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不思議な話をお聞かせしましょう。はじめに、下の記事をお読み下さい。
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独メルケル首相は追悼に向かう…20日ナチス収容所へ
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独メルケル首相は追悼に向かう…20日ナチス収容所へ 中央日報 - 2013年08月16日 10:51
アンゲラ・メルケル首相がドイツ首相として初めてドイツ南部のダッハウ強制収容所を訪問し、第2次世界大戦時に亡くなったユダヤ人犠牲者などを追悼する予定だ。ドイツのシュテフェン・ザイバート首相室報道官は14日の記者会見で「メルケル首相が20日、ミュンヘン近隣のダッハウ収容所記念館を訪れて献花し演説する予定」としながら「ドイツ政府のトップがこの収容所を訪問するのは初めて」と明らかにした。メルケル氏はホロコースト(ナチスのユダヤ人大虐殺)生存者でありダッハウ収容所収監者委員会のマックス・マンハイマー会長(93)とバイエルン州のルートヴィヒ・シュペレ教育部長官と共に収容所を訪れる計画だとAFP通信が伝えた。
マンハイマー会長は声明で「メルケル首相の今回の訪問は、過去の収監者に対する敬意の表示」として「現在ドイツ社会内で反ユダヤ主義やユダヤ人への敵対感が増幅している状況なので、今回の訪問は政治的・社会的に大変重要だ」と評価した。
バイエルン州の首都ミュンヘンから北西に16キロ離れたダッハウ収容所は、1933年アドルフ・ヒトラーが権力を掌握して数週間後に政治犯を受け入れるためにつくったナチスの初めての収容所だ。以後ユダヤ人や同性愛者、戦争捕虜など20万人以上を閉じ込めた。米軍が1945年4月29日に収容所を掌握する前まで、殺害されたり飢餓や病気で亡くなった人は4万1000人を超える。これに先立ちメルケル首相は今年6月5日、米国のオバマ大統領と共にドイツ中部のワイマール州ブーヘンヴァルト収容所を訪れてナチスの犠牲になったユダヤ人を賛えた。
メルケル首相がダッハウ収容所を訪問して2週間後には、ドイツのヨアヒム・ガウク大統領がドイツ指導者として初めてナチスが大虐殺を行ったフランス北部のオラドゥール・シュル・グラヌ村を訪れ犠牲者を追悼する予定だ。ここは第2次大戦が終りに近づいた1944年6月10日、ドイツ軍が200人余りの子供を含む640人余りの村の住民を殺害する蛮行を犯したところだ。
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この記事に出て来るダッハウ(Dachau)収容所には、とても不思議な事が有ります。それは、今日、歴史家たちが、この収容所では、「ガス室によるユダヤ人殺害」が行なはれて居なかった、と言って居る事なのです。アウシュヴィッツ等とは違って、このダッハウ収容所では、「ガス室による殺人」は行なはれて居なかった、と言ふのです。「それが何故不思議か?」ですって? 不思議ですよ。だって、かつては、このダッハウ収容所でも、アウシュヴィッツと同様、「ガス室による処刑」が行はれて居たと言ふ話に成って居たのですから。
もう一度言ひましょう。かつては、このダッハウ収容所にも、アウシュヴィッツと同様、処刑用のガス室が有ると言はれ、そこで毎日多くの人々が殺されて居たと言はれて居たのです。ちゃんと「目撃証言」が有ったのです。たとえば、フランツ・ブラーハ(Franz
Blaha)と言ふユダヤ人の医者が居ました。この人は、ダッハウ収容所の「ガス室」でユダヤ人が殺されるのを目撃し、医者だったので検死をさせられて居た、と法廷で「証言」して居たのです。他にも「ダッハウのガス室」について本を書いた人も居れば、「ダッハウのガス室」が登場するアメリカの映画(『ニュールンベルク裁判』)も有ったのです。それどころではありません。あのニュールンベルク裁判では、検事が、このダッハウ収容所を、ガス室による大量殺人が行はれた収容所の一つとして法廷で名を挙げて居たくらいです。つまり、かつては、ダッハウに「ガス室」が有って、そこで多くの人々が殺されたとする話が、世界中に流布され、信じられて居たのです。
ところが、今、歴史家たちは、このダッハウ収容所に関しては、「ガス室による処刑は行なはれて居なかった」として居ます。不思議だとは思ひませんか? だって、おかしいじゃないですか!この収容所で「ガス室で殺された人々の死体を検死して居た」と証言した「目撃者」が居たのです。そして、その「証言」は、ニュールンベルク裁判にまで提出されて居たのです。それなのに、今では、「ダッハウでガス室による処刑は行なはれて居なかった」と言ふ話に「歴史」が変はって居るのです。これは何を意味するのでしょうか? その「目撃証言」がウソだったからだ、としか考え様が無いではありませんか! 違ふでしょうか?だって、そうではありませんか。ひとつでいいのです。ひとつでいいから、「ダッハウのガス室処刑」について、信用出来る証言が有ったなら、歴史家たちは、「ダッハウでもガス室処刑が行なはれて居た」と言ふ筈ではありませんか。
ところが今日、「ナチのガス室」の実在を主張する歴史家たち自身が、アウシュヴィッツ等については「ガス室」が存在した事を頑なに主張する一方で、ダッハウに関しては、自信が無いのです。「ダッハウでは、ガス室による処刑は行はれて居なかった」と言ふのです。つまりそれは、彼ら自身が、「ダッハウのガス室処刑」に関する限り、信用出来る「証言」が無い事を知って居るからなのです。他にどう説明できるでしょうか? 「ホロコースト」に関する「目撃証言」を全て鵜呑みにしていいのでしょうか?
2013年8月16日(金) 西岡昌紀
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(参考資料)
http://blog.livedoor.jp/nishiokamasanori/archives/6715030.html
ここで非常に重要なことをお話ししたいと思います。既に述べているように、この「ガス室大量殺人」には、物証と呼べるものはありません。テレビの資料映像には、ベルゲン・ベルゼンなどで撮影された病死者が、まるで、「ガス室」の犠牲者ででもあるかのように映し出されますが、「ガス室」で殺された死体は一体も確認されていません。また、処刑用ガス室の設計図も結局、発見されていません。それに、「ユダヤ人絶滅」の命令書も存在しなければ、そのための予算も計上されていないのです(既述)。それにも拘らず、「定説」側は「ガス室」があったと言うのですが、その「根拠」が何かと言えば、つまるところ、「証言」なのです。(中略)
ここで、非常に重要なことをお話ししたいと思います。それは、こうした「証言」に基ずいて成立しているその「定説」側の説明が、実は、何度も変わっているということなのです。即ち、「ガス室」の話を中心とした「定説」側の語る「ホロコースト」の内容は、実は、戦後、何度も変わっているのです。皆さんは、このことに気付いておられるでしょうか?
一例を挙げましょう。前にお話ししたベルゲン・ベルゼン収容所はドイツ北部にあった収容所で、戦争末期にイギリス軍によって解放されています。この収容所は戦争末期にチフスが大発生したことで有名で、そのことは、「定説」側の本でも、また医学論文にも明記されています。そして、この収容所に「ガス室」がなかったことは、前述のように、「定説」側の著作にはっきりと書かれています。当然、このベルゲン・ベルゼン収容所は、「定説」側の著作においても、アウシュヴィッツやマイダネックやトレブリンカのような「絶滅収容所」には分類されていません。
ところが、戦争直後には、ある歴史家は、その「ガス室」などなかったはずのベルゲン・ベルゼン収容所について、こんな「歴史」を書いていたのです。「ベルゼンでは、クレーマー[西岡注:同収容所司令官]が、子供たちが母親から引き離され、生きたまま焼かれるのを眺める間、オーケストラにウィーン風の音楽を彼のために弾かせ続けた。ガス室で、毎日、何千人もの人々が殺されていたのである」(訳:西岡 原文は以下の通り)
In Belsen, Kramer kept an orchestra to play him Vienese music while he
watched children torn from their mothers to be burned alive. Gas chambers
disposed of thousands of persons daily(Francis.T.Miller“ A Hostory of World
WarU”, 1945 p.868)
おかしいとはお思いにならないでしょうか?今日では「定説」側論者たち自身が「ガス室はなかった」と言っているベルゲン・ベルゼン収容所について、戦争直後には、こんなことが書かれていたのです。「ガス室で、毎日、何千人もの人々が殺されていたのである」などと・・・。つまり、話が変わっているのです。
ベルゲン・ベルゼンだけではありません。例えば、ドイツ南西部に在って、アメリカ軍によって解放されたダッハウ(Dachau)収容所に関しても、同様に、話が変わっているのです。即ち、このダッハウ収容所についても、今日、「定説」側歴史家は、戦争中そこで「ガス室大量殺人」が行われていたとは言いません。「ダッハウのガス室は未完成だった」などと言って、そこで「ガス室」が使われていたとは言わないのです。ところが、このダッハウ収容所についても、戦争直後には、処刑用ガス室があり、多くの人々が「ガス室」で殺されていた、という話が堂々と語られていたのです。
ベルゲン・ベルゼンについては、そこに「ガス室」があったと書いた前述の「定説」側歴史家ミラーは、自分が根拠とした証言を明記していません。しかし、このダッハウについては、フランツ・ブラーハ(Franz
Blaha)という、チェコ人の医師で同収容所に収容されていた人物が、そこには処刑用のガス室があり、大勢の人々が殺されていた、と「証言」しています。しかも、そのブラーハという人物は、戦後の戦犯裁判に「証人」として登場し、その「ガス室」で殺された人々の死体を自分が「ガス室」内で検屍した、とまで「証言」しているのです。
皆さんは、これをおかしいとはお思いにならないでしょうか?こんな具体的な「証言」が裁判という場で語られていたのに、今日、「定説」側の歴史家たちは、何故、「ダッハウのガス室は未完成だった」等と言うのでしょうか?rすまり、そこで戦争中「ガス室」による処刑が行われていたという説を自ら否定しているのですが、それならば、ダッハウでは実際に「ガス室処刑」が行なわれ、その死体を自分が検屍した、とまで語ったブラーハの「証言」とは、一体何だったのでしょうか?
これだけではありません。その他にも、例えばドイツ中部に在ったブーヒェンヴァルト収容所などでも、かつては、そこに「ガス室」があったという「目撃証言」が語られていたのです。しかし、そのブーヒェンヴァルト収容所についても、今日では、「定説」側論者自身が、「ガス室」があったとは言わないのです。そこでも、「ガス室を見た」という「証言」があったにも拘らず、です。
皆さんは、こうした「定説」側の変化を不思議には思われないでしょうか?このように、終戦後しばらくの間は、今日では「定説」側論者自身が「ガス室大量殺人」は行われていなかったと認める収容所で、「ガス室大量殺人」を目撃したという「証言」が堂々と語られていたのです。そして、それらの「証言」やそれに依拠した著述を反映する形で、戦後しばらくの間は、その「ダッハウのガス室」などが、本や映画に堂々と登場していたのです。そのため、戦後しばらくのそうした時期には、こうした状況を反映して、「ナチのガス室」といえば、ポーランドのアウシュヴィッツやマイダネックといった収容所よりも、ダッハウをはじめとする、ドイツ本国の収容所の方が、その代名詞として語られていたくらいだったのです(このことは、「定説」側の本も認めています)。(中略)
考えてもみて下さい。例えば、フランツ・ブラーハが語った「ダッハウのガス室」に関する「目撃証言」がもし本当だったとしたら、「定説」側歴史家たちは、なにも「ダッハウのガス室で大量殺人が行われた」という命題を否定する必要などなかったはずです。ところが、それを今日彼ら自身が否定しているのは一体何故なのか。それは、彼ら自身が、この「証言」を信用していなかったからではないでしょうか?・・・皆さんは、これでも、ウソの「ガス室目撃証言」はなかったとお考えになるでしょうか?
(西岡昌紀「アウシュウィッツ『ガス室』の真実/本当の悲劇は何だったのか?」(日新報道・1997年)167~173ページより)
http://www.amazon.co.jp/%E3%82%A2%E3%82%A6%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%83%E3%83%84%E3%80%
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