「西岡論文その後の西岡氏への政治圧力」考

 更新日/2022(平成31.5.1栄和/令和4).1.31日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 西岡氏が、 「阿修羅ホロコースト1」の中で、「西岡論文その後の西岡氏への政治圧力」について言及している。「私も厚生省から弾圧を受けましたよ」に始まる一連の投稿を転載しておく。れんだいこは、貴重な西岡証言と心得る。

 2005.3.6日 れんだいこ拝

 私も、マルコポーロ廃刊事件の際、厚生省(当時)から弾圧を受けましたよ。記者会見をするな、とかね。すさまじい脅迫でした。
 当時(1995年)、私は、厚生省が管轄する国立病院の勤務医でした。文春が「マルコポーロ」廃刊を発表したのは1995年1月30日(月)の午後でしたが、この日、風邪を引いて自宅に居ました。この驚くべき知らせを、私は、自宅で聞き、自宅で取材を受けたり、色々な方と電話で連絡を取り合ったりして、時間を過ごしました。

 その翌日(同年1月31日(火))、病院に登院した処、玄関で、すぐに病院の事務職員が、凄い剣幕で私を迎え、恐ろしい口調で、院長室に来るようにと言いました。そこで、院長室に行くと、院長と数名の事務職員が物凄い形相で私を迎え、私を椅子に座らせて取り囲むと、院長が、まるで別人の様な恐ろしい剣幕で私に向かって怒鳴り始めました。そして、こんな事を言いました。「俺は、ゆうべ、夜中に電話で叩き起こされた!」 そして、こんな事を言いました。「お前の行動に、日本という国の行方が掛かっている!」

 いつもは物静かな人物だっただけに、彼の豹変振りはショックでした。人間的に決して嫌いな人ではなかったのに、まるで別人で、半狂乱だったので、本当に怖くなった事を覚えています。そして、話が始まると、誰かが院長室をノックし、院長が「入れ」と言うと、事務職員の一人が入り「今朝、病院に女性の声で電話が入り、西岡先生の生命を狙うグループが向かっているので、注意するようにと言って電話を切りました」と言う意味のメモを読み上げました。芝居もいい処でしたが、その「報告」が為されると、院長は私を向いて「ほうら、こういう事だ。」と言い、他の事務職員と一緒になって、生命が無くなるからもう何も言うな、と更に「忠告」しました。ところが、私が、「私はどう成っても構いませんので・・・」と言うと、院長たちは更に怒り出し、私にあれこれ怒鳴り散らして、「あの『悪魔の詩』みたいな事になる」と言って、私にもう何も発言するなと、しつこく言い続けました。

 言うまでも無く、職権乱用です。続きが有りますが、その内、お話します。

 当時も今も、私は、その病院を愛しています。不治の病に冒された人々とって、無くてはならない病院ですし、その病院で働いた事を自分の幸福だと思っています。ですから、当時から、その病院と病院関係者たちには気を使って来ましたが、当時、国立病院は、何処も統廃合と言う名の「お取り潰し」に怯えていました。ですから、こう言う事で、愛する病院が、幕府に睨まれた小藩の様な立場に追い込まれる事を私は望みませんでした。それに、もちろん、院長や他の事務職員も、家庭を持つ普通の人々ばかりです。ですから、彼らにとやかく恨みを言う気は有りません。

 まあ、続きはもっと凄いですからお楽しみに。

 拙著「アウシュウィッツ『ガス室』の真実」(日新報道)には、数行、ぼかした形で書きました。この本を出した当時(1997年)は、関係者が現役だったので、今お話した様な形では書きませんでした。ただ、ロフトプラスワンやワールド・フォーラムではお話して居ます。

 http://zenkoji.shinshu-u.ac.jp/mori/dohc/dohc9708.html

 それからです。院長室で、なかば軟禁状態と言って良かったと思うのですが、院長は、業務もそっちのけで事務職員数名と共に私を詰問し続けました。それで、朝、9時頃から、先ずは1時間くらいそう言う状況に置かれて、「もうお前は何も発言するな」と散々怒鳴られまくりましたが、それに対して、私は、「御迷惑をお掛けして本当に申し訳有りませんが、これは私の事ですので、どうぞ構わないで下さい」と言った意味の答えをし続けました。ですから、私と彼らのやり取りは平行線だったのですが、その間、表現は忘れましたが、院長は、厚生省が色々言って来ている事をはっきり認めていました。

 そうしたやり取りの中で、院長が言った言葉の中で、忘れられない言葉が有ります。それをそのまま書きます。「言論の自由なんて物は無いんだ。・・・・あんたたち戦後生まれの者は、 そんな物を信じているが、・・・俺の様な戦前を知っている者は・・・」 この後の言葉は忘れましたが、彼のこの言葉は忘れられません。 (続く)

 そうして居る間にも、隣りの事務室で、電話がリンリン鳴って居た事が忘れられません。あの電話は、厚生省から掛かって居たのだと私は思って居ます。                            西岡昌紀

 そんな内にも、もちろん、病棟での業務が有りますから、一旦、私は、院長室を出て病棟に行きました。その際、合い間を見て、廊下の公衆電話から、木村愛二さんに電話を掛けました。すると、その際、木村さんから、「記者会見をやろう。」と言うお言葉を頂いたので、そう言う戦い方と言うか、マスコミへのアピールの仕方を全く知らなかった私は、「お任せします。」と言って、木村さんにその手筈をお願いしました。そうして、病棟に戻ったのですが、11時くらいだったでしょうか。驚くべき事が起きたのです。(続く)

 話が前後しますが、1月30日(月)に文春は、マルコポーロの廃刊を発表しました。それで、蜂の巣をつついた様な騒ぎが起きた事は御記憶と思ひますが、その際、文春は、2月1日(木)にホテル・ニューオータニで、田中健五社長が、クーパー氏と合同で記者会見を開く事をも発表していました。それで、マスコミは、2月1日の記者会見に注目していたのですが、1月30日の午前、私が病院の公衆電話から木村さんに電話すると、木村さんは、この文春側の記者会見にぶつける形で、彼らの記者会見の前日である1月31日(水)に、つまり、私が病院で院長たちに取り囲まれた日の翌日に、記者会見を開いて、こちらの主張を述べようと提案されたのでした。さすがは木村さんです。当時の私には、マスコミへのアピールの仕方が全く分かっていませんでしたから、木村さんのこう言う提案に私は従い、木村さんに、記者会見の手配をお願いして、その電話を切ったのでした。

 ところが、私がその電話を切って一時間も経たない頃だったと記憶します。病棟で仕事をしていたと記憶しますが、私は、急に、もう一度院長室に来る様にと呼ばれたのでした。 (続く)

 今訂正した様に、文春は、(1995年)1月30日(月)に「マルコポーロ」の廃刊を発表しました。それで、世の中は大騒ぎに成りましたが、その際、文春は、2月2日(木)に田中健五社長とクーパー氏が、ホテル・ニューオータニで合同記者会見を開くと発表したのでした。それで、マスコミは、その日(1月30日)から、もう2月2日(木)に文春が開く記者会見に注目していましたが、とにかくその日(1月30日(月))、私は、風邪で自宅に居ました。そして、その翌日の1月31日(火)、私が病院に出勤した処、私は、お話して居る様に、登院と同時に院長室に連れ込まれ、院長と複数の事務職員に囲まれて、「もう何も発言するな」と言う趣旨の脅迫を受けました。−−暴力こそ振るわれませんでしたが、大勢で囲まれ、大声で長時間怒鳴られ続けたのですから、脅迫と呼びます。−−そして、それが一時間ちょっとでしょうか、続いた後、私は、業務が有るので、一旦院長室を出て、病棟に行きました。そして、その合間に公衆電話から、木村さんに電話をした処、木村さんから、その翌日の2月1日(水)に、記者会見を開こうと、提案されたのでした。

 マスコミの事に全く疎かった私には、記者会見などと言う発想は全く有りませんでしたが、木村さんにそう提案されて、その手配をお願いして、電話を切りました。そうして、しばらく病棟で仕事をして居たと記憶しますが、木村さんとの電話を切って一時間も経たない頃でしょうか。私は、再び、院長室に来る様にと言われたのでした。それで、何だろう?と思って院長室に行った処、そこで、院長から驚くべき言葉を聞いたのでした。(続く)

 再び院長室に入った私は、そこで、驚くべき言葉を聞きました。正確な表現までは記憶していませんが、私が入るなり、院長は、「お前が、あした、記者会見を開くと言う話が来ているがどう言う事だ?」と言って、私が、たったさっき木村さんと電話で相談した翌日の記者会見について問い質したのでした。

 私は驚きました。私は、もちろん、たったさっき木村さんと話した翌日の記者会見について、まだ誰にもしゃべっていなかったからです。ところが、院長は、もうそれを知っていて、私にその事について詰問するのです。私は、すぐに、木村さんがマスコミに記者会見を開くと発表され、それが「何処か」から、この院長室に伝わったのだと分かりました。ですが、その場では、とぼけるしかないと考えたので、「え、本当ですか?」(笑)と知らない振りをしました。しかし、もちろん、院長たちは引き下がりません。それで、更に「明日、お前が記者会見を開くと言う話が伝わっているぞ!」と半狂乱に成って叫ぶので、私は、やむなく、「きっと、支援者の方たちがそう発表されたのではないかと思います」と言いました。

 この「支援者」と言う言葉を聞いた時の院長と事務職員の顔は忘れられません。びっくりして、一瞬何も言わなくなったのですが、どうも彼らは、物凄い数の「支援者」が居ると思ったらしい。(笑)黒澤明監督の「椿三十郎」の中で、椿三十郎(三船敏郎)が、敵に、十数人しか居ない自分の仲間を、あたかも物凄い数の様に語って聞かせる場面が有りますが、あんな感じだったので、緊張したやり取りの中でも可笑しかった事を覚えています。(続く)

 しかし、可笑しかったのはその一瞬だけで、院長たちの脅しは、この時から本当に物凄いものに成りました。院長の横に居た事務職員が、「もう病院をやめるしか無い。」等と言い出しました。私は、病院を首に成っても構わないと思っていましたので、その事自体は何とも思いませんでしたが、彼らの脅し方が余りにも異常だったので、この辺りから本当に怖く成り始めた事を記憶して居ます。

 そして、そんなやり取りがそこで一時間くらい更に続いたでしょうか。一旦、院長室を出た私は、その時の「査問」が余りに恐ろしかったので、再び、公衆電話から木村さんに電話を掛けました。そして、彼らが言った言葉を木村さんに伝えると、木村さんは驚き「それは、絶対に言ってはならない言葉だ。労働争議で、勤務時間外の事を理由に解雇するなどと言ったら、言った側は一発で負けるんだ」と教えて下さいました。私は、そうかと思いましたが、逆に、法律に詳しい彼らが、そんな「絶対に負ける」と木村さんが言った様な脅しをしてまで、私の発言を封じようとしている事に、今、この病院のトップに掛けられている圧力は普通の圧力ではないと思わずに居られませんでした。

 それからも、そう言う事が延々と続いたのですが、間の悪い事に、私は、その日、当直に当たっていました。ですから、こんな事を経験しながら、その病院から、翌日の朝まで出る事が出来無かったのです。 (続く)

 本当に、こんなタイミングの悪い当直は有りませんでした。その病院は、救急車は来ないので、基本的に当直は暇なのですが、午後6時半に婦長と一緒に各病棟を回診する事に成っています。

 午後6時半を回った頃と記憶していますが、回診中にまた、院長室に呼ばれました。その際、何を話したか覚えていないのですが、とにかく、それが、その日院長室に呼ばれた最後でした。それから、回診を終えて、医局に戻ったと思いますが、そっと院長室を覗くと、何故かもぬけの空でした。そして、何故か、一階の外来受付の有る部屋に院長と事務職員が居て、何か声を潜めて話し合っているのが分かりました。

 何を話しているのかは全く聞こえませんでしたが、かなり遅くまで残って居ました。それが又不気味だったのですが、とにかく、もう辺りは夜の闇に包まれています。夜は人気(ひとけ)の無く成る病院で、当直室も病棟から遠いのですが、正直言って怖かったので、遅くまで病棟に居て、一人に成らない様にしました。

 その際、或る病棟で、或る二人の看護婦さんと事件の事を話し合いました。その一人が、私にとても同情的で、励ましてくれた事が忘れられません。 (続く)

 そうして、夜が明けました。前日(1月31日(火))の内と記憶しますが、私は、自分がこの病院を出て、記者会見の会場に行けるかどうか、不安に成りました。もしかすると、「君は疲れている」等と言われて、「休まされる」とか、或いは、政治家の秘書の様に、「西岡医師、自殺」等と言うニュースでこの廃刊事件が終わるのではないかと、本当に思ったのです。それで、こう言う事は私の性分に合わなかったのですが、翌日、病院を出て記者会見場に着くには、相手を欺くしか無いと考えるに至りました。

 そこで、1月31日の事と記憶しますが、公衆電話から木村さんに電話を掛けて示し合わせた上で、一部のマスコミに、「これは内緒だが、私は、木村さんが準備する記者会見に出ない積もりだ。 木村さんには申し訳無いが。」とウソの情報を流しました。すると、不思議な事に(!)それから、院長は、私を院長室に呼びつけなく成ったのです。(本当に不思議でした)

 つまり、ディスインフォメーションをやった訳です。こう言う事はしたくなかったのですが、こうでもしなければ、外に出れない気がしたので、そう言う偽情報を流した結果、何故か、当直が明けた2月1日(火)に成ると、私は、昨日とはうって変わり、院長室に呼び出される事は無く成ったので、私は、木村さんと示し合わせた上で一部のマスコミに流した偽情報(「西岡は、記者会見に来ない」)が何か効果を生んでいると感じながら、その日(2月1日(火))の時間を病院で過ごしました。 (続き)

 記者会見の会場は、御茶ノ水にある総評会館でした。

 その前日(1月31日(火))の内にだったと思いますが、電話で木村さんから、「サンデー毎日から取材の申し込みが来てる。病院から記者会見場まで、サンデー毎日の車で送るから、車の中で話を聞かせて欲しいと言っている」と言うお話が有ったので、その日(2月1日(水))の午後5時に、病院の前でサンデー毎日の記者と会う事に成りました。

 そうして、午後4時半頃だったと思いますが、誰にも見られていない事を確かめた上で、病院の敷地内から正門の外を見ると、そこに黒い車が止まっていて、誰か若い男性が、こちらを伺っている。「あの車だ」と思いました。

 そして、午後5時、見られない様に、そして、自宅に帰る様な顔をして正門を出ると、その車と男性に近寄り、サンデー毎日の記者である事を確かめました。

 そして、その車に乗った時、私が味わった安堵の感情は、皆さんには、決して分からないだろうと思います。 (続く)

 病院から、記者会見場までは、長い道のりでした。ですが、その車の中に入ってからは、本当に安心する事が出来ましたから、記者会見場への道で、私は、同情したサンデー毎日の記者さんと、マルコポーロ廃刊事件の事をはじめ、色々な事を話しました。

 その記者さんは、大変礼儀正しい方で、私の意見に賛成するとは言いませんでしたが(笑)、敵対的な態度は全く無く、実に色々な事を話しました。

 そうして、私は、御茶ノ水の総評会館に着きました。そして、着くと、中に入りましたが、車が早く着いたので、広い会場内部に、記者会見に出席する記者の姿はまだ有りませんでした。そこで、木村さんの姿を見て、資料配布のお手伝いをしましたが、その時点で、厚生省は、まだ、私が記者会見場に来た事を知らない筈でした。(続く)

 それから一時間以上経ってからと記憶しますが、会場にジャーナリストの方たちが徐々に集まり始めました。そして、午後8時ではなかったかと記憶しますが、記者会見が始まりました。200人くらい集まったのではないかと思いますが、そんな大勢の方たちの前で、私は、記者会見の口火を切りました。そこで、私が冒頭語った事は、大旨次の様な言葉でした。

 「今日、ここに来るにあたり、私は、日本の或る官庁から、これまでの人生で 経験した事の無い、凄まじい圧力を受けました。その官庁の職員は、職権を 乱用し、私に発言するなと言う趣旨の脅迫を加えました。その為に、私は、大変恐ろしい思いをしました。・・・」


 こう言う意味の言葉を皮切りに記者会見は始まり、1時間だけの短い会見でしたが、私は、木村さんと並んで、事件に関する私の立場を述べました。あの本田雅和氏も来ていて、一番長時間質問をしましたが、とにもかくにも、そうして、私の記者会見は終わったのでした。

 ところが、次の日の新聞を見て、私は驚きました。私が記者会見を開いた事は、報道されて居るのですが、朝日、毎日、読売、日経の紙面を見ると、私が記者会見の冒頭で述べた「或る中央官庁が・・」と言う下りが一言も書かれていなかったからです。

 スポーツ新聞と産経新聞は、私の発言のその部分を伝えましたが、朝日、毎日、読売、日経は、その箇所を綺麗にオミットしたのです。

 それを見た時、本当に怖い、と思った事を記憶して居ます。 (続く)

 その翌日、病院に行くと、前日、院長と一緒に私を締め上げていた事務職員が私を呼びました。そして、昨日とは打って変わった丁重な態度と言葉使いで、「あれは、先生の事を心配したからだからね。」と言いました。

 言いながら震えているので、心の中で笑うと共に、かわいそうに成って、逆に慰めてあげました。

 この事務職員とは、今でも、何年に一度かは会います。元々良い人で、私はこの人がとても好きでしたから、別にうらんでなど居ません。

 それから院長は、それから2週間くらい、私を避け続けました。(笑)何とも思っていませんが、ただ、この事件と同時期に起きた阪神大震災に私がボランティアで行こうとした処、数日後、厚生省が許さない、と答えたのには、失望しました。

 この院長に失望したのか、厚生省に失望したのかは、皆さんの御想像にお任せしますが。

 自然の豊かな、とても静かな病院ですからね。その静けさが怖かったです。

 訂正します。文春がマルコポーロ廃刊を発表したのは(1995年)1月30日(月)で良いのですが、私が病院で院長たちから圧力を受けたのは1月31日(火)。文春の記者会見は2月2日(木)です。


 「★阿修羅♪ > 社会問題10」の「西岡昌紀 日時 2022 年 2 月 01 日」付投稿「『椿三十郎』とマルコポーロ廃刊事件ーーマルコポーロ廃刊事件から27年 西岡昌紀」。
 『椿三十郎』とマルコポーロ廃刊事件ーーマルコポーロ廃刊事件から27年 : 歴史を考える
  (livedoor.jp)

 [mixi] 『椿三十郎』とマルコポーロ廃刊事件ーーマルコポーロ廃刊事件から27年

 最近、久しぶりに、『椿三十郎』(1962年)のDVDを見ました。

 『椿三十郎」」は、黒澤明監督の映画で、江戸時代、三船敏郎が演じる放浪する浪人が、或る藩のお家騒動に巻き込まれ、偶然、知り合った若侍たちと共に、汚職を行なって居たその藩の大目付と戦ひ、最後には、大目付に幽閉された城代家老を助け出すと言ふ時代劇です。私は、この映画が大好きで、映画館で、そしてVHSやDVDで、何度見たか分かりません。単に「面白い」だけでなく、人間の愚かしさ、滑稽さを描いた深い映画です。又、衣装や美術の美しさは、この映画の背景に在る日本文化の奥深さを感じさせる物です。

 (『椿三十郎』について)
 椿三十郎 - Wikipedia

 その『椿三十郎』について、以前から感じて居る事が有ります。それは、この映画の物語が、27年前、私が当事者の一人と成ったマルコポーロ廃刊事件に何と似て居る事だろう、と言ふ事なのです。

 (参考:「マルコポーロ廃刊事件」)
 「マルコポーロ」廃刊事件 : 歴史を考える (livedoor.jp)

 その事に、私が最初に気が付いたのは、事件の真っ最中の事です。1995年1月30日(月)、文藝春秋社は、突然、「マルコポーロ」誌の廃刊を発表を発表しました。理由は、「マルコポーロ」同年2月号に私が寄稿した「戦後世界史最大のタブー/『ナチ・ガス室』はなかった」に対して抗議が寄せられた事でした。(文藝春秋社は、記事の執筆者である私には一言の連絡もしないまま、同誌の廃刊を決定しました)

 (参考サイト:マルコポーロ廃刊事件から25年)
 マルコポーロ廃刊事件から25年 : 歴史を考える (livedoor.jp)

 その翌日(1995年1月31日(火))、私は、当時の勤務先であった小田原市の病院に、いつもの様に出勤しました。すると、当院するなり、病院の入り口で、その病院の事務職員に呼び止められ、院長室に直行させられました。その病院は、厚生省(当時)の管轄下に在る病院でした。私を含めて、職員全員が厚生省(当時)の職員でしたが、特に、院長を始めとする病院幹部は、足しげく厚生省地方医務局に通ふ、厚生省の職員でした。その院長の部屋(院長室)に呼び出された私は、部屋に入った直後から、院長他の病院職員に取り囲まれ、前日発表された「マルコポーロ廃刊」と言ふ事件について、大声で罵倒を受けました。そして、今後、マスコミなどで一切、何も発言するな、と言ふ全く不当な要求を受けました。それは、厚生省の強い意向である事を院長(当時)他の病院幹部は、明言し、私に、そうした「今後、事件について何も発言しない」事を強制しようとしたのです。

 私は、もちろん、拒否しました。勤務とは無関係な事柄について、病院幹部や厚生省の要求に従ふ義務など有りません。それどころか、これは、厚生省職員の職権乱用である事は言ふまでも有りません。逆に言へば、厚生省は、職員に職権乱用をさせてまで、私の発言を封殺しようとしたのです。逆に言へば、それは、この問題が、それほどの重大事である事を意味して居ました。

 病院幹部による院長室でのこうした強要は延々と続きました。その日は、こうした院長室での軟禁に近い状況が続いた為、病院の業務に影響が出たほどです。話は平行線で、勤務に関係の無いマルコポーロの問題で、厚生省の要求には従えないと言ふ私と病院幹部の対立は、院長室を舞台に、夜まで続きました。更に、翌日の2月1日(水)に、私が、ジャーナリストの木村愛二さんの支援を受けて、都内の総評会館(当時)で独自に記者会見を開く事が厚生省に伝はってからは、院長らは半狂乱と成り、厚生省の意向を受けた院長らが、私に加える脅迫は、極限に達して居ました。運悪く、その日(1995年1月31日(火))が当直だった私は、その日、家に帰る事が出来ませんでした。その為、病院で当直の夜を過ごし、翌日も、朝から同様の状況が院長室を舞台に続いたのですが、その1月31日(火)か2月1日(水)に、こんな事が有りました。

 病院幹部が、院長室で、私に記者会見をやめろと言ふ要求を繰り返す中で、私は、「支援者の方達もおられますし・・・」と言って、記者会見を中止する事は出来無いと、言ひました。その時、私の「支援者」と呼べるのは、木村愛二さんと数人の人々で、その時点では、5人も居なかったと言ふのが事実です。ところが、私が口にした「支援者」と言ふ言葉に、院長らの病院幹部は、目を丸くして、驚いたのです。私は、その時の事を忘れられません。二人の病院幹部は、「支援者」と言ふ言葉を聞いて、本当に驚いた様子でした。恐らく、彼ら(病院幹部)は、私に「支援者」が居る等とは、思って居なかったのでしょう。そして、ここが滑稽なのですが、彼らが、私に大変な数の「支援者」が居て、私の記者会見に集結するかの様な想像をした事が、彼らの表情から、伺えたのです。その時、私の脳裏に、稲妻の様に浮かんだのは、『椿三十郎』の2つの場面でした。即ち、三船敏郎演じる椿三十郎が、本当は、10人も居ない自分の仲間を物凄い人数であるかの様に敵に思はせようとして、「あんな大勢にやって来られたんじゃ・・」と言ったり、「やって来たのは、130人!」と言って、敵方を脅かす場面を思ひ出したのです。「あれにそっくりだ。」と、私は思ひました。私は、別に、そうしようと思った訳ではありません。彼らの側が、勝手に、「支援者」と言ふ言葉に驚いただけなのですが、『椿三十郎』の中で、大目付の取り巻きたちが、三十郎(三船敏郎)の言葉に騙されて、三十郎の側に大変な数の味方がついて居ると錯覚した様に、病院幹部たちは、私の記者会見に、大変な数の支援者が集結したと錯覚したらしいのでした。

 その後、2月1日(水)の夕方、何とか病院を出て都内の記者会見場に行き、記者会見を開く事が出来ました。もし、2月1日(水)のあの記者会見を開かなかったら、翌日2月2日(木))にSWCと文藝春秋がホテル・ニューオーニで開いた共同記者会見で、私の「謝罪文」か何かが、私が居ないその場で朗読される予定だったのではないか?等と、私は想像して居ます。だからこそ、厚生省は、あれほど必死に成って、私に記者会見の中止を要求したのだと思ひます。しかし、とにかく、2月1日(水)に、彼ら(厚生省)の圧力をはねのけて記者会見を開いた結果、記事の筆者である私が、マルコポーロを廃刊した文藝春秋の決定に全く納得して居ない事を、社会に伝える事は出来たのでした。もし、私が、自分の病院での圧力に負けて、記者会見を欠席したり、記者会見を中止したりして居たら、そして、厚生省の要求通りに、「一切の発言を中止」して居たら、私が、自分の主張を取り下げたと受け止められて居た事は、明らかです。そう考えると、文藝春秋が「マルコポーロ廃刊」を発表した(1995年)1月30日(月)から2月1日(水)までの48時間余は、私にっても、日本にとっても、事件の行方を左右する決定的に重要な時間だったのだと言ふ他は有りません。

 時間が経って、事件を振り返った時、私は、この事件(マルコポーロ廃刊事件)は、何と、『椿三十郎』に似て居たのだろうと思ふ様に成りました。即ち、文藝春秋社は『椿三十郎』の舞台と成ったあの藩です。そして、花田紀凱編集長は、あの幽閉された城代家老です。私は、三十郎(三船敏郎)で、木村愛二氏は、あの若侍(加山雄三)だと思げば、マルコポーロ廃刊事件と『椿三十郎』は、驚くほど似て居ます。そして、城代家老を幽閉した大目付とその取り巻きたちが、マルコポーロ廃刊事件当時の際、私と花田編集長に圧力と脅迫を加えた厚生省や外務省の人間達にそっくりである事に驚き、笑はずに居られません。

 矢張り、黒澤明監督は偉大です。『椿三十郎』を見た事の無い方は、このブログをお読みに成った事を機会に、是非、この日本映画の傑作を御覧に成る事をお薦めします。

 2022年2月1日(火)

 マルコポーロ廃刊事件から27年目の冬に

(参考サイト:阪神大震災とマルコポーロ廃刊事件ーー22年目の冬に)
阪神大震災とマルコポーロ廃刊事件−−22年目の冬に : 歴史を考える (livedoor.jp)

 (参考サイト:マルコポーロ廃刊事件から25年)
 マルコポーロ廃刊事件から25年 : 歴史を考える (livedoor.jp)
 西岡昌紀(にしおかまさのり)





(私論.私見)