ネオ・シオニズムと対決するユダヤ人たち考その2
(Jews Against Zionism)

 「Webコラム目次」の「土井敏邦トップ」の以下のブログを転載しておく。
 日々の雑感 164:『トーラーの名において』(ヤコブ・ラブキン著)から(前編)

 2010年5月16日(日)

 『トーラーの名において』──シオニズムに対するユダヤ教の抵抗の歴史
 ヤコヴ・M・ラブキン著(平凡社/2010年4月)

 「ユダヤ人」や「シオニズム(パレスチナにユダヤ人国家を建設しようとする運動)」、「イスラエル国家」に関する私たちの「常識」を根本から覆す衝撃的な書籍である。著者ヤコブ・ラブキン氏は、旧ソ連生まれのユダヤ人で、歴史研究者。いわゆる「ユダヤ教・反シオニズム」の論者である。ラブキン氏は、「シオニズム」を「民族主義運動のなかにあって唯一無二の存在」だとし、「シオニズムの主眼は、まず言語を作り、新しい民族意識を形成し、そこから生まれ出た民を地球上のまったく別の一隅に移住させて現地の住民たちと入れ替え、そして、この植民地化された領土を取り戻そうとする先住民たちの試みから自己の身を守ることに存した」と定義している。また「シオニズム」が正統派ユダヤ教の中心部において「メシア信仰の根本からの否定、すなわち、いくつか人為によって〈聖地〉を奪取することはしないという神との契約を破棄するものとして異端視される」と言い切り、正統派ユダヤ教のある一派は「ショア(ホロコースト)をシオニズムの行動主義に対する神の懲罰としてとらえ、シオニズムに対する批判をさらに強化した」とまで書く。まさに「一般に広く行き渡ってしまった『ユダヤ教すなわちシオニズム』『ユダヤ人(教徒)とイスラエル人とは一心同体』という謬見を粉砕しようとしている」著書である。

 また私たちが「ユダヤ人の悲劇の歴史」の象徴の1つとみなしがちな「流謫(るたく)の境遇」についても、「イスラエル国の存在そのものによってメシアによる贖いが妨げられているという理由で流謫の境遇を意識的に選びとっている」「ディアスポラとは、むしろ、ユダヤ教徒にとって好都合かつ快適な選択肢として認知されているものだ」とラブキン氏は言う。

 また「シオニストたちがいかなる努力を払おうとも、トーラー(旧約聖書のモーセ五書)を実践せずして〈イスラエルの地〉に居を移し、住み続けることは不可能である」「トーラーなくして、われわれは数十年とユダヤ人であり続けることはできないが、〈イスラエルの地〉なしでも、われわれは二千年間、存続することができた」という。

 またこれも現在のイスラエル国家からは想像もつかないことだが、「ユダヤ教の伝統は、あらゆる暴力の形態から身を引き離し、ユダヤ教徒のあるべき特徴として、慎ましくあること、慈悲深くあること、そして善の行い手であることの三つを掲げる」というのだ。そして「ロシア系ユダヤ人が、自分たちにはイスラエルを再征服し、それを防衛し続けるだけの十分な力が備わっているのだという前代未聞の自信を獲得したのは、まさにユダヤ教と、あくまでも人間の慎ましさを重んじる伝統を完全に捨て去ることとの引き換えによるものだった」というのである。

 イスラエルのアラブ諸国との「戦争」とその「勝利」についても、この書はまったく違ったアングルを提示している。1967年の「1967年の第三次中東戦争(六日戦争)の大勝利」も「不可避の没落へのといたる一連の破壊のプロセスのなかに書き込まれたもの」とさえラブキン氏は言い切るのだ。氏はあるラビの次のような将来を暗示するこんな言葉を引用している。 「たしかに彼らは今日、その力の頂点に達しているのであろう。しかし、それは同時に下り坂の始まりでもあるのだ。彼らは、遅からず、今回の勝利品によって引き起こされる厄介事の存在に気づくことであろう。アラブ人の憎しみはさらに増し、必ずや復讐を求めるであろう。シオニストたちは、今、国境の内部に数十万人の敵勢を抱え込んでいる。われわれは皆、『今ここに』において、大きな危険にさらされているのだ」。「ユダヤ教の立場からシオニズムを批判する人々は、イスラエルが軍事的勝利を重ねる度に、不敬の輩がこのような軍事的成功を手にするなどということが一体なぜ可能なのか、という問いを発し続けてきた。宗教=民族派がここに奇跡の成就、つまり神の好意の印を見て取るのに対して、反シオニストのハレーディたちは、その勝利を悪魔の采配に帰着させる」。「1967年の勝利は、神のなせる業であるのか、あるいは、義人を罠にかけるため、贖いの蜃気楼を映し出す悪魔のなせる業か、そのいずれかなのである」。

 さらに「シオニズムとは、つまるところトーラーに示された流謫(るたく)と贖いの視点の棄却であり、そこに異邦人一般と、とりわけパレスティナ人に対する攻撃的な姿勢が結びついたものであった」とも。

 「テロリズム」についても、ラブキン氏は斬新な見解を示している。「『テロリズム』とは、20世紀前半、ロシア系シオニストたちがパレスティナに持ち込んだものであり、それが世紀の後半にいたり、翻って彼らの末裔たちに刃を向けるようになったのだ」。「その後、『レヒ』、『イルグン』といった武装組織がテロ行為を繰り返し、そして、そうした組織のただなかから、イッハク・シャミール、ベナヘム・ベギンといった、のちのイスラエル首相らが輩出しているのだ。これらの軍事組織に共通しているのは、民族的な綱領の実現のために、まずもって住民に恐怖を教え込み、ついで敵勢をも恐怖で震え上がらせなければならないという確信である。皮肉なことに、時とともにパレスティナ人たちが採用するようになったのも、これとまったく同じ手法であったのだ」。「今日、パレスティナ側が行っているテロリズムは、シオニストたちの絶えざる侵犯行為に対する相応の罰として下されたものと考えられなくもないのである」。(つづく)

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 日々の雑感 165:パレスチナ人権活動家ラジ・スラーニの7年ぶり来日

 2010年5月20日(木)

 本日、パレスチナ人権活動家ラジ・スラーニが来日する。7年ぶりである。今回はNGO「ヒューマンライツ・ナウ」の召喚である。ラジと出会ったのが、1986年だったから、もう20数年になる。長い友人であると共に、パレスチナ・イスラエル問題の“恩師”でもある。激動のパレスチナの現状や行方を見定める、いわゆる“筋を読む”ために、私がパレスチナを訪ねるたびインタビューをする人物が2人いた。1人はパレスチナとりわけガザを代表する政治指導者ハイデル・アブドゥルシャーフィ。1991年、マドリッド中東和平会議でパレスチナ代表団の代表として世界に向けてパレスチナ人の立場を演説した人物である。その実直で無私の人柄と政治姿勢に、多くの市井の人々から深い畏敬の念を抱かれていた。そしてもう1人がラジ・スラーニである。私が初めて出会ったとき、彼は長い獄中生活を終えたばかりだった。若い弁護士だったラジが当時非合法組織とされていたPFLPのメンバーという容疑で逮捕されたのは1979年、それから3年間、尋問と拷問に耐えてきた。

 ラジは当時の拷問の様子を私のインタビューでこう語っている。「イスラエル当局は私への尋問を始めた。1回30分から1時間の尋問を日に4回から6回繰り返した。その間ずっと立たされ、眠ることも許されなかった。立っている間 壁に寄りかかることもできない。3日間、食べものも水も与えられなかったし、トイレに行くことさえ許されなかった。私はもう耐えきれない状態になっていた。それで座り込もうと決めた。すると見張りの男が私を殴り、立てと命じた。そして私を掴み力づくで立たせた。しかし2,3分すると私はまた座り込んでしまいます。もう肉体的に立っていることができなかった」。「尋問する男がサンダルを握ってテーブルをぐるっと回り、私の側にやってきた。彼は『これこそ、お前にふさわしいやり方だ』と言うと、私の顔につばを吐きかけ、サンダルで私の顔を殴り始めました。何回殴られたのか覚えていない。私はもう痛みは感じなかった。もうほとんど意識を失っていたから」。

 そしてその獄中体験が、その後のラジの思想、人生観、価値観に与えた影響をこう吐露した。「刑務所での体験は私に“4次元の視点”を与えてくれた。私は単なるプロの弁護士でも、単なる民族主義者でもない。私が弁護士という仕事の中で、政治犯や彼らの苦悩、そして法について語るときの言葉は、私自身の肌の感覚から出た言葉です。それを私は“4次元の視点”と呼んでいるんです。それは知識人か否か、プロの弁護士か、民族主義者かどうかだとかいうレベルの問題ではない。それはまさに自分が体験し肌で理解した現実そのものです。幸か不幸かときどき感情を高ぶらせて表現せざるをえないものなのです。それが私にとっての獄中体験でした。とても大きな代償を支払い、激しい痛みを伴う体験でした。しかし同時に それがあるために 私が語る言葉は、その体験により心底から表出してくるものだと思います」。

 私はラジに素朴な疑問をぶつけた。「あなたは経済的にも裕福で、生い立ちを見ても難民の生活とはかけ離れた暮らしをしています。なぜ、あなたは底辺の暮らしを強いられている人々の気持ちが分かるのですか? 彼らの身になって考える事が出来るのですか?」。するとラジはこう答えた。「イスラエル諜報機関の人間にも同じ質問をされたことがあります。『君は若く、健康だ。地元のファミリー出身だ。自分の車もあり、自分のオレンジ畑もある。自分のアパートもある。君の条件は私たちより何十倍も恵まれている。なのにどうしてこういう道を選ぶのか。どうしてPFLPに加わるのか』と。そのとき私はこう答えたんです。『いつの日かそれを理解できたら、あなたは“占領者”であることを止めるだろう。しかしあなたはそれを決して理解できないだろう』とね」。そしてラジは、その私の質問に、考えながら、ゆっくりとこう語った。「その質問に対する私個人の答えは、正しいかどうかは分かりません。まず、民族意識の高い家庭で育ったことです。父、祖父、叔母、母、兄たちがこういった環境を作ってくれたことを誇りに思っています。何十年もの間、スラーニ家はずっと強いパレスチナ人としての民族意識を持ったファミリーでした。反英、反トルコ、反占領であり、反PA(パレスチナ自治政府)という声さえあるほどです(笑い)。このように民族意識の高い環境で育ちました。“祖国”は何か、“パレスチナ人”であるとはどういうことか、“パレスチナの大義”とはどういうものか、パレスチナ人の苦悩、占領の犠牲とは何かという意識のなかで育ったのです。

 第2に、“占領”という状況が、自分が『中立』的な立場に立てなくしたのです。“占領”に関して『中立』であることなどできません。“加害者”か“被害者”のどちらかです。パレスチナ同胞の味方につくか、占領側につくか、です。当然、私は同胞の側に立ち、“加害者”に敵対する立場です。

 第3に、“占領”はそれを肌に記憶させずにはおかない状況を造りました。自分の精神的かつ身体的な構造の一部となるのです。それを自分で選ぼうと選ばないとに関わらず、肌で感じ、呼吸し、その中で生きる。それを自分が選択しても、しなくとも、それでも私の肌に刻まれるのです。

 他の理由は、私の政治的な体験、意識、そして私の個人的な体験です。例えば恵まれた家庭環境や物理的な環境にあっても、私が小さいときから、学校の多くの同級生たちは難民キャンプ出身でした。それを私は感じ取っていました。そして『なぜ、彼らは自分とは違うのか』と周囲に質問しました。その答えはいつも『“占領”“虐殺”のため』というものでした。そのような状況が彼らを今の状態に変えてしまったのだというのです。

 最後には、『人生は選択だ』ということです。意識的に、また無意識に、私はそのように生きてきました。それが自分の考え方であり、方法論であり、私の問題への接近の仕方です。私はパレスチナ人の一部です。同胞が感じている“痛み”を自分が感じとることができることは幸運だと思います。それはとても“痛い”ことです。しかしそれこそ、パレスチナ人同胞の苦悩、被害を正確に反映したものなのです」。

 私はさらに「自分の性格をどう自己分析していますか?」と質問をたたみかけた。ラジはこう答えた。「私には何か特別なものがあったわけではありません。私の学校の成績を見れば、決して特別に優れていたわではなく、成績トップの生徒の部類ではなかったんです。私の刑務所での体験を見ても、突出した体験ではなく、他のパレスチナ人はそれ以上の苦しみを体験しています。彼らは投獄によって私が失ったものよりはるかに重い代償を支払っているのです。私は幸運でした。私の逮捕によって家族も逮捕されたり、生活を制限されることなどなかったのですから。私が自分を誇りに思うことの1つは、自分は“本物”(real person)だと思えることです。自分がそれ以外の自分であることは考えられない。それには大きな犠牲も伴い、とても困難なことではありますが、それでも、それが“自分”なのです」。「“本物”とはどういう意味ですか? 自分に正直であるということですか?」と質問を重ねた。「父はとても簡単な“原則”を私に教えました。『私はお前を17年間育て教育してきた。これからお前は社会に出ていく。私は、これまでお前に教えてきたことを全部もう一度繰り返すつもりはない。しかしこれだけは言っておく。自分に恥じる事だけは絶対にやってはいけない』と。そして私は自分を恥ずかしいと思うことを決してやらないように心がけてきました。自分はとても頑固で、そしてとても我慢強いと思います。でもそれは、決して、自分が“自分を衝き動かす力”を持たないということではなんです。私はいつも“自分を衝き動かす力”は持ち続けています。私はとても辛抱強く頑固かもしれないが、かといって、私は進歩することを諦めているわけではないのです。“自分を変えるエネルギー”、“自分を衝き動かす力”を自分の内に持ち続けています。私は感じやすい人間です。それはいい面もあれば、悪い面でもあります。それは時には、私の人生を悲惨なものにします。日常的に、自分を怒らせる問題を扱っています。犠牲、殺害、拷問、家屋破壊、土地没収……、それがずっと続いているのです。私は自分の“生”を心から愛しています。苦しんだ者ほど、“生”の有難みが分かる者はいません。そういう意味で、私は自分の“生”に感謝しています。妻は『時々あなたがわからなくなる』と言います。暑さが好きなのに雪が大好きだし、砂漠が好きな一方、緑も水も好きです。一日中動き回って、時間を最大限使おうとする。人生は短いものです。1分たりとも無駄にはできないのです。これまでの人生において、私は決して見返りを求めたことはありません。今後も求めたりしないでしょう。私は自分がそれが正しいと思ったことをやる。正しいと思えなければ、やめる。だから自分は個人的な野心はまったくありません。唯一の野心と呼べるものがあるとすれば、それは『よりよい世界と未来を見ること』です。そして『パレスチナ人の苦悩を終らせること』だけです」。

 「自分の人生において最も大切なものは何ですか?」。「私の問題点は、自分の家族とパレスチナ人同胞、“パレスチナの大義”と人権を区別していないことです。それは自分の中では全てが一つであり、互いに作用し合っていいます。それほど重要だとは思っていないのは、自分自身のことです」。「なぜ、それほど無欲でいられるのですか?」。「それが“私”です」。

【ラジ・スラーニの受賞】
1991年  アメリカのロバート・ケネディ人権賞
1996年  フランス人権賞
2002年  オーストリア人権賞

【関連サイト】

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 日々の雑感 166:『トーラーの名において』(ヤコブ・ラブキン著)から(中編)

 日々の雑感 164:『トーラーの名において』から(前編)

 2010年5月21日(金)

 『トーラーの名において』──シオニズムに対するユダヤ教の抵抗の歴史
 ヤコヴ・M・ラブキン著(平凡社/2010年4月)

 ユダヤ人であるラブキン氏の主張のなかで、他のユダヤ人にとってだけではなく、私たち非ユダヤ人にとって最も衝撃なのは、“ショアー(ホロコースト)”に対する見解である。もしこのような見解を私たち非ユダヤ人が口にしたら、「反ユダヤ主義者」として世界中から大非難を免れ得ないにちがいない。氏は、“ショアー”は「災厄とはユダヤ教徒をしてみずからの行いの検証、そして個人ないし集団としての改悛にむかわせるもの」であり、「ユダヤ教徒を改悛に導くために用いられる残酷な手段」とし、ヒトラーのような加害者も「神の懲罰の代行者」というのである。

 「(ラビ・)ヴァセルマンは、ショアーが(中略)、シオニストたちによって鼓舞され、実行されてきたトーラーの廃棄に対する懲罰であると信じて疑わない。この論理に従うならば、シオニズムの企画がこのまま継続される限り、ユダヤの民は、シオニズムに内包された個々の侵攻侵犯行に対し、人の命の形で高い代償を払わされ続けることになるのだ」。「ユダヤ人が、かつて神が彼らの祖先とのあいだに交わした契約を完全に忘れ、地上のほかの民と同じように暮らしたいなどと思い始めた時には、まさに今日、われわれの眼の前で繰り広げられているように、野獣のような反ユダヤ主義者らの群れが恐るべき力と猛々しさをもってユダヤ人を叩きのめすことになるのだ」。

 またラブキン氏はラビ、アムラム・ブロイの次のような「ショアー解釈」を紹介している。

 「もしもシオニズムの罪がなかったら、ヨーロッパの惨劇は起こらなかったであろう」。「シオニズムの信奉者たちのあいだに広く根づいている仮想、すなわち、もしもイスラエル国が1930年代に建国を成し遂げていたならば、そこにより多くのヨーロッパ・ユダヤ人を吸収することができていたにちがいないという見方には断固異議を唱える」。「それは完全なる異端思想である。繰り返しいうが、ショアーは、シオニストたちの罪に対する報いとして起きたのだ。彼らは、ユダヤ国家なるものの建設に向かうことを諌める神の命としてタルムードに記された、あの3つの誓いを破り、それによって、ユダヤ人の体がナチどもの使う石鹸に変えられてしまうような大災厄を引き起こしたのである。無信仰の人々の目には問いとして映ることも、われわれにとっては答えそのものなのである」。

 ラブキン氏はさらに、シオニストたちのショアーそのものへの責任へと論を進める。「ラビ、ヨセフ・ツェヴィ・ドゥシンスキー(1868-1948年)は、1947年、国連パレスティナ特別委員会に宛てた文書のなかで、シオニズムこそ、アラブ人たちとのあいだで暴力や諍いを引き起こし、それによって、1930年代の終り頃、パレスティナへのユダヤ移民を制限する方向にイギリス政府を動かしてしまった張本人であると述べている。つまりショアーの犠牲者、数百万人の命を救う道を閉ざしてしまったのはシオニズムであるということだ」。「現実に起きてしまったショアーも、ユダヤ国家の取得に向けてシオニズム指導者たちの政治的意志をさらに強固なものとする役割しか果たさなかった。そして、その実現に向けて彼らが手にした議論は、たしかにたぐい稀なる説得力を宿したものであった」。「ナチズム台頭の直後、シオニストたちは、ベルリン政府に対し、6万人のドイツ・ユダヤ人をその私財もろともパレスティナに移動させる計画を持ちかけ、合意をとりつけた」。「ドイツに派遣されたシオニストの代表団は、ナチス当局、とりわけ、当時、ユダヤ人の国外移住問題を担当していたアードルフ・アイヒマンとのあいだで実に円滑な協調体制を築くことができたのだった」。

 「あるシオニズム指導者は、ヨーロッパ・ユダヤ人に支援の手を差し伸べようとの呼びかけに対し、『ポーランドのユダヤ人を全部ひっくるめたよりも、パレスティナにいる1頭の牝牛の方がよほど価値がある』と答えたという。また別のシオニズム指導者は、第二次世界大戦後に国家を要求することの重要性を強調して、次のように述べたという。『われわれの側でかなりの犠牲者を出さなければ、国家を要求する権利などまったく認めてもらえないだろう。〔…〕よって、敵に資金まで出して、われわれの側の流血を押しとどめようとすることはまったくもって馬鹿げた行いなのだ。われわれは、もっぱら血によって国家を手にすることになるのだから』」。「(『ユダヤ機関』の代表、ルードルフ・カストナー(1906-57年)は、)起訴状によれば、ナチスが数千人の若いユダヤ人にパレスティナ移住の許可を与えさえすれば、それを餌として収容所内のユダヤ人たちを落ち着かせることができると呼びかけ、結局、ナチスの収容所運営に手を貸していたというのだ」。「20世紀、老若男女合わせて600万人のユダヤ人が、国家の創設者、指導者らの手により、その国家設立の交換条件として犠牲に供された。果たして正常な感性を備えた人間として、かくもおぞましい行為を思いつくものがいるだろうか?」。

 「ベン=グリオンは、『救出作戦のための技術と資金を備えた大規模な公的組織を創設することや、こうした救出作戦のためにシオニスト組織をつうじて集められた資金を使うことには反対の姿勢を示した。彼はまた、アメリカ・ユダヤ人を動かして、こうした使途の義援金を集めさせることにも消極的だった』」。「シオニズム運動全体に対しても、それがショアーをつうじて目的どおりの効果が得られそうな場合を除いてヨーロッパ・ユダヤ人の運命からは目を逸らし、そして、みずからの政治綱領にそぐわない救出作戦はことごとく妨害していたのではないか、という批判がさし向けられている。シオニズム指導者たちは、『ヨーロッパ・ユダヤ移民にパレスティナに向けての出立を余儀なくさせるため、地球上のそれ以外の場所に彼らを導こうとする計画に横槍を入れた』というのだ」。「シオニズム運動がショアーについて負っている歴史的責任について、ハレーディ系、改革派を問わずラビたちが述べ続けてきた糾弾の言葉は、今日、イスラエルの一部の歴史家たちによっても裏づけられてようになっている。それぞれが異なる言葉遣いを見せてながらも、歴史家たちは、ベン=グリオンとその同志たちがヨーロッパのユダヤ人居住地を絶滅から救うための努力を妨害したという点において、すでに見解の一致を見ているのだ」。

 ディアスポラ(離散)の地のユダヤ人を『私物化』しようとする傾向。「イスラエルの歴代政府は、どの党が政権を担当するかによらず、あらゆるユダヤ移民の流れをイスラエルへ向かわせようとして、事実上、ロシアのユダヤ人がアメリカやドイツへ、アルゼンチンのユダヤ人がアメリカへ、マグリブのユダヤ人がフランスへ向かうことを阻止しようとしてきた。ディアスポラのユダヤ人をあたかも自国の資産でもあるかのように扱い、国家事由を個人の自由の上位に位置づける習慣は、シオニズムのみならず、20世紀に勃興したいくつかの革命的政治体制に備わる主意主義的な本性を図らずも露呈するものといえよう」。「シオニストたちがショアーから導き出す教訓は明快そのものである。つまり、いかなる犠牲を払ってでも国家を手に入れ、それを強靭なものにし、そして、アラブ側からのあらゆる異議申し立てを退けつつ、そこに可能な限り多数のユダヤ人を流入させなければならないというものだ」。

 「イスラエル国の存在はショアーに対する償いの意味を持つのだという意識を、イスラエル人にも、またディアスポラの地のユダヤ人の若者たちにもうえつけるため、シオニストの教育者たちはさまざまな手法を用いる。なかでももっとも効果的なのは、1988年に始まった『生の行進(ミツアド・ハ=ハイーム)』であろう。この行進に参加するユダヤ人の若者たちは、まずポーランドを訪ねてアウシュヴィッツ絶滅収容所をはじめとするショアーの歴史的跡地を見学し、それからイスラエルへ行き、独立記念日を祝う。ここから発せられるメッセージはきわめて強力だ。つまり、死の後に生があり、アウシュヴィッツのバラックの後に、青と白の国旗が飾られ、独立記念日を祝うイスラエルの町々があるというのだ」。「かくてショアーは、イスラエル国の存在理由にかなり強い説得力を付与するばかりでなく、イスラエル国への具体的支援の梃入れを促す契機にもなっている」。

 ショアーのイデオロギー的かつ政治的利用が習慣化し、日常茶飯事となっているという事実。

「(『ホロコーストは過ぎ去った』の著者アヴラハム・ブルグによれば)イスラエル人がみずからを永遠の憎悪の被害者とみなしており、中東を舞台として内続く紛争の一方の当事者であるという認識がきわめて稀薄であるという」

「イスラエル・ユダヤ人の意識は、被害者意識、強迫観念、盲目的愛国心、好戦性、独善、そしてパレスティナ人の非人間化と彼らの苦しみに対する無関心によって特徴づけられる」

「イスラエル政治に対する批判に、ナチスによるジェノサイドの記憶さえ動員されるようになった。2008年-2009年、ガザ地区への攻撃が多くの国々のユダヤ人からも激しい抗議にさらされた時、あるフランスのユダヤ人がイスラエル首相宛てに1通の公開状を書き、かつてナチスに殺害されたみずからの祖父の名を、以後、『ヤド・ヴァ=シェム』記念館から抹消して欲しいと要求したのである」

「首相閣下、あなたの手でその命運が左右されるこの国家は、ユダヤ人の全てを代表するのみならず、ナチズムの犠牲になったすべての人々の記憶をも代表するとの自負を表明しています。しかし、それこそが、まさに私の懸念の種であり、どうしても耐えがたい点なのです。ユダヤ国家の中心に位置する『ヤド・ヴァ=シェム』記念館に私の親族の名を保存しながら、あなたの国家は、シオニズムという鉄条網のなかに私の家族の記憶を幽閉してしまっています。そして、日々、まさに正義に対する挑戦としかいいようのないおぞましい行為を、いわば道義的に正当化するために、人質としてその記憶を利用しているのです」(イスラエル人作家、アモス・オズ)」

「われわれは苦難を体験したことによっていわば免責証、つまり道義上の白紙委任状を与えられたも同然なのだ。けがらわしい非ユダヤ人どもがわれわれにしたい放題のことをしたのだから、だれからも道徳について説教されるいわれはない。なにしろこちらは白紙委任状を手にしている。それもわれわれ被害者としてあまりにも辛い体験をしてきたからだ。かつて被害者であり、いつも被害者だった。被害者であり続けたがゆえに、当然、動議のらち外に置かれてしかるべきだ、という含意である」

 ショアーの記憶の政治利用。

「ショアーの象徴主義が、とりわけ民族主義系の活動家たちによって最大限に活用されている」

「ユダヤ教の立場からシオニズムを批判してきた人々は、ショアー、そしてとくにワルシャワ・ゲットーにまつわる公式記念行事が、かえって出来事の真相を歪め、ユダヤ教にはまったく無縁のモラルを打ち広めようとしているとして非難する」。(つづく)

 日々の雑感 167:『トーラーの名において』(ヤコブ・ラブキン著)から(後編)

 日々の雑感 164:『トーラーの名において』から(前編)
 日々の雑感 166:『トーラーの名において』から(中編)

 2010年5月22日(土)

 『トーラーの名において』 ──シオニズムに対するユダヤ教の抵抗の歴史
 ヤコヴ・M・ラブキン著(平凡社/2010年4月)

 シオニズムと反ユダヤ主義との関係についても、私がイスラエル人たちへのインタビューの中で直接聞き、またメディア報道の中で断片的に語られ、私の中で漠然と感じとってきたことを、ラブキン氏は明確に文字化してみせている。「ディアスポラの地に住む多くのユダヤ人は、みずからのユダヤ人としての主たる役目はイスラエル国を擁護することであると考え(「その立ち振る舞いの正邪にかかわらず、イスラエルこそ、われらが祖国」)、この点についてはいかなる反論も受けつけようとはしない。その情緒の高ぶりを示す一例として、たとえばカナダの有名なラビが、ある時、イスラエルの政策によってディアスポラのユダヤ人を危険にさらしていないかと問いかける一文を書いたユダヤ教徒を『ユダヤの民の最大の敵』と評したことがある。(中略)あるハレーディのラビが透徹した皮肉とともに指摘したように、今日、人はみずからの宗教に対する批判は甘受できるが、みずからの偶像崇拝への批判はどうしても我慢ならなくなっている。つまり多くのユダヤ人たちの価値体系においてイスラエル国が神に取って代わっており、その点では一部のラビたちも例外ではないということだ。事実、多くの宗教=民族派(ダーティ・レウミ)のユダヤ教徒のもとで、『特定の社会=政治構造を絶対の領域に移行させ、そこに超越的な価値を付与し、その社会=政治的構造を神聖化することをもって宗教信仰の役割とみなす』傾向が顕著になっているからだ」。

 「シオニズムとは、ユダヤ史における断絶であり、ユダヤ人の集団意識における不連続点であり、ユダヤ教に対する公然たる挑戦である」。「イスラエル支持の姿勢が新しいユダヤ・アイデンティティーの核になる時、イスラエルに対するほんのわずかな疑義の提示さえ不可能となるのだ」。「ショアーに関する西洋の罪悪感が、いつの日か、ツァハル(イスラエル国防軍)の軍事行動に対する批判意識と釣り合ってしまうであろう瞬間、今度はイスラエルに起因する暴力によって呼び覚まされた諸国民の怒りが全ユダヤ人(教徒)の頭上で猛り狂うことになるのではないか」。

 「(シオニストたちも、手遅れにならないうちに国家を解体すべきであると主張するユダヤ教・反シオニストたちは、)1つの共通見解を分かち合っている。つまり、両者とも、この中東の一廓がシオニスト国家の存在をその懐に受け入れることは断じてあるまいと感じている。そればかりか、両者とも、今、〈イスラエルの地〉において、ユダヤ人が集団的殺戮の脅威に直面していることを認める点ではまったく見解を一にしているのだ。違いはただ、シオニストたちがこの殺戮を阻止するのは国家であると考えているのに対し、その敵対者たちの方では、ほかならぬ、その国家こそが、殺戮の脅威の紛うことなき責任主体であると見ている点だ」。

 「皮肉なことに、ユダヤ人を反ユダヤ主義とゲットーのような生活から解放し、彼らに安らぎの地を提供するために創られたはずのイスラエルが、まさに軍の駐屯地のような国家となり、敵意に満ちた隣人たちに包囲される地上の巨大なゲットーにも似た国になってしまった〔…〕数々の不吉な予感は〔…〕今なおシオニストたちの脳裏にまとわりついて離れない」。

 以上、ラブキン氏の『トーラーの名において』の中から、私が感銘を受けた文章を拾ってみた。 前述したように、“ショアー(ホロコースト)を“免罪符”にして、パレスチナ人に対する抑圧と迫害を正当化するイスラエルのシオニストたちへの筆舌しがたい疑問と怒りを抱いている者たちに、明確な1つの答えを活字化して提示してくれる本書は、溜飲が下がるような爽快感を与えてくれる。しかも、著者が敬虔なユダヤ教徒であるがゆえに、「反ユダヤ主義者」の根拠のない誹謗中傷とは違い、実に説得力がある。

 ただ、同じユダヤ人の見解だとしても、そして「世界でベストセラー」になったほどの著書とは言え、果たして、当事者のイスラエル国民(大半はシオニストといえる)にどれほどの説得力を持ち得るだろうか。そして当のイスラエル人に、パレスチナ人に対する対応を一考させるだけの力が果たしてあるのだろうか。ショアーさえ「ユダヤ教徒を改悛に導くために用いられる残酷な手段」とし、ヒトラーのような加害者も「神の懲罰の代行者」とする見解には、イスラエル人に限らず、世界中のほとんど非宗教的ユダヤ人の間に、激しい反発と怒り、憎悪を掻き立てるに違いない。そして「イスラエルの“敵”への利敵行為」「ユダヤ人同胞への“裏切り者”」といった罵言を浴びせられるか、完全に無視されるのではないかと懸念する。

 ラブキン氏の「ショアー対するシオニストたちの反応」に関する記述を読みながら、私は「ヒロシマと日本人」のことを思い起こしていた。今年1月、私は『中国新聞』の連載「緑地帯」で、次のような一文を書いた。

 あのガザ攻撃を約90%のユダヤ系イスラエル市民が支持した。彼らは「イスラエル南部は長年、ガザからのロケット弾攻撃にさらされながら耐えてきた。もう我慢の限界だ。ガザ住民は今、その報復を受けているんだ」と攻撃を正当化する。だが、彼らに全く見えていないことがある。「パレスチナ側のテロとイスラエル側の報復」「暴力の応酬と悪循環」という“現象”ではなく、パレスチナ側を攻撃に駆り立ててしまう“占領”というパレスチナ・イスラエル問題の“構造”だ。自分たちが“占領”によってパレスチナ人を踏みつけ続けている現実に、大多数のイスラエル市民は目を背け続けているのである

 なぜイスラエル人には加害の認識がないのだろうか。「国民は事実を知ってはいるが、“痛み”を感じないのだ」と言うのはホロコースト生存者を父に持つ、エルサレム市議会議員メイル・マーガリット氏だ。“痛み”を感じさせない“心の鎧(よろい)”が「ホロコースト・メンタリティー」だと氏は指摘する。「自分たちユダヤ人は史上最悪の残虐を受けてきた最大の犠牲者なのだという意識が、自分たちが他者に与える苦しみへの『良心の呵責(かしゃく)』を麻痺(まひ)させている」というのだ。私自身、現場で「2度とホロコーストを体験しないために、少々の犠牲は仕方ない」と、パレスチナ人への加害を正当化するイスラエル人の声を何度も聞いた。

 真の被害者たちを置き去りして、「自国民が受けた被害は特別で、他の被害とは比較にならない」と主張し、自国の被害を加害の現実と歴史の“隠れみの”にする例は、何もイスラエルに限ったことではない。“ヒロシマ”もまた、日本の加害歴史を否定する勢力によって“隠れみの”として利用されてきた一面があると指摘する声は、日本の侵略で何千万人ともいわれる犠牲を強いられたアジアの人たちの中に少なからずある。また、日本の平和主義が「被害者としての自覚に支えられた」(政治学者・藤原帰一氏)という指摘もある。つまり加害の視点が加わると、その「平和主義」の基盤が揺らぐのだ。“ヒロシマ”の弱点も、まさにそこにあるような気がする。(『中国新聞』コラム「緑地帯」より)

 もちろん「ホロコースト」と「ヒロシマ」は同じではない。歴史的な時代背景も、問題の起源も、さらに問題が続く長さもまったく異なる。大きな違いの1つが、前者が「『ポグロム(ロシアにおけるユダヤ人迫害)』や『ホロコースト』に象徴される“被害”の後にパレスチナ人に対する“加害”が起こり、後者ではアジアへの侵略・略奪・殺戮という“加害”の後に、原爆投下という“被害”を被ったことだ。つまり前者では、その“加害”の後ろめたさを打ち消す“免罪符”として、その以前に起こった“被害”を持ち出すことが容易であったが、後者では“加害”を正当化する根拠がほとんどなく、無理に持ち出そうとすれば、せいぜい「欧米諸国による“経済封鎖”の包囲網のなか、アジア進出は日本が生き延びる唯一の道だった」「欧米諸国による植民地化からアジアを解放し大東亜共栄圏を創るためだった」というこじつけの「大義名分」ぐらいで、他国とりわけアジア諸国にはほとんど説得力がない。ただ“被害”と“加害”の順序は逆であっても、“加害”への非難をかわすために、また自らの“加害”に目を背け後ろめたさを感じないための“免罪符”として“被害”が利用されることがあるという点では類似している。 次の記事へ


 日々の雑感 168:ラジ・スラーニの日本滞在(1)

 2010年5月23日(日)

 20日午前、私はラジ・スラーニを出迎えるために成田空港へ向かった。2009年1月、ガザ攻撃の直後に取材で訪ねたとき、ラジはガザにいなかった。だから、2007年秋に私が取材でガザを訪ねたとき会ったきりだから、ほぼ3年ぶりの再会だった。私が空港まで出迎えに来ることを予想していなかったラジは、私をみつけて驚いていた。私たちは抱擁しあった。「アハラン・ワ・サハラン!(ようこそ、いらっしゃい)」。私はラジを抱きしめながらラジにたどたどしいアラビア語で伝えた。

 ラジの双子の子どもたちはエジプト・カイロの郊外でアメリカン・スクールに通っている。ラジの妻アマルも子どもたちと一緒だ。ガザ攻撃が始まる前から、ラジはその家族と共にカイロ郊外にいた。だからラジ自身は、あのガザ攻撃を直接体験していない。「ガザでこれまで起こった惨事はすべて現地で体験してきたが、こんな大惨事を現地で体験しなかったのは今回初めてだよ」とラジは私に言った。それは“人権活動家”としてラジがあれ以後ずっと引きずっている“悔い”であり、“後ろめたさ”だろう。

 身近な家族からはこんな緊急時に現地にいないラジに対して厳しい声も起こったことを、成田から東京へ向かうバスの中でラジは私に語った。多感な16歳の息子と娘が、テレビ・ニュースでガザ攻撃で多くの住民が殺傷されている映像を泣きださんばかりの表情で観続けていた。そして、父親のラジに叫んだ。「父さん、私たちの親戚や友だちや知り合いが殺されているのよ! 父さんは人権活動家でしょ? その父さんがなぜあの現場にいないの。裏切り者!」。

 ラジにはいちばん痛い言葉だったにちがいない。「ガザへ今すぐにでも飛んでいきたい。しかし、国境が閉鎖され、それもままならない。自分の親族が、自分のスタッフが、そして同胞たちが猛爆撃にさらされている。なのに自分と家族だけが安全な場所にいる……」。そんな思いにラジは苦しんだにちがいない。

 しかし一方、ガザの外にいたからこそ、ラジは“ガザ住民のスポークスマン”として役割りを十二分に果たすことができた。ガザ攻撃中、そしてその後も、ラジはヨーロッパなど海外を飛び回り、現地のパレスチナ人権センターのスタッフたちから刻々と伝えられるガザの惨状を訴えて回った。ラジの海外での知名度、そのアピール力、そして何よりもそうせざるにいられない“内から衝き動かす力”において、彼に勝る“ガザ住民のスポークスマン”はいなかった。またそうすることが、自分がこんな大惨事を同胞と共有していない“後ろめたさ”“悔しさ”を振り払うために、当時のラジにできる唯一の行動だったにちがいない。

 ラジにとって、意外だったのが子どもたちのガザ攻撃に対する反応だった。ガザ攻撃の映像に居ても立ってもいられず、「ガザに今すぐ戻りたい! 攻撃に苦しんでいるあのガザの人たちといっしょにいたい!」とラジに訴えたというのだ。いつもはおとなしい息子と娘が、自分たちが通うアメリカン・スクールでガザ攻撃に抗議し惨状を訴える運動を始めた。ガザで10代半ばまで過ごしてきた子どもたちのなかに、間違いなく“ガザ人”として“血”が流れていたのだ。そのことを私に語るラジは、とても誇らしげだった。

 数年前、ラジ家を訪ねたとき、ラジと奥さんから相談を受けたことがある。当時、ラジ夫妻は双子の子どもたちをガザ市のアメリカン・スクールに通わせるかどうか言い争っていた。「ドイはどう思う?」と聞かれた私は、否定的な意見を述べた。「ラジ、以前、あなたが自分の少年時代を私に語ったとき、『自分が通う学校の同級生たちは大半が難民キャンプ出身の子どもたちで、彼らの貧困と劣悪な生活環境を目の当たりにすることで“パレスチナ人”の歴史と現状を肌で知った』と教えてくれたね。私は、あなたの子どもたちにも、そのように“パレスチナ人”になる体験が必要だと思うよ。もし、自治政府の高官や金持ちのビジネスマンの子どもたちだけが通う学校で、例外的に恵まれた特権階級の子どもたちとばかりつきあって、“難民”や“庶民”の生活や心情に触れる機会がないと、“人権活動家ラジ・スラーニの子ども”にふさわしい“ガザ人”には育たないのではと心配だよ」。

 結局、ガザの封鎖などで生活環境が悪化しイスラエルの攻撃も激しくなった数年前から、子どもたちはカイロ郊外の街でアメリカン・スクールに通い始めた。私は子どもたちが“ガザ・パレスチナ人の庶民感覚”を失ってしまうのではと懸念した。しかしラジの子どもたちは、“ガザのパレスチナ人”だった。10数年のガザ生活のなかで、皮膚感覚として習得していたのだ。ラジは、そのことがなによりもうれしかったのだ。

 カイロ郊外で暮らし始めた家族と過ごすために、これまでガザに根付いていたラジが、片方の軸足をエジプトに移しガザを離れて暮らすことが多くなったことを、私は正直言って懸念していた。「ガザ攻撃中のガザ不在」に象徴されるように、ラジ自身が“ガザの人権活動家”でなくなってしまうのではないかと。

 以前、国連の人権部門の責任者としてベイルートでの仕事をオファーされたとラジから聞かされたとき、私は「もしそれを受けてベイルートに移り住んだら、もう“ラジ・スラーニ”でなくなる」と強く反対した。私は彼が“ラジ・スラーニ”であり続けるためには、ガザに根付いているべきだと考えている。それは私の願いであるだけではなく、これまで「ガザの現場から人権侵害の実態を世界に向けて発信し続けるラジ・スラーニ」に深い敬意と友情を持ってきた世界のラジの友人たちの思いでもあるはずだ。私はラジに言った。「ラジ、“ガザ”はあなたを必要としているんだよ」。するとラジがこう答えた。「いや、私が“ガザ”を必要としているんだ」。

 子どもたちはあと2年で高校を卒業し、大学に入学する。それがどこなのかわからないが、いずれにしろ、そのときは子どもが親元を巣立つ。そのときラジ夫妻は、再び生活の場を完全にガザに移すつもりでいる。 次の記事へ

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 日々の雑感 169:イスラエルによるガザ支援船攻撃への見解

 2010年6月3日(木)

 「1年半前のガザ攻撃よりさらに深刻なイスラエルの失敗であり、前者以上の代価と痛みを伴う結果になる」──イスラエルの有力紙『ハアレツ』で、ある記者はこの事件についてそう評した。アミラ・ハスと並んで、イスラエルの占領を痛烈に批判し続ける著名な『ハアレツ』紙の記者ギデオン・レビ記者は事件の翌日、「ミニ・カスト・リード作戦(2008年-09年のガザ攻撃)」と題した記事の中でこう書いている。「再び、イスラエルは、これまで予想もしなかった深刻な外交上の代価を支払うことになる。イスラエルのプロパガンダ機構は、洗脳されたイスラエル人のみをかろうじて説得できるだけだ。そしてまた、だれも『これは何のためだったのか。なぜ我われの兵士たちは、パイプを持った者たちの罠にはまってしまったのか。いったいこの事態から我われは何を得たのか』と問いかけることもしないのだ。もしカスト・リード作戦が、世界の我われを見る目の変化の転機だったとすれば、今回の作戦は、現在も明らかに上映され続けているホラー映画の第2弾だ。イスラエルは昨日、第1弾の映画から何も学んでいなかったことを証明してしまった。昨日の事態は防ぐことができたし、そうすべきだった。支援船は通行を許可され封鎖は終結されるべきだったのだ。その封鎖解除はずっと以前に行われているべきだった。封鎖が続いたこの4年間、ハマスの勢力は衰えることもなく、(ハマスに拘束されているイスラエル兵)ギラット・シャリットが解放されることもなかった。つまり(封鎖によって)何1つ成果を得られなかったのだ。そしてその代わりに我われは何を得たのか。イスラエルは急速に、完全な孤立状態に陥ろうとしている。その状態の中で知識人たちに完全にそっぽを向き、平和活動家たちを銃撃し、ガザを外の世界から切り離し、そして今、自らが国際的な封鎖状態に中にいるのだ。さらに昨日、これは初めてではないが、イスラエルはますます(国際社会という)母船との関係を断ち切って離れていき、世界との接触を失っていくように見える。世界はイスラエルのこのような行動を受け入れず、その動機など理解はしないのだ」。

 今回の事件で、イスラエルが被る「外交上の代価」の中でも最も深刻なのは、トルコとの関係だろう。イスラエルにとってトルコはイスラム圏諸国の中で唯一友好関係を保ち、イスラエルにとってイスラム圏への“窓口”また“仲介役”となってきた重要な国であった。そのトルコとの関係は前回のガザ攻撃で悪化したが、今回の事態は、その悪化を決定的なものにした。支援船の多くはトルコから出港し、多くのトルコ人が乗船していた。イスラエル軍が急襲した主船「マビ・マルマラ号」もトルコ国旗を掲げた客船で、死傷した活動家の多くがトルコ人だった。事件直後の国連安保理の緊急会議でも、トルコ代表は「国家テロ」という激しい言葉でイスラエルの行動を非難した。『ハアレツ』紙もトルコ政府との関係悪化を「おそらく最も不吉で、徐々に進む、愚かで集団自殺的な行進」と表現した。

 国際支援団体「フリー・ガザ・ムーブメント」によるガザ支援船の主な目的はもちろん1万トン近い支援物資を封鎖下のガザに届けることではあるが、彼らの本音の目的はもっと深いところにあると私は観ている。彼らもイスラエル海軍が支援船のガザ入りを阻止し、拿捕することは十分予想し、その準備もしていたはずだ。むしろ拿捕され国際的なニュースになることも、彼らにとって重要な目的だったと私は思う。ガザ攻撃「終結」以来、ガザのその後の状況に関するニュースは国際報道の表舞台から消え、攻撃終結以後も続く過酷な“封鎖”の実態はまったく無視され続けてきた。そんな状況のなかで、自分たちの支援船がイスラエル当局によって拿捕され国際ニュースになることで、「ガザでは、武力による攻撃は下火になっても、 “封鎖”という深刻な“構造的な暴力”が延々と続いているという現実に国際社会の目を再び向けさせたいという強い決意があったにちがいないのだ。だから、今回の事件は、9人の人命と数十人の負傷という深刻な代価を払うことになったが、これほどの全世界に激震を与えるニュースとなったことで、この支援船の“使命”は十二分に果たせた。イスラエル軍は過剰反応することで、皮肉にもその効果を最大限に引き出す「引き立て役」を演じたことになる。公海上で、丸腰の人道支援活動たちの船を急襲し多数の死傷者を出すという、誰が観ても信じがたいような愚かな犯罪行為をやってのけたのだから。

 ネタニヤフ首相や各国に散っているイスラエル大使たちがやっきになって、「暴徒に襲われた兵士たちの正当防衛のためだった」と弁明をしているが、そもそも公海上で丸腰の人道支援活動たちの船を武装兵士が急襲すること自体が理不尽で国際法に違反する重大な犯罪であることは誰の目にも明らかだ。その弁明は誰の耳にも「苦し紛れの陳腐な言い訳」にしか聞こえず、まったく説得力がない。

 この重大な事態に、私たちは何をすべきなのだろうか。私は、3年ほど前、ビルマ民衆による民主化デモの最中に起こった日本人ジャーナリスト・長井健司さんの射殺事件を思い起こす。日本人ジャーナリストが射殺されるという事件によって、日本のメディアは一斉に“ビルマ”に目を向けた。いや正確に言えば、「日本人ジャーナリストの死」という事件に群がったのだが。それでも、それに付随するかたちで“背景”として“ビルマ”の現状も一部伝えられ、多くの日本人がその独裁政権下の過酷なビルマの現状の一片を知る結果となった。もし長井さんの死がなければ、“ビルマ”の現状に触れる機会のなかった日本人は少なくなかったはずだ。

 しかし、その後、ますます“長井さんの死”が日本での報道の中心となり、“ビルマ”の民主化デモのその後はほとんど伝えられなくなった。象徴的な一例が、NHKニュースでも長井さんの葬儀がトップニュースとして報道される事態だった。一方ビルマでは、民主化デモの先頭に立っていた僧侶たちへの当局による弾圧の激しさがピークに達していた時期だったのが、その現実は「長井さん報道」の陰に隠れて、ほとんど報道されなかった。
 長井さんは、日本人に“ビルマ”に目を向けさせる“人柱”の役割を果たしたと私は思う。だから長井さんがその死によって「英雄」に祭り上げられ、報道がそれだけに集中し、“ビルマ”の現状の報道が疎かになるとすれば本末転倒である。それは、“長井さんの死”を生かすことにはならないはずだ。

 今回の事態でも、人道活動家9人の死と数十人の負傷への国際非難が集中し、彼らがそこまで犠牲を払って国際社会に訴えようとした“ガザ封鎖”という“占領”の実態へ国際社会の目を向けさせ、これを解除する方向へと国際世論を高めえないとすれば、“人柱”となった彼らの犠牲を無駄にしてしまうことになる。私たちが彼らから引きつがなければならないのは、“ガザ封鎖”の現実を国際社会に訴え、状況を変える空気を作っていくことである。

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 日々の雑感 170:ラジ・スラーニの日本滞在(2)

 2010年5月26日(水)

 来日の1ヵ月ほど前に私がカイロのラジに国際電話をしたとき、彼は「心身ともに疲労している。日本で緑と新鮮な空気を体験して、頭と身体をリフレッシュしたい」と私に吐露した。昨年のガザ攻撃以来、ラジはヨーロッパなど世界各地を駆け回りパレスチナ人の惨状を訴え続けてきた。その肉体的・精神的な疲労がもう耐えがたいまでにラジの中に蓄積していたのだろう。

 私は、招聘する「ヒューマンライツ・ナウ」やラジと日程を調整し、予定の講演ツアーを終えてから2、3日、まったく仕事から解放し、ラジが最も望んでいる緑と水の自然の中で身体と心を休ませる時間を作る計画を立てた。7年前、初めて来日にしたとき、ラジが最も感激したのは、京都東北部の山中の緑の中の散策と偶然みつけた渓流だった。いずれもほとんど目にする機会のないガザ地区で生まれ育ったラジにとって、まったく別世界だったにちがいない。ラジを休ませるのなら、緑と水に恵まれた場所しかない。

 私はラジ来日前に、彼が最もくつろげる場所の候補をいろいろ考えてみた。八ケ岳山麓、安曇野、富士山麓、上高地……、そして最終的に選んだのは岩手県の八幡平(はちまんたい)だった。昨年夏、私と妻は、元NHK社会部記者の大治浩之輔氏の別荘に招かれた。その周辺の緑の美しさ、とりわけ八幡平山頂周辺の湖の澄んだ水と草花の美しさに私たちは魅了された。そして何よりも大治浩之輔氏にラジを会わせたいと願った。水俣報道、ロッキード事件報道などで、退職されて長年経た今なおNHK内外で伝説的な名記者として名を知られる大治氏の、会う人を魅了する見識と人間性にラジにも触れてほしいと願った。また奥さんの朋子さんの優しさと明るさも、ラジをきっと和ませるにちがいないと思ったのだ。

 私たちの旅に、今年、東大大学院生となった鈴木啓之さんが同行した。東京外大アラビア語科に在籍中の4年前から私の元にボランティアとして通っていた彼はパレスチナ問題に強い関心を持ち、2年前には独りでヨルダン川西岸を旅した。卒業論文もパレスチナ問題をテーマに選び、外大で優秀論文に選ばれた。“パレスチナ”の研究者をめざし大学院に進学した彼を、ラジ・スラーニに出会わせておきたいと思った。おそらくこの機会を逃せば、パレスチナを代表するオピニンリーダーであるラジと出会う機会もないだろうし、ラジと出会うことが彼の“パレスチナ”研究の強い動機づけになるにちがいないと思ったからだ。

 来日した当日から6日間、ラジの講演・取材スケジュールはぎっしりと詰まっていた。あまりの過密さにラジが倒れないかと不安になるほどだった。前日もホテルに戻ったのは夜中の1時を過ぎていた。しかも疲労のためか風邪をひき、その夜はほとんど眠れなかったという。しかし、狭苦しいホテルの1室で独り休ませるより、一時も早くラジを緑の中でくつろがせてやりたかった。予定通り、私たちは午前9時前に彼をホテルまで出迎えに行き、10時前の盛岡行き東北新幹線に乗り込んだ。当初、座席で眠りこんでいたラジも、仙台を過ぎたあたりから車窓に広がる、田植えを終えたばかりの水田とその背景の新緑の山並みの光景に見入っていた。私が東北を選んだ理由の1つは、この車窓の田園光景をラジにどうしても見せたかったからだ。「ツーマッチ・グリーン!」。ラジは車窓に見入りながら感嘆の声をあげた。

 盛岡の駅には大治夫妻とその長男の嫁ミッセールさんが出迎えに来てくれていた。ミッセールさんはアメリカ生まれの日本人で、海外生活が長く、英語とフランス語を自由にこなすバイリンガルだ。日本に来た十数年前は片言だったという日本語もいまでは完璧である。彼女が通訳を引き受けてくれるというので、通訳に自信のない私と鈴木さんはほっとした。駅にはレンタカーで借りた8人乗りの快適なバンが用意され、大治さんの友人で八幡平周辺を知り尽くした田村さん(あだ名は「クマさん」)が運転を引き受けてくれた。このクマさんはこの周辺のスキー場でインストラクターをやっていた人で、かつて現皇太子にスキーを教えたことがあるという。ラジがそのことをおもしろがり、彼に「ロイヤル・ドライバー」とあだ名をつけた。もう2人同行者がいた。かつての地元の藩主の子孫である田村さんとその奥さんである。運転手の田村さんと区別するため、この藩主の子孫は「お殿様」とあだ名されていると大治氏が教えてくれた。言われてみれば、その顔の気品はまさに「お殿様」である。血筋は争えないものである。

 私たちは盛岡一のそば屋さんでの昼食に招かれた。ラジは、そばはもちろん初めて体験する食べ物である。しかし世界のどこに行っても「cultural experience(文化的な体験)」をモットーとするラジはどんな食べ物にもチャレンジする。麺を箸で器用に口元へ運びすすったラジは、「おいしい」とにっこり笑った。その言葉通り、ざるそばを全部平らげた。大好きな日本酒もその食欲をそそったようだ。ラジを接待して助かるのは、何でも食べてくれることだ。豚肉、アルコールなど、「敬虔なイスラム教徒」なら絶対に口にしないものもまったく問題がない。「一番おいしい食べ物は、まだ食べたことのない食べ物だ」というのもラジのモットーである。

 外はあいにく小雨だった。東京では20度近くあった気温も、北国の盛岡では4度ほどしかない。大治夫妻はラジの体を気遣い、毛皮付きのコートを用意してくれていた。夫妻がラジを案内する計画を立てていた葛巻(くずまき)の山中にある白樺林周辺は、雨で気温は2度だという。しかしこの機会を逃すわけにはいかない。私たちは計画を強行することにした。車は盛岡市の北東数10キロ、葛巻へ向かった。車が山中を走る道路を登り始めると、沿道の緑、そして目の前に迫る山の緑に囲まれた。しかし単色ではない。深い緑の中に芽吹いたばかりの新緑の葉が明るい黄緑となって点在している。それにも濃淡がある。何十種類もの緑が我われに迫ってくるのだ。「ツーマッチ・グリーン!」。ラジはまた何度も感嘆の声をあげた。小雨の中、私たちは白樺林の小道を歩く。寒さで霧がたちこめるなか、緑に映える白い幹。こんな幻想的な光景を初めて目にし、気温2度前後の寒さにも関わらずラジは嬉々としている。八幡平の山麓にある大治氏の別荘についたのはもう7時過ぎ。外は真っ暗だった。この家は八幡平から湧き出る温泉がついていて、一日中温泉湯を楽しめる。もちろんラジにとっても温泉は初めての「cultural experience(文化的な体験)」である。私はあらかじめ、湯に入る前に外で体を洗うこと、熱い温泉湯を水で薄め温度を調整することなど基本的なことを教えてラジを浴室の中に入れた。だが、なかなか出てこない。30分ほど経って、中で倒れたのではないかと心配になり、外から声をかけたら、ちょうど上がってきたところだった。珍しい温泉湯に何度も頭ごと身体を沈め、プールに入ったように楽しんでいたというのだ。山菜料理など東北ならでは郷土料理にも、ラジの食欲は旺盛だった。もちろんおいしい東北の酒の杯を何度も口に運びながらだが。 次の記事へ

 日々の雑感 171:ラジ・スラーニの日本滞在(3)

 2010年5月27日(木)

 今回の東北の旅の中でも、この朝の体験は、ラジにとって忘れ難いものになったにちがいない。山中のブナ林の入り口で車を降りた私たちは、昨日買ったばかりの長靴をはいて林の中に入った。この林は原生林ではなく、一度原生林を切り倒した後に人工的に植林したブナの林、つまり二次林だ。それでも2、3メートルほどの間隔で高くそびえ立つブナの木々が延々と続く林は荘厳である。聞こえてくるのは鳥の鳴き声と下草を踏みしめる私たちの足音だけだ。ブナの幹は大量の水を吸い上げ、その音が聞こえるという大治氏の説明に、ラジはその太い幹に耳を押しあてた。林を抜けると草原だった。そこに清流をたっぷりたたえた渓流があった。7年前も京都の山奥で渓流をみつけたラジはしばらくそこを離れず、じっと流れをみつめていた。ガザでは絶対に目にできない光景である。ラジは清流に長靴の足を踏み入れた。少年のようにはしゃいでいる。

 草原には湿地沼が点在し、そこに水芭蕉が顔を出していた。ふたたび林に入った。奥から激しい水の音が聞こえてきた。滝だ。これもラジにどうしても見せたい光景だった。住民が水不足に苦しむガザで暮らすラジは、清流がふんだんに流れ落ちるその滝をどういう思いでみつめていたのだろうか。水しぶきを上げる滝をみつめたまま、ラジはしばらくその場を離れようとしなかった。

 私がラジの休息の場所として八幡平(はちまんたい)を選んだのは、八幡平山頂の湖と湿地帯の散策をさせたかったからだった。私たちはその山頂に向かった。しかし、途中から深い霧に見舞われ、やっと着いた山頂近くは雪で覆われていた。しかも背丈をはるかに超える積雪である。もちろん私が見せたかった湖も雪に埋もれ、湿地帯の散策など望みようもなかった。雪の上に立つラジの記念写真を撮ると、すごすごと帰路についた。「この季節の日本でラジに雪をみてもらうのも一興ですよ」と、悔し紛れと負け惜しみを吐きながら。

 1日半の短い東北の旅だったが、ラジは十二分に楽しみ、リフレッシュできたようだった。これは一重に、何日も前から旅の計画を立て、万全の準備でラジを迎え入れてくれた大治夫妻とミッセールさん、それに仕事を休んで運転を引き受けてくれた「ロイヤル・ドライバー」の「クマさん」、最高の旅コースを案内してくれた「お殿様」たちのお陰である。ラジが帰りの新幹線の中で私に言った。「これほどの自然と、そしてこれほどの暖かいもてなしを体験したことがない。一生忘れられない思い出だよ」。 次の記事へ

 日々の雑感 173:ラジ・スラーニの日本滞在(4)

 2010年5月28日(金)

 昨夜8時過ぎに横浜駅からタクシーで我が家に着いた。ラジにとって初めての我が家の訪問である。私と幸美の最初の「デート」は、2002年2月、ラジが所有するオレンジ畑だった。ラジが私をそのオレンジ畑に案内するというので、当時、ガザ市内のアトファルナ聾学校でボランティアをしていた彼女を誘った。特別な感情があったわけではなく、せっかくラジの畑へ案内してもらうのだから、もったいない、誰か他に同行できる人はいないかぐらいの軽い気持ちで誘ったのだが。帰国後に私たちのつきあいは始まったが、2人でガザを再訪したとき、付き合っていることを知ったラジが、「ガザで結婚しろ」と迫った。私は「ガザでの結婚式では家族や親族は呼べないから、もしあなたが日本に来れば、結婚するよ」と流した。まさかそんなことが実現するとも思わず、執拗に迫るラジをかわすための言い訳だった。しかしその翌年、ラジが講演のために、ほんとうに来日することになった。それで私たちはあわてて結婚の準備を始めた。2003年7月、講演旅行を終えてラジが離日する前日に、私たちは留学生会館の食堂ホールを借りて手造りの結婚式を挙げた。もちろん主賓はラジである。私たちの出会いのきっかけをつくってくれたラジが、私たちの結婚式に立ち会い、祝福のあいさつをしてくれる──私たちにとって最高のセレモニーだった。

 あれから7年。私たちの結婚生活はなんとか続いている。その私たちの家に“仲人”のラジを初めて迎える。それは私たち夫婦にとって感無量の“出来事”である。「ベイティ・ベイタック!(「私の家を、あなた自身の家だと思ってくつろいでください」という意のアラビア語で、親しい客を招き入れるときに使う)」と言って私はラジを家に招き入れた。幸美が寿司やおでんなど、ちょっとバランスを欠いた、数品の日本料理をラジのために用意してくれていた。もちろんラジが大好きなおいしい日本酒も。私たちはこの7年間に起こったことを語りあった。ラジが日本を再訪するまでの7年間、私たちが夫婦であり続けることができたのは奇跡に近いと私が言うと、「それは、すべてユキミのお陰だよ。君は彼女に感謝しなければ」とラジが私を諭した。

 我が家からは横浜市のシンボル、ランドマーク・タワーなど街の夜景も楽しめる。ラジにこの光景を見せるために、隣で建設が決まっていた集合住宅の建設工事の開始時期を無理やり延ばしてもらった。我が家の風呂の湯に入ってくつろいだ、ほろ酔い気分のラジは、それでも夜遅くまでガザのオフィスとのメールの交信を続けていた。夜中過ぎ、ラジは我が家唯一の日本間で畳の上に敷いた布団に入った。2度の来日で彼が畳の上で寝るのは初めてだろう。枕元の床の間に、幸美が生花を飾っていた。日頃は何も置かれない殺風景な床の間も、今日はラジのために精一杯華やいでいる。 次の記事へ

 日々の雑感 174:ラジ・スラーニの日本滞在(5)

 2010年5月28日(金)[2] ラジ、徐京植氏と会食

 28日夕方、ラジと私たちは横浜中華街で徐京植(ソ・キョンシュク)氏と会食した。徐氏は7年前にNHKハイビジョン・スペシャル番組「響き合う声」のなかでラジと対談した。沖縄・佐喜真(さきま)美術館に展示されている故・丸木位里(まるき いり)/丸木俊(まるき とし)さんの作『沖縄の図』の絵の前で、2人は、その4カ月前にカイロで行われたラジとエドワード・サイードとの対談を受けて、ディアスポラ(離散者)のアイデンティティ、植民地主義などをテーマについて語り合った。パレスチナ・イスラエル問題を超えた普遍的なテーマについての深い対話はしかし、地上波でも衛星放送でも再放送されず、“幻の名作”となった。この番組のディレクターが番組の最後に、当時議論となっていた日本政府の自衛隊イラク派遣に言及したことがNHK上層部の檄鱗に触れたことが理由だといわれている。

 徐さんはパレスチナ・イスラエル問題の専門家ではない。しかし故郷を奪われたパレスチナ人の状況・心情を、“在日”であり、韓国の民主化運動で当局から死刑判決を受け十数年の獄中生活を送った2人の兄を持つ徐さんは、日本人知識人とは異なる、パレスチナ人に対する深く共鳴・共感する鋭い“感性”を持った知識人である。だからこそ、7年前、NHKのディレクターはラジの対談相手として徐さんを選んだのだろう。中華料理を囲んだ個室で、7年ぶりの2人の対話が実現した。なかでも私にとって印象深かったのが、国連事務総長、バン・キムンの評価だった。国連は、パレスチナ人住民に無差別の攻撃を繰り返し、国連本部さえ攻撃し多くの支援物資を破壊したイスラエルを表面上は非難しながらも、実際には、アメリカやイスラエルの意向を超えた行動はほとんど起こさなかった。ラジはガザ地区のUNRWA(国連パレスチナ難民救済事業機関)の責任者から、その実態と、現場のUNRWA職員たちの苛立ちと怒りを聴かされたことを初めて語った。国際政治の世界、そして国際機関においても本音と建前の使い分けが平然と行われている現実を思い知らされた。

 最後の夜を、ラジはおいしいい中華料理と中国の酒を口に運びながら、心を開ける知識人と心ゆくまで語りあった。帰りのタクシーの中でラジが言った。「徐さんをガザへ呼びたい。ガザで彼も参加するパレスチナ問題の国際シンポジウムを開きたい。ガザが無理なら、ヨルダン川西岸でもいい。ヨーロッパの街でもいい。ぜひ徐さんに来てもらいたい」。ラジは、パレスチナ問題の専門家でもない徐京植さんに、自分と同質の“感性”を感じ取ったのだろう。

 その夜、私はラジに1つの映像を見せた。2002年1月、私がラジの半生について十数時間のインタビューを撮影していたとき、その合間に訪ねたラジの実家での映像である。それは数年前、世を去ったラジの母親へのインタビューだった。幼少期、少年期、青年期のラジはどんな息子だったのかという私の質問に、アラビア語で答える母親の姿。日本で、亡き母親と再会することなど予想もしていなかったラジは、椅子に深く背をもたれ、じっと見入りながら、目がしらを押さえた。 次の記事へ

 日々の雑感 175:ラジ・スラーニの日本滞在(6)

 2010年5月29日(土)

 早朝、ラジはカイロの妻からの国際電話で起こされた。ラジはエジプトに戻るとき、必ずその時間と便名をエジプト政府の治安当局に通知し許可を得なければならない。エジプト当局にとってパレスチナの人権活動家ラジ・スラーニは「要注意人物」なのである。その通知と許可申請をカイロの奥さんが一手に引き受けている。今朝の電話は帰りの便名の確認のためだった。もしこの通知を怠れば、ラジは空港からガザへ「強制送還」されることになる。昨日は、ガザのパレスチナ人権センターのスタッフとの長い電話の中で、ラジは珍しく激昂していた。電話を終えたラジが、その事情を私に語った。ラジたちパレスチナ人権センター(PCHR)はガザを実効支配するハマス政府が独断で決めた死刑制度について、公に抗議する声明文を出した。これに対し当局は、ハマス系の新聞の記事を通じて、PCHRとラジに対する攻撃を開始したという報告をスタッフから受けたのだ。その直前には、イスラエル当局が公表した数十ページにおよぶパレスチナの治安状況に関する報告書なかで、PCHRが国際的にイスラエルのイメージを「歪め」「偽りの情報を流布する」重大な役割を果たしている「危険な組織」として明記されたという。「私はイスラエルからはもちろん、エジプトからも、そしてハマスからも嫌われているよ……」。沈んだ顔つきで、ラジには珍しく吐き捨てるように言った。四面楚歌の状況に置かれ、ラジは相当、精神的に参っているようだ。

 1995年春、当時のパレスチナ自治政府(PA)のアラファト議長が軍事裁判の設置を決めた。ラジが率いる人権団体が公に抗議声明を出した。これにアラファトは激怒し、ラジを逮捕した。パレスチナ内外からの激しい抗議に屈して自治政府は直ちにラジを釈放したが、その後、人権団体の理事たちに圧力を加え、ラジをその人権団体から解雇した。スタッフたちはその理不尽な解雇に抗議してほぼ全員が辞表を提出し、ラジと行動を共にすることになった。今後どうするかをラジの事務所で彼を囲んでそのスタッフたちが話し合った。私はその現場に居合わせ、話し合いを撮影した。その話し合いの結果生まれたのが、現在のパレスチナ人権センター(PCHR)である。あれから15年の歳月が流れたが、あの時と同じような状況がラジとPCHRの周辺で生まれつつある。

 最後の日は、ラジは私の家にこもり、今回の日本訪問の報告書をガザのオフィスに書き送ったり、山積した諸問題の対策のために現地スタッフたちとの電話とメールでのやりとりに追われた。帰国準備に追われるラジが私にこんな話をもちかけた。「日本から若い学生か研究者をガザのPCHRに『インターン』として送ってくれないか。そのための経費はPCHRがいっさい持つ。数ヵ月でも1年でもいい。人選は君に任せる。君が適切だと選んでくれたら、その青年を引き受けるから」。ラジは、ガザの現状を直接、日本に伝えてくれる若い人材を求めているようだ。私も賛成だ。将来、パレスチナ・イスラエル問題の研究者を目指す若い人たち、または国際法や国際人権法を現場で学びたい学生・研究者たちが、ガザの生々しい現場で、ラジ・スラーニや彼が率いるパレスチナ人権センターのスタッフたちに鍛え上げられながら、現場で生きる人びとたちの現実とその思いを五感で感じ取り、身体に刻み込む機会を得ることは他では望みようもない貴重な体験となるし、それがまた研究を続けていく上で、自分を支える揺るぎない動機となると思う。とりわけ日本では、パレスチナ・イスラエル問題、中東問題の研究者、専門家と言われる人たちの中に、現場、とりわけ住民の等身大の姿を肌で知っている人がもっと増えるべきだと私は感じている。“現場”に根差す研究者が多く出てくることは、そのレベルを上げる上で不可欠だと思う。こういう私の意見に、「現場での取材に頼り過ぎ、ミクロな現象しか捉えらず、マクロの視点のないジャーナリストとは、研究者や専門家は違うのだ」という反発もあろう。しかし過去の歴史事実の研究ならともかく、同時代に現在進行形で起こっている現場での事件や事象をメディアなど公の場で「解説」「論評」する専門家と言われる人たちが、現場の“人”や“空気”を肌で知らないで、海外の新聞・テレビ報道、インターネットなどからの情報、論評など第2次資料を元に、まるで雲の上から下界を見下すかのように語るのは、あまりにも無謀である。何よりも、“流れ”を読み違え、“現場”の実態や現実、問題の核心や本質からは大きくズレた「解説」を大衆に伝えてしまうことになる。日本にも、“現場”を身体で知る研究者がもっとたくさん出て来てほしいと願っている。その1つの機会として、パレスチナ人権センターでの「インターン」制度を活用するのは有効だと私は思う。

 ラジは、休息を取って元気を取り戻すと、電車やタクシーなどで移動中も、とにかく近くに話しを聴いてくれる相手がいれば、語らずにはおられない。今回も数日、彼と過ごすなかで、これまで20数年の長い付き合いの中でも決して聞くことのなかったいろいろな事柄ついて、ラジは私に語ってきかせた。仕事のこと、ガザの状況についてはもちろん、子どもたちや奥さんのこと、世界各国に散る友人たちのこと、各国での講演旅行での数々のエピソード、父親や母親など家族との過去の思い出などその話題は尽きない。帰りの成田までの電車の中で、ラジが興味深い話を私に語って聞かせた。それはラジがアメリカ・コロンビア大学の特別研究員としてニューヨークに滞在中の1990年代初頭の頃の話である。

 雪が舞うある冬の日の夜、午後11時を過ぎてから、近くに住むエドワード・サイードから電話がかかってきた。著名な在米パレスチナ人思想家サイードは、コロンビア大学の教授で、ラジがニューヨークに住み始めて以来、同じパレスチナ人として親交を深めていた。そのサイードからの深夜の電話である。「ラジ、今君は忙しいかい?」とサイードは訊いた。「別に忙しくはないが、どうして?」とラジが訊き返すと、「よかったら、私の家に来ないか。飲みながら君と話がしたんだ」とサイードが言う。「でもエドワード、もう夜中だよ。しかもそれは雪が降っているし……」とラジはやんわりとサイードの申し出を断った。「そうか。残念だなあ」と言って、サイードは電話を切った。横で電話の会話の一部を聴いていた妻のアマルが、ラジに訊いた。「誰から?」と訊くアマルに「エドワードだよ」。「それで何だって?」。「これから家に来ないかって。でももう遅いからと断ったよ」とラジが答えると、アマルは突然、大声をあげた。「ラジ、あなたって人はなんて馬鹿なの! エドワードは、なぜこんな夜中にあなたに電話をしてきたと思っているの? 彼は今、あなたと話がしたいのよ。今、彼はあなたを必要としているのよ。なぜそれがわからないの。今すぐにエドワードのところへいってらっしゃい!」。それは有無を言わせない強い調子だった。そのアマルの言葉の勢いに押されるように、夜中、ラジは雪の中をタクシーでサイードの自宅へ向かった。

 夜中にわざわざやってきたラジを、サイードは喜んで迎え入れた。2人は酒を飲み交わしながら、いろいろなテーマについて語り合った。話題は宗教の話になった。「君は神の存在を信じるかい?」とラジはサイードに訊いた。すると、サイードは「それを“神”と呼ぶかどうかは別にして、私は自分の運命を支配する何か大きな存在があると感じるんだ」といった旨のことを語った。話はさらにイスラムについて議論に移った。その具体的な内容についてはラジは語らなかったように思う。いや語ったのかもしれないが、私の記憶にない。ジャーナリストなのだから、カメラを取り出して記録すべきところだが、そのときはどうしてもそんな空気ではなかったし、また私自身、そんな気分でもなかった。親友ラジとの最後のプライベートの大切な時間を“仕事”の時間にはしたくはなかったのだ。午後8時ごろ、成田第一空港南ウィングの出発口に消えるラジを見送って横浜の自宅に戻ったのはもう夜中の12時近かった。 次の記事へ





(私論.私見)