【ネオコンとシオニズムとの接合ぶり】 |
【ネオコンとシオニズムとの接合ぶり】 |
ネオコンは、「ユダヤ・ロビー」の押し進めるシオニズムと結合して急成長し始めた。かくて当然、親イスラエル政策と結合しており、イスラエルを中心とした中東地域の再編成を画策するという青写真を掲げて活動している。万事においてこの政策を最優先し、この範囲で国連を活用する。よって国際協調は次善策でしかなく、国連が従わないときは国連をも恫喝するという軽視ぶりで、「ユニラテラリズム(unilateralism、単独行動主義)による力の政策(パワーポリティックス、北風政策)」を採用する。 国防族として力をつけたのは1981年からのレーガン政権時代である。国防次官補だったパール氏らはイスラエルとのパイプからイラン、レバノンの米国人人質解放を狙った非合法作戦を計画し、遂行。これが政権を揺るがした「イラン・コントラ事件」に発展し、パール氏は「暗黒の王子」と呼ばれ政権を去るが、国防総省に人脈、金脈を構築する。 ネオコンはこの間言論界をリードしてきた。反核運動を批判したり、エイブラムズ国家安全保障会議中東上級部長の義父ポドーレツ氏が、大虐殺を伴ったイスラエルのレバノン侵攻への非難を「テロリスト黙認を覆い隠す」と逆批判してきた。 ネオコン派が再び、脚光を浴びるのは前回の米大統領選終盤の2000年夏。 同派は「イラク分裂もフセインよりまし」とする「現在の諸脅威-米国の外交、 国防政策の危機と機会」を発表、これがブッシュ政権の外交方針の基礎となっている。2年後には、米国を頂点とする世界戦略を推し進めるため、欧州に決別を告げるという「力と弱さ」を発表、欧州に衝撃を与えた。 1996年、エルサレム。「土地(占領地)と平和の交換」を原則にパレスチナ和平を掲げたイスラエルの故ラビン首相が凶弾に倒れ、右派ネタニヤフ政権が発足する前夜、「先端政治戦略研究所(IASP S)」というシンクタンクが「完全な断絶・領土保全の新戦略」と題した報告蓄を発表した。 書かれていたのは「平和のための平和」。交渉を拒み、アラブを力でねじ伏せよという提言で当時、地元記者ですら「極右のたわ言」と見向きもしなかった。 その提唱者数人の名が現在、ブッシュ政権の外交安全保障チームにある。パール国防政策諮問委員長、国防総省のファイス次官、国 務省ボルトン次官のウェムザン特別補佐官…。 クリントン民主党政権下の翌1997年、米国でほぼ同じ人脈で別のシンクタンクが発足した。保守系の政治週刊誌編集長のクリストル氏を中核とするネオコン・グループは、冷戦後に唯一の超大国となった米国の外交・軍事政策が「腰が定まらない」と見て、政策集団「新アメリカ世紀計画」(PNAC)を発足させた。その発足声明は、「米国の原理を大胆に世界に広める外交と、全地球的責任を引き受ける指導者層をつくる」。「危機が差し迫る前に脅威に対処する」という先制攻撃戦略を訴えた。 |
【米大統領ブッシュのイスラエルの右派論客・ナタン・シャランスキー理論への傾倒ぶり考】 | ||||
2005.1.28日、毎日新聞が「イスラエル:右派論客に米大統領も傾倒?」なる興味深い記事を掲載しているので、これを転載しておく。
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(私論.私見)