「マルコポーロ論文・ナチ『ガス室』はなかった」考 |
(最新見直し2009.2.27日)
(れんだいこのショートメッセージ) |
阪神大震災が起きた同じ日に、マルコポーロ1995年2月号が発売された。 |
【西岡論文「戦後世界史最大のタブー。ナチ『ガス室』はなかった」】 | ||||||||||
インターネットサイト「南京とアウシュビッツ、『マルコポーロ事件』、ナチ『ガス室』はなかった」に、西岡論文が掲載されている。これを転載しておく。 | ||||||||||
一月二十七日、アウシュビッツ収容所は「解放」五十周年を迎える。だが、ここには戦後史最大の
タブーが秘められている。 実はホロコースト=ナチスによるユダヤ人虐殺説には、今大きな疑問が投げかけられ始めているの だ。
ユダヤ人が悲惨な死をとげたことは、間違いない。しかし、ガス室で、「計画的に殺されたという
話には証拠が少ない。戦後、西側に属した収容所にはすべてガス室が存在しなかったことが証明され
た。あったとされるのはすべて東側の収容所のみ。しかも、ガス室は密閉機能に書け、使用されたガスは科学者の眼から見ると、とても大量殺人には使用できぬものであった。 実は、欧米では、この種の疑問が、ジャーナリズムを賑わしている。当のユダヤ人学者さえ、疑問を呈しているのだ。なぜ、 日本のマスコミだけが、このもんだいを書かないのか。若手の医師が、個人で調べあげた驚愕の新史実。 |
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獣をいけにえとして捧げ、火で焼くというユダヤ教の儀式を「ホロコースト」と言った。これが転じて、「ナチスのユダヤ人虐殺」を意味するようになったのは、ナチスドイツがアウシュヴィッツなどの強制収容所にガス室を作り、毒ガスを使って計画的に虐殺、さらにそれを焼いた―という
恐ろしい話とイメージが重なったからだ。 ところが、このホロコーストが作り話だったという説が、今、欧米で野火のように広がりはじめている。 戦後五十年近くもの間、語られてきたこの「毒ガス虐殺」が作り話だといわれて、驚かない人は いないだろう。私自身、この話を六年前に英文で読んだ時には、驚天動地の思いをしたものである。 私は、一医師にすぎないが、ふとした機会に、この論争を知り、欧米での各種の文献を読み漁る ようになった。そして、今では次のような確信に達している。 まず、日本の新聞やテレビが言っていることは全部忘れてほしい。 それから『シンドラーのりスト』 もー旦忘れて頂きたい。 「ホロコースト」は、作り話だった。アウシュヴィッツにも他のどの収容所にも処刑用ガス室な どは存在しなかった。現在、ポーランドのアウシュヴィッツ収容所跡で公開されている「ガス室」 なるものは、戦後ポーランドの共産主義政権か、または同国を支配し続けたソ連が捏造した物である。アウシュヴィッツでもどこでも、第二次大戦中のドイツ占領地域で、「ガス室」による「ユ ダヤ人大量虐殺」などはー度も行なわれていなかったのだ。 こう断言する理由は後述するが、その前に二つのことを言っておきたい。まず、第一に私は、 第二次世界大戦中にドイツが採ったユダヤ人政策を弁護するつもりは全くないということである。 たとえ「ガス室による大量虐殺」が行なわれていなかったとしても、ドイツが罪のないユダヤ人を苦しめたことは明白な歴史的事実である。私はその事実を杏定する者ではないことをここで明白にしておく。 第二は、近年、アメリカやヨーロッパで、「ホロコースト」の内容に疑問を抱く人々が急速に 増えつつあるのに、日本の新聞、テレビが、そのことを報道せず、結果的にはそのことを日本人の目から隠しているという事実である。最近は、論争を断片的に伝える報道もでてきたが、そう した報道は、「ホロコースト」に疑問を投げかける者は皆「ネオナチ」か「極右」であるかのような「解説」を加えている。 事実は全く違う。「ホロコースト」に疑問を投げかける人々の中に は政治的には明日に反ナチスの立場を取る知識人やユダヤ人さえ多数含まれているのだ。 例えば、プリンストン大学のアーノ・メーヤー教授は子供の頃ナチスの迫害を受けアメリカに わたったユダヤ人のー人で、日本でも有名なきわめて権威ある歴史家である。彼は「ガス室」の 存在そのものまでは否定しない「穏健な」論者だが、それでもユダヤ人の大多数は「ガス室」で 殺されたのではないという「驚くべき」主張をしている。このことはー九八九年六月十五日号の ニューズウィーク日本版でも取り上げられている。 また、同じくユダヤ系アメリカ人のもっと若い世代に属するデイヴィッド・コウルというビデオ作家がいる。彼は、ユダヤ人であるにもかかわらず、「ガス室によるユダヤ人虐殺」は作り話 だと、はっきり主張しているのである。「ネオナチ」の中にも「ホロコースト幻説」を取り上げ る人間はいるだろうが、ユダヤ人の中にも「ホロコースト」はなかったと主張する人間が現われていることは注日に値する。 とにかく、まず、日本の新聞やテレビが言っていることは全部忘れてほしい。それから、『シンドラーのりスト』もー旦忘れて頂きたい。映画は、歴史ではないのだから。 そこで皆さんにまず、何が真実であったのかを先に言ってしまおう。欧米の幾多の研究をーロ に要約し結論を述べ、証拠はあとから示そう。そうした方が、皆さんにとって後の話が理解しや すくなると思うからである。
読者の多くは、こんな話をすぐには信じられないに違いない。当然である。すぐに信じられる 方がどうかしている。私も最初は信じることが出来なかった。読者と同様、私も物心ついてから、 あの恐ろしい「アワシュヴィッツのガス室」についてくりかえし教えられ、聞かされてきた者のー人であって、あるきっかけから真実を知るまでは、「ガス室による大量虐殺」を疑ったことなど、ただのー度もなかったのである。 しかし、ある機会から「ホロコースト」について実は論争が存在することを知った私は、この 論争に関する文献を買いまくり、読みまくった後、「ホロコースト」が作り話であるという確信に至ったのである。 「ホロコースト」に疑間を投じる人々は、自分達のことを「ホロコースト・リビジョニスト (Holocaust Revisionist)、すなわち「ホロコースト見直し論者」と呼んでいる。 筆者は、一医 師であり歴史学を専攻したわけでは全くないが、六年前(一九八九年)に、ふとした機会に彼らの存在と研究を知り、その後、複数の大学教授に手紙などを書いて意見を求めてみた。その結果、 有名な国立大学教授を含めた日本の学者たちがそれらホロコースト・リビジョニストたちの主張 を全く論破出来ないことを知り、日本のアカデミズムのあり方に疑問を抱かずにはいちれなくなったのである。 また、英字紙マイニチ・デイリー・ニュースの投書欄でー九九三年五月に大論争をやったことがあるが、その時もリビジョニズムの正しさを確信する経験をしている。 気の早い読者は、「ホロコースト・リビジョニスト」達は、「ネオナチ」かそれに似た人間だ と思うかもしれない。実際、「ネオナチ」の中にも「ホロコースト」の虚構を強調するグループはいる。だが、「ホロコースト・リビジョニスト」の中には、明らかに反ナチスの立場を取る個人やユダヤ人も多数含まれているのであって、「ホロコースト・リビジョニスト」を 「ネオナチ」 や「反ユダヤ」などという枠でくくることは余りに事実と懸け離れている。 その反証として最も明らかなものは、最初の「ホロコースト・リビジョニスト」とも呼べる歴史家が、フランスのポール・ラッシニエ(Paul Rassinier)という大学教授で、彼が、戦争中、フ ランスのレジスタンス運動に参加して、戦後、そのレジスタンス活動の故にフランス政府から勲 章まで授与された人物だったという事実ではないだろうか? このラッシニエという学者は、元は地理学者で、左翼思想の持ち主だったため、反ナチスのレジスタンス運動に参加したのであるが、そのレジスタンス活動の故に、ナチス占領下のフランスでゲシュタポに捕らえられ、強制収容所に入れられたという人物なのである。ラッシニエは、ドイツ西部の収容所に収容され、戦争末期には、そこでチフスにかかるという苦難まで味わっている。 そのラッシニエが、「ホロコースト・リビジョニズム(見直し論)」の「開祖」となった理由は、 単純である。ラッシニエは、戦争中、反ナチス活動の故にドイツ西部の複数の強制収容所に入れ られていたのであるが、彼は、それらの収容所の何処でも「ガス室」など見たことはなかったの である。 ところが、戦後、ニュールンベルク裁判や欧米のマスメディアが、戦争中ラッシニエが収容さ れていたドイツ国内の収容所に「ガス室」が存在し、多くの人々が殺されたと言い始めたために ラッシニエは驚き、彼自身の左翼という政治的立場とは別に、「ドイツの強制収容所にガス室などなかった」と、声を大にして主張し始めたのであった。 しかし、フランスのマスコミは、ラツシニエがレジスタンス活動家として、ドイツの収容所を 実際に目撃した人物であったにもかかわらず、彼を非難し、その証言を無視した。ラッシニエは、 その後もこのことについて語り続け、さらには学者として、ナチスの収容所政策全体を調査、研究し続けるが、その主張を無視されたまま、一九六七年に死去している。 しかし、彼に触発され たフランスの知識人の間から、もちろん 「ネオナチ」等とは全く無関係に、「ガス室はあったのか?」という疑間が上がり始めるのである。 このように、学術研究としての「ホロコースト否定論(または見直し論)」は、第二次大戦後、 ドイツではなくフランスで誕生したものなのだが、「ガス室による大量虐殺」に疑問を投げかけ た最初の歴史家が、いわゆる「ネオナチ」などではなく、フランスの左翼知識人で、戦争中レジ スタンスに参加してナチの弾圧まで受けた人物であったという事実は重要である。 そして興味深いことには、この最初の「ホロコースト否定論者」ラッシニエの個人的体験の中に、後年、「ホロコースト」論争の焦点となる幾つかの問題が、集約されていたのである。 そのひとつは、ラッシニエが収容されたのが、アウシュヴィッツやマイダネックなどのポーラ ンド領内のナチス強制収容所ではなく、ドイツ国内に作られた強制収容所であったという点であ る。これは、極めて重要なことであった。 どういうことかというと、ナチスドイツが大戦中ヨーロッパに建設した強制収容所のうち、ドイツ本国に作られた強制収容所については、戦後十五年縫ったー九六〇年に、「公式見解」に驚 くべき変更が加えられているのである。これは少しややこしい話なので、じっくり説明しよう。 |
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今日、「ホロコースト」に関するいわゆる「定説」は、以下のようになる。<ナチスドイツは 戦争中、ドイツ本国及び、占領したポーランドなどに大小多くの収容所を建設し、ユダヤ人や政治犯、ジプシーなどを収容した。それらの収容所にはニ種類があった。一つは、ユダヤ人などを
単に収容し、労働を行なわせただけの収容所であったが、もうー種類は「絶滅収容所」で、そこにはあの恐ろしい「ガス室」があって、人々は強制労働をさせられただけでなく、「ガス室」に
よって計画的に殺されていた。アワシュヴィッツ収容所は、この後者の代表である。ナチスが、 自国ドイツの領土内に作ったのは、前者の「ガス室」のない収容所だけで、「ガス室」を持った
「絶滅収容所」は、占領したポーランド領内だけに作られ、そこで六百万人のユダヤ人が、計画 的に殺された・・・> 読者に知って頂きたいことは、 戦時中から戦争直後にかけて、 アメリカやイギリスが報道操作を 行なっていたという事実である。 ところが、この「定説」は、戦争直後に連合軍が発表した話とは違うのである。戦争直後、ドイツを占領した連合軍は、アウシュヴィッツをはじめとするポーランド領内の収容所ばかりか、 ドイツ本国の収容所にも「ガス室」があったと主張していた。 つまり、戦争直後には、今の「定説」とは違うことを主張していたわけで、「定説」の内容は、変わっているのである。 例えば、ミュンヘン郊外にダッハウ(Dachau)収容所という収容所があった。戦争末期にこの収容所を解放したアメリカ軍は、ここで大量殺人用の「ガス室」を発見したと発表して、一枚の写真を公開した。それは、黒い鉄の扉の前にー人のアメリカ兵が立って、その扉を見つめている写真である。その扉の上には、ドイツ語で、「注意! ガス!生命の危険! 開けるな」という警告が書かれ、白いドクロのマークも描かれている。 その写真にアメリカ軍が加えた説明(キャプション)がどんなものだったか。 「死体焼却炉の側という便利な場所に作られたガス室が、アメリカ第七軍の兵士によって調べられているところ。これらの部屋は、忌まわしいダッハウ収容所 で、被収容者を殺すためにナチの衛兵たちが使っていたもの」 ドクロのマークが描かれた鉄の扉にGas!という文字が見える写真を見せられ、その写真にこんな「解説」を付けられたのでは、ダッハウには大量殺人用の「ガス室」があったという発表が「真実」として受けとめられたのは当然である。実際、アメリカが発表したこの写真や生存者の「且撃証言」により、戦争直後には、世界中がダッハウに「ガス室」があり、その「ガス室」で戦争中多くのユダヤ人が殺されたと信じていた時があったのである。 ところが、後から明らかになったことは、その写真の黒い扉は、確かに「ガス室」の扉ではあ ったが、人間を殺すためのガス室などではなく、シラミなどで汚染された衣服を消毒するためのガス室だったという人を食ったような事実であった。すなわち、戦争末期のドイツ強制収容所で は、衛生状態が著しく悪化し、発疹チフスなどの発生が大間題となっていた。その対策として、 DDTを持たない当時のドイツ軍当局は、サイクロンBという青酸系殺虫剤を使って、ユダヤ人をはじめとする被収容者達の衣服の消毒を行なっていたのである[このことについては、Arthur Butz 著"THE HOAX OF THE 20TH CENTURY"(published by the Institute for Historical Review, 1976)など、幾つかの本が書かれている]。 ドイツでサイクロンBという青酸系殺虫剤が生産、販売され、殺虫作業などに広く使用されていたことは、秘密でも何でもないが、ドイツがこのサイクロンBを大量殺人目的に転用、六百万人ものユダヤ人を殺したというのが、「定説」の主張するところなのである。 サイクロンBを使って、人間を大量に殺すことが到底不可能であることは後から説明するが、ここで読者に知って頂きたいことは、戦時中から戦争直後にかけて、アメリカやイギリスがこのよう な報道操作を行なっていたという、あまり知られていない事実である。 読者は、湾岸戦争中にイラクの原油放出のせいだといって世界中に放映された、あの油まみれの水鳥を記憶しているだろうか? あの水鳥は「イラクの原油放出」などとは関係がなく、何者かが、プロパガンダの目的でウソの注釈(キャプション)を加えて流した「ヤラセ映像」であったことが明らかになっているのだが、この種の報道操作は、湾岸戦争の水鳥が最初ではなかったのである(木村愛二著『湾岸報道に偽りあり』 汐文社刊、一九九二年、参照)。 第二次世界大戦中、メディアに対して厳重な検閲を実施していた のは、日本やドイツだけではなかった。アメリカも、新聞、雑誌、ラジオ、そして映画などに厳重 な検閲を行なっていた。ダッハウで撮影されたこのトリック写真は、そのような検閲があればこそ可能だったのである。 「ダッハウのガス室」だけではない。ドイツを西から攻略したアメリカ、イギリス連合軍は、ドイツ西部で強制収容所を解放した際、いくつもの「ガス室」を「発見」した筈だったのである。 彼らは、そう発表し、戦後しばらくは、そう語っていたのである。 それなのにそれを彼ら自身が今日全く語らなくなったのはー体何故なのだろうか? それは、一九六〇年八月二十六日のことである。当時、西ドイツヘドイツ連邦共和国)政府の第 二次世界大戦や「ホロコースト」に関するスポークスマン的地位にあった歴史学者、マーティン・ ブロサット博士(Dr. Martin Broszat) が、突如として、ナチが大戦中「ガス室」を作ったのは ドイツ軍に占領されたポーランドだけで、ドイツ本国に「ガス室」はなかったという意味の声明 を発表したのである。 ブロサット博士は、ミュンヘンの現代史研究所という西ドイツ政府の機関で所長の立場にあった人物だが、この研究所は、これまで「ガス室」の存在を「証明」するために実に多くの発表を行なっており、西ドイツ政府の歴史に関する見解を代弁する団体と見なされている。その現代史研究所の所長、ブロサット博士が、突然、昨日までは「真実」とされていたダッハウやブーヒェ ンヴァルトなど、ドイツ本国の収容所における「ガス室」の存在を否定したのである。 その日を境として、「ホロコースト」に関する「真実」は「改訂」され、昨日まで「存在した」 と主張されていた「ダッハウのガス室」や「ブーヒェンヴァルトのガス室」は、実は存在しなかっ た、という話に変更された。 しかも、ブロサット博士は、その声明の中で、このような「真実の変更」がなされた理由をー言も説明していないのである。 こうして、今日我々に教えられる「定説」が「公認」されたのであるが、これは、考えてみればドイツ本国に関する限り、ラッシニエの主張をそのまま認めたものに他ならない。ブロサット博士が、この声明を出した後、ナチの「ガス室」は、ポーランドのみに作られた、という「定説」 が世界で定着し、一九七五年には、「ナチ・ハンター」として有名なユダヤ系活動家、サイモン・ ヴィーゼンタール氏までが、ドイツ本国に限っては、「ガス室」がなかったことを認める発言を している。 戦争直後には、「ブーヒェンヴァルトのガス室」を目撃したという「証言」があった。「ダッハウのガス室」を目撃したという「証言」もあった。これらの「証言」は、ニュールンベルク裁判にも提出されていたのだが、こうした「証言」が本当であったなら、「定説」を支持する人々は、何故、ダッハウやブーヒェンヴァルトに「ガス室」があったという彼らの主張を取り下げた のだろうか? 答えは、一つしかない。 彼らが発表した「証拠」や「証言」の中に本物はーつもなかったのである。恐ろしいが、これが真実なのである。 注目して頂きたいのは、この書き変え以降も、「ガス室があった」とされる収容所はすべて東側、つまり共産圏に存在し、ジャーナリストの自由な調査が不可能な地域であったという事実だ。 「ダッハワのガス室」だけではない。例えば、ある作家は、アウシュヴィッツ及びブーヒェンヴァルトの強制収容所に入れられていたという体験の持ち主であるが、その著作の中で、自分がア ウシュヴィッツで目撃したという情景を書いている。彼は、その中で何を見たと書いていただろうか? 驚かないで頂きたい。その作家は、「ガス室」のことなどー言も書いていないのである。かわりに子供や赤ん坊が炎の中に投げ込まれるのを見たと書いていたのである。一九五八年の著作の 中で、「火炎による大量殺人」の光景をありありと描写していたのである。いうまでもなく、今日、アワシュヴィッツで火あぶりが行なわれていたと主張する歴史家はいない。とすると、この 作家が「目撃」した光景は、一体何だったのだろうか? アウシュヴィッツで、人間が生きたまま火に投げ込まれるのを見たと書いていたこの作家は、 一九八六年にノーベル平和賞を授与されている。 |
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ちなみに、「ホロコースト」という言葉は、前述した通り、いけにえの動物を火にあぶるユダヤ教 の儀式に出来するが、この儀式名が「ナチスのユダヤ人大虐殺」を意味するものとして使われ出したのは、このように戦後まもない時期には、「ナチスは、ユダヤ人を生きたまま火に投げ込んで殺
した」という話が語られていたことに由来している。 今日、アウシュヴィッツのユダヤ人が「ガス室」ではなく、「火」に投げ込まれて殺された、と主張する歴史家はいないのだが……。
このように、「ホロコースト」に関しては、「間違い」とか「見間違い」では、到底説明し得な い内容の書き換えがくりかえされてきた。そして、もっと重要なことは、そのようないい加減な 「証言」だけに「ホロコースト」の内容が依拠しているということなのである。つまり、「ホロコースト」には、「証言」以外に何も物証がないのである。 そう言うと、読者は驚くかもしれない。「アワシュヴィッツには、ガス室が展示されているじゃないか」とか、「あの靴の山は何なんだ」「あの髪の毛は何なんだ」等々、読者が当惑する顔が私には目に浮かぶ。私もそう思っていた。 しかし、ああした「物証は何ら物証ではない。ただ、それ らに付けられた「解説」だけが、それらの物品を「物証」のように見せているのである。 例えばここに靴の山があったとして、一体その靴の山だけで、どうして靴の持ち主たちが「ガス室」に入れられ、殺された、と証明出来るのだろうか? 髪の毛も同じである。こんなたとえは不謹慎かもしれないが、私が、靴や髪を沢山集めてテレビ局に赴き、「隣の人が浴室をガス室に改造して、人を殺していた」と言ったら、テレビは私の言ったことをニュースとして報道するだろうか? ただし、死体は何処にもないので、私は、「灰になるまで焼却したのだ」と言う。 これが、「ホロコースト」である。この話と「ホロコースト」の違いは、靴の山や髪の山を「発見した」と言ったのが私ではなくソ連軍であったことだけである。仮りに私が靴や髪を見せても、 それだけでその持ち主が「ガス室」の死者だったと鵜呑みにする人はいないだろうが、同じことをソ連がポーランドでやったら、世界中が信じたのである。何故、信じたかといえば、世界中のマスメディアが、それを伝えたからである。何故ソ連の発表をアメリカをはじめとする世界のマスメディアが何の検証もせずに報じてきたのかは、ここでは論じない。 しかし、気が付いて欲しいことは、このように証拠能力のない「物証」も、マスメディアが伝えると、「物証」のように思われてしまうということである。それが、「ホロコースト」を支えるものなのである。 では、「ガス室」はどうかということになるが、これも物証ではない。今日の「定説」によれば、 ナチスドイツは、自国ドイツ領内には「ガス室」を作らなかったが、占領したポーランドに「ガス室」を作り、六百万人のユダヤ人を計画的に殺した、と説明されている。 だから、「ガス室」の実物がポーランドに実在しなければならないが、まず第一に、今日のポー ランド領内でその「ガス室」として展示されているものがある場所はニカ所しかない。一つは、ア ウシュヴィッツであり、もうーつはマイダネックという場所だ。あとの「ガス室」は、「存在したが、戦争末期にドイツが証拠隠滅の目的で破壊し、なくなった」と説明されている。 「破壊され、なくなったガス室」がどうして実在したといえるのかといえば、またしても「証言」 なのである。 「ガス室」の「実物」とされるものはアウシュヴィッツとマイダネックにしかないのだが、実はそれら「ガス室」というコメント付きでポーランド当局が展示している部屋は、処刑用ガス室に必要な構造、特徴を全く備えていないのである。 例えば、今日アウシュヴィッツに展示されているあの有名な「ガス室」は、半地下式の「ガス室」で、すぐ隣に四つの焼却炉を持つ「焼却室」が併設されている。というよりも、そのような半地下室をポーランドの共産主義政権が、戦後「ガス室」として展示してきたのである。 この部屋が仮りに説明されている通り、殺人用ガス室だったと仮定してみよう。すると、まず、この「ガス室」には窓がないことに気付く。窓というより、窓を取付ける穴が何処にも開けられていないのである。 窓そのものは、処刑用ガス室にとって必要とはいえないが、窓を取付ける穴がーつもないということは、換気扇を付ける場所がないということである。 処刑用ガス室においては、一回処刑が終わるたびに換気をしなければならない。換気をしなければ、次の犠牲者たちを「シャワーだ」とだまして「ガス室」に入れることは出来ないのだから、 これはガス室にとって必要欠くべからざる機能なのである。 しかし、そのために必要な換気扇を付ける場所が、アウシュヴィッツの「ガス室」にはない。ア ウシュヴィッツの「ガス室」で使用されたことになっている「毒ガス」は青酸ガスだが、青酸ガス の物理的性質のーつに、壁や天井に吸着しやすいというやっかいな性質があり、例えば倉庫などで 青酸ガスによる殺虫作業を行なった場合、自然の通風では、殺虫作業後の換気にニ十時間前後を要 したとされている。 とすれば、アワシュヴイッツの「あの部屋」が「ガス室」だった場合、換気扇がないのだから、 出入口または天井の小穴(そこから青酸ガスが投げ込まれたことになっている)から換気したとし て、一日にー回しか「ガス室」での処刑は行なえなかった筈である(何という非効率的な「民族 絶滅」だろうか?)。 その上、アウシュヴィッツの「ガス室」には、処刑用ガス室の設計において常に要求される高 い気密性がなく、青酸ガスで内部を充満させた場合、外部に青酸ガスが漏れるのは必至であると、 アメリカのガス室専門家ロイヒターは指摘している(彼のレポート"THE LEUCHTE REPORT"はー九 八九年ロンドンで出版)。つまり、外にいるドイツ兵が青酸中毒になってしまうのである。 サイクロンBの成分であるシアン化水素自体は確かに猛毒だが、使用に際し、長時間の加熱を必要とする。つまり、長時間の加熱を行なわなければ「毒ガス」それ自体が発生しないのだが、それ は、サイクロンBが、もともとそのような方法で使用する殺虫剤だったからに他ならない。ただ缶を開ければ、青酸ガスが発生するようなものではないのである。 ここは、非常に重要な点なので分かりやすく説明しよう。DDTを持たなかった第二次世界大戦中 のドイツ軍は、このサイクロンBを殺虫剤として使用していたが、問題は、「ホロコースト」があったと主張する人々が、この殺虫剤サイクロンBが「ガス室」で使われたと主張していることにある。 つまり、彼らは、ドイツが殺虫剤サイクロンBを大量殺人用に転用し、アワシュヴィッツなど の「ガス室」で使用したと、戦後一貫して主張し続けているのである。 これは、「ホロコースト」という物語の核心部分であるが、実は、物理的、化学的、医学的に 不可能なことなのである。 サイクロンBは、缶に入っている。「ホロコースト」を扱ったテレビドラマや映画ではこの缶を ドイツ兵が開け、「ガス室」の屋根に取付けられた穴から放り込むと、直ちに缶の中から毒ガス」 が出て、ドイツ兵の足下の地下式「ガス室」にいる人々が「毒ガス」に悶え苦しみ、死んで行く という場面が描かれているが、これは絶対にあり得ない。サイクロンBの缶の中身はシアン化水素 (HCN)、すなわち青酸ガスが吸着したチョークやパルプのかけらなのである。青酸ガス(HCN)を発 生させるには、それらの(青酸ガスを吸着した)チョークやパルプをヒーターで長時間加熱しなけ ればならないのだ。これを燻蒸という。 |
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戦後、連合軍が押収した ドイツ政府公文書の中に、 「ユダヤ人」絶滅を命令した 文書は一枚も無かったのである。 アウシュヴィッツ等の強制収容所では、戦争末期に発疹チフスなどの感染症が多発し、それらの 病原体を媒介するシラミの駆除が大間題になっていた。こうしたシラミが、被収容者の衣服に付着 することが多かったため、ドイツ軍当局は,被収容者の衣服をサイクロンBによって燻蒸、消毒し ていた。 もっとも十分な効果は得らず、ある資料によれば、サイクロンBによる燻蒸では、蛾を殺すのに もニ十四時間が必要だったという。この程度の殺虫剤をドイツは大量殺人用の毒ガスに転用した ということになっているのだが、蛾を殺すのにニ十四時間もかかった殺虫剤で、人間を数十分以 内に殺せたのだろうか? このサイクロンBが、アウシュヴイッツなどの「ガス室」で「大量殺人」に使用されたという 主張は、「ホロコースト」の中心的「教義」である。しかし、その根拠も、実は、「証言」しかないのだ。 その「証言」の中で、最も重要なものは、アウシュヴィッツ収容所の所長ルドルフ・ ヘスのもので、「自白」の調書や、処刑される前に書いたらとされる「回想録」がある。 しかし、これらの文書は、イギリス軍やポーランド当局がー方的に発表したもので、ヘスが本 当に述べたという証拠は何もない。 (このルドルフ・ヘスは、戦後イギリス軍に捕らえられ、イギリス当局の取り調べを受けた後、 ポーランドに引き渡され、ポーランドで処刑された人物で、戦時中英国に渡った大物のへスとは 別人) アワシュヴィッツ収容所の所長(司令官)だったルドルフ・ヘスが書いたとされる文書が重視される理由は、ヘスこそが、アワシュヴィッツ収容所でサイクロンBによる大量殺人を立案した人物 だとされているからだ。 しかし、これらの文書を読むと、科学的には絶対あり得ないことが沢山 書かれている。 例えば、ポーランドでへスが書いたとされる「回想録」の中にこんな描写がある。「ガス室」 でユダヤ人達が死んだ後、ドイツ兵達が「ガス室」に入り、ユダヤ人達の死体を外に搬出する様子の描写なのだが、ドイツ兵達は物を食べたり、タバコを吸ったりしながら黙々と死体を運び出 したと述べられている。 しかし、これは絶対に嘘である。「物を食べながら」ということは、ガスマスクを付けずに処刑直後のガス室に入ったことを意味する。 サイクロンBで人間を殺せるかどうかの議論は棚上げして、仮りに殺せたとしよう。とすれば、 処刑が終わった「ガス室」内部は、人間の致死量を超える濃度の青酸ガスが充満している筈である。そこにガスマスクを付けずに入ったというのだろうか? そして、「タバコを吸いながら」と いう描写はどうだろうか? 青酸ガス(シアン化水素)は、水素化合物、即ち爆発性の気体なのだ。 さらに言えば、「ガス室」のシャワーから青酸ガスが噴霧されたというよく知られた話も全く 馬鹿げている。 青酸ガスは、空気より軽いのである。その青酸ガス(シアン化水素)をガス室の屋根の穴から缶ごと投下し、シャワーを経由してその下にいるユダヤ人達を殺したという話が、広く信じられているが、空気より軽い青酸ガスが、「ガス室」の天井からその下のユダヤ人達へと、上から下へ 拡散するだろうか? もうーつ、読者を驚かせることを言おう。ヒトラーは、「ユダヤ人絶滅」など、一度も命令し ていなかったのである。 |
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プロパガンダとして流布された「ガス室」の話が、検証されぬまま「歴史」に転化したのが「ホロコースト」 連合軍は、戦後ドイツで大量のドイツ政府公文書を押収した。それによって、戦争中ドイツ政府が何を検討し、何を命令していたかが明らかになるからだが、その押収されたドイツ公文書の量は、 アメリカ軍が押収したものだけでも千百トンに及んでいる。 ところが、戦後、連合軍が押収したそれらのドイツ政府公文書の中に、ヒトラーもしくは他のド イツ指導者が「ユダヤ人絶滅」を決定、命令した文書はー枚もなかったのである。実際、連合国は、 ニュールンベルク裁判において、ドイツの指導者が「ユダヤ人絶滅」を決定、命令した証拠となる文書を提出していない。 これに対しては、「ナチが証拠を隠滅したから文書が残らなかったのだ」とか、「ユダヤ人絶滅 計画は極秘事項だったので、命令は全て口頭でなされたのだ」とかいう反論が予想されるが、そう した主張は、あくまでも「仮説」でしかない。事実としてそのような文書は、今日までー枚も発見 されていない。 もし証拠となる命令文書はあったが隠滅されたとか、命令が口頭でなされたとか主張するなら、 その証拠を提示するべきである。実際、アメリカにはこのような主張をする人々がおり、それなり の「証言」や談話の記録、会議録、手紙などを引用する人すらいるが、結論から言うと、彼らが引用するそれらのものは、全く「証拠」になるようなものではない。 具体的には、ニュールンベルク裁判におけるハンス・レマースの証言、ハインリヒ・ヒムラーが ー九四三年十月四日に行なったとされる談話の筆記緑、ヴァンゼー会議という会議の記録、ゲーリ ングがー九四一年七月三十一日に幹いた手紙、ベッカーという軍人のサインがあるソ連発表の手紙 等々であるが、これらの文書は、しばしばそれらの反論者たちによって「ユダヤ人絶滅を命令、記録したドイツ文書」として引用されるものの、よく読むと、全くそんな文書ではないのである。それどころか、ドイツ政府が計画した「ユダヤ人問題の最終的解決」なるものの内容が、実はユダヤ人の「絶滅」等ではなく、ユダヤ人の強制移住であったことを明快に示す文書が、押収されたドイツの公文書の中に多数発見されている。 それらの文書は、ポーランドに作られたアウシュヴィッツ収容所等へのユダヤ人移送が、ドイツ政府にとっては「一時的措置」でしかなかったことを明快に述べている。そればかりか、当時のド イツ指導部が、その「一時的措置」の後には、収容したユダヤ人達を「東方地域」に移送する計画 であったことをはっきりと述べてもいるのである。 これは、アウシュヴイッツをはじめとする収容所の建設目的が、これまで言われてきたような 「ユダヤ民族の絶滅」ではなく、「東方地域への移送」であったことの動かぬ証拠である。これこそが、ナチスドイツが計画した「ユダヤ人問題の最終的解決」という用語の本当の意味だったのである。 くどいようだが、私は、強制移住ならよいなどと言っているのではない。私は、このようなナチスの差別的政策を支持正当化するつもりは毛頭ない。私が問題にしていることは、「歴史家」や 「ジャーナリスト」たちが戦後語り続けてきた「歴史」が、余りにも事実と懸け離れたものだったということなのである。彼らは、誰かがそれを指摘することを「ナチスの弁護」というのだろうか。 アウシュヴィッツに収容されたー人にマリア・ファンヘルヴァーデン(Maria Vanherwaarden)という女性がいる。全く無名の人ではあるが、この人がー九八八年の三月に、カナダのトロントで述べた証言は極めて興味深いものである。 彼女は、一九四二年にアワシュヴィッツ及びそこに隣接するビルケナウ強制収容所に収容されたのであるが、列車で移送される途中、同乗したジプシーの女性から、アワシュヴィッツに着いたら、 彼女たちは皆「ガス室」によって殺されてしまうのだという話を聞かされた。当然、彼女は、ジプシーが語ったその話に恐怖を抱いた。 興味深いのは、その後である。 彼女の証言によると、アウシュヴィッツに到着すると、彼女たちは、服を脱ぐよう命令された。そして、窓のないコンクリートの部屋に入れられ、 シヤワーを浴びるよう言われたという。ここで、彼女たちの恐怖は頂点に達した。列車の中でジプシーの女性から「ガス室」で殺されるという話を聞かされていたからである。ところが、彼女の頭上のシャワーから出てきたものは、「ガス」ではなく、水だったのである。 読者は、この証言をどう思うであろうか? このような証言は、他にもいろいろあるのだが、戦後半世紀もの間、何故か、こういう証言は「ガス室」が存在したと主張する人々によって徹底的に無視されてきたのである。 証言は、証言でしかない。しかし、一つの事柄について対立する証言がある時、物証も検証せずに、一方の「証言」だけを取り上げ、他方を検討すらしないというやり方が、正当なものと言えるであろうか? このファンヘルヴァーデンという女性の証言で興味深いことは、彼女の証言に出てくるジプシーの女性が、何処で「ガス室」の噂を聞いたかという問題である。それを確かめる方法はないが、それに関連して、アメリカの歴史家マーク・ウェーバーは、戦争中、連合軍が、ラジオやビラによってドイツ占領下のヨーロッパに対してこの「ガス室」の噂を意図的に流布させていたことを『アウ シュビッツ神話と真実』の中で指摘している。 すなわち、戦争中の心理作戦としてのプロパガンダのーつに、この「ガス室」の話が織り込まれていたのである。そのようにして流布された戦争中の「ガス室」の話が、戦後検証されぬまま「歴史」に転化してしまったのが「ホロコースト」に他ならない。 アウシュヴィッツをはじめとする強制収容所で戦争末期にチフスが発生し、多くの死者を出したことは、明白な事実である。このことについては「ホロコースト」があったとする人々も異論を唱えてはいない。 ナチスが建設したユダヤ人収容所で衛生業務に当たったドイツ軍軍医による記録、ドイツ西部で 解放直後の強制収容所の衛生状態を観察したアメリカ、イギリスの医師たちによる報告などは、一致して、戦争末期から戦争直後にかけての強制収容所でのチフスの発生のひどさを詳細に記録して おり、このことについては論争の余地はないものと思われる(J・E・ゴードンなど)。 問題は、ドイツがそのような状況にどのように対応したかであるが、ドイツ軍当局は、ユダヤ人を戦時下の労働力として温存したかったのであり、意図的に衛生状態を悪化させたと考えさせる証拠は見つからない。 例えば、ドイツ政府の中でユダヤ人問題を総括する立場にあったハインリヒ・ヒムラーは、チフ ス等の病気によるユダヤ人の死亡が多いことに神経をとがらせ、収容所の管理者たちに対し、もっと死亡率を低下させよという命令を出してすらいる。例えば、一九四二年十一月二十八日の日付けで強制収容所の統括司令部がアウシュヴィッツ収容所に送った命令書には、こう書かれている。 「収容所の医師達は、これまで以上に被収容者の栄養状態を観察し、関係者と連携して改善策を収容所司令官に提出しなければならない」 。 これは、ヒムラー自身の言葉ではないが、この命令書はヒムラーの次のような言葉を引用しているのだ。 「死亡率は、絶対に低下させなければならない」 この命令は、言われているような「民族皆殺し」と両立する命令であろうか? 当時のドイツ指導部がこのような命令を出したのは、ユダヤ人達が労働力として貴重だったからだろう。それが別に「人道的理由」で出されたものだとは思わない。 しかし、こうした生の資料(一次資料)から気付くことは、ナチスの政策自体は非道であったにせよ、我々が『シンドラーのリスト』などから与えられてきた強制収容所のイメージは、歴史的事実とは懸け離れたものだということである。一例を挙げるなら、『シンドラーのりスト』の中で、ゲ ートという収容所の司令官が、朝、ベランダから面白半分にユダヤ人を銃で撃ち殺すショッキングな場面があるが、これは絶対にウソである。 何故なら、当時の強制収容所では、確かにユダヤ人等の被収容者が体罰を加えられることはあったが、それには事前に書類を提出して許可を得ることが義務付けられていたからである。その書類は、ベルリンにまで送らなければならなかったし、もし、この手続きを無視すれば、そのドイツ兵は、軍紀違反で厳罰に処せられたのである。 このことは、戦後西ドイツで法務官吏を務めたウィルヘルム・シュテークリッヒ(Wilhelm Staglich)が自著"A Judge Looks at the Evidence"の中で述べているし、アメリカの歴史家セ オドア・オキーフェ(Theodore O'keefe)なども述べている。中には、死刑に処せられたドイツ人すらいる。 お分かりだろうか? ナチスの政策そのものは不当であったにせよ、そのドイツにおいて、ユダ ヤ人などを虐待したという理由で死刑に処せられたドイツ人がいたのである。「ユダヤ民族の絶滅」がドイツの目標であったなら、何故そんな厳罰に処する必要があったのだろうか? ナチスドイツがユダヤ系市民に対して行なった様々な差別政策や弾圧は、民主主義の原則に対する明日な挑戦であり、その最終局面としての強制移住計画は、私自身を含めて、誰もが不当と言わざるを得ないものである。 しかし、だからといって、ドイツがやっていないことまでやったと強弁することは間違っているし、そのことで、戦後生まれの若いドイツ人が罪人扱いされることも、こうした事実を検証しようとする言論を政府が抑圧することも明らかに間違ったことである。 詳しく述べることが出来なかったが、六百万人という犠牲者数にも全く根拠がない。そもそも、 ドイツが最も占領地域を広げた時ですら、そこにいたユダヤ人の数は、四百万人もいなかったという指摘もある。 最後に、一言言っておきたい。 アウシュヴィッツをはじめとする強制収容所で生命を落としたユダヤ人達の運命は、悲惨である。彼らは、その意志に反して各地の収容所に移送され、戦争末期の混乱の中でチフス等の疾病によって生命を落としていった。その運命の悲惨さは、日本軍によって苦しめられた中国の民衆や、原爆の犠牲者と同様、現代に生きる我々が、忘れることを許されない今世紀最大の悲劇のーつである。現代の世界に生きる我々は、それを忘れる権利を持たない。しかし、そうであるから こそ、真実は明らかにされなければならないし、虚構を語ることは許されないのである。 この記事をアウシュヴィッツその他の地で霧と消えたユダヤ人の霊前に捧げたい。 |
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「百聞は一見に如かず」とはこのことを云うのだろう。西岡氏の主張は全体に腰が落ち着いており議論素材提供としては何ら欠陥がない。「なぜマルコポーロの記車に過剰反応するか」での小石牧師の主張「本来言論と言うものは言論で反駁するものである。『ガス室はなかった』と言うのが偽りなら、『ガス室はあった』と論証すればいいではないか。それだけの話ではないか」こそ正論であろう。 西岡論文にネオシオニズム勢力が食いついたとして、彼及び彼の論文を擁護することこそ言論界の役目であり、文芸春秋社及びマルコポーロ編集部はそれこそ「言論の自由、表現の自由」を盾に闘うべきではないのか。よしんば広告差し止めなる兵糧攻めに遭わされるなら、その不当性を訴え逆損害賠償でもって闘うのも一法だろう。それを為さずして、掲載誌マルコポーロの廃刊、編集長の更迭、社長辞任(実際には会長になっておるので更迭かどうかは疑わしいが)、文芸春秋社とSWC合同での「ユダヤ人理解のためのSWCセミナー開催」なる完全屈服の道を選んだのが文芸春秋社ではないのか。 その文芸春秋社が「人の噂も七十五日」とばかりに「表現の自由」を盾に「角栄の孫娘のプライバシー漏洩にまつわる週刊文春販売差し止め事件」での不退転闘争に乗り出そうとしている。何のことはない、現代史最強権力者シオニズムに対してはへいこらし、日本の国家権力を握るタカ派系とは親和し、かって戦後保守本流派を形成し戦後の舵取りに多大な寄与を為したハト派に牙を向けているだけのことではないのか。角栄一族に執念で食いつく醜態を見よ。 この文芸春秋社はどういう訳かその昔より立花隆がお気に入りで、週間文春2004.4.8日号にまたしても緊急寄稿4ページものを掲載しているが、その内容批判は別の折に為すとして、この立花こそ一貫してネオシオニストに御用提灯することで尊大ぶっているだけの詭弁家でしかなかろうに。れんだいこに云わせれば、言論界におけるこういう御仁、政界における中曽根、小泉、石原系これらシオニスタンがタカ派系「シオニズム事大主義」的言論でもって日本を溶解しつつある。 立花の2004.4.8日付けの緊急寄稿第二弾「言論の自由の基本を忘れた裁判所・朝日・読売」なる高慢ぶりを見よ。何と、ロッキード事件では超法規的手段によるとも目的の正当性があれば可なる見解を吹聴し続けていたのに、今度はてのひらを返しご都合主義的に「米国の言論の自由に対する態度の厳格性」を賞賛し、そもそも憲法何条では云々だと。ならば、角栄を追い詰めたときの「最高裁、検察庁お墨付きの免責特権付与証言」の適法性、証拠能力性を弁明してみよ。 何てことはない全てが「場当たり式朕が基準」でしかないではないか。つまり、度し難い便宜的政治主義者であることが分かる。シオニズムの玉座を衝立にその陰から健筆するというより本質的な意味での御用性を特質としながら反権力性を売り物にする、という変態的二重性格が透けて見えてくる。 2004.4.5日 れんだいこ拝 |
戦後最大のタブー氏の2001 年 3 月 10 日投稿「ナチスは「ホロコースト」等していない!! ── 「ユダヤ人600万人虐殺」の真実 (2001.3.7)」。
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(私論.私見)