「ホロコースト論争7(山崎カオル氏のホロコースト論)」考

 (最新見直し2006.4.8日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ホロコースト問題はれんだいこの得手とするところではないのだが、「マルコポーロ廃刊事件」に言及したことで勢いホロコーストに対する正確な認識が必要とされるに至った。れんだいこが主催する掲示板「左往来人生学院」で、疲労蓄積研究者氏より山崎カオル氏の「ホロコーストを否定する人々」サイトの紹介を受け、こたび本格的に読んでみることにした。他にも三鷹板吉氏の「66Q&Aもくじ」がある。

 これによりれんだいこの認識する「ホロコースト問題」に如何なる変更を受けるのか否や、分からない。以下、逐次コメント方式で探索してみたい。

 2004.7.18日 れんだいこ拝


【「山崎氏の罵倒言辞」について】
 山崎氏の場合、罵倒言辞が目立つ。史実の解明に向かうよりは、基本的にアラ探しを好む傾向が見て取れる。れんだいこは、「典型的な坊主憎けりゃ袈裟まで憎い、これに対する身内の身びいき引き倒し論法」とみなす。氏の実際の用法を以下列挙する。

「人間として最低」
「恥ずかしげもなく主張する連中」
「うごめいている」
「誠実さをいちじるしく欠く人々」
「おぞましい考えや恥ずかしい意見」
「巧妙」
概要「表面的には公平さを装い実は隠れナチ・シンパ」
「見え透いた手口」
「最初にしゃしゃり出てきたのは、西岡昌紀」
「丸写しで内容をでっち上げ」
「大向こうの受けを狙っただけの、最低の中身」
「西岡さんはドイツ語の文献が読めるふりをしていますが、その発音さえろくに知らない」
「いまだに愚かな発言を繰り返しています」
「ネットワークの基本的なマナーをまるで判っていないし、教えられても守るつもりがない」
「彼はくどくどと同じことを繰り返す名人」
「知的な誠実さをまったく持ち合わせていない人間」
「欧米の否定派のでたらめに依拠してガス室はなかった、ユダヤ人虐殺もなかったといっているだけだという投稿」
「彼らの不誠実で初歩的な事実さえ理解しようとしない態度に、ほとんどうんざりしています」
「いいかげんなよた話ですませられてはかないません」
「彼らがでたらめを一方的に流せる環境を許容するつもりはありません」
「ホロコースト否定派がなにかを叫んだなら、必ずそれに対する徹底した批判が他方で流されるべきです」
彼(木村)の『アウシュヴィッツの争点』を(あきれ果てながら)読了した
陳腐な議論の切り張り
まったくの孫引き
いいかげんな『証拠』と仲間内で流通させている意見しか根拠を持たないでいる人々
まともな論争ができるとはとうてい考えられません
ガス室の存在を否定する人々は、歴史的事実の論証に関する初歩的な手続きさえ守るつもりがないのに、お仲間が作ったいんちき報告やあやしいパンフレットは無条件に信じて、それを『論拠』に果てしなく議論をふっかけてきます。それに巻き込まれると、客観的には彼らの意図(=否定論の拡散)に加担してしまいかねません
さらに、彼らが依拠している「論拠」を、その発信元にいたるまで追求して、否定論が人種・民族差別やネオナチ運動と深くかかわってしか展開されてきていないことを明らかにすることも重要だと思います
極右や反ユダヤ主義者の溜まり場
逃げをうっておられます
ガス室があったかなかったかという議論をすると、否定派は際限なく『論拠』を繰り出し、都合が悪い事実には口をつぐむか、まったく見当はずれの罵声を浴びせるだけです
『争点』での『論証』なるものが、それだけひどく危ういもののうえに築かれている
ヴィダル=ナケは先に挙げた本で、否定派を相手に議論はしないが、否定派については議論すべきだと述べています。私はこの意見に賛成です
彼のひどく粗野で下品な発言
あやしげな団体」、「戦闘的な反ユダヤ主義を唱える集団
彼らに知的誠実さを求めるわけにはいきません。平気で嘘をつき、それを書きまくります
この程度のことも知らないのは困ったこと
まったくの嘘」、「木村さんは「一度嘘をついたものは、二度と信用してはならない」という、シュテークリヒのことばを引用しておられます(『争点』p.232.)。これは木村さんのことを指しているようですね
彼らは仲間内で嘘の増幅をやります
木村さんは性懲りもなく同じことを繰り返します
安易に孫引きですませるので、すぐにぼろが出ます
下司の勘ぐり」、「ずるい」
話を作り替えています
知的不誠実さでみちみちた本
あるのはただ、反ユダヤ主義の妄想からつむぎだされる嘘八百だけです
世の中悪いことはすべてユダヤ人の陰謀だとかいう「どんでも本」を集めて楽しんでいる人々の集まり
とてつもない反ユダヤ主義者
米国の極右社会のなかでも、きわだって右に位置する人
極右・反ユダヤ主義で凝り固まった人々が作った組織
悪名高い右翼
否定派が否定派の憶測を繰り返している
木村さんはご自分のホームページででたらめを垂れ流しつづけています
自分にとって都合の悪いところは口をつぐんだまま
悪質な言及不在があって、このために事態の因果関係が改変され、ユダヤ人がボイコットに走った理由が曖昧にされている
歴史を改鼠
統計を使った嘘
 世の中には可愛らしい嘘もありますが、何百万という人々の悲惨な死にかかわる史実について、嘘ばかりついている連中の嘘を日本語で繰り返すのは、恥です
「為にする議論」
「否定論者の多くは、自分たちに都合がよい部分は宣伝に使うが、都合の悪い部分は意図的に無視する態度を取っている。事実関係の証人として彼らを持ち出すさいには、きちんと『裏をとる』作業が不可欠である。ある論文を読んで、その結論と正反対の結論をそれが主張しているというのは、きわめて悪質な詐欺的行為、途方もない事実の歪曲」

 (私論.私見) 「山崎氏の罵倒言辞考」

 以上、山崎氏は凄まじいまでに罵倒言辞を弄している。「前書き」で、「誠実さをいちじるしく欠く人々とのやりとりですから、私の言葉遣いも少し荒くなったところがありますが、ご容赦下さい」と断ってあり、意識的にこれを為していることが分かる。

 問題は、この言辞の正当性の可否である。これらの言辞の指摘が正しいのであればむしろ対象認識を正確にさせてくれる訳であるから批判すべきではない。問題になるのは、修辞レトリックとして使われている場合である。この場合は、云い得云い勝ちになる。果たしてどちらだろうか。

 れんだいこは、山崎氏が投げかけている罵倒語を逆に山崎氏のほうへ投げ返した場合にどうなるのかで判定できると考える。「極右や反ユダヤ主義者の溜まり場」とあるところを「親ユダヤ主義者の溜まり場」へ、「木村、西岡」のところを「高橋、山崎」に代えて読めばそのまま通ずるのか否か。れんだいこは、通じると見る。ならば双方が同じ言辞を投げ合っているに過ぎないことになろう。

 尤も、「木村、西岡」組は、対象の本質とかけ離れたところでの罵倒は好まない嗜みを持っている、と考える。公平に見て、「高橋、山崎」組の方がヒドイ。この手合いはこういう言辞に酔うところがある。その酔言を聞いて同じように酔う手合いが居る。類は類を呼ぶ原理からすればむべなるかな。れんだいこはとても付き合いきれない。

 2005.2.19日 れんだいこ拝


【「前書き」】
 山崎氏は、前書きで次のように述べている。
 大量虐殺を計画・遂行する人々は最悪ですが、その虐殺をなかったといいたてる人間も最低です。  日本でも、南京虐殺ばかりでなく、ナチス・ドイツによるユダヤ人たちの大量殺戮(ホロコースト)も存在しなかったと、恥ずかしげもなく主張する連中がいます。

   ただのナチス賛美者やネオナチのシンパだったら、ここで相手にするつもりは毛頭ありません。しかし、ナチズムには反対だが、ホロコーストはシオニストのでっちあげた神話だと述べて、より巧妙に大量虐殺の歴史を抹殺しようとする人々が、Webのなかで発言権を確保しようとうごめいています。具体的には、西岡昌紀さんと木村愛二さんです。

 最初にしゃしゃり出てきたのは、西岡昌紀さんです。彼は神経内科の医者だそうですが、文藝春秋社の雑誌『マルコポーロ』(1995年2月号)に、「戦後世界最大のタブー。ナチ”ガス室”はなかった」という記事を書いています。私は発表当時にそれを読んでみましたが、あきれただけでした。この西岡さんは欧米の否定派文献のいくつかをざっと読んで、その丸写しで内容をでっち上げたにすぎません。センセーショナリズムが特徴で、要するに大向こうの受けを狙っただけの、最低の中身です。この記事が原因になって『マルコポーロ』が廃刊に追い込まれたことは、ご存じの方も多いと思います。

    『マルコポーロ』騒ぎの少しあとに、木村愛二さんというジャーナリストが『アウシュヴィッツの争点』(リベルタ出版、1995年)を出版して、派手にホロコーストはなかった、アウシュヴィッツにはガス室さえなかったと騒ぎだしています。木村愛二さんは長いキャリアを持つジャーナリストで、いくつも本を出しており、民衆の側に立ったメディアに関心のある人々のあいだでは、それなりに知られた存在でした。突然、こうした変身をとげたことに、驚いたりとまどったりした仲間も多かったようです。また、出版元のリベルタ出版は、私もそこから出された本を何冊か持っている、「まっとうな」出版社です(でした、というべきでしょうね。ここから出される本はもう絶対に買いません)。

 Amlでは高橋亨さんが、木村さんが挙げる「証拠」や資料についてきちんとした手厳しい批判をつづけておられ、私が出る幕はないと思っていたのですが、木村さんや西岡さんの本や投稿を読むにつれて、これは私も黙っているべきではないと思い、aml-stoveに『アウシュヴィッツの争点』が事実を確認しないで、欧米の否定派のでたらめに依拠してガス室はなかった、ユダヤ人虐殺もなかったといっているだけだという投稿を行なっています。しかし、彼らの不誠実で初歩的な事実さえ理解しようとしない態度に、ほとんどうんざりしています。

   私はある事情から、彼らとかかわることになり、その議論の中味をチェックしました。ここで吟味の結果の一部を公表します。  誠実さをいちじるしく欠く人々とのやりとりですから、私の言葉遣いも少し荒くなったところがありますが、ご容赦下さい。

(私論.私見)「前書き」考

 山崎氏は、「ナチス・ドイツによるユダヤ人たちの大量殺戮(ホロコースト)」を史実として、ナチスの蛮行を糾弾することに社会正義を見出している。これに疑問を唱える西岡、木村見解を論破することをサイトの使命としていることを明言している。

 れんだいこは思う。ホロコーストは流布されている通説であるから、これに異論を挟むことは難しい。指摘せねばならぬことは、かってのホロコーストを糾弾するのなら、現下イスラエル軍の中近東一帯での新大量殺戮戦争についてもこれを糾弾せねばなるまいに、この視点が欠落しているあるいはトーンが急にダウンしているように見えることである。この観点の無いままの山崎流ホロコースト論に一種陰りを見るのはれんだいこだけだろうか。


 なお、山崎氏は、「マルコポーロ廃刊事件」について、これを非としていない。むしろ当然視しているように見えるがこの態度はいかがなものだろうか。

 2005.2.19日 れんだいこ拝


【「背景説明」】
 山崎氏は、「背景説明」で概要次のように述べている。
  ドイツ、フランス、米国、イギリス等で、ネオナチないしそれに近い政治主張の持ち主達によりホロコースト否定論が唱えられている。そういうホロコースト否定派( Holocaust Deniers)が存在する。日本でも彼らに示唆された否定派が抬頭してきており、西岡昌紀氏の「アウシュウィッツ『ガス室』の真実」(日新報道、1997年)」、木村愛二氏の「アウシュヴィッツの争点」(リベルタ出版、1995年)が影響を与えている。高橋亨氏は、木村氏が挙げる「証拠」や資料についてきちんとした手厳しい批判をつづけておられるが、私山崎も参戦する。
(私論.私見) 「山崎氏の参戦」考

 山崎氏は、ドイツ、フランス、米国、イギリス等で根強いホロコースト否定論があることを承知で、日本でも否定派が台頭しつつあることを承知で、その否定論を潰すために「参戦」すると云う。れんだいこは、山崎氏のホロコースト論の立脚点に興味を持つ。マルクス主義的反戦平和思想に拠ってか、単に親シオニズム的反戦平和思想に拠っているのか、その見極めが肝心だ。

 2005.2.19日 れんだいこ拝

【「AML-STOVEでの遣り取り」】

 山崎氏は、ホロコーストを否定する人々「AML-STOVEへの私の投稿」で概要次のように述べている。れんだいこが要約解析しつつこれにコメント付ける。
  木村氏の「西側にはガス室はなかったというのが事実上の定説」発言に対して次のように反論している。
 「ドイツ国内にガス室は存在していた。ベルリン近くのブランデンブルク、ヘッセンのハダマール、ザクセンのゾンネンシュタインといったところにガス室と焼却炉があって、ナチスのいわゆる『生きるに値しない生命の絶滅』(Vernichtung lebensunwe rten Lebens)政策により1940−41年のたった二年間で少なくとも7万の人々が殺されている。ドイツ国内のユダヤ人強制収容所にはガス室がなかっただけで、ガス室そのものはドイツ内部に存在していた」。
(私論.私見) 「ユダヤ人強制収容所内のガス室及び焼却炉の存在論争」考

 木村氏の「西側にはガス室はなかったというのが事実上の定説」、「否、ユダヤ人が押し込められていたドイツ国内の収容施設にはガス室そのものが無かった」なる指摘は、それが事実なら衝撃的な指摘である。通説は、「ユダヤ人はその収容施設のガス室において大量虐殺された」であるからして真っ向からの通説否定になる。

 山崎氏は、これをどう再否定しているか。ユダヤ人を送り込んでいないことが判明して居る他所の収容所でのガス室と焼却炉の存在を挙げ、概要「ドイツ国内のユダヤ人強制収容所にはガス室がなかっただけで、他所にはあった。よって、ガス室そのものはドイツ内部に存在していた」なる弁を弄している。「ユダヤ人強制収容所内のガス室及び焼却炉の存在論争」している時に、そんな傍証挙げてどうするのだ。いわゆる煙巻き論法ではないのか。

 「ドイツ国内のユダヤ人強制収容所にはガス室がなかったのかどうなのか」まずここをはっきりさせねば議論にならない。次に、「そこにはなかったが、旧ポーランド領のアウシュヴィッツ、ビルケナウにはあったのだ」とするのならそう云えば良いのに。議論というのは分かりやすくせねばならない。

 2005.2.19日 れんだいこ拝

 ホロコースト肯定派が否定派と「なぜ議論をしないのか 」について次のように説明している。
その@  「まともな論争ができる相手ではない。そういう相手の土俵に乗って議論することは、客観的には彼らの意図(=否定論の拡散)に加担してしまいかねない」、 「ガス室があったかなかったかという議論をすると、否定派は際限なく『論拠』を繰り出し、都合が悪い事実には口をつぐむか、まったく見当はずれの罵声を浴びせるだけである。ヴィダル=ナケが『否定派を相手に議論はしないが、否定派については議論すべきだ』と述べているが、私はこの意見に賛成である」。
そのA  「彼らが依拠している論拠を、その発信元にいたるまで追求して、否定論が人種・民族差別やネオナチ運動と深くかかわってしか展開されてきていないことを明らかにすることも重要である」、「木村氏が拠り所としている言説の主張者は、人種差別主義者であり極右や反ユダヤ主義者である。木村氏は、こうした連中及び出版社のネタ本から情報を仕入れて論を構築している」。
(私論.私見) 「ホロコースト肯定派と否定派の論争」考

 山崎氏は、ホロコースト肯定派が否定派とは議論しない理由として次のように述べている。「まともな論争ができる相手ではない。そういう相手の土俵に乗って議論することは、客観的には彼らの意図(=否定論の拡散)に加担してしまいかねないので論争しない。『否定派を相手に議論はしないが、否定派については議論すべきだ』。彼らが依拠している論拠を、その発信元にいたるまで追求する」。

 しかし、この論法はかなりケッタイナそれである。当然議論すべきなのに、1・まともな論争ができる相手ではない。2・相手の土俵に乗って議論することは、客観的には彼らの意図(=否定論の拡散)に加担してしまいかねない。3・否定派を相手に議論はしないが、否定派については議論すべきだ。4・彼らが依拠している論拠を、その発信元にいたるまで追求する、と云う。しかし、「議論を避け、相手の身元調査を重視する」手法は、アカ狩りの時の治安警察が採った態度と瓜二つではないのか。少なくとも権力側の理論ではある。

 一般に、「議論はいつも有益で、正しいと思う方がどんどん議論を仕掛け、議論を好んで求めるべき」であろう。言論は言論であり、その中身の精査が一番であり、相手が何者であるかは次の問いであるべきなのに逆転させられている。れんだいこは、無茶苦茶な論法であると指摘しておこう。

 2005.2.19日 れんだいこ拝

 否定派の論客・マーク・ウィーバー氏について次のように評している。
 「否定派の論客・マーク・ウィーバーは、極めつきのネオナチが創立した極右組織に関わっており、聖書ファンダメンタリスト団体と密接な関係にある。彼らは、戦闘的な反ユダヤ主義を唱える集団で、1995年にオクラホマで連邦ビルを爆破して、多数の死者を出したブランチ・デヴィディアンの同類のようである。木村氏はこういうグループと誼を通じている」。
(私論.私見) 「否定派の論客・マーク・ウィーバー氏について」考

 れんだいこは、マーク・ウィーバー氏が否定派の論客であるなら、氏の言を知りたい。それに触れず、1・極めつきのネオナチ極右組織に関わっている。2・聖書ファンダメンタリスト団体と密接な関係にある。3・1995年にオクラホマで連邦ビルを爆破して、多数の死者を出したブランチ・デヴィディアンの同類。4・木村氏はこういうグループと誼を通じている、などと傍証を列挙する。この手法も、権力機関の常套手法である。

 安易な決め付けは、云い得云い勝ちであり、れんだいこが素直に「そったらひどい奴か」と思うと思ったら大間違いだぞ。

 2005.2.19日 れんだいこ拝

  否定派の論法について次のように論難している。
その@  「彼らに知的誠実さを求めるわけにはいかない。平気で嘘をつき、それを書きまくる。例えば、木村氏の『アウシュヴィッツの嘘』では、ティース・クリストファーゼンを元ドイツ軍の中尉であり非ナチスとして登場させているが、彼はれっきとしたナチス党員であり決して中立的な人物ではない。連中はこういう嘘を平気でつく。木村氏がシュテークリヒの言葉『一度嘘をついたものは、二度と信用してはならない』を引用するのはおこがましい。まず自分自身を省みよ。こういう都合の悪い指摘がなされると、連中は決まって沈黙し続ける」。
そのA  「彼らは仲間内で嘘の増幅をやる。マルコポーロに掲載された論文で、西岡氏は、マルティン・ブローシャトの1960年の『声明』に触れた下りで、歴史家のマルティン・ブローシャト氏を西ドイツの現代史研究所の所長として登場させており、木村氏も同様に紹介している。これについて、西川正雄氏が適切に批判しているが、ブローシャト氏が現代史研究所の所長になったのは1976年のことで、1960年時点では所長ではない」。
(私論.私見) 「ティース・クリストファーゼン、マルティン・ブローシャト氏の履歴」考

 ティース・クリストファーゼン、マルティン・ブローシャトが取り上げられているが、ホロコースト論争の中でのそれぞれの発言ないし位置づけが為されていない。よって、事情が分からない者には何のことか分からない。西岡ー木村組への批判ばかりを聞かされる。問題は、彼らの発言の吟味だろうに。

 ティース・クリストファーゼンが非ナチスか親ナチスか。マルティン・ブローシャトが1960年当時西ドイツの現代史研究所の所長か否かにつき西岡−木村氏の主張に誤りがあるとすれば訂正で済む話であり、殊更重大にせねばならないことではない。

 2005.2.19日 れんだいこ拝

 「ブローシャト氏の『声明』」について、次のように述べている。
 「ブローシャト氏の『声明』は、ドイツ国内にはガス室は(稼働していたものだけですが)なかったとだけしかいっていない。彼の投稿にはきちんと、占領された東側地域(ポーランド)にはアウシュヴィッツを含めてガス施設があって、ユダヤ人がそれで大量に殺されたとも書いている。つまりブローシャトはガス殺戮の存在を認めているのだが、木村氏はこの点に触れない。

 都合の悪い点になると触れず、そこのところは省略して、ドイツ国内にガス室はなかったという箇所だけを取り上げる。こういう知的不誠実さでみちみちた本が、『アウシュヴィッツの争点』であり、反ユダヤ主義の妄想からつむぎだされる嘘八百が書き連ねられている」。
(私論.私見) 「マルティン・ブローシャト氏の『声明』」考

 「マルティン・ブローシャト氏の『声明』」については、れんだいこが折を見て解析して見よう。山崎氏の批判が当たっているのかどうかそれも吟味してから発言することにする。気になることは、「声明」が「ドイツ国内にガス室はなかった」と述べた時の意義である。当時におけるこの発言の重みを踏まえないと駄弁批判になろう。

 2005.2.19日 れんだいこ拝

 「木村氏の『アウシュヴィッツの争点』」について、次のように述べている。
 「木村氏は、『アウシュヴィッツの争点』で、『本の原資料と論理を徹底的に自分の手で、自分の目で、検証し直して、初めて一応の発言権を得る』、『もともと、わたしの資料収集の基本方針は相手の組織や個人の思想、政治的立場などにいっさいとらわれず、可能なかぎりの関係資料、耳情報を収集して、比較検討、総合分析を心がけるのが主義である』と見栄を切っているが、そういう木村氏の原資料は、欧米の否定派のそれに頼っているに過ぎない。その論客のウィリアム・マキャルデン(別名ルイス・ブランドン)、ウィリス・カート、ウィーバー、フォリソン、シュテークリヒらは極右・反ユダヤ主義で凝り固まった人々で札つきの否定派である」。
(私論.私見) 「木村氏の原資料」考

 山崎氏は、「木村氏の原資料は、欧米の否定派のそれに頼っているに過ぎない。その論客のウィリアム・マキャルデン(別名ルイス・ブランドン)、ウィリス・カート、ウィーバー、フォリソン、シュテークリヒらは極右・反ユダヤ主義で凝り固まった人々で札つきの否定派である」と批判しているが、云い得云い勝ちのように聞こえる。山崎ー高橋組の場合は、「欧米の肯定派のそれに頼っているに過ぎない。その論客の***、***、***らは極右・親ユダヤ主義で凝り固まった人々で札つきの肯定派である」ということにならないのか。

 2005.2.19日 れんだいこ拝

 
 「 アウシュヴィッツの最後の収容所長だったリヒャルト・ベーアの不審死」について次のように反論している。
 木村氏は、1960年になって逮捕され、裁判がはじまる63年に急死したリヒャルト・ベーア氏について、「不審な死」とみなし、ガス室がなかったことの直接の証人の口を封じるために沈黙させられたのではないかと憶測している。

 ならば、 ユダヤ人虐殺を知りホロコーストの秘密を握っていたヴァンゼー会議の主催者でありSSの超大物だったハインリヒ・ヒムラーの「不審な死」をどう理解するのか。ヒムラーは、戦争末期にひそかに西側連合軍と和平交渉を試み、それを知って激怒したヒトラーによってすべての官職を剥奪されて、孤立無援の情況にあり、ひとり変装して逃れようとして連合軍に逮捕され、万やむを得ず自殺したのが真相であり、「不審死」と云うべきではない。同様にリヒャルト・ベーアの不審死をことさらに論うべきではない。
(私論.私見) 「アウシュヴィッツの最後の収容所長だったリヒャルト・ベーアの不審死」考

 「アウシュヴィッツの最後の収容所長だったリヒャルト・ベーアの不審死」について、木村氏は、不審死とみなしている。山崎氏は、それを肯定も否定もせぬまま「ユダヤ人虐殺を知りホロコーストの秘密を握っていたヴァンゼー会議の主催者でありSSの超大物だったハインリヒ・ヒムラーの不審な死」を持ち出して相殺しようとしている。これも煙巻きすり替え論法の類である。

 こんな馬鹿な議論があるだろうか。「ヒャルト・ベーアの不審死」はどうなのか、「ハインリヒ・ヒムラーの不審な死」はどうなのか、それぞれ個別に審査し議論すれば良い。それを逆に、「同様にリヒャルト・ベーアの不審死をことさらに論うべきではない」と云う。これは無茶な論法ではないのか。

 2005.2.19日 れんだいこ拝

  アウシュヴィッツ最後の所長リヒャルト・ベーアの「アウシュヴィッツの第一収容所でガス殺害をみてはいない」発言について次のように反論している。
 アウシュヴィッツ最後の所長リヒャルト・ベーアは、確かに自分がかかわったアウシュヴィッツの第一収容所でガス殺害をみてはいないと述べているが、同時に、ガスでユダヤ人を殺したのはビルケナウの第二収容所のほうだったとも語っている。ビルケナウにガス室があったことを、ベーアは認めている。ビルケナウはアウシュヴィッツと一体になっていた収容所である。。アウシュヴィッツの最高責任者だった人間が、ガス室の存在を認めている。木村氏はこの点について沈黙している。ブローシャトもベーアも「ガス室はあった」派に属するのに、木村氏はそれを否定派側として使っている。
(私論.私見) 「アウシュヴィッツの最後の収容所長だったリヒャルト・ベーアの『アウシュヴィッツの第一収容所でガス殺害をみてはいない』発言」考

 リヒャルト・ベーアの証言を廻って、木村氏は否定派の論拠として使う。山崎氏は、肯定派の論拠に使う。こうなると、れんだいこ自身が精査して判断せねばならない。いずれの側に立つにせよ、自分で文献に当たるべきで、この種の人の話にはうかうかと乗ってはいけない。

 気になることは、リヒャルト・ベーアの「アウシュヴィッツの第一収容所でガス殺害をみてはいない」発言の意義である。当時におけるこの発言の重みを踏まえないと駄弁批判になろう。

 2005.2.19日 れんだいこ拝

「否定派を相手に議論はしないが、否定派については議論すべきだ」について れんだいこ 2004/07/20
 山崎氏曰く、ホロコースト肯定派が否定派と「なぜ議論をしないのか 」について概要次のように述べている。「まともな論争ができる相手ではない。そういう相手の土俵に乗って議論することは、客観的には彼らの意図(=否定論の拡散)に加担してしまいかねないので論争しない。『否定派を相手に議論はしないが、否定派については議論すべきだ』をモットーとする。彼らが依拠している論拠を、その発信元にいたるまで追求し、正体を暴く」。

 この論法にそうだそうだと相槌打つ者は左派の人士ではない。むしろオカシイと気づくべきだ。この論法はどちらかといえば治安警察的なそれであり、権力者が常用する論法であり、左派精神からすると邪道だ。

 否定派の身元調査したら概ね人種差別主義者、親ナチ、キリスト教原理主義者、反ユダヤ主義者だったという弁で説得を試みているが、反ナチのレズスタンス派でれっきとした左翼の場合もある。現場証人の場合もある。

 つまり、身元調査で言辞の質を落としこめるのは作法としていかがわしいことを知るべきだ。あくまで言論の中身の精査に向かうべきで、正しいと信ずる方こそが議論を求め闘わせより説得的であらねばならない。

 議論の土俵に乗ることは相手を利することになるから避けるなんて論法がまともである訳が無い。しかし考えてみたら、南京大虐殺事件論争においてもこれと良く似た論法をしていたな。木村氏の小泉訴訟に対しても何や複雑な見方の披瀝があったな。宮顕のリンチ致死事件の解明、戦後の出獄時の変調さの議論の時にも、党中央は「解決済み」なる論法で議論を避けているな。

 結論。議論を避けてはいけない。「否定派を相手に議論はしないが、否定派については議論すべきだ」は反動的姑息な見解だ。かく認識すべきことは、議論を志す者にあってはイロハのことである。そのイロハが踏みにじられている。

【「山崎氏のホロコースト論」】

 後日の証にする為もあり、「山崎氏のAML-STOVEへの私の投稿を転載しておく。(読みやすくするため、れんだいこが任意に段落替え、行替えする)

    以下にとりあえず、aml_stoveに送った投稿を貼ります。ふたつほどあった誤字を直しておきました。また、ヘッダーのうち必要ないものと、末尾につく署名は削ってあります。

    Date: Mon, 15 Feb 1999 13:01:33 +0900
    From: ykaoru@tku.ac.jp (Kaoru Yamasaki)
    Subject: [aml-stove 121] ドイツ国内のガス室

    木村愛二さんの大活躍はamlでは終わってしまうようですが、ちょうど彼の『アウシュヴィッツの争点』を(あきれ果てながら)読了したところなので、ほんの少しだけ残念です。

    ホロコーストやガス室の存在を否定する人々(以下、否定派)はだいたいにおいて無精で、仲間内の議論をあれこれと増幅するか、批判にならない批判をただ繰り返すかしかなく、あまり面白い展開は期待できません。『マルコポーロ』にのった西岡昌紀さんの「論文」はその典型(要するに自前の論証がまるでなく、否定派がすでに出している陳腐な議論の切り張り)だったのですが、『アウシュヴィッツの争点』という本文300ページを越える本も変わりなく、否定派に共通するメンタリティをいささかも越えていません。このへんで議論を終えるのが適当かもしれません。

    ただ、ひとついっておきたいことがあります。
    木村さんはDie Zeitに掲載されたマルティン・ブロシャート(「マーティン」ではありません)の有名な投書を引きながら(それもまったくの孫引きですが)、「西側にはガス室はなかった」というのが「事実上の定説」になったと述べておられます(『争点』p.229.)。この「西側」は少しまえで「西側占領地域」とも呼ばれているので、そうだとするとフランスやオランダなどのことかもしれませんが、ドイツのダッハウが挙げられているので、たぶんポーランドより「西側」、ドイツ国内ということなのでしょう。ブロシャートの文章でもそうなっています。

    強調しておきますが、ドイツ国内にガス室がまったくなかったわけではありません。あくまでも国内の強制収容所にガス室がなかっただけです。ガス室そのものはドイツ内部に立派に(!)存在していました。ベルリン近くのブランデンブルク、ヘッセンのハダマール、ザクセンのゾンネンシュタインといったところにはちゃんとガス室と焼却炉があって、1940−41年のたった二年間で少なくとも7万の人々を殺しています。犠牲者の多くは精神「障害」者でした。大人も子供も含まれます。大部分がドイツ人です。いわゆる「生きるに値しない生命の絶滅」(Vernichtung lebensunwe rten Lebens)というすさまじい発想の具体化にほかなりません。このガス殺戮で培われたノウハウが、担当した医者や技術者とともに、アウシュヴィッツ等に移植されるのです。

    詳しいことはゲッツ・アリー、クラウス・デルナー、エルンスト・クレー、ヴァルター・シュミットたちの研究に書かれています。ハダマールについてだけで、何冊もの本が出版されています。英語では
    Michael Burleigh, Death and Deliverance: 'Euthanasia' in Germany c.1900-19 45, Cambridge Univ. Press, 1994.
    Henry Friedlander, The Origins of Nazi Genocide: From Euthanasia to the Fi nal Solution, Univ. of North Carolina Press, 1995.
    がよいと思います。アリーたちの仕事の一部は英語になっています。
    Goetz Aly, et al., Cleansing the Fatherland: Nazi Medicine and Racial Hygi ene, The Johns Hopkins Univ. Press, 1994.
    もっとも新しい関連する研究として、つぎの論文を挙げておきます。
    Michael Schwartz, ""Euthanasie"-Debaten in Deutschland(1895-1945), Viertel jahrshefte fuer Zeitgeschichte, Oktober 1998.
    日本語では
    ベンノ・ミュラー=ヒル『ホロコーストの科学』岩波書店、1993年
    南利明『ナチス・ドイツの社会と国家』勁草書房、1998年
    に有益な記述があります。

    ついでながら、木村さんが「ひろく共同研究をよびかける」(『争点』p.335.)つもりなら、まずはドイツ語にみがきをかけられることをおすすめします。日本語がほとんど読めない人から、「関東大震災では朝鮮人虐殺はなかった」という共同研究をよびかけられても、だれも相手にはしないのです。オイゲン・コゴンたちが編集した真に貴重な資料集さえ、『争点』の参考文献に入っていません。

    Eugen Kogon, et al.(hrsg.), Nationalsozialistische Massentoetung durch Gif tgas. Eine Dokumentation, S. Fischer Verlag, 1983.
    「真に実証的な研究者」(『争点』p.333.)であるためには、どうしても必要な資料や研究は絶対に読むことが条件になります。これはなにも「アカデミー業界」の狭い約束事ではありません。先にちょっと出しておいた雑誌Vierteljahrshefte fuer Z eitgeschichite(『現代史四季報』とでも訳しますか)は、ドイツの現代史の研究状況を知るにはまずもってsine qua nonで、ことしになって出た最新号には1953年の創刊から1997年までの内容総覧があります。そのなかのDeutsche Geschichte 1933-1945のうち、Rassenpolitik, Verfolgung und Vernichtung aus rassenpolitis chen Motivenの項に挙げられている諸論文程度は押さえてほしいものです。

    さらについでながら、私は別にドイツ史の専門家ではありません。 もっとついでながら、モンタンが歌った『枯れ葉』を作曲したのはジョセフ・コスマであって「ジョン・コスマ」(『争点』p.317.)ではありません。

    Date: Wed, 17 Feb 1999 14:00:25 +0900
    From: ykaoru@tku.ac.jp (Kaoru Yamasaki)
    Subject: [aml-stove 123] なぜ議論をしないのか

    高橋さんがいわれることも判らないわけではありません。しかし、木村さんの発言でもお判りのように、いいかげんな「証拠」と仲間内で流通させている意見しか根拠を持たないでいる人々と、まともな論争ができるとはとうてい考えられません。これは否定派を無視することではなく、彼らの主張に対して黙っていることは論外です。しかし、私たちが彼らの土俵に乗る必要はないのではないでしょうか。

    ガス室の存在を否定する人々は、歴史的事実の論証に関する初歩的な手続きさえ守るつもりがないのに、お仲間が作ったいんちき報告やあやしいパンフレットは無条件に信じて、それを「論拠」に果てしなく議論をふっかけてきます。それに巻き込まれると、客観的には彼らの意図(=否定論の拡散)に加担してしまいかねません。

    彼らに対してできることは、別の土俵で議論することだと思います。なぜこの時期に否定派が騒々しく登場してきたのかを、きちんと分析することはそのひとつでしょう。ピエール・ヴィダル=ナケの『記憶の暗殺者』(人文書院)がフランスでやったことを、日本でもやる必要があり、木村さんの発言も、そのための素材に使えるので、どんどんご自分のホームページを充実させてほしいものです。

    さらに、彼らが依拠している「論拠」を、その発信元にいたるまで追求して、否定論が人種・民族差別やネオナチ運動と深くかかわってしか展開されてきていないことを明らかにすることも重要だと思います。

    例えば木村さんが親しくつきあっておられ、ことあるごとに依拠している米国の否定派であるマーク・ウィーバーは、デボラ・リップスタットの調査(Deborah Lipsta dt, Denying the Holocaust, Penguin edition, p.186.)によれば、アフリカ系やヒスパニック系の米国人を「二流市民」呼ばわりするご立派な白人優越主義者ですし、別の資料によれば、米国ネオナチ運動のひとつNational Allianceに深くコミットしてきています。私のようなyellow monkeyは、あまり彼の近くにいたくありません。

    このウィーバーが指導力を発揮しており、否定派の根拠地(もちろん木村さんの主要な根拠地でもある)になっているInstitute for Historical Review(IHR)は、極右や反ユダヤ主義者の溜まり場です(例えば一時所長を務めた ウィリアム・マキャルデンのように)。また、IHRは姉妹組織としてNoontide Pressという出版社を持っています。この出版社のホームページにはIHRとのリンクしか情報がない(!)ほど、両者は近しい関係にあります。IHRに置かれている同社の出版カタログ(http://ihr. org/np/catalog.html)のなかからRace and Cultureという項目を選んでみると、白人と黒人とのあいだには生得的な知能格差があるとか、フェミニズムの「いんちき」(quackery)を暴くとかいう内容の、人種差別、性差別の本がごっさりと並んでいます。否定派の人脈や知的(痴的?)環境は、このように多様な差別と切り放しがたく結びついています。こうしたところから出されている出版物が、木村さんのネタ本なわけです。

    木村さんは『争点』で「資料の利用にあたっては、執筆者の思想的背景をあえて問わないことにする」(p.31.)と逃げをうっておられます(高橋さんにはいたけだかに「立場の明示」を要求するのにね)。これが実は彼の痛い点です。「私が書いた本の基本的な材料は、極右、ネオナチ、人種・民族差別派から提供された」と正直にいうことができず、「執筆者の思想的背景をあえて問わない」とわざわざ断りを入れなければならないのは、『争点』での「論証」なるものが、それだけひどく危ういもののうえに築かれているからです。

    ガス室があったかなかったかという議論をすると、否定派は際限なく「論拠」を繰り出し、都合が悪い事実には口をつぐむか、まったく見当はずれの罵声を浴びせるだけです。欧米でそうだっただけでなく、木村さんはみごとに日本でもそのことを証明してくれました。ヴィダル=ナケは先に挙げた本で、否定派を相手に議論はしないが、否定派については議論すべきだと述べています。私はこの意見に賛成です。木村さんはこれからはamlやaml-stoveで議論はしないようですが、私たちが『アウシュヴィッツの争点』や類似するいんちき商品の内容を、ここで議論することは、なにも彼の参加を必要としません。もちろん、排除するつもりもないのですが、彼のひどく粗野で下品な発言にわずらわされずに話ができるのはちょっと素敵です。

    ひまをみつけてこれからも、否定派の「思想的背景をあえて問」う作業をつづけたいと思います。

    Date: Wed, 17 Feb 1999 15:10:39 +0900
    From: ykaoru@tku.ac.jp (Kaoru Yamasaki)
    Subject: [aml-stove 124] aml-stove 123への追伸

    木村さんの主な「論拠」のひとりであるマーク・ウィーバーの「思想的背景」について、若干の追加情報です。 ウィーバーがかかわってきた極右組織であるNational Allianceは、もともとウィリアム・ピアースという極めつきのネオナチが創立した組織で、Webサイトも持っています。
    http://www.natall.com/index.html
    さらに、National AllianceはCosmotheist Community Churchという聖書ファンダメンタリスト団体と密接な関係にあります。この教会はAFFの「カルト調査」データベース
    http://www.csj.org/infoserv_groups/grp_biblebased/grp_biblebase_index.htm
    にも名前を挙げられているあやしげな団体です。
    http://wellspring.albany.oh.us/thunder.html
    によると、このNational Alliance/Cosmotheist Community Churchは、戦闘的な反ユダヤ主義を唱える集団だそうです。また
    http://www.atheism.org/library/modern/james_haught/farout.html
 は「武装した白人優位の人種間憎悪をあおる一団」のなかに入れています。1995年にオクラホマで連邦ビルを爆破して、多数の死者を出した「ブランチ・デヴィディアン」の同類のようです。こわーいですね。 ウィーバーはこの教会の一員でもあります。

    こういう人の意見を木村さんは『アウシュヴィッツの争点』などで積極的に持ち上げ、さらには彼を自分の裁判の証人に申請してもいます。「黄色い奴等」が、ウィーバーにとってどんな位置を占めているのか、ぜひ聞いていただきたいものです。

    なお、木村さんはシオニストの暴力に怒っておられます。私も暴力に頼るのは拒否しますが、ホロコースト否定派が少なくとも米国で親密な関係にあるネオナチ、カルト、ミリシア等の暴力を「まったくふくまれてない」(『争点』p.30.)といわれては、困惑するだけです。

    Date: Thu, 18 Feb 1999 16:07:30 +0900
    From: ykaoru@tku.ac.jp (Kaoru Yamasaki)
    Subject: [aml-stove 125] 嘘つきはなんのはじまり?

    ホロコースト否定派の代表的な手口のいくつかを、これから書いてみるつもりです。
    なによりもまず、彼らに知的誠実さを求めるわけにはいきません。平気で嘘をつき、それを書きまくります。 例えば、木村さんがあちこちで典拠にしている本のひとつにティース・クリストファーゼン(ドイツ語がほとんど読めないらしい木村さんは「ティエス・クリストファーセン」と表記しておられますが)の『アウシュヴィッツの嘘』があります。この著者について、木村さんの『アウシュヴィッツの争点』には
    「元ドイツ軍の中尉」(p.155)
    「クリストファーセン自身も、ヒトラーに忠誠を誓う親衛隊員などではなかった。中尉の位はあるが、前線で負傷して云々」(p.157.)
    とあります。ヒトラーが国防軍全体に自分に対する忠誠の誓いを要求したことは有名な史実で、親衛隊だけの話ではありません。この程度のことも知らないのは困ったことですが、それは脇に置いておきましょう。

    これはまったくの嘘です。 クリストファーゼンは親衛隊員でした。もともとナチス党員でもありました。これはよく知られている事実です。強引に読めば「ヒトラーに忠誠を誓わなかった親衛隊員」だったかもしれないと解釈ができなくもないのでつけくわえておきますが、彼は戦後もネオナチの一員として長く華々しい活動をつづけてきています。それを木村さんは「元ドイツ軍の中尉」(こう書かれたら当然、国防軍Wehrmachtのそれだと思いますね)にしたてたうえで、彼の立場を「中立」だといっているのです。クリストファーゼンの『嘘』を論拠に使うためには、こうした「嘘」が必要になるのです。

    木村さんは「一度嘘をついたものは、二度と信用してはならない」という、シュテークリヒのことばを引用しておられます(『争点』p.232.)。これは木村さんのことを指しているようですね。

    また、彼らは仲間内で嘘の増幅をやります。  『マルコポーロ』に掲載された「論文」で、西岡さんは西ドイツの現代史研究所の「所長」であったマルティン・ブローシャト(発音を確かめたので「ブロシャート」を訂正します)の1960年の「声明」(週刊誌『ディー・ツァイト』に載った)に触れています。ブローシャトを個人的に知っている西川正雄さんが、それについては適切に批判されていますが(『アウシュヴィッツとアウシュヴィッツの嘘』白水社、に所収)、木村さんは性懲りもなく同じことを繰り返します(『争点』p.228.)。ネタは西岡さんと同じようで、シュテークリヒの『アウシュヴィッツ神話』の英訳です。自分で調べればよいのに、安易に孫引きですませるので、すぐにぼろが出ます。木村さんはこう書いています。

    「・・・つぎのような要旨の投書がのった。
    『ダッハウでも、ベルゲン・ベルゼンでも、ブーヒェンヴァルトでも、ユダヤ人はかの被収容者で、ガス室によって殺されたものはいなかった』
    投書の主は、ミュンヘンにある西ドイツ(当時)国立現代史研究所の所長で、歴史家のマーティン・ブロシャット博士だった。」

    ブローシャトはここでも「所長」です。最初に断っておきますが、ブローシャトが現代史研究所の所長になったのは1976年のことで、1960年に「公式決定」もへったくれもありません(西ドイツの歴史学には「公式決定」などありえないことも付言しておきます)。  また、現物を読んでいないので、ブローシャトの投書の書き出しの部分にある文章を「要旨」にしてしまっています。これだから孫引きはだめなのです。

    もっと悪質なのは、木村さんがさらに一歩を進めて、それこそ下司の勘ぐりをしていることです。彼はブローシャトが「個人名による新聞投書という非公式な便宜的手段」を選んだといって、ただちに「公式決定と公式な回答発表をさまたげ」られたと、なにか裏で陰謀があったように述べます。それをやったのは「いったいどこのだれなのだろうか」と、木村さんは叫びます。

    ブローシャトの現物を読めばすぐに判ることですが、彼は『ディー・ツァイト』に載ったある記事に対する反論の意味で同誌に投稿したのです。「非公式な便宜的手段」などではない、ごく普通に使われる意見発表手段を行使しただけです。「どこのだれ」もまるで無関係で、例えばaml-stoveに載った意見にaml-stoveで反論するのと同じことでしかありません。もっとも、木村さんは私のaml-stoveへの投稿にamlでかみつくというルール違反を平然とやれる人なので(初歩的なことを確認させていただくと、 aml-stoveの記事をamlのメンバーすべてが取っているわけではないので、これではなんのことか判らない人たちが出るのです)、ブローシャトの投書のコンテクストも理解できないのかも知れません。

    さらにずるいことに、ブローシャトがドイツ国内にはガス室は(稼働していたものだけですが)なかったとだけしかいっていないように、話を作り替えています。彼の投稿にはきちんと、占領された東側地域にはアウシュヴィッツを含めてガス施設があって、ユダヤ人がそれで大量に殺されたとも書いてあります。つまりブローシャトはガス殺戮の存在を認めているのです。木村さんにはひどく都合の悪いことです。もっとも彼は投書をまるで読んでいないので、この点には触れないですむのですが。

    こういう知的不誠実さでみちみちた本が、『アウシュヴィッツの争点』です。そこには「争点」なんかありはしません。あるのはただ、反ユダヤ主義の妄想からつむぎだされる嘘八百だけです。 私としてはかなりまじめに、『アウシュヴィッツの争点』を「と学会」に推薦したいと思っています。「と学会」とは、私はUFOに乗ったとか、かつて米国は日本の植民地だったとか、世の中悪いことはすべてユダヤ人の陰謀だとかいう「どんでも本」を集めて楽しんでいる人々の集まりです。

    Date: Fri, 19 Feb 1999 17:10:22 +0900
    From: ykaoru@tku.ac.jp (Kaoru Yamasaki)
    Subject: [aml 11168] 『アウシュヴィッツの争点』のでたらめ

    木村さんが依拠している資料のいかがわしさについてさらに。
    彼はaml 11133で「本の原資料と論理を徹底的に自分の手で、自分の目で、検証し直して、初めて一応の発言権を得るのです」と大見得を切っています。ここでいわれている「原資料」を彼はまったく読んでいません。ホロコーストの「原資料」は、フォリソンやウィーバーの著作ではなく、現在ではコブレンツやフライブルクなどにある旧ナチス関係の資料です。これらの第一次文書の内容については、米国でArchives o f the Holocaust Seriesとして大量の便利な目録が作られてきています。あとは資料番号にもとづいてコピーの請求をすればよいわけです。しかし、木村さんはそういう手続きをなにもしていません。これは確かに専門家が時間とお金をかけてやることなので、私だってできそうにもないのですが、重要な文書については、抜粋集などがでているし(前に触れたオイゲン・コゴンたちの編集したものを含めて)、ヒトラーやヒムラーの秘密演説等、膨大な関連文献が入手できます。

    木村さんはそんなことを無視して、欧米の否定派の書いたものに頼っているだけです。特に彼の重要な資料源になっているのは、米国の「歴史見直し研究所」 (Institute for Historical Review, IHR)です。『アウシュヴィッツの争点』の参考文献リストを見ると、「日本語訳のない外国語の単行本」39点のうち13点がここの出版物で、「リーフレット」11点はすべてIHRから出されたものです。「雑誌掲載の論文・記事」19点のうち、IHRの雑誌Journal of Historical Reviewのものは15点にのぼります。

    木村さんは「わたしは別に、IHRに借りがあるわけでもないし、組織としてのIHRの肩を持つ義理もない」(『争点』pp.273-4.)と書いておられますが、これだけ大量の資料をIHRに負っているのですから、少しは「借り」や「義理」もあるのではないか、とも思いますが。木村さんはさらに、IHRとの資料のやりとりを「国際共同研究」(『争点』p.246.)だともいっておられるので、IHRの共同研究者なのでしょう。
    であるなら、否定派の大根拠地である、このIHRがどんな人々によって運営され、どんな「思想的背景」を持っているのかを知っておく必要があります。否定派の「論拠」をつぶす作業のひとつです。

    IHRは1979年にウィリアム・マキャルデン(別名ルイス・ブランドン)によって創立された疑似アカデミー組織です。マキャルデンはもともとアイルランド生まれで、イギリスに渡って一時は極右組織National Front(あのスキンヘッドでおなじみの)に所属しており、ついでそこから分離して1975年にはNational Partyという右翼政治組織を創設しています。彼は公然とみずからを「人種差別主義者」(racist)だと述べていた人で、78年に米国に移住し、少し反ユダヤ主義雑誌『アメリカン・マーキュリー』にかかわったのち、IHRを立ち上げます。
    IHRの設立には、もうひとり強烈(狂烈?)な反ユダヤ主義で有名な人物がかかわっていました。ウィリス・カート(木村さんのいう「カルト」)です。カートはジョン・バーチ協会からさえ過激にすぎると追い出されたとてつもない反ユダヤ主義者で、『アメリカン・マーキュリー』の支配的な地位についてもいました。米国の極右社会のなかでも、きわだって右に位置する人です。

    要するに、 IHRは名前こそ学術的な体裁を取っていますが、極右・反ユダヤ主義で凝り固まった人々が作った組織なのです。 マキャルデンは1981年に内紛に敗れてIHRを去り、10年後になくなりました。カートの独裁的な支配がつづきます。IHRは右翼出版社Noontide Press、この両者の上部組織であるLegion for Survival of Freedom、カートの作ったLiberty Lobbyという極右団体と非常に密接な関係にあってきたことは、いくつかの裁判で明らかにされています。

    いかにもセクトらしく、IHRはさらに内紛を引き起こし、今度はカートが追い出されます。1993年のことです。カートは現在、IHRの運営に関してIHRと烈しく裁判中であり、基本的にはLiberty Lobbyの経営に当たっているようです。この団体は、F rank P. Mintz, The Liberty Lobby and the American Right: Race, Conspiracy, and Culture, Greenwood Press: Westport, Conn. 1985. という研究書もあるほど悪名高い右翼です。

    ついでながら、Liberty Lobbyの雑誌『スポットライト』にはつぎのようなオンライン版があります。
    http://www.spotlight.org/
    こうした連中が設立したIHRは、いまでは否定派の拠点として極右との組織関係をできるかぎり表面から隠そうとしています。カートを放逐したのも、そうした戦略の一環なのでしょう。しかし、カートのあとにIHRでスポークスパースン的な役割を演じているマーク・ウィーバーも、すでに別の投稿で指摘したように、極右との関係が明らかで、IHRの政治姿勢は隠しきれるものではありません。

    IHRはまた、『マルコポーロ』で否定派として名乗りを上げた西岡さんへの基本的な資料提供者であることは、IHRの雑誌の記事
    http://www.ihr.org/jhr/v15/v15n2p-6_Raven.html
    でも明記されています。

    木村さんは 「もともと、わたしの資料収集の基本方針は・・・相手の組織や個人の思想、政治的立場などにいっさいとらわれず、可能なかぎりの関係資料、耳情報を収集して、比較検討、総合分析を心がけるのが主義である。」(『争点』p.274.) と書いておられます。しかし、彼の記述を読むと、あらゆる箇所でIHRのようないかがわしい組織の出版物からの引用で話は終わってしまっています。すでに活字になっている「原資料」さえ参照されていません。ウィーバーやフォリソンやシュテークリヒといった札つきの否定派の意見が繰り返されているだけで、木村さん自身が調査し発見した文書などまるでありません。

    こう考えてみてください。1939年に日本軍はノモンハンでソ連軍に徹底的な敗北を喫しています。この敗北を国民の眼から隠すために、軍部は勝ったとみせかける出版物をいくつも出しました。大ベストセラーになった草場栄の『ノロ高地』はそのひとつです。私は同じような本を何冊か持っています。いま私が、これらの本にもとづいて、実はノモンハンで日本軍は大勝していたのだという「研究」を出したとしましょう。相手にされることはないと思いますが、厳しい批判がなされたと仮定します。すると私は、批判者が依拠しているのは嘘にたくみな旧ソ連の研究や、占領軍によって操作された誤った戦後精神の産物でしかなく、『ノロ高地』にはどこにも負けた話が出てこないと反論するわけです。『争点』がやっているのは、これと同じです。     その手口は具体的にはつぎのようなものです。

    アウシュヴィッツの最後の収容所長だったリヒャルト・ベーア(木村さんは「ベイアー」と訳します)は1960年になって逮捕され、裁判がはじまる63年に急死しています。これは『争点』(pp.93-5.)では「不審な死」とされ、ガス室がなかったことの直接の証人の口を封じるために沈黙させられたのではないかと憶測がなされます。ところで、木村さんがその証拠に挙げているのは、当時の新聞記事でも関係者の発言でもありません。引用されているのは、否定派のシュテークリヒの記述だけです。要するに、否定派が否定派の憶測を繰り返しているわけで、「原資料と論理を徹底的に自分の手で、自分の目で、検証し直し」などまるでしていないのです。しかもそのうえで、木村さんはさらに憶測を重ねます。

    ユダヤ人虐殺を知っていたハインリヒ・ヒムラーも、そういえば「自殺」だった。ホロコーストの秘密を握っていたヒムラーとベーアはともに「不審な死」にかたをしている、と。ホロコーストの存在を否定できる重要証人はかたっぱしから「不審な死」を迎えるようです。だったら、もっとも重要な証人になったであろうハイドリヒの暗殺も、「不審な死」に入れるべきでしょう。イギリスは戦後になってからドイツをありもしないユダヤ人虐殺の罪で裁くつもりでいたので、ヴァンゼー会議の主催者でありSSの超大物だったハイドリヒの口をふさぐため、チェコのパルチザンと組んで1942年に彼を暗殺したのだ、と。

    ヒムラーが戦争末期にひそかに西側連合軍と和平交渉を試み、それを知って激怒したヒトラーによってすべての官職を剥奪されて、孤立無援の情況にあり、ひとり変装して逃れようとして連合軍に逮捕され、万やむを得ず自殺したことになんの「不審」もありません。こうしてどんどんと憶測や妄想をたくましくしていくなら、どんな歴史的「事実」でもでっち上げることができます。

    世の中には可愛らしい嘘もありますが、何百万という人々の悲惨な死にかかわる史実について、嘘ばかりついている連中の嘘を日本語で繰り返すのは、恥です。

    と、ここまで書いてきましたが、本来論争の場であるaml-stoveに木村さんは登場してはくれないようです。だとしたらaml-stoveで私が批判しても、なしのつぶてということになります。他方、木村さんはご自分のホームページででたらめを垂れ流しつづけています。周知のようにaml-stoveはログを保存していませんので、サーチエンジンにひっかかるのは否定派のページのほうであって、私の批判は埋もれてしまいます。ここでの発言はいちおうこれで終わりにして、私も自分のWebサイトで批判派のいんちきを追求するページを開いたほうが、彼らに対してはより効果的な打撃になるようです。これ以上守備範囲を広げると、ちょっと収拾がつかなくなるのではないかと思いますが、やむをえません。
    近々、ページのURLをお知らせできると思います。
    高橋さん、ごくろうさまでした。

    Date: Sun, 21 Feb 1999 14:41:08 +0900
    From: ykaoru@tku.ac.jp (Kaoru Yamasaki)
    Subject: [aml-stove 126] 非常に重要な証言

    これからは別のところで、否定派の嘘を明らかにしていく予定なので、ここではもうこの投稿だけで終わります。木村さんがamlに投稿されていますが[11182]、例のごとく、自分にとって都合の悪いところは口をつぐんだままです。クリストファーゼンがもと親衛隊の将校で、確信犯的ナチス(なにせ自分の結婚式までヒトラーの誕生日にした男です)だったのに、彼を「ヒトラーに忠誠を誓う親衛隊員ではなかった」と、どうして書けるのかを、私は聞きたいのですが。

    この都合の悪い点への沈黙の例のひとつが、まえに述べたように、ブローシャトの投稿への扱いです。彼がポーランドでのガス室の存在を認めているのに、そこのところは省略して、ドイツ国内にガス室はなかったという箇所だけを取り上げたのです。     同じような例をもうひとつみつけました。

    木村さんが憶測を逞しくしている、アウシュヴィッツ最後の所長リヒャルト・ベーアですが、彼の証言を読んでみると、確かに自分がかかわったアウシュヴィッツの第一収容所でガス殺害をみてはいないと述べています。しかし同時に、ガスでユダヤ人を殺したのはビルケナウの第二収容所のほうだったとも語っているのです。ビルケナウにガス室があったことを、ベーアは認めています。そして周知のように、ビルケナウはアウシュヴィッツと一体になっていた収容所です。アウシュヴィッツの最高責任者だった人間が、ガス室の存在を認めています。木村さんはこの重要な証言をどうされますかね。「拷問」話はなしですよ。

    ベーアの証言はまえにも触れた
    Eugen Kogon, et al. (hrsg.), Nationalsozialistische Massentoetung durch Gif tgas. Eine Dokumentation, S. Fischer Verlag, 1983, p.199.にあります。フォリソンに「国際電話」などかけなくとも、ベーアの証言は読めるのです。この資料集『毒ガスによるナチスの大量殺戮』は、一次資料を網羅的に収録しており、極右やネオナチが垂れ流すプロパガンダ文書をせっせと読むひまがあるなら、こういう「原資料」にまず取り組むべきです。「研究」とは、そのような努力の積み重ねのことを指します。

    とにかくこのように、ブローシャトもベーアも「ガス室はあった」派に属します。木村さんのようには使えないのです。
    ところで、木村さんはベーアの「不審な死」について、シュテークリヒを丸写しして、ガス室がなかったことを彼に暴露されるのを恐れただれかがやったのでは、と憶測しています。だが、ベーアはガス室存在派だったわけで、だとすると彼の「不審な死」は、ビルケナウのガス室についてベーアが「あった」と証言することを恐れただれかが・・・のかもしれませんね。


    First Uploaded: 22/02/1999  Revised: 10/01/2001 Back to the Previous Page


【「たった1枚の写真」】
 山崎氏は、たった1枚の写真で次のように述べている。

 少しまえ、イスラエルのホロコースト記念館であるヤド・ヴァシェムから、2カ月ほどかけて、ホロコースト犠牲者のうち判明している300万人の名前のデータベースを作りつつあるという連絡が入った。もしかしたら、コルチャクといっしょにガス室に送られた子供たちについても、なにかが判るかもしれません。そのときには情報を提供します。コルチャクの写真の背後には、写真さえ残っていない200名の子供、それにトレブリンカで虐殺された数十万の人々がいます。私たちの想像力や同情や痛みは、そこに繋がっていくことが可能です。ホロコースト否定派には絶対にない、このような回路があることこそが、低劣な否定派に対して私たちが持っている絶対的な精神の優位なのです。それを見失わないように、作業を進めたいと思っています。
(私論.私見)「山崎氏のイスラエルのホロコースト記念館との親疎性」考

 これによると、山崎氏は、問わず語り「イスラエルのホロコースト記念館であるヤド・ヴァシェム」との連絡が取れる関係にあることを示唆している。「絶対的な精神の優位を見失わないように作業を進めたいと思う」なる記述をしている。山崎氏は何ゆえにそこまで入れ込むのか。尋常ではなかろう。

 それはともかく、「ホロコースト犠牲者のうち判明している300万人の名前のデータベース」についてそれが可能ならなぜ今までに為されていないのだろう。もっと早くに作られるべきだろう。今からでも無いよりはあった方が説得力を増す。

 2005.2.19日 れんだいこ拝


【「ホロコースト問題でのその他の争点」考】

 山崎氏は、『アウシュヴィッツの争点』が振りまく虚偽と題するサイトで、「ホロコースト問題でのその他の争点」について論考している。以下、これと対話する。概要次のように述べている。


【「ユダヤ人の反ナス運動」考】
 ユダヤ人大量虐殺(ホロコースト)説の複線となっているヒトラー率いるナチスとユダヤ人グループとの対立問題につき、その決定的な契機となった事件に「ユダヤ人のボイコット運動」がある。これに対する木村氏の「ヒトラー政権下直後、ユダヤ人がドイツの商品のボイコットを展開した」との平面記述は正確ではないとして、山崎氏は次のように述べている。該当サイト「ユダヤ人の『ボイコット』」

 「ヒトラーは1933年1月に政権の座につき、3月5日の国会選挙でナチスは圧勝した。勝利に歓喜したナチス党員は、翌日からただちに各地でユダヤ人所有になるの商店・銀行・企業等を襲撃し、ユダヤ人に暴行を加えた。この自発的襲撃のヒトラーは関与していない。この襲撃に怒った特に米国のユダヤ人たちがドイツ商品ボイコットに乗り出した。ヒトラーはこのボイコットへの報復として、4月1日からこんどは彼自身の命令で、ナチス党員によるユダヤ人商店への組織的ボイコットや、ユダヤ人への攻撃を行なわせた」。

 「これが真相である。
歴史記述の際には、因果関係を正確にしるさねばならない」と述べている。
(私論.私見)「歴史記述の際には、因果関係を正確にしるさねばならない」考

 これはその通り。

 2005.2.19日 れんだいこ拝

【「ヴァンゼー会議及びハイドリヒ・メモ」考】
 「ユダヤ人大量虐殺(ホロコースト)問題」を論ずる際に、それを指示したとされる「ヴァンゼー会議及びハイドリヒ・メモ問題」がある。これを吟味する。

 「ヴァンゼー会議」とは、1942.1.20日、ナチス親衛隊高官で保安警察長官(親衛隊保安本部長)であったラインハルト・ハイドリヒ(彼は同年5月にプラハで暗殺される)が、ベルリンの南西部にあるヴァンゼー街のある屋敷にナチスの高官たちを集合させ、ユダヤ人の組織的虐殺を謀議した会議のことを云う。この会議が実在したのかデッチアゲかを廻って論議を起こしている。

 その時の「ハイドリヒ・メモ」が残されており、それによると、ユダヤ人問題の「最終的解決」の権限を親衛隊が全面掌握することを決定したことを記している。これにより後のユダヤ人虐殺が指針されたとする重要文書である。その意味で「ハイドリヒ・メモ」の持つ意味は深い。

 なお、「ハイドリヒ・メモ」は、「最終的解決」の対象となるヨーロッパ・ユダヤ人の数を1100万人と見積もっており、この数字の根拠、適切さを廻って議論を招いている。
 山崎氏は、「ヴァンゼー会議のメモ」、ヴァンゼー会議の数字ヴァンゼー会議の重要性、「1100万人のユダヤ人」で、「ヴァンゼー会議におけるハイドリヒ・メモ問題」を考察している。

 木村氏の見解は次のように展開されている。
@  会議が開かれた建物が相当な「宮殿」であったとの通説は間違いである。
A  ヒトラーも参加した上での会議であったかの通説は間違いである。
B  「ハイドリヒ・メモ」は偽造捏造文書である。以下のように論証している。
A  「シュテークリヒのメモ偽造説」を踏まえつつ、当時のヨーロッパ・ユダヤ人の数を1100万人とする見積り自体が過大であり、偽造捏造の証拠であるとしている。
B  シュテークリヒの論拠「連続番号がないかわりに、一ページ目に”D・III・29・Rs”という記号が記入されているが、ドイツの官僚機構は通常、こういう形式で記録の分類はしない」(p.261.)との指摘を受け入れて、ヴァンゼー会議の内容を記したとされている「ハイドリヒ・メモ」は偽造捏造文書であるとしている。
C  会議が存在したこと自体が疑わしい。その理由として、エッセイ集「ホロコーストの全景」の「その理由の第一は、『ヒトラーの国家では、このような重要な問題の決定を官僚の会議でおこなうことなどありえない』からであり、第二は、『虐殺は一九四一年からはじまっていた』からである」を引用し、ヴァンゼー会議の存在、ヴァンゼー・メモをユダヤ人虐殺計画の決定文書だとする見解に疑問を発している。

 山崎氏は、@・Aはその通りとするが、BのAの人口問題につき、当時そのように言説されていた資料が確認できるとして、@・ハイドリヒが別の場所で1100万人という数を挙げていること(シュテークリヒ「アウシュヴィッツ神話」(Wilhelm Staeglich, Der Auschwitz Mythos)(オンライン版で確認できる)。A・ゲッベルスの1942.3.7日の日記の当該部分「ユダヤ人問題はいまや、全ヨーロッパ規模で解決されなければならない。ヨーロッパにはいまだに、1100万人以上ものユダヤ人がいるのだ(Es gibt in Europa noch ueber 11 Millionen Juden)」、を例証として、1100万人説が存在していたことを指摘し、1100万人の中には、ナチス・ドイツが支配していない地域(イギリス、スペイン、スイス、スウェーデン等)のユダヤ人が含まれており、決してデッチアゲ数字ではないと反論している。

 BのBの「「ハイドリヒ・メモは偽造捏造文書である」説につき、「ヴァンゼー会議のメモのような重要な文書について、それを虚偽だとしている情報を自分でふりまくためには、当該の文書にあたってみるのが当然だ」と述べ、ヴァンゼー会議の議事についてのメモのドイツ語でオンライン化されたもの、その写真版を紹介している。

 Cのヴァンゼー会議の存在否定説につき、木村氏の見解は、ドイツの現代史研究家・イェケルの「ヒトラーの支配」の記述「この国家では、重要な決定が『官僚たちの』会合で下されたことなどなかった。最高の次元において、ヒトラーが単独で決定し、それを言い渡したのである」(Eberhard Jaeckel, Hitlers Herrschaft, Deutsche Verlags-Anstalt, 1986, p.105.)に基づいていると思われる。

 「ホロコーストに関する論争では、イェケルはひとつの立場を取っています。彼はヒトラーの決定権を最大限にみつもる立場におり、そこからヴァンゼー会議の重要性を相対的に低く見ているだけです。イェケルと異なる立場のホロコースト史家たちも多くおり、彼らはヴァンゼーを重んじています。アリーはそのひとりです。こうしたことを無視して、すべてのホロコースト史家たちが『認めなくなっている』かのような発言をするのは、ためにする議論でしかありません」と反論している。
(私論.私見) 「重要な文書の偽書云々を云うのなら当該の文書にあたってみるべし論」考

 これもその通り。これによれば、「重要な文書について、それを虚偽だとしている情報を自分でふりまくためには、当該の文書にあたってみるのが当然だ」という同じ論理で、「シオンの議定書」にも「当該の文書にあたってみるべし」であろう。なぜ向わないのだろう。その上で、偽書かどうか精査されねばならないであろう。ところで、「シオンの議定書」偽書派は、如何なる論法でこれを偽書としているのだろう。ここでは立場が代わっているのでその論法に興味が持たれる。

 2005.2.19日 れんだいこ拝
(私論.私見) 「ヴァンゼー会議不存在説」考

 木村氏が「すべてのホロコースト史家たちが『認めなくなっている』かのような発言」をしているのかどうか分からないが、ヴァンゼー会議の存在否定説を覆すのにそれを弱弱しく主張しているイェケルを批判しただけでは何も解決しない。

 2005.2.19日 れんだいこ拝

【「ユダヤ人否定派ディヴィッド・コール」考】
 山崎氏は、「ユダヤ人否定派ディヴィッド・コール」氏につき、否定派のユダヤ人否定派のユダヤ人(つづき)否定派のユダヤ人(つづきのつづき)で次のように述べている。

 ディヴィッド・コールとは、ユダヤ人にあってホロコーストの悲劇を否定する青年で、ユダヤ人のマスメディア支配に叛旗を掲げ「ホロコーストはなかった」とするヴィデオを製作する等「ユダヤ人の中の反ユダヤ主義者」であった。1995年のマルコポーロ廃刊事件のとき来日し、記者会見の場で反シオニズム的立場で宣伝している。木村氏は、「争点」にこのコール青年をしばしば登場させている。

 山崎氏は、その後のコールを追跡し次のように述べている。概要「彼は、否定派の重鎮・フランスのロベール・フォリソンと大喧嘩し、その喧嘩のなかで、『かって自分が作ったヴィデオではガス室の存在を疑っていたが、それがなかったと証明するのは困難』だと見解修正している。1993年にすでに、ガス室はなかったとはいえないと、立場を変えている」。

 以上を踏まえて、山崎氏は、1995年のマルコポーロ廃刊事件の時、「この手の人々の記者会見を大手新聞が伝えなかったのは賢明でした」と皮肉っている。

 「コールは、1998.1.8日、米国のユダヤ人防衛同盟(JDL)あてに手紙を送り、自分が間違っていたことを認め、ホロコーストが存在したこと、自分が否定派として活動したのは同胞への罪だったことを語り、謝罪している」ことを指摘し、木村氏のコール贔屓を揶揄している。ちなみに、「JDLはかなり戦闘的なユダヤ人組織で、コールに対しては、Web上でその顔写真を公開し、彼の住所情報に報奨金を出すといったことをやってきました」。


 コールの変節につき、木村氏は次のように確認している。「私が、『マルコポーロ』廃刊事件の際に受け入れて記者会見に出てもらったユダヤ人、デヴィッド・コールは、当時25歳の若者で、アウシュヴィッツなどのヴィデオを作ったいたが、『日本にきて良かったのは殴られないことだ』と何度も言っていた。アメリカに帰ってから、上記ヴィデオの共同制作者、スミス教授(わがHPにリンクあり)から『コールが裏切った』と言う趣旨のファックスがきた。私は、コールの気質的に不安定な様子を見ていたので、『残念だが彼には背骨がないと思った』という趣旨の慰めのファックスを送り返した」。

 山崎氏は、コールの変節の関連して、興味深い次の一説を挿入している。概要「歴史家・ギルマン(Sander L. Gilman)は、1986年、『 Jewish Self-Hatred: Anti-Semitism and the Hidden Language of the Jews, Johns Hopkins Univ. Press』の中で、一部のユダヤ人に見られる強い自己嫌悪や自己否定(それは時にはユダヤ人攻撃にさえいたることがある)の背景にある二重拘束(ダブルバインド)の状態や深い不安を、マルクス、ハイネ、さらにはウッディ・アレンまでも対象にして論じている」。
(私論.私見) 「ディヴィッド・コールの変節」考

 「ディヴィッド・コールの変節」に付き、山崎氏は、木村氏がその変節をも知らずに、マルコポーロ廃刊事件の時に利用した愚を皮肉っている。木村氏は、「ディヴィッド・コールの変節」には、戦闘的なユダヤ人組織JDLの脅しに屈した事情を解析している。これらは、事実確認の問題であり、山崎氏のおちょくりも控えめにするのが良かろう。事実、「ディヴィッド・コールの変節」の裏事情までは分からないのだから。

 2005.2.19日 れんだいこ拝

【「ホロコースト犠牲者600万人説」考】

 山崎氏は、「ホロコースト犠牲者600万人説」について、数字の嘘(1)数字の嘘(2)数字の嘘(3)、「1100万人のユダヤ人」で次のように是認している。

 否定派は、概要「『チェンバース百科事典』によれば、戦前のヨーロッパに住んでいたユダヤ人の総数は650万人、ナチス・ドイツの支配下で減少したユダヤ人人口の総数は約150万人以下であった。1939年のナチス・ヨーロッパのユダヤ人は上限が650万人であり、逃げた人々などの数を考えると600万人も殺されたはずがない。『600万人のジェノサイド』説はなりたたない」と主張している。

 木村氏は更に次のように述べている(投稿)。「600万人の根拠も、実に怪しいものです。もともとユダヤ人という戸籍はない のですが、ユダヤ人組織の年鑑などによると、世界のユダヤ人の人口は、第2次世界大戦中に減ったというよりも、増えたという数字すら出ているのです。ナチスドイツ占領地域にいたユダヤ人が約300万人なのに、600万人を殺せるはずもないのです が、驚くべき事には、1994年現在で、ホロコーストの生き残りとしてドイツから補償金を受けとっているユダヤ人が、342万5千人もいるのです 」。

 山崎氏は次のように反論している。概要「650万人は、1939年時点のナチス・ドイツの支配下に入ったヨーロッパのユダヤ人の人口で、そこには(1)・1940年にドイツが占領したデンマークとノルウェー、(2)・同じく1940年に占領したオランダ、ベルギー、フランス、(3)・1941年に占領したバルカン半島諸国、(4)・同じく1941年に占領した東ポーランドとヨーロッパ領ソ連のユダヤ人は、当然ながら含まれていません。これらの地域に住んでいたユダヤ人の数を650万人に加えてからでなければ、600万人という数字を引いてはならないのです」。その上で、木村氏の「ナチスドイツ占領地域にいたユダヤ人約300万人説」に対して、「激減しています!」と訝っている。


 山崎氏は、「国家機密」(geheime Reichssache)文書の注釈付で、1942.7.23日づけの、ウィクトル・ブラック(親衛隊准将でヒトラーの総統官房に所属し、精神「障害」者の安楽死計画の実質的責任者。戦後、死刑に処せられている)からヒムラーにあてた手紙を引用している。この手紙のなかで、ブラックはこう述べている(Faschismus-Getto-Massenmord. Dokumentation ueber Ausrottung und Widerstand der Juden in Polen waehrend des zweiten Weltkrieges, Roederberg-Verlag, Frankfurt/Main, 1962, p.295)。

 「約1000万人のヨーロッパ・ユダヤ人のうちには、私の感じでは、少なくとも2、300万のきわめて良好な労働可能な男女が含まれています」(Bei ca. 10 Millionen europaeischer Juden sind nach meinem Gefuehl mindestens 2-3 Millionen sehr gut arbeitsfaehiger Maenner und Frauen enthalten.)

 「つまり、ヨーロッパのユダヤ人の数は、ナチス高官のあいだでは1000万から1100万と見積もられていたのです。650万から引き算をはじめることは、もう絶対にできません。ついでながら、ブラックは労働に従事させるために生かしておくユダヤ人も、レントゲン照射によって不妊にしておくという、おぞましい提案もしています」とコメントしている。

(私論.私見)「ホロコーストの犠牲者数問題」考

 山崎氏はここで、「ホロコースト犠牲者600万人説」について、当時西欧各地にはユダヤ人が約1000万人存在し、そのうち600万人がナチスにより虐殺された、と主張している。これが山崎見解であることを確認しておくことにする。

 2004.7.18日 れんだいこ拝

【「ユダヤ人シオニスト過激派によるテロ」考】
 山崎氏は、「ユダヤ人シオニスト過激派によるテロ」につき、ユダヤ人過激派」の活動?」で次のように述べている。

 否定派は、1984年、IHRの事務所に爆弾をなげこまれ焼き打ちされた例や白昼テロ行為の頻発、いやがらせの街頭デモを挙げ、「シオニスト過激派がホロコースト否定派を襲撃しているとして「否定派の受難史」を語っている。次のような一文もある。 

 「1978年には、ホロコースト見直し論者で『600万人は本当に死んだか』を普及していたフランス人の歴史学者、フランソワ・デュプラが暗殺された。フランスの代表的な保守系新聞ル・モンドなどでも何度か報道された事件である。デュプラが運転していた車が爆弾でふっとび、本人は死に、同乗していた彼の妻も両足をうしなった。『シオニスト・テロ・ネットワーク』によると、直後に、ユダヤ人のアウシュヴィッツ関係組織、『記念コマンド』と『ユダヤ人革命グループ』が、みずからの犯行だと名のりをあげた」(p.292.)。

 これに対して、山崎氏は次のように述べている。「米国には、文字どおりユダヤ人過激派としてふるまっている有名な『ユダヤ防衛同盟』(Jewish Defence League, JDL)といった組織がある。このJDLや類似した組織の活動を、私はいかなる意味でも支持しませんが、犯人がつかまって裁判で裁かれたわけでもないのに、『シオニスト過激派である可能性がたかい』と書いてしまうのは、ジャーナリストの常識に反することです」。

 更に次のように述べている。概要「仲間喧嘩的内ゲバの可能性だってある。なぜなら、極右が(残念ながら極左と同様に)仲間殺しさえ辞さないことは、米国ナチス党の指導者だったジョージ・リンカン・ロックウェルの殺害を見ても判る。犯行声明を出した地下組織があっても、そこの犯行だとは断定できません。爆弾事件などで、奇妙な組織が犯行声明を出し、実は違う団体がやっていたことは、日本でもいくつもあったことです。かつて神戸で朝日新聞の記者が殺害されたことがありましたが、犯行声明を出したのが『赤衛隊』と名乗っても、名前からただちに左翼団体に違いないとは判断できないのと同じです」。

(私論.私見)「山崎氏の勘ぐり」考

 ここで山崎氏は致命的な氏の観点を披瀝している。何と、フランス人の歴史学者、フランソワ・デュプラの暗殺について、安易に「ユダヤ人シオニスト過激派によるテロ」とみなしてはいけない。内ゲバの可能性もある。犯行声明が出された場合でも直ちに断定をしてはいけない、などと述べている。結構結構、正論である。問題は、逆のケースの場合でも同じような慎重さと慈愛で見て欲しい、というぐらいのことは云わせてもらってもよさそうだ。

 しかし、彼のこの論法に拠れば、「否定派の受難史の真相は全て藪の中」になりそうだ。山崎氏はシオニスト側には何でこ大甘になるのだろう。ホロコースト否定派、ナチ、反ユダヤグループの身元調査に熱心な分析している御仁の見解としては全く不似合いだ、というぐらいのことは云わせてもらってもよさそうだ。

 2004.7.18日 れんだいこ拝

【「山崎氏のジャーナリズム論」考】
 山崎氏は、ジャーナリズム論を開陳し、「嘘とその弁明」の「「裏を取らない」ジャーナリズムーーデュプラの死について」で次のように述べている。

 デュプラを「いわゆるまじめな学究とはほど遠い、極右政治家だった」と云い、その死について、畑山敏夫説を紹介しつつ概要次のように推測している。

 1968.5月、極左運動の高揚に対抗して、『青年革命』、『国家人民党』などの極右団体が街頭で実力闘争を展開する。そのような極右のなかから、69年秋にF・デュプラらを指導者とする『新秩序』が誕生した。
1969年のフランスは、いわゆる5月革命が敗北し、ドゴールが退陣したあと、政局は混迷のさだかにあった。いまだに左翼、とりわけ極左派の力も強く、暴力革命の夢は、フランスだけでなく、米国、西ドイツ、イタリア、日本でもおよそ死に絶えていなかった時代であった。彼らと対抗するため、極右運動も活発で野合的な再編成の過程にあった。

 このデュプラたちを中心に1972年に「国民戦線」が結成される。しかし、既存の政治体制のもとで、選挙闘争によって党勢の拡張をはかろうとする党首のルペンと、反議会主義を強調するデュプラたち「新秩序」グループとの確執があり、その対立は強まる。デュプラやルノーが主導権を握っていた「新秩序」は、1973年に解散を命じられる。このため、彼らにとっては「国民戦線」内部での主導権争いが、政治勢力としての死活の重要性を持つようになる。

 
当時、国民戦線の方針はルペンの名において決定されてはいたが、実際は、彼の役割は決して大きくはなかった。デュプラは政治局のメンバーとして、ルノーは書記長として党を実質的にコントロールしていたし、革命的ナショナリスト・グループは党の機関紙『ル・ナショナル』も掌握していた。文筆家でありジャーナリストであるデュプラは、ネオ・ファシズムの代表的論客として大きな影響力をもち、国民戦線の結成から七八年の突然の彼の死まで、ルペンよりも彼の方が国民戦線の真のイデオローグであった。

 1978.3.18日、彼らの支柱であるデュプラが、自動車の爆破で死亡するという事件が起きる。事件の真相は不明であるが、彼の死は党内での革命的ナショナリスト・グループの影響力低下につながった。1981ー82年には、ルノーら革命的ナショナリスト・グループが国民戦線を去り、党内から急進的潮流が排除されていった。

 以上を踏まえて次のように云う。「お判りでしょうか。極右組織が内部対立からおよそ自由ではなく、その権力争いは時には流血をもって処理されることは、ナチスにおけるレームたち突撃隊指導部の抹殺や、米国ナチ党での党首暗殺を見ても明らかです。デュプラの死は、国民戦線という極右政党に関しては、彼と敵対するルペンの主導権掌握に直接につながっていたわけで、そこから私たちは暗い推測をすることが可能です。

 もちろん、デュプラの殺害の詳細は、いまだにはっきりと解明されていません。したがって、シオニスト急進派の行動だった可能性があることを、私は否定しません。しかし、別のかなり強力な殺害動機を持った人々による暗殺だった可能性も、考慮外に置くわけにはいかないのです」。

 返す刀で次のように云う。「木村さんは正統派ジャーナリストを気取って、メディアの報道に対してはかならず『裏を取る』べきだということを強調しています。であるなら、デュプラがシオニストによって殺されたという推測と、右翼の内ゲバによる暗殺だというニュースは、いずれも同等な可能性を持っていたのですから、その両方について検討する必要があったはずです。

 ところが木村さんは『裏を取る』どころか、デュプラの殺害についての怪しげな否定派パンフに一方的に依拠して、シオニストの謀略を示唆するだけで、当時のフランスの新聞を読めばすぐに判るような別個の可能性(党内闘争の暴力的清算)については、ひとことも触れないのです。このことひとつを取っても、木村さん的ジャーナリズムの信じられないほどのいいかげんさが理解できると思います。

 ジャーナリズムが生み出す冤罪のほとんどは、こうした『裏を取らない』いいかげんさの産物です。ある事実について政治的に対立する意見があった場合、その一方だけを正しいとして報道して、他方の意見を完全に無視するジャーナリストは、かつてもいまも御用評論家と呼ばれているはずです」。

(私論.私見)「山崎氏のジャーナリズム論」考

 山崎氏は、ある判断を為すにおいて「裏を取る」ことの重要性を手厳しく指摘している。結構結構、万事にこうあって欲しいものだ。「ヴァンゼー会議」、「ハイドリヒ・メモ問題」、「ユダヤ人600万人虐殺説」等に対してもこうした厳格な審理を経ての結論にして欲しいものだ。

 2004.7.18日 れんだいこ拝

 (コメントはここまで)


【「アインザッツグルッペン」考】
 山崎氏は、アインザッツグルッペン(Einsatzgruppen)について「「アインザッツグルッペン」の説明」で概要次のように述べている。「アインザッツグルッペン」は、『争点』で書かれているような「親衛隊員で編制された東部戦線の遊撃分隊」(p.69.)というようなやわいタマではない。独ソ戦の開始にさいして、ヒトラーたちは単にソ連正規軍だけを殲滅しようとしたのではなく、もうひとつの「戦線」をも同時に開いている。つまり、ドイツ軍の占領地域にいる共産党員、パルチザン、捕虜のユダヤ人、さらには精神「障害」者までを含む人々の抹殺という戦いです。やがて、ユダヤ人全員が対象になります。そのために作られたのが「インザッツグルッペン」であった。この殺戮部隊は親衛隊員によって構成され、100万を越える数の人々が容赦なく射殺されたと云われている。まさにヒルバーグ本の「移動殺戮部隊」、南本の「特務部隊」が適訳である。

 木村氏のさんは「アインザッツグルッペン」の説明は軽すぎる。

【「シュムエル・クラコフスキの証言」考】
 木村氏は、『争点』で、「イスラエルの公式機関でさえ『信用できない』証言が半分以上」という中見出しをつけて、イスラエルのホロコースト記念館である「ヤド・ヴァシェム」の文書館長シュムエル・クラコフスキが、ユダヤ人生存者の証言二万件のうち、一万件以上が「信用できない」と述べたことを紹介している。つまり、ガス室の存在についての生存者の証言は眉唾ものだ、といいたい。

 木村氏は、マーク・ウィーバー論文の「クラコフスキの発言」に依拠している。しかし、クラコフスキ自身は、『エルサレム・ポスト』に投稿(「彼の投稿の全文」)をして、自分はそんなことを語っていないと断言している。「私が述べたのは、不正確だと証明された証言が多少あるーー幸いにして、ほんの少しだということでした。アモウヤル(記事を書いた女性)はなぜ、それを大きな数であるかのようにいうのでしょうか?」(I said there are some - fortunately very few - testimonies, which proved to be inaccurate. Why did Amouyal make them out to be a large number?)

【「ポール・ラッシニエの証言」考】

 『ホロコースト』見直し論の父といわれるフランス人のポール・ラッシニエは、ナチス・ドイツ収容所の『生き残り』として、 「ガス室の存在を否定する発言をした『生き証人』」の一人である。

 これにつき、山崎氏は、「『信用できない』証言?」で次のように云う。ラシニエは、正確には「生き証人」では無い。ラシニエが経験した収容所は、ブーヘンヴァルトとドーラでした。このふたつは絶滅収容所ではなく、したがってガス室は無かった。 直接体験を持たない以上、「ガス室の存在を否定する発言をした『生き証人』」とするには無理がある。


【「ガス室にかんする六回の法医学調査」考】
 「ガス室にかんする六回の法医学調査」が為されており、木村氏は次のように解析している。
 「『ロイヒター報告』以降、当局側に当たるアウシュヴィッツの委嘱もふくめて、『ガス室』にかんする六回の法医学調査がおこなわれている。現存の『ガス室』については、『青酸ガス』が使用されたならば残留しているはずの『シアン化合物』が認められないという点で、すべての調査結果が基本的に一致している」(p.248. 強調は引用者)。
 「「ガス室」と称されてきた建物の構造、人員収容面積、密閉性、排気能力、ガス投 入のための穴またはパイプの有無の調査、さらには壁面の素材と結合した「シアン 化水素」(気体を「青酸ガス」とも呼ぶ)の残留テストによって、現在では、歴史 学における考古学的な発掘調査と対比し得る科学的な研究が可能になっているので ある。原告が掌握しているだけでも、すでに八つの報告があるが、その中には、ク ラクフのポーランド国立法医学研究所の調査と鑑定結果が含まれている。同研究所は、日本ならば警視庁が鑑定を依頼するような最高権威であり、アウシュヴィッツ 博物館の依頼に基づいて実地調査を行い、同博物館に鑑定結果を伝達したものであ る。原告は、クラクフの同研究所を訪問するなどして、それらの調査と鑑定の報告 書を入手し、著書、『アウシュヴィッツの争点』の中で、法医学的調査と鑑定の意義を詳しく紹介している。
 以上のような法医学的研究によって、ほぼ決定的に、従来流布されたきた神話は 崩壊せざるを得ない状態にある。これらの研究を無視する議論は、たとえて言えば、 殺人事件の審理に当たって検察当局が、殺人に使用された凶器として自ら主張する物的証拠の提出及び専門的な鑑定と、殺人現場として自ら主張する場所の現場検証 とを、いずれも拒否ないしは無視しながら有罪の判決を求めようとするような、横暴極まりない愚挙に他ならない」。

 これにつき、山崎氏は「途方もない事実の歪曲」で次のように述べている。クラクフの法医学研究所のスタッフであるマルキエヴィチたちの報告は、ホロコースト否定派への組織的な批判のために作られており、「この報告はアウシュヴィッツにガス室はなかったとする否定派をはっきりと意識して、それに対する批判として書かれたものです」。関連するところを紹介すると次のように書かれている。
 「本研究はつぎのことを明らかにしている。かなりの年月(45年以上)がたったにもかかわらず、シアン化水素とかつて接触していた諸施設の壁で、ツィクロンBの成分の化合物の残留量が保存されていたことである。このことはまた、旧ガス室の廃墟についてもあてはまる。シアン化合成物が、建築材料[の部分]では、局所的にのみ現出された。それはかくも長期にわたる形成と残存に必要な諸条件が生じていた場所である」。

 (The present study shows that in spite of the passage of a considerable period of time (over 45 years) in the walls of the facilities which once were in contact with hydrogen cyanide the vestigial amounts of the combinations of this constituent of Zyklon B have been preserved. This is also true of the ruins of the former gas chambers. The cyanide compounds occur in the building materials only locally, in the places where the conditions arose for their formation and persistence for such a long time. )


 高橋亨氏は、木村さんが本多勝一さんたちに対して起こした訴訟の「訴状その2」で次のように質問している。「あなたの上記の説明は、ポーランドにおける法医学鑑定の最高権威である同研究所による調査・鑑定によって、アウシュヴィッツにガス室はなかっ たことが「ほぼ決定的に」明らかにされた、と読める(それ以外に解釈のしよ うがない)のですが、それは本当ですか? 同研究所の誰が、いつ、どのよう な調査を行い、その結果どのような結論に到達したのか教えてください」。

 それに対して、木村氏はこう答えている。

 「……高橋さんの「解釈」は不正確です。「ほぼ決定的に」という字句は、私自身の 文章の一部ですが、私は、「以上のような法医学的研究によって、ほぼ決定的に と記しています。 「以上」とは何かといえば、その前には「すでに八つの報告がある」と記しており 、「クラクフ」の報告はその最後の一部にしかすぎず、この報告の内容と結論の付 け方には疑義があるので、その点を「ほぼ」という字句に含ませたのです。詳しく は訴状と同時に拙著『アウシュヴィッツの争点』を提出していますので、そこへ譲 っているのです。この「ほぼ」に関しては、後日、いささか長い地の文章をmailで送ります 」。

 
それに対して、山崎氏は次のように批判している。
 『争点』も「訴状」も、どう読んでも明らかにマルキエヴィチたちの報告書を、自説を支える資料として引用しています。そのことについて疑問が呈されると、「後日」といって遁走するのです。「ほぼ」が「八つの報告」や「以上のような法医学的研究によって」にかかる副詞でないことは、だれの眼にも明らかです。これでは子供だましにもなりません。 当然ながら、「ほぼ」についての「後日」の説明は、ついにありませんでした。


【「ティース・クリストファーゼン」考】
 木村氏は、『アウシュヴィッツの嘘』の中で、ティース・クリストファーゼンを元ドイツ軍の中尉であり非ナチスとして登場させているが、彼はれっきとしたナチス党員であり決して中立的な人物ではない。連中はこういう嘘を平気でつく。木村氏がシュテークリヒの言葉『一度嘘をついたものは、二度と信用してはならない』を引用するのはおこがましい。まず自分自身を省みよ。こういう都合の悪い指摘がなされると、連中は決まって沈黙し続ける」。

 「嘘とその弁明」で次のように補足している。スキャンダラスな行動で知られていたドイツのネオナチであるティース・クリストファーゼンについて、木村さんがはっきりと「ヒトラーに忠誠を誓う親衛隊員などではなかった」と嘘を書いていることは、別の箇所で指摘しておきました。ところが、本多勝一さんたちとの裁判でこの点を追求されたため、木村さんが提出した「最終準備書面」では、つぎのように非常に苦しい弁明をしなければならなくなっています。
「原告の文章の重点は、いわゆる「親衛隊」のバリバリではなくて、「農場の研究者」という立場だったことの強調にある」。

 嘘がばれて追い詰められると、こういう逃げにしか頼れなくなります。 バリバリであろうとなかろうと、「ヒトラーに忠誠を誓う親衛隊員」に変わりはありません。


【「アウシュヴィッツ第一収容所跡クレマ1の捏造展示」考】
 フランスの週刊誌『レクスプレス』(L'Express)が、1995年1月26日に、エリク・コナンの論説を掲載して、現在アウシュヴィッツ第一収容所跡にあるクレマトリウム(クレマ1)が、再現と称して実はまったく捏造されたものを展示していることを伝えた。これは否定派にとっては鬼の首でも取ったようなことで、ただちに彼らの文章で利用されています。木村愛二さんも『争点』で「『復元』『改造』『偽造』『捏造』、戦後50年の記念の軌跡」という小見出しで、このことを取り上げています(pp.131-132.)。

 山崎氏は、「『レクスプレス』の報道」で次のように述べている。「このコナンの文章は否定派を利するものであるより、事実に誠実に対応しようとするコナンの姿勢を明らかにしているものです」として、関連箇所の正確な翻訳文を紹介している。

 「別のデリケートな問題がある。共産主義統治によって残された偽造を、どうするかという問題である。1950年代から60年代にかけて、消滅したり外見が変わっていたいくつもの建物が、ひどい間違いを伴って再建され、本物だとして展示された。うちいくつか、あまりに『新しい』ものは、公開されなかった。時に殺人ガス室として展示された燻蒸ガス室はいうにおよばず。こうした非常識な行為は、ホロコースト否定派に大いに役立っている。彼らは自分たちのでっちあげの骨格を、そこから引き出しているのである。クレマトリウム1は、アウシュヴィッツ第一収容所にあった唯一のものだが、この例は意味深いものである。その死体置き場に、最初のガス室が設置された。ガス室は1942年はじめに短期間使われた。ガス設備を含んだ地域の隔離は、収容所の活動を妨げた。かくて、1942年4月末に、この致死的なガス設備をビルケナウに移転することが決定され、ビルケナウでは、基本的にはユダヤ人からなる犠牲者たちに対して、工業規模で運用された。ついで、クレマ1は、手術室を持った防空壕に転換された。1948年、[アウシュヴィッツ]博物館の設立のさいに、クレマ1は怪しげな資料をもとに再建された。ガス室の大きさ、ドアの跡、ツィクロンBの投入口(なんにんかの生存者の記憶にもとづいて再現されたもの)、煙突の高さといった、そこにあるすべてが偽物である。70年代の終わりに、ロベール・フォリソンがこの偽造をはっきりさせたが、博物館の責任者たちは、それを認めるのをいやがっている。云々」

 山崎氏は次のようにコメントしている。「ホロコーストについては、それがあまりに近い時代の事件であり、しかも、それをめぐって多様な政治力学が発揮されてきたため、歪められたり捏造された「事実」がいくつもあったことは確かです。それを正そうとして、多くの人々がいまも地道に努力しています。その上澄みだけをかきまわす否定派より、彼らのほうがはるかに誠実です」。

(私論.私見) 「アウシュヴィッツ第一収容所跡クレマ1の捏造展示」考

 「アウシュヴィッツ第一収容所跡クレマ1の捏造展示」は、あってはならないことである。それを指摘しているコナン氏の文章を否定派が利用するのは当然である。

 2004.7.18日 れんだいこ拝

【「リヒャルト・ベーアの証言と死」考】
リヒャルト・ベーアの証言と死」、「ベーアとガス室
村さんによればシュテークリヒは彼を「アウシュヴィッツについてのもっとも重要な目撃証人」と呼んだそうですし、木村さんも「アウシュヴィッツ収容所についての第一級の目撃証人」といいます(『争点』p.94, 96.)。
 アウシュヴィッツ最後の収容所長だったリヒャルト・ベーアについて。ベーアは1960年に逮捕され、1963年に裁判直前に死去している。「不審な死」。否定派は、(1) ベーアは収容所にはガス室がなかったと述べている。『ガス室を見たことはないし、そんなものが一つでも存在するなどということも知らなかった』というベイアーの証言。 (2) このことを裁判で証言されると困る人々が、彼を毒殺したのだ。木村氏は、「リヒャルト・ベイアーはもとも、議論の余地なしに、アウシュヴィッツ収容所についての第一級の目撃証人である。」(p.96.)

 元親衛隊員のクリストファーゼンの本
話のもとが「パリで発行されている週刊『リヴァロール』」。シュテークリヒはいいます

 「フランスの報道にもとづいたいくつかの資料によれば、ベーアは未決勾留中に、彼のかつての指揮範囲においてガス室の存在を認めることを、頑強に拒んでいた。」(Nach mehreren Quellen, die ihrerseits auf franzoesische Presseberichte zurueckgehen, hatte Baer sich in der Untersuchungshaft beharrlich geweigert, die Existenz von Gaskammern in seinem einstigen Kommandobereich zu bestaetigen. )

 「パリの新聞『リヴァロール』の報道では、彼[ベーア]は『自分が統括していた全期間を通じて、私はひとつもガス室を見たことがないし、そんなものが存在したなどとは信じない』と主張し、この証言を翻すことがなかった。」( the Paris newspaper Rivarol recorded his insistence that "during the whole time in which he governed Auschwitz, he never saw any gas chambers nor believed that such things existed," and from this statement nothing would dissuade him. )

 とあります。ベーアはガス室の存在を否定したため、裁判直前に殺されたと騒ぎ立てている

ベーアの供述はフランクフルトで公開されています。当該箇所を引用します。これは幸い、栗原優さんの『ナチズムとユダヤ人絶滅政策』(ミネルヴァ書房、1997年、p.250.)に翻訳されているので、そこから取らせていただきます。この本は各所でシュテークリヒやロイヒターの嘘を指摘しています。

 「私はアウシュヴィッツ第一収容所の所長だっただけである。ガス殺が行なわれた収容所とは関係がない。私はガス殺そのものにも影響力をもっていなかった。ガス殺はビルケナウ第二収容所でおこなわれたのであり、この収容所は私の管轄下にはなかった。」

栗原さんは

 「彼がアウシュヴィッツ第一収容所長になったのは第一クレマが使用されなくなったのちのことであり、アウシュヴィッツ収容所長になったのは、ユダヤ人殺害中止命令が出たのちのことである。彼の主張は、その限りでは、嘘ではなかったのである。」

 とコメントされています(ただ残念ながら、栗原さんはシュテークリヒにひっかけられて、ベーアが「謎の死を遂げた」とも書いています)。
 以下にベーアの供述の原文を挙げます。

 Ich bin nur Lagerkommandant von Auschwitz I gewesen. Mit den Teillagen, in denen Vergasungen stattfanden, hatte ich nichts zu tun. Ich habe auch keinen Einfluss auf die Vergasungen selbst gehabt. Die Vergasungen fanden im Lager II-Birkenau statt. Dieses Lager unterstand nicht mir. (Eugen Kogon, et al. (hrsg.), Nationalsozialistische Massentoetung durch Giftgas. Eine Dokumentation, S. Fischer Verlag, Frankfurt am Main, 1983, p.199.)

ここでは彼が「第一級の目撃証人」ではないことを、簡単に指摘しておきます。
 ベーアがアウシュヴィッツ第一収容所の所長になったのは、1944年5月でした。彼はさらに、11月にはビルケナウの第二収容所(これが絶滅収容所です)をも含む、アウシュヴィッツ収容所の所長に昇任しています。
 第一収容所にあったガス室は、1943年7月に操業を止めています。ベーアの着任より1年近くまえです。
 また、敗戦色が濃厚になった1944年9月の段階で、ヒムラーはガス殺の中止を命令しています。ベーアがビルケナウをも管轄下に入れるのが11月ですから、この時期にはアウシュヴィッツではもはや稼働しているガス室はひとつもなかったことになります。
 ベーアがガス室は私の管轄下にはなかった(unterstand nicht mir)と述べたのは、それなりに正しいのです。
 したがって、彼は「第一級の目撃証人」ではありません。


ルードルフ・ヘスへの「誹謗」
「第一級の目撃証人」は依然として、否定派にとっては非常に都合の悪い証言を残しているルドルフ・ヘスです。ルードルフ・ヘスの告白(『アウシュヴィッツ収容所 所長ルドルフ・ヘスの告白遺録』サイマル出版会)は、彼がアウシュヴィッツでの虐殺がもっとも活発だった時期の所長であったことから、決定的な重要性を持っています。 そこには生々しい殺戮の描写があり、そこにまでいたる時間的経過や状況についての詳細な記述があります。アウシュヴィッツについての加害者の側からのもっとも決定的な証言といってよいと思います。
 ヘスの告白が連合軍による拷問の産物であり、したがって信頼できないと述べてきました。ヘスの告白が裁判のあと、死刑が確定し、したがって嘘をつく必要がなくなってからの証言だ、と反論されると、シュテークリヒのような否定派は、今度はヘスが収監されていたポーランドで、共産主義の「洗脳」にあったのだといいだします。
 ヘスがそのような眼にあったかどうかは、もちろん、なんの証拠も挙げずに断定されているだけです。シュテークリヒは元判事ですが、なんらの証拠の裏づけもなしにこう述べるのですから、この人の手で裁かれたくはないものです。
 木村さんは、もっとすさまじい手口を使います。
 ヘスは小物で、本当の「第一級の目撃証人」は別にいる、という手口です。その目撃証人にさせられたベーアについての顛末は、すでに別のファイルで書いていきました。

「ホェスがアウシュヴィッツの司令官だったのは、アウシュヴィッツ収容所が創設された一九四○年から四三年までなのである。その後は、首都のベルリンで親衛隊の経済行政本部に配属され、政治部を担当している。収容所の直接の担当ではないのだ。
 一九四三年から翌々年のドイツが降伏する四五年までの足かけ三年、しかも、ホェス『告白』などによれば、もっとも大量にユダヤ人を『ガス室』で計画的に虐殺したとされているドイツ敗戦直前の時期の司令官は、いったいだれだったのだろうか。」(『争点』, p.91.)

 これだけを読んでみると、アウシュヴィッツにおいてユダヤ人がもっとも多く殺害されたとされるのは、ヘス(木村さんのいうホェス)のあとの収容所長の時期のことになります。それ以外の解釈は、この文章からはできません。
 ここからまっすぐに出てくることは
 (1) 木村さんはごく初歩的なアウシュヴィッツの歴史も知らないか
 (2) 故意に情報操作を行なって、読者に虚偽を伝えているか
 のどちらかです。
 ルードルフ・ヘスが収容所長の職を離れたのは、1943年11月のことです。その当時、ビルケナウではすべてのガス室と焼却設備が完成していました。彼のあとをついだリーベヘンシェルは、ユダヤ人に友好的にすぎるという理由で44年5月に解任され、ヘスが所長に返り咲きます。44年12月になって、リヒャルト・ベーアが全アウシュヴィッツの所長になるのです。
 ヘスの二度目の所長時代、アウシュヴィッツでは最後の大がかりな殺戮がなされます。ハンガリーから輸送されてきたユダヤ人33万人に対するものです。ヘスはこの殺戮をも含めて、アウシュヴィッツにおける大量殺害のもっとも重要な証人なのです。
 もはや収容所が本来の機能を停止した時期に所長になったベーアを「第一級の」証人に仕立て上げるためには、ヘスが果たした決定的な役割をこのようにグロテスクに歪めなければならないのです。
 そのベーアが既述のように、ビルケナウでのガス室の存在を確言しているのですから、木村さんの話はどんどん支離滅裂になります。


ドイツ国内のガス室

 木村さんは『争点』で、ドイツのマルティン・ブローシャトの発言を引いて

 「すでに一九六○年までには、西側占領地域にあった収容所には『ガス室はなかった』というのが、『事実上の定説』になってしまった。」(p.228.)

 と述べています。ここでいわれている「西側占領地域」はなんのことか判りませんが、ブローシャトにしたがって、ドイツ国内のことだと解釈しておきます。実は木村さんはブローシャトの投稿そのものをまったく読まないで、欧米の否定派の意見にただただしたがって書いているにすぎないのですが、それについては別の箇所で触れます。
 ドイツ国内にはガス室があった、というのが定説です。
 ただし、強制収容所に、ではありません。ドイツ国内の強制収容所としては、ダッハウが唯一ガス室を持っていました。しかし、建設のさいに、それを手伝うことになったユダヤ人たちがひそかに妨害活動をしたため、完成したあとでも稼働できなかったからにすぎません。
 しかも、このガス室が実験的な目的で収容された人々に対して使用されたらしいことが、つぎの論文で指摘されています。

 Harry W. Mazal, The Dachau Gas Chambers

 だとしたら、少なくとも稼働したガス室が、ダッハウ収容所にはあったことになります。ただ、一時的に運用されただけにしても、ドイツ・ライヒの土地のうえで、ユダヤ人のガス殺があったわけです。コゴンたちの本でも、いまにいたるまで最終的な証明がないと述べられています(Eugen Kogon et al. (hrsg.), Nationalsozialistische Massentoetung durch Giftgas, p.277.)。 このあたりは調査中です。 
 しかし、ガス室そのものはいくつもありました。場所は収容所ではなく、精神医療施設でした。
 それについて書くのはやめますが、何万という精神「障害」者が、ドイツのガス室で密殺されています。このガス殺施設を使って、収容所の収監者も殺されています。ブローシャトは「ドイツには絶滅収容所はなかった」とだけいうべきでした。
 ホロコーストではユダヤ人が最大の犠牲者ですが、殺された人々のなかには、いわゆるジプシー、同性愛者、社会主義者、反体制派たちも含まれます。私は精神「障害」者の組織的抹殺も、ホロコーストの一部だと思っています。さらに、この殺害でつちかわれた技術や人員が、絶滅収容所に移植されてもいます。

レーダー弁護士の正体


 木村さんがどれほど無批判にネオナチの主張に寄り掛かっているかの、ちょっとした資料です。
 すでに木村さんがティース・クリストファーゼンという元親衛隊員で有名なネオナチの『アウシュヴィッツの嘘』という嘘だらけの本を、自分の重要な典拠にしていることを指摘しておきました。そのさい、クリストファーゼンが「親衛隊員などではなかった」という、さらなる嘘を彼はついています。
 この本には、レーダーという弁護士が書いた序文がついていて、彼の発言を木村さんは肯定的に引用しています。

 「『アウシュヴィッツの嘘』の序文を書いた弁護士、レーダーは・・・つぎのように指摘していた。云々」(『争点』p.122.)

 レーダーがやったのは、虐殺された人々を焼くのに必要な燃料が、当時のドイツにはなかったという指摘です。これが問題にならないつまらないいいがかりであることは、あとで別に論じます。
 また、こうも述べています。

 「弁護士のレーダーは序文のなかで、クリストファーセンのこの立場を『中立』と表現している。」(同、p.157.)

 このレーダーは単なる「弁護士」ではありません。
 望田幸男さんの『ナチス追求 ドイツの戦後』(講談社現代新書、1990年)には、つぎのような記述があります。

 「このレーダーとクリストハーゼンこそ、さきに述べた『ナチスAO』のロウクに、ハンブルク集会での演説の機会を提供した人物である。
 七六年、フレンスブルク地方裁判所の前で彼らのデモンストレーションがおこなわれたとき、クリストハーゼン起草のアピールが発せられたが、その一節には次のように書かれていた。
 『反民主主義のデモンストレーションに際し、すべての反民主主義者に呼びかける。・・・・真にドイツの大地に立ち、ナチズムを奉じるわれわれとともに、民主主義とボリシェヴィズムの空疎なるイデオロギーに反対するため、デモンストレーションに参加せよ。政治的敵は裁判所第一刑事部の民主主義者である。かつてのナチス組織の宣伝素材を流布せよ。・・・・弁護士マンフレート・レーダー』」(p.153.)

 『アウシュヴィッツの嘘』は先に述べたように、元ナチ=親衛隊員で、戦後ネオナチとして活躍したクリストファーゼンが執筆し、その序文を「ナチズムを奉じる」と公言するお仲間のレーダーが書いたのです。
 こんな本をネタにしている木村さんの『争点』は、きっとレーダーから、この本は「中立」であって「いまのナチス組織の宣伝素材を流布」するものだという、すてきな序文をもらえたはずです。

ヴィーゼンタールの見解



 木村さんは実に下手に事実を歪曲します。
 ジーモン・ヴィーゼンタールについての、つぎのような発言がそのひとつです。

「サイモン・ウィゼンタールでさえも、テオドル・オキーフが執筆したリーフレット『収容所の解放/事実と嘘』によれば、一九七五年には『本と出版者』(75・4)のなかで『ドイツの土地のうえには絶滅収容所はなかった』としるしている。」(『争点』、p.229.)

 これだけでは一見すると、木村さんがよくやるただの孫引きの一例にすぎないと思われるかもしれません。
 しかし、この引用は「西側にはガス室はなかった」というブローシャトの発言を「定説」(それがいまでは変更されたことは 別のところで扱いました)だとしたうえで、その補強材料として使われているのです。
 幸い、ヴィーゼンタールの『本と出版者』への投稿は、全文がオンラインで読めます。そのなかで彼は「600万人の嘘」に関するコリン・ウィルソンの発言を批判して

 「こうした行為[ユダヤ人絶滅]にかかわったとして法廷で告発された親衛隊員のだれひとり、ガス室の存在や使用を否定してこなかった。彼らの通常の弁明は、命令にはしたがわねばならなかったというものだった。」

 と指摘したのち

 「ドイツ国内には絶滅収容所がなかったため、ネオナチたちはこのことを、そのような犯罪[ホロコースト]がなかったことの証明に使っており、さらに、大量絶滅を決して見たことがなかった、ドイツの労働収容所からの証人を持ち出している。」

 といっています。彼はドイツ国内にガス室がなかったなどとは、ここではひとことも述べていません。ガス室があれば絶滅収容所だ、逆に前者がなければ後者ではない、という単純な発想に立つなら別でしょうが、ヴィーゼンタールの議論はガス室とはなんの関係もなく、ユダヤ人の組織的虐殺を目的とした収容所はドイツ国外にあったといっているにすぎません。
 それをブローシャトの見解とつなげて、ヴィーゼンタールがあたかもドイツでのガス室の存在を否定しているかのように扱うのは、歪曲だとしかいいようがないものです。


 First Uploaded: 22/05/1999

ふたつのニュルンベルク裁判



 これは木村さんが、ニュルンベルク裁判そのものをまるで理解できていないという話です。
 まず、ダッハウ収容所に関する裁判で米軍側が拷問で証言をえていたことに触れたあと、映画にもなった有名なニュルンベルク裁判(国際軍事法廷)について、木村さんはこう述べています。

 「いちばんの中心になったニュルンベルグ裁判(国際軍事法廷)・・・つねに裁判進行の中心にすわっていたのは、アメリカ軍の戦争犯罪局であり、スタッフは[ダッハウ裁判と]共通している。」(『争点』、p.80.)

 そして、ニュルンベルク裁判の手続きを批判して辞任したウェナストラム判事のこと、主席検事のジャクスンは飾りもので、実権は国際検事局のボスであった、もとドイツ国籍のユダヤ人ケンプナーであったこと、ケンプナーたちの採用を決めたのは、「狂信的シオニスト」だった米軍のディヴィッド・マーカス大佐だったこと、つまり、ニュルンベルク裁判ではシオニストたちが勝手な自白を引き出して、ホロコーストの嘘を作り上げたことが語られています。
 さて、木村さんが問題視しているのは、明らかにナチスの主要戦犯を裁いた「ニュルンベルグ裁判(国際軍事法廷)」です。しかし、ニュルンベルク裁判はもうひとつありました。こちらのほうは、米国が中心になった裁判で、主にナチスの犯罪に与した諸組織(親衛隊、諸官庁、国防軍など)の関係者が対象になっています。通常、国際軍事法廷のほうをIMT(International Military Tribune)、米国の裁判をNMT(Nuernberg Military Tribune)と呼んで区別しています。
 木村さんが少なくともこの区別を知っていることだけは、『争点』でIMTとNMTの判決結果を違ったものとして引用していること(同書、pp.60-63.)から判ります。
 だが、この区別は木村さんによって、すみやかに忘れさられてしまいます。
 というのは、上記の引用文にある、米軍の戦争犯罪局やウェナストラムたちの話は、すべてNMTにかかわる史実であって、IMTとは関係していないからです。木村さんの頭のなかでは、いつのまにかIMTとNMTがごっちゃになってしまい、後者の問題点が前者を批判するのに使われているわけです。
 この単純な間違いは、木村さんのネタ本であるバッツの本(Arthur R, Butz, The Hoax of the Twentieth Century, IHR, Newport Beach, 1997.)を読んでみればすぐに判ります(同書は借りることができました)。バッツはこれらの話をすべてNMT攻撃に使っており、IMTには触れていないのです。
 バッツの文章は悪文といってよく、本の構成も支離滅裂なので、読むのに苦労しますが、それでも「NMTに関して決定的な役割を行使したのは、戦争犯罪局だった」(Ibid., p.28.)といった記述から判るように、IMTとNMTを混同するようなミスは犯していません。
  ニュルンベルク裁判に異議を唱えるのであれば、こんな初歩的な間違いをしないだけの、最低限の知識(というより常識)が必要です。要するに、基本がまったく判っていないのですね、この人は。

木村さん流引用


 自分の議論に都合のよい部分だけを切り出して、都合の悪い箇所をカットしてしまえば、どんな「論証」でも可能になります。もっとも、それが暴かれると恥ずかしい思いをするのですが。
 木村さんがどのようにすさまじい引用をやるかを、ひとつの例で見てみます。ガス室の換気が充分でないときに、死体搬出作業をやるのは危険だという主張にかかわるものです。

 「絶滅説に立つ新鋭著作『アウシュヴィッツの医師たち』では、『犠牲者の死が親衛隊の医師によって確認されてから、死体の焼却が認められた』としているのである。『親衛隊の医師』にも危険があるではないか。」(p.216.)

 ここで引用されているのは、主にアウシュヴィッツ関係の裁判記録に依拠しながら、親衛隊員だった医師たちが、どうユダヤ人絶滅に関与したかを論じた
 F・K・カウル『アウシュヴィッツの医師たち ナチズムと医学』日野秀逸訳、三省堂、1993年
 です。貴重な証拠や証言が集められていますが、木村さんはそれらにはまるで触れず、ただ1カ所だけを抜き出し、自分の説の補強材料に使っています。
 しかし、木村さんの引用はまったく不誠実なものです。当該箇所を引いてみます。

 「全員が死んだと判断してから、医師が親衛隊消毒隊指導者に対してガス室を開けるように命じた。有毒ガスは排気施設を使って吸い出された。犠牲者の死が親衛隊の医師によって確認されてから、死体の焼却が認められた。」(p.71.)

 つまり、ガスがすでに排気されたあとに、死の確認がなされたわけです。木村さんは「有毒ガスは排気施設を使って吸い出された」という文章を故意に引用から抹殺することで、「『親衛隊の医師』にも危険があるではないか」と、文句をつけているのです。
 こういうやり口は卑劣だと呼んでよいと思います。

またまた、クリストファーゼンについて


 木村さんによって「親衛隊員などではなかった」と間違った経歴を書かれた、ティース・クリストファーゼンについて、つぎのような記述に出会いました。
1943年6月12日の話です。

 「ライスコで植物栽培実験施設の近くに、女性被収容者用の補助収容所が設立された。そこに駐留したのは、毎日ビルケナウの女性収容所からやってくる園芸栽培班と、コク・サガス(一種のたんぽぽ)からゴム(india rubber)を抽出するための研究開発にたずさわる植物栽培班だった。・・・温室の監督にたずさわったのは、親衛隊特別将校のクリストファーゼンで、彼は女性被収容者たちから殴り屋(Locher)と呼ばれていた。」[1]

 木村さんは彼について

 「中尉の位はあるが、前線で負傷して慢性瘻管という症状になり、軍務に耐えられなくなったため、アウシュヴィッツでは収容所の管理には責任のない農場の研究者として、天然のインドゴムの成分をつくるコック・サギスという草の栽培に当たっていたのである。」(『争点』、p.157.)

 と書いています。軍務には「耐えられなくなった」けれど、女性を殴りつけるだけの体力はあったようです。

 [1] Danuta Czech, Auschwitz Chronicle 1939-1945, Henry Holt and Co., New York, 1990, p.418.

 追記(1999年8月20日)
 木村さんはもと親衛隊員だったティース・クリストファーゼンについて、最初は「ヒトラーに忠誠を誓う親衛隊員などではなかった」と明言し、裁判でこの点を追求されると「いわゆる「親衛隊」のバリバリではなく」と苦しいいいわけをしなければならなかったことは、すでに明らかにしました。
 そういう醜態をさらしたあとでもなお、ご自分のWebサイトでクリストファーゼンについて

 「アウシュヴィッツ収容所付属のゴム成分を作る草の試験栽培農場に勤務していた傷痍軍人です。」[1]

 と書いています。
 このもとナチス、もと親衛隊員、そして戦後はほとんど道化じみたネオナチであった人間が、よほど気に入っているようです。クリストファーゼンが書いた『アウシュヴィッツの嘘』というネオナチ宣伝パンフは、木村さんの重要なネタ本のひとつなので、その著者をできるかぎり脱ナチス化しておきたいのだと思います。
 なお、クリストファーゼンのアウシュヴィッツにおける肩書きであるSonderfuehrerについて、どのような任務に対応するのか判らなかったので、上記のチェヒの引用では「特別将校」としておきました。これは親衛隊の公的な肩書きではなく、アウシュヴィッツにおいてこまかい特別な任務を被収容者にあてがう場合、そのグループの責任者となる親衛隊員のことを指すようです。

ツィクロンBの1罐の中味


 ツィクロンBは青酸ガスを吸着させたペレットで、アウシュヴィッツでガス殺に使われたことは、よく知られています。
 青酸ガスは人間に適用された場合、その致死量は体重1キログラムあたり1ミリグラムです。つまり、体重60キロの人間を殺すのに、0・06グラムしか必要としません。このことは木村さんも認めています(『争点』、p.204.)。
 そのうえで木村さんは、ルードルフ・ヘスの告白から、250人を殺すのに「一、二罐」のツィクロンBで充分だったという箇所を引用し、こう述べています。

 「だがこれで、『致死量をこえる殺人用の毒ガス』という条件がみたされているのだろうか。すくなくとも、そういう厳密な研究の成果をつたえる文章にお目にかかったことはない。」(同、p.205.)

 要するに、「一、二罐」では不充分だったといいたいのでしょう。だから、ガス殺の事実も疑わしい、とも。
 一罐にどれほどのツィクロンBが含まれていたかが判れば、こんないいがかりはただちに解消してしまいます。そのような数字はなにも「厳密な研究の成果」によらなくとも、簡単に入手できます。「お目にかかったことはない」というのは、木村さんの不勉強の結果にすぎません。
 ツィクロンBの罐には、100、200、500、1000、1500グラムの各種がありました[1]。ガスの吸着剤に使われた珪藻土は、圧力のもとでは自重の2倍の青酸ガスを含むことができるそうですから、100グラムのものを使っても250人を殺害するには「一、二罐」で充分だったのです。
 ちょっとした調査もしないで、でたらめな推測を書くことが、木村さん流ジャーナリズムのようです。

 [1] Eugen Kogon, et al. (hrsg.), Nationalsozialistische Massentoetung durch Giftgas, S. Fischer, Frankfurt, 1983, p.283.

さまよえるVergasungskeller 第一幕


  否定派はどこでもよく似た議論を使います。しかし、時には彼らのあいだで、収拾がつかないほどの意見の対立が生まれています。
 この対立が面白いのは、特に日本の否定派に関して、です。というのは、彼らは能力的に自前の調査や発掘ができないので、欧米の同僚たちの見解をつぎはぎして繰り返すしかないのですが、その本家本元が一本にまとまっていないと、どうしたらよいのか判らなくなって、おそろしく混乱するからです。
 Vergasungskellerということばをめぐって、この喜劇がどのように展開されたかを見てみます。

 最初に提出されるのは、1通の手紙です。 1943年1月29日にアウシュヴィッツ収容所中央建設本部長のカール・ビショフから、親衛隊経済・管理本部の上司ハンス・カムラーにあてて出された手紙です。 以下にその本文を訳しておきます[1]。

 「クレマトリウム2は、非常な困難と寒気にもかかわらず、手持ちのすべての力を投入した昼夜を問わぬ努力によって、ちょっとした建設作業を別にすれば、完成しました。建設にあたったエルフルトのトプフ・ウント・ゼーネ社の主任技師プリューファー氏の権限で、焼却炉は火を入れられ、非の打ちどころなく動いています。死体置き場(der Leichenkeller)の鉄筋コンクリート製の天井は、寒気の影響のため、まだ型枠が撤去できません。とはいえ、これはたいしたことではありません。というのは、その目的のためには、ガス室(der Vergasungskeller)が利用可能だからです。
 トプフ・ウント・ゼーネ社は、貨車制限のため、排気・吸気設備(die Be- und Entlueftungsanlage)を、中央建設本部が要求する時期に遅れないで配送することができません。とはいえ、排気・吸気設備の到着のあと、取りつけがただちに開始され、それゆえに、43年2月20日には施設は完全な操業開始が予測されます。
 エルフルトのトプフ・ウント・ゼーネ社の試験技師の報告を添付します。」

 この手紙は戦後すぐのニュルンベルク裁判(IMTではなくNMTのほう)に、ナチスの犯罪を明らかにする証拠のひとつとして、持ち出されました(NO-4473という文献番号がついています)。
 ナチスがいわゆる婉曲語法(euphemism)を多用して、自分たちの犯行をごまかそうとしたことはよく知られています。しかし、膨大な文書のやりとりが必要な近代官僚制は、時には誤って本音をもらしてしまうことがあります。この手紙は「ガス室」(Vergasungskeller)ということばを不用意に使ったため、アウシュヴィッツでのガス殺の動かぬ証拠のひとつとされました。
 ここでクレマトリウム(以下クレマと略記)について、簡単に説明しておきます。クレマは文字どおりには火葬設備のことです。アウシュヴィッツには第一収容所にひとつ(クレマ1)、ビルケナウ第二収容所に4つ(クレマ2からクレマ5まで)が建設されました。特に問題になるのは、もっとも大きかったクレマ2とクレマ3ですので、このふたつに議論を絞ります。両者の構造は鏡像的で、隣接していました。この両クレマは地下にL字型をしたふたつの広い空間を持っており、建設のさいのスケッチなどでは、ともに「死体置き場」(Leichenkeller)と称されるのが通常でした。Leichenkeller 1とLeichenkeller 2と呼ばれるので、以下ではLK1とLK2と略記することにします。クレマの地下と1階はエレベーターで繋がっており、1階には死体焼却炉がありました。
 否定派を除けば、すべての研究者は、これらのクレマの地下が改造されて、ガス殺のための部屋になったこと、アウシュヴィッツでのユダヤ人殺害にもっとも大きな役割を果たしたのは、そのガス室だったという点で、意見が一致しています。ただし、クレマのほとんどは戦争末期に破壊されており、原型を留めているものはありません。また、関連する資料の多くは、当然ながらナチス自身の手で破棄されています。
 文中に出ているトプフ・ウント・ゼーネ(Topf und Soehne)は、エルフルトにあった会社で、死体焼却設備の設計・建設を主な仕事にしていました。ナチス時代には、各地の強制収容所での死体焼却炉の建設にたずさわり、アウシュヴィッツのよいお得意さんでした。プリューファーはクルト・プリューファーのことで、同社の主任技師です。
 さて、このビショフの手紙には、「死体置き場」(Leichenkeller)と「ガス室」(Vergasungskeller)というふたつの空間が登場します。クレマ2の建設の進行状況についての手紙ですから、当然両方ともクレマのなかにあったはずです(あとで見るように、木村さんを含めて、若干の否定派は苦しまぎれに違う解釈をしますが)。
 ニュルンベルク裁判当時から、この「ガス室」はLK1のことだとみなされてきました。最初から死体置き場に偽装してガス室が作られたのか、死体置き場の用途が変更されて、ガス室に改造されたのかについては、ユダヤ人絶滅の決定がいつ下されたのかという判断とかかわる問題として、いまだに議論がつづいています。私は用途変更説を支持しています。いずれにしても、クレマの地下に「ガス室」があったことには変わりありません。
 否定派はそれにかみつきます。
 もっとも徹底した攻撃を加えたのは、米国の否定派アーサー・バッツでした。彼はノースウェスタン大学の電子工学の研究者です。バッツは1976年に出した『二〇世紀の大嘘』という著書を出しています。悪文で書かれ、記述が組織化されていないので、非常に読みづらい本ですが、否定派の基本文献のひとつです。
 そのなかで、バッツはまずVergasungという単語を取り上げます。そして、それにはガス殺という意味もあるが、まずはガス化・気化と訳されるべきだといいます。このガス室は人間の殺戮のためのものではなく、焼却炉で使われるガスを原料のコークスから抽出する設備だというのです[2]。
 木村愛二さんはまず、このバッツの解釈を支持しています。『アウシュヴィッツの争点』では、つぎのようにいわれています。

 「ユダヤ人虐殺物語の『ガス室』の用語は『Gaskammer』であって、『Vergasungskeller』の方は、火葬場の燃焼温度を上げるための『気化室』または『気化穴』とでもいうべき構造のことだ。・・・バッツ博士の著書『二〇世紀の大嘘』、およびシュテーグリッヒ判事の著書『アウシュヴィッツ/判事の証拠調べ』(手元の英語版は90年改訂増補)ですでに、言葉のすり替えが論破しつくされている。」(pp.136-7.)

 こう『争点』が高らかに宣言したのが、1995年のことなのをご記憶ください。バッツの解釈から20年近くたったあとです。
 ここまでで第一幕が終わります。

  [1] もとのテクストはダヌータ・チェヒの本(Danuta Czech, Auschwitz Chronicle 1039-1945, Henry Holt & Co., New York, 1990, p.317.)にある手紙の写真版を利用した。ついでながら、チェヒのこの本について、木村さんは「アウシュヴィッツでの最初のガス殺人」という否定派の文献にある「何らの証拠書類をも示していない」という評価をそのまま引用して、同書の資料的価値を貶めようとしている。しかし、チェヒの本ではアウシュヴィッツに残された資料を含めて、大量の証拠や証言が利用され、その出典のほとんどは明記されている。木村さんは要するに眼を通してさえいない著書を、否定派の一方的な評価を鵜呑みにして攻撃しているにすぎない。自分で調べることなしに、一方の当事者のかたよった評価をそのまま垂れ流すのが、木村流ジャーナリズムの特徴のひとつである。
 [2] Arthur Butz, The Hoax of the Twentieth Century, Institute for Historical Review, Newport Beach, 1997, p.121.

さまよえるVergasungskeller 第2幕


 まえのファイルでは、ビショフの43年の手紙に出てくるVergasungskellerは、通常アウシュヴィッツのガス室のこととされるのに、76年に否定派のバッツがそれは単なるコークス気化室のことだといい、木村愛二さんが95年にはその解釈を鵜呑みにしていたことを述べました。
 これから、第二幕の開幕です。

 1989年にフランスのジャン=クロード・プレサクは『アウシュヴィッツーーガス室の技術と操業』という重要な研究を出版しました[1]。プレサクはもともとフォリソンに感化されて否定派陣営に属していましたが、やがて否定派批判にまわった研究者です。彼はヨーロッパ各地の文書館を渉猟して、特に収容所のハードウェア関係についての大量の資料を発掘し、ガス殺の物質的な基盤を明らかにしています(このような研究は否定派と同じ土俵に上がるものだという批判があることは、注記しておきます)。
 そのなかで彼は、バッツの議論を意識したうえで、焼却炉の設計・建設を担当したトプフ・ウント・ゼーネ社の資料を使い、アウシュヴィッツでの焼却炉はコークスそのものを原料にしていたのであって、バッツがいうようなコークスの気化はいかなる意味でも必要とされなかったこと、したがって、クレマの地下のVergasungskellerは気化室などではありえないことを、疑問の余地なく明らかにしました。
 バッツの主張にとって、プレサクの発見は致命的でした。
 ところで木村さんは、バスティアンの翻訳『アウシュヴィッツとアウシュヴィッツの嘘』において、訳者たちが

 「アウシュヴィッツの焼却棟の燃料はコークスが使われており、燃料のガス化装置は必要なかった」[2]

 と書いていることを取り上げて

 「しかし、この主張の論拠は明示されていない。以上の両者の相反する見解については、現在のところ、私の手元には追加の材料がない。」[3]

 といっています。 これは不思議なことです。というのは、木村さんはすでになんどもプレサクの本について触れているからです。
 プレサクは同書で、先に述べておいたように、アウシュヴィッツの焼却炉がコークスを直接に使用していたことを明らかにしました。「論拠は明示されていない」というのは、つまるところ、プレサクの本を木村さんがきちんと読んでいないことを「明示」しているにすぎません。
 要するに、木村さんが「論破しつくされている」と書いた時点で「論破」されていたのは、実はバッツのほうだったのです。「両者の相反する見解」なるものは、この時点でもはや存在していません。木村さんは否定派批判に対して、否定派が書いたものを読んでいないといって、口汚くののしるのが好きです。しかし、相手の論拠を知ろうとしないのは、ご当人のほうです。
 さて、バッツは1992年になると、プレサクの上記の批判を受け入れて、焼却炉の構造について自分が間違った考えに立っていたとはっきりと認めるにいたっています[4]。 彼はまだVergasungskellerは気化室だという従来の解釈にしがみついていますが、その気化室をクレマの焼却炉とは関係させられなくなったため、困難を回避しようとして、新しい見解を提出します。彼のこの新説によると、気化室はクレマのなかにあったのではなく、その外部にあったとされます。コークスの気化は必要なかったが、死体焼却炉とは異なった目的に使われるガスがビルケナウでは求められており、そのための設備がクレマ近くに建設されたのであり、ビショフの手紙はそのことに言及しているのだ、というわけです。
 この新説は強引な読みを別にしても、少なくともふたつの点で、新しい困難に直面することになります。つまり
 第一に、バッツがいうような設備については、いかなる証拠も証言もないこと
 第二に、だとすると空いてしまったLK1はなんだったのかを説明できないこと
 です。
 第一の点については、同じ否定派のフォリソンは、こういっています。

 「バッツも私も、Vergasungskellerの場所を見いだせなかった。それは焼却炉から離れた建物のなかにではなく、ともかく焼却室の近くにあったに違いないのだが。」[5]

 要するに、それらしい設備を、クレマのそとに求めるのは困難なのです。
 第二の点については、参照しなければならない補足資料があります。
 バッツは少なくとも92年までには、オイゲン・コゴンたちが編纂した『毒ガスによるナチスの大量殺害』という、ガス殺についての基本文献を読んでいます。92年の論文にその本が引用されていることから判ります[6]。同書には、先に挙げたビショフの手紙のほかに、43年3月31日に同じビショフがDAW(アウシュヴィッツ内にあった親衛隊の建設関係企業)に出した手紙が収録されています。したがって、バッツはそれを知っていたはずです。
 このビショフの手紙には、つぎのような文章があります。

 「この機会に、クレマ3の死体置き場1のための100cm/192cmの気密ドアの供給についての、1943年3月6日の注文について、注意を喚起しておきたい。このドアは、向かい合っているクレマ2の地下室ドアの型や寸法と完全に同じに完成されるべきで、そこにはゴムのパッキングと保護金具がついた、8mmの二重のガラスの覗き穴もつけられる。この注文は緊要なものとして扱ってほしい。」[7]

 文面から判るように、クレマ2とクレマ3との「死体置き場1」には、ガス漏れを防ぐための特別な気密ドアが取りつけられることになっており、さらに、そこには特別な覗き穴が設けられてもいます。LK1がなんらかのかたちでガスに関連した空間であったこと、つまり、一部の否定派がいうような単なる死体置き場などではなかったことは、明白です。
 くわえて、プレサクはモスクワの文書館で、クレマ2およびクレマ3の引き渡し証を発掘しています。それによると、ふたつのクレマのLK1にはやはり気密ドアがつけられています[8]。
 LK1がなんらかのかたちでガスと関係していることは、これらの資料から明白です。なにもVergasungskellerをクレマのそとにあるなどと想定する必要はありません。
 以上のような理由から、バッツの92年の新説は否定派のあいだでも評価されませんでした。
 木村さんは99年、つまり本年になってから、このバッツのクレマ外部説をおぼろげに知ったようです[9]。それに「刺激」されて展開されるご本人の妄説はあとで見ることにして、バッツの議論をさらに追ってみます。
 [1] Jean-Claude Pressac, Auschwitz: Technique and Operation of the Gas Chambers, Beate Klarsfeld Foundation, New York, 1989.
 [2] ティル・バスティアン『アウシュヴィッツとアウシュヴィッツの嘘』石田勇治ほか訳、白水社、1995年、一六六ページ
 [3] 木村愛二「シオニスト『ガス室』謀略周辺事態(その9)」 (26/02/1999)
 [4] Arthur R. Butz, "Some Thoughts on Pressac's Opus", in: The Hoax of the Twentieth Century, 10th Printing, Institute for Historical Review, Newport Beach, 1997, p.380.
 これは92年に書かれた論文で、『20世紀の大嘘』の補遺として収録されている。そこでバッツは、トプフ社の焼却炉が「私が想定したような設計ではなく、炉の背後から供給されるコークスを燃料に使ったもの」と認めている。
 [5] Robert Faurisson, "Auschwitz: Technique and Operation of the Gas Chambers (1989) ou bricolage et "gazouillages" a Auschwitz et a Birkenau selon J.-C. Pressac" (1990)
 [6] Butz, op. cit., p.393.に引用がある。
 [7] Eugen Kogon et al. (eds.), Nationalsozialistische Massentoetungen durch Giftgas, S. Fischer, Frankfurt, 1983, p.222.
 [8] Jean-Claude Pressac/Robert-Jan Van Pelt, "The Machinery of Mass Murder at Auschwitz", in: Ysrael Gutman/Michael Berembaum (eds.), Anatomy of the Auschwitz Death Camp, Indiana Univ. Press, Bloomington, 1994, p.233, 236.
 [9] 「最近になって、『別の部屋』ではないかという意見を[バッツが]述べているという耳情報があるからである。」([3]と同じ)バッツが92年に提唱し、あとで見るように97年にはもうさっさと放棄してしまっている意見を、99年になってまだ「耳情報」でしか入手できていないのだから、木村さんの取材能力の低さが判る。この「耳情報」の出所は西岡さんらしいので、日本の否定派はふたりそろって、とてつもない怠け者である。

さまよえるVergasungskeller 第3幕



  前回は、プレサクが提出した証拠のおかげで、否定派のバッツがかつてのLK1=気化室説を放棄せざるをえなくなり、結局92年に、クレマの外部にVergasungskellerを求めて彷徨いだしたところで終わりました。木村さんはバッツの92年説を、1999年になってようやく知ったようです。
 さて、バッツはVergasungskellerをクレマのそとに追いやったのですが、自分の議論がどうも不評であることに気づいたらしく、木村さんがもたもたしているうちに、1997年になって、またもや自分の見解をドラスティックに変えてしまいます[1]。
 この最新説では、まず、Vergasungskellerはクレマの地下に戻されます。出たり入ったり、忙しいことです。
 クレマのなかにVergasungskellerがあったこと、それがLK1であることを、バッツは最終的には承認したわけです。しかし、もう気化室説を繰り返すことはできません。したがって、別の解釈が必要になります。
 バッツによると、Vergasungskellerは今度は、毒ガス防御設備を持った防空壕なのです!
 彼はクレマの地下にあるLeichenkellerはすべて防空壕に改造されたといいます。そのうちのLK1だけが対毒ガス設備を持っていたのでVergasungskellerと呼ばれたのだというのです。おそらく、第一収容所のクレマがのちに防空壕に改造されたことから思いついたのでしょうが、クレマ2や3の地下に防空壕が作られたという証拠は、なにひとつありません。バッツもまったくなにも傍証を提出していません。Vergasungskellerはクレマの外部にあったという、まえの主張と同じように、なんの根拠もないのです。ただ、ビショフの手紙ひとつをこねくりまわして、そうだったに違いないと断言しているだけです。
 そのうえ、困ったことがあります。
 ビショフの3月31日の手紙に明記されている覗き窓は、なんのためのものなのでしょうか。また、天井にあったパイプがつながっていないシャワー・ヘッドは、なんのためのものでしょうか。Leichenkeller 1に焼却炉から発生する熱を導く案をプリューファーは一時提案していますが、上部構造が爆撃で破壊されたら、このパイプを伝って毒ガスは室内に入り込みます。なんでプリューファーは、こんな無茶苦茶な提案をしたのでしょうか。
 さらに困ったことがあります。
 バッツも認めているように、防空壕の基本目的は、収容所にいる親衛隊員を保護することにあります。ところが、ビルケナウ収容所のどんな地図を見ても判ることですが、ビルケナウの管理本部も親衛隊員宿舎も、ビルケナウ最大の収容地域(B II)の北東にあり、クレマはその南西にあります。つまり、前者から後者に逃げ込むには、鉄条網で囲まれたB IIをぐるりと半周する必要があるのです。こんな離れたところに防空壕を作っても、いざというときになんの役にも立ちません。ガス攻撃を想定した設備をそんなところに置くのは、常軌を逸しています。収容所長たちは攻撃を受けた場合、防空壕に到達するまで、ガスマスクをつけて長大な距離を走りとおさなければならないのですから。そんなものは最初から、本部近くに設置するのが当たり前です。
 この防空壕説についてバッツは、「ここで提出される理論のユーモラスなまでの簡単さに私は衝撃を受けている」と自賛しています。
 しかも、彼は同じ文章のなかで、LK2を「脱衣室」あるいは「脱衣空間」と呼んでいるいくつかの文書に触れて、そこでは死体の衣服が脱がされ、ついて死体はLK1に運ばれると、防空壕説とはまるで違った議論を同時に展開してもいます。同じ論文において、LK1は防空壕であると同時に、死体置き場でもあることになります。まったく異なったふたつの説を、どちらかだろうともいわずに並べているわけです。
 ここまでくると、バッツの正気が疑われます。
 要約しておくと、Vergasungskellerについてのバッツの見解は、つぎのように「進化」をとげています。
 1976年 クレマ地下の気化室
 1992年 クレマ外部にある気化室
 1997年 クレマ地下の防空壕
 木村さんは残念ながら、まだ第二段階あたりにしか到達できていません。
 ついでながら、バッツと同じく否定派の大物であるロベール・フォリソンの見解を、ここで見ておきます。プレサクの仕事が否定派のなかで混乱と対立を生みだし、おかげで収拾がつかない状況になっていることを、きちんと押さえておきたいからです。
 フォリソンははじめ、バッツの気化室説に賛成していました。しかし、やはりプレサクの批判に耐えきれないと思ったらしく、こっそりとそれを放棄します。フォリソンの新説[2]では、Vergasungskellerはクレマの内部に戻されます。そして、それは「冷凍庫ないしは冷凍室」(depositoire ou chambre froide)だとされます。そのうえで、どういうわけか、この「冷凍庫ないしは冷凍室」の目的は、ツィクロンBを使った消毒(desinfection)にあったといわれます。ツィクロンBは周知のように、低温ではなかなか気化しないのであり、「冷凍庫ないしは冷凍室」で利用されるわけがありません。フォリソンは最近、自説のなかで明らかな食い違いを平気で犯すようになっています。
 まず、最新のバッツと同様、フォリソンもVergasungskellerをクレマの地下にあったと認めたことを、はっきりと確認しておきましょう。否定派の重鎮ふたりがそろって、VergasungskellerがLK1であること、そこにはガスとなんらかのかたちで関係した装置があったことを確認しています。
 それにしても、フォリソンはいいかげんな人です。私は彼がもとはランボーやロートレアモンの研究者であったことを知っているので、もっと凄みのある人だと思っていたのですが、彼が繰り返すどうしようもないでたらめを読むと、気の毒にさえなります。どれほどいいかげんかを、以下で少し述べます。
 (1) 彼は「私は消毒ということばを、固有の意味での消毒と同様、殺虫の意味でも使っている」と述べています。「固有の意味での消毒」(la desinfection proprement dite)とは、殺菌のことです。『大辞林』は「消毒」を「感染予防のため病毒菌を殺すこと」と定義しています。つまり、フォリソンは殺菌と殺虫の両方を消毒に含め、それがVergasungskellerで行なわれたと見ています。しかし、ツィクロンBの主成分である青酸は、確かに殺虫効果を持っていますが、細菌を殺す能力はありません。それは「固有の意味での消毒」とはおよそ無関係なのです。フォリソンはよせばよいのに、自然科学の領域にまで入り込んであれこれいっていますが、その知識など、この程度のものにすぎません。
 (2) 青酸の沸点は摂氏25・8度です。アウシュヴィッツは寒冷の地で、天然の温度では特に冬には、ツィクロンBはなかなか気化しないという点を、否定派はしつこく主張してきました。ところが、フォリソンによれば「冷凍庫ないしは冷凍室」でガスによる薫蒸が行なわれるそうです。温めるのでなく冷やすのだとすると、ガスの気化はさらに困難になるはずですが、もちろん、なんの説明もありません。
 (3) フォリソンはこれまで、LK1=Vergasungskellerの換気装置が、上部で吸気、下部で排気という構造になっているのは、青酸ガスが空気より軽いことと矛盾すると、なんども執拗に主張してきました。だとしたら、LK1がツィクロンBを使った消毒室だったという自説についても、同じことがいえます。自分で自分の首をしめているのです。
 (4) 一番重要なのは、フォリソンの消毒室説が、彼がこれまで声を大にして擁護してきた、ロイヒターの主張とまっこうからぶつかることです。
 フレッド・ロイヒターは米国の死刑用ガス室の製造業者で、否定派から依頼されてアウシュヴィッツではガス殺などありえなかったという文書(『ロイヒター報告』と通称されています)を出しています。フォリソンはこの『ロイヒター報告』に序文を寄せていて、内容を褒めちぎっています。
 ロイヒターの主張を簡単にまとめると
 (a) ガス室とされてきた部屋の壁からは、ゼロないしゼロに近い青酸残留量しか検出されない
 (b) クレマ2や3のVergasungskellerは、とうてい青酸ガスを使うような構造になっていない
 ということです。ロイヒターの主張によれば、LK1は青酸ガスによる薫蒸のためのスペースにも使えなかったことになります。
 フォリソンは青酸ガスによる消毒=薫蒸がクレマの地下で行なわれたということで、かつて絶賛していたロイヒターの「発見」を、完全に無視しています。
 要するに、ロイヒターを立てれば、フォリソンが転け、フォリソンを立てれば、ロイヒターが転けるのです。素敵です。
 以上が第三幕です。つづいていよいよ、木村さんの最新の珍説が登場します。
 乞うご期待。

  [1] Arthur R. Butz, "Vergasungskeller" (06/01/1997)
 [2] Robert Faurisson, "Auschwitz: Technique and Operation of the Gas Chambers (1989) ou bricolage et "gazouillages" a Auschwitz et a Birkenau selon J.-C. Pressac" (1990)
 


さまよえるVergasungskeller 第4幕

 いよいよ、木村さんの意見のほうを扱います。
 まず、木村さんは99年になっても、バッツの92年の説を正確に知らないでいます。否定派の国際的な情報網もたいしたことがありません。しかし、92年になってバッツがVergasungskellerをクレマの外部にあったと想定したことだけは「耳情報」で判っていたようです。どうも地下の気化室ではまずいらしいのですね。
 木村さんはこの「耳情報」と、ビショフの43年1月29日の手紙(これしか知らないのです)をこねくりまわして珍解釈を下します。
 もう一度、ビショフの手紙の関連部分を引いておきます。

 「死体置き場の鉄筋コンクリート製の天井は、寒気の影響のため、まだ型枠が撤去できません。とはいえ、これはたいしたことではありません。というのは、その目的のためには、ガス室が利用可能だからです。」(Die Eisenbetondecke des Leichenkellers konnte infolge Frosteinwirkung noch nicht ausgeschalt werden. Die ist jedoch unbedeutend, da der Vergasungskeller hierfuer benutzt werden kann.)

 この文章をじっとにらんでいた木村さんの頭は、なんと「発火」します。

 「もう一つの、キーワードというよりもキー文字は、たった1つの小文字の『s』だった。上記の『代用』論とともに決定的な重要性を秘めていそうなのは、日本人が見逃しがちな『単数』と『複数』の違いである。上記のように、英語訳の方では、the cellar used as a mortuaryと、明白に単数の扱いになっている部分が、ドイツ語の原文では、Leichenkellersと、複数になっているのである。
 ・・・・・
 つまり、私には、Leichenkellerと設計図に記された部屋が2つあるという予備知識があった。プレサックの原著には、設計図の写真も入っていた。だから、上記のドイツ語原文と、英語の訳文を、ワープロで入力する際の作業で、いやでも気付いた『s』1文字の刺激が、それらの予備知識と衝突して発火したのである。」[1]

 この「発火」の過程は、以下のように要約できます。

 (1) Vergasungskellerはクレマのそとに追い出さなければならないらしい。
 (2) ところで、上記の文章をよくながめると(決して「よく読むと」ではありません)、Leichenkellersとあるではないか。
 (3) Sがついている以上、これは複数に違いない!
 (4) クレマ地下のLeichenkellerはふたつあった。つまり、ビショフの手紙によると、両方ともまだ使えなかったのだ。
 (5) すると、利用可能なVergasungskellerはクレマ地下にはありえないことになる。それはふたつのLeichenkellerとはまるで別物なのだ。
 (6) だとすれば、それはクレマの外部にあったとするバッツの説とも合致する。呵々。

 木村さんはこの「発見」に興奮したようで、「もしかすると、これは私の新発見ではなかろうか」とまでいっています。
 つづけて、こうもいいます。

 「具体的な手順から考えると、その場所は、すでに稼働中の焼却炉から焼いた遺体の骨を掻き出して、いったん焼き窯を冷やし、次の作業に掛かる時に、新しく焼く死体を運んでくるのに便利な位置であろう。それは『同じ建物の中とは限らない』というのが、バッツの発想の転換の着眼点らしいのである。まだ論文は発表されていないものか、ともかく西岡の手元にも届いていないのだが、バッツのこの発想の転換には、どうやら、私の場合と同様に、プレサックの強引な『隠語』説の刺激があるらしいのである。」[2]

 この文章にも、いくつも間違いがあります。焼却炉は「すでに稼働中」ではありません。ビショフが触れた1月29日の火入れは、まったくの実験的なものであって、死体焼却さえ行なわれていません。それが試されたのは、3月5日になってからです[3]。また、焼却炉は内部の温度を一定に保つことが必要ですから、「いったん焼き窯を冷やし」たりしません。また、バッツの論文はとっくに活字になっていましたし、彼の「発想の転換」は、これまで見てきたように、木村さん「の場合と同様」ではありません(お仲間の主張さえ、正確にフォローできないのです)。
 残念なことに、木村さんの「新発見」は新発見でもなんでもなく、「発火」は幸い大事にいたりませんでした。できの悪い線香花火のように、発火してもすぐに火玉が落ちてしまったのです。それは私が、文中のLeichenkellersは単数二格にすぎず、Leichenkeller複数説はドイツ語文法の初歩も知らない木村さんの大間違いだと指摘したからです[4]。
 これに木村さんは激昂します。「新発見」だと思いこんだものが「珍発見」にすぎなかったことが、よほど悔しかったようです。しかし、言い訳が絶対にきかない間違いなので

 「こりゃ少し失敗したかな」[5]

 といっています。表面上は反省しているように見えます。しかし、私の指摘に対しては罵詈譫謗を投げかけるだけで、ご自分の「新発見」が無効になったので撤回するとはおっしゃっていません。
 ですからだめ押しで、もうひとつ複数説に決定的に打撃になる資料を提示します。
 1月29日のビショフの手紙に登場する、トプフ・ウント・ゼーネ社の技師プリューファーの報告です。ビショフの手紙と同じ日に書かれています。

 「クレマ2。この建物は、いくつかの小さな作業を除いて(寒気のために、死体置き場2の天井から、まだ型枠を取り除けない)、建設上は完成している。・・・死体置き場の排気・吸気装置の引き渡しは、必要な貨車の欠如のおかげで遅れており、10日以内に組み立てるのは、無理だと見込まれる。」[6]

 ここでは明確に、型枠をはずせないので使えないのは、クレマ2のLK2だと書かれています。LK1とLK2の両方が使えないのではありません。木村さんの珍解釈は、この報告を読むだけで根拠をなくします。であるなら、LK2のほんの数メートル先に、Vergasungskellerとして代用できる場所(LK1)があったことになります。なにもクレマ外部をうろうろと探さないでもよかったわけです。
 くわえて、木村さんが完全に無視していることですが、ビショフもプリューファーも「排気・吸気装置」に触れています。これが関係するのはLK1のほうです。というのは、LK2には排気装置だけがあり、吸気装置はなかったのに対して、LK1はその双方を持っていたからです。プレサクはそのこともはっきりさせています。LK1はまさしくVergasungskellerと呼ばれるのにふさわしい、特別な換気装置を備えていました。
 上記のプリューファーの報告は、ビショフの3月31日の手紙と同じく、1983年に出されたコゴンたちの著書に紹介されています。木村さんはドイツ語がまったくできないので、この著書を参照しえないことは判っています。しかし、こうした資料は英語で出されたプレサクの研究にも引かれており、木村さんはそれを読んだと繰り返し述べているのです。だが、それをまともに読んでいるなら、ドイツ語の珍解釈にもとづく複数説を持ち出して、大恥をかくこともなかったはずです。要するに、本を読むさいの基本姿勢がおかしいのです。
 木村さんはこのVergasungskellerの機能も、いつのまにか変えてしまいます。

 「私は、戦争中ではなくとも死者の衣服の再利用は珍しくないことだから、、その衣服の虱退治のための小部屋があったかもしれないと考える。・・・Vergasungの意味で唯一明確に説明できる書証があるのは、殺虫剤チクロンBの使用説明書だけである。そのVergasungの意味は、チクロンBが発生する青酸ガスで『害虫を殺す』ことである。そこからのVergasungskellerの一番自然な解釈は、殺虫室、または、消毒室である。」[7]

 『争点』であれほど高らかにいいたてられていた気化室は、まるで最初からなかったかのように消え去ってしまっています。
 意見を変えること自体は、なんの問題もないのですが、「論破」だなどと大見得を切って出した気化室説を、こっそり別のものにすり替えるのは誠実さを欠きます。また、アウシュヴィッツにあった殺虫室については、その大きさや機能が判っており、とうてい死体置き場の代用にならないこともはっきりしています。
 さて、木村さんのこの新説ですが、最初に断っておきますが、Vergasungの唯一可能な解釈が殺虫だというのは、完全な嘘です。それがガス殺をも意味することは、バッツ自身が認めています[8]。もちろん、書証もあります。Vergasungがガス殺をも意味することは、ニュルンベルク国際軍事法廷に提出されたベッカーの手紙(501-PS)で疑問の余地なく明示されており、その文書はこれまで否定派がつねに騒ぎ立てる「偽造」とか「変造」といった非難を免れてきています。その一部はこのサイトで訳出しておきました。このベッカーの手紙はそこで述べておいたように、ヴァルター・ラウフにあてられているという理由からして、否定派でもいんちき呼ばわりが絶対にできないものなのです。
 木村さんの議論はすべて、ドイツ語の初歩的誤読にもとづいて、クレマの地下のふたつの空間が、ともに利用不可能だと思い込んだことから出発しています。しかし、そのうちのひとつ(LK2)だけが未完成だったのですから、そんな解釈は成立しません。わざわざクレマのそとに臨時の死体置き場を設定しなくとも、ほんのすぐ近くにあったLK1、つまりVergasungskellerを使うだけでよかったのです。再度強調しておきますが、バッツやフォリソンでさえ、LK1がVergasungskellerであることを、いまでは最終的に認めています。彼らとは異なった見解を提出できる能力は、木村さんにはとうていありません。
 木村説は単純な誤読に起因した、ただの妄想にほかなりません。

 これで第四幕は終わりました。
 否定派の愚劣な議論にさらにつづきがあるかどうかは、これからの話になります。
 木村さんだけに関していえば少なくとも、つぎのような態度が求められます。

 (1) なによりもまず、ドイツ語の基礎知識を獲得すること
 (2) 1月29日のビショフの手紙だけにしがみつかず、プリューファーの同日の報告や3月31日のビショフの手紙等の関連資料を参照すること
 (3) フォリソン、バッツ、マットーニョたちが最終的に認めたように、Vergasungskellerをクレマ2の地下に戻して、LK1がそれだと認めること
 (4) Vergasungにはガス殺の意味も明白にあることを認めること
 (5) LK1=Vergasungskellerが殺害用ガス室でないと強弁するのであれば、この空間の用途を明らかにすること

  木村さんがこれからVergasungskellerやLeichenkellerについて、どんな滑稽な見解をさらに繰り出すかは、今後の楽しみです。といっても私としては、木村愛二さんがこの問題については、もうなにもいわないだろうと思っています。これ以上なにかをいうと、ぼろのうえにぼろを重ねる結果にしかなりません。そういう事態に陥るのを避けるために、沈黙してしまう可能性が高いと推測しています。というのも、木村さんには、議論にどうしても必要になる資料を利用する能力がないからです。
 日本の否定派の最大の弱点のひとつは、独自になにかを「証明」する能力の完全な欠如です。自分たちで資料を調べ、別個の解釈を提出するためには、なによりもまず、資料そのものを探し出し、それを解読(というより否定派の場合には誤読)する能力がなければなりません。それができない木村さんたちは、結局のところ、欧米の否定派のあれこれの主張をつまみ食いして紹介することしかできません。Vergasungskellerの例のように、否定派のなかで収拾がつかない混乱が生じてしまっている場合、木村さんたちはそのどれが「正しい」のかを判断することがまるでできないのです。
 情けないことですが、それが実態です。

 [1] http://www.jca.apc.org/~altmedka/glo-9.html
 [2] http://www.jca.apc.org/~altmedka/glo-10.html
 [3] Czech, pp.345-6.
 [4] http://village.infoweb.ne.jp/~fwjh7128/genron/holocaust/stove156.htm この指摘がよほどくやしかったらしいことは、私に対するすさまじい罵倒によく現れている。
 [5] http://www.jca.apc.org/~altmedka/glo-11.html
 [6] Giftgas, p.220.
 [7] http://www.jca.apc.org/~altmedka/glo-10.html (05/03/1999)
 [8] Butz, The Hoax, p.380. ここでバッツは「第一次大戦における毒ガス攻撃がVergassungと呼ばれた」ことに触れている。
 


木村愛二さんの典拠
 最近、木村さんはついに『アウシュヴィッツの争点』をWebのうえで公開するという手段を取られました。つまり、彼の「トンデモ本」がインターネットを通じて流されるわけです。私はこの知性と品性の双方に極端に乏しい人間とかかわることに、ある時期からほとほと嫌気がさしていたのですが、こうなってはやむをえないので、さらに追求の手をのばすことにします。

 最初に公開されたのは、同書の参考文献です。そのさい、木村さんは「私が『ネオナチ資料のみを利用している』とのmailを、そのまま鵜のみにしている人もいるのではないか」という助言を受けたからだといっています。本当に木村さんはネオナチ資料に依拠しないで『アウシュヴィッツの争点』を書いたのでしょうか。

 木村さんの著書で展開されるホロコースト否定論の主要な支えになっているのは、欧米で刊行されたネオナチ、極右、反ユダヤ主義者たちの文献です。彼は一生懸命にそのことを隠そうとしていますが、とうてい無理な話です。

 『争点』の巻末には15ページに及ぶ「参考資料」が列挙されています。いいかげんな事実調べとセンセーショナリズムからしか成り立っていない本に、なんとか「学術的」な体裁をほどこそうとする、姑息な努力です。そのうちもっとも重要なのは、「日本語訳のない外国語の単行本」であることは明らかなので、その部分をチェックしてみましょう。39冊の本のタイトルが挙がっています。

 幸い、木村さんはどの資料をどこでなんど引用したのかを、そこで明示しておられます。その数字を利用して、引用回数が多いものを、順に並べてみます。人名の読み方などについては、かならずしも木村さんのそれにはしたがいません。
14回 ヴィルヘルム・シュテークリヒ 『アウシュヴィッツ神話』
13回 アーサー・バッツ 『二十世紀の大嘘』
10回 フレッド・ロイヒター 『ロイヒター報告』
7回 ウド・ヴァレンディ 『移送協定とボイコット熱・1933』
7回 リチャード・ハーウッド 『600万人は本当に死んだか』
6回 ポール・ラシニエ 『ホロコースト物語とユリシーズの嘘』
5回 ティース・クリストファーゼン 『アウシュヴィッツの嘘』

 このあと、クロード・ランズマン『ショア』の4回がつづきますが、同名の映画と本がごっちゃにされているので、数には入れられません。残りはすべて3回以下の言及をされているにすぎず、ここでは取り上げません。シュテークリヒからクリストファーゼンまでが、木村さんの主要文献だといってよいと思います。このうち、元ナチス、ネオナチ、極右といった政治的経歴が疑いようもなくはっきりしているのは、ヴァレンディハーウッドクリストファーゼンの三人です。

 残りの連中はどうでしょうか。シュテークリヒの政治的な活動歴ははっきりしませんが、彼は本文でアレツ、ヴァレンディ、ローテといった札つきのネオナチ否定派の資料を大量に使っています。また、しばしば脚注で参照を求められるDeutsche National-ZeitungとかDeutsche WochenzeitungとかNation Europaといった定期刊行物は、すべてネオナチが発行しているものです。Voelkischというナチスが好んで使い、戦後はほとんど廃語になった形容詞も同書には公然と出てきますし、彼のいう「アウシュヴィッツ神話」は「民族の力に対する危険」(Gefahr fuer die Volkskraft)という位置づけをされています。こうした表現からしても、少なくとも立派なネオナチ・シンパです。

 アーサー・バッツはノースウェスタン大学の助教授で、専門は電子工学だそうです。『二十世紀の大嘘』という彼の本は、否定派の「古典」のひとつですが、非常に読みにくく、構成もひどい著書です(これはなにもためにするいいがかりではなく、本当に読むのに苦労しました)。デボラ・リップシュタットはバッツについて、こう書いています。
「この本の刊行以来、バッツは政治とは無縁な学者という自分のイメージをせっせと維持しようと試みているが、さまざまな極右派やネオナチ・グループと結びついてきている」。

 米国はこうした非難に根拠がなかったら、ただちに訴訟になる社会です。バッツがリップシュタットを訴えたという話は聞いていないので、彼女の断言を信じてよいと思います。実際、彼の本の内容は、ユダヤ人とコミュニストの陰謀が、F・D・ローズヴェルト大統領やモーゲンソー(ローズヴェルト時代の財務長官)の反ナチス活動の背後に潜んでいたとする、ひどくお粗末な反共・反ユダヤ主義を下敷きにしています。

 ロイヒターはどうでしょうか。否定派のロベール・フォリソンに上手くひっかけられて、ポーランドに行き、アウシュヴィッツのあちこちから違法な標本採取(これが完全に違法行為であったことを、彼はなんと誇らしげに語ってさえいます)をやり、いわゆる『ロイヒター報告』を作成した時点では、おそらく政治的にはたいしたことのなかった人だったと思います。しかし、いまではロイヒターはヨーロッパや米国のあれこれのネオナチ組織のあいだを巡回しては、講演で金をかせいでいる人間です。

 ついでにここでも強調しておきますが、ロイヒターの「発見」なるものは、別のファイルで指摘したように、いまではフォリソンやバッツたちからも見捨てられており、かなり悲惨なことになっているようです。

 最後はラシニエです。否定派の父と呼ばれるラシニエは、戦前一時、フランス共産党や社会党に席を置いており、対独レジスタンスに加わって逮捕され、ブーヒェンヴァルトとドーラの強制収容所を経験したという経歴を、否定派によって最大限に利用されてきました。木村さんや西岡さんも、それをいいたてています。しかし、彼らが口をつぐんで語らないのは、ラシニエが戦後になって、フランスの極右反ユダヤ主義のグループと接近し、彼らと協力関係にあったという事実です。

 例えば、ラシニエが1950年に出版したホロコースト否定論の「古典」である『オデュッセウスの嘘』には、極右の作家アルベール・パラの序文がもともとついていました。この序文はのちにはこっそりと削り取られていたのですが、今年になってなんとフォリソンが独自に刊行したようです。ラシニエはフランス社会党から立候補して1946年に代議士になったことがありますが、パラとのこの関係のおかげで、社会党から除名されてもいます。また、ラシニエの著書の多くは、イタリア・ファシズムを賛美するモリス・バルデシュ(公然と「私はファシスト作家だ」と表明していた人です)の出版社から出されています。バルデシュはラシニエの追悼演説も行なっています。さらに、ラシニエは戦後になっても、サンジカリズム運動と関係を持っていましたが、右翼反ユダヤ主義の雑誌『リヴァロル』に変名でなんども寄稿していたことが判っています。

 このように、ホロコースト否定派としてのラシニエの活動は、戦後フランスの極右運動と密接にかかわって展開されていたのです。木村さんたちはこの部分に一切触れようとしません。しかし、パラやバルデシュの名前とともにしか、少なくともラシニエのこうした仕事はありえないのです。

 以上から判るように、木村愛二さんの『アウシュヴィッツの争点』という本は、もっとも重要な論点をおぞましい政治的見解を持っている人々から借りて作られています。このような事実は日本ではなかなか明らかにされません。

 私は木村さんが「ネオナチ資料のみを利用している」とはいいません。しかし、木村愛二さんが基本的にはネオナチ資料のみを利用している、と明言させていただきます。彼の典拠についての以上のような検討からは、私のようにしかいうことができません。実際、『アウシュヴィッツの争点』から、上記のような人々に寄りかかって書かれた部分を取り除いてみれば、ほとんどなにものこらないのです。


強制労働と絶滅政策の関係
 ホロコースト否定派がよく使う手口のひとつに、とうに論破されてしまっている論点を臆面もなく繰り返すというものがあります。そう叫びつづけることで、まだ議論の全体を知らないでいる人々を取り込めることが、彼らにとっては大切なのです。もちろん、木村愛二さんもそうします。先頃、メーリングリストのamlに送りつけてきた迷惑メール[aml 15196]で、彼はすでにまったく陳腐になった話をまたも繰り広げています。 ナチスはユダヤ人を強制労働に駆り立て、さらに絶滅の対象にしたという主張に対して、木村さんはこういいます。

 「「強制労働」までさせるほど「労働力不足」だったのに、「絶滅」を目的とする収容所を作って「大量殺戮した」と主張していることになるのですから、これは両立しません。おかしいと疑うのが普通の考え方なのです。ですから、パレスチナ分割決議を推進した政治的シオニストは、その要求を欧米列強に呑ませるために、「ユダヤ民族絶滅」を目的として「ガス室」工場まで作って大量虐殺をしたのだと主張することの方に力点を置き、「強制労働」の方は問題とはせず、そのことへの賠償金も要求しなかったのです」。

 そして、つぎのように強調します。「「ホロコーストは嘘だ」と主張し、「収容所は労働力確保の場でもあった」と考えることができれば、歴史の事実を論理的に説明できるのです」。

 「歴史の事実」どころか、これでたらめです。ナチスは支配下にあるユダヤ人を「労働可能」と「労働不可能」という、ふたつのカテゴリーに分類しました。前者は強制労働に従事させられ、後者は絶滅の対象になりました(ゲッベルスはその比率を40%と60%だと見積もっています)。前者の場合でも、劣悪きわまる労働・生活環境がたえずユダヤ人を「労働不可能」なほうに追いやっていたのです。アウシュヴィッツで第一次および第二次選別と呼ばれる過程について書かれたものを読めば、すぐに判ることです。

 アウシュヴィッツについての有名な写真のひとつに、ガス室に向かう腰がまがったひとりの老婆と、連れ添っている三人の小さい子供のものがあります。この人々は労働のためにアウシュヴィッツに連れ込まれたわけがなく、彼女たちの運命は絶滅政策によって冷酷に定められたのです。

 これらに関しては、すでに日本で優れた研究(栗原優『ナチズムとユダヤ人絶滅政策』ミネルヴァ書房、1997年)が出されています。栗原さんの本が出されてすでに2年半以上になるのに、まだ労働と絶滅は「両立」しないなどというのは、木村さんがネオナチたちの資料にばかりしがみついていて、まともな研究を読まないからでしかありません。

 ドイツ等の研究では、労働のほうを重視することで、ナチス・ドイツに資本主義的合理性の核を見ようとする研究者と、絶滅をもたらした反ユダヤ・イデオロギーを重視する研究者とのあいだで、かなり激しい論争が展開されてきました。これはナチズムの基本性格にかかわる議論です。そうした論争はもちろん、ホロコーストやガス室の存在を執拗に否定する連中とは、まったく無関係になされています。強制労働があったから絶滅政策はなかったと主張しているのは、ネオナチだけです。






(私論.私見)