ユダヤ人たち)の到達目標は、我々(ユダヤ人たち)を除いて、世界のすべての国家には労働者階級共の群集と我々(ユダヤ人たち)の利益に奉仕する少数の百万長者と警察官と兵隊たちだけがいればよろしい。

 ヨーロッパ全土、また、ヨーロッパとの関係を通じて他の大陸にも、我々(ユダヤ人たち)は、騒乱と混乱と敵愾心を起こさせねばならない。そのことは、我々(ユダヤ人たち)にとっては二重の利益が有るのである。まず第一に、すべての国々を抑制できるのである。我々(ユダヤ人たち)が意のままに混乱を作り出し秩序を回復する力を持っておることは、よく知られておるからなのである。これらすべての国々は、我々(ユダヤ人たち)には圧政に欠かせぬ力があることを見慣れておるのである。第二に、我々(ユダヤ人たち)は、策謀を駆使して、政治的手段により、経済条約あるいは、借款協定により、すべての国々の内閣の内部に伸ばしてあった糸という糸をもつれにもつれさせるであるろう。このことを成功に導く為には、我々(ユダヤ人たち)は、交渉協定締結の際に狡猾さと洞察力とを発揮せねばならないが、いわゆる「表向きの言葉」を使うときには、心とは裏腹に正直従順に従い続けるのである。このようにして、畜生(非ユダヤ人)共の個人や政府は、我々(ユダヤ人たち)が見せてやることなら何でも上辺だけを見るように躾けられておるので、我々(ユダヤ人たち)を恩人とか人類の救世主と思い続けるのである。

 我々(ユダヤ人たち)に反抗する国がある場合は、その隣の国から戦争を仕掛けさせ、反逆行動をことごとく叩き潰す位置にいなければならない。しかし、その隣国も束になって反抗するならば、その折には我々(ユダヤ人たち)は、世界戦争という手段に訴えて対抗せねばならない。

 政治上で成功を収める根本原則は、企図を秘匿することに有るのである。外交官は、言行一致してはならない。

 畜生(非ユダヤ人)共の政府は、すでに完成の域に達しつつある。我々(ユダヤ人たち)が練り上げた大規模な計画に沿うように行動させねばならない。何によってかといえば、いわゆる「強国」と称する手段を使い、ひそかに我々(ユダヤ人たち)が吹き込んだ世論というものによってである。「強国」・・それは 新聞なのである。その中には、ごくわずか例外はあるが、すでに完全に我々(ユダヤ人たち)の手中に有るのである。

 ヨーロッパにおける畜生(非ユダヤ人)共の政府を統制する政策を一言に要約すれば、一国をテロ攻撃して我々(ユダヤ人たち)の強力さをすべての国に見せつけることにあり、もしも我々(ユダヤ人たち)に対して総決起することでもあらば、我々(ユダヤ人たち)は、アメリカ、支那、日本の火砲を向けさせて応戦するであろう。  

 シオン議定書(8)

 我々(ユダヤ人たち)は、敵対者が我々(ユダヤ人たち)に向って使いそうな武器をすべて備えていねばならない。我々(ユダヤ人たち)は、常軌を逸しておると思われるほど大胆かつ不正な裁定を下せねばならぬ場合の為に、言葉の微妙な綾を探し出し、混乱した法律用語を駆使して事態を正当化せねばならない。そして、この裁定が最も高潔で道徳にかなったことを法律用語で言っておるのだと思わせるように、はっきり述べることが肝要なのである。我々(ユダヤ人たち)の幹部団は、周囲に全分野の知的人士を従え、その中にあって仕事をするようにせねばならない。幹部団は、政界人、老練な法曹人、行政官、外交官、そして決定的に重要なことは、我々(ユダヤ人たち)の特別な教育機関で特別教育を受けた人士で構成されるであろう。これらの人士は、社会構造のすべての機微を知っていて、政治の初歩から要諦までのすべての用語に通じておるのである。これらの人士は、人間の裏側すべてに通じ、やつら(非ユダヤ人=畜生たち)が操作せねばならぬ人間機微の体系を熟知しておる。それらの体系とは、畜生(非ユダヤ人)共の素質、欠陥、悪習、本質、階級、身分の特徴など、考え方・感じ方の類型を意味するのである。言うまでもないことであるが、我々(ユダヤ人たち)の陣営の補佐役を畜生(非ユダヤ人)共から選んではならない。やつらは、何が目的かを考える苦労をせず、何が必要なことであるかを決して熟考せずに事を運ぶことに慣らされておるのである。畜生(非ユダヤ人)共の役人たちは、書類に目を通さずに署名をしている。報酬目当てか野望のためかで仕事をしている。

 我々(ユダヤ人たち)は、全世界の経済人に我々(ユダヤ人たち)の政府を取り巻かせるであろう。ユダヤ人教育の主たる内容が経済学であるのは、この目的のためなのである。さらに、我々(ユダヤ人たち)の周囲には、銀行家、産業人、資本家・・大切なことは・・百万長者といった人たちのきらびやかな群がおるのである。実際のところ、万事は、金で解決がつくからなのである。

 しばしの間、もはや政府の要職にユダヤ人兄弟を据えても危険はないという時期まで、その椅子には、別の人間を座らせるのである。とかく過去や世評に何かとあり、非ユダヤ人=畜生たち国民との間に溝がある人間を選ぶのである。その人間が我々(ユダヤ人たち)の意に従わぬ場合には処刑し放逐せねばならない。やつら(非ユダヤ人=畜生たち)が最後の息を引き取るまで、我々(ユダヤ人たち)の利益を守らせる為にである。  

 シオン議定書(9)

 我々(ユダヤ人たち)の原理を実行に移すにあたっては、諸兄が現に居住し活動しておる国々の(非ユダヤ人=畜生たち)人民の性格を考慮していただきたいのである。我々(ユダヤ人たち)が作った鋳型で非ユダヤ人=畜生たち人民を再教育し終らぬうちは、一律に原則を当てはめようとしても成功はしない。しかし、慎重に適用するならばものの十年とたたないうちに、最も頑固な人民でも変わり、すでに我々(ユダヤ人たち)に従っておる列伍に新しく加わってくるのが解るであろう。

 自由主義的な言葉、我々(ユダヤ人たち)がフリーメーソンの標語として効果の高い「自由、平等、友愛」は、我々(ユダヤ人たち)の王国が到来した暁には、もはや標語としては 使わせず、「自由の権利、平等の義務、友愛の理想」というふうに単なる理想主義を実現したものに変えるのである。これが我々(ユダヤ人たち)のやり方・・牛は角を捕えよ・・なのである。実際には我々(ユダヤ人たち)は、我々(ユダヤ人たち)自身以外のものは、あらゆる種類の支配を一掃したが、法律上は、まだ数多くのものが残っておるのである。今日では、どこかの国が我々(ユダヤ人たち)に対して反抗を示したとしても、我々(ユダヤ人たち)の裁量下、我々(ユダヤ人たち)の指導下にあって形式的に反抗しているに過ぎない。一例として反ユダヤ主義は、我々(ユダヤ人たち)が下層の兄弟たち[ユダヤ人]を監視するには、必要欠くべからざるものだからである。この問題に関しては、すでに討議が重ねられておるので、これ以上立ち入らない。

 我々(ユダヤ人たち)の行動範囲には限界を遮るものがない。我々(ユダヤ人たち)の超政府は、すでに強力絶大な言葉で現わされておる超法規的な状態で存続している。すなわち、独裁なのである。朕は、衷心から申し上げるが、しかるべき時に、我々(ユダヤ人たち)は、法律を作り、裁判と宣告を行うのである。我々(ユダヤ人たち)は、生殺与奪を実行するのである。我々(ユダヤ人たち)は、全軍の先頭にあって、指導者の軍馬にまたがるのである。我々(ユダヤ人生たち)は、意志の力で支配するのである。なぜならば、かって権力を握っていた党派の残党も、今や我々(ユダヤ人たち)に屈伏し我々(ユダヤ人たち)の掌中に有るのである。我々(ユダヤ人たち)の手中にある武器は、貧欲、容赦なき復讐、憎悪と敵意に燃える、果てしなき野望なのである。

 我々(ユダヤ人たち)から生れるもの、それはすべてを巻き込み行く恐怖なのである。帝政復興主義者、煽動家、社会主義者、共産主義者、あらゆる種類のユートピア夢想家といったあらゆる意見、あらゆる主義の人物たちが我々(ユダヤ人たち)の用を勤めておるのである。我々(ユダヤ人たち)は、やつら(非ユダヤ人=畜生たち)を利用して、あらゆる労役を課しておる。やつら(非ユダヤ人=畜生たち)の一人一人が、権威の最後の残党まで叩き潰さんが為に、現在秩序を転覆させることに燃え上がっておるのである。これらの行動により、全世界の国々が拷問を受けておるのである。各国政府は、もう止めてくれと手すり足すりし、平和のためなら如何なることでも代償に出すからという気になっておるのである。であるが、我々(ユダヤ人たち)は、やつら(非ユダヤ人=畜生たち)が心底から我々(ユダヤ人たち)に服従し、率直に我々(ユダヤ人たち)の国際的超政権を受け入れるまでは、平和を与えるわけには行かぬ。

 人民は、社会主義の問題を国際的協調という手段で解決する必要を感じて遠吠えを挙げておるのである。ばらばらに分れた党派は、我々(ユダヤ人たち)の掌中に飛び込んでおるのである。というのは、分立抗争すれば、金が要るが、金は、すべての我々(ユダヤ人たち)の手中にあるからなのである。

 我々(ユダヤ人たち)には、畜生(非ユダヤ人)共の王たちのうちの「利口な」勢力が畜生(非ユダヤ人)共群集の「盲目的な」力と連合しはせぬかという懸念があったが、そのような可能性に対する打つべき手はすべて打ったのである。両者の間でお互いに恐怖の念を抱かせるという防波堤を設けたのである。このようにしておけば、人民の盲目勢力は、相変らず我々(ユダヤ人たち)を支持し続け、我々(ユダヤ人たち)のみがやつら(非ユダヤ人=畜生たち)に指導者を与え、もちろん・・やつら(非ユダヤ人=畜生たち)を我々(ユダヤ人たち)が目指す目標へと引っ張って行くのである。

 盲目的な群集の手が我々(ユダヤ人たち)の指導の手から離れぬようにする為には、時々やつら(非ユダヤ人=畜生たち)の中に入って直接交流を図らねばならない。実際に我々(ユダヤ人たち)自身が行えないならば、とにかく最も信頼の置ける兄弟を通じて行う必要が有るのである。我々(ユダヤ人たち)だけが唯一の権威者となった時には、我々(ユダヤ人たち)は、それこそ市場のような所で親しく非ユダヤ人=畜生たち人民と話し合うであろう。また、我々(ユダヤ人たち)が目指す方向にやつら(非ユダヤ人=畜生たち)を向けさせるように政治に関わる問題を指導してやるであろう。

 田舎の学校で教えることを誰が点検するのか?

 政府や王の特命全権公使が語ることは、直ちに全国に広まらずにはすまない。それは、非ユダヤ人=畜生たち人民の声によって広まるのである。

 破壊すべき時期でない時に畜生(非ユダヤ人)共の諸制度を破壊せぬようにするため、我々(ユダヤ人たち)は、巧妙にそっと手をかけたのである。そして、やつら(非ユダヤ人=畜生たち)の機械を動かしておるバネの端をつまんだのである。これらのバネは、精妙にしかも秩序正しく動いていたのである。我々(ユダヤ人たち)は、そのバネを混沌放従の自由主義に代えたのである。我々(ユダヤ人たち)は律の運営、選挙の管理、新聞、個人の自由を、原理的にはどうにでも加工できる生存物[人間]の土台である教育と訓練というバネを操ったのである。

 我々(ユダヤ人たち)は、我々(ユダヤ人たち)が教え込んだことではあるが、畜生(非ユダヤ人)共の若者たちに、我々(ユダヤ人たち)には嘘と解っておる主義や学説を注入することによって、やつら(非ユダヤ人=畜生たち)を翻弄し困惑させ堕落させてきたのである。

 現行の法律については、内容的には変えることなく、単にねじ曲げて反対の解釈をすることによって、結果としては、大層な成果を挙げてきたのである。その成果は、第一に解釈が法律を覆い隠すという事実に、次いで立法の錯綜した糸から何かを引き出すのは不可能な為に、政府の目から法が完全に姿を隠すという点に明かに見てとれるのである。

 法律を文字に拘泥せずに解釈するという学説は、ここに起源が有るのである。

 諸兄の中には、来たるべき時が来ないうちに、もしも畜生(非ユダヤ人)共が真相を嗅ぎつけたら、やつら(非ユダヤ人=畜生たち)は、武器を手にして蜂起すると言われる方もおられるようが、それに備えるにヨーロッパにおいては、最も太い肝玉の持ち主をも戦慄させる恐怖作戦をもって対抗する。すなはち、決定的な瞬間が来る前にすべての首都に地下鉄道、大都市の地下通路が設けられ、事到ればそれらの首都を建物や書類もろとも空中に吹き飛ばすのである。  

 シオン議定書(10)

 本日は、前の話と重複することから始めるが、記憶に留めていただきたいのは、各国政府と非ユダヤ人=畜生たち人民は、政治のことは上辺だけしか見ないで満足しておるということなのである。実際のところ、どれほど畜生(非ユダヤ人)共は、やつら(非ユダヤ人=畜生たち)の代表者たちが全力を傾けて楽しませてくれる事の核心を把握しておるのか?

 そのことを細部まで考慮に入れることが、我々(ユダヤ人たち)の方針にとっては、最高に重要なことなのである。権力の分立、言論の自由、新聞、宗教(信仰)、法の前の平等な結社の自由、財産の不可侵性、居住、徴税(脱税の考え方)、法の遡及力を熟慮するようにすれば、得る所が多いであろう。これらの問題は、すべて、直接手を出したり非ユダヤ人=畜生たち人民の前で、明からさまにすべきではないような事どもなのである。どうしても直接触れねばならぬ際には、明確に言い切ってはならない。現在の法についての我々(ユダヤ人たち)の原則的な考えを微に入り細に穿って語ることなく、単にさらりと言ってのけるだけに留めなくてはならない。なぜ沈黙を守らねばならぬかというと、原理を明かさねば、我々(ユダヤ人たち)は、行動の自由を確保しておいて、やつら(非ユダヤ人=畜生たち)の注意を惹くことなくあれこれとそらせるが、一部でも明言してしまうと、たった一言だけで何もかも与えてしまったことになるからなのである。群集には、一種特別な癖があり、政治力のある天才を尊敬し、そのような人物の悪徳行為に対しては賞賛を込めてこう言う。「ずるい!ほんとにずるい。だけど、頭が良い!..ペテンだ。しかし、何だな、巧いことしでかした。大変なことを仕出かすもんですね、大胆極まりないので、かないませんね!」我々(ユダヤ人たち)は、すべての国々を新たな重要な機構、我々(ユダヤ人たち)が練り上げてきた計画に惹きつけることを期待するのである。これが、何をさておいても、我々(ユダヤ人たち)が武装し、力を貯え、不退転の意志と絶対的な大胆さを身に付けねばならぬ理由であり、これがわが活動家たちの手で我々(ユダヤ人たち)の行手をすべてを粉砕することに役立つのである。

 我々(ユダヤ人たち)のクーデターが成功した暁には、我々(ユダヤ人たち)は、さまざまの階層の(ユダヤ人・非ユダヤ人=畜生たち)人々にこう言うであろう。「何もかもが恐しく悪くなり、すべてが我慢できぬ状態に陥ってますよ。諸君がこうむってる苦痛の原因、それは民族心、国境、身分の違いといったものであり、私達(ユダヤ人たち)は、それらを根絶しつつあるのですよ。もちろん、諸君が私達を断罪するのは自由だが、私達(ユダヤ人たち)が提供するものに挑戦もしないうちに断罪するとしたら、それはちょっと大胆過ぎるというものではないでしょうか。」・・・すると群集は、我々(ユダヤ人たち)を讃え、希望と期待にふくれ上がり、全員こぞって手を差しのべ、我々(ユダヤ人たち)を激励し、我々(ユダヤ人たち)を讃えるのである。人類の一番小さな成員グループにも、グループごとに集会を催させ、同意を取り付けてきた選挙という、我々(ユダヤ人生たち)が揃えてきた道具立てを使って、我々(ユダヤ人たち)は、世界王の座に就くのである。このような選挙が、我々(ユダヤ人たち)の目的に役立ち、最終的には、我々(ユダヤ人たち)に有罪宣告を下す前に、非ユダヤ人=畜生たち全員一致で我々(ユダヤ人たち)と、もっと親しくなりたいと望むようになるのである。

 以上のことを確保するには、絶対的な多数を獲得すべく、階級や資格の別なく万人に投票させねばならない。知識人や有産者階級だけでは、絶対多数は 獲得できない。このように、自分個人が第一という考えを全員に植え込むことによって、畜生(非ユダヤ人)共の家族主義や家庭教育尊重心を粉砕し、癖のある考え方の人間は 引き離して一掃してしまうのである。我々(ユダヤ人たち)が操る非ユダヤ人=畜生たち群集は、やつら(非ユダヤ人=畜生たち)を第一線に立たせぬし証言の機会すら与えてやらない。群集は、従順に応待すれ、見返りがある我々(ユダヤ人たち)の話を聞くことだけに慣らされるのである。このようにして、群集の指導者として我々(ユダヤ人たち)がやつら(非ユダヤ人=畜生たち)の頭に据えてやった代理人の指導なくしては、如何なる方向へも一歩も足が踏み出せぬほど総員を一大盲目力に仕上げるのである。非ユダヤ人=畜生たち人民は、新しい指導者たちが、自分たちの生計、報酬、あらゆる種類の利益になることを握っておることが判るから、この方式に服従するのである。

 政府の計画というものは、一人の頭脳で万端出来上っておるべきなのである。なぜならば、多数の頭で部分部分をばらばらに作らせると、決して確固不動のものにはならない。それゆえ、我々(ユダヤ人たち)は、行動計画を知っておるのは良いが、その巧妙さ、各部分の緊密な連関性、各要点の隠れた意味を破壊せぬようにするには、討議してはならない。度重なる投票という手段でこの種の労作を討論し修正を加えることは、邪推と誤解の烙印を押すことになり諸計画の進行と結びつきを妨げるのである。我々(ユダヤ人たち)は、計画が強力に適切に仕組まれることを欲するのである。ゆえに、我々(ユダヤ人たち)は 我々(ユダヤ人たち)の指導の天才の労作を、群集やあるいは特別な団体にすら、投票により生じる邪推と誤解の毒牙にかけさせてはならない。

これらの計画は、現存する諸団体をまだ転覆はさせぬであろう。それらの経済を変化させるだけで、それによって進歩の動きを全体的に結び付け、我々(ユダヤ人たち)の計画に従った道に導くのである。

 すべての国々には、名前は、似たり寄ったりであるが、内実は、同じものが存在するのである。議会、内閣、立法府、評議会、司法府、行政府などなのである。こういった機関の相互機能を説明する必要は無いのである。なぜなら、諸兄は、どれも御存知のものだからである。が、一つだけ注意しておきたいのは、ここに名を挙げた機関は、国家の中では、或る重要な役割を担っておるという点なのである。この「重要な」という言葉に御留意願いたいのである。これは、機関のことを指しておるのではなく、その機能のことを言っておるのである。これらの機関は、いくつもの部分に分れていて、その全体で政府という機能・・行政、立法、司法・・を果たしておる。そこでは、分割された機関は、人体の臓器に似た働きをするようになっておるのである。もしも、国家機構の一部を損傷すれば、国家は、病気にかかり、死ぬことになることは人体と同様なのである。

 我々(ユダヤ人たち)が国家機関に自由主義の毒を注ぎ込んだら、その政治複合体全体が、或る変化を起こし、国家が不治の病い・・敗血症・・に犯され、あとは悶絶死という終焉を待つばかりなのである。

 自由主義は、立憲国家を作ったのである。それは、畜生(非ユダヤ人)共にとっては、唯一の安全装置である専制国家に代るものであったのである。よく御存知のように、憲法は、混乱、誤解、争論、見解の相違、各党派の実りなき煽動等の一切合切の学校・・一言にして言えば、これら何もかもが国家の機能を破壊する学校以外の何ものでもないのである。「おしゃべり屋」連中の手助けをする護民官は、ほかならぬ新聞なのである。新聞屋は、支配者に怠慢無能の烙印を押し、よって無益無用であると断罪したのである。実にこの為に多くの国々で支配者が退位させられたのである。その時であった、共和国時代到来の可能性が見えたのは。その時、我々(ユダヤ人たち)が支配者に代えて政府の似顔絵を描いたのだ。そして我々(ユダヤ人たち)は、奴隷(非ユダヤ人=畜生たち)たち、あるいは、我々(ユダヤ人たち)の人形たちの中から拾い上げた大統領・・を支配者の代わりに置き換えたのだ。これは、畜生(非ユダヤ人)共人民の地下に仕掛けられた地雷であったのである。敢えて申し上げるが、畜生(非ユダヤ人)共人民の地下に、それを設置したのである。

 近い将来、我々(ユダヤ人たち)は、大統領を責任のある役職にするであろう。

 その時までに、我々(ユダヤ人たち)は、表向きの役には就かず、我々(ユダヤ人たち)の人格なき人形たちに責任を負わせ続けるであろう。非ユダヤ人=畜生たちの権力亡者がだんだん少なくなったとしても、我々(ユダヤ人たち)の知ったことではないのである。大統領のなり手が少なくなり暗礁に乗り上げるとしても、暗礁があろうがあるまいが、国家は、最後には崩壊に向って行くのである。

 我々(ユダヤ人たち)の計画が然るべき成果を挙げる為には、パナマ汚職事件その他のような、過去に隠れた古傷を持っておる候補を選んで選挙に臨む。すると、そういう連中は、旧悪を暴露される怖さと権力を得た者の常で、すなはち、大統領の地位に付きものの特権と名譽を失うまいとして、我々(ユダヤ人たち)の計画達成の当てにしてよい代理人となるのである。[フランス議会の]下院は、大統領を選出し、援護し、保護するであろうが、我々は新法案を提案したり既成法案を修正したりする権限を奪ってしまうのである。というのは、この権限は、責任ある大統領、我々(ユダヤ人たち)の手中にある傀儡に、我々(ユダヤ人たち)が与えるのである。さすれば、事の成行きとして、大統領の権威は、四方八方から攻撃の的となるのである。であるが、我々(ユダヤ人たち)は、自己防衛の手段として、非ユダヤ人=畜生たち人民に呼びかける権限、代議員たちの頭越しに直接(非ユダヤ人=畜生たち)人民に呼びかけて決定させる。すなはち、大統領といえども一員である盲目の奴隷・・群集の大多数・・に呼びかける権限を彼に確保してやるのである。そのこととは別に、我々(ユダヤ人たち)は、大統領に宣戦布告の権限を与えてやるのである。それには、国軍の長であり新共和国憲法の責任ある代表者たる大統領は、新共和国憲法防衛の際に備え、軍を自由に動かせねばならぬと説明しておくのである。

 容易に理解されるように、この状況下にあって祭壇の鍵を手中にしておるのは、我々(ユダヤ人たち)であり、我々(ユダヤ人たち)以外の何者にも断じて立法権を行使させない。

 その他に、新共和国憲法を成立させたら、政治的機密保持という名目で政府の処置に対する議会の質問を一切封じるのである。その上、新憲法によって議員の数を最少限に抑え、それに比例させ政治的煽動と政治熱を減らすのである。であるが、めったに起こることではないとは思うが、もしも最少限に縮小された議会が反抗の火の手を挙げるならば、我々(ユダヤ人たち)は、即刻全人民という絶対大多数に直接檄を発して議会を廃棄するであろう。大統領は、上下両院の議長・副議長の任命が杖となるのである。通常の議会の会期とは異なって、議員の任期を数ヵ月に縮めるのである。その上、行政の長である大統領には、議会召集解散の権限を持たせるのである。特に、解散した場合は、新議員任命を延期できるものとするのである。しかし、我々(ユダヤ人たち)の計画がまだ熟成していなくて、実際には非合法の状態でこれら一連のことを全部実行して、なおかつ我々(ユダヤ人たち)が立てた大統領に全責任を負わせぬ為には、 大統領周辺の大臣や高官を教唆して、やつら(非ユダヤ人=畜生たち)が自分たちの裁量でやったことであり、やつら(非ユダヤ人=畜生たち)を身代りにして責任を取らせることで、大統領の責任を回避させる。この件に関しては、我々(ユダヤ人たち)は、特別に上院、最高行政裁判所、閣僚会議に役割を与えるが、一個人には勧めないのである。

 大統領は、幾通りにも解釈できる法律の意味を、我々(ユダヤ人たち)の意図する通りに解釈するであろう。大統領は、さらに進んで、我々(ユダヤ人たち)が廃止の必要を指示すれば、法律を廃止することもやるであろう。その他に、大統領は、臨時法を、また、国利国益の為にはこれが必要だと言いつくろって、憲法の枠から逸脱した新しい法案すら提案する権限を持つであろう。

 かような手を打っておくと、少しづつまた少しづつ、一歩一歩と破壊する力が働いて、我々(ユダヤ人たち)が諸権利を手に入れた当初、ことごとくの憲法を気付かれぬうちに無効にさせる為に憲法の中に隠し据え、ねじ込んでおいたものすべてが、我々(ユダヤ人たち)の独裁政権があらゆる政体の政府を束ねる日を到来させるのである。

 憲法廃止以前に我々(ユダヤ人たち)の独裁者が認められるかも知れぬが、その時が来ればそれまでの非ユダヤ人=畜生たち支配者たちの無能無策に・・我々(ユダヤ人たち)が仕組んだことであるのであるが・・業を煮やした非ユダヤ人=畜生たち人民たちは、大声で叫ぶであろう。「奴らを追放しろ、世界を治めるのは 一人でいいのである。おれたちをまとめて争いの種をなくしてくれ・・国境、民族、宗教、国債、そんなものは御免だ・・平和と秩序をくれ、今までの支配者や議員が決してくれなかった平和と秩序を!」

 であるが、ユダヤ人たち諸氏は、完璧に理解されておると思う、すべての国々でこのような叫びを挙げさせるには、すべての国々で、紛争、憎悪、闘争、羨望、さらに拷問、さらに飢餓によって、人間性が疲労困憊の極に達するまで、人民と政府との関係を悪化させることが絶対不可欠であることをのである。これら悪の予防接種を施すことによって、また欠乏によって、畜生(非ユダヤ人)共は、金銭その他すべてのことにわたって我々(ユダヤ人たち)の支配下に入る以外のことは考えなくなるのである。

 ただし、もしも世界の国民にホッと一息でも入れさせるならば、我々(ユダヤ人たち)が渇望する時は九分九厘到来しないのである。  

 シオン議定書(11)

 国家評議会[国政会議]は、いわば、支配者の権威につけた光背であり、立法府の「見世物」の役割として、支配者が出す法令案を編集する委員会と言ってもよいであろう。

 時に、我々(ユダヤ人たち)が用意しておる新憲法の要項は次の如きものである。我々は、法、権利、正義を確立する。

 立法府に示唆するかの如く、一般法令と見せかけた大統領令、上院の命令、ならびに内閣の命令であるかの如く装おった国家評議会の決議により、ならびに適切な時到らば・・革命という形で実施される。

 我々(ユダヤ人たち)の行動計画の大綱は、確立したから、国家機関をすでに述べた方針に従わせ、革命の完遂を促すべきあれこれの組合せの細目に入ろう。これらの組合せとは、新憲法発布の翌日からは、新聞報道の自由、結社の権利、信教の自由、その他あまたの事柄は、人間の記憶からは永久に抹消されねばならぬか、急激な変更が加えられねばならぬということを意味するのである。我々(ユダヤ人たち)が即刻全命令を公布できるのは、まさにその瞬間のみなのである。それ以後では、顕著な改革案は、ことごとく危険なのである。その理由は、次の通りである。もしも、その改革が峻厳さを増したものであり、幾分でも厳格かつ極限まで行ったのもならば、この先どこまで厳しい改革がなされるのかという恐怖で絶望感に囚われてしまうかも知れない。その逆に、最初よりも緩和した改革案を出すと、我々(ユダヤ人たち)が悪いことをしたのに気付いたかのように取られるし、そうなると、我々(ユダヤ人たち)の権威不可謬性の威信が失墜する。我々(ユダヤ人たち)が恐れを抱いて譲歩措置をとらざるをえなかったと言われるであろう。強制的という印象は、ぬぐえぬから、その為に我々(ユダヤ人たち)が感謝されることはない。以上、二つとも新憲法の威信を傷つけるのである。我々(ユダヤ人たち)が人民に叩き込まねばならぬのは、次のことなのである。憲法発布のその瞬間、世界の人民(非ユダヤ人=畜生たち)は、革命が成し遂げた厳然たる事実に呆然とし、まだ恐怖心と半信半疑の気持に捕われておる時から、我々(ユダヤ人たち)がすこぶる強力、難攻不落、かつ、十二分過ぎるくらい力に溢れていて、いかなる場合であっても、やつら(非ユダヤ人=畜生たち)に一顧も与えず、やつら(非ユダヤ人=畜生たち)の意見や意志には、一瞥も加えず、いかなるささやかな反抗の表明も示威も、時と所を問わず、一つ残らず粉砕する用意があり、またそれが可能であり、我々(ユダヤ人たち)は、取るべきものはすべて取り、いかなる事情にせよ、我々(非ユダヤ人=畜生たち)は、やつら(非ユダヤ人=畜生たち)と権力を分け合うことはありえない。さすれば、やつら(非ユダヤ人=畜生たち)は、恐怖に身震いして、何事にも目を閉じ、事の成行きを最後まで見守るほかないであろう。

 畜生(非ユダヤ人)共は、羊の群であり、我々(ユダヤ人たち)は狼なのである。狼が羊の群に入ったらどういうことが起こるか、御存知であろう。

 我々(ユダヤ人たち)の羊が目を閉じるのは、別の理由も有るのである。我々(ユダヤ人たち)が平和の敵を打ち破り、あらゆる反対党派を黙らせたならば直ちにあらゆる自由を返してやると約束するからである。やつら(非ユダヤ人=畜生たち)の手に自由が戻るまでどのくらいの時間を待ち続けねばならぬか、お話しする必要はあるまい。

 では、何が故に我々(ユダヤ人たち)は、このような政策そのものを立案し、事の真相を看破する時を与えず畜生(非ユダヤ人)共の心に吹きつけるのか?

 実際のところ、回り道をしなかったとしたら、四散した我々(ユダヤ人たち)の種族が直接目的を達成する方法には何があったのか?

 基本的には、我々(ユダヤ人たち)が作った秘密のフリーメーソン、かの家畜畜生(非ユダヤ人)共が存在を知らず、知ってもその目的を考えてもみなかったフリーメーソンを作ったことが役立ったのである。畜生(非ユダヤ人)共御一同様の目を晦ませるべく、我々(ユダヤ人たち)がフリーメーソン・ロッジの「見世物」一座にやつらを惹きつけておいたのである。

 神は与え給うたのである。我々(ユダヤ人たち)を神の選民に、離散という、贈り物をして下さったのである。それは、万人の目からは、我々(ユダヤ人たち)の弱さと映るが、我々(ユダヤ人たち)の強さは、離散より生れ来たったのである。それが今や全世界支配という戸口に到達しておる。

 今や我々(ユダヤ人たち)が据えた基礎の上に築くべきことは、余すこと僅かとなっておるのである。  

 シオン議定書(12)

 「自由」という言葉には、いろいろの解釈があるが、我々(ユダヤ人たち)は、次のように定義する。・・自由とは、法律で許されたことをする権利なのである。この定義は、通常は 我々(ユダヤ人たち)だけに役立つ定義なのである。 なぜならば、法律というものが前に述べた計画に従って、我々(ユダヤ人たち)が思いのままに作ったり廃止したりできるものであるから、およそ自由と名の付くものは、すべて我々(ユダヤ人たち)の手中に有るのである。

 新聞については次のように扱うのである。今日の新聞の役割とは 何か? それは、我々(ユダヤ人たち)の目的には有利な激情を爆発させ、燃え上らせることに役立つのである。さもなくば、諸党派の利己的な目的に役立つのである。新聞は、多くは 浅薄、不当、虚偽であり、大多数の(非ユダヤ人=畜生たち)人々は、新聞が本来何の役に立つのか考えようともしない。 が、我々(ユダヤ人たち)は、新聞に鞍を置き馬勒を付け、しっかりと轡をはませるのである。 他の印刷物についても同様なのである。我々(ユダヤ人たち)が新聞の攻撃から免れても、小冊子や書籍の攻撃の的にされたままだったらどうなるか? 出版物の刊行は、今日ではそれを検閲するとなると大変金のかかることであるが、我々(ユダヤ人たち)は、我々(ユダヤ人たち)の国家にとって得な財源に変えてしまうのである。新聞等の発行団体や印刷所に許可を出す前に、特別印紙税と[損害に備えての]保証金を納めさせるのである。これをやっておくと、新聞等のいかなる攻撃からも政府を守ることができるのである。我々(ユダヤ人たち)に対する新聞等の攻撃などがあろうものなら、我々(ユダヤ人たち)は、仮借なく罰金を科するのである。保証の形をとるこのような印紙税、保証金、罰金といった方法は、政府の大いなる財源となるであろう。政党の機関紙は、多額の罰金を取られても平気であろうが、以上の手を打てば、我々(ユダヤ人たち)に対して重ねて攻撃をした場合は、断乎発行禁止処分に付するのである。我々(ユダヤ人たち)が政府の不可謬性の後光に指一本でも触れようものなら、何人も無事ですむことはありえない。発行を禁止するには、何ら理由も根拠もなく公衆を煽動したという申立て理由を使うのである。一言御注意申し上げたいのは、我々(ユダヤ人たち)を攻撃するものの中には、我々(ユダヤ人たち)が設立した機関も含まれるということなのである。であるが、やつら(非ユダヤ人=畜生たち)は 我々(ユダヤ人たち)が予め改正しようと決めた部分のみを攻撃するのである。

 一片の記事といえども我々(ユダヤ人たち)の検閲抜きには公表されることはないのである。現在ですらすでにこのことは達成されていて、すべてのニュースは、少数の通信社に世界中から集められ、そこから配付されるようになっておるのである。通信社は、追って完全に我々(ユダヤ人たち)の傘下に入り、我々(ユダヤ人たち)が許可したものだけが一般に供給されるようになるであろう。

 今日すでに、我々(ユダヤ人たち)は、畜生(非ユダヤ人)共の社会の人心をうまく掌握しており、やつら(非ユダヤ人=畜生たち)全員は、世界の出来事を、我々(ユダヤ人たち)が鼻にかけてやった色眼鏡で眺めておるに等しいとしたら、また、我々(ユダヤ人たち)には、畜生(非ユダヤ人)共の阿呆どもが「国家の機密」と呼んでおることに立ち入るのに障碍のある国家なぞ一つも存在せぬとしたら、全世界王という最高の統治者として認められた暁には、我々(ユダヤ人たち)の立場はいかがになるのであろうか・・・

 話を新聞の将来に戻そう。誰であれ、出版人、司書、印刷人たらんとする者は、その資格免許証を取得することを義務づけるのである。その免許証は、何か過失があれば即刻取り消しとなるのである。こうしておくと、思想を伝えることが、我々(ユダヤ人たち)の政府の手中にある教育手段となるのである。この教育手段を講じておけば、(非ユダヤ人=畜生たち)国民大衆にもはや脇道や、進歩の有難みなどといったたわけた夢の小道に迷い込ませはしない。我々(ユダヤ人たち)の中には、ありもせぬその手の有難みは、(非ユダヤ人=畜生たち)人民と政府との間に無政府状態を生じさせる妄想に直通する道であることを知らぬ者がおるであろうか。如何となれば、進歩、いや、進歩思想は、あらゆる種類の解放運動を激励してきたが、限度ということを弁えなかったのである。いわゆる自由主義者は、実際はともかくとしても、思想に関しては例外なく無政府主義者なのである。自由主義者のどの一人も自由のお化けを追い求め、まっしぐらに放縦に、すなわち、反対のための反対という無政府主義に陥っておるのである。

 定期刊行物の問題に移ろう。印刷物という印刷物に、一頁につきいくらという印紙税と保証金を課し、三十枚[六〇頁]以下の書籍は、その額を二倍にするのである。はやりのパンフレットは、その部類に入れるのである。一方で、雑誌の数は、減らすのである。雑誌というのは、有害印刷物の中では最低なのである。他方、著作人たちに、あまりにも長大で値段もはるのでほとんど誰も読まぬような本を書かざるをえぬように仕向けるのである。同時に、我々(ユダヤ人たち)の利益に適うように世論を導く我々(ユダヤ人たち)自身の刊行物は、廉価でむさぼるように読まれるのである。課税で無味乾燥な作家の野心は しぼみ、処罰が恐くて文筆家は、我々(ユダヤ人たち)の軍門に降りるのである。かりに我々(ユダヤ人たち)に文筆で抵抗する者が現われたとしても、著作物の印刷を引き受けてくれる人間がいない。出版社が印刷してくれる前に、出版業者や印刷業者が官憲の許可を得ねばならないからである。これによって、我々(ユダヤ人たち)は、我々(ユダヤ人たち)に対して向けられた奸計をすべて事前に知ることができるので、それが世に現われぬうちに抹殺することができるのである。

 文学とジャーナリズムは、最も重要な教育手段のうちの双璧であり、それゆえに、わが政府は大多数の雑誌の所有主となるのである。このことは、独立系新聞の有害な影響を緩和し、公衆の精神に甚大な影響をもたらすだろう。・・・仮に十の新聞に発行許可を与えたとすると、我々(ユダヤ人たち)は、三十に及ぶ新聞社を設立するのである。しかしながら、(非ユダヤ人=畜生たち)公衆は、そんな事情は、夢知らず、考えてみようともしない。我々(ユダヤ人たち)が発行する新聞は、すべて、見た目には、反対の傾向や意見をもち、それゆえに我々(ユダヤ人たち)に対する信頼を深め、我々(ユダヤ人たち)にとっては、全き疑うことなき(非ユダヤ人=畜生たち)反対者を呼び寄せるのである。このようにして、我々(ユダヤ人たち)の(非ユダヤ人=畜生たち)敵対者は、罠にはまり、牙を抜かれるのである。

 最前列に位置するのは、政府機関紙の性格をもった新聞であろう。この種の新聞は、常に我々(ユダヤ人たち)の利益を擁護するが、それゆえに比較的影響は弱いのである。

 第二列に位置するのは、半官半民の刊行物で、なまぬるい無関心層を惹き寄せるのが役割なのである。

 第三列に位置するのは、見た目には、全く我々(ユダヤ人たち)の反対者として設立されたもので、少なくともその紙上では、まさに我々(ユダヤ人たち)とは逆の立場に立つように見える論_説を掲載するであろう。そこで我々(ユダヤ人たち)の本当の(非ユダヤ人=畜生たち)敵対者は、この疑似反対論を真説と思い込み、自分の手の内のカードを見せてしまうのである。

 我々(ユダヤ人たち)の新聞全体では・・もちろん、憲法が存続する間での話であるが・・およそ考えられる如何なる傾向も・・貴族的、共和国的、革命的、さらには無政府主義擁護的なものまでも・・持っておるだろう。・・・・インドのヴィシュヌ神の像のように、これらの新聞は、百本の手を持っていて、その一本一本の手が世論のどれか一つに指を触れるのである。脈拍が早くなると、これらの手は、我々(ユダヤ人たち)の目的に向って世論を導くのである。熱に浮かされた(非ユダヤ人=畜生たち)患者は、理性の判断力を失い、暗示にかかり易くなるのである。(非ユダヤ人=畜生たち)自分たちの陣營の新聞の意見を述べておると思い込んでおる阿呆どもは、誰ぞ知らない。我々(ユダヤ人たち)の意見や我々(ユダヤ人たち)が望んでおる見解を鸚鵡(おおむ)返しに唱えておるだけなのである。自分の党派の意見に従っておると虚しくも信じつつ、実際には、我々(ユダヤ人たち)がやつら(非ユダヤ人=畜生たち)に広げておる旗に従っておるだけのことなのである。

 以上の意味で、我々(ユダヤ人たち)が新聞軍団の指導にあたっては、格別細心の注意を払ってこの問題を組織せねばならない。中央新聞局という名称のもとに、我々(ユダヤ人たち)は、文筆家の会合を設け、そこに我々(ユダヤ人たち)の覆面の(非ユダヤ人=畜生たち)代理人を送り込み、指令と当日の標語を示すのである。問題の核心を避けて常に表面だけにとどめた議論討論をすることである。そして、ただ単に、当初の公式表明を補足する材料を提供する目的で、我々(ユダヤ人たち)の機関は、我々(ユダヤ人たち)の公式の新聞に対して見せかけの情報の一斉射撃を浴びせるのである。

 我々(ユダヤ人たち)に対する集中砲火もある。これは、ほかの目的、すなわち、言論の自由は、まだちゃんと存在しておると納得させるに役立つ。我々(ユダヤ人たち)が(非ユダヤ人=畜生たち)代理人に、(非ユダヤ人=畜生たち)反対者たちは、我々(ユダヤ人たち)の指示に対して、実のある反対意見をこれっぱかりも示さなかったからには、我々(ユダヤ人たち)に反対する機関はみな空騒ぎしておるだけではないかと断言する材料を提供するのである。

 公衆の目には感知されぬが絶対確実なこのような組織方法は、公衆の関心と信頼を、わが政府に惹きつけておくのに最高の方法なのである。この方法のおかげで、我々(ユダヤ人たち)は、公衆がどう受け取るかによって、必要に応じて時折、政治問題に対する感情を刺激したり鎮静したり、説得したり、混乱させたりする。今日は真実、明日は虚偽、事実に即して立論したと思えば、その反論を掲げたりするのである。だが、常に我々(ユダヤ人たち)は、足を踏み出す前に地面の様子を細心の注意をもって調べるのである。・・・我々(ユダヤ人たち)の(非ユダヤ人=畜生たち)敵対者は、前記の方法で新聞を操作することができず、十分かつ決定的な意見を開陳する新聞という最終的な手だてを欠いておる以上、我々(ユダヤ人たち)の勝利は、確実この上もないのである。よほどのことでもせねば、反論の必要もないくらいなのである。

 我々(ユダヤ人たち)が新聞の第三列に放つ情報は、必要とあらば半官半民の紙上を通じて精力的に駁論を展開するのである。

 フランス新聞界のみではあるが、今日でも、すでにフリーメーソンの連帯行動を物語る形態があり標語も持っておるのである。すべての新聞機関は、結束して職業上の秘密を守っておるのである。古代の卜占官さながらに、その成員は、過去に解決ずみの問題でない限り、情報源を漏らしたりはしない。ジャーナリストなら、ただの一人もこの秘密を暴露するような愚挙を犯しはしない。というのは、どの一人をとってみても、かねて過去に不行跡な事などをせぬ限りは、文筆仲間に入れて貰えぬからである。・・・秘密を漏らしたりしようものなら、直ちに過去の不行跡が暴露されるというものである。秘密が少数の間でだけ知られておる限りは、ジャーナリストの権威は、大多数の(非ユダヤ人=畜生たち)人々に行きわたり・・群集は、熱狂的に彼に従うのである。

 我々(ユダヤ人たち)の計画は、特に地方に及ぶのである。いかなる瞬間にも首府に希望と欲求を浴びせられるよう地方の炎を燃え上らせることが必要不可欠なのである。我々(ユダヤ人たち)は、首府に向って、これが地方独自の希望であり欲求であると焚き付けるのである。当然のことであるが、地方世論の情報源というのは、同一無二のもの・・我々(ユダヤ人生たち)が指示しておるものなのである。必要なことは、我々(ユダヤ人たち)が十二分に支配力を得るまでは、我々(ユダヤ人たち)の代理人団(非ユダヤ人=畜生たち)が組織した多数者、すなわち地方の意見で首府を窒息させておくべきなのである。必要なことは、決定的瞬間には首府は、既成事実をとやかく言える立場にはないということなのである。それは、単純な理由であって、各地方の大多数の世論が受け入れておる事実だからであるのである。

 我々(ユダヤ人たち)が完全な主権を手中にするまでの過渡期の新体制の時期まで進んだら、もはやどの種類の新聞にも社会腐敗を暴露する記事は、載せさせないであろう。新体制下では(非ユダヤ人=畜生たち)万人が完全に満足しておるから犯罪を犯す者はいないと信じさせることが必要である。・・・犯行の真相解明は、被害者と、たまたま目撃した者だけに留めておくべきであって、それ以外には必要ない。  

シオン議定書(13)

 日々のパンが必要な為に、畜生(非ユダヤ人)共は、余儀なく沈黙を続け、我々(ユダヤ人たち)の従順な召使になっておるのである。我々(ユダヤ人たち)の新聞が畜生(非ユダヤ人)共の中から選んだ(非ユダヤ人=畜生たち)代理人に、公文書であからさまに触れるのは、都合の悪い問題を議論させるためである。その間、我々(ユダヤ人たち)は、論議の渦の真中で静かに聞いていて、我々(ユダヤ人たち)に必要な部分を取り込み、それから(非ユダヤ人=畜生たち)公衆に既定事実として提示するのである。いっそう改善したものを説明するのだから、何人も一度定めたことを撤回せよとは言わない。・・・そして、間髪を入れず新聞は、世論を新しい問題の方に向けさせるのである。我々(ユダヤ人たち)は(非ユダヤ人=畜生たち)人民を何か新しいものを求めるようにずっと馴らして来たではないか頭が足りない?運命の小売屋?たちは、自分の議論する問題が髪の毛一筋も解っていぬということさえも理解できずに、新問題に飛びついてしまうのである。政治の諸問題は、これを考案した大先達、過去何年にもわたって先導してきた人々でなければ誰も参入できない。

 以上のことからお解りのように、(非ユダヤ人=畜生たち)群集の意見を先導するには、我々(ユダヤ人たち)の仕組の働きを良くするだけで事足りるのであり、我々(ユダヤ人たち)がやつら(非ユダヤ人=畜生たち)に賛同を求めるのは、あれこれの問題についての我々(ユダヤ人たち)の行動ではなく言説であることに気付かれるであろう。我々(ユダヤ人たち)は、常に希望に導かれ確信に基いて、すべての事業にあたり、公共の福利に奉仕しておるのであると公言している。

 厄介になるかも知れぬ(非ユダヤ人=畜生たち)連中に政事の諸問題に首を突っ込ませぬようにするために、我々(ユダヤ人たち)は、政治に代わるものを熱心に勧めておるのである。すなはち商工業の問題なのである。この分野でなら、どれほど騒いでもよろしい!政治に代わって何か没頭できるものがあれば、群集は、政治活動の類いから手を放して熱中することに異存はないのである政治活動は、畜生(非ユダヤ人)共の政府と一戦交えさせる為に、我々(ユダヤ人たち)がやつら(非ユダヤ人=畜生たち)に施した訓練であったのである。商工業問題においては、我々(ユダヤ人たち)は、商工業問題が、政治そっくりの事をやっておるかのように思うように処方してあるのである。やつら(非ユダヤ人=畜生たち)が、かかずらわっておることを理解させぬように、我々(ユダヤ人たち)は、娯楽、競技、ゲーム、色事、遊び場をあてがって、更に政治から遠ざける。・・・そのうち、我々(ユダヤ人たち)は、新聞を使って芸術、スポーツなどありとあらゆる種類の競争を始めるのである。こういうことに関心が向けられれば、我々(ユダヤ人たち)がやつら(非ユダヤ人=畜生たち)と争わねばならぬ問題から、やつら(非ユダヤ人=畜生たち)を完全に遠ざけるであろう。ますますやつら(非ユダヤ人=畜生たち)自身の意見を反映したり形にしたりすることが難しくなるに従って、(非ユダヤ人=畜生たち)人民は、我々(ユダヤ人たち)と同じ口調で語るようになるのである。なぜならば、我々(ユダヤ人たち)だけがやつら(非ユダヤ人=畜生たち)の考え方に新しい方向付けを示しておるからである。・・・もちろん、我々(ユダヤ人たち)とは、表面的には無関係の(非ユダヤ人=畜生たち)人々を通じてであるがである。

 我々(ユダヤ人たち)の政府が承認されると、自由主義者、空想論者の役割は、最終的に終るのである。その時まで、やつら(非ユダヤ人=畜生たち)は、たっぷりと我々(ユダヤ人たち)に奉仕し続けてくれるのである。その為に、我々(ユダヤ人たち)は、やつら(非ユダヤ人=畜生たち)の頭をあらゆる種類の空疎な内容の空想的理論、つまり、今では進歩と呼ばれる理論の方に引っ張り続けておるのである。が、我々(ユダヤ人たち)は、畜生(非ユダヤ人)共の空っぽ頭を進歩転換させることに成功したことはなかったのである。畜生(非ユダヤ人)共の中には、物質的発明の問題ではない所で進歩を追い求めたところで真理からは遠ざかるばかりだということが判る人間はいない。なぜなら、真理は、一つであり、そこには進歩が入り込む余地はないのである。進歩、それは誤った推論に基く思想のようなものであり、神の選民であり、真理の保管人である我々(ユダヤ人たち)の外には何人も知らぬ真理を覆い隠すのに役立つのである。

 我々(ユダヤ人たち)の王国が実現した暁には、我々(ユダヤ人たち)の弁士たちは (非ユダヤ人=畜生たち)人類をすったもんださせてきたこの大問題を解義して、我々(ユダヤ人たち)の慈悲深い支配の下で決着を付けさせるであろう。

 その時になってさえも、これらの(非ユダヤ人=畜生たち)人々は、一人残らず、幾世紀にもわたり何人も推測もしなかった政治計画に従って、我々(ユダヤ人たち)に踊らされていたのだということを、いったい誰が疑うであろうか。  

シオン議定書(14)

 我々(ユダヤ人たち)が王国を築く時は、我々(ユダヤ人たち)の唯一神宗教以外いかなる宗教の存在も許さない。我々(ユダヤ人たち)の運命は、選民としての我々(ユダヤ人たち)の地位によりその唯一神と結びつき、その我々(ユダヤ人たち)の運命は、神を通じて世界の運命と結び付いておるのである。ゆえに、我々(ユダヤ人たち)以外のあらゆる形態の宗教を一掃するのである。その結果、今日見られるような意味での無神論者が誕生するとしても、過渡期に限る現象であって、我々(ユダヤ人たち)の目的を、妨げない。むしろ我々(ユダヤ人たち)が説くモーゼの教えに耳を傾ける世代の前兆として有用であろう。モーゼの教えは、牢固として完璧入念なる教義であり、それなるがゆえに世界の(非ユダヤ人=畜生たち)全人民を我々(ユダヤ人たち)に従わせてきたのである。そこに、モーゼの教えの隠された神秘の力があることを力説しよう。後にも述べるように、モーゼの教えの感化力は、すべてその神秘の力に立脚しておる。・・・次いで、あらゆる機会をとらえて、我々(ユダヤ人たち)の慈悲深い支配と過去の支配とを比較する論説を公表するのである。数世紀にもわたる震盪動揺の果てに訪れた安穏静謐が、我々(ユダヤ人たち)の与えた恩寵によって、さらなる安堵へと高まるのである。我々(ユダヤ人たち)は、最もはっきりとした口調で、畜生(非ユダヤ人)共の政府が犯した過ちを描いてみせるであろう。我々(ユダヤ人たち)がやつら(非ユダヤ人=畜生たち)に対する嫌悪の情をそそるので、(非ユダヤ人=畜生たち)人民は、かの自由を振り回す権利などよりも、農奴制のような状態でよいから安穏の方を好むのである。自由の権利は、人間性に拷問をかけ、まさに(非ユダヤ人=畜生たち)人間存在の根源を疲弊させ、(非ユダヤ人=畜生たち)人民は、自分が何をしておるのか解っていぬ一群のこすからい山師たちの餌食となったのである。・・・我々(ユダヤ人たち)が畜生(非ユダヤ人)共政権を覆すにあたっては、畜生(非ユダヤ人)共を煽動し、幾たびか無益な政変を起こさせたのである。人民は、疲れ切ってしまい、またまた新たな騒動や苦難をかぶるよりも、少々の辛抱をしてもわれ(朕)の言うことを聞いておる方がましだと考えるであろう。

 同時に我々(ユダヤ人たち)は、畜生(非ユダヤ人)共の政府の誤ちの歴史を看過容認はせぬであろう。畜生(非ユダヤ人)共の政府は、何世紀にもわたって、人類の真実の善性を構成する要素を何一つ理解せず、錯覚した社会改善を追い求め、その改善の結果さらに悪くなり、人間生活の基盤である一般関係が決して改善されぬことに全く気付いたことがなかったのである。

 我々の原理と方法の総体は、我々(ユダヤ人たち)がやつら(非ユダヤ人=畜生たち)に提示し解義したように、死に絶え腐敗した古い秩序の社会生活とはまばゆい対照をなす事実の中に横たわっておるのである。

 我々(ユダヤ人たち)の哲学者たちは、畜生(非ユダヤ人)共の種々雑多な信仰の欠陥を洗いざらい論じるが、真実の視点から我々の信仰に口をはさむことは誰もやらぬであろう。我々(ユダヤ人たち)以外の誰もこの宗教のことは知らぬし、我々はその秘密を明かすような裏切りはやらぬからなのである。

 いわゆる先進文明国の中に、我々(ユダヤ人たち)は 愚劣極まる、卑猥不潔な、嫌悪感を催おす文学芸術を創らせたのである。我々(ユダヤ人たち)が権力の入口に立ってしばらくの間は、我々(ユダヤ人たち)の演説、集会プログラムと対比させつつ、その種の文学を奨励する積りなのである。こうすると、我々(ユダヤ人たち)の高尚な一画とはあまりにも違うことが歴然とするだろう。・・・畜生(非ユダヤ人)共の指導者になるべく訓練された我々(ユダヤ人たち)賢人は、講演演説、事業研究計画、回想録、論説著作活動に携わるであろう。我々(ユダヤ人たち)は、それらの作品を用いて、畜生(非ユダヤ人)共の人心を感化し、我々(ユダヤ人たち)が定めてやった知識を摂取する方向に導くのである。  

シオン議定書(15)

 世界各地に同時にクーデターを勃発させ遂に決定的に我々(ユダヤ人たち)が王国に突入し、現存する政府という政府が誰の目にも没落したことが明らかになった時(これが実際に起こるには、少からぬ時間、恐らくまるまる一世紀はかかるだろう)、(議定書が書かれたのが、1880年代のようであるから、1980年代以降のことを予言していることを理解すること・・・)我々(ユダヤ人たち)に対する陰謀の類いは、絶対に存在を許さぬように監視する仕事が有るのである。この為には 我々(ユダヤ人たち)の王国到来に反対し、いやしくも武器をとる者(非ユダヤ人=畜生たち)は、一人たりとも容赦なく殺戮するのである。(2005年の現在、実施中ということになる) 秘密結社に類するあらゆる種類の新団体結成もまた、死をもって処するのである。我々(ユダヤ人たち)が認めておる現存秘密結社は、役立つものも役立ったことのあるものも、一率に解散させ、欧州から遥か離れた地方へ追放するのである。あまりにも事情をよく知り過ぎた畜生(非ユダヤ人)共のフリーメーソン員にも同断の処置を執るのである。なんらかの理由でこの処置を執らなかった者に対しても、追放の恐怖で脅迫しておくのである。我々(ユダヤ人たち)の支配の中心地である欧州からは、秘密結社員全員を追放に処する法律を作成し公布するのである。

 この決定は、変更できず、これに対する控訴は許さない。

 畜生(非ユダヤ人)共の社会には、根深く対立抗争の種を植え込んでおいたので、秩序を回復するには、権威の力を直接見せつけた容赦ない手段を執るよりほかはないのである。(非ユダヤ人=畜生たち)苦しむ者に一顧だに与えてはならない。未来の幸福の為に苦しみを引き受けさせるのである。いかなる犠牲を払ってでも福利を達成することこそ、如何なる政府でも(非ユダヤ人=畜生たち)自分たちの存続を忠実に考え、特権維持ではなく職責完遂を顧みるならば、断じて遂行せねばならぬ義務なのである。支配を揺ぎぬものとする原則は、権力の後光を輝かせることにあり、その後光というのは、その表に神秘的なもの・・神に選ばれた・・から来る不可侵性を顕現する紋章を帯びるというような、不退転の威厳に満ちた力を発揮しておることが要諦なのである。近年までは世界中では、ローマ教皇を数に入れねば、帝政ロシアが我々(ユダヤ人たち)の唯一の強敵であったのである。記憶に留めていただきたいのは、イタリアなのである。流血にまみれたイタリアであるが、その血を注いだスッラに対しては、髪の毛一筋も手を触れることができなかったのである。彼は、人民を虐げていたにもかかわらず、大胆不敵なイタリア帰還をやってのけ、不可侵性の網に囲まれ、(非ユダヤ人=畜生たち)人民の目には、神と崇められたのである。人民は、大胆勇敢な者には催眠術をかけられて、指一本触れぬものなのである。(フリ−メ−ソンを含めて、指針の説明をしている・・・)

 しかしながら、我々(ユダヤ人たち)の王国を実現するまでの期間は、我々(ユダヤ人たち)と正反対のことを行うのである。フリーメーソン支部を世界各国にどしどし増設し、そこへ名士になりそうな人物、現に名士である人物を引き入れるのである。それというのも、それら支部は、重要な情報集積所であり、情報を流す出口でもあるからなのである。フリーメーソンの全支部は、我々(ユダヤ人たち)だけが承知していて他には、絶対に誰も知らぬ中央管理機構の下に置くのである。その機構を構成するのは、我々(ユダヤ人たち)の学織ある長老たちなのである。支部には、代表者がおるが、やつら(非ユダヤ人=畜生たち)は、上記のフリーメーソンの真の管理機構を覆い隠す為に置かれるものであり、標語や計画は、蔭の管理機構から発せられるのである。これらの支部に、革命的分子や自由主義的分子をすべて集めてしっかり結び合わせるのである。この中には(非ユダヤ人=畜生たち)社会の全階層が含まれるのである。極秘の政治計画なるものも我々(ユダヤ人たち)は、熟知しておるし、計画が立てられたその日のうちに我々(ユダヤ人たち)の指導部の手に入手されるのである。国際警察や各国警察の代理人は、ほとんどこれら支部に参加しておるが、やつら(非ユダヤ人=畜生たち)は、不法な者に対して特殊な措置を講じるのみならず、我々(ユダヤ人生たち)の活動を隠蔽し、しかも不平不満を起こさせる口実を提供してくれるので、我々(ユダヤ人たち)にとっては、掛け替えの無い存在なのである。

 (非ユダヤ人=畜生たち)が秘密結社に喜んで入ってくるのは、世渡りがうまく出世第一主義で、一般人の中では軽薄に属する人物が多いので、やつら(非ユダヤ人=畜生たち)を御して我々(ユダヤ人たち)が仕組んだことを片付けさせるのは、さして苦労のいることではないのである。その世界で何かゴタゴタめいた事が起こったとすれば、あまりにも強固になった団結を破るべく我々(ユダヤ人たち)が少々(非ユダヤ人=畜生たち)を撹乱せねばならなかった場合なのである。であるが、計画遂行の中心には、これ以上信頼できる人物はいぬという我々(ユダヤ人たち)の下僕が先頭に立っておるのである。我々(ユダヤ人たち)だけがフリーメーソンの活動を指導し、他の誰にも当らせぬのは、極めて当然のことなのである。畜生(非ユダヤ人)共に至っては、無知蒙昧であって、どこへ行くべきか、活動の一つ一つの最終目的は、何であるかを知っておるのは、我々(ユダヤ人たち)だけだからでる。畜生(非ユダヤ人)共は 通常、やつら(非ユダヤ人=畜生たち)の考えを実行する際に、やたらと自分の説に固執し、自説の一時的満足にしか頭が回らない。しかも、その自説たるや、我々(ユダヤ人たち)がやつら(非ユダヤ人=畜生たち)に吹き込んだものであって、本当に(非ユダヤ人=畜生たち)自分が考え出したものではないことに気が付きもしない。

 畜生(非ユダヤ人)共は、物好きからか、あるいは、大きなパイを一口で食らおうとしてフリーメーソンに入ってくるのである。中には、実現不可能な根も葉もない夢想を実現させる為に、耳よりな情報を仕入れようとして入ってくる者もおる。やつら(非ユダヤ人=畜生たち)は、成功と拍手喝采に飢えておるが、その成功や拍手喝采こそは、我々(ユダヤ人たち)が気前よく振る舞ってやつておるのである。我々(ユダヤ人たち)がそういう大盤振舞いをするのは、やつら(非ユダヤ人=畜生たち)が持っておる鼻持ちならぬ自惚れを利用するためなのである。その自惚れというのは、何が原因かというと、自身が口に出しておる思想は、絶対的に自分のものてあり、借り物などということはありえぬと自信満々で、我々(ユダヤ人たち)が示唆したことを丸呑みにする傾向に起因する。・・・諸氏の想像を越えることであるが、畜生(非ユダヤ人)共の最も賢い者を無邪気に自惚れさせたり、ちょっとした不首尾で意気消沈させたりするのは、いとも容易いことなのである。同時に、拍手が止まったに違ぎぬといった些細な不成功であってもやつらは、簡単に落ち込みもするし、次の機会には、成功させてやると言えば、すぐ奴隷のように卑屈になってくる。・・・際立って我々(ユダヤ人たち)の計画を実行さえできれば、成功不成功を問わぬのに、際立って畜生(非ユダヤ人)共は、成功さえすれば計画はどうなっても構わない。このようなやつら(非ユダヤ人=畜生たち)の心理のおかげで、我々(ユダヤ人たち)は、大いにやすやすと思うがままにやつら(非ユダヤ人=畜生たち)を操れるのである。やつら(非ユダヤ人=畜生たち)は、見た目には虎であるが中味は、羊であって、風が通り抜けて行く頭の持主なのである。我々(ユダヤ人たち)は やつら(非ユダヤ人=畜生たち)に「集産主義」という一種の思想の玩具をあてがって、個性の違いをそのおもちゃに吸収同化させてやったのである。

 やつら(非ユダヤ人=畜生たち)は、このおもちゃが最も重要な自然の法則を真向うから冒涜するものであることを、一度も考えたことがなかったし、これから先も考えようともせぬであるろう。天地創造の初めから、自然は 明白な個性の違いを弁えさせるべく、あれとこれとを違うように作ったのであるからである。

 こんなにも我々(ユダヤ人たち)がやつら(非ユダヤ人=畜生たち)を明きめくらにさせることができるというのは、畜生(非ユダヤ人)共の頭が我々(ユダヤ人たち)と比較してお粗末である証拠、それも明々白々の証拠ではあろうか。我々(ユダヤ人たち)の成果が約束されておるのは、主にこのためなのである。

 それにつけても、なんと我々(ユダヤ人たち)の古代の賢者長老たちには、先見の明があったことか、おどろくのである。長老がたは、言われた。大事に達せんとせば手段を選ぶなかれ、犠牲を厭うなかれ、と・・・・我々(ユダヤ人たち)は、畜生(非ユダヤ人)共という家畜の群にいかほど犠牲が出ようともさらさら厭うものではない。さりながら、わが(ユダヤ人たち)民の犠牲も数多くに上ったが、今日、我々(ユダヤ人たち)は、この地上で夢見ることのできなかったような位置を獲得したのである。我々(ユダヤ人たち)全体の数から言えば、我々(ユダヤ人たち)の犠牲者の数は、比較的少ないが、やつら(非ユダヤ人=畜生たち)のおかげで民族の破滅は、免れたのである。

 何人も避けられぬ終局は、死なのである。どうせ避けられぬものならば、新秩序の建設者である我々(ユダヤ人たち)よりも、建設の邪魔をする(非ユダヤ人=畜生たち)人間に早く回してやった方がよろしいのである。我々(ユダヤ人たち)は、同胞のほかには誰も気付かぬように、本人自身でさえも死刑宣告されたことが判らぬように巧みにフリーメーソンを処刑するのである。必要とあれば全員あたかも自然死のごとく息を引き取るのである。・・・そのことが解っていても、(ユダヤ人たち)同胞は、あえて抗議はしない。かような方法を用いて、我々(ユダヤ人たち)は、フリーメーソンの中から作戦計画に敵対する者を根こぎにしてきたのである。我々(ユダヤ人たち)は、畜生(非ユダヤ人)共には自由主義を説くが、同時に一方では、わが民(ユダヤ人たち)や我々(非ユダヤ人=畜生たち)の代理人たちにはひたすら恭順に服させるのである。

 我々(ユダヤ人たち)の力が及ぶところでは、畜生(非ユダヤ人)共の法律は、最小限度にしか適用せぬようにしてきたのである。法の尊厳威信なるものは、その分野に流し込んだ自由主義的な解釈を駆使して存分に失墜させてきたのである。最重要かつ根本的な事項や問題は、我々(ユダヤ人たち)の口をはさんだとおりに裁判官が決定し、我々(ユダヤ人たち)が畜生(非ユダヤ人)共の政府機関に示したことに従って事を裁定するのである。もちろん、我々(ユダヤ人たち)が直接やつらと接触するのではなく、我々(ユダヤ人たち)の道具である人士・・新聞その他の意見として・・であるが……上院議員や内閣の中にも我々(ユダヤ人たち)の助言を一も二もなく聞く者がおるのである。畜生(非ユダヤ人)共の空っぽ頭には、分析したり考察したりする能力、ましてや事態がどういう結果になるかを予測する能力はさらさらいらぬのであるからである。

 畜生(非ユダヤ人)共と我々(ユダヤ人たち)の間のこの能力の差違こそが、畜生(非ユダヤ人)共の空っぽ頭と対比して、我々(ユダヤ人たち)が神の選民として、また、高い人間性をもつ運命が定められておるゆえんが明白に証明されるのである。畜生(非ユダヤ人)共の目は開いていても何も見ていぬし、何も創造せぬ(恐らく物質的なもの以外は)のである。このことをもってしても、自然は、我々(ユダヤ人たち)が世界を導き支配するように創造したことが明白なのである。

 我々(ユダヤ人たち)が公然と世界に乗り出し恩恵を施す折には、我々(ユダヤ人たち)の法律は、すべて、いかなるよけいな解釈をする余地もなく、何人にも完璧に解る、簡潔、明白、確固としたものであるであろう。そこに貫徹させておくべき原則は、官憲に対する服従であり、この原則によって荘重高潔なものとなるのである。こうして最高権力者の権威の前には最下層の者に至るまで責任を負う結果、権力の濫用は、行われなくなるのである。次席以下の権力濫用は、一人の例外もなくとうてい再犯ができぬほど容赦なく峻厳に処罰を受けるであろう。我々(ユダヤ人たち)は、国家機構の円滑な運営をはかる為に、官憲に対しても事細かに点検ずるであろう。(非ユダヤ人=畜生たち)一部分の腐敗は、あらゆる所での腐敗を惹起するのである。(非ユダヤ人=畜生たち)一片の不法行為、一片の権力濫用といえども処罰の見せしめをさせはしない。

 犯罪の隠蔽、行政の怠慢・・この種の悪事は、すべて最初に峻厳な処罰を課すれば以後は影をひそめるであろう。我々(ユダヤ人たち)の政権の後光は、適切な罰則、すなはち、至高の威信に対しての侵害は 軽微なものであっても、とりわけ私利と結びついた場合は、厳罰を課ロすることでなければならない。厳罰を蒙る者は、たとい過失の度合いに比べて罰が重過ぎるとしても、主権、政綱ならびに法を擁護する行政の戦場で倒れる兵士と見做して然るべきであり、公共乗合馬車の手綱を執る人間が、公道を外れて私用に馬を走らせたら、如何なる人間であろうとも許されない。例えば、裁判官たちは、寛容なところを見せたくなるが、それは、法の正義を破ることになるということを弁えねばならない。法は、逸脱堕落に罰を課して見せしめにする為に作られたのであって、裁判官の徳性を引けびらかすためのものではない。・・・そんなに徳性を引けらかしたければ私生活でやればいいのであって、人間生活教育の公共の場を使うべきではないのである。

 我々(ユダヤ人たち)の法曹人は、五十五歳に達すれば現職を退くのである。第一の理由は、老人は、年をとるほど先入観に囚われ易くなり、新しい方向にはなかなか向かなくなる。そして、第二には、人事刷新によって弾力性を確保するのに役立つこと、それによって我々(ユダヤ人たち)の強制力が更に容易に働くようになるからなのである。自分の椅子に留まりたい者は 留まるに値するように盲目的に服従せねばならぬであるろう。概して言えは、我々(ユダヤ人たち)は、次のような人々の中からのみ裁判官を選ぶのである。すなはち、自分の役割は、法を執行し違反する者を処罰することであって、当今の畜生(非ユダヤ人)共が空想するように、国家の教化的な仕組を犠牲にして自由主義の夢のまにまにさまようことではないということを完全に理解しておる人間からである。・・・この人事刷新の方法は 同じ業務に携わる人間の妙な結束心を噴き飛ばし、人民の運命がかかっておる政府の全問題にやつらの関心を結び付けるのである。若い世代の裁判官には、人民の間に確立した我々(ユダヤ人たち)の秩序を乱す畏れのあることは、如何なるものでも見逃さぬように訓練する必要が有るのである。

 当今畜生(非ユダヤ人)共の裁判官は、自分の職責に対する正しい認識が欠如しておるので、犯罪といえば情状酌量するのである。今日の支配者が裁判官を任命する際に、義務の観念と裁判官に要求される職責に対する自覚を叩き込まぬから、こういうことになるのである。野獣が餌を探しに子どもに出してやる時のようなもので、畜生(非ユダヤ人)共は、職務の性質や目的を説明もせずに高い地位に就けてしまうのである。それでやつら(非ユダヤ人=畜生たち)の政府は、自分の行政を通じて自分自身の力のせいで、滅亡の道を歩んでおるのである。

 やつら(非ユダヤ人=畜生たち)がやっておることの結果を我々(ユダヤ人たち)の政府の教訓としようではないか。

 我々(ユダヤ人たち)の国家体制の為には、服従する訓練が必要な政府機関の重要位置からは皆、自由主義を一掃するのである。かかる位置には専ら行政支配の為に我々(ユダヤ人たち)が訓練してきた人間のみを据えるのである。古い官吏を解雇したら財務省の負担増加になるのではないかと案ずる向きがあろうかと思うが、その問題に対しては、こうお答えしよう。第一に、解雇した職員には職を失った代わりにいくつかの民間企業に回してやるのである。第二に、世界中の金は、我々(ユダヤ人たち)の手中に集中したのであるから、経費が嵩む虞れはないのである。

 我々(ユダヤ人たち)の絶対主義は、万事にわたって論理が貫徹しておるので、どの判決一つをとってみても、我々(ユダヤ人たち)の最高意志は、尊重され一点の疑念もなく遂行されるのである。あらゆる種類の不平苦情を無視し、あらゆる種類の示威抗議には 制裁を加えて見せしめにするのである。

 我々(ユダヤ人たち)は、控訴権のような、決定を覆す権利を廃棄するのである。そういうことは、専ら我々(ユダヤ人たち)の一存・・支配する者の判断に預けられるのである。我々(ユダヤ人たち)が任命した裁判官が誤った判決を下すことがある。というような考えを(非ユダヤ人=畜生たち)人民に与えることは、断じて許してはならない。しかしながら、万一判決に変更を加える必要が生じた場合は 我々(ユダヤ人たち)自身が決定を廃棄するが、直ちに裁判官に二度と同種の過誤を犯さぬ旨の約束をさせ、自己の義務過怠に懲罰を課して見せしめにする。・・・重ねて申し上げるが、我々(ユダヤ人たち)の行政においては一段階ごとに、一応は 我々(ユダヤ人たち)を満足させてくれておる人民に密着してよく監視する必要があり、善良なる政治は善良なる官吏を要求する権利があるということを銘記していただきたいのである。

 我々(ユダヤ人たち)の政府は、支配する側からいえば族長父権的保護という外観を呈するであろう。我々(ユダヤ人たち)民族と我々(ユダヤ人たち)の国民は、王という人物に、王との関係はもとより、(ユダヤ人たち)国民が望むこと、(ユダヤ人たち)国民がやっておること、国民間のいろいろな関係などの何もかもを気使う父の姿を見るであろう。安穏無事に生きたいと切に願うならば、国民は、完全にこの考えにとらわれ、この方の保護と指導なしには何もやって行けなくなり、とりわけ、我々(ユダヤ人たち)が任命した者たちが私利私欲の為にではなく、ひたすら誠実に命令を実行しておるだけであることを知ったときには、我々(ユダヤ人たち)が王を神と崇めて帰依献身し、その専制に従うであろう。やつら(非ユダヤ人=畜生たち)は、わが子に義務と服従を植え付けるべく訓育した賢明な両親がなすように、我々(ユダヤ人たち)がやつら(非ユダヤ人=畜生たち)の生活万般を取り締まることに欣喜雀躍するであろう。我々(ユダヤ人たち)の秘策という視点から眺めると、世界の(非ユダヤ人=畜生たち)人民たちは、まだまだ成年にも達せぬ子供の類いであり、各国政府もまたまさにその段階なのである。

 先刻御承知のように、朕は、権利と義務に対する絶対支配についてお話し申し上げたのである。義務を実行させる権利は、臣民に対する父たる政府の第一の責務なのである。人類を天然が定めた秩序、すなはち、服従に立脚させることは、強者の権利なのである。この世の万物は、人間でないものでも環境か、そのもの自身の本性か、いずれにしてももっと強い者に服従させられておるのである。であるからこそ、善を実現する為には、我々(ユダヤ人たち)は、さらに強い者になろうではないか。

 我々(ユダヤ人たち)は、確立した秩序に違反する者は、何人でも、躊躇なく犠牲にせざるをえない。見せしめに悪に懲罰を加えることは、一大教育課題なのである。

 イスラエル王がヨーロッパの捧げた王冠を神聖な頭に戴くときは、世界の族長となるである。そこに達するまでに王が王が供する犠牲は、畜生(非ユダヤ人)共の政府が何世紀かにわたって強者を競った狂人じみた張合いが供した犠牲の数に比べれば物の数にも入らない。

 我々(ユダヤ人たち)の王は、絶えず(ユダヤ人たち)人民と接し、特使を通じて演説させ、その名声は、全く同時間に全世界に報道されるであろう。  

シオン議定書(16)

 我々(ユダヤ人たち)以外の結束力をすべて根絶する為には、集産主義の第一段階・・大学・・を、新しい方向で再教育して去勢するのである。非ユダヤ人=畜生たちの職員や教授連を精密な秘密教育計画に従って再訓練するが、断じてその一部分たりとも免除することはないのである。やつら(非ユダヤ人=畜生たち)の任命には、格段の注意を払い、一人の例外もなく政府が掌握して配置するのである。

 我々(ユダヤ人たち)は、全教育課程から政治と同様に法律も排除するのである。政治法律に関しては、非ユダヤ人=畜生たちから予め許された者の中からさらに卓越した人物を選び、数十人という少数の人物にのみ教えるのである。大学は、もはや喜劇や悲劇を書くような積りで法案や計画をこね上げたり、父親たちでさえも理解できなかった政策問題にかかずらわう青二才を世の中に送り出してはならない。

 大多数の人間が持っておる政治問題に関する頓珍漢な知識が、ユートピアを夢見る人間や不良市民を作るのである。諸氏は、実際の大学教育が畜生(非ユダヤ人)共をこの方向に導いてきた実例をよく御存知であろう。我々(ユダヤ人たち)は、やつら(非ユダヤ人=畜生たち)の教育の中に、完膚なきまでにやつら(非ユダヤ人=畜生たち)の秩序を破壊する原理を持ち込まねばならなかったのである。しかしながら、我々(ユダヤ人たち)が権力を掌握した時には、秩序破壊の種になるようなものはことごとく教育課程から駆逐し、非ユダヤ人=畜生たち青年を権威に従順な子供にし、平和安寧の希望として非ユダヤ人=畜生たちが統治者を頼みの柱とするように育成するのである。

 如何なる形の歴史研究も皆そうであるが、範を過去に求める古典主義で行くと良い例よりも悪い例の方が多いのであって、我々(ユダヤ人たち)がそれに代えるに未来研究をもってするのである。我々(ユダヤ人たち)は、我々(ユダヤ人たち)にとって好ましくない過去何世紀かの人類の記憶を一切消去し、畜生(非ユダヤ人)共の政府が犯した誤ちをことごとく叙述するのである。実際生活、秩序に対する義務、人民相互間の関係、悪を伝染する利己的な実例、その他教育の本質に関わる類似の問題の研究、これらが教育計画の最前線に置かれるであろう。その実施にあたっては、職業ごと、あるいは生活状態によって別々にし、教育は、決して画一的に行ってはならない。この処置は、特に重要なのである。

 社会各層の教育は、それぞれの階層の本質と実際の仕事に応じて厳格に制限を加えねばならない。稀に天才的人物が出てうまくやって行くことがあったし、上の階層に滑り込むことが常であるが、このような極めて稀にしか出ぬ天才の為に、生れや職業に特有であるべき階層に、その価値もない人間を入れてやるなどということは、愚行もはなはだしいのである。こんな目に余ることを許した畜生(非ユダヤ人)共の社会は。どうなったか、諸氏は、よく御存知のはずなのである。

 我々(ユダヤ人たち)は、私学という私学をことごく廃止するのである。教育施設の中では、あたかもクラブのように、親たちとの集まりを持つことは許すのである。休日には、そういう集まりに教師が参加して、人間関係、見せしめの罰則、非ユダヤ人=畜生たち神の選民ではない者のいろいろな制約等々の問題、とどめには、まだ世界で明らかにされていぬ新たな哲学原理について、課外講義で読んで聞かせるであろう。その原理は、最終的に我々(ユダヤ人たち)の信仰(ユダヤ教)に従わせるための移行期の教理として、我々(ユダヤ人たち)が提起するのである。現在ならびに将来の行動計画を説明し終えたら、朕は、ユダヤ人たち諸氏にその学説の原理を、お話しするのである。

 一言にして言えば、何世紀にもわたる経験に鑑みて、非ユダヤたちや非ユダヤ人=畜生たち人間は、思想に生き思想に導かれるものであり、思想というのは、人間成長の各段階にふさわしい教育を初めさまざまな手段によって人間に浸透するものであるから、思想の支配を受けぬ最後の火花を、我々(ユダヤ人たち)が押収し呑込み、自分自身のものとして利用するであろう。この、思考力を非ユダヤ人=畜生たち人間から切り離すということは、過去長い時間をかけて、我々(ユダヤ人たち)が導入してきた極めて有益な手段なのである。思考力を抑制する手段は、すでに実物教育という万国博におけるデモンストレーションの方法で実行されておるのである。この方法により畜生(非ユダヤ人)共は、目に見えるものだけを頼りにして理解し、物を考えぬ従順な家畜にさせられている。フランスでは、我々(ユダヤ人たち)の最良の代理人である市民階級諸氏が、すでに実物教育の新しい計画を実地に移している。  

シオン議定書(17)

 弁護士活動は、ユダヤ人たち、非ユダヤ人=畜生たち人間を冷酷、非情、頑固、破廉恥にするのである。弁護士は、如何なる場合にも、人間ではなくひたすら法律の観点からのみ問題を論じるのである。やつら(弁護士)は、如何なることを取り上げるにしても、弁護する価値があるかどうかと考えるのが習慣になっていて、弁護した結果、公共の福利がどうなるかは考えない。なんでもかんでも弁護を引き受けて断わることをせぬというのが普通であり、無罪を目ざして極力奮闘し、法律上の細かい所にこだわって片端から難癖をつけ、挙句のはてに正義を地に落とすのである。であるから、我々(ユダヤ人たち)は、他の行政公務員と同様にこの職業の範囲を狭く絞り込んでおこうと思う。裁判官と同じく、弁護士が訴訟当事者と直接接触する権利は、剥奪するのである。やつら(弁護士)は、法廷からのみ仕事を受け、訴訟書類や報告を調査し、法廷で被告が尋問を受け事実が明らかになった後に被告を弁護するのである。如何なる弁護をしたかという内容に関わりなく報酬を受け取るのである。このことは弁護人は、告訴のための審理記録人である代訴人に対して平衡を保つための正義のための法務の単なる記録人に過ぎなくさせるのである。こうすれば、個人的な興味関心からではなく確信に基づいた、偽りのない公平な弁護活動が可能となるのである。また、この方式にすれば、現今横行しておるような、金をよけい出さなけれは裁判には勝てないという弁護士の腐敗堕落を除去することになる。我々(ユダヤ人たち)は、過去長い時間をかけて、畜生(非ユダヤ人)共僧侶の信用を落とし、それによって、放っておいたら我々(ユダヤ人たち)の大きな脅威となったやも知れぬ地上におけるやつら(非ユダヤ人=畜生たち司祭法王)の伝道を凋落させるようにして来たのである。今や日一日と、世界の人民に対するやつら(非ユダヤ人=畜生たち司祭法王)の影響力は、低下しつつあるのである。信教の自由ということが至る所で喧伝されたので、今やキリスト教が完全に破壊されるのは、ここ数年のうちに過ぎなくなったのである。ほかの宗教に至っては、骨抜きにするのは更に容易であるが、今この問題を論ずるのは時期尚早である。我々(ユダヤ人たち)は、聖職者重視の教権主義や聖職者たちの力を、以前やつら(非ユダヤ人=畜生たちの司祭法王)が華やかなりし頃に持っていたのとは比べものにならぬほど狭い枠に押し込めるであろう。

 決定的に法王庁を破壊する時が来れは、見えざる手の指が各国民に法王庁を指さすであろう。しかしながら、非ユダヤ人=畜生たち国民がそれに襲いかかろうとしたら、あたかも過度の流血を防がんとするかのように、我々(ユダヤ人たち)は、法王庁の擁護者を装って進み出るのである。この転換によって、我々(ユダヤ人たち)は、やつら(非ユダヤ人=畜生たちの司祭法王)の深奥にまで足を踏み入れ、間違いなくかの最強部を腐食し切るまでは二度と出て来ないであろう。

 ユダヤ王は、真の世界の法王、世界にまたがる教会の総大司教となるのである。

 であるが、一方で、我々(ユダヤ人たち)が青年層を過渡期の新しい伝統の宗教に、後には、我々の宗教(ユダヤ教)で再教育する間、我々(ユダヤ人たち)は、明らさまには既存の教会には指一本触れぬが、教会内部の軋轢を目ざし批判を加えて宗教人と闘うのである。

 その場合、一般的には、我々(ユダヤ人たち)の現代の新聞は、畜生(非ユダヤ人)共の国家問題、宗教、畜生(非ユダヤ人)共の無能さを断罪し続けるが、常に、わが民(ユダヤ人たち)天与の才能を振い、あらゆる手段を駆使してやつら(非ユダヤ人=畜生たちの司祭法王)の威信を剥奪すべく、罵詈雑言を浴びせ百方中傷する。我々(ユダヤ人たち)が王国は、インドのヴィシュヌ神になぞらえ擬人化すると・・我々(ユダヤ人たち)が百本の手の一本一本は、社会という機械のバネを握っておるのである。警察というのは、我々(ユダヤ人たち)が畜生(非ユダヤ人)共の為に入念に作り上げ、しかも政府は、覗けぬ望遠鏡であるが、その警察の力を借りずとも我々(ユダヤ人たち)は、何もかもが解るのである。我々(ユダヤ人たち)の計画では、我々(ユダヤ人たち)の臣民の三人に一人が、国家への無料奉仕義務として他の二人を監視するのである。かってのようにスパイは恥ずべきことではなく、評価すべきことなのである。しかしながら、根拠のないことを密告した者は、厳罰に処し、密告権の濫用を慎ませるのである。

 この我々(ユダヤ人たち)の代理人は、社会の上層からも下層からも、さらに暇な時間を娯楽に費す管理層、編集者、印刷業者や出版人、書店業、店員、販売業者、労働者、御者、従僕等々からも採用するのである。この組織は。職権を持たず、目撃したことについてなんらかの行動を起こすことは許されず、なんら権限のない警察であって、唯一観察し証言するのみなのである。供述を確かめたり逮捕を決定したりするのは、警察の責任ある取締官の仕事であり、実際の逮捕には、憲兵隊や都市警察があたるのである。警察担当の事件で見聞したことを報告せぬ者は、隠匿罪で告発されその責を負い、それが証明されれは有罪となるのである。

 今日も我々(ユダヤ人たち)の兄弟たちは、自分の責任において、自分の家族の背教者や結社に反対する行動をとった結社員を告発する義務を持っておるが、それと同じことを全世界を支配する我々(ユダヤ人たち)の王国においても、わが臣民全員に国家に対する奉仕として義務づけるのである。

 このような組織こそが、権威権力の濫用や贈収賄や我々の機密計画を使い、人間についての超人類的な理論を駆使し、我々(ユダヤ人たち)が畜生(非ユダヤ人)共に植え付けた悪習のすべてを根絶させるであろう。であるが、やつら(非ユダヤ人=畜生たち)の政治の中に混乱を植え付け増大させるのに、果たして他に方法があったであろうか? あまたあるこれらの方策の中でも、最も重要なるものの一つは、やつら(非ユダヤ人=畜生たち)の悪の偏執性・・どうしようもない自惚れ、権力の無責任な濫用、そして、何よりもかによりも賄賂・・を拡張発達させ、やつら(非ユダヤ人=畜生たち)を破滅させるのに都合のいい位置におる秩序回復の代理人なのである。  

シオン議定書(18)

 我々(ユダヤ人たち)が秘密の護衛措置の強化を講ずる必要が生じた際には、見せかけの秩序混乱すなはち、うまい弁舌家に協力させて不平不満をぶつけさせるのである。こういう弁舌家の回りにはその発言に共鳴する輩が皆集まってくるのである。それが、あまたの畜生(非ユダヤ人)共の中から選んだ我々(ユダヤ人たち)側の人員によって、家宅捜査や監視をする警察となるのである。

 大多数の陰謀家というのは、勝負事好きでおしゃべり屋であるから、そこで、やつら(非ユダヤ人=畜生たち)が明白な行動を起こすまでは、我々(ユダヤ人たち)は、指一本触れずに、ただ、やつら(非ユダヤ人=畜生たち)の中に監視員を入れるだけにとどめておく。銘記しておくべきことは、陰謀摘発が度重なると当局の威信が失墜したとか、弱みがあるからやっておるんだろうとか、もっと悪いことには不正不法であるとか、余計な憶測邪推を生じさせるということなのである。 御存知のように、我々(ユダヤ人たち)は、非ユダヤ人=畜生たち代理人を通じて畜生(非ユダヤ人)共の王たちの生命を脅かして権威を失墜させたのであるが、この代理人たちは、我々(ユダヤ人たち)が飼っておる群の中の盲目の羊であって、少々政治色をつけた自由主義的な言辞を弄して犯罪を攻撃すると、たやすく乗せられてしまう連中なのである。我々(ユダヤ人たち)は、秘密防衛措置を公然と暴いてやって、非ユダヤ人=畜生たちの支配者たちにやつら(非ユダヤ人=畜生たち)の弱点を思い知らせてやってきたのである。 これによって、権力を打倒する保証をしたのである。

 我々(ユダヤ人たち)の支配者は、目に見えぬ護衛だけに守られるのである。反政府暴動があるやも知れず、王にはそれを抑える力がなく逃げ隠れておるという考えは断じて与えてはならない。畜生(非ユダヤ人)共がやったように、また、現在もやっておるように、そんな考えをはびこらせたら、我々(ユダヤたち)の王ではないにしても、とにかくその王朝に対して遠からず死刑宣告に署名しておるようなものである。

 我々(ユダヤ人たち)の王は、威厳のある風貌の力を国民の福利増進の為にのみ用いるのであり、間違っても自分自身や一族の利益の為に用いることはないのである。 それゆえに、この威信が保たれることで、ユダヤ人たちの王の権威が尊敬され国民そのものに守られ、市民全員の福利と固く結びついて神のように崇められるのである。まさにユダヤ人たちの王の威信によってこそ、多数の通常生活における秩序すべてが保たれるのである。

 公然と護衛することは、強そうに見える王者の政治組織の弱さをさらすことになるのである。

 我々(ユダヤ人たち)の王は、人民の中に行くときは常に、見た目には全く偶然そこに居合せた物見高い男女の群集に取り囲まれたかのように見せるのである。それらの男女は、王に近い前の方の数列を占め、後の列を制止するのである。他の者は、尊敬の念からよく秩序が保たれておるように見えるのである。これは、他の場合でもそうすることに慣れるように種を蒔くことになるのである。もし群集の中から請願人が現われて、王に請願書を手渡そうとし列を分けて進んできたら、最前列の者が請願書を受け取って請願人の目の前で王に取り次がねばならない。さすれば、誰の目にも直接請願書が王の手に届き、王自身が国政を監督しておることが知れ渡るのである。 ユダヤ人たちや非ユダヤ人=畜生たち人民が「王様がこの事を御存知だったらなあ」とか「王様が聞いて下さった!」と言えることが、権力の後光となるのである。

 公然たる護衛警察は、王者の神秘的権威を失わせるのである。少々大胆さを持ち合わせよれば、誰でも自分は、護衛を自由に操れると思い込み、暗殺者は自分の力に自信を抱き、時至れば官憲に一撃を加える瞬間をうかがう。畜生(非ユダヤ人)共には「我々(ユダヤ人たち)は、正反対のことを教えてきた」が、目立つ護衛策が如何なる結果をもたらしたかを、事実そのものによって、とくと見ることができたのである。

 我々(ユダヤ人たち)は、犯罪者とあれば根拠が十分であろうと不十分であろうと、まず逮捕するのである。 万一間違えるといけぬということで、政治的堕落や犯罪を犯した疑わしき者に逃亡の機会を与えるとは とんでもないことなのである。政治犯の場合は文字通り峻厳でなければならない。単純犯罪で動機の再審議を許可し、特別扱いをすることが可能な場合でも、特権を持った者の他には何びとといえども事件に介入する口実は 存在しない。すべての政府が真実の政治を理解するものではないのである。  

シオン議定書(19)

 我々(ユダヤ人たち)は、個人が政治に口出しすることは全く許さぬが、政府が人民の状態を改善すべく仔細に検討するに値する提案、報告、請願は、奨励するのである。 このような提案は、我々(ユダヤ人たち)の臣民が何を空想しておるかを我々(ユダヤ人たち)に明らさまに教えてくれるからであり、それらに対しては実現できるものは その旨を付し、そうでないものは、起案者の誤りを指摘し反論して応えるのである。

 反政府活動屋は象に対してキャンキャン吠え立てる小犬以外の何ものでもない。組織的に活動しておる政府にとっては、警察の見地からではなく公共の立場から見ても、小犬が象に吠え立てるのは、象の強さや力を全く知らぬからであると見做すのである。これには、両者の力関係を一度だけ見せてやる以外は何もする必要はないのである。さすれば、小犬は、吠え立てるのを止め、次からは、象を見ると尻尾を巻いて逃げ出すであろう。

 政治犯罪者が主義に殉ずるものとして尊ばれることをなくす為には、裁判の際に、やつら(非ユダヤ人=畜生たち)を強盗、殺人犯、その他言語同断破廉恥極まる犯罪者と同じく扱うのである。そうすると世間は、政治犯をその種の犯罪と同種の不道徳な犯罪と見做し、軽蔑の眼差しで見下げるようになるのである。

 畜生(非ユダヤ人)共が反政府活動を圧殺するのに同じ手段を用いないように我々(ユダヤ人たち)は、極力努力してきたし、今後もその努力は継続したい。新聞や演説講演・・間接的には巧みに編集した歴史教科書・・を通じて、我々(ユダヤ人たち)は、反政府屋を公共の福利の為に殉じた殉難者として宣伝してきたのは、以上の理由からなのである。 この宣伝がふくれ上って、自由主義者たちが増加し、何千という畜生(非ユダヤ人)共を我々(ユダヤ人たち)の家畜群に引き込んだのである。  

シオン議定書(20)

 今日は、財政計画の諸問題を取り上げるのである。この問題は、扱いが最も難しく、我々(ユダヤ人たち)の計画の中では最高かつ決定的に重要なので、私・朕の報告の中では最後に述べることにしておいたのである。本論に入る前に想起していただきたいのは、朕がすでにヒントとして提示しておいたこと、我々(ユダヤ人たち)の活動の総括は、数字の問題として現わせるということなのである。

 我々(ユダヤ人たち)の王国が実現した時には、我々(ユダヤ人たち)の専制政府は、自衛の為に賢明にも、ユダヤ人たち人民大衆には税の負担をかけぬようにするのである。これは、我々(ユダヤ人たち)の政府は、父親や保護者の役割を果たすということを想起していただきたいのである。さりながら、国家組織には莫大な金がかかるのであるから、必要な資金は、確保する必要が有るのである。ゆえに、格別細心の注意を払って、この問題に関しては、適切な課税方式を定めねばならない。

 我々(ユダヤ人たち)の王は、法的な形では国の資産はことごとく王が所有者であり(形だけでなく実際にも容易にそれが適用できる)、国内流通を規制する為にはあらゆる資産の総額から合法的に徴収することができるのである。このことから、課税は、累進課税方式で徴収するのが最もよろしいという結論になるのである。さすれば、資産総額の何パーセントという形で支払うべきものが支払われ、何人も困窮したり破産したりすることがない。富める者は、税金を払えば残りの金は国家が財産不可侵権で保障してくれ、なおかつ正直な利益を保ロ護してくれるのだから、余分な金の一部は、国家に御自由にお使い下さいと差し出すのが義務であると考えなくてはならない。朕は、今、「正直な」と言ったのである。これは、財産をしっかり監督すれば、法律でいう泥棒を駆逐するということを意味しておる。

 社会改革は、上記のことから始めねばならない。その時は、熟しておる。それは、安寧の印として不可欠なことなのである。

 貧しい者に課税することは、革命の種を蒔くことになって、小を追って大を逃し、国家の損害となるのである。そんなこととは、全く別に、資本家に課税するのは、個人の富の増加を防ぐことになるのである。我々(ユダヤ人たち)が昨今資本家の手に富を集中させたのは、畜生(非ユダヤ人)共の政府の力・・国家財政・・が強くならぬように、平衡力をつけるためであったのである。

 資本の高に対して累進課税を課すると、現行の個人課税や資産課税よりも遥かに大きな収入となるが、現在の課税方式は畜生(非ユダヤ人)共の間に不満と反抗を起こさせるという理由でのみ、我々(ユダヤ人たち)には、必要なのである。

 我々(ユダヤ人たち)の王は、均衡を保つことと安寧を保証することに強みが有るのである。それが為には、資本家たちは、国家機関を正常に動かす為に自分の所得の何分の一かを投げ出すことが絶対に必要なのである。ゆとりのある人々は、公共の必要を賄わねばならない。

 そういうことが行われると、貧民は、富豪を憾まなくなり、富める者は、国家維持にはなくてはならぬ財政的支柱であり、国家に必要なものを支払っておるからには、安寧福利の守り役であるということが解ってくるのである。

 知識階級の納税者に新体制の納税方式にあまり不平を言わせぬようにするには、公費の細かい支出を見せてやるが、王室費と行政費とは例外なのである。

 すべてを支配するユダヤ人たちの王には、国家のすべてが王の財産であるから、王個人のものと称する財産は、何もない。と言うと矛盾があるが、実は、ある方法で、実際には、普通の意味で国家のすべてを所有するということは出来ないようになっておるのである。

 国家資産で扶養する王の妻子は別として、統治者の親族は、国家公務員になるか、資産を得るべく働かねばならない。王の血族だからといって、国庫に属するものを私する権利があってはならない。

 販売、所得、相続には、累進課税印紙を支払わねばならない。所有権を移転するときには、動産であろうと不動産であろうと、姓名を記載した印紙による支払の証拠があらねば、最初の所有者は、移転の宣告が発覚した日からの利息を支払うのである。売買物件登録は、新旧の所有者の住所・氏名を付して、毎週財務省地方支所に届出せねばならない。この姓名付き登記は所定の金額を超える場合から始め、通常の日常品売買には一定単位ごとの所定パーセンテイジの印紙税を支払えばよろしいのである。

 このような方法だと畜生(非ユダヤ人)共の政府の収入の何倍になるか計算してみていただきたいのである。

 財務省は、一定額の予備金を確保し、それを超える徴収額は、全額流通に還元せねばならない。その還元額は、公共事業に当てるのである。国庫から資金が出るこの種の事業は、国家が企画実施するのであって、これにより労働者階級の利益とやつら(非ユダヤ人=畜生たち)を支配する国家の利益とが固く結び付くのである。この資金の一部は、事業の発案者や施行者に与える報償金にも当てるのである。

 国庫には、たっぷりと確保した所定の予備金のほかには、たとえ少額であっても決してよけいな金を置いておいてはならない。金というのは、流通させるべきものであって、およそ流通を妨げることは、すべて国家機構の運営には支障を来たすのである。それは潤滑油のようなものであり、潤滑油が滞った日には、よどみなく活動すべき国家機構が齟齬を来たすのである。

 貨幣の代用に紙幣を使うことが、確実に流通を阻害したのである。この状況が続いてどういうことになっておるかは、すでに明らかである。

 我々(ユダヤ人たち)は、王が直轄する会計検査院を設けるのである。そこでは、非ユダヤ人たちの王がいかなる時でも、まだ決算されていぬ当月分とまだ発生しておらぬ翌月分は、別として、前月までの国庫の収入支出状態を親しく検査できるのである。

 国庫から盗んでも何の利益にもならぬ唯一の人間は、その所有者であり、王なのである。これによって紛失や浪費の可能性を封じることができるのである。

 支配者の代表的な行為に、儀礼のための宴会というのがあるが、これは、貴重な時間を浪費するものであるから、王に統括と熟慮の時間を担保する為に、宴会は、一切廃止するのである。王の力は、きらびやかな王位を取り囲み、自分のことしか考えず国家の問題なぞ念頭にない取り巻き連中にかしづかれ、取るに足らぬことに時間を割かれるべきではないのである。

 我々(ユダヤ人たち)が畜生(非ユダヤ人)共の間に作り出した経済危機では、流通貨幣の引き締めほど効果のあるものはなかったのである。国内から貨幣を引き上げると巨大資本は、停滞し、不足した資本は、借金に頼らざるをえなくなるのである。この借金というのが利息が嵩むものだから、これらの資本は、国債の奴隷となる。小さな親方たちの手から資本家の手に産業を集中すると、全人民が、そして国家も活力を失ってくるのである。

 一般的に言って、現在の通貨発行は、国民一人当りの消費に相応しておらぬので、労働者の必要を満たすことができない。通貨発行は、人口増加に相応すべきであり、子供は生れたその瞬間から一人前の消費者であると計算せねばならない。通貨発行量の変更は、世界中どこの国でも重大問題となっておるのである。

 御存知のように、金本位制を採用した国々は、危殆に瀕している。我々(ユダヤ人たち)が流通している金を出来る限り引き上げるものだから、通貨の必要を満たすことが出来なくなっておるのである。

 我々(ユダヤ人たち)は、紙でも木でもかまわぬのであるが、労働力の価値に見合う通貨を作らねばならない。我々(ユダヤ人たち)は、国民の必要に応じて、つまり、人が生れれば通貨発行額を増加させ、死ねば減少させるのである。

 各官庁各地方(たとえばフランス行政部)の財政は、それぞれが運営管理するのである。国費の支払に遅延を来さぬようにする為には、支払日と支払額とは、王の命令で一定に定める必要が有るのである。これにより、ある省の大臣だけが便宜を得て、他の部門は、迷惑するというようなことが起こらぬようにするのである。

 収入予算と支出予算とは、両者が隔絶することがないように比較点検しつつ実施するのである。

 我々(ユダヤ人たち)が計画した畜生(非ユダヤ人)共の財政制度と原理の改革案は、誰も肝を潰さぬように衣をかぶせてあるのである。我々(ユダヤ人たち)は、畜生(非ユダヤ人)共がしでかした不始末によって財政に撒き散らした混乱の結果、改革が必要であることを指摘するのである。我々(ユダヤ人たち)が指摘する第一の不始末は、次々と起こる原因で年々膨れ上る年次予算に初めから仕込まれておるのである。その予算は、上半期まではダラダラと行われ、それから補正予算を要求し、三ヵ月ぐらいかかって補正予算を作ると、もう清算予算を出せねばならぬ時期になって終りなのである。であるが、翌年の予算は、前年の総支出に基くので、経常の必要よりも年間五〇パーセントにも達し、十年もたつと三倍に膨れ上るのである。畜生(非ユダヤ人)共の政府の無頓着なやり方のお蔭で、国庫は、ついに空になるのである。ここで国債時代が始まるのであるが、国債は、国庫以外のものまで呑み込み、かくて畜生(非ユダヤ人)共国家全部がご破産となるのである。

 先刻御承知であろうが、かくのごき財政管理法は、我々(ユダヤ人たち)が畜生(非ユダヤ人)共に授けた方法であって、我々(ユダヤ人たち)がこれを実行することはできない。

 国債は、如何なる種類であろうとも、国家が脆弱であり国家機能を理解することすら欠如しておる証拠なのである。国債は、支配者の頭の上にぶら下っておるダモクレトスの剣のようなもので、支配者は、国民から税金を取る代わりに、我々(ユダヤ人たち)の銀行家に掌をさしのばして憐れみを乞うようになるのである。外債は、国家の体に取りついておる蛭(ひる=血を吸う虫)であって、蛭の方で自然に落ちるか、国家が叩き潰しでもせぬ限り取れるものではないのである。であるが、畜生(非ユダヤ人)共の国家は、この蛭を払い落とさない。行き着く先は、減亡というところまで、ますます取りつかせ太らせ、最後は、失血して自ら死を招くのである。

 細かい点は別として、国債とは、とりわけ外債とは、何であるか?

 国債とは、発行総額に比例して利息が上って行く、政府発行の手形なのである。かりに国債に五分の利息が付いておるとすると、二十年間に国家は、国債総額と同額、四十年間にその二倍、六十年間に三倍の利息を払い、なおかつ借りた分だけが未払のまま残るのである。

 この計算を見れば明らかなように、どういう徴税方法かで一人当りから徴税すれば、国家は富める外国人に利息を払う為に、貧しい納税者から最後の小銭まで巻き上げずにすむのに、余計な利息など払わずに必要な額を調達すべく小銭をかき集める代わりに、富める外国人から金を借りてしまったのである。

 国債が内国国債であるうちは、畜生(非ユダヤ人)共は、貧民の懐から集めた金を大富豪の懐に収めただけだったが、我々(ユダヤ人たち)が特定の人間を買収して、国債を外国に売らせるようにしてからは、国家の富は、すべて我々(ユダヤ人たち)の金庫に流れ込み、畜生(非ユダヤ人)共という畜生(非ユダヤ人)共は、我々(ユダヤ人たち)に国民を貢物として差し出したのである。

 畜生(非ユダヤ人)共の王者たちの国務に対する浅薄な態度、大臣たちの腐敗、国政を預る者たちの財政問題に対する理解の欠如が、やつら(非ユダヤ人=畜生たち)の祖国を我々(ユダヤ人たち)の金庫に対する払い切れぬほどの巨額の債務者にしてしまったが、それは、我々(ユダヤ人たち)の側の労力と金銭の多大な出費なしには容易にできることではなかったのである。

 我々(ユダヤ人たち)は、貨幣の流通にはなんらの障碍も許さぬから、一パーセント物を除いては、利付き国債は発行しない。従って、国家の力を吸い取る吸血の蛭どもに利息を払うことがない。利付き公債発行権は、専ら、利益から利息を払うことが無理でない工業関係の会社に与えるのである。国家は、会社のように借りた金で利益を収めるのではないのである。国家は、消費の為に金を借りるのであって、運用資金として借りるのではないのである。

 政府もまた工業公債を買うが、政府の立場は、現在のように配当を払う債務者ではなく、利息を受ける債権者の立場になるのである。この方法ならば、貨幣の流通停滞や奇生資金や遊休資金をなくせるのである。これらはいずれも、畜生(非ユダヤ人)共が勝手にやって我々(ユダヤ人たち)の支配に従う気がない限りは、畜生(非ユダヤ人)共に対する有効な手だてだったのである。

 畜生(非ユダヤ人)共の頭というのは、思考力の発達しておらぬことにかけては、全く野獣並みであることが明々白々ではないかの。

 やつら(非ユダヤ人=畜生たち)は、我々(ユダヤ人たち)から利子付きの金を借りておるのである。その元利を返そうと思えば、国庫から取り出す以外に手はなく、結局また我々(ユダヤ人たち)から借りねばならず、どうあっても我々(ユダヤ人たち)の懐に戻るということを考えても見ようとしない。やつら(非ユダヤ人=畜生たち)が必要とする金は、非ユダヤ人=畜生たち人民から取り立てた方がはるかに簡単であったのに!

 であるが、ここにこそ我々(ユダヤ人たち)選ばれたる民が天才であることの証しが有るのである。我々(ユダヤ人たち)は、その方法ならばやつら(非ユダヤ人=畜生たち)の利益になるかのようにやつら(非ユダヤ人=畜生たち)に持ちかけて来たのである。

 時至り我々(ユダヤ人たち)が会計を提示する場合には、我々(ユダヤ人たち)が畜生(非ユダヤ人)共の政府に対して幾世紀にわたって行ってきた経験にかんがみて、明白かつ決定的な内容とし、我々(ユダヤ人たち)の新制度の利益になるものであることが万人に一目で判るようにするのである。その予算は、我々(ユダヤ人たち)が畜生(非ユダヤ人)共を従属させる為に多用した方法は、すべて打ち切り、我々(ユダヤ人たち)の王国においては、かかる方法は、微塵も許さない。

 我々(ユダヤ人たち)は、王であろうと最下級公務員であろうと、いかなる些少な金額でも、あらかじめ決められた支払先以外の所には支払われぬように会計方式を立て厳重管理するのである。

 明確な計画なしには、統治は、不可能なのである。英雄や半神といえども、どこへ行くかも解らぬ道を、十分な金の準備もなしに旅立てば、失敗するほかはないのである。

 畜生(非ユダヤ人)共の支配者たちは、かつて我々(ユダヤ人たち)が助言したとおりに、国務を怠って各国代表たちとの宴会や儀礼、歓楽にふけっていたのである。やつら(非ユダヤ人=畜生たち)は、我々(ユダヤ人たち)の支配が目に見えぬようにする衝立に過ぎなかったのである。王たちに代って寵臣たちが書いた回顧録なるものは、実は、我々(ユダヤ人たち)の代理人が書いたのであるが、そこには、決まって将来の経済と繁栄が約束されていたので、皮相的にしか物を考えぬ人間たちを満足させた。が、何の経済のことか?

 如何なる新税を?我々(ユダヤ人たち)の回顧録や計画を読めばそういう問が出てくるはずなのに、誰一人として質問しなかったのである。

 やつら(非ユダヤ人=畜生たち)人民は、驚くべきほど勤勉なのに、やつら(非ユダヤ人=畜生たち)が途方もない財政的混乱に陥った原因が、その迂闊さにあったことは 諸兄はよく御承知のことと思う。  

 シオン議定書(22)

 これまで長々と述べてきたことをもって、朕は 将来、過去、現在の秘密を、注意深く明らかにしようと試みた。残るは 近い将来、洪水のように起こるであろう大いなる事件と、我々(ユダヤ人たち)と畜生(非ユダヤ人)共との関係である。そこで、その経済関係の秘密に入ることにしよう。が、この件に関しては、朕が付け加えることはごく僅かなのである。

 我々(ユダヤ人たち)の手中には、現代最も威力を発揮するもの「金」が有るのである。我々(ユダヤ人たち)は、二日間あれば必要な量の金を我々(ユダヤ人たち)の貯蔵庫から集めることができるのである。

 この事以上に、我々(ユダヤ人たち)の(非ユダヤ人=畜生たち)の支配は、神の思召しであることを証明する必要があるのである。かような富があればこそ、何世紀にもわたって我々(ユダヤ人たち)が重ねねばならなかった悪が、すべて、真実の福利を最終の最終にもたらす(万物に秩序をもたらす)為に役立つことが疑いもなく明らかであろう。 たとえ暴力を用いたとしても、全く同じ結果となるである。 我々(ユダヤ人たち)が、引き裂かれねじ曲げられた地球に、真実の善と個人の自由をも回復する大恩人であることを、我々(ユダヤ人たち)は証明するであろう。そうすることによって、もちろん、我々(ユダヤ人たち)が確立した法をきびしく遵守する限りにおいてであるが、我々(ユダヤ人たち)は、地上に平和をもたらすことができるのである。そうすることによって、我々(ユダヤ人たち)は明白にする。自由とは放縦ではないことを。また、人間の品位とか力とかには、自堕落が含まれておらぬ以上に、自由とは、抑制の利かぬ権利は 含まないことを、良心の自由や平等その他これに類するものは、人間の本性にある破壊的な原理であるそのことを、万人に公表し、個人の自由とは、決して無秩序な群集の前で言語同断な言説を弄して煽動することではないことを示すのである。真実の自由とは社会の法律には、敬虔に厳しく従う人の不可侵性にあること、人間の尊厳とは、権利意織に包まれてはおるが、同時にいかなる権利意織も持たぬものであること。そして、自分勝手な空想を実現しようとすることは、決して許されぬことを、である。

 我々(ユダヤ人たち)の権威は、強力なるがゆえに、栄光に満ち、支配し、指導し、自分では大真理と思い込んでおるが、中味は、何もない無意味な言説を声高に上げる夢想家に過ぎぬ指導者や弁舌家の後塵を拝するのではなく、(正直に話せば)我々(ユダヤ人たち)の権威は、秩序の王冠であり、その中に人類の至福が宿っておるのである。この権威の後光の前では、すべて(ユダヤ人たちや非ユダヤ人=畜生たち)の人民が神秘のあまり平伏し、畏怖の情に囚われるのである。真実の力は、いかなる正義にも、神にさえも譲歩しない。何人もあえてこの力に近付いて一毫たりとも毀損することはできないのである。  

 シオン議定書(23)
 
 (非ユダヤ人=畜生たち)人民を服従に慣らす為には、謙遜ということを教え込む必要があり、従って奢侈品の生産を縮小すべきなのである。 これによって、贅沢を張り合う卑しい根性を改めるのである。我々(ユダヤ人たち)は、小さな親方製造業を再編成して、個人資本の工業家を倒すという狙いを持っておるのである。 大規模の製造業は、必ずしも意識的ではないにせよ、政府に反対する考え方を群集に植えつけるので、この処置は欠かせない。小さな親方たちは、罷業を知らず、既存の秩序にしっかり結び付いておるのである。罷業は、政府にとっては破滅的な一大問題なのである。我々(ユダヤ人たち)は、時の権力(その時期がきたとき)を我々(ユダヤ人たち)の手に移す時に、この手を使うのである。 酩酊も法律によって禁止し、酒の力で野獣に変わる非人間性に対する罪として処罰するのである。

 重ねて述べるが、非ユダヤ人=畜生たち)人民は、自分たちとは絶対的にかけ離れた力強い手に対しては、盲目的に服従するのである。やつら(非ユダヤ人=畜生たち)は、そこに自分たちを襲う社会的な鞭から守ってくれる防御の剣を感じて支持するのである。やつら(非ユダヤ人=畜生たち)は、王者に天使の心を期待するのか?

 やつら(非ユダヤ人=畜生たち)が王者に見たいのは、力、力、力の権化なのである。

 現存する支配者たちに代わる我々(ユダヤ人たち)が至高の君主は 何をせねばならぬかのである。我々(ユダヤ人生たち)が意気阻喪させた社会、神の権威すら失墜させた社会、四方八方から無秩序混乱の火の手に包まれておる真中で、支配者たちはその存在を引きずって歩いておるが、我々(ユダヤ人たち)が王(ユダヤ王国の王)は、何よりもこの燃え上がる炎を消し止める事に身を投じねばならない。それゆえに、王は、やつら(非ユダヤ人=畜生たち)を王の血の海で溺死させるが、これら現存する社会を根絶せざるをえず、改めてやつら(非ユダヤ人=畜生たち)をよく組織された軍隊に復活再編成し、ただれた国家を覆うあらゆる種類の伝染病に対して意織的に闘わせねばならない。

 「神より選れし者」は 理性ならぬ本能によって、また、人間性ならぬ獣性によって動くばかげた力を粉砕すべく、天から下されるのである。 この力は、今は(アメリカ+イギリスたちは)自由の原理という仮面をつけて略奪とあらゆる種類の暴力をはたらき凱歌を挙げておるが、この力が秩序破壊(最終戦争)の跡にイスラエル王を王座に据えるのである。 であるが、やつら(非ユダヤ人=畜生たち)の役割は、イスラエル王が王国に入ったその瞬間に終るのである。王国の路からは、その(非ユダヤ人=畜生たち)の残骸の一片すらも残さぬように一掃される必要が有るのである。

 その時、我々(ユダヤ人たち)は、世界の(非ユダヤ人=畜生たち)人民に次のように言うことができるであるろう。「神に感謝せよ。額に人類宿命の験(しるし)を付けた方の前にひれ伏せ。その験は、神御自らが星を導いてその方に付けられたのだ。その方を措いては、生来の罪と悪から解き放って下さる方はおらぬのだ。」  

 シオン議定書(24)

 次にダヴィデ王朝の土台を世界最後の段階まで一層強固にする方法に進もう。この方法は 何よりも第一に、今日まで世界の全問題を遂行し、全人類の思想教育を指導してきた我々(ユダヤ人たち)の賢人長老たちが積み重ねてきた伝統的な方法によるものなのである。

 ダヴィデ王の子孫のうちの数人が、相続権者ではなく、優れた資質を基準にして王と後継者を選定する。その人々には、政治の最高機密と政府の仕組とが伝授されるが、常に何人にも極秘の知恵が漏れぬように留意するのである。この方式の真意は、このような秘義を授けられたことがない者には、政府を委すことはできぬということを徹底させることに有るのである。

 これらの人々にのみ、何世紀にもわたる諸経験と比較しつつ、朕がこれまでに述べたような計画の実際化や、政治経済運動や社会科学研究の全成果・・一言で言えば、人間関係を律する動かしがたい天然法則の大真理・・が伝授されるのである。

 直系の子孫が王位継承から外されるのは、秘義伝授の過程で浅薄・軟弱その他、王の権威破滅となる資質が明らかになった場合なのである。そのような性向は、統治者には不向きであり、王宮においては、危険な人物となるのである。

 たとえ残忍であったとしても無条件に断固たる人物のみが、(ユダヤ人たち)我々の賢人長老たちから支配統治の手綱を渡されるのである。

 病気に罹ったり精神障害があったり、その他、王たるにふさわしくないことがあった場合には、王は、律法に従って統治の手綱をふさわしい者に譲らねばならない。

 通常の時間における王の行動計画と将来に関することは、全て最も親しい助言者たちにも知らされない。

 王と三人の顧問のみが、将来の計画を知っておるのである。

 断乎とした意志で自分と人類を律する王の人柄には、万人が神秘の宿命を認めるのである。何人も王が何を行おうとしておるのかを知らぬので、あえて知らぬ小路を遮ろうとする者はいない。

 王の頭の中には、実行すべき政府計画を理解するに足りる知恵が貯えられていねばならない。王位に就く前に、前に述べた賢人長老たちが試験を行うのは、そのためなのである。

 人民が王を敬愛するのは、王が市場などで人民に意見を述べることを欠かさぬからなのである。現在では、我々(ユダヤ人たち長老賢人たち)が両者の間に恐怖の溝を作って引き離しておるが、双方を結びつける必要がこれで満たされるのである。

 この恐怖は、時が至るまでは、両者を我々(ユダヤ人たち)の影響下に置く為には必要欠くべからざるものである。

 ユダヤ王は、自分の感情、とりわけ情欲のとりこになってはならない。 王は、自分の人格のどの一面でも、荒々しい本能に精神をしのがせることがあってはならない。情欲は、いかなる精神的な欠点よりも、明晰に見る力を殺ぎ、思考を人間の性質中最悪の獣的なものに落とし込むのである。

 ダヴィデの聖なる子孫である全世界統治王その人は、人類の支柱であり、人民の為にはいかなる個人的希望をも犠牲にせねばならない。

 我々が至高の王は、完全無欠の権化でなければならない。  





(私論.私見)