「ホロコースト論争7(山崎カオル氏のホロコースト論)」考 |
(最新見直し2006.4.8日)
(れんだいこのショートメッセージ) |
ホロコースト問題はれんだいこの得手とするところではないのだが、「マルコポーロ廃刊事件」に言及したことで勢いホロコーストに対する正確な認識が必要とされるに至った。れんだいこが主催する掲示板「左往来人生学院」で、疲労蓄積研究者氏より山崎カオル氏の「ホロコーストを否定する人々」サイトの紹介を受け、こたび本格的に読んでみることにした。他にも三鷹板吉氏の「66Q&Aもくじ」がある。 これによりれんだいこの認識する「ホロコースト問題」に如何なる変更を受けるのか否や、分からない。以下、逐次コメント方式で探索してみたい。 2004.7.18日 れんだいこ拝 |
【「山崎氏の罵倒言辞」について】 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
山崎氏の場合、罵倒言辞が目立つ。史実の解明に向かうよりは、基本的にアラ探しを好む傾向が見て取れる。れんだいこは、「典型的な坊主憎けりゃ袈裟まで憎い、これに対する身内の身びいき引き倒し論法」とみなす。氏の実際の用法を以下列挙する。
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【「前書き」】 | |
山崎氏は、前書きで次のように述べている。
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【「背景説明」】 | |
山崎氏は、「背景説明」で概要次のように述べている。
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![]() 山崎氏は、ドイツ、フランス、米国、イギリス等で根強いホロコースト否定論があることを承知で、日本でも否定派が台頭しつつあることを承知で、その否定論を潰すために「参戦」すると云う。れんだいこは、山崎氏のホロコースト論の立脚点に興味を持つ。マルクス主義的反戦平和思想に拠ってか、単に親シオニズム的反戦平和思想に拠っているのか、その見極めが肝心だ。 2005.2.19日 れんだいこ拝 |
【「AML-STOVEでの遣り取り」】 山崎氏は、「ホロコーストを否定する人々」の「AML-STOVEへの私の投稿」で概要次のように述べている。れんだいこが要約解析しつつこれにコメント付ける。 |
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木村氏の「西側にはガス室はなかったというのが事実上の定説」発言に対して次のように反論している。
ホロコースト肯定派が否定派と「なぜ議論をしないのか 」について次のように説明している。
否定派の論客・マーク・ウィーバー氏について次のように評している。
否定派の論法について次のように論難している。
「ブローシャト氏の『声明』」について、次のように述べている。
「木村氏の『アウシュヴィッツの争点』」について、次のように述べている。
「 アウシュヴィッツの最後の収容所長だったリヒャルト・ベーアの不審死」について次のように反論している。
アウシュヴィッツ最後の所長リヒャルト・ベーアの「アウシュヴィッツの第一収容所でガス殺害をみてはいない」発言について次のように反論している。
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「否定派を相手に議論はしないが、否定派については議論すべきだ」について | れんだいこ | 2004/07/20 |
山崎氏曰く、ホロコースト肯定派が否定派と「なぜ議論をしないのか
」について概要次のように述べている。「まともな論争ができる相手ではない。そういう相手の土俵に乗って議論することは、客観的には彼らの意図(=否定論の拡散)に加担してしまいかねないので論争しない。『否定派を相手に議論はしないが、否定派については議論すべきだ』をモットーとする。彼らが依拠している論拠を、その発信元にいたるまで追求し、正体を暴く」。 この論法にそうだそうだと相槌打つ者は左派の人士ではない。むしろオカシイと気づくべきだ。この論法はどちらかといえば治安警察的なそれであり、権力者が常用する論法であり、左派精神からすると邪道だ。 否定派の身元調査したら概ね人種差別主義者、親ナチ、キリスト教原理主義者、反ユダヤ主義者だったという弁で説得を試みているが、反ナチのレズスタンス派でれっきとした左翼の場合もある。現場証人の場合もある。 つまり、身元調査で言辞の質を落としこめるのは作法としていかがわしいことを知るべきだ。あくまで言論の中身の精査に向かうべきで、正しいと信ずる方こそが議論を求め闘わせより説得的であらねばならない。 議論の土俵に乗ることは相手を利することになるから避けるなんて論法がまともである訳が無い。しかし考えてみたら、南京大虐殺事件論争においてもこれと良く似た論法をしていたな。木村氏の小泉訴訟に対しても何や複雑な見方の披瀝があったな。宮顕のリンチ致死事件の解明、戦後の出獄時の変調さの議論の時にも、党中央は「解決済み」なる論法で議論を避けているな。 結論。議論を避けてはいけない。「否定派を相手に議論はしないが、否定派については議論すべきだ」は反動的姑息な見解だ。かく認識すべきことは、議論を志す者にあってはイロハのことである。そのイロハが踏みにじられている。 |
【「山崎氏のホロコースト論」】 後日の証にする為もあり、「山崎氏のAML-STOVEへの私の投稿」を転載しておく。(読みやすくするため、れんだいこが任意に段落替え、行替えする) |
以下にとりあえず、aml_stoveに送った投稿を貼ります。ふたつほどあった誤字を直しておきました。また、ヘッダーのうち必要ないものと、末尾につく署名は削ってあります。 Date: Mon, 15 Feb 1999 13:01:33 +0900 木村愛二さんの大活躍はamlでは終わってしまうようですが、ちょうど彼の『アウシュヴィッツの争点』を(あきれ果てながら)読了したところなので、ほんの少しだけ残念です。 Date: Wed, 17 Feb 1999 14:00:25 +0900 高橋さんがいわれることも判らないわけではありません。しかし、木村さんの発言でもお判りのように、いいかげんな「証拠」と仲間内で流通させている意見しか根拠を持たないでいる人々と、まともな論争ができるとはとうてい考えられません。これは否定派を無視することではなく、彼らの主張に対して黙っていることは論外です。しかし、私たちが彼らの土俵に乗る必要はないのではないでしょうか。 Date: Wed, 17 Feb 1999 15:10:39 +0900 木村さんの主な「論拠」のひとりであるマーク・ウィーバーの「思想的背景」について、若干の追加情報です。 ウィーバーがかかわってきた極右組織であるNational
Allianceは、もともとウィリアム・ピアースという極めつきのネオナチが創立した組織で、Webサイトも持っています。 Date: Thu, 18 Feb 1999 16:07:30 +0900 ホロコースト否定派の代表的な手口のいくつかを、これから書いてみるつもりです。 Date: Fri, 19 Feb 1999 17:10:22 +0900 木村さんが依拠している資料のいかがわしさについてさらに。 Date: Sun, 21 Feb 1999 14:41:08 +0900 これからは別のところで、否定派の嘘を明らかにしていく予定なので、ここではもうこの投稿だけで終わります。木村さんがamlに投稿されていますが[11182]、例のごとく、自分にとって都合の悪いところは口をつぐんだままです。クリストファーゼンがもと親衛隊の将校で、確信犯的ナチス(なにせ自分の結婚式までヒトラーの誕生日にした男です)だったのに、彼を「ヒトラーに忠誠を誓う親衛隊員ではなかった」と、どうして書けるのかを、私は聞きたいのですが。 First Uploaded: 22/02/1999 Revised: 10/01/2001 Back to the Previous Page |
【「たった1枚の写真」】 |
山崎氏は、「たった1枚の写真」で次のように述べている。
少しまえ、イスラエルのホロコースト記念館であるヤド・ヴァシェムから、2カ月ほどかけて、ホロコースト犠牲者のうち判明している300万人の名前のデータベースを作りつつあるという連絡が入った。もしかしたら、コルチャクといっしょにガス室に送られた子供たちについても、なにかが判るかもしれません。そのときには情報を提供します。コルチャクの写真の背後には、写真さえ残っていない200名の子供、それにトレブリンカで虐殺された数十万の人々がいます。私たちの想像力や同情や痛みは、そこに繋がっていくことが可能です。ホロコースト否定派には絶対にない、このような回路があることこそが、低劣な否定派に対して私たちが持っている絶対的な精神の優位なのです。それを見失わないように、作業を進めたいと思っています。 |
![]() これによると、山崎氏は、問わず語り「イスラエルのホロコースト記念館であるヤド・ヴァシェム」との連絡が取れる関係にあることを示唆している。「絶対的な精神の優位を見失わないように作業を進めたいと思う」なる記述をしている。山崎氏は何ゆえにそこまで入れ込むのか。尋常ではなかろう。 それはともかく、「ホロコースト犠牲者のうち判明している300万人の名前のデータベース」についてそれが可能ならなぜ今までに為されていないのだろう。もっと早くに作られるべきだろう。今からでも無いよりはあった方が説得力を増す。 2005.2.19日 れんだいこ拝 |
【「ホロコースト問題でのその他の争点」考】 |
山崎氏は、「『アウシュヴィッツの争点』が振りまく虚偽」と題するサイトで、「ホロコースト問題でのその他の争点」について論考している。以下、これと対話する。概要次のように述べている。 |
【「ユダヤ人の反ナス運動」考】 |
ユダヤ人大量虐殺(ホロコースト)説の複線となっているヒトラー率いるナチスとユダヤ人グループとの対立問題につき、その決定的な契機となった事件に「ユダヤ人のボイコット運動」がある。これに対する木村氏の「ヒトラー政権下直後、ユダヤ人がドイツの商品のボイコットを展開した」との平面記述は正確ではないとして、山崎氏は次のように述べている。該当サイト「ユダヤ人の『ボイコット』」。 「ヒトラーは1933年1月に政権の座につき、3月5日の国会選挙でナチスは圧勝した。勝利に歓喜したナチス党員は、翌日からただちに各地でユダヤ人所有になるの商店・銀行・企業等を襲撃し、ユダヤ人に暴行を加えた。この自発的襲撃のヒトラーは関与していない。この襲撃に怒った特に米国のユダヤ人たちがドイツ商品ボイコットに乗り出した。ヒトラーはこのボイコットへの報復として、4月1日からこんどは彼自身の命令で、ナチス党員によるユダヤ人商店への組織的ボイコットや、ユダヤ人への攻撃を行なわせた」。 「これが真相である。歴史記述の際には、因果関係を正確にしるさねばならない」と述べている。 |
![]() これはその通り。 2005.2.19日 れんだいこ拝 |
【「ヴァンゼー会議及びハイドリヒ・メモ」考】 | ||||||||||||
「ユダヤ人大量虐殺(ホロコースト)問題」を論ずる際に、それを指示したとされる「ヴァンゼー会議及びハイドリヒ・メモ問題」がある。これを吟味する。 「ヴァンゼー会議」とは、1942.1.20日、ナチス親衛隊高官で保安警察長官(親衛隊保安本部長)であったラインハルト・ハイドリヒ(彼は同年5月にプラハで暗殺される)が、ベルリンの南西部にあるヴァンゼー街のある屋敷にナチスの高官たちを集合させ、ユダヤ人の組織的虐殺を謀議した会議のことを云う。この会議が実在したのかデッチアゲかを廻って論議を起こしている。 その時の「ハイドリヒ・メモ」が残されており、それによると、ユダヤ人問題の「最終的解決」の権限を親衛隊が全面掌握することを決定したことを記している。これにより後のユダヤ人虐殺が指針されたとする重要文書である。その意味で「ハイドリヒ・メモ」の持つ意味は深い。 なお、「ハイドリヒ・メモ」は、「最終的解決」の対象となるヨーロッパ・ユダヤ人の数を1100万人と見積もっており、この数字の根拠、適切さを廻って議論を招いている。 |
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山崎氏は、「ヴァンゼー会議のメモ」、「ヴァンゼー会議の数字」、「ヴァンゼー会議の重要性」、「1100万人のユダヤ人」で、「ヴァンゼー会議におけるハイドリヒ・メモ問題」を考察している。 木村氏の見解は次のように展開されている。
山崎氏は、@・Aはその通りとするが、BのAの人口問題につき、当時そのように言説されていた資料が確認できるとして、@・ハイドリヒが別の場所で1100万人という数を挙げていること(シュテークリヒ「アウシュヴィッツ神話」(Wilhelm Staeglich, Der Auschwitz Mythos)(オンライン版で確認できる)。A・ゲッベルスの1942.3.7日の日記の当該部分「ユダヤ人問題はいまや、全ヨーロッパ規模で解決されなければならない。ヨーロッパにはいまだに、1100万人以上ものユダヤ人がいるのだ(Es gibt in Europa noch ueber 11 Millionen Juden)」、を例証として、1100万人説が存在していたことを指摘し、1100万人の中には、ナチス・ドイツが支配していない地域(イギリス、スペイン、スイス、スウェーデン等)のユダヤ人が含まれており、決してデッチアゲ数字ではないと反論している。 BのBの「「ハイドリヒ・メモは偽造捏造文書である」説につき、「ヴァンゼー会議のメモのような重要な文書について、それを虚偽だとしている情報を自分でふりまくためには、当該の文書にあたってみるのが当然だ」と述べ、ヴァンゼー会議の議事についてのメモのドイツ語でオンライン化されたもの、その写真版を紹介している。 Cのヴァンゼー会議の存在否定説につき、木村氏の見解は、ドイツの現代史研究家・イェケルの「ヒトラーの支配」の記述「この国家では、重要な決定が『官僚たちの』会合で下されたことなどなかった。最高の次元において、ヒトラーが単独で決定し、それを言い渡したのである」(Eberhard Jaeckel, Hitlers Herrschaft, Deutsche Verlags-Anstalt, 1986, p.105.)に基づいていると思われる。 「ホロコーストに関する論争では、イェケルはひとつの立場を取っています。彼はヒトラーの決定権を最大限にみつもる立場におり、そこからヴァンゼー会議の重要性を相対的に低く見ているだけです。イェケルと異なる立場のホロコースト史家たちも多くおり、彼らはヴァンゼーを重んじています。アリーはそのひとりです。こうしたことを無視して、すべてのホロコースト史家たちが『認めなくなっている』かのような発言をするのは、ためにする議論でしかありません」と反論している。 |
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![]() これもその通り。これによれば、「重要な文書について、それを虚偽だとしている情報を自分でふりまくためには、当該の文書にあたってみるのが当然だ」という同じ論理で、「シオンの議定書」にも「当該の文書にあたってみるべし」であろう。なぜ向わないのだろう。その上で、偽書かどうか精査されねばならないであろう。ところで、「シオンの議定書」偽書派は、如何なる論法でこれを偽書としているのだろう。ここでは立場が代わっているのでその論法に興味が持たれる。 2005.2.19日 れんだいこ拝 |
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![]() 木村氏が「すべてのホロコースト史家たちが『認めなくなっている』かのような発言」をしているのかどうか分からないが、ヴァンゼー会議の存在否定説を覆すのにそれを弱弱しく主張しているイェケルを批判しただけでは何も解決しない。 2005.2.19日 れんだいこ拝 |
【「ユダヤ人否定派ディヴィッド・コール」考】 |
山崎氏は、「ユダヤ人否定派ディヴィッド・コール」氏につき、「否定派のユダヤ人」、「否定派のユダヤ人(つづき)」、「否定派のユダヤ人(つづきのつづき)」で次のように述べている。 ディヴィッド・コールとは、ユダヤ人にあってホロコーストの悲劇を否定する青年で、ユダヤ人のマスメディア支配に叛旗を掲げ「ホロコーストはなかった」とするヴィデオを製作する等「ユダヤ人の中の反ユダヤ主義者」であった。1995年のマルコポーロ廃刊事件のとき来日し、記者会見の場で反シオニズム的立場で宣伝している。木村氏は、「争点」にこのコール青年をしばしば登場させている。 山崎氏は、その後のコールを追跡し次のように述べている。概要「彼は、否定派の重鎮・フランスのロベール・フォリソンと大喧嘩し、その喧嘩のなかで、『かって自分が作ったヴィデオではガス室の存在を疑っていたが、それがなかったと証明するのは困難』だと見解修正している。1993年にすでに、ガス室はなかったとはいえないと、立場を変えている」。 以上を踏まえて、山崎氏は、1995年のマルコポーロ廃刊事件の時、「この手の人々の記者会見を大手新聞が伝えなかったのは賢明でした」と皮肉っている。 「コールは、1998.1.8日、米国のユダヤ人防衛同盟(JDL)あてに手紙を送り、自分が間違っていたことを認め、ホロコーストが存在したこと、自分が否定派として活動したのは同胞への罪だったことを語り、謝罪している」ことを指摘し、木村氏のコール贔屓を揶揄している。ちなみに、「JDLはかなり戦闘的なユダヤ人組織で、コールに対しては、Web上でその顔写真を公開し、彼の住所情報に報奨金を出すといったことをやってきました」。 コールの変節につき、木村氏は次のように確認している。「私が、『マルコポーロ』廃刊事件の際に受け入れて記者会見に出てもらったユダヤ人、デヴィッド・コールは、当時25歳の若者で、アウシュヴィッツなどのヴィデオを作ったいたが、『日本にきて良かったのは殴られないことだ』と何度も言っていた。アメリカに帰ってから、上記ヴィデオの共同制作者、スミス教授(わがHPにリンクあり)から『コールが裏切った』と言う趣旨のファックスがきた。私は、コールの気質的に不安定な様子を見ていたので、『残念だが彼には背骨がないと思った』という趣旨の慰めのファックスを送り返した」。 山崎氏は、コールの変節の関連して、興味深い次の一説を挿入している。概要「歴史家・ギルマン(Sander L. Gilman)は、1986年、『 Jewish Self-Hatred: Anti-Semitism and the Hidden Language of the Jews, Johns Hopkins Univ. Press』の中で、一部のユダヤ人に見られる強い自己嫌悪や自己否定(それは時にはユダヤ人攻撃にさえいたることがある)の背景にある二重拘束(ダブルバインド)の状態や深い不安を、マルクス、ハイネ、さらにはウッディ・アレンまでも対象にして論じている」。 |
![]() 「ディヴィッド・コールの変節」に付き、山崎氏は、木村氏がその変節をも知らずに、マルコポーロ廃刊事件の時に利用した愚を皮肉っている。木村氏は、「ディヴィッド・コールの変節」には、戦闘的なユダヤ人組織JDLの脅しに屈した事情を解析している。これらは、事実確認の問題であり、山崎氏のおちょくりも控えめにするのが良かろう。事実、「ディヴィッド・コールの変節」の裏事情までは分からないのだから。 2005.2.19日 れんだいこ拝 |
【「ホロコースト犠牲者600万人説」考】 |
山崎氏は、「ホロコースト犠牲者600万人説」について、「数字の嘘(1)、「数字の嘘(2)」、「数字の嘘(3)」、「1100万人のユダヤ人」で次のように是認している。 「約1000万人のヨーロッパ・ユダヤ人のうちには、私の感じでは、少なくとも2、300万のきわめて良好な労働可能な男女が含まれています」(Bei ca. 10 Millionen europaeischer Juden sind nach meinem Gefuehl mindestens 2-3 Millionen sehr gut arbeitsfaehiger Maenner und Frauen enthalten.) 「つまり、ヨーロッパのユダヤ人の数は、ナチス高官のあいだでは1000万から1100万と見積もられていたのです。650万から引き算をはじめることは、もう絶対にできません。ついでながら、ブラックは労働に従事させるために生かしておくユダヤ人も、レントゲン照射によって不妊にしておくという、おぞましい提案もしています」とコメントしている。 |
![]() 山崎氏はここで、「ホロコースト犠牲者600万人説」について、当時西欧各地にはユダヤ人が約1000万人存在し、そのうち600万人がナチスにより虐殺された、と主張している。これが山崎見解であることを確認しておくことにする。 2004.7.18日 れんだいこ拝 |
【「ユダヤ人シオニスト過激派によるテロ」考】 |
山崎氏は、「ユダヤ人シオニスト過激派によるテロ」につき、「ユダヤ人過激派」の活動?」で次のように述べている。 否定派は、1984年、IHRの事務所に爆弾をなげこまれ焼き打ちされた例や白昼テロ行為の頻発、いやがらせの街頭デモを挙げ、「シオニスト過激派がホロコースト否定派を襲撃しているとして「否定派の受難史」を語っている。次のような一文もある。 「1978年には、ホロコースト見直し論者で『600万人は本当に死んだか』を普及していたフランス人の歴史学者、フランソワ・デュプラが暗殺された。フランスの代表的な保守系新聞ル・モンドなどでも何度か報道された事件である。デュプラが運転していた車が爆弾でふっとび、本人は死に、同乗していた彼の妻も両足をうしなった。『シオニスト・テロ・ネットワーク』によると、直後に、ユダヤ人のアウシュヴィッツ関係組織、『記念コマンド』と『ユダヤ人革命グループ』が、みずからの犯行だと名のりをあげた」(p.292.)。 |
![]() ここで山崎氏は致命的な氏の観点を披瀝している。何と、フランス人の歴史学者、フランソワ・デュプラの暗殺について、安易に「ユダヤ人シオニスト過激派によるテロ」とみなしてはいけない。内ゲバの可能性もある。犯行声明が出された場合でも直ちに断定をしてはいけない、などと述べている。結構結構、正論である。問題は、逆のケースの場合でも同じような慎重さと慈愛で見て欲しい、というぐらいのことは云わせてもらってもよさそうだ。 しかし、彼のこの論法に拠れば、「否定派の受難史の真相は全て藪の中」になりそうだ。山崎氏はシオニスト側には何でこ大甘になるのだろう。ホロコースト否定派、ナチ、反ユダヤグループの身元調査に熱心な分析している御仁の見解としては全く不似合いだ、というぐらいのことは云わせてもらってもよさそうだ。 2004.7.18日 れんだいこ拝 |
【「山崎氏のジャーナリズム論」考】 |
山崎氏は、ジャーナリズム論を開陳し、「嘘とその弁明」の「「裏を取らない」ジャーナリズムーーデュプラの死について」で次のように述べている。 デュプラを「いわゆるまじめな学究とはほど遠い、極右政治家だった」と云い、その死について、畑山敏夫説を紹介しつつ概要次のように推測している。 1968.5月、極左運動の高揚に対抗して、『青年革命』、『国家人民党』などの極右団体が街頭で実力闘争を展開する。そのような極右のなかから、69年秋にF・デュプラらを指導者とする『新秩序』が誕生した。1969年のフランスは、いわゆる5月革命が敗北し、ドゴールが退陣したあと、政局は混迷のさだかにあった。いまだに左翼、とりわけ極左派の力も強く、暴力革命の夢は、フランスだけでなく、米国、西ドイツ、イタリア、日本でもおよそ死に絶えていなかった時代であった。彼らと対抗するため、極右運動も活発で野合的な再編成の過程にあった。 このデュプラたちを中心に1972年に「国民戦線」が結成される。しかし、既存の政治体制のもとで、選挙闘争によって党勢の拡張をはかろうとする党首のルペンと、反議会主義を強調するデュプラたち「新秩序」グループとの確執があり、その対立は強まる。デュプラやルノーが主導権を握っていた「新秩序」は、1973年に解散を命じられる。このため、彼らにとっては「国民戦線」内部での主導権争いが、政治勢力としての死活の重要性を持つようになる。 当時、国民戦線の方針はルペンの名において決定されてはいたが、実際は、彼の役割は決して大きくはなかった。デュプラは政治局のメンバーとして、ルノーは書記長として党を実質的にコントロールしていたし、革命的ナショナリスト・グループは党の機関紙『ル・ナショナル』も掌握していた。文筆家でありジャーナリストであるデュプラは、ネオ・ファシズムの代表的論客として大きな影響力をもち、国民戦線の結成から七八年の突然の彼の死まで、ルペンよりも彼の方が国民戦線の真のイデオローグであった。 1978.3.18日、彼らの支柱であるデュプラが、自動車の爆破で死亡するという事件が起きる。事件の真相は不明であるが、彼の死は党内での革命的ナショナリスト・グループの影響力低下につながった。1981ー82年には、ルノーら革命的ナショナリスト・グループが国民戦線を去り、党内から急進的潮流が排除されていった。 以上を踏まえて次のように云う。「お判りでしょうか。極右組織が内部対立からおよそ自由ではなく、その権力争いは時には流血をもって処理されることは、ナチスにおけるレームたち突撃隊指導部の抹殺や、米国ナチ党での党首暗殺を見ても明らかです。デュプラの死は、国民戦線という極右政党に関しては、彼と敵対するルペンの主導権掌握に直接につながっていたわけで、そこから私たちは暗い推測をすることが可能です。 |
![]() 山崎氏は、ある判断を為すにおいて「裏を取る」ことの重要性を手厳しく指摘している。結構結構、万事にこうあって欲しいものだ。「ヴァンゼー会議」、「ハイドリヒ・メモ問題」、「ユダヤ人600万人虐殺説」等に対してもこうした厳格な審理を経ての結論にして欲しいものだ。 2004.7.18日 れんだいこ拝 |
(コメントはここまで)
【「アインザッツグルッペン」考】 |
山崎氏は、アインザッツグルッペン(Einsatzgruppen)について「「アインザッツグルッペン」の説明」で概要次のように述べている。「アインザッツグルッペン」は、『争点』で書かれているような「親衛隊員で編制された東部戦線の遊撃分隊」(p.69.)というようなやわいタマではない。独ソ戦の開始にさいして、ヒトラーたちは単にソ連正規軍だけを殲滅しようとしたのではなく、もうひとつの「戦線」をも同時に開いている。つまり、ドイツ軍の占領地域にいる共産党員、パルチザン、捕虜のユダヤ人、さらには精神「障害」者までを含む人々の抹殺という戦いです。やがて、ユダヤ人全員が対象になります。そのために作られたのが「インザッツグルッペン」であった。この殺戮部隊は親衛隊員によって構成され、100万を越える数の人々が容赦なく射殺されたと云われている。まさにヒルバーグ本の「移動殺戮部隊」、南本の「特務部隊」が適訳である。 木村氏のさんは「アインザッツグルッペン」の説明は軽すぎる。 |
【「シュムエル・クラコフスキの証言」考】 |
木村氏は、『争点』で、「イスラエルの公式機関でさえ『信用できない』証言が半分以上」という中見出しをつけて、イスラエルのホロコースト記念館である「ヤド・ヴァシェム」の文書館長シュムエル・クラコフスキが、ユダヤ人生存者の証言二万件のうち、一万件以上が「信用できない」と述べたことを紹介している。つまり、ガス室の存在についての生存者の証言は眉唾ものだ、といいたい。 木村氏は、マーク・ウィーバー論文の「クラコフスキの発言」に依拠している。しかし、クラコフスキ自身は、『エルサレム・ポスト』に投稿(「彼の投稿の全文」)をして、自分はそんなことを語っていないと断言している。「私が述べたのは、不正確だと証明された証言が多少あるーー幸いにして、ほんの少しだということでした。アモウヤル(記事を書いた女性)はなぜ、それを大きな数であるかのようにいうのでしょうか?」(I said there are some - fortunately very few - testimonies, which proved to be inaccurate. Why did Amouyal make them out to be a large number?)。 |
【「ポール・ラッシニエの証言」考】 |
『ホロコースト』見直し論の父といわれるフランス人のポール・ラッシニエは、ナチス・ドイツ収容所の『生き残り』として、
「ガス室の存在を否定する発言をした『生き証人』」の一人である。 |
【「ガス室にかんする六回の法医学調査」考】 | |||||
「ガス室にかんする六回の法医学調査」が為されており、木村氏は次のように解析している。
これにつき、山崎氏は「途方もない事実の歪曲」で次のように述べている。クラクフの法医学研究所のスタッフであるマルキエヴィチたちの報告は、ホロコースト否定派への組織的な批判のために作られており、「この報告はアウシュヴィッツにガス室はなかったとする否定派をはっきりと意識して、それに対する批判として書かれたものです」。関連するところを紹介すると次のように書かれている。
それに対して、木村氏はこう答えている。 「……高橋さんの「解釈」は不正確です。「ほぼ決定的に」という字句は、私自身の
文章の一部ですが、私は、「以上のような法医学的研究によって、ほぼ決定的に と記しています。
「以上」とは何かといえば、その前には「すでに八つの報告がある」と記しており 、「クラクフ」の報告はその最後の一部にしかすぎず、この報告の内容と結論の付
け方には疑義があるので、その点を「ほぼ」という字句に含ませたのです。詳しく は訴状と同時に拙著『アウシュヴィッツの争点』を提出していますので、そこへ譲
っているのです。この「ほぼ」に関しては、後日、いささか長い地の文章をmailで送ります 」。
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【「ティース・クリストファーゼン」考】 |
木村氏は、『アウシュヴィッツの嘘』の中で、ティース・クリストファーゼンを元ドイツ軍の中尉であり非ナチスとして登場させているが、彼はれっきとしたナチス党員であり決して中立的な人物ではない。連中はこういう嘘を平気でつく。木村氏がシュテークリヒの言葉『一度嘘をついたものは、二度と信用してはならない』を引用するのはおこがましい。まず自分自身を省みよ。こういう都合の悪い指摘がなされると、連中は決まって沈黙し続ける」。 「嘘とその弁明」で次のように補足している。スキャンダラスな行動で知られていたドイツのネオナチであるティース・クリストファーゼンについて、木村さんがはっきりと「ヒトラーに忠誠を誓う親衛隊員などではなかった」と嘘を書いていることは、別の箇所で指摘しておきました。ところが、本多勝一さんたちとの裁判でこの点を追求されたため、木村さんが提出した「最終準備書面」では、つぎのように非常に苦しい弁明をしなければならなくなっています。 「原告の文章の重点は、いわゆる「親衛隊」のバリバリではなくて、「農場の研究者」という立場だったことの強調にある」。 嘘がばれて追い詰められると、こういう逃げにしか頼れなくなります。 バリバリであろうとなかろうと、「ヒトラーに忠誠を誓う親衛隊員」に変わりはありません。 |
【「アウシュヴィッツ第一収容所跡クレマ1の捏造展示」考】 |
フランスの週刊誌『レクスプレス』(L'Express)が、1995年1月26日に、エリク・コナンの論説を掲載して、現在アウシュヴィッツ第一収容所跡にあるクレマトリウム(クレマ1)が、再現と称して実はまったく捏造されたものを展示していることを伝えた。これは否定派にとっては鬼の首でも取ったようなことで、ただちに彼らの文章で利用されています。木村愛二さんも『争点』で「『復元』『改造』『偽造』『捏造』、戦後50年の記念の軌跡」という小見出しで、このことを取り上げています(pp.131-132.)。 山崎氏は、「『レクスプレス』の報道」で次のように述べている。「このコナンの文章は否定派を利するものであるより、事実に誠実に対応しようとするコナンの姿勢を明らかにしているものです」として、関連箇所の正確な翻訳文を紹介している。 「別のデリケートな問題がある。共産主義統治によって残された偽造を、どうするかという問題である。1950年代から60年代にかけて、消滅したり外見が変わっていたいくつもの建物が、ひどい間違いを伴って再建され、本物だとして展示された。うちいくつか、あまりに『新しい』ものは、公開されなかった。時に殺人ガス室として展示された燻蒸ガス室はいうにおよばず。こうした非常識な行為は、ホロコースト否定派に大いに役立っている。彼らは自分たちのでっちあげの骨格を、そこから引き出しているのである。クレマトリウム1は、アウシュヴィッツ第一収容所にあった唯一のものだが、この例は意味深いものである。その死体置き場に、最初のガス室が設置された。ガス室は1942年はじめに短期間使われた。ガス設備を含んだ地域の隔離は、収容所の活動を妨げた。かくて、1942年4月末に、この致死的なガス設備をビルケナウに移転することが決定され、ビルケナウでは、基本的にはユダヤ人からなる犠牲者たちに対して、工業規模で運用された。ついで、クレマ1は、手術室を持った防空壕に転換された。1948年、[アウシュヴィッツ]博物館の設立のさいに、クレマ1は怪しげな資料をもとに再建された。ガス室の大きさ、ドアの跡、ツィクロンBの投入口(なんにんかの生存者の記憶にもとづいて再現されたもの)、煙突の高さといった、そこにあるすべてが偽物である。70年代の終わりに、ロベール・フォリソンがこの偽造をはっきりさせたが、博物館の責任者たちは、それを認めるのをいやがっている。云々」。 山崎氏は次のようにコメントしている。「ホロコーストについては、それがあまりに近い時代の事件であり、しかも、それをめぐって多様な政治力学が発揮されてきたため、歪められたり捏造された「事実」がいくつもあったことは確かです。それを正そうとして、多くの人々がいまも地道に努力しています。その上澄みだけをかきまわす否定派より、彼らのほうがはるかに誠実です」。 |
![]() 「アウシュヴィッツ第一収容所跡クレマ1の捏造展示」は、あってはならないことである。それを指摘しているコナン氏の文章を否定派が利用するのは当然である。 2004.7.18日 れんだいこ拝 |
【「リヒャルト・ベーアの証言と死」考】 |
「リヒャルト・ベーアの証言と死」、「ベーアとガス室」 村さんによればシュテークリヒは彼を「アウシュヴィッツについてのもっとも重要な目撃証人」と呼んだそうですし、木村さんも「アウシュヴィッツ収容所についての第一級の目撃証人」といいます(『争点』p.94, 96.)。 アウシュヴィッツ最後の収容所長だったリヒャルト・ベーアについて。ベーアは1960年に逮捕され、1963年に裁判直前に死去している。「不審な死」。否定派は、(1) ベーアは収容所にはガス室がなかったと述べている。『ガス室を見たことはないし、そんなものが一つでも存在するなどということも知らなかった』というベイアーの証言。 (2) このことを裁判で証言されると困る人々が、彼を毒殺したのだ。木村氏は、「リヒャルト・ベイアーはもとも、議論の余地なしに、アウシュヴィッツ収容所についての第一級の目撃証人である。」(p.96.) 。 元親衛隊員のクリストファーゼンの本。話のもとが「パリで発行されている週刊『リヴァロール』」。シュテークリヒはいいます。 「フランスの報道にもとづいたいくつかの資料によれば、ベーアは未決勾留中に、彼のかつての指揮範囲においてガス室の存在を認めることを、頑強に拒んでいた。」(Nach mehreren Quellen, die ihrerseits auf franzoesische Presseberichte zurueckgehen, hatte Baer sich in der Untersuchungshaft beharrlich geweigert, die Existenz von Gaskammern in seinem einstigen Kommandobereich zu bestaetigen. ) 「パリの新聞『リヴァロール』の報道では、彼[ベーア]は『自分が統括していた全期間を通じて、私はひとつもガス室を見たことがないし、そんなものが存在したなどとは信じない』と主張し、この証言を翻すことがなかった。」( the Paris newspaper Rivarol recorded his insistence that "during the whole time in which he governed Auschwitz, he never saw any gas chambers nor believed that such things existed," and from this statement nothing would dissuade him. ) とあります。ベーアはガス室の存在を否定したため、裁判直前に殺されたと騒ぎ立てている。 ベーアの供述はフランクフルトで公開されています。当該箇所を引用します。これは幸い、栗原優さんの『ナチズムとユダヤ人絶滅政策』(ミネルヴァ書房、1997年、p.250.)に翻訳されているので、そこから取らせていただきます。この本は各所でシュテークリヒやロイヒターの嘘を指摘しています。 「私はアウシュヴィッツ第一収容所の所長だっただけである。ガス殺が行なわれた収容所とは関係がない。私はガス殺そのものにも影響力をもっていなかった。ガス殺はビルケナウ第二収容所でおこなわれたのであり、この収容所は私の管轄下にはなかった。」 栗原さんは 「彼がアウシュヴィッツ第一収容所長になったのは第一クレマが使用されなくなったのちのことであり、アウシュヴィッツ収容所長になったのは、ユダヤ人殺害中止命令が出たのちのことである。彼の主張は、その限りでは、嘘ではなかったのである。」 とコメントされています(ただ残念ながら、栗原さんはシュテークリヒにひっかけられて、ベーアが「謎の死を遂げた」とも書いています)。 Ich bin nur Lagerkommandant von Auschwitz I gewesen. Mit den
Teillagen, in denen Vergasungen stattfanden, hatte ich nichts zu tun. Ich habe
auch keinen Einfluss auf die Vergasungen selbst gehabt. Die Vergasungen fanden
im Lager II-Birkenau statt. Dieses Lager unterstand nicht mir. (Eugen Kogon, et
al. (hrsg.), Nationalsozialistische Massentoetung durch Giftgas. Eine
Dokumentation, S. Fischer Verlag, Frankfurt am Main, 1983, p.199.) |
【ルードルフ・ヘスへの「誹謗」】 |
「第一級の目撃証人」は依然として、否定派にとっては非常に都合の悪い証言を残しているルドルフ・ヘスです。ルードルフ・ヘスの告白(『アウシュヴィッツ収容所 所長ルドルフ・ヘスの告白遺録』サイマル出版会)は、彼がアウシュヴィッツでの虐殺がもっとも活発だった時期の所長であったことから、決定的な重要性を持っています。 そこには生々しい殺戮の描写があり、そこにまでいたる時間的経過や状況についての詳細な記述があります。アウシュヴィッツについての加害者の側からのもっとも決定的な証言といってよいと思います。 ヘスの告白が連合軍による拷問の産物であり、したがって信頼できないと述べてきました。ヘスの告白が裁判のあと、死刑が確定し、したがって嘘をつく必要がなくなってからの証言だ、と反論されると、シュテークリヒのような否定派は、今度はヘスが収監されていたポーランドで、共産主義の「洗脳」にあったのだといいだします。 ヘスがそのような眼にあったかどうかは、もちろん、なんの証拠も挙げずに断定されているだけです。シュテークリヒは元判事ですが、なんらの証拠の裏づけもなしにこう述べるのですから、この人の手で裁かれたくはないものです。 木村さんは、もっとすさまじい手口を使います。 ヘスは小物で、本当の「第一級の目撃証人」は別にいる、という手口です。その目撃証人にさせられたベーアについての顛末は、すでに別のファイルで書いていきました。 「ホェスがアウシュヴィッツの司令官だったのは、アウシュヴィッツ収容所が創設された一九四○年から四三年までなのである。その後は、首都のベルリンで親衛隊の経済行政本部に配属され、政治部を担当している。収容所の直接の担当ではないのだ。 これだけを読んでみると、アウシュヴィッツにおいてユダヤ人がもっとも多く殺害されたとされるのは、ヘス(木村さんのいうホェス)のあとの収容所長の時期のことになります。それ以外の解釈は、この文章からはできません。 |
木村さんは『争点』で、ドイツのマルティン・ブローシャトの発言を引いて
「すでに一九六○年までには、西側占領地域にあった収容所には『ガス室はなかった』というのが、『事実上の定説』になってしまった。」(p.228.) と述べています。ここでいわれている「西側占領地域」はなんのことか判りませんが、ブローシャトにしたがって、ドイツ国内のことだと解釈しておきます。実は木村さんはブローシャトの投稿そのものをまったく読まないで、欧米の否定派の意見にただただしたがって書いているにすぎないのですが、それについては別の箇所で触れます。 Harry W. Mazal, The Dachau Gas Chambers だとしたら、少なくとも稼働したガス室が、ダッハウ収容所にはあったことになります。ただ、一時的に運用されただけにしても、ドイツ・ライヒの土地のうえで、ユダヤ人のガス殺があったわけです。コゴンたちの本でも、いまにいたるまで最終的な証明がないと述べられています(Eugen
Kogon et al. (hrsg.), Nationalsozialistische Massentoetung durch Giftgas,
p.277.)。
このあたりは調査中です。 |
木村さんがどれほど無批判にネオナチの主張に寄り掛かっているかの、ちょっとした資料です。 すでに木村さんがティース・クリストファーゼンという元親衛隊員で有名なネオナチの『アウシュヴィッツの嘘』という嘘だらけの本を、自分の重要な典拠にしていることを指摘しておきました。そのさい、クリストファーゼンが「親衛隊員などではなかった」という、さらなる嘘を彼はついています。 この本には、レーダーという弁護士が書いた序文がついていて、彼の発言を木村さんは肯定的に引用しています。 「『アウシュヴィッツの嘘』の序文を書いた弁護士、レーダーは・・・つぎのように指摘していた。云々」(『争点』p.122.) レーダーがやったのは、虐殺された人々を焼くのに必要な燃料が、当時のドイツにはなかったという指摘です。これが問題にならないつまらないいいがかりであることは、あとで別に論じます。 「弁護士のレーダーは序文のなかで、クリストファーセンのこの立場を『中立』と表現している。」(同、p.157.) このレーダーは単なる「弁護士」ではありません。 「このレーダーとクリストハーゼンこそ、さきに述べた『ナチスAO』のロウクに、ハンブルク集会での演説の機会を提供した人物である。 『アウシュヴィッツの嘘』は先に述べたように、元ナチ=親衛隊員で、戦後ネオナチとして活躍したクリストファーゼンが執筆し、その序文を「ナチズムを奉じる」と公言するお仲間のレーダーが書いたのです。 |
木村さんは実に下手に事実を歪曲します。 ジーモン・ヴィーゼンタールについての、つぎのような発言がそのひとつです。 「サイモン・ウィゼンタールでさえも、テオドル・オキーフが執筆したリーフレット『収容所の解放/事実と嘘』によれば、一九七五年には『本と出版者』(75・4)のなかで『ドイツの土地のうえには絶滅収容所はなかった』としるしている。」(『争点』、p.229.) これだけでは一見すると、木村さんがよくやるただの孫引きの一例にすぎないと思われるかもしれません。 「こうした行為[ユダヤ人絶滅]にかかわったとして法廷で告発された親衛隊員のだれひとり、ガス室の存在や使用を否定してこなかった。彼らの通常の弁明は、命令にはしたがわねばならなかったというものだった。」 と指摘したのち 「ドイツ国内には絶滅収容所がなかったため、ネオナチたちはこのことを、そのような犯罪[ホロコースト]がなかったことの証明に使っており、さらに、大量絶滅を決して見たことがなかった、ドイツの労働収容所からの証人を持ち出している。」 といっています。彼はドイツ国内にガス室がなかったなどとは、ここではひとことも述べていません。ガス室があれば絶滅収容所だ、逆に前者がなければ後者ではない、という単純な発想に立つなら別でしょうが、ヴィーゼンタールの議論はガス室とはなんの関係もなく、ユダヤ人の組織的虐殺を目的とした収容所はドイツ国外にあったといっているにすぎません。 First Uploaded: 22/05/1999 |
これは木村さんが、ニュルンベルク裁判そのものをまるで理解できていないという話です。 まず、ダッハウ収容所に関する裁判で米軍側が拷問で証言をえていたことに触れたあと、映画にもなった有名なニュルンベルク裁判(国際軍事法廷)について、木村さんはこう述べています。 「いちばんの中心になったニュルンベルグ裁判(国際軍事法廷)・・・つねに裁判進行の中心にすわっていたのは、アメリカ軍の戦争犯罪局であり、スタッフは[ダッハウ裁判と]共通している。」(『争点』、p.80.) そして、ニュルンベルク裁判の手続きを批判して辞任したウェナストラム判事のこと、主席検事のジャクスンは飾りもので、実権は国際検事局のボスであった、もとドイツ国籍のユダヤ人ケンプナーであったこと、ケンプナーたちの採用を決めたのは、「狂信的シオニスト」だった米軍のディヴィッド・マーカス大佐だったこと、つまり、ニュルンベルク裁判ではシオニストたちが勝手な自白を引き出して、ホロコーストの嘘を作り上げたことが語られています。 |
自分の議論に都合のよい部分だけを切り出して、都合の悪い箇所をカットしてしまえば、どんな「論証」でも可能になります。もっとも、それが暴かれると恥ずかしい思いをするのですが。 木村さんがどのようにすさまじい引用をやるかを、ひとつの例で見てみます。ガス室の換気が充分でないときに、死体搬出作業をやるのは危険だという主張にかかわるものです。 「絶滅説に立つ新鋭著作『アウシュヴィッツの医師たち』では、『犠牲者の死が親衛隊の医師によって確認されてから、死体の焼却が認められた』としているのである。『親衛隊の医師』にも危険があるではないか。」(p.216.) ここで引用されているのは、主にアウシュヴィッツ関係の裁判記録に依拠しながら、親衛隊員だった医師たちが、どうユダヤ人絶滅に関与したかを論じた 「全員が死んだと判断してから、医師が親衛隊消毒隊指導者に対してガス室を開けるように命じた。有毒ガスは排気施設を使って吸い出された。犠牲者の死が親衛隊の医師によって確認されてから、死体の焼却が認められた。」(p.71.) つまり、ガスがすでに排気されたあとに、死の確認がなされたわけです。木村さんは「有毒ガスは排気施設を使って吸い出された」という文章を故意に引用から抹殺することで、「『親衛隊の医師』にも危険があるではないか」と、文句をつけているのです。 |
木村さんによって「親衛隊員などではなかった」と間違った経歴を書かれた、ティース・クリストファーゼンについて、つぎのような記述に出会いました。 1943年6月12日の話です。 「ライスコで植物栽培実験施設の近くに、女性被収容者用の補助収容所が設立された。そこに駐留したのは、毎日ビルケナウの女性収容所からやってくる園芸栽培班と、コク・サガス(一種のたんぽぽ)からゴム(india rubber)を抽出するための研究開発にたずさわる植物栽培班だった。・・・温室の監督にたずさわったのは、親衛隊特別将校のクリストファーゼンで、彼は女性被収容者たちから殴り屋(Locher)と呼ばれていた。」[1] 木村さんは彼について 「中尉の位はあるが、前線で負傷して慢性瘻管という症状になり、軍務に耐えられなくなったため、アウシュヴィッツでは収容所の管理には責任のない農場の研究者として、天然のインドゴムの成分をつくるコック・サギスという草の栽培に当たっていたのである。」(『争点』、p.157.) と書いています。軍務には「耐えられなくなった」けれど、女性を殴りつけるだけの体力はあったようです。 [1] Danuta Czech, Auschwitz Chronicle 1939-1945, Henry Holt and Co., New York, 1990, p.418. 追記(1999年8月20日) 「アウシュヴィッツ収容所付属のゴム成分を作る草の試験栽培農場に勤務していた傷痍軍人です。」[1] と書いています。 |
ツィクロンBは青酸ガスを吸着させたペレットで、アウシュヴィッツでガス殺に使われたことは、よく知られています。 青酸ガスは人間に適用された場合、その致死量は体重1キログラムあたり1ミリグラムです。つまり、体重60キロの人間を殺すのに、0・06グラムしか必要としません。このことは木村さんも認めています(『争点』、p.204.)。 そのうえで木村さんは、ルードルフ・ヘスの告白から、250人を殺すのに「一、二罐」のツィクロンBで充分だったという箇所を引用し、こう述べています。 「だがこれで、『致死量をこえる殺人用の毒ガス』という条件がみたされているのだろうか。すくなくとも、そういう厳密な研究の成果をつたえる文章にお目にかかったことはない。」(同、p.205.) 要するに、「一、二罐」では不充分だったといいたいのでしょう。だから、ガス殺の事実も疑わしい、とも。
[1] Eugen Kogon, et al. (hrsg.), Nationalsozialistische
Massentoetung durch Giftgas, S. Fischer, Frankfurt, 1983, p.283.
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否定派はどこでもよく似た議論を使います。しかし、時には彼らのあいだで、収拾がつかないほどの意見の対立が生まれています。 この対立が面白いのは、特に日本の否定派に関して、です。というのは、彼らは能力的に自前の調査や発掘ができないので、欧米の同僚たちの見解をつぎはぎして繰り返すしかないのですが、その本家本元が一本にまとまっていないと、どうしたらよいのか判らなくなって、おそろしく混乱するからです。 Vergasungskellerということばをめぐって、この喜劇がどのように展開されたかを見てみます。 最初に提出されるのは、1通の手紙です。 1943年1月29日にアウシュヴィッツ収容所中央建設本部長のカール・ビショフから、親衛隊経済・管理本部の上司ハンス・カムラーにあてて出された手紙です。 以下にその本文を訳しておきます[1]。 「クレマトリウム2は、非常な困難と寒気にもかかわらず、手持ちのすべての力を投入した昼夜を問わぬ努力によって、ちょっとした建設作業を別にすれば、完成しました。建設にあたったエルフルトのトプフ・ウント・ゼーネ社の主任技師プリューファー氏の権限で、焼却炉は火を入れられ、非の打ちどころなく動いています。死体置き場(der
Leichenkeller)の鉄筋コンクリート製の天井は、寒気の影響のため、まだ型枠が撤去できません。とはいえ、これはたいしたことではありません。というのは、その目的のためには、ガス室(der
Vergasungskeller)が利用可能だからです。 この手紙は戦後すぐのニュルンベルク裁判(IMTではなくNMTのほう)に、ナチスの犯罪を明らかにする証拠のひとつとして、持ち出されました(NO-4473という文献番号がついています)。 「ユダヤ人虐殺物語の『ガス室』の用語は『Gaskammer』であって、『Vergasungskeller』の方は、火葬場の燃焼温度を上げるための『気化室』または『気化穴』とでもいうべき構造のことだ。・・・バッツ博士の著書『二〇世紀の大嘘』、およびシュテーグリッヒ判事の著書『アウシュヴィッツ/判事の証拠調べ』(手元の英語版は90年改訂増補)ですでに、言葉のすり替えが論破しつくされている。」(pp.136-7.) こう『争点』が高らかに宣言したのが、1995年のことなのをご記憶ください。バッツの解釈から20年近くたったあとです。 [1] もとのテクストはダヌータ・チェヒの本(Danuta Czech, Auschwitz Chronicle
1039-1945, Henry Holt & Co., New York, 1990,
p.317.)にある手紙の写真版を利用した。ついでながら、チェヒのこの本について、木村さんは「アウシュヴィッツでの最初のガス殺人」という否定派の文献にある「何らの証拠書類をも示していない」という評価をそのまま引用して、同書の資料的価値を貶めようとしている。しかし、チェヒの本ではアウシュヴィッツに残された資料を含めて、大量の証拠や証言が利用され、その出典のほとんどは明記されている。木村さんは要するに眼を通してさえいない著書を、否定派の一方的な評価を鵜呑みにして攻撃しているにすぎない。自分で調べることなしに、一方の当事者のかたよった評価をそのまま垂れ流すのが、木村流ジャーナリズムの特徴のひとつである。 |
まえのファイルでは、ビショフの43年の手紙に出てくるVergasungskellerは、通常アウシュヴィッツのガス室のこととされるのに、76年に否定派のバッツがそれは単なるコークス気化室のことだといい、木村愛二さんが95年にはその解釈を鵜呑みにしていたことを述べました。 これから、第二幕の開幕です。 1989年にフランスのジャン=クロード・プレサクは『アウシュヴィッツーーガス室の技術と操業』という重要な研究を出版しました[1]。プレサクはもともとフォリソンに感化されて否定派陣営に属していましたが、やがて否定派批判にまわった研究者です。彼はヨーロッパ各地の文書館を渉猟して、特に収容所のハードウェア関係についての大量の資料を発掘し、ガス殺の物質的な基盤を明らかにしています(このような研究は否定派と同じ土俵に上がるものだという批判があることは、注記しておきます)。 「アウシュヴィッツの焼却棟の燃料はコークスが使われており、燃料のガス化装置は必要なかった」[2] と書いていることを取り上げて 「しかし、この主張の論拠は明示されていない。以上の両者の相反する見解については、現在のところ、私の手元には追加の材料がない。」[3] といっています。 これは不思議なことです。というのは、木村さんはすでになんどもプレサクの本について触れているからです。 「バッツも私も、Vergasungskellerの場所を見いだせなかった。それは焼却炉から離れた建物のなかにではなく、ともかく焼却室の近くにあったに違いないのだが。」[5] 要するに、それらしい設備を、クレマのそとに求めるのは困難なのです。 「この機会に、クレマ3の死体置き場1のための100cm/192cmの気密ドアの供給についての、1943年3月6日の注文について、注意を喚起しておきたい。このドアは、向かい合っているクレマ2の地下室ドアの型や寸法と完全に同じに完成されるべきで、そこにはゴムのパッキングと保護金具がついた、8mmの二重のガラスの覗き穴もつけられる。この注文は緊要なものとして扱ってほしい。」[7] 文面から判るように、クレマ2とクレマ3との「死体置き場1」には、ガス漏れを防ぐための特別な気密ドアが取りつけられることになっており、さらに、そこには特別な覗き穴が設けられてもいます。LK1がなんらかのかたちでガスに関連した空間であったこと、つまり、一部の否定派がいうような単なる死体置き場などではなかったことは、明白です。 |
前回は、プレサクが提出した証拠のおかげで、否定派のバッツがかつてのLK1=気化室説を放棄せざるをえなくなり、結局92年に、クレマの外部にVergasungskellerを求めて彷徨いだしたところで終わりました。木村さんはバッツの92年説を、1999年になってようやく知ったようです。 さて、バッツはVergasungskellerをクレマのそとに追いやったのですが、自分の議論がどうも不評であることに気づいたらしく、木村さんがもたもたしているうちに、1997年になって、またもや自分の見解をドラスティックに変えてしまいます[1]。 この最新説では、まず、Vergasungskellerはクレマの地下に戻されます。出たり入ったり、忙しいことです。 クレマのなかにVergasungskellerがあったこと、それがLK1であることを、バッツは最終的には承認したわけです。しかし、もう気化室説を繰り返すことはできません。したがって、別の解釈が必要になります。 バッツによると、Vergasungskellerは今度は、毒ガス防御設備を持った防空壕なのです! 彼はクレマの地下にあるLeichenkellerはすべて防空壕に改造されたといいます。そのうちのLK1だけが対毒ガス設備を持っていたのでVergasungskellerと呼ばれたのだというのです。おそらく、第一収容所のクレマがのちに防空壕に改造されたことから思いついたのでしょうが、クレマ2や3の地下に防空壕が作られたという証拠は、なにひとつありません。バッツもまったくなにも傍証を提出していません。Vergasungskellerはクレマの外部にあったという、まえの主張と同じように、なんの根拠もないのです。ただ、ビショフの手紙ひとつをこねくりまわして、そうだったに違いないと断言しているだけです。 そのうえ、困ったことがあります。 ビショフの3月31日の手紙に明記されている覗き窓は、なんのためのものなのでしょうか。また、天井にあったパイプがつながっていないシャワー・ヘッドは、なんのためのものでしょうか。Leichenkeller 1に焼却炉から発生する熱を導く案をプリューファーは一時提案していますが、上部構造が爆撃で破壊されたら、このパイプを伝って毒ガスは室内に入り込みます。なんでプリューファーは、こんな無茶苦茶な提案をしたのでしょうか。 さらに困ったことがあります。 バッツも認めているように、防空壕の基本目的は、収容所にいる親衛隊員を保護することにあります。ところが、ビルケナウ収容所のどんな地図を見ても判ることですが、ビルケナウの管理本部も親衛隊員宿舎も、ビルケナウ最大の収容地域(B II)の北東にあり、クレマはその南西にあります。つまり、前者から後者に逃げ込むには、鉄条網で囲まれたB IIをぐるりと半周する必要があるのです。こんな離れたところに防空壕を作っても、いざというときになんの役にも立ちません。ガス攻撃を想定した設備をそんなところに置くのは、常軌を逸しています。収容所長たちは攻撃を受けた場合、防空壕に到達するまで、ガスマスクをつけて長大な距離を走りとおさなければならないのですから。そんなものは最初から、本部近くに設置するのが当たり前です。 この防空壕説についてバッツは、「ここで提出される理論のユーモラスなまでの簡単さに私は衝撃を受けている」と自賛しています。 しかも、彼は同じ文章のなかで、LK2を「脱衣室」あるいは「脱衣空間」と呼んでいるいくつかの文書に触れて、そこでは死体の衣服が脱がされ、ついて死体はLK1に運ばれると、防空壕説とはまるで違った議論を同時に展開してもいます。同じ論文において、LK1は防空壕であると同時に、死体置き場でもあることになります。まったく異なったふたつの説を、どちらかだろうともいわずに並べているわけです。 ここまでくると、バッツの正気が疑われます。 要約しておくと、Vergasungskellerについてのバッツの見解は、つぎのように「進化」をとげています。 1976年 クレマ地下の気化室 1992年 クレマ外部にある気化室 1997年 クレマ地下の防空壕 木村さんは残念ながら、まだ第二段階あたりにしか到達できていません。 ついでながら、バッツと同じく否定派の大物であるロベール・フォリソンの見解を、ここで見ておきます。プレサクの仕事が否定派のなかで混乱と対立を生みだし、おかげで収拾がつかない状況になっていることを、きちんと押さえておきたいからです。 フォリソンははじめ、バッツの気化室説に賛成していました。しかし、やはりプレサクの批判に耐えきれないと思ったらしく、こっそりとそれを放棄します。フォリソンの新説[2]では、Vergasungskellerはクレマの内部に戻されます。そして、それは「冷凍庫ないしは冷凍室」(depositoire ou chambre froide)だとされます。そのうえで、どういうわけか、この「冷凍庫ないしは冷凍室」の目的は、ツィクロンBを使った消毒(desinfection)にあったといわれます。ツィクロンBは周知のように、低温ではなかなか気化しないのであり、「冷凍庫ないしは冷凍室」で利用されるわけがありません。フォリソンは最近、自説のなかで明らかな食い違いを平気で犯すようになっています。 まず、最新のバッツと同様、フォリソンもVergasungskellerをクレマの地下にあったと認めたことを、はっきりと確認しておきましょう。否定派の重鎮ふたりがそろって、VergasungskellerがLK1であること、そこにはガスとなんらかのかたちで関係した装置があったことを確認しています。 それにしても、フォリソンはいいかげんな人です。私は彼がもとはランボーやロートレアモンの研究者であったことを知っているので、もっと凄みのある人だと思っていたのですが、彼が繰り返すどうしようもないでたらめを読むと、気の毒にさえなります。どれほどいいかげんかを、以下で少し述べます。 (1) 彼は「私は消毒ということばを、固有の意味での消毒と同様、殺虫の意味でも使っている」と述べています。「固有の意味での消毒」(la desinfection proprement dite)とは、殺菌のことです。『大辞林』は「消毒」を「感染予防のため病毒菌を殺すこと」と定義しています。つまり、フォリソンは殺菌と殺虫の両方を消毒に含め、それがVergasungskellerで行なわれたと見ています。しかし、ツィクロンBの主成分である青酸は、確かに殺虫効果を持っていますが、細菌を殺す能力はありません。それは「固有の意味での消毒」とはおよそ無関係なのです。フォリソンはよせばよいのに、自然科学の領域にまで入り込んであれこれいっていますが、その知識など、この程度のものにすぎません。 (2) 青酸の沸点は摂氏25・8度です。アウシュヴィッツは寒冷の地で、天然の温度では特に冬には、ツィクロンBはなかなか気化しないという点を、否定派はしつこく主張してきました。ところが、フォリソンによれば「冷凍庫ないしは冷凍室」でガスによる薫蒸が行なわれるそうです。温めるのでなく冷やすのだとすると、ガスの気化はさらに困難になるはずですが、もちろん、なんの説明もありません。 (3) フォリソンはこれまで、LK1=Vergasungskellerの換気装置が、上部で吸気、下部で排気という構造になっているのは、青酸ガスが空気より軽いことと矛盾すると、なんども執拗に主張してきました。だとしたら、LK1がツィクロンBを使った消毒室だったという自説についても、同じことがいえます。自分で自分の首をしめているのです。 (4) 一番重要なのは、フォリソンの消毒室説が、彼がこれまで声を大にして擁護してきた、ロイヒターの主張とまっこうからぶつかることです。 フレッド・ロイヒターは米国の死刑用ガス室の製造業者で、否定派から依頼されてアウシュヴィッツではガス殺などありえなかったという文書(『ロイヒター報告』と通称されています)を出しています。フォリソンはこの『ロイヒター報告』に序文を寄せていて、内容を褒めちぎっています。 ロイヒターの主張を簡単にまとめると (a) ガス室とされてきた部屋の壁からは、ゼロないしゼロに近い青酸残留量しか検出されない (b) クレマ2や3のVergasungskellerは、とうてい青酸ガスを使うような構造になっていない ということです。ロイヒターの主張によれば、LK1は青酸ガスによる薫蒸のためのスペースにも使えなかったことになります。 フォリソンは青酸ガスによる消毒=薫蒸がクレマの地下で行なわれたということで、かつて絶賛していたロイヒターの「発見」を、完全に無視しています。 要するに、ロイヒターを立てれば、フォリソンが転け、フォリソンを立てれば、ロイヒターが転けるのです。素敵です。 以上が第三幕です。つづいていよいよ、木村さんの最新の珍説が登場します。 乞うご期待。 [1] Arthur R. Butz,
"Vergasungskeller" (06/01/1997) |
【さまよえるVergasungskeller 第4幕】 |
いよいよ、木村さんの意見のほうを扱います。 まず、木村さんは99年になっても、バッツの92年の説を正確に知らないでいます。否定派の国際的な情報網もたいしたことがありません。しかし、92年になってバッツがVergasungskellerをクレマの外部にあったと想定したことだけは「耳情報」で判っていたようです。どうも地下の気化室ではまずいらしいのですね。 木村さんはこの「耳情報」と、ビショフの43年1月29日の手紙(これしか知らないのです)をこねくりまわして珍解釈を下します。 もう一度、ビショフの手紙の関連部分を引いておきます。 「死体置き場の鉄筋コンクリート製の天井は、寒気の影響のため、まだ型枠が撤去できません。とはいえ、これはたいしたことではありません。というのは、その目的のためには、ガス室が利用可能だからです。」(Die Eisenbetondecke des Leichenkellers konnte infolge Frosteinwirkung noch nicht ausgeschalt werden. Die ist jedoch unbedeutend, da der Vergasungskeller hierfuer benutzt werden kann.) この文章をじっとにらんでいた木村さんの頭は、なんと「発火」します。 「もう一つの、キーワードというよりもキー文字は、たった1つの小文字の『s』だった。上記の『代用』論とともに決定的な重要性を秘めていそうなのは、日本人が見逃しがちな『単数』と『複数』の違いである。上記のように、英語訳の方では、the
cellar used as a
mortuaryと、明白に単数の扱いになっている部分が、ドイツ語の原文では、Leichenkellersと、複数になっているのである。 この「発火」の過程は、以下のように要約できます。 (1) Vergasungskellerはクレマのそとに追い出さなければならないらしい。 木村さんはこの「発見」に興奮したようで、「もしかすると、これは私の新発見ではなかろうか」とまでいっています。 「具体的な手順から考えると、その場所は、すでに稼働中の焼却炉から焼いた遺体の骨を掻き出して、いったん焼き窯を冷やし、次の作業に掛かる時に、新しく焼く死体を運んでくるのに便利な位置であろう。それは『同じ建物の中とは限らない』というのが、バッツの発想の転換の着眼点らしいのである。まだ論文は発表されていないものか、ともかく西岡の手元にも届いていないのだが、バッツのこの発想の転換には、どうやら、私の場合と同様に、プレサックの強引な『隠語』説の刺激があるらしいのである。」[2] この文章にも、いくつも間違いがあります。焼却炉は「すでに稼働中」ではありません。ビショフが触れた1月29日の火入れは、まったくの実験的なものであって、死体焼却さえ行なわれていません。それが試されたのは、3月5日になってからです[3]。また、焼却炉は内部の温度を一定に保つことが必要ですから、「いったん焼き窯を冷やし」たりしません。また、バッツの論文はとっくに活字になっていましたし、彼の「発想の転換」は、これまで見てきたように、木村さん「の場合と同様」ではありません(お仲間の主張さえ、正確にフォローできないのです)。 「こりゃ少し失敗したかな」[5] といっています。表面上は反省しているように見えます。しかし、私の指摘に対しては罵詈譫謗を投げかけるだけで、ご自分の「新発見」が無効になったので撤回するとはおっしゃっていません。 「クレマ2。この建物は、いくつかの小さな作業を除いて(寒気のために、死体置き場2の天井から、まだ型枠を取り除けない)、建設上は完成している。・・・死体置き場の排気・吸気装置の引き渡しは、必要な貨車の欠如のおかげで遅れており、10日以内に組み立てるのは、無理だと見込まれる。」[6] ここでは明確に、型枠をはずせないので使えないのは、クレマ2のLK2だと書かれています。LK1とLK2の両方が使えないのではありません。木村さんの珍解釈は、この報告を読むだけで根拠をなくします。であるなら、LK2のほんの数メートル先に、Vergasungskellerとして代用できる場所(LK1)があったことになります。なにもクレマ外部をうろうろと探さないでもよかったわけです。 「私は、戦争中ではなくとも死者の衣服の再利用は珍しくないことだから、、その衣服の虱退治のための小部屋があったかもしれないと考える。・・・Vergasungの意味で唯一明確に説明できる書証があるのは、殺虫剤チクロンBの使用説明書だけである。そのVergasungの意味は、チクロンBが発生する青酸ガスで『害虫を殺す』ことである。そこからのVergasungskellerの一番自然な解釈は、殺虫室、または、消毒室である。」[7] 『争点』であれほど高らかにいいたてられていた気化室は、まるで最初からなかったかのように消え去ってしまっています。 これで第四幕は終わりました。 (1) なによりもまず、ドイツ語の基礎知識を獲得すること 木村さんがこれからVergasungskellerやLeichenkellerについて、どんな滑稽な見解をさらに繰り出すかは、今後の楽しみです。といっても私としては、木村愛二さんがこの問題については、もうなにもいわないだろうと思っています。これ以上なにかをいうと、ぼろのうえにぼろを重ねる結果にしかなりません。そういう事態に陥るのを避けるために、沈黙してしまう可能性が高いと推測しています。というのも、木村さんには、議論にどうしても必要になる資料を利用する能力がないからです。 [1] http://www.jca.apc.org/~altmedka/glo-9.html |
【木村愛二さんの典拠】 | |||||||||||||||||||||
最近、木村さんはついに『アウシュヴィッツの争点』をWebのうえで公開するという手段を取られました。つまり、彼の「トンデモ本」がインターネットを通じて流されるわけです。私はこの知性と品性の双方に極端に乏しい人間とかかわることに、ある時期からほとほと嫌気がさしていたのですが、こうなってはやむをえないので、さらに追求の手をのばすことにします。 最初に公開されたのは、同書の参考文献です。そのさい、木村さんは「私が『ネオナチ資料のみを利用している』とのmailを、そのまま鵜のみにしている人もいるのではないか」という助言を受けたからだといっています。本当に木村さんはネオナチ資料に依拠しないで『アウシュヴィッツの争点』を書いたのでしょうか。 木村さんの著書で展開されるホロコースト否定論の主要な支えになっているのは、欧米で刊行されたネオナチ、極右、反ユダヤ主義者たちの文献です。彼は一生懸命にそのことを隠そうとしていますが、とうてい無理な話です。 『争点』の巻末には15ページに及ぶ「参考資料」が列挙されています。いいかげんな事実調べとセンセーショナリズムからしか成り立っていない本に、なんとか「学術的」な体裁をほどこそうとする、姑息な努力です。そのうちもっとも重要なのは、「日本語訳のない外国語の単行本」であることは明らかなので、その部分をチェックしてみましょう。39冊の本のタイトルが挙がっています。 幸い、木村さんはどの資料をどこでなんど引用したのかを、そこで明示しておられます。その数字を利用して、引用回数が多いものを、順に並べてみます。人名の読み方などについては、かならずしも木村さんのそれにはしたがいません。
このあと、クロード・ランズマン『ショア』の4回がつづきますが、同名の映画と本がごっちゃにされているので、数には入れられません。残りはすべて3回以下の言及をされているにすぎず、ここでは取り上げません。シュテークリヒからクリストファーゼンまでが、木村さんの主要文献だといってよいと思います。このうち、元ナチス、ネオナチ、極右といった政治的経歴が疑いようもなくはっきりしているのは、ヴァレンディ、ハーウッド、クリストファーゼンの三人です。 米国はこうした非難に根拠がなかったら、ただちに訴訟になる社会です。バッツがリップシュタットを訴えたという話は聞いていないので、彼女の断言を信じてよいと思います。実際、彼の本の内容は、ユダヤ人とコミュニストの陰謀が、F・D・ローズヴェルト大統領やモーゲンソー(ローズヴェルト時代の財務長官)の反ナチス活動の背後に潜んでいたとする、ひどくお粗末な反共・反ユダヤ主義を下敷きにしています。 |
【強制労働と絶滅政策の関係】 |
ホロコースト否定派がよく使う手口のひとつに、とうに論破されてしまっている論点を臆面もなく繰り返すというものがあります。そう叫びつづけることで、まだ議論の全体を知らないでいる人々を取り込めることが、彼らにとっては大切なのです。もちろん、木村愛二さんもそうします。先頃、メーリングリストのamlに送りつけてきた迷惑メール[aml
15196]で、彼はすでにまったく陳腐になった話をまたも繰り広げています。 ナチスはユダヤ人を強制労働に駆り立て、さらに絶滅の対象にしたという主張に対して、木村さんはこういいます。
「「強制労働」までさせるほど「労働力不足」だったのに、「絶滅」を目的とする収容所を作って「大量殺戮した」と主張していることになるのですから、これは両立しません。おかしいと疑うのが普通の考え方なのです。ですから、パレスチナ分割決議を推進した政治的シオニストは、その要求を欧米列強に呑ませるために、「ユダヤ民族絶滅」を目的として「ガス室」工場まで作って大量虐殺をしたのだと主張することの方に力点を置き、「強制労働」の方は問題とはせず、そのことへの賠償金も要求しなかったのです」。 そして、つぎのように強調します。「「ホロコーストは嘘だ」と主張し、「収容所は労働力確保の場でもあった」と考えることができれば、歴史の事実を論理的に説明できるのです」。 「歴史の事実」どころか、これでたらめです。ナチスは支配下にあるユダヤ人を「労働可能」と「労働不可能」という、ふたつのカテゴリーに分類しました。前者は強制労働に従事させられ、後者は絶滅の対象になりました(ゲッベルスはその比率を40%と60%だと見積もっています)。前者の場合でも、劣悪きわまる労働・生活環境がたえずユダヤ人を「労働不可能」なほうに追いやっていたのです。アウシュヴィッツで第一次および第二次選別と呼ばれる過程について書かれたものを読めば、すぐに判ることです。 |
(私論.私見)