シオニズムとマルクス主義の相似と異質考

 (最新見直し2014.03.25日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 れんだいこがかねがね気になっていた「ネオシオニズムとマルクス主義の相似と異質考」をここでしてみたいと思う。その心は、或る人はマルクス主義だと思い熱心に吹聴しているものが、その実はネオシオニズムの国際主義的反戦平和思想であり、これをマルクス主義の観点から見れば異質であるのに、そのことに気づこうとせず、相変わらずのエセ思想に被れている、と思うからである。

 確かに、ネオシオニズムとマルクス主義は似ている面がある。マルクス自身がこの差異を明らかにしていない面がある。後の公認マルクス主義政党が一様にネオシオニストに操られており、マルクス主義の旗に差し替えてネオシオニズムの旗を振らされ、それを良しとしている。故に仕方ない事情にあるとも云える。だがしかし、今日のようにネオコン的ネオシオニズム全盛時代にあっては両者の区別を画然とさせねばならないだろう。でないと、いつまでも下僕にさせられてしまう。そういう気づきから本サイトを設ける。

 
2005.2.13日 れんだいこ拝


【シオニズムとマルクス主義の相似と異質考その1、国際主義について】
 「ネオシオニズムとマルクス主義の相似と異質考」の最初に取り上げる課題は、「ネオシオニズム的国際主義とマルクス主義的国際主義の相似と異質考」とする。この問題では、例えば「反戦平和思想」では類似している。

 ナチズムの例を挙げれば、ヒトラー率いるナチスは、マルクス主義者に徹底弾圧を加えたし、ユダヤ人にも公職追放から始まる一連の虐待政策を採った。こういう史実から、両者は、反ナチズムで連帯している。二度とナチズムが台頭復権しないよう呼吸を合わせて「反戦平和思想」を鼓吹している。これは、「ネオシオニズム的国際主義とマルクス主義的国際主義の相似」の面である。

 この反ナチズムの構図は、日本の大東亜戦争観と通底しており、日本では戦前の軍国主義権力批判となる。よって、日本が二度と西欧文明に立ち向かい、それを推進する軍国主義勢力が台頭復権しないよう呼吸を合わせて「反戦平和思想」を鼓吹している。これは、「ネオシオニズム的国際主義とマルクス主義的国際主義の相似」の面である。

 だがしかし、「類似」はここまでである。「ネオシオニズム的国際主義」は、ネオシオニズムであることにより、ユダヤ文明的グローバル・スタンダードに拠るワンワールド化の一里塚三里塚として鼓吹されている。その「反戦平和思想」は、その為に障害となる各国各地の土着的民族主義的共和国思想を許さない。同時に、あくまで反ユダヤ主義的抗戦に対する糾弾であり、逆にユダヤ権力が為す残虐非道に対しては免責される「反戦平和思想」に過ぎない、という二枚舌になっている。

 「マルクス主義的国際主義」は、本来のマルクス主義である限り、「共産主義者の宣言」の地平に立つ限り、各国各地の土着的民族主義的共和国思想を排撃しない。むしろ、各国の自由、自主、自立的な「反戦平和思想」を基盤にしつつ世界的規模での調整を模索する「反戦平和思想」として存立する。そして、それぞれが当事国の在地土着型革命を指針させている。その上での世界各国人民大衆の協働を要請している。この観点に立たない「マルクス主義的国際主義」を吹聴する党派があるとすれば、かなり「ネオシオニズム的国際主義」に汚染されていることになる。実際には、汚染されっぱなしの諸党派ばかりではあり、そのような運動のみが刻まれているが。

 「マルクス主義的国際主義」に立つ限り、ナチズムに対しても日本の大東亜戦争推進勢力に対しても、これを道義的批判一辺倒では済まさない。その拠って来る政治的経済的原因を解明し、歴史的位相を確定せんと努める。なぜなら、ヘーゲル主義的洞察「現実的なものは合理的であり、合理的なものは全て現実的である」、「自由とは必然性の洞察なり」を踏まえんとするからである。何事も生まれるも衰微するも、理由と根拠があって歴史に登場してきているのであり、それはリアリズム抜きに弁証し得ないと観るからである。

 ところが、現実に、ナチズムにせよ日本の大東亜戦争にせよ、そういう分析にお目にかかることがない。これは何を意味するのか。「ネオシオニズム的プロパガンダ」に乗せられているだけの、それ以上先へは踏み込まない踏み込まさない弱脳政策に拠っているとしか考えられない。まさにシオニストのゴイム政策の掌中にあると云わざるを得ない。もっとも、それで事足りている「反戦平和思想士」にはお似合いのイズムかも知れない。

 簡略ながら思いつくまま記しておく。

 2005.2.13日 れんだいこ拝

【シオニズムとマルクス主義の相似と異質考その2、組織原理について】
 案外知られていないが、シオニズムとスターリニズム的マルクス主義の組織原理は「一枚岩的統制統一主義且つ陰謀的秘密主義」の点で共通している。シオニズムのそれは選民エリート主義から教義的にもたらされているので代わりようがない。それに比して、マルクス主義のそれはいつの間にか密輸入された衣装であるからして剥離が可能である。れんだいこはそのように捉えている。

 「プロレタリア独裁」の本来の理論は「ブルジョア独裁」の対語であり、政治科学上での階級的支配を意味するものであった。「ブルジョア独裁」よりも意図的目的主義的に階級的支配を貫徹させる、という意味合いが込められた統治概念である。

 それがいつの間にか、組織論、運動論に適用され、「プロレタリア独裁」の名の下に「一枚岩的統制統一主義且つ陰謀的秘密主義」的諸原則を生み出していった。いわゆる「民主集中制理論」と「秘密特務機関」による二元支配により、党員及び大衆は党中央に拝跪すべき道具衆として把握されるに至った。そして、政権を取った党中央は、政府を操り、その要人化していった。見事なまでの機関運営主義の破壊を美名の下に成し遂げていった。

 その権限集中制の実態は、まさにシオニズム的ユダヤ王による一元支配体制と酷似している。不審ならば「シオンの議定書」の関連記述で確認すれば良い。つまり、シオニズムとマルクス主義は、国際主義のみならず組織原理でも共通類似の面を持っていることを確認せねばならない。

 マルクスーエンゲルスの時代の世界の共産主義者を束ねる原理はその当初に限ってみれば、自由、自主、自立的結社の寄せ集めを当然としており良しとしていた。その中に決して統制的統一的原理を持ち込まなかった。と、れんだいこは理解している。主としてアナーキズムとの競合関係の中で、次第に理想通りには運営されなくなったようにも理解している。それは恐らく、近世ルネサンス以降の政治的民主主義論に対する斜交いに構えた理解による安易なる否定精神があったせいのように理解している。

 しかしながら、マルクスーエンゲルスの時代においては、ロシア10月革命以降のスターリニズム的ボルシェヴィズムに典型的な王朝理論までは是認していなかったであろう。それがいつの間にかスターリニズム的ボルシェヴィズム的マルクス主義が真性のマルクス主義として喧伝され、そしてそれがシオニズム的組織論であるにも拘らず真性のマルクス主義として押し付けられていった。ここに、その流れを汲む現代マルクス主義の悲劇がある、とれんだいこは観ている。

 今一度、スターリニズム的ボルシェヴィズム的マルクス主義を本当の真性マルクス主義から剥離させ、その本当の真性マルクス主義をも有していた「一枚岩的統制統一主義且つ陰謀的秘密主義」面を大胆に改造せねばならない、とれんだいこは考えている。そういう意味では、アナーキズム的結社論とのすり合わせが必要かも知れない。党中央の方針に対してさえ喧々諤々の議論を前提にする組織論が必要という意味である。

 簡略ながら思いつくまま記しておく。

 2005.2.13日 れんだいこ拝

【シオニズムとマルクス主義の相似と異質考その3、歴史的闘争観について】
 ネオシオニズムとマルクス主義は共に「歴史における闘争史観」を保持しているという意味で相似している。案外不問にされているが、諸国での反権力、反政府闘争においてネオシオニズムとマルクス主義は最も戦闘的に闘う。その意味では、「反権力、反政府闘争」だけではネオシオニズムとマルクス主義の識別ができない。

 両者の闘争は、それぞれが目指す闘争の質の差によって識別される。ネオシオニズムは、先だって米国大統領ブッシュが述べたように、「シオンの議定書」で明らかなように、「ユダヤ人のゲットーからの脱出イデオロギーとしての自由獲得闘争史観」に依拠している。その行き着く先に、ユダヤ王ないしその賢人グループによる国際的グローバル・スタンダードによるワンワールド世界の創出が予定されている。

 マルクス主義の場合、「最終一大階級勢力たるプロレタリアートの能力に集約される社会主義ないし共産主義イデオロギーとしての階級闘争史観」により理論武装している。この史観により達成される社会とネオシオニズム的王国支配との差が両者を識別するものとなる。

 この識別は甚だ重要なものと思われるが、現下の過渡期においては、両者は「反権力、反政府闘争」で野合混交している。よって、俗流マルクス主義者は、ネオシオニズムに取り込まれる形で「反権力、反政府闘争」に夢中になっている面がある。れんだいこは、今ほど識別が必要なことはないと考える。

 両者は、「反権力、反政府闘争」の戦略戦術面でも識別される。ネオシオニズムは、各国政府の懐柔的コントロールを得意としており、主として金融支配を通じて次第に政府要人を操り人形化させていく芸を持つ。これに対して、マルクス主義は、この方面の技術を全く持たず、鋭角的に政権奪取へ向けての革命闘争に向う。その反動としての合法主義的議会闘争に向う。ネオシオニズムは、この両方面のマルクス主義をも操る。

 簡略ながら思いつくまま記しておく。

 2005.2.14日 れんだいこ拝

【シオニズムとマルクス主義の相似と異質考その4、理論的教条いわゆるドグマについて】
 ネオシオニズムとマルクス主義は共に「理知主義」的であり、「理論的教条いわゆるドグマ」を打ち立てるというという意味で、相似している。案外不問にされているが、マルクス主義のドグマとシオニズムのドグマは相似系を呈している点で共通している。この感覚を持ちたいと思う。

 但し、ネオシオニズムの秀逸さは、「理論的教条いわゆるドグマ」を墨守すると同時に不断に検証しており、いわば「ドグマ主義の裏返しとしてのプラグマティズム的科学主義」を発達させている。こうして、両ベクトルが背中合わせの関係となっている。他方、マルクス主義の場合、史上に現われたマルクス主義運動を見る限り墨守的で科学的検証能力を持ち合わせていない。この感覚を持ちたいと思う。

 但し、れんだいこが思うに、マルクスーエンゲルスの協働で打ち立てた唯物弁証法史観は本来ならドグマと無縁である筈である。残念ながら、にも拘わらずマルクスとエンゲルス自身が唯物弁証法史観を十分に駆使したとは思えない。その礎石を据えたという水準でみなされるべきではなかろうか。ましてや後続のマルクス主義者レベルになると唯物弁証法史観はおざなりで、むしろ宗教的真理観であれこれのテーゼを弄んでいるような気がしてならない。

 簡略ながら思いつくまま記しておく。

 2005.2.23日 れんだいこ拝




(私論.私見)