中世、スペイン、ポルトガルで迫害を受け、カトリック・キリスト教に改宗したユダヤ人が続出した。改宗した元ユダヤ教徒は、コンベルソ(改宗者)あるいは新キリスト教徒と呼ばれた。1400年代初め、20万人いたユダヤ人のうち3万5千人がコンベルソになっていたという。そのうちで、表面上はキリスト教徒として振るまいながら、秘かにユダヤ教を守り続けた者たちは、マラノ(スペイン語読みでは「マラノス、Marannos」)と呼ばれた。コンベルソとマラノの区別ははっきりしないが、コンベルソは単にキリスト教への改宗者、マラノは隠れユダヤ教徒と識別できる。マラノは本来のキリスト教徒以上にキリスト教的に偽装した表向き改宗したかくれユダヤ人であった。コロンブスもその一人。、スピノザ、マルクス、フロイトはマラノスだった。表向きは改宗したが、むしろそれゆえにユダヤ信仰を深めた者たちの
... 。表向きにはキリスト教に改宗して、秘密でそれまでの自分の宗教を続けていた。
コンベルソの中から、ローマ教会のヒエラルキ−(階層社会)の中でスピ−ド出世した者も出た。教皇に次ぐ地位、枢機卿になった者も出た。コンベルソが、キリスト教会のヒエラルキ−(階級社会)を急速に登っていくにつれて、旧キリスト教徒たちの妬みをかった。当然ながら旧キリスト教徒たちにとって許せなかったのはマラノである。
1483年にキリスト教徒達による異教徒の追放がアンダルシアで始まった。次に1492年には、全てのユダヤ人が、国王
...。
1469年、カスティリアの王女イザベルとアラゴンの王子フェルディナンドが結婚した。二人は間もなく女王と王になった。スペインが事実上統一されたことになった。残る問題は、ただ一つ残っていたイスラム・アラブの拠点、グラナダ王国だった。イザベルとフェルディナンドは、グラナダ王国を断固滅ぼす決意をした。そのためには、臣下の宗教的情熱をかき立てる必要に迫られた。二人はマラノ問題に決着をつけることにした。手段としては異端審問所しかない。異端審問所は、すでに13世紀初期、ロ−マ教会によってつくられていた。
1478年、イザベルとフェルディナンドは、ロ−マ教会と交渉し、スペインだけの王権の管轄下にある審問所をつくる許可を得た。以来、恐怖の嵐がスペインを吹きまくった。1479年から1481年までの3年間に、カスティリア南部のアンダルシアだけで2万人の人々が生きながら火あぶりになったという。
1483年、トルケマダ(Tomas
de
Torquemada)という人物が、審問所の長官に任命された。トルケマダはコンベルソだった。トルケマダの下、審問はいっそう厳格化された。トルケマダがその職にあった18年間で、2千人のコンベルソが生きながら火刑に処せられ、3千人が死後死体か身代わり人形が焼かれた。そして3万7千人がキリスト教徒になることを受け入れたという。
1492年、1492年の追放
1492年1月、最後のイスラム・アラブ王国グラナダが滅び、レコンキスタが完成すると、同じ年の4月29日、スペインに住むすべてのユダヤ教徒を追放する布告が出された。猶予期間はたった3ヶ月だった。その間に、ユダヤ人は不動産や動産を処分し、携帯することが許された。しかし貴金属だけは、国外へ持ち出すことが認められなかった。そもそもイザベルとフェルディナンドが、この時期に、前からの懸案だったとはいえ、ユダヤ人の国外追放に踏み切ったのは、グラナダの戦費がそれ以外の方法では払えなかったからである。
1492年8月2日、最後のユダヤ人がスペインから去った。6~7万人がポルトガルへ、3万人が南部の港からイタリア、北アフリカ、オスマントルコへ、そして1万人が北方のナバル王国へ、向かった。追放の理由。 当時新興国だったオスマントルコのスルタン(国王)は、喜んでスペインから逃げてきたセファルディム系ユダヤ人を喜んで受け入れた。経済が興隆するからである。一方、経済の基盤、ユダヤ人を追放したスペインは、メキシコの銀で潤った16世紀を除くと、その後は衰退していった。エマヌエル・ウオーラスティンの覇権の移動である。スペインが誤算したという説がある。統一を為し遂げたスペイン王国は、ぜひとも宗教的純粋性を実現したかった。そのためには、マラノ、隠れユダヤ教徒を根絶しなければならない。
マラノは元の仲間、ユダヤ教徒と混在して住んでいた。マラノがユダヤ教を捨てない理由がその点にあると考えた王権は、ユダヤ教徒すべてをキリスト教徒にしてしまえば、その問題が解決すると考えた。1492年4月に布告された追放令は、本気で全員を追放しようとしたのではなく、そこまで脅せば、大半のユダヤ人が改宗するだろうと期待したのである。しかし実際には、スペイン王権の思惑は外れ、ほとんどのユダヤ人はあくまでも改宗を拒否し、スペインを去った。1492年にスペインから追放されたユダヤ人たちの行き先、あるいは消息はごく一部しか分かっていないが、一応ポルトガル、オランダ、イタリア、フランス、オスマントルコ(含むバルカン半島)、北アフリカなどへ逃げたとされる。
しかしこのとき、あるいは多少は遅れて逃げたであろう、コンベルソ、そしてマラノの行き先に関する情報は皆無である。彼らは追放令の対象になっていなかった。にもかかわらず、逃げたと推理するのは、 1)
彼らがユダヤ教徒と混在して住んでいたからである。数では少数派だった彼らは、多数派のユダヤ教徒が居なくなってしまえば、生活の基盤を失う場合が多かったであろう。その場合は、いっしょに逃げざるをえない。さらにマラノの場合には、審問の恐怖があった。2)
一方、スペイン周辺国で、その時代の直後、出自不詳のキリスト教徒が現れているからである。(中略)
救いに拘るキリスト教徒
マルティン・ルッターが宗教改革の火をつけたきっかけは、贖宥状(免罪符)の救いの効果に疑問を持ったことである。ルッターはなぜ救いに拘ったのか。断定的かもしれないが、論理的に考えると、当時のヨ−ロッパで救いに拘らなければならない存在がいたとしたら、コンベルソしかいない。元ユダヤ教徒がキリスト教に改宗することは、地獄に落とされる危険を冒すことを意味する。その代償は「救い」しかない。天国行きの予約切符または保証書である。にもかかわらず、その救いが、贖宥状などといった堕落の極限に貶められていたとすれば、絶望的にならざるをえない。どうしても贖宥状、そしてそれを発行している教皇やロ−マ教会を否定せざるをえなかったのだろう。
ルッター自身はドイツの農民出身であると強調していたらしい。しかしルッターが生まれたのは1483年。当時父ハンスと母マルガレーテは、鉱山での職を求めて旅行中だったという。ハンスは、その後マンスフェルトで職につき、生活を安定させることができたという。1483年といえば、スペインでマラノ狩りが始まった直後である。ルッターは晩年、ユダヤ人を憎んで当時からひんしゅくを買う文書を、いささか狂気的に出していた。それが400年後、ヒトラーによって利用されるのだ。ルッターは、当初ユダヤ人に好意的だった。ルッターはユダヤ人をキリスト教に改宗しようとしたが、成功せず憎むようになった。図式は惚れた異性につれなくされ、可愛さ余って憎さ百倍。近親憎悪ほど激しい。
ルッターは本当にドイツの農民なのか、という疑問はさておき、カルヴィンの場合は、改宗ユダヤ人の可能性が濃厚である。カルヴィンはコーバンのフランス読みである。コーバンという姓はユダヤ人に多い姓である。とはいえ、カルヴィンが改宗ユダヤ人の子孫かどうかは、この際大した問題ではない。神の変身というテーマこそが重要である。カルヴィン派プロテスタンティズムの神は旧約聖書の神、つまりユダヤ教の神になってしまったのだ。
図式からいえば、かつて生き残るために改宗したユダヤ教徒がいた。彼らのうち、時間が経過するにつれ、もはや選択権が与えられてもユダヤ教徒に戻ることも好まなくなった人々がいた。その中から出てきた一部の人々が、キリスト教の内部にユダヤ的なキリスト教を創った。それがプロテスタンティズム、とくにカルヴィニズムという図式である。
ヴェ−バ−はこの図式を暗喩していた? カルヴィニズムから出たイギリスのピュ−リタニズムが、イギリスの新興の市民階級の宗教になり、彼らが革命を起こしたとき、彼らがラウンドヘッド(短頭)と呼ばれたことに、ヴェ−バ−は言及している。革命を巡って争った王党派とピュ−リタンは、民族が違っていたとまで示唆している。以上は一つの推論にすぎない。歴史を考える場合、慎重に、一つの参考にすべきである。 |
- http://www5a.biglobe.ne.jp/~outfocus/
lr-hitobito/lr-asasyoryu.htm
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0764.html
http://inri.client.jp/hexagon/floorA4F_ha/a4fhc412.html
http://www.amorc.or.jp/about_us/history2.html
http://www.asahi-net.or.jp/~PF4M-ATM/KIJIRONPYOU/
9908-9KIJIRONPYO/990924jackatari.html
http://homepage3.nifty.com/sekiokas/Topfile/ResDev/Develop/%8AJ%94%AD%98_2005/05%8AJ%94%AD%98_a/05%8AJ%94%AD%81E%83%86%83_%83%84%90l.html
|
5568 |
返信 |
ユダヤ紹介レスA |
えこね |
|
|
2006/07/11 15:25 |
|
|
|
|
エルベ川まで進出していた西スラブ人(ゾルブ人) = 改宗ユダヤ人(ヨーロッパ系人種)
アシュケナジムはディアスポラ後に今の東ドイツ地域を中心に住み着いたユダヤ系。そこにいたのは西スラブ系部族(ソルブ人などの先祖)。神聖ローマ帝国が西スラブ系部族を無理やりキリスト教化しようとしたとき、キリスト教に改宗しなかったものは捕えられ、マインツやマグデブルクのユダヤ商人を通じて、イベリア半島の後ウマイヤ朝イスラム帝国に奴隷として売られた。奴隷化とキリスト教化に抵抗した西スラブ人は、ユダヤ教に改宗することで、治外法権的特権を得るようになった。これが増えてアシュケナジムとしてのまとまりができた。つまり、アシュケナジムの種はディアスポラによってヨーロッパに移住したユダヤ人で、実の部分(つまり人口的に大部分)は、エルベ川まで進出していた西スラブ人。13−14世紀、ペスト禍のドイツでポグロム(ユダヤ人虐殺暴動)が頻発し、アシュケナジムの多くはユダヤに寛容で、ペストの被害も少なかったポーランド王国に逃げた。これがハシディストのような東方ユダヤ人の始まり。 |
|
5566 |
返信 |
ユダヤ紹介レス@ヘブライ4連荘 |
えこね |
|
|
2006/07/11 15:18 |
|
|
|
|
ユダヤ人でない方はノアの子らの7戒を守れば十分だからです。
今日ではそういう人たちの団体もあります。ノアの子らの7戒を守る人は他のユダヤ教の戒律をも自由に守ってもよいという意見もあります(マイモニデス)。しかしユダヤ人になったら、613箇条の戒律を厳守する義務が生じます。
その用意がなければ改宗は認められません。
日本人として生まれた者がこれらの戒律を守り続けることはけっして簡単ではありません。それがユダヤ教への改宗は単なる宗教替えではなく民族替えを意味すると言われるゆえんでもあります
--------------------------------------------------------------------------------
ユダヤ人 Jew
ユダヤ人の定義は今に至るまで明確でないが、近年では母親がユダヤ人の場合にユダヤ人とみなされる。帰還法の定義とハラハー上の定義が異なるため、問題なることが多い。チーフラビ 管轄地域のラビの中で最も権威ある人。イスラエルでは、アシュケナジやセファラディにより権威が分かれるなど、複雑な仕組みになっている。米国などにはこの制度は無い。
--------------------------------------------------------------------------------
イディッシュ語 Yiddish ドイツ語とヘブライ語の混成語。 東欧系ユダヤ人(アシュケナジ)が用いていた。アシュケナジ Ashkenazim
東欧系ユダヤ人で 白人が多く上流階級だと言われる。
--------------------------------------------------------------------------------
ラディノ語 Ladino
スペイン語とヘブライ語の混成語。スペイン系ユダヤ人(セファラディー)が使っていた言葉。セファラディー Sepharad(セファルディー)スペイン系のユダヤ人のこと。
中流以下を占めているとしてイスラエルでは差別が問題になっている。 |
|