西欧圏の内部対立考

 バルセロナより愛を込めて氏の2005.5.13日付け投稿「シオニズムと対決するユダヤ人たち(Jews Against Zionism)」からの翻訳(1)」を転載しておく。

  「シオニズムと対決するユダヤ人たち(Jews Against Zionism)」からの翻訳(1)

 (写真はJews Against Zionismの街頭行動:「我々はユダヤ人であるがゆえに『イスラエル』に反対する。」というスローガンが読める。)
 http://www.jewsagainstzionism.com/protests/protestpics/nyc042805/cap009.jpg

 ご存知の方も多いでしょうが、シオニズムとイスラエルに反対するユダヤ人たちが世界中に少なからず存在しています。その中で最も活動的な団体の一つ、「シオニズムと対決するユダヤ人たち」Jews Against Zionismのホームページから、目に付いた記事を私の時間のあるときに少しずつ日本語訳を行い、訳し終わった文章は一つずつ阿修羅誌面で公表させていただきます。

 http://www.jewsagainstzionism.com/index.cfm
 Jews Against Zionism (Main Page)

 彼らは「ホロコースト(ガス室)」はあった、と固く信じています。それは、一つにはニュルンベルグ裁判の「判決」を自らの検証抜きでそのまま信じ込んでいるせいもありますが、何よりもそれが、シオニストの登場に対する神の怒りがユダヤ人全体への懲罰として向けられたものであり、そしてそれが尊敬するラビたちによる預言の成就であった、とする真摯な宗教的信念から来ているのです。

 ただ私としては、彼らの宗教的信念は尊重しながらも、反対派ユダヤ人たちの目から見たシオニズムの姿を通して、様々な事実関係とともに、ユダヤとは何なのか、シオニズムとは何なのか、を別角度から深く知るための一つの資料として勉強していきたいだけです。同時にその意味で多くの皆様に役に立てていただけたら幸いです。

 ただしあくまでも「暇をみて」の翻訳ですから、全く不定期になるでしょう。また目に付いた順に気まぐれに訳しますのでシリーズとしてのまとまりは無いでしょう。この点はご容赦ください。(もし誤訳や言葉の使い方のまずい点などを発見されたら、どうかご遠慮なくご指摘ください。)

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 今回翻訳しました記事は、『ホロコーストにおけるシオニズムの役割(THE ROLE OF ZIONISM IN THE HOLOCAUST)』と題されています。かなりの長文です。前半は宗教的な叙述、後半がシオニストとナチとの関係についての具体的・歴史的な記述になっています。

 内容をお読みになれば明らかですが、題名とは裏腹にこれは『アウシュビッツ』『ガス室』の話ではなく、第2次世界大戦とイスラエル建国の中でシオニズムが果たした役割に関するものです。したがって戦争板に貼ることにしました。「ホロコーストは神の怒りだった」とこられたのではホロコースト板に貼っても意味がないでしょう。彼らの宗教的信念は尊重しますが。

 またこれには「ユダヤ教とは何か」という宗教の問題も絡んでおり、カルト板にも深く関わるものです。(関連事項はカルト板にもいずれ投稿するつもりにしています。)

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 http://www.jewsagainstzionism.com/antisemitism/holocaust/gedalyaliebermann.cfm

 ホロコーストにおけるシオニズムの役割

 ラビ、ゲデルヤ・リーバーマン(Gedalya Liebermann:オーストラリア)による記事

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 【以下、ユダヤ教では「神」の名を直接示すことは差し控えられ母音抜きで表記されるため、それを尊重して「神」と訳さずに原文通り「G-d」と表記する】

 『霊的そして物質的責任』

 その初めから多くのラビたちがシオニズムの潜在的な危険性を警告した。そして彼らは、すべてのユダヤ人のG-dに対する忠誠が、人が火から離れるように、それから離れているべきである、と大々的に宣言した。彼らは会衆に対しまた一般の公衆に対してその意見を明らかにした。彼らのメッセージは、シオニズムがユダヤ教とは決して相容れない好戦的・排他的な人種主義である、ということだった。彼らは、シオニズムがユダヤ人たちと異教徒たちの良い人生にとって決定的に有害であること、およびユダヤの信仰に及ぼす影響は破壊的以外の何物でもなくなるだろう、ということを公に表明した。さらに、それはユダヤ民族に対する評判を完全に汚し、そしてユダヤ人と非ユダヤ人の社会に全面的な混乱をもたらすだろう、と。ユダヤ教は人種でもなければ国籍でもない。それは昔も今もラビ達の間の合意なのだ。

 我々は、妨害されることなくトーラーを学び聖なる土地の外で成し遂げることの困難な聖性のレベルを手に入れることができるように、G-dからあの聖なる土地を与えられた。我々はその恩恵を悪用しそしてそこを追い払われた。それはまさにユダヤ人のすべてがあらゆるユダヤの祭典で祈る言葉の中にある"Umipnay chatoenu golinu mayartsaynu"「我々の罪のために我々は自らの土地を追われた」ということである。

 我々はG-dによって「予言される時が満ちる以前にあの聖なる土地に一団となって入ってはならない」「居住する国々に対して反乱を起こしてはならない」と禁じられ続けている。忠実な市民でありなさい、どんな国の意図にも逆らって行動してはならない、復讐、不和、賠償、補償を求めてはならない、「時が来る前に追放の身から逃れようとしてはならない」と。そうではなくて、我々は謙虚に追放のくびきを受け入れなければならない。この誓いを犯すならば、それは「あなたの肉体が藪の中の鹿やカモシカのようにいけにえにされることをもたらすだろう。」そして救済は遅らされることになるだろう。
(Talmud Tractate Ksubos p. 111a).

 その誓いを犯すことは単に罪であるだけではない。それは、我々の信仰の根本に逆らうがゆえに異端なのだ。完璧な悔い改めを通してのみ、全能の存在だけが、どのような人間の努力や介入も無しに、我々を追放者の身からあがなってくれるのだ。それはG-dがすべてのユダヤ人に完全な悔い改めを起こさせる預言者エリヤ(Elijah)とモシアク(Moshiach)を遣わしてくれる後になるだろう。そのときにはすべてに平和があることだろう。

 その時代のユダヤ教の指導的幹部全員が、シオニズムの結果として、人類全体、とりわけユダヤ人に、大きな苦難が降りかかるだろうと予言した。ユダヤ人であるということは、母親がユダヤ人であることか、あるいは、彼または彼女がユダヤの律法に無条件で従うという条件でこの教えに改宗することかの、どちらかである。不幸なことにあらゆるユダヤの義務に対して何の気付きも無いユダヤ人たちが数多くいる。その多くは非難されるべきではない。多くの場合ユダヤの教育としつけを受けていない。しかし中には個人的な必要性に合わせるために我々の伝統による教えを意図的にねじ曲げる者たちがいる。誰でもが哲学やある宗教の教えに従って決定を為す権利も能力も持っていない、と身勝手に理解される。特にその人物が何の資格も持たないような場合である。それならばすぐに、ユダヤ教は国籍であると「決意した」人々は無視されあるいは非難すらなれなければならない。シオニズムの創始者たちがユダヤの律法を全く学んだことがなく我々の神聖なる伝統に興味を示したことすらない、ということは秘密でもなんでもない。彼らはおおっぴらにラビたちの権威を無視し自分たちをユダヤ人の「国」のリーダーであると自己指名した。ユダヤ人の歴史の中では、このような動きは常に呪われた災厄をもたらしてきた。ユダヤ人であるのにあからさまに権威への不従順を示すことは、あるいはユダヤの霊的指導者たちが公式に指名する人たちとまず相談すること無しに「修正」あるいは「刷新」を取り入れることは、すなわちそれに見合った破局へ導く思想である。昔からの伝統や規則を「近代化する」決定を下すことは、誰一人としてできない。正統派ラビとしてよく知られる現代ユダヤ教の霊的指導者たちは、ユダヤ教信仰に関する事柄を判断し解釈する叙階を受けている。これらのラビたちはその権利と責任を与えられており、全能のG-d自身からトーラーを授かったモーゼにまでさかのぼるあらゆるユダヤの伝統の途切れることの無い鎖のつながりを形作っている。まさにこのようなラビたちが、シオニズム運動が作られた時代に、疑いもなくそれと結び付いた破滅的な結果を予想した。シオニズムに関するユダヤの姿勢を高らかに宣言する者は、傑出したユダヤの本性を所有し比類なき聖性のレベルを持つ人間である。

 このカリスマを与えられた人、サトマールのラビ、ジョエル・テイテルバウム(Joel Teitelbaum)大ラビは、どのような言葉も和らげて言うことをしなかった。彼はシオニズムを「悪魔の作業」「冒涜」「聖なるものを汚す行為」と率直に指摘した。彼はシオニズムに、たとえ間接的にでも、関わるすべての事柄に参加することを禁止した。そして言った。シオニズムはユダヤ人に対するG-dの懲罰を招くことになる、と。彼は、ハンガリーにいる間からニューヨークで彼が何十万人もの集会を率いたときに至るまで、不退転の勇敢さでシオニズムの攻撃からこの姿勢を守りぬいた。テイテルバウム大ラビ、神聖なる奥儀の遺産とハシッド【18世紀中葉にポーランドで創設された神秘主義的なユダヤ教の一派:訳注】の指導者たちの若枝は、不幸なことに自分の預言を成就させてしまった。我々は6百万もの兄弟、姉妹、息子、娘たちを実に恐るべき仕方で失った。この6百万人を超す聖なる人々は、シオニストの愚かさによる懲罰を経験しなければならなかったのだ。彼は嘆いた。ホロコーストはシオニズムの直接の結果、G-dの懲罰だったのだ、と。

 【次の1段落は、原文ではすべて大文字で強調されている:訳注】
 ヒトラーが登場した当時のヨーロッパでのあらゆる賢人と聖人たちが、ヒトラーは神の怒りのメッセンジャーであり、やがて来るメシアによる救済という信念に敵対するシオニズムの苦々しい背教によってユダヤ人たちを懲らしめるために遣わされた、と明言したことは誰でも知っている。

 しかしそれだけでは終わらない。シオニストのリーダーたちにとってはこのG-dの怒りを招いただけでは十分ではなかった。彼らは、その絶滅作戦に積極的に参加しながら、常にユダヤの兄弟・姉妹たちに最悪の侮蔑をぶつけ続けたのである。シオニズムの思想だけなら、これはラビたちが彼らが大きな破壊をもたらすだろうと知らせてきたものだが、彼らにとっては十分ではなかった。彼らはすでに燃えている炎に油を注ぐ努力をしたのである。彼らはこの死の天使、アドルフ・ヒトラーをそそのかさなければならなかった。そして勝手に自分たちが世界のユダヤ人を代表している、と世間に告げた。これらの者たちを誰がユダヤ人の指導者に指名したというのだろうか? これらのいわゆる「指導者たち」がユダヤ教について無知であったことは不思議ではない。無神論者であり人種主義者であったことも。1933年にドイツに対して無責任なボイコット運動を組織した「政治家たち」がいる。このボイコットが、象を攻撃するハエ程度にはドイツを傷つけた。しかしそれはヨーロッパのユダヤ人に大災厄をもたらした。米国と英国が狂犬ヒトラーと平和な関係を持っていた当時、シオニストの「政治家たち」は見せかけだけの政治的な従順さという手段を捨てた。そして彼らのボイコットがドイツのリーダーを逆上させてしまったのだ。虐殺が始まった。しかしこの人々は、彼らは本当に人類のメンバーに分類できるのかどうか、ふんぞり返っていた。

 『恥知らず』

 1938年にロウズベルト大統領がユダヤ人難民問題を取り扱うために、エヴィアン会議を招集した。ゴルダ・メィアー(メィアソン)【Golda Meir (Meirson):後のイスラエル首相:訳注】に率いられたユダヤ人委員会代表団は、ユダヤ人一人につき250ドルで他の国に移住することを許すというドイツの提案を無視した。そしてシオニストたちは、ドイツとオーストリアのユダヤ人に居住の許可を与えるためにその会議に出席していた米国や他の32カ国に働きかける努力を全くしなかった。

 1940年の2月1日、ユダヤ要求連合(the United Jewish Appeal)の副会長であるヘンリー・モンター(Henry Montor)は、ドナウ川で立ち往生していたユダヤ難民を乗せた船のために介入することを拒んだ。そして次のように述べた。「パレスチナは・・・、年寄りどもや望まれない者たちで、満たされてはならない。」

 1941年とそして1942年に、ドイツのゲシュタポが、すべてのヨーロッパのユダヤ人に対して、もしも彼らがドイツと占領フランスにあるすべての資産を放棄するのなら、スペインへ移動させると提案したことは歴史的事実である。次のような条件である。(a)追放された者たちは誰もスペインからパレスチナに向かわないこと、(b)すべての被追放者はスペインから米国または英国植民地に行きそこに留まること:当地に住むユダヤ人によって準備された入国ビザを使用する、(c)1家族につき千ドルの代償金が当局者によって提供される:それは1日につき1千家族の割合で、スペインの国境線に到着した家族に対して支払われる。

 シオニストの指導者たちはスイスとトルコでこの提案を受け取り、パレスチナが被追放者たちの行き先から除外されていることがゲシュタポとムフティ【Muftiは一般的にはイスラム学者を指すがここでは具体的に誰のことなのか不明:訳注】の間での合意の基本であったことを明らかに悟った。

 シオニスト指導者たちの回答は否定的であった。それには次のようなコメントが付けられていた。(a)ただパレスチナだけが、被追放者の行き先として考えられるだろう。(b)ヨーロッパのユダヤ人たちは他の国に行くくらいなら苦しみと死を受け入れなければならない。そのほうがずっと良い。それはこの戦争が終わるときに勝利国が「ユダヤ人の国」に同意するようにである。(c)いかなる代償金も支払われない。ゲシュタポの提案に対する以上の返答は、それに代わる提案がガス室であったことを十分に知りながらなされたものであった。

 これらの不忠実なシオニスト指導者たちは自らの肉体と血を裏切った。シオニズムは断じてユダヤ救済の一つのオプションでは無かった。正反対に、数多くの無法者たちが権力へと上り詰めるために野獣の爪として使用される一つの人間の公式だったのだ。背信だ! 言い表すこもできないほどの裏切りだ!

 1944年、ハンガリーでの国外追放のときに、同様の提案がなされた。それですべてのハンガリーのユダヤ人たちが救われたかもしれない。そしてまたしてもあのシオニストがこの提案を拒否した。(すでにガス室が何百万人もの犠牲者を作った後なのだが。)

 英国政府は、トルコを通っての避難者たちと一緒に、300名のラビとその家族にモーリシャス植民地へのビザを発給した。その計画がパレスチナに対して不忠実であると見て取った「ユダヤ機関」のリーダーたちはその計画を妨害した。そして300人のラビたちとその家族はガスで殺されなければならなかった。

 1942年の12月17日に英国議会両院は危険の迫る人々に対して一時的な難民とみなす用意があることを宣言した。英国議会はドイツとの外交交渉の一部として、50万人のユダヤ人をヨーロッパから避難させ、彼らを英国植民地に住まわせるという提案を出した。この動議は2週間で合計277名の議員の署名を集めた。そして1月27日に100名以上の下院と上院の議員たちによって次のステップが踏まれようとしていたときに、シオニストのスポークスマンは、パレスチナが無視されているからユダヤ人たちはこの動議に反対する、と発表した。

 1943年の2月16日には、ルーマニアがTrans-Dniestriaの7万人のユダヤ難民に一人50ドルの費用でそこから出発させるという提案をした。このことはユーヨークの新聞で報道された。テル・アヴィヴにあるシオニスト代表会議にあったユダヤ機関救出委員会の委員長イツァーク・グリーンバウム(Yitzhak Greenbaum)は、1943年2月18日に次のように言った。「彼らが私に『ユダヤ要求連合の資金からヨーロッパのユダヤ人を救うためにお金を出せないのですか』と聞かれたとき、私は『だめだ!』と、そしてもう一度『だめだ!』と言った。誰でも、シオニズムの活動を最重要ではないことに向けさせていく動きには抵抗すべきである。」1943年2月24日に、米国ユダヤ人会議議長で米国シオニストのリーダーであったステファン・ワイズ(Stephen Wise)は、この提案への公式な反対を発表しどのような資金集めも正当とは見なされないことを宣言した。1944年にユダヤ人救出緊急委員会が米国政府に戦争難民規定を確立させるように呼びかけた。ステファン・ワイズは議会の特別委員会で証言しこの提案に反対した。

 上記の交渉の過程で、最初の「ユダヤ人国家元首」となるチャイム・ワイツマンは述べた。「ユダヤ人国家の最も重要な部分はすでにパレスチナにある。そしてパレスチナの外に住むユダヤ人は大して重要ではないのだ。」ワイツマンの共謀者であるグリーンバウムは、この宣言を拡大して次の所見を述べた。「パレスチナにいる1頭の牛はヨーロッパ中のユダヤ人よりも値打ちがある。」

 そしてそれから、ユダヤ人の歴史で最も苦しい出来事の後で、これらのシオニスト「政治家」たちはボロボロになった難民たちをDPキャンプに誘い込んで飢えと欠乏の中に止めた。そして、彼らの国を建設する目的以外では、パレスチナ以外のどのような場所にも移動することを禁止した。

 1947年に議員のウイリアム・ストレイション(William Stration)は40万人の移民が米国に入るための費用を緊急に与える議案を提出した。その議案は、シオニストのリーダーたちによって公に非難された後、議会を通過しなかった。

 これらの事実は驚愕と耐えがたい恥辱をもって読まれる。この戦争の最終段階の間にこれがどうやって説明できただろうか。そのときナチスはお金と引き換えに取引を望んでいたのだ。その一つの理由は、彼らがユダヤの影響下にあると信じていた西側勢力との接触を確立したいという強い願望であった。あの自称「ユダヤ人指導者」たちが自分たちの兄弟の最後の生存者を救うために全く指一つ動かそうともしなかったことについて問うことが、どうやって可能だったろうか。

 1956年2月23日J.W.ピッカースギル(Pickersgill)移民局長官がカナダ下院で「ユダヤ人難民に対してカナダのドアは開かれるだろうか」と質問を受けた。彼は「政府はこの方面に関しては何の前進もしてこなかった。なぜならイスラエル政府が、・・・、我々がそうすることを望まないからだ。」

 1972年にシオニスト指導者は、米国議会が2万〜3万人のロシアからの難民が米国に入ることを許可する努力に反対してうまくそれを潰した。ユダヤ人救済組織は、HIAS(the Hebrew Immigrant Aid Society)と共に、ウイーン、ローマや他のヨーロッパの都市にいる難民たちを見捨てるように圧力をかけられていた。

 そのパターンははっきりしている!!!  人間的な救助の努力は壊滅させられ偏狭なシオニストの利益に変えられたのだ。

 「ユダヤの政治家たち」として知られているこれらのあさましい堕落者どもによって犯されたショッキングな犯罪行為がもっともっとある。我々は他の多くの例もリストに挙げることができるだろう。しかし当面の間は上記の事実に対する適当な言い訳を誰にでも言わせておこう。

 ホロコーストに対するシオニズムの責任は3重である。
1. ホロコーストは「三つの誓約」を軽視したことに対する懲罰であった。(タルムードのTractate Kesubos p. 111aを見よ。)
2. シオニスト指導者たちは、彼らの兄弟と姉妹たちを惨い死から救うための、経済的そしてその他の援助を、あからさまに押し止めた。
3. シオニスト運動の指導者たちはヒトラーとその共謀者たちに、多くの機会に多くの方法で協力した。


 [シオニストたちはヒトラーとの軍事同盟を提案する]

 シオニスト運動の指導者たちが死にかけている兄弟、姉妹たちの苦境を無視してふんぞり返っていたということが宣言されるのであれば、それは望ましいことなのだろう。彼らは公にその救出の援助を拒否しただけでなく、彼らはヒトラーとナチ政権に積極的に参加したのだ。

 1935年の初期に、一つの客船がドイツの港ブレメルハーヴェン(Bremerhaven)の港からパレスチナのハイファに向けて出航した。その船尾にはヘブライ語で「テルアヴィヴ」の名前が書かれており、マストには鍵十字の旗がひらめいていた。そして、その船がシオニストの所有であるにも関わらず、その船長は国家社会主義(ナチ)のメンバーだった。何年も後になってその船の乗客の一人が、このシンボリックな連携を「形而上学的な不条理」だった、と思い出した。不条理か否かはともかく、これは歴史の中でほとんど知られていない箇所の挿絵などではないのだ。シオニズムとヒトラー第3帝国の間には幅広い協力が存在した。1941年1月の初旬、ある小さいが重要なシオニストの組織が、ベイルートでドイツの外交官たちに対して、戦時下のドイツとの政治・軍事同盟を公式な申し出を提起した。この提案はラジカルな地下組織『自由イスラエル戦闘団(Fighters for the Freedom of Israel)』によってなされたものだった。これはレヒ(the Lehi)あるいはスターン・ギャング(Stern Gang)としてより有名である。そのリーダーはアヴラハム・スターン(Avraham Stern)であり、その以前に、ラジカルなナショナリストである『国民軍事組織("National Military Organization" (Irgun Zvai Leumi - Etzel))と英国に対する態度をめぐって対立・分派したものである。英国はパレスチナへのこれ以上のユダヤ移民を上手に禁止していたのだった。スターンは英国をシオニズムの最大の敵だと見なした。

 この注目すべき「ヨーロッパにおけるユダヤ人問題の解決、およびこの戦争でドイツ側へのNMO(Lehi)の積極的な参加のための」提案は、ある長さで引用する値打ちがある。すなわち、

 『ドイツ国内におけるシオニスト活動およびシオニストの移民計画に対するドイツ帝国政府とその首脳たちの好意に極めて精通するNMOは、以下のような見解を持つ。すなわち:1.ドイツのコンセプトに基づいたヨーロッパの新秩序と、NMOによって体現されるユダヤ人の国家的熱望との間には、共通の利益が存在する。2.新たなドイツと刷新された民族国家としてのユダヤとの間に協力が可能である。3.国民的・全体主義的な基盤に立つユダヤ国家の確立と、ドイツ帝国との条約によるつながりは、近東地域における将来のドイツの軍事的地位を維持し強化するという利益に含まれるであろう。』

 『これらの認識に基づいて、そしてドイツ帝国政府が上に述べたイスラエル自由運動の国家的願望を認めるという条件に基づいて、NMOはパレスチナにおいてドイツ側に立ってこの戦争に積極的に参加することを申し出る。』

 『このNMOによる提案は、パレスチナにおける軍事面、政治面、そして情報活動面を含むものであり、ある組織的な処置の後にはその外部でも行われる。これに伴って、ヨーロッパの「ユダヤの」男たちはNMOの指導と命令の元に軍事的に訓練を受け軍隊に組織化されるだろう。彼らはパレスチナ征服という目的のための戦いに参加するだろうし、そのような前線が形作られるべきである。』

 『このヨーロッパ新秩序へのイスラエル自由運動の間接的な参加は、すでに準備段階に入っているのだが、上に述べたユダヤ民族の国家的願望の基盤に立ったヨーロッパ・ユダヤ問題の積極的で抜本的な解決と結び付いており、あらゆる人間の視点でこの新秩序の道徳的な基礎を大きく強化するだろう。』

 『このイスラエル自由運動の協力はドイツ帝国相当による最近の演説とも一致するものであろう。その中でヒトラーは、英国を孤立させ打ち破るためにあらゆる連携と共闘を利用するであろうと強調した。』

 (このドイツでの原文資料はAuswertiges Amt Archiv, Bestand 47-59, E224152および E234155-58である。完全な原文テキストは次で出版された。: David Yisraeli, The Palestinian Problem in German Politics 1889-1945 (Israel: 1947) pp. 315-317)

 その民族排外主義、国家主義についての類似したイデオロギーを基盤にして、国家社会主義者とシオニストたちは、各々が自分たちの国家的な利益になると信じることのために共に働いた。

 これは、パレスチナの小さな土地への支配権を手に入れる目的のために、シオニスト運動が行ったヒトラーへの協力の一例に過ぎない。

 そして何よりも悪いことは、洗脳である!

 この信じがたいシオニストの陰謀がどれほどユダヤ人大衆を虜にしてきているか、そして他の異なる考え方が彼らの心に入っていくのがいかに困難であるか、ということは、どのような批判に対しても、ほんのわずかの評価への指摘に対してさえも、彼らが示す気違いじみた反応の中に見て取ることができる。盲目の目と閉ざされた耳をもって、我々の抵抗と告発の中で示されるいかなる声もすぐさま押さえつけられ黙らされてしまう。何千回も響くの『裏切り者』『ユダヤ人の敵』という叫びによって。

 【翻訳終り】


 バルセロナより愛を込めて氏の2005.5.13日付け投稿「シオニズムと対決するユダヤ人たちからの翻訳:『イラクのユダヤ人』(第1部)」を転載しておく。

 「シオニズムと対決するユダヤ人たち」からの翻訳:『イラクのユダヤ人』(第1部)

 (写真はニューヨークをデモする「正統派ユダヤ教徒」たち:『「イスラエル」国家は異端、人殺し、泥棒』『神殿の丘への侵入はユダヤ教では禁止されている』『ユダヤ教はシオニズムを拒否する』といった文字が見られる。)
 http://www.nkusa.org/activities/Demonstrations/nyc050605/IMG_0065.jpg

 【シオニズムとユダヤ研究の一助として・・・】


 今から60年近く前、イラクには2600年前のバビロン捕囚のころからの由緒正しいユダヤ人たちが多く住んでいました。シオニズム・テロリストたちは彼らを脅しや殺人、特に「シオニストの爆弾」と呼ばれる爆弾テロを使って、騙してイスラエルに連れて行きました。そこで彼らを待っていたものは、アシュケナジ・ユダヤによる「カースト制度」、細菌攻撃を含むあらゆる残虐な手口でパレスチナ人を殺し追い払う、現実のイスラエルの姿でした。

 今回ご紹介する話は、1940年代後半から50年代前半にかけてイラクで同胞をイスラエルに追い立てた元シオニズム地下活動家による「内部告発」、苦渋に満ちた回想です。ただし原文は非常に長いので、4回ほどに分けて投稿させていただきます。

 もし訳文の中で誤訳や不適切な訳などを発見された際にはご遠慮なくご指摘ください。

 (参照)
 http://www.asyura2.com/0505/war70/msg/257.html
 「シオニズムと対決するユダヤ人たち(Jews Against Zionism)」からの翻訳(1)
 (およびそのレス・フォロー投稿)

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 http://www.jewsagainstzionism.com/zionism/impact/iraqijews.cfm

 イラクのユダヤ人   by Naeim Giladi


 一人のイラク系ユダヤ人が、イスラム諸国からイスラエルに来たユダヤ人たちが決して喜んで移住したのではなかった、という、シオニスト活動家たちについての話を語る。強制的に立ち退かすためにユダヤ人がユダヤ人を殺した。そしてより多くのアラブの土地を没収する時間を稼ぐために、ユダヤ人たちは数多くの機会をつかんで、アラブの隣人たちから与えられた本来の平和の主導権をはねつけた。

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 私はこの記事を、私の本を書いたのと同じ動機で書く。米国の人々に、そして特に米国のユダヤ人たちに、イスラム諸国から来たユダヤ人たちが決して喜んでイスラエルに移住したのではないことを語るためである。強制的に立ち退かすためにユダヤ人がユダヤ人を殺した。そしてより多くのアラブの土地を没収する時間を稼ぐために、ユダヤ人たちが数多くの機会をつかんでアラブの隣人たちから与えられた本来の平和の主導権をはねつけた。私は初代のイスラエル首相が『残酷なシオニズム』と呼んだことについて書く。私は、私がその一部だったからこそ、それについて書く。

 私の話

 もちろん私は、自分がそのときそれをすべて知っていると思っていた。私は若い理想主義的な、そして私の信念のために喜んで命を危険にさらすことも平気な人間だった。イラク当局者が私を捕らえたのは、1947年、私はわずかに18歳にもなっていなかった。私は、私同様の若いユダヤ人をイラクからイランに「密輸」した容疑である。彼らはそこから、じきにイスラエルとして確立される約束の土地に運ばれるのである。

 私はシオニストの地下活動に携わるイラク系ユダヤ人だった。イラクの刑務官たちは、私の同志の名前を聞き出すためならどのようなことでもした。50年後になっても、その痛みは私の右のつま先を走る。これがこの拘束者がプライヤーを使って私の足の爪を剥がした日を思い出させる。別の場合には、彼らは私を監獄の床に引きずり出し、凍える1月の日に私を裸にしてそしてバケツの冷たい水を私にかけた。私は鎖につながれて何時間もそこに放っておかれた。しかし私は一度も彼らのほしがる情報を彼らに与えなかった。私は本物の信念の持ち主だった。

 自分で「2年間の地獄」と呼ぶ期間に私が関心を持ったことは、生き延びることと逃亡することだった。私はそのときにはイラクでのユダヤ人の歴史を、たとえ私の家族が最初からその一部であったにしても、一掃してしまうことに注意を払わなかった。我々は元々はHaroons、つまり「バビロンの離散」の大きく重要な一族だった。私の先祖は、2600年以上も前に、キリスト紀元の600年前、イスラム紀元の1200年前に、イラクに定住した。私は、聖書以前の時代のユダヤ預言者であるYehezkelの墓を建てたユダヤ人の子孫である。私が1929年に生まれた町はHillahであり、古代のバビロンの場所からさほど離れていなかった。

 元々のユダヤ人たちは、豊かなチグリスとユーフラテスを持つバビロンを、本当にミルクと蜂蜜と、そしてチャンスにあふれた土地だと分かった。ユダヤ人たちが、イラクにやってきた他の少数民族と同様に、時の権力者次第で抑圧と差別の時代を経験したにも関わらず、彼らの2500年間の軌跡は概して上向きであった。例えば後期オスマンの支配下で、ユダヤ人社会と宗教施設、学校と医療施設は何の妨害も無しに栄えた。そしてユダヤ人たちは政治と経済で重要な位置にいた。

 死刑の宣告がじきに下されるとも気付かずに独房に座っていたとき、私は私の家族が政府やイスラムの有力者に対して申し立てたであろう個人的な請願を列挙して言い立てることなどありえなかったかもしれない。私の家族は良い待遇を受け繁栄していた。まず5万エーカーほどの土地で米とナツメヤシとアラブ馬を育てていた。次に、オスマンの元で我々は金を買って精錬し、それはイスタンブールに運ばれて貨幣となった。トルコ人たちは我々の職業から実際に我々の名前を変える責任を負った。我々は「純金作り」という意味のKhalaschiになった。

 私はシオニスト地下運動に加わったことを父には話したくなかった。彼は私が逮捕される何ヶ月も前に、私がヘブライ語を書き彼にとって見慣れない言葉と表現を使っているのを見たとき、それを悟った。彼はそれを、そう、私が自らイスラエルに向かう決意をしたことを知って非常に驚いた。彼はさげすんだ。「お前はすぐに尻尾を巻いて戻ってくるだろう。」そう預言した。

 1940年代の後半から1952年にかけて、およそ12万5千人のユダヤ人がイラクを去ってイスラエルに向かった。その大部分が騙されて、また、これは私が後に知ることになるのだが、シオニストの爆弾によるパニックに引きずられて、であった。しかし私の父と母は決してイスラエルに行かなかった6千人の中にいた。肉体的には私は二度とイラクには戻らなかったし、私とイラクを結ぶ橋はことあるごとに焼き払われたが、私の心は何度も何度もそこに旅をしている。父は正しかった。

 私はバグダッドから7マイルほど離れたAbu-Greibの軍基地に囚われていた。軍法会議が私に絞首刑の判決を下したとき、私にとっては脱獄することによって失うものは何も無かった。私はもう何ヶ月も計画を練っていたのだ。

 それは脱獄のための奇妙なレシピだった。バターの一塗り、オレンジの皮、そして私が友人に蚤の市で買ってくれるように頼んだ軍服だった。私が18歳になる日の前までに、脂肪をつけるために私はわざとできる限り多くのパンを食べた。18歳になれば彼らは正式に私を罪人として、通常の囚人と同様に50ポンドの鉄球と鎖で拘束できたのである。

 そして私の足に鉄枠がはめられた後、しばしばくじけそうになったが、私は食事をとらずに飢えてやせていった。一塗りのバターは鉄枠から私の足を抜けさせるための潤滑剤となった。オレンジの皮は脱獄計画の夜に私がこっそりと鍵にはさんでおいた。どのようにそれを入れればこのように鍵を閉じないようにできるかを研究していたのである。

 看守が鍵を閉めて戻って行ったとき、私は古い軍服を着た。それは彼らが着ているものと見分けがつかないもので、長い緑色のコートと編み上げ帽でありそれを顔を覆うように引き下げた(そのときは冬だった)。そして私は静かにドアを開け交代の兵士が広間を降りて外に出るときにその中に紛れ込み、立ち去るときに衛兵に「おやすみ」と声をかけた。そして車で待っていた一人の友人が私を大急ぎで連れ去ったのだ。

 その後に私は新しい国イスラエルに向かい1950年5月に到着した。私のパスポートにはアラビア語と英語で私の名前が書かれてあった。しかし英語では"kh"の発音が表せないため単純にKlaskiと訳されていた。国境線で移民たちは英語版を用いたのだが、その名前には東ヨーロッパのアシュケナジであるかような響きがあった。ある意味でこの「ミステイク」が、イスラエルのカースト制度がどのように機能しているのかを、じきに私が発見する鍵となった。

 彼らは私に、どこへ行きたいのか、そして何をしたいのかを尋ねた。私は農民の息子であった。私は農業についてのあらゆる問題に通じていた。そこで私はガリラヤの奥にある農業キブツであるDafnahに行くことを志願した。私は2,3ヶ月しかもたなかった。新たな移民たちはすべての面で最悪のものを与えられた。食べ物もそうだが、それは唯一誰にでも共通な普通のことだった。しかし移民たちには悪質なタバコ、よりひどい歯磨き粉が与えられた。私はそこを去った。

 次に、ユダヤ機関によって、私はガザから9マイルほどにある地中海に近いアラブ人の町al-Majdal(後にAshkelonと改名されるが)に行くように勧められた。イスラエル政府はそこを農業としに変えようと計画していたのだ。そこで私の農民としてのバックグラウンドが値打ちを持つと思われた。

 私がal-Majdalの労働局に書類を提出したとき、彼らは私がアラビア語とヘブライ語を読み書きできると知り、そして私に、軍事長官の役所で給料の良い仕事が見つかるだろうと言った。アラブ人たちはイスラエルの軍事長官たちによって支配されていたのだ。一人の事務員が私にアラビア語とヘブライ語で書かれた書類の束を手渡した。そして私には事の意味が分かり始めた。イスラエルがその農業都市を作り上げる前に、元から住んでいたパレスチナ人たちをal-Majdalから追い出さなければならなかった。これらの書類は、イスラエルからガザへの移住を求める、国連の査察官に対する請願だった。ガザはエジプトの支配下にあった。

 私はその請願に目を通した。そのパレスチナ人は、彼は心身ともに健康であり圧迫と苦しみから逃れて移住できるように要求している様子であった。もちろん彼らが出て行くように圧力をかけられなければそこを離れることはありえない。これらの家族は何百年間も、農民として、昔風の職人として、紡ぎ手として、ここに住んでいたのだ。軍事長官は彼らの生活のつてを求めることを禁止し、彼らが普通の生活を過ごせる希望を失うまで封じ込めておいた。こうして彼らは立ち去ることに同意のサインをしたのである。

 私はそこにいて彼らの嘆きを聞いた。『私たち自身の手で植えたオレンジの木を見るたびに私たちの心は痛みます。どうか私たちを行かせてこれらの木に水を与えさせてください。神はもし我々が立ち去ったらお喜びにならないでしょう。彼の木が世話をされないからです。』私は軍事長官に彼らを解放するように頼んだが、彼は「だめだ。我々は彼らをここから立ち去らせたいのだ。」と答えた。

 私はもはやこのような抑圧の一部となっていることができなかった。私は立ち去った。移住を拒むパレスチナ人たちは軍によって捕らえられ、トラックに詰まれゴミのようにガザに放り込まれた。4千人もの人々がal-Majdalからあちこちに追い払われた。イスラエル当局者に協力するものがわずかに残っただけである。

 その次に、私はどこかで政府の仕事を手に入れるために手紙を書いた。そしてすぐに面接に来るように求める多くの返事が戻ってきた。そして彼らは常に、私の顔がポーランド/アシュケナジ的な名前【Klaskiという英語つづり:注釈】と一致しないことを発見した。彼らは私にイーディッシュ語かポーランド語をしゃべるかと尋ねた。そして私ができないと答えると、彼らは私のポーランド的な名前がどこから来たのか聞いた。良い仕事が絶望的になると感じながら、私はいつも私のひいじいさんがポーランドから来たと思うと答えたものだった。私は常に「また後で電話する」と言われただけだった。

 結局、イスラエルに来てから3年か4年たって、私は名前をGiladiに変えた。この名前は私がシオニスト地下活動をやっていたときに持っていたコード・ネームであるGiladに近いものである。Klaskiの名前は私にとって何も良いことは無く、そして私の東欧出身の友人たちは、この名前が私のイラク出身のユダヤ人である出自と合わないことを、いつもなじっていた。

 私はこの約束の地で発見したことに失望した。一人の人間として失望し、制度として確立された人種主義に失望し、そして私が知り始めたシオニズムの残虐さに関して失望した。イスラム諸国からやってきたユダヤ人に対してイスラエルが持っている第一の関心事は、安い労働力の供給であった。特に、都会化された東ヨーロッパ出身のユダヤ人の下に位置する農業の労働力であった。ベン・グリオンは、1948年にイスラエル軍によって追い払われたパレスチナ人が残した何千エーカーもの土地を耕すために、"Oriental"のユダヤ人【アラブ諸国出身のユダヤ人を指す:訳注】を必要としたのだ。

 そして私は、この生まれたばかりの国からできる限り多くのパレスチナ人を取り除くのに使われた、野蛮なやり口を知り始めた。世界は現在、細菌戦争を考えてしり込みしているが、しかしイスラエルこそがおそらく中東で最初にこの方法を使っただろう。1948年の戦争で、ユダヤの軍はアラブの村々の人口を空白にしていった。しばしば脅迫によって、時には見せしめとして数名の丸腰のアラブ人たちを銃で殺すことによって。そしてアラブ人たちがこれらの村で新たな生活のために戻ることを確実にできなくするために、イスラエル人たちは井戸の中にチフスと赤痢の細菌を放り込んだのである。

 イスラエル防衛軍の公式歴史記録者の一人であるUri Mileshtinは、バクテリア性の武器を使用したことについて書き、また話している。Mileshtinによると、当時の師団長Moshe Dayan【メイア政権の時の国防相:訳注】1948年にアラブ人を彼らの村から取り除くために彼らの家をブルドーザーで押しつぶし、そしてチフスと赤痢の細菌を使って井戸の水を使えなくした。

 Acre【現在はAccoあるいはAkkoとつづる地中海岸の町:訳注】は実際に一つの大砲で守ることができる絶好の位置にあった。そこでHaganah【イスラエルの自衛軍:訳注】はその町を潤す水源の中にバクテリアを放り込んだ。その水源はCapriと呼ばれあるキブツに近い北の方から流れてきていた。Haganahはチフス菌をAcreに向かう水の中にまき、人々は病気にかかり、そしてユダヤ軍がAcreを占領した。この作業が非常にうまくいったので、彼らはHaganahの1部隊にアラブ人の服を着せてガザに送り込んだ。そこにはエジプトの軍隊がいたのだが、エジプト人たちは、彼らが一般住民のことを不当にも無視して、2つの缶に入ったチフスと赤痢のバクテリア水源に放り込んでいるところを逮捕した。「戦争では感傷は無用だ」これが、一人の逮捕されたHaganahの一人が言った言葉である。

 私のイスラエルでの政治行動は私が社会主義/シオニスト政党からアラブ語の新聞読解を手伝ってくれるようにという手紙を受け取ったすぐ後から始まった。私がテル・アヴィヴにある中央本部のオフィスを訪れたときに、私はどの部屋に行くべきなのかを尋ねて回った。私が2名の人にその手紙を見せると、彼らはそれを見ることもせずに、次の言葉で私に出て行くように合図するだけだった。「8号室だ」。彼らが手紙を読むこともしないのを見たときに、私は他の多くのことを質問した。しかし返事は同じだった。「8号室だ」。私が彼らの目の前に置いた書類をチラッとでもみることすらなかった。

 そこで私が8号室に行ってみると、そこはイスラム諸国出身ユダヤ人用の係であった。私は嫌悪し怒った。私がその党のメンバーであろうとなかろうと。私がアラブ系のユダヤ人だから異なった思想や政策を持っている、とでもいうのか? これは、黒人用の係と同様の人種隔離だ、と私は考えた。私は後ろを向いて歩いて出て行った。それが私のおおっぴらな抵抗の始まりだった。同じ年に私はAshkelonでベン・グリオンの人種主義政策に反対するデモを組織した。そして1万人が街頭に出た。

 イスラエルが外の敵との戦争を続ける間は、2級国民である我々にはこれ以上のことをする機会は多くなかった。1967年の戦争の後、私は陸軍に志願し、スエズ運河近辺で戦闘が続いているときにシナイ半島で軍務に着いた。しかし1970年のエジプトとの戦争の終了が我々の活動を開始させた。我々は街頭に繰り出し同等の権利を要求して政治的にまとまった。もしここが本当に我々の祖国なら、もし我々が国境での戦争で命をかけることを求められるのなら、我々は同等の処遇を求める、と。

 我々が非常に粘り強く闘い多くの人気を得たため、イスラエル政府は我々を『イスラエルのブラック・パンサー』と呼んで、我々の運動の信用を落とそうと試みた。彼らは、イスラエルの世論が米国での黒人過激主義者のもの同種の思想を持つ組織を拒否するであろうと計算しながら、実際に人種主義の言葉で考えていたのだ。しかし我々は、我々のやっていることが、米国で黒人たちが人種隔離と差別と不平等な扱いに対抗して戦っていることと、何の違いも無いことを知っていた。そのレッテルを拒否するかわりに、我々はそれを誇り高く採用した。私はマーティン・ルーサー・キング、マルコムX、ネルソン・マンデラとその他の公民権活動家のポスターを、私の事務所中に貼った。

 イスラエルのレバノン侵略とイスラエルによって起こされたサブラとシャティラの大虐殺【1982年にシャロンの命令で行われたパレスチナ難民に対する襲撃で3千人が虐殺された事件:訳注】を見て、私はイスラエルはもう御免だ、と思った。私は米国市民となりイスラエル国籍を放棄した。私はイスラエルで本を書いて出版したことは無かった。彼らが課した検閲のためにできなかったのだ。

 米国内でさえ出版社を見つけることが非常に難しかった。多くの出版社にはイスラエルとその友人たちからの様々な種類の圧力がかけられているからである。私は「ベン・グリオンの恥辱(Ben Gurion's Scandals)」を出版するのに自分のポケットから6万ドルを出すはめになった。それは、Haganahとモサドがどのようにユダヤ人を殺したのか、という本だが、イスラエルで私の家を売り払った収入のすべてに当たる金額をつぎ込んだ。

 私はずっと、印刷会社が戻してくるのではないか、または法的な手続きが出版を差し止めるために行われるのではないか、と恐れていた。ちょうどイスラエル政府が、元モサド情報員のVictor Ostrovskyがその最初の本を出す際にそれを食い止めようと試みて行ったように、である。「ベン・グリオンの恥辱」は二つの言語から英語に翻訳しなければならなかった。私がこの本をイスラエルで出版したいと願ったときヘブライ語で書いた。そして私がこの本を米国に来てから完成させる際にはアラビア語で書いた。しかし私は何かがその出版を止めさせるのではないかと非常に心配だったので、印刷会社には翻訳が完全にチェックされ構成されるのを待たないようにと言った。今になって私は、訴訟の公示がこの本に対する興味をかきたてるだけだったのかもしれない、と気付いている。

 私は書いたものを裏付ける大切な文書を保管するために銀行の金庫を使っている。これらの文書にはYad Vashemの資料から非合法にコピーしたものもいくつかあるが、私自身が見たこと、私が他の証人から聞いたこと、そして著名な歴史家や他の人たちが書いたことを裏付けるものである。それは、イスラエルをつくるという目的で行われた、イラクにおけるシオニストの爆弾攻撃、アラブの平和復活に対する拒絶、そしてユダヤ人によって起こされたユダヤ人に対する暴力と殺人事件に関する事柄なのである。

 (続く)

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 Jews Against Zionism(Torah-True Jews) ホームページ
 http://www.jewsagainstzionism.com/

 (他の反シオニスト・ユダヤ運動のホームページ)
 NETUREI KARTA AROUND THE WORLD
 http://www.nkusa.org/index.cfm


 バルセロナより愛を込めて氏の2005.5.18日付け投稿「訳者からの注釈:シオニスト、そしてアシュケナジとセファラディについて」を転載しておく。

 訳者からの注釈:シオニスト、そしてアシュケナジとセファラディについて


 ユダヤ人には大きく分けて、ハザール王国(11世紀〜12世紀ごろにカスピ海から黒海沿岸にかけて存在した国)出身のアシュケナジと、本来のユダヤ人(セム族)であるセファラディの2種類あること、そしてイスラエルの支配民族がアシュケナジであることは、すでに多くの人がご存知でしょう。今回翻訳した文章にもその点が強調されています。

 しかしセファラディにも、1世紀にローマ帝国によってパレスチナから追われたユダヤ人と、それ以前にすでに各地に散っていたユダヤ人たちがいます。この「イラクのユダヤ人」の作者であるNaeim Giladiの先祖は、本文にもあるように、バビロン捕囚の時期からその地に住み着いた人たちです。(ユダヤ人の中には終に日本にまで流れ着いた者がいるという話もありますが、ここではそれには触れません。)

 さらに言いますと、イスラエルを作った者たちは、断じて!ヨーロッパでナチから厳しい弾圧を受けたユダヤ人(アシュケナジ)などではなく、前回の投稿にもあった通り、ベン・グリオン、ゴルダ・メイアなど、ナチと手を組んで多くのユダヤ人(アシュケナジ)を塗炭の苦しみに遭わせた者たち、シオニストです。

 この歴史から言えば、アシュケナジがほとんどであるシオニストどもが「セム」を名乗ること、そして彼らがanti-Semitismを叫ぶこと自体が奇妙なわけです。またこのanti-Semitismを日本語で「反ユダヤ主義」と訳すことにも重大な問題があるでしょう。

 イスラエルこそが本当の意味でのanti-Semitistの国なのです。こんなトリックが見抜けないようでは救いようがありません。

 シオニストは徹底した残虐さと貪欲さを兼ね備えた、まさに人非人どもであり、徹底した嘘つきたちです。彼らの言動のすべては嘘と残虐さに貫かれており、一点たりとも耳を貸してはならないでしょう。欧州人は腹の底では大概がこのことを知っています。表に出すとひどい目にあわせられることが分かるために、普通は何も言わないだけです。

 「ユダヤ人差別」どころか、ユダヤ人(シオニスト)こそがヨーロッパ人を差別し抑圧しているのです。私はこの点を特に強調しておきます。無知なくせに根っから人の好い日本人が、何も知らずに彼らの言葉に、ほんのわずかでも耳を貸すことを、私は非常に心配しています。まして喜んで「差別されるユダヤ人の味方」ヅラをする一部の日本人を、私は本心から、心の底から軽蔑しています。

 もちろん、前回に投稿しました『ホロコーストにおけるシオニズムの役割』という文章の中で、シオニズムに反対したユダヤ人として紹介されているジョエル・テイテルバウム(Joel Teitelbaum)大ラビはハンガリーの出身ですから、アシュケナジに反シオニストがいることは明らかですし、いろんな写真を見てもシオニズムに反対するユダヤ人たちの顔はやはり白人系のアシュケナジが多いように見えます。ただしこの運動の中でのアシュケナジとセファラディの関係は不明です。

 私はサッカーの欧州杯やワールドカップ予選などでイスラエルのサッカー選手を見る機会があるのですが、明らかにアラブ系(セム人)の顔をしています。サッカーは基本的に下層階級のスポーツであり、彼らがイスラエルのカーストの下層にいるセファラディであることははっきりしています。(ただし、例のロスチャイルド家はセファラディのようですが。)

 ただ、セファラディにしても次のことは明らかです。欧州のキリスト教諸国でのユダヤ人迫害の原因には、ローマ教会の反ユダヤ主義もあったのですが、それ以上に、彼らが経済力を武器にして各国の支配階級と結びついていたことが、貧しい下層庶民の反感を呼んだ、という面を強く持っているのです。この点については冷静に判断すべきでしょう。


 バルセロナより愛を込めて氏の2005.5.20日付け投稿「シオニズムと対決するユダヤ人たちからの翻訳:『イラクのユダヤ人』(第2部)」を転載しておく。

 「シオニズムと対決するユダヤ人たち」からの翻訳:『イラクのユダヤ人』(第2部)

 写真は2004年3月27日に、パレスチナの旗を手にヤシン師の暗殺に抗議する「正統派ユダヤ人」たち(英国、Leicester)
 http://www.nkusa.org/activities/statements/LeicsterAhronCohen-Apr04_files/image001.jpg


 【シオニズムとユダヤ研究の一助として・・・】

 これはNaeim Giladi著『イラクのユダヤ人』の続編(第2部)です。

 第1部は
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 http://www.asyura2.com/0505/war70/msg/454.html
 「シオニズムと対決するユダヤ人たち」からの翻訳:『イラクのユダヤ人』(第1部)
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 (参照)
 http://www.asyura2.com/0505/war70/msg/257.html
 「シオニズムと対決するユダヤ人たち(Jews Against Zionism)」からの翻訳(1)
 (ホロコーストにおけるシオニズムの役割)


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 http://www.jewsagainstzionism.com/zionism/impact/iraqijews.cfm


 1941年の暴動

 私が言っているように、私のイラクの家族が個人的に迫害を受けているわけでもなく私が少数民族ユダヤ人メンバーとしての損失を受けてもいないのに、何が私をシオニスト地下活動のメンバーとして絞首台への階段に導いたのだろうか。その疑問に答えるために、1941年の6月にバグダッドで起きた大量殺人の文脈を確認しておく必要がある。そのときに何百人ものイラク・ユダヤ人が、イラク軍の下士官たちも参加した暴動の中で、殺されたのだ。私は12歳だった。そして私の友達が数多く殺された。私は怒り混乱した。

 私がその当時知らなかった点は、この暴動が英国によって画策された可能性が非常に高い、ということである。結果として親英国的なイラク指導部が生まれた。

 第1次世界大戦が起こりオスマン帝国が参加したことによって、イラクは英国の「保護」の元に入った。オスマンのスルタンに対するアラブ反乱を率いたシャリフ・フセイン(Sharif Hussein)の息子であるアミル・ファイサル(Amir Faisal)は、英国人によってメッカからつれて来られ、1921年にイラクの国王になった。多くのユダヤ人たちが経済大臣を含め多くの重要な閣僚に指名された。英国は内外の政策に関して決定的な権威を保持した。しかしながら、パレスチナにおける英国の親シオニスト政策は、イラクでの反シオニスト的な反動が広がる引き金となった。これは他のアラブ諸国でも同様である。1934年の終りにバグダッドの英国大使フランシス・ハンフェリーズ(Francis Humphreys)卿が次のことを書き残した。第1次大戦前にはユダヤ人たちは他のどの少数民族に比べても良い地位を手に入れていた。そのとき以来「シオニズムがユダヤ人とアラブ人の間の不和を植えつけてきた。そしてこの2つの民族の間にはかつては存在しなかった苦々しさが育ってきている。」と。

 ファイサル王は1933年に死んだ。彼の跡は息子のガーズィ(Ghazi)が引き継いだが、1939年に自動車事故で死亡した。王位はガーズィの4歳の息子ファイサル2世に継承され、叔父のアブド・アル・イラー(Abd al-Ilah)が摂政に指名された。彼は首相としてノウリ・エル・サイード(Nouri el-Said)を選んだ。エル・サイードは英国を支持し、反英感情が盛り上がると、英国からのイラクの独立を求める軍の4人の士官たちによってその地位を追われた。彼らは自らを「黄金の四角形」(the Golden Square)と呼んだが、摂政に対して、国民兄弟党(the National Brotherhood party)の党首であるラシド・アリ・アル・キラニ(Rashid Ali al-Kilani)を首相にするように迫った。

 時は1940年であり、英国は強力なドイツの攻撃に苦しめられていた。アル・キラニと「黄金の四角形」は、英国を追い出してしまうチャンスだと思った。彼らは慎重にドイツの援助を求めて交渉し始めた。そこで親英派の摂政アブド・アル・イラーは1941年1月にアル・キラニを解任した。しかし、4月までに「黄金の四角形」の士官たちはこの首相を復権させていたのだ。

 これが英国を刺激し、1941年4月12日に、英国はバスラに軍隊を送った。バスラはイラク第2の都市であり、ユダヤ人人口は3万人であった。大部分のユダヤ人たちは輸出入、換金業、小売業、空港や鉄道、港の職員、あるいは上級の国家公務員として生計を立てていた。

 その4月12日に、親英派の摂政支持者たちはユダヤ人の指導者たちに、摂政が合いたがっていると伝えた。ユダヤ指導者たちは彼らの習慣に従って摂政に贈る花を持って行った。ところがその習慣とは裏腹に、彼らを会合の場所に運ぶはずだった自動車は、英国軍が集合している場所に彼らを降ろした。

 次の日の新聞には、そのユダヤ人たちの写真が『バスラのユダヤ人たちは英国軍に花を贈る』という見出しと共に、掲載されることとなった。その4月13日に、怒ったアラブ人の若者たちは、ユダヤ人に対する報復攻撃を始めようとした。バスラの多くのイスラム指導者たちがその計画を聞き事態の沈静化に務めた。後になって、この摂政がバスラにはいなかったこと、そして、このことが彼の親英派の支持者たちによって英国軍に介入の口実を与える民族間戦争を引き起こすための挑発であったことが、明らかにされた。

 英国はバスラの周辺により多くの軍隊を集め続けた。1941年5月7日に、インド人兵士から成るグルカ(Gurkha)部隊が、バスラのエル・オシャール(el-Oshar)地区を占拠した。そこはユダヤ人たちが多く住んでいる地域のそばだったのである。英国人士官に率いられた兵士たちは強奪を開始した。商業地域の多くの商店が略奪を受け、個人の住宅は押し入られた。レイプの報告も為された。地域の住民たちは、ユダヤ人もイスラム教徒も、ピストルと古いライフルで応えたが、その弾丸は兵士たちのトミー銃の敵ではなかった。

 後になって、その兵士たちは、喜んでというよりらいやいやながらでも、英国の司令官の命令で動いたことが分かった。(インド兵は、特にグルカ部隊は、規律の厳しいことで有名であり、命令無しで暴動のように振舞うことなどほとんどありえなかった。)英国の目的は明らかにカオス状態を作り出してバグダッドの親ナショナリスト政権のイメージを貶めることにあった。それによって英国軍が首都に進軍しアル・キラニ政府を打ち倒す理由を得ることであった。

 バグダッドは5月30日に陥落した。アル・キラニは「黄金の四角形」の士官たちと共にイランに逃げた。英国によって経営されるラジオ局は、摂政アブド・アル・イラーがこの都市に戻ってくること、そして何千人ものユダヤ人たちなどが彼を歓迎する計画をしていることを知らせた。しかしながら、ユダヤ人に対して若いイラク人たちをもっと怒らせたのは、ドイツのラジオ局ベルリンのアナウンサーであるユナス・バアリ(Yunas Bahri)であった。彼はアラビア語で、パレスチナのユダヤ人たちが英国人に伴われてファルージャ(Faluja)市の近くでイラクに対して戦っている、と告げたのであった。この報告は嘘だった。

 6月1日の日曜日にバグダッドで、シャボウツ(Shabuoth)を祝っていたユダヤ人たちと、それを親英派の摂政が戻ってくるのを祝っていると考えたイラクの若者たちとの間で、火器を持たない喧嘩が始まった。その夕方にイラク人たちのグループがバスを止め、ユダヤ人の乗客を放り出して、一人を殺しもう一人に瀕死の傷を負わせた。

 次の日の8時半に、30人ほどの軍人と制服警察官がエル・アメン街で銃を放った。そこは狭い下町の通りで宝石屋や仕立て屋、野菜屋などはユダヤ人が経営していた。午前11時までにはイラク人の暴徒が刀やナイフやこん棒を持ってその地域のユダヤ人の家を襲っていた。

 暴動は6月2日の月曜日も続いた。この間に多くのイスラム教徒たちがユダヤ人の隣人を守るために立ち上がった。一方で一部のユダヤ人たちは何とか守りきった。党にイラクにいたユダヤ人委員会の報告者によって書かれた記録によると、124名が死亡し400名が負傷した。他の推測では、やや信憑性に欠けるが、使者の数を500名、負傷者を600から2000名にまで増やしている。500ないし1300の店と1000以上の家やアパートが略奪された。

 誰がこのユダヤ人地区での暴動の背後にいたのか

 シオニスト地下運動の最も輝かしい活動家の一人でありィエホシャファット(Yehoshafat)として知られていたヨセフ・メイア(Yosef Meir)は、それは英国人だった、と主張している。メイアは、現在イスラエル防衛軍で働いているが、あの摂政が法と秩序を確立する救済者として戻ってくることを明確にさせるために、英国人がこの街で最も無防備で目に付きやすい部分であるユダヤ人を対象にして、暴動を煽り立てたのである。そして、別に驚くようなことではないが、その暴動は正規軍が首都に入ってくると同時に終了した。

 私自身のジャーナリストとしての経験は、メイアが正しいと私に思わせる。さらに言えば、彼の主張は、彼の本を出版したイスラエル防衛軍の資料にある記録に基づいているはずである。しかし、彼の本が現れる以前に、私は40年代後半にイラクで会った一人のイラン人から独自に確信を得ていたのだ。

 彼の名前はミッシェル・ティモシアン(Michael Timosian)、イラク系の米国人である。私が彼に会ったとき彼はイラン南部のアバダン(Abadan)にある英国とイラクの合弁石油会社で看護人として働いていた。しかし1941年6月2日に彼は、多くの暴動被害者が運ばれたバグダッドの病院で働いていた。被害者の大部分がユダヤ人だった。

 ティモシアンは、振る舞いが地元のものとは異なる2人の患者に特に興味を引かれた、と語った。一人は肩に、一人は右ひざに銃弾を受けていた。医者が弾丸を取り出した後で、看護人たちは彼らの血に染まった福を脱がそうとした。しかし二人は聾唖者のふりをして抵抗した。彼らの耳が聞こえることは確かめられていたのだが。彼らを静めるために医者は鎮静剤の注射をし、彼らが眠ったときに、ティモシアンはその服を着替えさせた。そして彼は、その一人が首に英国軍が使う形の識別票をつけており、もう一方が右腕にグルカの剣といっしょにインドの文字の刺青をしているのを発見した。

 次の日にティモシアンが仕事に着いたときに、一人の英国軍の士官と外科医、二人のインド人グルカ兵が朝早く病院にやってきたことを聞いた。看護人たちはグルカ兵が負傷者と話をしているのを聞いた。彼らはそのふりをしていたが聾唖者ではなかった。患者たちは訪問者たちに挨拶をし、シーツで身をくるみ、退院許可も取らずに訪問者と一緒に病院を去った。

 現在私の心の中では、1941年の反ユダヤ暴動は英国の地政学的な目的によって演出されていたということに疑いは無い。ダヴィッド・キムチェ(David Kimche)は間違いなく真実を知りうる立場にいた人間である。彼は公に英国の責任について語っている。キムチェは第2次世界大戦中には英国の情報機関と共におり、戦後はモサドにいた。後にイスラエルの外務省の総責任者となった。彼はその地位に就いた1982年に、ロンドンにある英国国際問題研究所の討論会で話をした。

 キムチェは、イスラエルのレバノン侵略とベイルートの難民キャンプでの殺戮に関する敵意に満ちた質問に答えて、英国のグルカ部隊が1941年にバグダッドの街で起きた500名のユダヤ人殺害に参加したとき、英国の外務省はほとんど関心を示さなかったことを聴衆に思い起こさせながら、反撃を続けたのだった。

 1950〜1951年の爆弾攻撃

 1941年の反ユダヤ暴動は、親英派摂政と彼の親英派首相ノウリ・エル・サイードを復権させるためにバグダッドに入る都合の良い言い訳を作ったばかりではない。それは同時に、パレスチナのシオニストたちにシオニスト地下運動をイラクに作り上げる格好の口実をもたらした。最初はバグダッドに、続いてバスラ、アマラ、ヒラー(Hillah)、ディワニーア(Diwaneia)、アブリル(Abril)、カルコウク(Karkouk)といった都市に、であった。

 第2次世界大戦に続いて、イラクでは短期間しか権力が続かない一連の引継ぎがあった。シオニストのパレスチナ征服、特にデイル・ヤシン(Deir Yassin)村でのパレスチナ人虐殺は、イラクでの反英運動を激化させた。1948年1月にイラク政府がロンドンで新たな友好条約を結んだとき、暴動が国中で起こった。条約はすぐに廃棄されバグダッドは27年間イラク軍を指揮していた英国の軍事使節の引き揚げを要求した。

 1948年のもっと後になって、バグダッドはシオニストと戦うためにパレスチナに分遣隊を送った。そして5月にイスラエルが独立宣言を行ったとき、イラクはハイファの製油所に石油を送っていたパイプラインを閉じた。しかしアブド・アル・イラーは相変わらず親英の売国奴であり、ノウリ・エル・サイードは首相に戻っていた。私は1948年にアブ・グライブ【原文ではAbu-Greibとなっている:訳注】刑務所にいた。1949年にイランに向けて脱出するまでそこにいたのだ。

 6ヵ月後、詳しい日付は1950年3月19日だが、バグダッドのアメリカ文化センター図書館で一つの爆弾が爆発し、施設の被害と多くのけが人を出した。その施設はユダヤ人の若者が好んで使っていた所だった。

 ユダヤ人に対する最初に直接の爆弾が投げられたのは1950年4月8日、午後9時15分のことだった。3人の若者を乗せた一台の自動車が、バグダッドのEl-Dar El-Bida【次の一語は文字化けのため判読できない:訳注】に手榴弾を投げつけたのである。そこではユダヤ人たちが過ぎ越しの祭りを祝っていたのである。4名が重傷を負った。その夜、ユダヤ人はすぐにイラクから出て行け、と書かれたチラシがまかれた。

 次の日に多くのユダヤ人たちが、その大部分は貧しく失うものは無かったが、市民権を捨ててイスラエルに向けて出国する許可を求めて、移民局に殺到した。実際にあまりにも多かったために警察はユダヤ人学校やシナゴーグに登録用の事務所を作らなければならなかった。

 5月10日午前3時、ユダヤ人が経営するベイト・ラウィ(Beit-Lawi)自動車会社のショーウインドーめがけて手榴弾が投げられ、建物の一部が破損した。死傷者は報告されなかった。

 1950年6月3日、イラクの大部分の上流・中流のユダヤ人が住むバグダッドのエル・バタウィン(El-Batawin)地区で別の手榴弾が走る車の中から投げられた。誰も怪我はしなかったが、この爆破のすぐ後でシオニスト活動家はエルサレムに向けて、イラクからの移民の割り当てを増やすように要請する電報を送った。

 6月5日の午前2時30分、エル・ラシド(El-Rashid)街にあるユダヤ人所有のスタンリー・シャシュア(Stanley Shashua)ビルの隣で爆弾が爆発したが、死傷者は出なかった。

 1951年1月14日午後7時、手榴弾がMasouda Shem-Tovシナゴーグの外で投げられた。爆発は高圧電線を直撃し、3名のユダヤ人、内1人は幼い少年のItzhak Elmacherであった、が感電死し、他の30名以上が負傷した。この攻撃の後で、ユダヤ人の脱出者数が1日に600人から700人に跳ね上がった。

 シオニストのプロパガンダ要員たちはいまだに、イラクでのこれらの爆弾がユダヤ人を追い出そうとした反ユダヤ・イラク人によって仕掛けられたものであると言い続けている。恐ろしい真実は、イラクのユダヤ人を殺し不具にし彼らの資産に被害を与えた手榴弾が、シオニスト・ユダヤの手によって投げられたものだった、ということである。

 私の本の中で最も重要だと思う資料は、ユダヤ人にイラクを去るように呼びかけるシオニスト地下活動者によって作られた二枚のビラである。一つは1950年3月16日、他は1950年4月8日の日付がある。

 これら二つの間に見られる相違は決定的である。どちらも出版の日付を書いているが、4月8日のものだけに「午後4時」と時刻が記されているのだ。なぜ時刻が書かれているのか? ここまでの詳細さは前例が無かった。捜査判事のサラマン・エル・ベイト(Salaman El-Beit)もこの疑問を見出した。「午後4時」を書いた者はその5時間後に起こるであろう爆破を知っていてそのアリバイがほしかったのか? もしそうなら、どのようにして爆破について知ったのか。判事は、シオニスト地下活動者と爆弾を投げた者との間に関係があったからこそ、彼らがそれを知っていた、と結論付けた。

 これはまた、中央情報局(CIA)の元上級局員であるウィルバー・クレイン・イーヴランド(Wilbur Crane Eveland)の結論でもあった。私は彼にニューヨークで1988年に合う機会があった。CIAがその出版に反対した本「砂のロープ(Ropes of Sand)」の中で彼は書いている。

 『イラクを反米として演出しユダヤ人を恐怖に陥れる試みの中で、シオニストたちは米国情報サービス図書館とシナゴーグに爆弾を仕掛けた。すぐにユダヤ人にイスラエルに逃げるようにせきたてるビラが現れ始めた・・・。後でイラク警察が我々の大使館【米国大使館:訳注】に、シナゴーグと図書館の爆弾、同様に反ユダヤと反米のビラ作戦が、地下活動中のシオニスト組織の手によるものであることを示す証拠を提供したにも関わらず、世界の大部分は、アラブ・テロリズムがイラクのユダヤ人に逃げ出す動機を与えそれをシオニストが「救った」、という報道を信じた。それは実際にはイスラエルのユダヤ人人口を増やすだけの目的だったのだが。』

 イーヴランドはシオニストと爆弾攻撃を結びつける具体的な証拠を詳しくは挙げていない。しかし私の本の中では挙げた。例えば、1955年に私は、いまだにイラク国内に財産を持っていたイラク系ユダヤ人の要求を取り扱うために、イスラエルでイラク出身の弁護人による調査団を組織した。ある有名な弁護士が、彼は自分の名前を出さないように私に求めたが、米国文化センターで見つかった反米ビラは、4月8日の爆弾攻撃の直前にシオニストによって配られたビラと、同じ型のタイプライターで打たれ同じ謄写版輪転機で印刷されたものであることを、イラクでの研究室の研究が明らかにしていた、ということを私に打ち明けたのだ。

 研究は同時にベイト・ラウィの攻撃で私用された爆発物のタイプが、弁護士のヨセフ・バスリ(Yosef Basri)と靴屋であるシャロム・サリイ(Shalom Salih)というユダヤ人のスーツケースの中で発見された爆薬の名残と一致したことを明らかにした。彼らは1951年12月の爆弾攻撃の犯人として裁判にかけられ、次ぎの月に処刑された。この二人の男はシオニスト地下軍事組織であるハシュラ(Hashura)のメンバーだった。サリイは結局、彼とバスリともう一人ヨセフ・ハバザ(Yosef Habaza)が攻撃を実行したことを白状した。

 彼らの処刑が行われた1952年1月までには、6千名を除いて、12万5千人と推測されるイラクのユダヤ人がイスラエルに逃げていた。その上に、親英、親シオニストの操り人形エル・サイードが、ユダヤ人たちの現金を含むすべての資産を凍結するように取り計らった。(イラクのディナールを持って出る方法もあったのだが、移住者たちがイスラエルで換金するときにイスラエル政府がその値打ちの半分を差し押さえてしまうのだ。)移住出国の登録をしたのではなくたまたま外国に行かなければならなかったイラク系ユダヤ人でさえも、もし彼らが所定の日時までに戻らなかった場合には国籍を失うハメになった。古い、文化の高い、豊かな共同体は根こそぎになっていた。そしてその人々は東ヨーロッパのユダヤ人たちによって支配される土地に植え替えられた。東ヨーロッパ・ユダヤ人の文化はイラク系ユダヤ人にとって、異質なものであるばかりではなく、全面的に有害なものであったのだ。

 【続く】


 バルセロナより愛を込めて氏の2005.5.20日付け投稿「傲慢で汚いアングロサクソン、狡猾で残忍なシオニスト、短絡思考の若いアラブ人:今も昔も変わらぬ構図」を転載しておく。

 傲慢で汚いアングロサクソン、狡猾で残忍なシオニスト、短絡思考の若いアラブ人:今も昔も変わらぬ構図


 こういった話は大体は知っていたのですが、このNaeim Giladiの文章をじっくりと訳してみて、改めてアングロサクソン、シオニスト・ユダヤ、アラブ人の相関関係を確認しました。アングロサクソンとシオニストはともかく、短絡的でオッチョコチョイのアラブの若い衆が、まんまと彼らの「テロ」の手先になっていく構図です。

 また作者はここでは詳しく触れていませんが、英国とシオニスト、米国とシオニストの深い関係は、言わずもがなでしょう。米英がシオニストのために、シオニストが米英のために動いてきたことを二重写しにしてこの文章を読んでみると、事の真相が非常に良く分かってくるはずです。絡み合った彼らの目的は一つ。元CIA局員イーヴランドの言うとおり、『それは実際にはイスラエルのユダヤ人人口を増やすだけの目的だったのだが。』

 また今回の最後の段落には、作者の言うに言えない無念の思いがあふれているようです。
『古い、文化の高い、豊かな共同体は根こそぎになっていた。そしてその人々は東ヨーロッパのユダヤ人たちによって支配される土地に植え替えられた。東ヨーロッパ・ユダヤ人の文化はイラク系ユダヤ人にとって、異質なものであるばかりではなく、全面的に有害なものであったのだ。』


 しかしこの40年代後半から50年代初期にかけてのイラクでの出来事を知っている日本人がどれくらいいるのでしょうか。私のこの翻訳作業が、少しでもその人口を増やすことに役に立つことができたら、この上ない幸いです。


 本文中でちょっと気になることがあります。1941年の英国による反ユダヤ感情をあおりながらの政権転覆策謀のさなか、ドイツ系のラジオ局「ベルリン」が、『パレスチナのユダヤ人たちが英国人に伴われてファルージャ市の近くでイラクに対して戦っている』という誤報を流したことですが、作者も言うようにこれがアラブ人の反ユダヤ感情に火をつける最大のきっかけになってしまったわけです。

 作者は以後この点には触れていないのですが、これはたまたま偶然の「誤報」だったのでしょうか。「ベルリン」に英国側が意図してガゼネタをつかませたのでしょうか、それともドイツもこの「誤報」に協力したのでしょうか。

 今の私には何とも判断がつきかねます。





(私論.私見)