ヘンリー・メイコウの「イルミナティ 世界を強奪したカルト」その5

 (最新見直し2010.12.06日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「ヘンリー・メイコウの『イルミナティ 世界を強奪したカルト』その5」を検証する。

 2006.1.14日 れんだいこ拝


 「雑記帳01−0‎ > ‎イルミナテイのTop」の「20、騙したはずのヒトラーが騙された宥和政策 」を転載する。
 1942年12月、ゲシユタポ長官のハインリヒ・ミエラーはヨーロッパ本土でソ連のスパイ網を包囲し、英国におけるソ連のスパイや密告者のリストを手に入れた。それはまるで英国支配者層の紳士録のようで、近代史の真相を明らかにしている。リストが示すところによれば、ヴイクター・ロスチャイルドばかりか、英国の支配者層の大多数がロシアの共産主義を支持し、「協力者」とされていた。こうした協力者のなかに、ネヴイル・チエンバレン政権の外務大臣で、「宥和政策」の中心的立案者だったハリファックス卿エドワード・ウッドがいる。宥和政策はヒトラーに英国がドイツのソ連攻撃を望んでいると思わせるためのものだった。実際、ハリファックスは間接的にソ連共産党と通じており、宥和政策はドイツ(とヨーロッパ)を倒し、6000万人の命を奪うことになる大戦にヒトラーを陥れようとする狙いがあった。ミエラーのリストには、名門金融一族の当主で、「ケンブリッジ・フアイヴ」の一人と疑われるヴイクター・ロスチャイルドも含まれている。興味深いことに、他の4人(パージエス、マクリーン、プラント、フィルビー)がこのリストには載っていない。ちなみに、ハリファックス卿の息子はロスチャイルド家の娘と結婚した。リストには、「安定化の実力者」として、1934年にナチスヘの出資を続けるイングランド銀行の決定に関わったユダヤ系銀行家、チャールズ・ハングローの名前もある。ソ連の協力者だったこの男がナチス支持者でなかったことは明らかだ。また、ロバート・ウエーリー・コーエンをはじめ、ウインストン・チャーチルに資金を提供した反宥和政策派の「フォーカス」グループのメンバーの多くも含まれている。ウエーリー・コーエンはロスチャイルド家が支配するシェルオイルの会長で、英国ユダヤ人共同体の指導者だった。その他の銀行家や実業家としては、オイゲン・スピア、モーリス・ベアリング、レナード・モンテフイオーリ、エドワード・グツゲンハイム、ロバート・モンド、そしてフイリップ・サッスーンがいる。ベアリングを除く全員がユダヤ系である。

 労働党や労働組合の著名な指導者には、アーネスト・ベヴイン、ハロルド・ラスキー、ハーパート・スタンリー・モリソン、ウォルター・シトリンがいる。また、古くからの貴族家系のメンバーとして、リチヤード・クーム・アブデイ、ストラボーギ男爵、レジナルド・プランケット・アーンリ・アール・ドラックス海軍大将も含まれている。さらに、出版界の大御所J・S・エリアスや漫画家のヴイクトル・ワイス、デイリー・エクスプレスの会長ラルフ・D・グルメンフェルトの名前もある。著名な公人としては、外務省の有力派閥のレックス・リーバー、そして閣僚兼枢密院顧問官(1919~1938年)として国家機密のすべてを知っていたモーリス・ハンキー卿がいる。スラヴ研究者のバーナード・ペアーズや法学者のハーシユ・ローターパクトも含まれていた。本質的に異なるはずのこの集団の共通点は何だったのか。彼らの半数以上がユダヤ人であることは間違いない。しかし、彼ら全員を結びつけているのは、おそらくフリーメイソンだろう。走狗として、あるいは自覚した工作員として、彼らの目的は「光の施与者」としてのルシファー(彼らの分身)に捧げるフリーメイソン、即ちイルミナテイの世界独裁の確立だ。今日のブッシュ、クリントン、ケリー、オバマ、マケインなどはいずれもそのメンバーである。ハインリヒ・ミユラーは1983年にカリフォルニアで死んだ。CIAは1948年にスイスでミユラーを雇い、このリストを含む1000ページに及ぶ証言の見返りとして、彼に100万ドルを支払った。ミユラーは、その一部を公開した甥のグレゴリー・ダグラスにマイクロフィルムの文書を残した。
 宣戦布告を正当化するための「おとり作戦」

 イングランド銀行はシユローダー銀行を通じてアドルフ・ヒトラーの台頭に資金を提供していた。シユローダー銀行の最高経営責任者F・C・ティアークスはイングランド銀行の重役でもあった。ユースタス・マリンズによれば、「彼の支持者であるシエローダー家が宥和党の後援をしていたので、ヒトラーは(英国との)戦争は起きないだろうと信じたのであった。ヒトラーは、いまやチエンバレンがヒトラーを欺くという目的に仕えており、宥和党の支援者たちがチエンバレンを退けてチャーチルを首相にするなどとは想像もしなかったのである」(「民間が所有する中央銀行」)。公式とされる歴史は、ヒトラーが愚直なチエンバレンとハリファックス卿を欺いたように描いている。だが、騙されたのはヒトラー自身のようだ。彼は大手を振って東方へ戦線を拡大できると思わされていた。チエンバレンはその秘密に通じていなかった(彼は辞職の数カ月後に「癌」で早死にした)が、ハリファックス卿がソ連への密告者としてそれを助けたのは明らかである。当初から英国の軍備拡張に反対していたハリファックス卿は、ヒトラーの戦線拡大を促し、後にこの独裁者を「真の共産主義嫌い」として賞賛した。実際、ハリファックスは、1937年、ダンツイヒ、オーストリア、チェコスロバキアに関する「ヨーロッパの秩序」の変更をヒトラーに提案した。「ヴエルサイユ条約がドイツに有利なものとして解釈し直されるかもしれない地域の名を最初に挙げたのは、ヒトラーではなくハリファックス卿だった」と、歴史家のアンドリユー・ロバーッは書いている。「ハリファックスはイーデンから止められていたこと、そしてヴアンシッタートが「不安定なヨーロッパ情勢に崩壊をもたらす」と警告していたことをやった。しかも、彼はそれを会談の過程で一度ならず三度もやった」(ロバーツ「聖なる狡猾者‥ハリファックス卿伝」(The Holy Fox: A Biography of Lord Halifax)1991年)。ハリファックスのもっとも親しい相談役は、秘密結社のロスチャイルド=ミルナー=ローズ=ラウンド・テーブル円卓会議(即ちイルミナチイ)のメンバー、ロジアン卿フイリップ・カーだった。ロバーツによれば、ロジアン卿は「ハリファックスの友人で、今日の政治ではめったに見られないような議会外の政治的影響力を持っていた」。宥和政策は、西側の宣戦布告を正当化させる行動をヒトラーに取らせようとするものだった。1939年3月、ハリファックスは「二正面戦争を確実なものにしたい」と述べた。ポーランドヘの英国の無謀な保証が1939年9月の宣戦布告につながったのはハリファックスが原因だった。ソ連もポーランドに侵攻したが、それに対する宣戦布告はなく、スターリンは1941年のナチス攻撃をあらかじめ準備していた。その策略は英国を最初に戦争へと巻き込んでいった。孤立した自由の擁護者としての英国を含めて、1939年から41年にかけて行われた戦争と平和の煩烈なドラマは茶番にほかならなかった。ドイツは最初からずっと照準を当てられていた。今日の米国もそれと同じ立場に置かれているのではないだろうか。宥和政策の賛成派と反対派は、共通の目的を追求するイルミナチイ一族の二つのチームだった。アスター子爵夫人が所有するクリヴデン館は(ナチス寄りの)宥和政策賛成派の本拠とされていたが、ロバーツが指摘するように、ダフ・クーバーやアンソニー・イーデン、ロシアの外相マクシム・リトヴイノフ(旧名メイア・フインケルスタイン)といった主要な反宥和政策派もその常連客だった。
 こうして戦争は創られていく

 戦争は、全世界にその触手を伸ばす悪魔的カルト集団、イルミナチィが意図的に作り出したものである。「ミユラーのリスト」からはこの組織の構成を垣間見ることができる。-あらゆる政治勢力出身の銀行家や実業家、貴族、軍人、学者、労働組合員、そしてマスコミ関係者がいる。そこには多くのユダヤ人がいるが、イルミナチイがユダヤ人を他と同じように犠牲したのは確かである。ユダヤ人は共産主義、シオニズム、そしてナチズムに対する使い捨て要員にされてきたのだ。リストに記載された者のなかには、自分が何を進めているのか知らない者もいただろう。イルミナテイはファシズムに反対し、「平等」を推進するふりをした。今日、彼らは人道主義的な理想郷を築くふりをしている。元世界銀行総裁のジェームズ・ウォルフエンソンは、自身のウエブサイトに「貧者のための財閥」というスローガンを掲げた。イルミナチイが戦争を仕掛けるのは、人類を混乱させ、破滅させて、その権力を強化し、莫大な利益と借金奴隷を生み出すためである。思想や表現を締めつけるこのカルト集団は、まさに現実を定義するものだ。私たちに残された唯一の道は、種々の情報源から真実を見つけ出し、現実を新たに定義し直すことである。

 「雑記帳01−0> ‎イルミナテイのTop」の「21、銀行家が誘導した米国の第二次世界大戦参戦」を転載する。
 1940年6月4日、英国軍がダンケルク海岸からの屈辱的な撤退を強いられると、ウインストン・チャーチル首相は「我々は浜辺で戦い決して屈服しない」と開き直った。チャーチルがこれほど強気な姿勢を見せられたのは、米国が英国を全面的に支援すると密かに知っていたからだ。米国民の大多数は介入に反対していた。しかし、ニューヨーク市で約1000人(殆どが英国人とカナダ人)の手先を雇った英国の「秘密不正工作」は、フランクリン・D・ルーズヴエルト政権の全面的協力とともに民主主義を乗っ取った。こうしてロンドンを拠点とする中央銀行家たちは米国民を今日まで支配しているわけだ。共和党はもともと介入に反対していた。ところが英国のおかげで、1940年6月28日に共和党大統領候補の指名を受けたのは、介入を支持し、徴兵制を支持する無名の「国際主義者」で、一度も公職に就いたことのない長年の民主党貞ウエンデル・ウイルキーだった。米国史上もっとも犠牲の大きな戦争(100万人が死傷し、1990年の貨幣価値に換算して2兆ドルの出費)を前にして、米国民に選択の余地はなかった。反戦を掲げる大統領候補者がいなかったのである。これは2004年や2008年の大統領選を思い出させるものだ。そこには単なる宣伝以上のものが絡んでいた。共和党大会のまとめ役で「孤立主義者」(国家主義者のごまかし言葉)のラルフ・ウイリアムズが5月16日に都合よく急死したため、長年の英国スパイだったサム・プライアーが彼に代わり、「ウイルキーを選べ!」と叫ぶウイルキー支持者とともに大会へ詰めかけた。確かにウイリアムズは70歳と高齢だった。しかし、歴史家のトマス・マールは英国からの命令に殺人が含まれていたと述べ、それが真相だとはのめかしている。トルーマン政権時代にCIAに協力したゲシユタポ長官のハインリヒ・ミユラーも、英国が邪魔な米国人を何人も殺したと証言している。「(ウイルキーの)指名により、フランクリン・ルーズヴエルトは選挙戦の通常のプレッシャーから免れた」と、マールはその過激な著書「絶望的欺瞞‥米国における英国の秘密作戦、1939年~44年」(Desperate Desperation: British Covert Operation in the US,1939-44)1998年)に書いている。

 ウォルター・リップマンはこう書いている。「ウエンデル・ウイルキーの突然の台頭と指名は神意によるとも思われる決定的事件で、自由主義世界の結集を可能にした。彼以外のどのリーダーシップの下でも共和党は英国に背を向けただろう」。もしロバート・タフトのような共和党の国家主義者が指名を勝ち取っていたら、チャーチルはヒトラーと和平を結び、スターリンを見捨てたに違いない。ヒトラーが英国との良好な関係を望めば、ユダヤ人大虐殺も起こらなかったはずだ。第一次世界大戦での愚を繰り返すように、米国の介入はヨーロッパの戦争を拡大し、人類に悲惨な結末をもたらした。イルミナチイの戦略は二正面戦争の長期化によってナチスを敗北させるというものだった。マールはイルミナテイの名に触れていないが、彼の著書はその手口を明らかにしている。それについては後に詳しく述べる。
 ナチズム打倒などまるで眼中になかった中央銀行家

 ロックフエラーとモルガンの帝国は中央銀行カルテルの一部である。最上層部では、あらゆる諜報機関(M16、CIA、モサド、KGB)がそれぞれの国家政府ではなく、このカルテルに仕えている。M16の英国安全保障調整部は、米国を第二次世界大戦へと向かわせるためのイルミナテイの作戦行動を担当した。資金はロックフエラーとモルガン一族によって提供され、場所もロックフエラーセンターの「インターナショナル・ビル」の38階に無償で与えられた。「この場所は活動に都合ぜよかった」とマールは書いている。「介入を促している英国の複数の諜報機関もここに入っていた。英国プレスサービスが44階にあり、英国諜報部の偽装団体「自由への戦い」も同じビルの22階にやはり無料で作戦本部を置いていた」(マール前掲書)。ウエンデル・ウイルキーは数々の民主党大会のまとめ役だった。彼はモルガンに支配された保険会社の社長であり、「自由への戦い」の幹部の一人でもあった。彼の選挙資金はすべてモルガン家と英国諜報部から提供されていたが、草の根の政治活動のように見せかけられた。1940年の選挙戦に負けた後、ウイルキーは国家主義の共和党員への妨害工作を行なうため、フランクリン・D・ルーズヴエルトと密接に連携し、一時はルーズヴエルトの次期副大統領にと考えられていた。ところが、彼の利用価値はそこまでだったようで、ウイルキーは1944年、診察に訪れた病院での「連鎖球菌感染」により52歳で都合よく死んだ。ナチズムの打倒は米国の介入の当面の目的ではなかった。真の目的は長期的かつ破壊的で、金になる戦争を行ない、さらなる権力を彼らの手に集めて、最終的に「世界政府」へとつなげることだった。
 公式の歴史を書くのはいつも「外交問題評議会」

 1930年代、米国民は銀行家がその巨利のためにいかに米国を第一次世界大戦へと誘導したかを思い知った。議会はこれを繰り返させないために一連の法案を可決した。英国の首相ネヴイル・チエンバレンは米国議会を「頑固で独善的な雑魚ども」と呼んだ。イルミナテイは、ルーズヴエルトが米国を戦争に介入させる前に、まず世論を転換させる必要があった。彼らの主な武器は、中央銀行家たちによって所有され、そのカルテルの宣伝に利用されていたマスコミだった。1940年、中央銀行家とその看板役に所有されていた出版社には、ニューヨーク・ヘラルド・トリビユーン、ニューヨーク・タイムズ、PM、シカゴ・サン、コールズ・グループ (ルック)、タイム・ライフ、ワシントン・ポスト、ボルティモア・サンなどがあった。いずれも明確に介入を支持していた。ハリウッドでも戦争宣伝映画が製作された。「美女ありき」や「翼を持つライオン」(The Lion has Wings)の映画製作者アレクサンダー・コルダは英国のスパイだった。英国諜報機関の代弁者として成功を収めたジャーナリストには、ウォルター・ウインチエル、ドリユー・ピアソン、ドロシー・トンプソン、ウォルター・リップマン、ジェームズ・レストン、ヒユーパート・ベアード・スウォープなどがいた。世論調査は米国民に大多数が介入を支持しているとの印象を与えるため、不正に操作・改変された。例えば、「ギャラツプ世論調査」は英国のスパイであるデーヴイツド・オグルヴイーによって歪曲され、発表された。

 ハミルトン・フィッシュやマーチイン・ダイズ、パートン・ウイーラーといった国家主義の政治家たちは、ナチス支持者や反ユダヤ主義者として非難された。彼らはいわれなき中傷に追い回され、結果として政治生命を絶たれた。ただ、アーサー・ヴアンデンバーグ上院議員は、英国諜報部の協力者だった社交界の美しき名士の助けにより、その考えを改めた。英国はドイツの残虐行為の写真や、ナチスの南米分割計画を示すという偽地図をでっち上げた。この地図はルーズヴエルトが最後まで突破できなかった中立法を覆すのに役立った。ヒトラーと米国の「孤立主義者」は破滅するという、いんちき星占いまでが行なわれた。共産党と同じく、英国は草の根団体を装う多数の組織を形成した。それには「民主主義の友」や「人権連盟」、「自由への戦い委員会」などが含まれていた。戦後、ロックフエラーの「外交問題評議会」は、米国の介入に関する公式の歴史が書かれるように画策した。彼らは米国がいかに騙されて第二次大戦へと向かわされたかという厄介な事実が、再び明らかにされるのを望まなかったのだ。
 ヴエノナ解読で明るみに出たスパイ活動

 英国はいざとなれば、最後の手段としてスターリンを見捨てただろう。英国のフリーメイソン(即ち中央銀行家たち)はボルシエヴイキ革命の背後にいたが、英国はそれに反対するふりをして、同盟者である民族主義の白軍ロシアを裏切った。銀行家たちはその後、スターリンがあまりにも民族主義的になりすぎたという理由もあって、ナチス・ドイツを生み出した。彼らは安っぽい日本の怪獣映画のように二人の大物を戦わせようとしたが、ヒトラーはスターリンよりも独断的だったために負けなければならなかった。マールの著書からは、中央銀行家、英国、ユダヤの指導者、そしてソ連の間のこうした利害関係が垣間見える。たとえば、英国安全保障調整局は、ジエーコブ・ランダウが創設したジユーイッシユ・テレグラフィック・エージェンシーの支部だった海外ニュース・エージェンシーに資金を提供していた。銀行家のフェリックス・ウォーバーグもユダヤ電信社に資金を提供し、ユダヤ人への迫害を宣伝させた。ランダウは「自由への戦い」の幹部でもあった。ヴエノナ計画によって解読された暗号文(ソ連大使館とモスクワの間の電信)によれば、ランダウは英国とソ連の両方に協力していた。彼は1943年にメキシコシティーヘ向かい、ソ連の大使と数回にわたって会っていた。マールはこう書いている。「ヴエノナの暗号文によれば、旧ソ連の秘密情報部は英国安全保障調整局とその所産である戦略諜報局(後のCIA)に完全に入り込んでいた」。ウイリアム・ステイーヴンソンは英国安全保障調整局の局長で、彼の副司令官チャールズ・「デイツク」・ユリス大佐は後のCIAを組織・運営したMI6のメンバーだった。マールによれば、ユリスは「ドイツとソ連の両方の諜報機関に協力していた」とされる。こうした状況は、すべての諜報機関が中央銀行家によって密かに支配されており、戦争は茶番にすぎなかったという見方と一致している。
 バーネイズ『プロパガンダ教本』が看破した真実

 フロイトの甥エドワード・バーネイズは、イルミナチイのために大衆の操作を手伝った。彼の著書「プロパガンダ教本」によれば、「世の中の一般大衆が、どのような習慣を持ち、どのような意見を持つべきかといった事柄を、相手にそれと意識されずに知性的にコントロールすることは、民主主義を前提にする社会において非常に重要である。この仕組みを大衆の目に見えない形でコントロールすることができる人々こそが、現代のアメリカで『目に見えない統治機構』を構成し、アメリカの真の支配者として君臨している」。民主主義や自由が幻想にすぎないことは明らかだ。イルミナチイは選択肢を提供し、その議論を支配する。結局、私たちの「民主主義」は違法な権力を合法化するだけなのである。米国は次なる世界大戦へと向かわされている。今の段階は、両陣営が軍備を始め、予行演習を行なつた1930年代と比較できるかもしれない。最後の大戦はおそらく2010年から2012年に生じ、多くの「無用な口」が排除されることだろう。

 「雑記帳01−0‎ > ‎イルミナテイのTop」の「22、告白「私はヒトラーの上官だった」の余波」を転載する。
 悪の化身となったその男は恐らく今も世界を支配している隠れた権力の操り人形だったのだろう。ニューヨークを拠点とするカレント・ヒストリー誌に、カール・マイル大尉は「私はヒトラーの上官だった」と題する論文を発表した(1941年2月)。ここでは、このはとんど知られていない興味深い文書について検証してみよう。ミュンヘンのドイツ国防軍教育局でヒトラーの上官を務めたマイルは、1年3カ月(1919年3月~1920年6月)にわたってヒトラーと「毎日接触」した。ヒトラー伍長は宣伝活動および潜入作業のグループを任されていた。マイルによれば、ヒトラーは「飼い主を探している疲れた野良犬」のようで、最初はルーデンドルフ将軍、次はゲーリングの雑用係として、その目的を果たした後はいなくても困らない存在だった。彼は「郵便配達貞として郵便の仕事に就こうとしたが、知能テストが不合格だったために断られた。オーストリアの村では十分な学校教育を受けたようだが、戦争でガスを浴びてから彼の知能は損なわれた」。この文書は後にヒトラーに反対した(そしてブーヘンワルトの強制収容所へ送られ、殺された)マイル大尉が書いたと思われる一方で、偽情報だった可能性もある。米国の参戦の一カ月前に発表されたこの論文は、ヒトラーと彼の後継者に指名されたヘルマン・ゲーリングとの間に軋轢を生み出し、ヒトラーを軽視することによって彼を怒らせようとする意図で公表されたのかもしれない。カレント・ヒストリー誌の編集長スペンサー・ブロドニーは、本名をレオン・グロッキーという長年の共産主義者だった。同誌は、中央銀行カルテルの手先であるニューヨーク・タイムズ社発行の季刊誌だった。にも拘らず、この文書が秘密にされてきたのは、それがヒトラーをもっともらしい人物に見せかけるという銀行家たちの方針と矛盾していたからかもしれない。偽情報は真実を紡ぎ出すが、その効果はどれだけ多くの事実が含まれているかによる。また、マイルが言っていることの多くは他の情報源とも一致している。彼が暴露した情報でもっとも信用できそうな話を要約し、そこから示唆されることを考察してみよう。
 はみ出し者のヒトラーが「軍事独裁者」になる

 マイル大尉によれば、「1919年のヒトラーは仕事を捜し求める何千人という元兵士の一人だった。当時、ヒトラーは自分に親切にしてくれる人となら誰とでも運命を共にする覚悟だった。彼はたとえユダヤ人やフランス人の雇い主であっても、アーリア人の雇い主の下で働くのと同じくらい喜んで働いたはずだ」。彼は「ドイツ国民やその運命などにはまったく無関心」だった。ヒトラーは「寝ているときもぶつぶつと話したり、歩き回ったりしたので、周囲の厄介者にされることが多かった」。友人がいなかったのは、「奇形のために内気で人目を気にし、そのことがヒトラーを他とは違った男にしたこの苦悩が彼を一匹狼やアウトサイダーにしたのだろう」〔ヒトラーには皐丸が一つしかなかったらしい。もしマイルがヒトラーの威信を傷つけようとしていたなら、この逸話に触れないのは奇妙である。おそらく、当時はこの話を持ち出すのが許される時代ではなかったのだろう〕。ヒトラーは「仲間に絶えずからかわれて」いた。マイルによれば、第一次世界大戦の英雄エーリッヒ・ルーデンドルフ将軍(1865~1937)は、ミュンヘンのフオーシーズンズホテルで実業家の仲間と毎週会合を開き、ドイツの敗戦に対する復讐を企てた。その挑戦とは、意気消沈したドイツの労働者を新たな戦いへ動員することだった。ルーデンドルフは、神の声を聞き、彼らを戦いへと導く平民として、ジャンメ・ダルクのような人物が必要だと考えた。彼は神の使者として売り込めるような「赤毛の田舎娘」を探して、バイエルン・アルプスまで歩き回った。ルーデンドルフとその仲間たちは「ハリウッドのタレントスカウトのようだった」。同じ頃、ヒトラーは軍の、ある「実験」に関与していた。彼は酒場でドイツ労働者党の会合を開き、皆にビールやソーセージ、プレッツエルを馨るように金を渡された。情熱的な歌を何曲か歌った後、誰もが「幸福と感謝」に包まれたところで、ヒトラーは椅子やテーブルに飛び乗り、「労働者の仲間たちよ、ドイツよ、奮起せよ!」と始めた。「そんな高揚した雰囲気のなかでは、心を奮い立たせ、何かに対して力強く拍手喝采することは労働者たちの喜びだった」とマールは書いている。「ヒトラーの実験はその出資者たちから高く評価され」、ヒトラーはジャンメ・ダルクの仕事を手に入れた。「その計画は、多数派の希望的観測に合うように入念に仕組まれていた」という。

 指導者たちは「少数派を苦しめなければならない」と考え、「ユダヤ系ドイツ人をその主なスケープゴートとし、彼らの撲滅によって何百万票というナチスヘの支持を得ようとした。小売商人はユダヤ人がチェーン店を所有していたために彼らを憎み、農場主はユダヤ人銀行家に借金をしていたために彼らの撲滅を望み、知識人でさえユダヤ人が芸術や科学、専門職において有利な地位を占めていたことに嫉妬していた。共産主義者もまた撲滅する必要があったが、それは彼らがロシアから指示を受け、帝国ドイツに賛成票を投じようとしなかったためだ」。「ナチスの売り込み役は大衆の頭を戦争へ向かわせるため、ありとあらゆる表現を使った ドイツは貧しい国で、富はすべて他国のものだ。従って、ドイツは彼らと戦って勝利し、その富を手にする資格を得なければならない」。そのためにナチスは多数派の欲求をつねに満たした。「結果として古き良き時代が復活するのであれば、誰もドイツがどうなろうと気にしなかった」。ヒトラーは「ナチスのイデオロギーの優秀な売り込み役にすぎず、用済みとなればさっさと解雇されるだろう」と考えられていた。
 お飾りのヒトラー、真のドイツ指導者は誰だつたのか

 マイルはヒトラーがナチスの真の指導者だったことは一度もないと言っている。「ヒトラーが指導者だったというのは、おそらく世界で他に類を見ないでっち上げである。彼の報告書はいつも書き直しが必要だった。思考力は8歳の子供より低かった。ヒトラーは自分で決断を下すこともできなかった。彼が「わが闘争」の一行も書かなかったのは明らかだ。(しかし)自分の名前を本の著者として記すだけの傲慢さはもちろんあった」。「ヒトラーは重要な演説の前にはいつもヘスと引きこもり、それが何日も続くこともあった。ヘスはどうやるのか、ヒトラーを大衆の前で演説するときのあの熱狂的な状態にさせた。ヒトラーが政治家や外国の特使を迎えるときは、その直前まで言うべきことを細かく指導された。思いがけない質問が向けられると、彼はただ立ち去るか、無意味な政治論をわめき始めた」。
(私論.私見)
 ここの下りの「ヒットラー暗愚論」はいただけない。れんだいこはむしろ「ヒットラー霊能者論」にシフトしている。よって見解が真っ二つに割れていることになる。

 2015.7.14日 れんだいこ拝
 ルーデンドルフはやがてヒトラーを抑えきれなくなり、ナチス党内の権力闘争に関与していたエルンスト・レームとヘルマン・ゲーリングにその制御を奪われた。結果として、その戦いは1934年6月30日の血の粛清においてゲーリングが勝利した。この頃、マイルはナチズム本来の社会主義の目標を代表するレームに賛同していた。「もはやゲーリングの行く手を阻むものはなく、彼は時を移さず行動を開始した。徴兵制の復活、ラインランドの占拠、完全再武装化、スペイン介入、そしてオーストリア、チェコスロバキア、ポーランドなどへの侵攻」。「ドイツには多くのファウストがいたが、彼らのメフィストフエレスはゲーリングで、彼はゲッベルスのような狭滑な宣伝者を通して、ヒトラーを愛国的超人として全世界に売り込むことができた。ゲーリングは単独で国会議事堂放火事件を工作し、その犯人として頭の弱い少年を処刑させた。レームがヒトラーの暗殺を企てているとのデマをヒトラーに届けさせたのは彼だった。ヒトラーに対するゲーリングのへつらいは、世論を惑わすための見せかけにほかならなかった」。歴史家の一般的な見方としては、ゲーリングは無能な指導者とされ、ドイツ空軍を指揮するよりも美術品の捜索や収集(あるいは窃盗)を好んだ。彼はヒトラーに怯えながら生きていたと言われている。
 イルミナティ演出の輝ける実験作品

 マイルの見方はヒトラーに対する世間一般の見方とまったく対照的だ。マイルが嘘をついているのか、それとも現代史家の多くがヒトラーをもっともらしい指導者や悪の化身に仕立て上げているのか。私はヒトラーがイルミナチイに演出されたもの、つまり、金融経済の独占を守ろうとするロスチャイルド家の世界独裁のためにフリーメイソンによって計画されたものだと思う。「シオン長老の議定書」によれば、反対勢力はすべて抑圧されるという。もしどこかの国がロスチャイルドの支配に異議を唱えたとしても、「それは我々の裁量、そして我々の指示による形式的なものにすぎない。なぜなら、そうした反ユダヤ主義は我々の下層の兄弟たちを監視するために必要だからである」(第9議定)。私の現在の仮説では、ヒトラーとロスチャイルドの計画の間には、「スパイ同士の連絡係」による長いパイプを介した直接の結びつきがあった。こうした連絡係のなかには、ロスチャイルドのイングランド銀行がヒトラーに資金を提供していると知って政界を退いたエーリッヒ・ルーデンドルフのような「役に立つ愚か者」も含まれていた。ドイツ軍諜報部の長官で、ロスチャイルドと結びついた金融一族のメンバーで、1919年にマイルの上官だったマックス・ウォーバーグは、おそらく「ヒトラーの実験」における中心人物だった。「秘密のフリーメイソン」を通じて、中央銀行家たちは共産主義とナチズムの両方を生み出し、それは第二次世界大戦により、西側(キリスト教)文明の破壊を進めた。人類は急速にロスチャイルドの犠の巣となりつつある。マスコミや教育は彼らに支配され、情報や娯楽ははとんど社会統制と行動修正の手段になっている。マイル大尉の「私はヒトラーの上官だった」のような世に知られていない文書は、私たちが卑劣極まりない方法で操作され、裏切られていることを気づかせてくれる。
 ヒトラーを狂人化した洗脳タヴィストック機関

 グレッグ・ハレットの著書「ヒトラーは英国の工作員だった」(Hitler Was A British Agent、)では、戦争はオカルト魔術師が呼び起こした残酷な幻覚であり、その目的は人類を堕落させ、最終的に世界政府の奴隷にすることだとしている。ヒトラーが「英国の」工作員だったというハレットの主張は、元諜報部員の怪しげな組織の証言に基づいている。ハレットは証拠書類こそないが、説得力のある状況証拠を提示している。例えば、アドルフ・ヒトラーは1912年から1913年まで英国に滞在しており、その事実は彼の義柿の著書「ブリジット・ヒトラーの回想録」(The Memoirs of Bridget Hitler、1979年)によって裏づけられている。しかし、ヒトラーの伝記作家ジョン・トーランドをはじめ、多くの歴史家がこの驚くべき事実を無視してきた(もしハレットが正しければ、トーランドのような歴史家はヒトラーについて不都合な事実を削除し、彼を大物に仕立て上げたという罪を犯したことになる)。ハレットによれば、ヒトラーは1912年2月から11月まで、デヴオン州タヴイストックの英国軍心理作戦訓練学校とアイルランドで洗脳の訓練を受けていた。「軍事機構は戦争を必要とし、(それは)その走狗となり、手先となり、傀儡の敵となるために資金提供や訓練、支援を受けた二重スパイ(が必要であることを意味する)」と、ニュージーランドを拠点とするハレットは記している。ヒトラーの義姉は、リヴアプールの彼女の家へ手荷物もなしにやってきたヒトラーを、惟悸しきった様子だったと述べている。「彼(アドルフ)は病気のようだった。ひどく顔色が悪く、目つきも変だった」と彼女は書いている。「彼はいつも本ではなく、ドイツ語で書かれた小冊子を読んでいた。そこに何が書かれていたのか、それをどこから持ってきたのかはわからない」。ハレットはこれらがタヴイストックの訓練用マニュアルだったとしている。「ヒトラーは英国の工作員だった」は、既存のものとは異なる理論的枠組みを提示している(たいていの場合、私たちは「教育」というフィルターによって間違った理論的枠組みを与えられているため、真実に気づかない)。ハレットが「英国」と言うとき、それはカルテルのネットワークを支配する富豪の銀行家たちによるフリーメイソンのカルト集団、イルミナチィを意味する。彼らはロンドンの金融街シティーを拠点としながら、英国をはじめとする多くの国々やイデオロギーを、歴史という人形劇の操り人形として利用している。ハレットの主張は、第二世界大戦における数々の不自然な出来事を浮かび上がらせる。たとえば、ヒトラーはなぜダンケルクで33万5000人の連合軍兵士を追撃せず、撤退を許したのか。この非現実的な命令は寛大な和平工作として説明されているが、もしその軍隊をナチスが捕虜としていたら、英国はその後の戦闘でもっと従順だったはずだ。
(私論.私見)
 ここでは「ヒットラー英国工作員論」が唱えられている。どういう証拠があるのか知らんと思う。れんだいこはこういう説は食わない。ヒットラー論の道を誤らせる手の込んだ作為を感じる。

 2015.7.14日 れんだいこ拝
 1940年5月のナチスの勝利は、第一ラウンドでのKO勝ちのようなものだった。イルミナテイはその戦争をそれほど早く終わらせるつもりはなかったし、ナチスに勝たせるつもりもなかつたのだ。英国が劣勢にあった1940年夏、ナチス情報部長官のヴイルヘルム・カナリス海軍大将はルーマニアの外相プリンス・ミヘル・ストゥルザに、「戦争に勝つのは英国なので中立を守るように」と言った。彼はこのメッセージをスペインの独裁者フランコにも伝えた。ハレットの理論はまた、ユダヤ人銀行家の第一の敵とされたヒトラーが、ほとんど周知の事実であったロスチャイルド家による英国(および米国)支配について、なぜ知らないふりをしたかも説明している。もしヒトラーが本気であったなら、ロシアを攻撃する前に英国へ侵攻していただろう。ハレットの仮説は次のような疑問に答えている。
(1) なぜヒトラーは報復を恐れることなく、ラインラントなどへ拡大できたのか?
(2) なぜナチスの軍事機構はイルミナテイに支配されたイングランド銀行や英米企業の有力者から資金援助を受け、構築されたのか?
(3) なぜヒトラーはジブラルタルで地中海を封鎖しなかったのか? そしてなぜスペインの独裁者フランコはスペイン内戦でナチスに巨額の借金をしていたにもかかわらず、中立を守ったのか?
(4) なぜIGファルベンのフランクフルトの本社は爆撃されなかったのか?(この建物は戦後CIAのドイツ本部となった)
(6) なぜイングランド銀行はプラハを占領したヒトラーに対して、ロンドンに預託されていたチエコの金準備を与えてそれに報いたのか?

 それはヒトラーがなぜ戦争に勝つことよりも、愚かな人種政策を優先させたのかという疑問にも答えてくれる。彼はソ連を倒すために何百万人ものスラヴ人(やユダヤ人)の協力を得ることもできたはずだ。にもかかわらず、ヒトラーは彼らを和解しがたい敵にした。さらに、なぜドイツの同盟国である日本はロシアではなく米国を攻撃したのか、なぜナチスはその情報が漏れていることを知らなかったのか、なぜヒトラーはその機会があったにもかかわらず、ロシアや中東の油田を獲得しなかったのかといった疑問もある。もうおわかりだろう。そこには裏工作があったのだ。ヒトラーはソ連に侵攻することで、英米の資本家たちに役立っていると思っていたのかもしれない。おそらく彼は自分(とドイツ)が騙されていることを知らなかったのだろう。
 ロスチャイルド血縁者・ヒトラーとは何者だつたのか

 何よりも不自然なのは、オーストリアの浮浪者であり、清掃作業員であり、男娼であった男がドイツの首相になれたということだ。ヒトラーは卑しい身分でありながら、目に見えないカを借りて一躍世界に名を馳せた者たちの一人で、恐喝されてもおかしくない人物だ。
(私論.私見)
 ここでは「ヒットラー浮浪者&清掃作業員&男娼論」が唱えられている。どういう証拠があるのか知らんと思う。れんだいこはこういう説は食わない。ヒットラー論の道を誤らせる手の込んだ作為を感じる。

 2015.7.14日 れんだいこ拝
 ハレットはヒトラーの祖父がネイサン・マイヤー・ロスチャイルドであると記している。ヒトラーの祖母マリア・シクルグルーバーは、ロスチャイルド家のウィーンの屋敷で女中をしていたとき、悪魔崇拝の儀礼強姦によって「恐怖のうちに」、彼の父アロイスを身ごもった。ロスチャイルド家は一族の間でしか結婚できないため、匿名の工作員として働く非摘出子をつくった(これはイルミナチイの定法のようだ。あくまで噂の域を出ないが、ビル・クリントンもロックフエラー家の人間だという巷説がある)。ヒトラーの祖母は、おそらく彼の祖父の仲介者だったユダヤ人実業家から養育費をもらっていた。ブリジット・ヒトラーは彼の妹パウラのこんな言葉を引用している。「(アドルフが)人種政策を始めてから、アドルフと私には祖父がいないの。望めば誰だってそこからうまい取引ができるはずよ」(「ブリジット・ヒトラーの回想録」)。
(私論.私見)
 ここでは「ヒトラーの祖父がネイサン・マイヤー・ロスチャイルド論」が唱えられている。どういう証拠があるのか知らんと思う。れんだいこはこういう説は食わない。ヒットラー論の道を誤らせる手の込んだ作為を感じる。

 2015.7.14日 れんだいこ拝
 ロスチャイルドの息子、アロイス・ヒトラーは姪のクララと三度日の結婚をし、彼女がヒトラーの母親となった。父親は虐待的で、母親は過干渉だった。18歳で母を亡くし、極貧となったヒトラーは、同性愛者のたまり場だったウィーンの男性用宿舎で暮らした。ドイツの歴史家で教授のロータル・マハタンによれば、ヒトラーはミュンヘンとウィーンの両方で男に嫌がらせをしたという長い前科を持つ同性愛者だった。こうした調書はロシアと英国にも届いたが、それが宣伝に使われることは一度もなかった。これはその戦争が茶番だった可能性を示すさらなる証拠である(マハタン「ヒトラーの秘密の生活」)。
(私論.私見)
 ここでは「ヒトラー同性愛者論」が唱えられている。どういう証拠があるのか知らんと思う。れんだいこはこういう説は食わない。ヒットラー論の道を誤らせる手の込んだ作為を感じる。

 2015.7.14日 れんだいこ拝
 世紀の殺戮者はこうして形成された

 ハレットによれば、ヒトラーは1912年、ドイツ語で行なわれる訓練を受けるために英国へ向かった。この「訓練」とは、その後のドイツにおける彼の役割を意識に植えつけ、聴衆を魅了する方法を学ばせるものだった。それにはトラウマとなるような洗脳も含まれていた。残虐行為を見せられ、性的虐待を受ける様子をすべて撮影されることにより、「もう一人の自分」の意識が粉々に打ち砕かれる。そして様々な意識の断片が心にプログラムされ、特別な暗語によってアクセスできるようにされる(イルミナテイによるマインドコントロールの詳細については、フリッツ・スプリングマイヤーとシスコ・ウイーラーの著書が参考になる)。ヒトラーは1922年5月にドイツヘ戻り、ドイツ軍に入隊した。第一次大戦中、彼は伝令係を勤め、英国軍に二度捕まったが、いずれの場合も英国諜報部の「ホモ」によって処刑を免れた。ハレットによれば、ヒトラーには自分の上で女性に排便させるという嗜好があった。また、彼は性器が小さく、皐丸が一つしかなかった(ヒトラーが付き合った女性の多くは自殺した。生涯の恋人は姪のゲリだったが、彼のお抱え運転手の子供を身ごもった1931年にヒトラーによって殺された。マハタンはヒトラーが真に愛していたのはそのお抱え運転手だったとしている)。ナチスの同性愛の詳細については、「ピンクの鈎十字(The Pink Swastika)」のサイトを参照していただきたい。
(私論.私見)
 ここでは「ヒトラーホモ&異常性愛者論」が唱えられている。どういう証拠があるのか知らんと思う。れんだいこはこういう説は食わない。ヒットラー論の道を誤らせる手の込んだ作為を感じる。

 2015.7.14日 れんだいこ拝
 ことごとく達成されたイルミナティの野望

 歴史はイルミナチイの長期計画に従って展開している。戦争は何十年も前から画策され、権力と富の獲得はもちろん、国家や生来のエリートたちの破滅、人口減少、士気喪失を成し遂げるために着々と組織されている。ハレットによれば、スターリンもイルミナチイの「戦争工作員」であり、彼は1907年にタヴイストック心理作戦訓練学校へ通った。クリフォード・シャツクはスターリンがロスチャイルド家の非摘出子であったともはのめかしている。

 ハレットはヒトラーの死が偽装で(替え玉が殺された)、彼はバルセロナヘ逃れ、1950年に胃癌で死ぬまでその地で暮らしたとしている。グレッグ・ハレットは異端児で、まとまりのないその著書は残念ながら重複と脱線に満ちている。今のところ、私はハレットの主張を全面的に信用するつもりはない。しかし、彼は強引とも言える一方で、一般的な認識よりももっともらしい歴史観を提示してくれた。それを受け入れるか、拒否するかは私たちの自由として(いわゆる「判断の保留」)、様々な推論的見解を検討してみるべきだ。
(私論.私見)
 ここでは「ヒトラーの死偽装論」が唱えられている。どういう証拠があるのか知らんと思う。れんだいこはこういう説は食わない。ヒットラー論の道を誤らせる手の込んだ作為を感じる。

 2015.7.14日 れんだいこ拝
第二次世界大戦はイルミナテイの目的をすべて達成した。ドイツと日本は焼け野原となった。ホロコーストはロスチャイルドの世界政府の拠点をイスラエルに確立する動機をユダヤ人に与えた。両陣営の理想家や生来の指導者たちは虐殺された。国々は借金を負わされた。国連は灰の中から不死鳥のごとく蘇った。ヒロシマは世界に恐怖の暗影を投げかけた。ソ連は超大国となり、東欧を支配した。そして冷戦という次なる幕に向けた舞台が整った。人類のこうした暗い展望を受けて、ヒトラーを中央銀行家の覇権への反対者として理想化する向きもある。しかし、ハレットの本は、ヒトラーもまたスターリンや毛沢東と同じく、工作員だつたことを思い出させてくれる重要な資料だ。イルミナテイは紛争を煽り、人類をそれに捕らわせておくために「敵」を支援するのである。
 すべての戦争には青写真がある

 ヴエルサイユ条約のインクがまだ乾かないうちに、イルミナチィはアドルフ・ヒトラーとナチスを生み出すことで第二次世界大戦への準備を始めた。1919年以前、ヒトラーは多くのユダヤ人の友を持ち、共産主義と社会主義の両方にちょっかいを出していた政治的「殺し屋」だった。その彼が一夜にして激しい反共産主義・反ユダヤ主義者になった。いったい何が起きたのか。彼は軍諜報機関の将校となった。1920年代を通して、ドイツ国防軍は密かにヒトラーと彼の党に資金を提供し、ナチ「突撃隊」の訓練を行なっていた。私はクルト・フォン・シユライヒヤー将軍が、マックス・ウォーバーグのようなイルミナティの銀行家の中心人物だったのではないかと考えている。実際、フランクフルトにある彼のIGフアルベンの本社は連合軍の爆撃を免れ、彼のユダヤ人の母親も戦争中ずっとハンブルクで悠々と暮らしていた。「シオン長老の議定書」の中で、イルミナチイの銀行家である起草者は、それが彼らの目的にかなう場合は反ユダヤ主義を生み出したり、正当化したりするとしている。「反ユダヤ主義は我々の下層の兄弟たちを監視するために必要だからである。(中略)これについては既に討議が重ねられてきた」(第9議定)。ヒトラーは反ユダヤ主義がいかにして生み出されたかの一例である。起草者はこう続けている。「すべてを飲み込んでいく恐怖は我々が生み出している。あらゆる意見、あらゆる学説を持った者たちが我々の用を務めている。帝政復興主義者や民衆扇動家、社金主義者、共産主義者、そして各種の空想論者が(中略)既存の株序を覆そうとしている。全世界がこれに悩まされている。(中略)しかし、我々は彼らが公然と我々の国際的超政府を受け入れるまで、彼らに平和を与えるわけにはいかない」。新世界秩序、国際連合、欧州連合、北米連合、そして今日までのすべての戦争の背後には、明白な形での青写真がある。しかし、銀行家たちはそれに注意を向けることが「人種差別主義」になると私たちに思わせてきた。まるでユダヤ人の多くが、彼らの邪悪で忌まわしい陰謀の意識的な加担者であるかのようだ。近代史は、無用の戦争を煽り、国家や宗教、民族や家族に基づく私たちのアイデンティティーを破壊することによって、人類を奴隷化しようとするこうした長期計画から成っている。ほとんどの歴史家は買収され、アウシエビッツやグーラグ、ヒロシマ、そしてヴエルダンに関して最終的責任を負うべき連中が今も世界を動かしているという恐るべき事実を覆い隠している。9・11やイラク戦争を招いたのも彼らである。私たちの指導者はいかに嘘をつき、命令に従えるかといった能力によって選ばれる。紛争とは、実は同じ主人に仕えている「敵対者」の間の茶番にすぎない。
 ヴエルサイユ賠償金とドイツ再軍備の秘密

 ロンドンのデイリー・テレグラフ紙のE・1・デイロンは、著書「平和会議の裏話」(The Inside Story of The Peace Conference、1920年)にこう記している。「多くの代表が、『今後、世界はアングロ・サクソン人によって統治され、さらに彼らはユダヤの構成分子〔すなわち中央銀行家とその雑用係〕に支配されている』と推測した。イルミナチイの世界支配に向けて英国と米国を利用する上で、ドイツは大きな障害だった。そこで、より破壊的な世界戦争を新たに引き起こすため重い賠償金が課せられた。いったんそれが始まると、英国はヒトラーの暗殺や政権転覆の試みを拒否し、「無条件降伏」を主張した」。

 ヒトラーが権力の座に就いたのは1933年だったが、ドイツはヴエルサイユ条約に違反して1919年に再軍備を始めていた。空軍や機甲師団、化学戦のための専用部隊を含めて、共産党とドイツの兵士がソ連で最新兵器による訓練を行なうという計画に連合国は目をつぶった。ヒトラーが1933年に政権を握ったとき、ドイツは既に高度な空軍戦力を有してていた。ヴエルサイユ条約を逃れるためのもう一つの方法は、ドイツ国防軍が、後に正規軍に組み込まれたナチ突撃隊のような準軍事的組織に資金を提供し、訓練を行なうというものだった。クルト・フォン・シエライヒヤー将軍、カール・マイル大尉、エルンスト・レーム大尉はこの「不正なドイツ軍」を任されていた。デイリー・エクスプレス紙のベルリン特派員だったセフトン・デルマーは、自伝「邪悪な爪痕」(Trail Sinister、1961年)でこれについて書いている。彼はヒトラーが「弱小のドイツ労働者党に入り、それを増強し始めたとき、マイルの命令下で行動していた」ことを示す文書に触れている。デルマーによれば、マイルはヒトラーがユダヤ人を激しく非難する大集会や小冊子にも資金を提供していた。「こうした反ユダヤ主義運動は(中略)ドイツ国防軍の幕僚にも劣らぬ権力者によって促されていた」。ドイツ国防軍の目的は、第二次世界大戦に対する国民の政治的支持を生み出すことだった。デルマーによれば、「シユライヒヤーはドイツ国防軍の機密費から200万ポンドもの金をナチ突撃隊に払った」。彼らはまた、イルミナチイの実業家や銀行家からも資金を得ていた(ベルリンで生まれ育ったセフトン・デルマーはヒトラーを個人的に知っており、幅広い秘密情報源を持っていた。戦争中、彼は英国の「偽情報」を担当し、ドイツ兵向けに様々なラジオ局を運営した)。
 プーチン、アハマディネジヤドも祭り上げられた偶像

 共産主義、ナチズム、シオニズムは、人類を騙し、操るためにイルミナチイによって考案され、推進された三つ揃いの運動である。ブレーメン大学の歴史学教授であるロータル・マハタンは、著書「ヒトラーの秘密の生活」で、ヒトラーが1918年に共産党へ入ろうとしたと述べている。ヒトラーは働かなくても済むように党内での幹部の地位を望んだが拒否された。「ヒトラーは極右陣営に参加する以前、左翼グループヘの参加を希望したが認められなかった」と、マハタンは書いている。イアン.カーショーによれば、ヒトラーは1918年から1919年にかけて親社会主義・共産主義のデモに参加し、社会主義兵士評議会の代表を務めていた(「ヒトラー:1889年-1936年」(Hitler :1889-1963)、)。ブリジット・ハーマンによれば、戦前のウィーンでのヒトラーの親友はユダヤ人だった。彼はユダヤ人に慈善やもてなしを受け、自分の絵画作品のはとんどを買ってもらった。このため真の反ユダヤ主義者たちは彼に寄りつかなかった(「ヒトラーのウィーン‥独裁者の見習い期間」(Hitler's Vienna: A Dictator's Apprenticeship)、)。

 ハーマンはアーリア人の純血や優越性というヒトラーの思想がユダヤ教に基づいていたとして、ヒトラーの次のような言葉を引用している。「モーセを通して、ユダヤ人は生涯にわたる生き方の掟を授けられ、それは彼ら民族の本質に合致した宗教へと昇華された。そこには信仰をめぐる教義や怪しげな規則は一つもなく、あるのは彼ら民族の幸福に役立つもののみで、他の民族への配慮はない」。ヒトラーが新世界秩序に抵抗したとする見方から、彼を評価する向きもあるようだが、実際は、ヒトラーは新たな戦争を始めるためにイルミナテイが生み出したものだ。人々は現在、プーチンやアハマデイネジヤドのような指導者に期待を寄せているが、彼らもヒトラーと同様、目に見えない手によって権力の座に祭り上げられた無名の人物だった。私たちに真の政治的(あるいは文化的)指導者など一人もいない。いるのはイルミナチイの手先だけだ。人類の歴史は同じことの繰り返しである。少数派が多数派を犠牲にして富と権力のすべてを独占しようとし、大量殺戦が行なわれる。どれほど愛想よく振舞っても、それは結局、元の形に戻るだろう。
 『わが闘争』口述筆記タイプライターの秘密

 象徴的な細かい要素がときに多くを物語ることがある。ドイツ最大の銀行であるドイツ銀行の総裁エミール・ゲオルク・フォン・シユタウスは、ヒトラーにレミントン製のポータブル・タイプライターを貸し、ヒトラーはそれを使ってあの悪名高き反ユダヤ人銀行家宣言、「わが闘争」を書いた。ナチスの第1の資金調達者であったフォン・シユタウスはロスチャイルド家の長年の仕事仲間でもあった。ヒトラーが「わが闘争」をタイピストのルドルフ・ヘスとエミール・モーリスに書き取らせたのは1924年4月から12月にかけての8力月、ランツベルク刑務所で快適な滞在生活を送っているときだった(彼の5年の刑は減刑され、眺めのいい2間続きの部屋で差し入れや面会も許されていた)。

 フォン・シユタウスは裕福な後援者からなる「ヒトラー支援グループ」の一人だった。ピアノ製造業者の妻であるヘレーネ・ベヒシユタインはヒトラーの養母を装い、その原稿の一部をこつそり持ち出した。彼女はヒトラーの生計をすべて引き受け、彼が娘のロッテと結婚してくれることを望んでいた。鉄鋼連合の議長フランツ・ティッセンは、ヒトラーの誕生日に10万マルクを贈った。ベルギーの作家スタン・ラウリセンスによれば、この話はルドルフ・ヘスが妻に宛てて書いた手紙に基づいている(「ヒトラーに盗まれた第三帝国」)。それは草の根の弱小政党を率いていた1924年のヒトラーに対する私たちのイメージと矛盾する。実際、彼はそれに反対するふりをしながら、国際銀行家の看板役だった。ナチズムと共産主義は、いずれもイルミナティの銀行家がでっち上げた偽りの反対勢力だった。私たちを次なる世界大戦へ向かわせようと、貨幣を発行する連中があらゆる戦争の背後で糸を引き、両陣営を操っていることを忘れてはならない。
 悪の連環=ドイツ銀行、シユタウス、ロスチャイルド家

 ドイツ銀行がヒトラーを生み出す手助けをしたのは、彼が戦争の利益を象徴していたからだ(支店長や重役はナチスに属していた)。第二次大戦中、ドイツ銀行は占領下の国々の銀行や産業、「アーリア化された」ユダヤ系企業やユダ人の預金口座を支配し莫大な利益を得た。ドイツ銀行の総裁になる前、フォン・シユタウスは同銀行が所有していたルーマニアの石油会社ステアウア・ロマーナの責任者だった。又、石油カルテルである欧州石油連合の最高経営責任者でもあった。欧州石油連合は、「その生産物によって最大限の利益を得ることを目的とした実業家の国際組織」だった。欧州石油連合はロスチャイルドの利益、ノーベルの利益、そしてドイツ銀行の利益を代表していた。もちろん後者の二つにはロスチャイルド家の利益も含まれていたはずだ。ナチスの政権掌握後、フォン・シユタウスはドイツ銀行と関係のあったダイムラー・ベンツやBMWといったドイツの主要企業で戦争の根回しを行なつた。ある研究者はシユタウスを、「歴史研究で正当な扱いを受けることはめったにないが、ワイマールおよび国家社会主義時代における謎めいた人物」と表現している。彼はナチスの主要な支持者でありながら、ナチスの党員になったことはなく、「ドイツ銀行の同僚オスカル・ワッセルマンのような財界のユダヤ人有力者と常に良好な関係を保っていた」(デーヴイツド・バンキア編「ドイツの反ユダヤ主義の深みを探る」(Probing the Depth of German anti-Semitism)、2000年)。にも拘らず、シユタウスはユダヤ人の資産、さらにはずっと昔に改宗し、姻戚関係になったユダヤ人の資産さえもアーリア化することに手を貸した。ユダヤ人のなかにも内と外、つまりイルミナテイかイルミナテイでないかの二種類があったようだ。
 銀行家にとって戦争は「金の卵を産むガチョウ」

 戦争は人類を大量に滅ぼし、堕落させ、奴隷化しょうとする銀行家の長期計画の最重要項目であり、それは彼らの不正な世界的信用支配を守るために不可欠とされる。この論理から、「革命」の真の意味、そして彼らがなぜ戦争を「革命的」と考えるのかがわかる。人類が窮地に立たされているのは、少数グループに金儲けのシステムを奪われたからである。これは金(きん)取引業者が、自分たちが金を保有していなくても債券という形で資金を手にできると気づいたときに始まった。彼らは銀行家となり、簡単な簿記によって手持ちの資金以上に債券を発行することもできると考えた。彼らはこの「金の卵を産むガチョウ」を利用して、世界の富を支配し、その従犯者に行政やマスコミ、教育を任せた。彼らは国家政府が彼らの印刷する紙幣を保証するように手配した。戦争はこうした状況から私たちの気をそらし、私たちを堕落させ、非人間的にして、負債と利益を増大させようとするものだ(銀行家たちは当然、公債をもっとも信頼している)。中央銀行家たちは社会主義も好きだ。彼らはその金で人々を買収し、年季奉公の契約を結ばせる。ウッドロー・ウイルソンはこうした「金権」の手先だった。しかし、みずからの魂を救済するため、彼は米国の実業家たちが「あまりに組織化され、あまりに巧妙で、あまりに用心深く、あまりに複雑で、あまりに徹底的かつ広範囲である」ために、声に出しては言えないような「どこかの勢力」を恐れていると言った。ウイルソンは実際、この勢力について次のように語った。「この国の重大な独占とは大規模な信用の独占である。偉大な先進国はその信用組織に支配されている。そのため、国家の発展や我々のあらゆる活動は真の経済的自由を抑圧し、妨害し、破壊する少数の者たちの手中にある」(ロバートソン「人類生態学」(Human Ecology、)。「対テロ戦争」を含めて、戦争は中央銀行家による富と権力の独占を守るために世界的警察国家をつくり出そうとするものだ。そのために誰が選ばれるとしても、彼らは中央銀行家の配下にすぎない。フリーメイソンもビルダーバーグも、イユズス会もシオニストも、その背後で権限を握っているのは銀行家である。彼らが私たちの信用を利用して金儲けするカを手放さない限り人類に明るい未来はない。その間、私たちの生活は戦争でも何でもない、一連の馬鹿げたでっち上げによって左右される。
 ヒトラーを利用した副総統ボルマン

 ナチス・ドイツでヒトラーに次ぐ権力者だったマルチィン・ボルマンは、ドイツとヨーロッパのユダヤ人の両方を破滅に導いた「ソ連の(つまりイルミナテイの)」工作員だった。そのため、彼はイルミナティの主要目的の二つを推進した。一つはドイツの国家的・文化的・民族的権威を失わせることによって同国を世界政府に統合すること、もう一つはヨーロッパのユダヤ人を根絶すると脅すことによってイスラエルを世界の中心地として確立すること。イルミナティは、ユダヤの金融一族と英国・米国・欧州の上流階級とが結婚や金脈、オカルト信仰(フリーメイソン)によって結びついた緩やかな同盟である。ウインストン・チャーチルは片親がユダヤ人のフリーメイソンで、この説明にぴつたりの人物である。彼らは互いに連動する巨大なカルテル(銀行、石油、製薬、軍需、化学、鉱産、マスコミなど)を所有し、企業組織や職域組織、マスコミ、教育機関、秘密結社、シンクタンク、財団、そして諜報機関を通じて社会や政府を支配している。彼らの目的は「世界の富を吸収すること」(セシルローズの言葉)であり、宣伝や教育、社会工学を利用してその市民を統治することである。

 国家(英国、米国、イスラエル)、運動(シオニズム、社会主義、ナチズム、共産主義)、そして国民(米国人、ドイツ人、ユダヤ人)は、世界独裁に向けた彼らの誇大妄想狂的陰謀の犠牲にされる手先である。ボルマンの経歴は、彼らがこの長期目的を進めるためにいかに戦争を画策したかを物語っている。マルチイン・ボルマン(1900~没年?)はヒトラーの給与小切手にサインしていた。彼はナチスのまとめ役であり、経理部長であり、給与支払い担当官であって、その有力組織を動かしていた。彼はナチスに資金を提供していたイルミナチイの銀行家や実業家との窓口だ。副総統およびヒトラーの秘書として、彼はその肩書き通りの役割を務め、ヒトラーの行動を管理した。ヒトラーはボルマンを遺言執行人に指名していた。1972年、ラインハルト・ゲーレン将軍(ドイツ軍対ソ連諜報部長)は、ナチスの多くの上級将官や幹部に一致した見解として、ボルマンがソ連のスパイだったと明かした。そこから示唆されるのは途方もないことだ。ウインストン・チャーチルの言葉を思い出してみよう。「この戦争はヒトラーや国家社会主義に対するものではなく、ドイツ国民の強さに対するものであり、それがヒトラーの手にあろうが、イユズス会の司祭の手にあろうが、最後には全滅させる」(エムリス・ヒューズ「ウインストン・チャーチル、戦争と平和におけるその生涯」(Winston Churchill, His Career in War and Peace、)。

 ナチスが組織され、第二次世界大戦が展開されたのは、ドイツ国民の道徳的信用に致命傷を負わせ、彼らを邪悪な罠に陥れるためだった。「ボルマン友愛会」(The Bormann Brotherhood、1972年)の中で、著者ウイリアム・ステイーヴンソンは、ボルマンにとって「ドイツの行く末はもっとも優先順位の低いものだった。彼はそれよりもナチス哲学に基づいた未来に関心があり、それはナチスの略奪によって資金を得、個人的忠誠によって結びついた友愛会に支えられていた」と言っている。これが新世界秩序なのだろうか。次なる世界戦争が、今度は米国を弱体化させるために画策されるだろう。私たちはイルミナテイの仲間のジョージ・W・ブッシュとウラジミール・プーチンの間で生み出された「対立」に、その戦争の概要をすでに見ることができる。
 「50個師団ほどに役に立つ男」ボルマン

 イルミナテイは私たちにそう信じさせようとしているが、ボルマンが戦火に引き裂かれたベルリンで死んだというのは疑わしい。中立国で750社もの会社を設立して、ドイツの存続に備えた男が、みずからの逃亡への配慮を怠ったはずはないだろう。実際、旧ソ連がボルマンを救出し、モスクワで彼を重用したという報告もあれば、南米に逃れたとする報告もある。二度のピユリッツアー賞を受賞したルイス・キルザーは、著書「ヒトラーの裏切り者」(Hitler's Traitor、2000年)で、「ボルマンがソ連のスパイだった」と主張している。キルザーは「ヴエルテル」と呼ばれるスパイとモスクワとの通信を調査し、この情報にアクセスできたのはボルマンだけだったと断定した。ボルマンは後世に記録を残したいとして、ヒトラーの戦争会議を速記者に書き取らせていた。

 ソ連はナチスの意図や防衛力について非常に詳細な質問をすることができた。その結果がスターリングラードやクルスクでのナチスの決定的敗北だった。「ボルマンは50個の赤軍師団と同じくらいロシアの役に立っていた」とキルザーは書いている。「ボルマンがスターリンにとって意味を持つようになったのは早い段階だった。1941年、ドイツはウクライナの何百万人もの民族主義者を利用してソ連の支配を破ることができたのに、ボルマンは彼らが『奴隷化と人口減少』にしか値しないと断言した。(中略)ドイツの虐殺か、ソ連の政治的支配かを迫られたウクライナは生き延びる道を選び、そうすることによって、容易に征服できると思っていたドイツの期待を破った」。

 ボルマンはスターリングラードでのナチスの敗北を、イルミナティの第二の目的であるユダヤ人撲滅の口実として利用した。ニュルンベルク裁判の検察官の言葉を借りれば、ボルマンは「飢餓、堕落、略奪、そして撲滅の計画における原動力」だった。彼はぞつとするような詳細からヒトラーの目を遮り、ヒムラーがその話題をヒトラーと話し合ったり、報告書を提出したりするのを妨げた。「ウクライナ人やユダヤ人に関するボルマンの役割は、彼が第三帝国に与えた壊滅的影響のごく一部にすぎなかった」とキルザーは書いている。彼はドイツ経済を「総力戦」体制に移行させようとしたアルベルト・シユペーアの企てを、それが手遅れになるまで阻んだ。「ボルマンの影響力は国家に大惨事を招いた」とシユペーアは締めくくつた。キルザーはボルマンを操っていた多くの人物を紹介しながら、彼とソ連諜報機関との接触について詳細に記している。ボルマンの愛人の一人だったマリー・ルバッハ・シユパンゲンベルクはドイツの共産主義地下組織で活動していた。ただ、「ヒトラー自身が裏切り者だったのか」という疑問は残っている。彼もイルミナチイの手先だったのか。キルザーはヒトラーが仲間内の意見の対立に驚くほど寛大だったとして、「反逆の文化」を奨励していたと述べている。ヒトラーはボルマンの役割に気づき、騙されたふりを続けたのだろうか。答えはまだ模索中だ。
 ニューヨークの出版社が黙殺した秘密暴露本

 ウイリアム・ステイーヴンソンは適切な結論を提示している。「ボルマンは秘密権力の代理人だった。人間としての条件を乱された我々にとって、民主主義という装飾は、(中略)秘密主義の生じるところに真の権力が生じること(中略)を隠すための危険なカムフラージュにほかならない。マルチイン・ボルマンは(中略)絞首刑を免れる程度に(中略)秘密権力を持っていた」。ルイス・キルザーの著書「ヒトラーの裏切り者」はカリフォルニア州ノヴアートの小さな出版社から刊行された。これはイルミナチイの銀行家に支配されたニューヨークの大手出版社が、ナチスと同様、ボルマンの秘密を伏せておきたかったということを示す。支配的エリートが邪悪な秘密結社を組織し、人類への陰謀を企てる世界に私たちは住んでいる。彼らは米国国璽にある未完成のビラミッドの冠石が象徴する「新世界秩序」を打ち立てようとしている。その象徴はあちこちに配されているが、私たちはそれに注目も抵抗もしないことになっている。彼らの成功は、私たちがいかにその象徴を無視し、文明を裏切り、この悪の元凶をはびこらせるかに懸かっている。

 「雑記帳01−0> ‎イルミナテイのTop」の「23、イルミナティ傀儡としてのチャーチル」を転載する。
 イルミナティ傀儡としてのチャーチル

 1940年9月7日、ナチスによる初のロンドン空爆によって306人の民間人の命が奪われた後、ウインストン・チャーチルはこう言った。「彼ら(ロンドン市民)は私を励ましてくれた。彼らの家を(故意に)爆撃して粉々にさせる代わりに勝利を与えてくれと」。チャーチルは真実を語っている。彼はロンドン市民の知らないところで、民間人を空爆目標から外すというヒトラーの申し出を断った。それどころか、彼はベルリンなどの民間地域を先制攻撃することによって、ヒトラーをロンドン爆撃に駆り立てた。チャーチルは空軍中将に「敵を徹底的に痛めつけろ」と命じ、内閣には「軍事目的をさらに拡大解釈して爆撃することが、我々の目下の最善策だ」と指示した。彼は赤十字による民間人死傷者の視察も阻んだ。1940年9月未には、700人の子供を含む7000人のロンドン市民の死体がさらされた。終戦までに6万人以上の英国市民と65万人以上のドイツ市民が「戦略」爆撃によって命を奪われた。1940年、チャーチルは英国空軍の基地から攻撃をそらさなければならない一方で、虐殺も始める必要があった。ほとんど戦闘のないまま開戦一年が過ぎており、それは「いんちき戦争」と呼ばれていた。ヒトラーは大半の英国人が受け入れを望むような寛大な和平案を提示していた。もし英国が和平に応じていたら、ユダヤ人ホロコーストはなかっただろう。

 
チャーチルは第二次世界大戦を「歴史上もっとも無用な戦争」と表現した。しかし、彼は自分の株の損失を補填し、愛するチャートウエルの屋敷を差し押えから救ったシティーの銀行家たちに報いた。躁鬱病患者だった彼は戦争を生きがいとし一般市民を少しもかえりみなかった。チャーチルが「Ⅴ」サインをして見せたとき、人々はそれを勝利への意欲だと思った。しかし、それは彼の真の忠誠を示していた。「Ⅴ」サインは逆さの十字架、つまり「壊れた」十字架を意味するオカルトのサインなのである。これは私たちが教わる甘ったるい歴史とは違う。私たちが「歴史」と呼ぶものは、ほとんどが宣伝、つまり隠蔽工作にすぎない。こうした事実は、第二次世界大戦を率直に描写したデーヴイツド・アーヴイングの「チャーチルの戦争」(Churchill's War、1987年)に基づいている。それは最近のロンドンでの爆破事件にどのような光明を投じるだろうか。第二世界大戦は人類をイルミナティ(ロンドンを拠点とする独占資本)による世界独裁に隷属させるための長期計画の大きな一歩だった。
 チャーチルが激怒したドイツ独自の経済システム構築

 ウィンストン・チャーチルについての重要な事実として、彼の母方の祖父レナード・ジエローム(旧姓ジエーコブソン、1828~1891)は、ロスチャイルド家の米国の主要な代理人オーガスト・ベルモント(旧姓ショーンベルク、1813-1891)の投資家であり、ビジネス・パートナーだった。ジエニー・ジエロームとマールバラ公爵の次男ランドルフ・チャーチルとの結婚は政略結婚の一つだったようで、それはユダヤ人投資家の娘と金遣いの荒い英国貴族との結びつきに典型的なものだった。マールバラの反対は、今日の約500万ドルに相当する5万ポンドの持参金によって克服されたようだ。にも拘らず彼らは1874年4月の結婚式に出席せず、公爵夫人はその7カ月後に生まれた幼いウインストンを「成り上がり者」と呼んだ。伝記作家たちはチャーチルをあまり「英国人」らしく描写せず、ユダヤ人のイメージを用いる傾向がある。チャーチルが「早産」だったことで、ウイリアム・マンチェスターは「彼は自分の順番を待つことができなかった」と言っている(「最後の獅子」(The Last Lion)。ベアトリス・ウエッグは晩餐会で彼の隣に座ったときのことをこう記している。「第一印象として、落ち着きがなく、ほとんど耐え難いほどに自分勝手で、傲慢で、浅はかで、反動的で、それでもどこか人を惹きつける魅力があった。(中略)英国貴族というよりも米国の投機家という感じで、自分と自分の選挙運動のことばかり話した」(ジョン・ピアソン「ウインストン・チャーチルの私生活」(The Private Lives of Winston Churchill)、。チャーチルの「追いつめられたような」性格は、両親が彼に無関心で、成功することによって愛情を勝ち取るように教えたという事実に起因している。彼は24歳で著述家として成功し、33歳で閣僚となった。彼の出世は、母親が有力銀行家のアーネスト・カッセルなど、ロスチャイルド家とのコネを持っていたことに助けられた(若きチャーチルは、その政治生命を梅毒によって打ち切られた父親に復讐もしたかった)。1930年代、チャーチルの銀行家の友人たちは彼を、英国シェルの会長でシオニストのロバート・ウエーリー・コーエンの率いる圧力団体「フォーカス・グループ」の指導者にした。チャーチルは「宥和政策」の主要な反対者となり、結果としてヒトラーとの和平の障壁となった。1936年、首相のスタンリー・ボールドウィンはチャーチル率いる代表団に対して、「もしヨーロッパでなすべき戦いがあるとすれば、私はそれをボルシエヴイキとナチスにやってもらいたい」と言った。しかし、この政策はイルミナチィの考えと合致しなかった。「赤い交響曲」文書によれば、イルミナティはスターリンを操り、戦争を始めるためにヒトラーを生み出した。しかし、ヒトラーは独自の紙幣を発行することによって銀行家たちを遠ざけたようだ。これは「革命」(つまりイルミナティの世界支配)にとって重大な脅威だった。「第二次世界大戦前にドイツが犯した許しがたい罪は、世界の取引システムから自国の経済を解放し、世界の金融にその利益を得る機会を与えないような独自の為替メカニズムをつくり出そうとしたことだ」とチャーチルは言った(ロバート・ブースビーに対するチャーチルの言葉)。
 戦争にも歴史にも、偶然などありえない

 ヒトラーは英国との戦争を望まなかった。英国を民族的同胞と考え、本格的な戦争になることを恐れた彼は、何度も和平を提案し、ヨーロッパを自由にする代わりに英帝国を支持し、相当な国家的自治権を認める(例えばヴイシー政府)と約束した。1941年5月、ヒトラーは講和を求めて代理のルドルフ・ヘスを英国へ送ったが、チャーチルはヘスを監禁させた。1941年6月のロシア侵攻後、ヒトラーのユダヤ人政策は排斥から撲滅へと転じた。彼はロシア共産主義をユダヤ現象の一つと見なし、ドイツは大量殺戟の死闘へとのめり込んでいった。もし英国が和平に応じるか、条件付き降伏を考慮していれば、そんなことにはならなかっただろう。しかし、英国がロシアを見捨てることはあり得なかった。フランクリン・D・ルーズヴエルトの有名な言葉にあるように、政治の世界では偶然の事件など一つもない。すべては計画されたものなのだ。イルミナテイの第二次世界大戦における目的は、経済、政治、オカルトのすべてに及んでいた。ヨーロッパの国民国家(英国も含めて)を破壊し、何百万人もの命を彼らの神である悪魔に捧げる一方で私腹を肥やす。ユダヤ人ホロコーストもその計画の一部で、フリーメイソンの「ユダヤ」国家建設を正当化するためのものだった。バーナード・ワッサースタインはこう書いている。「戦争の最初の2年間、ドイツ当局がナチス・ドイツやナチス占領地からユダヤ人を大量脱出させようと尽力していたとき、ユダヤ人難民に対してヨーロッパからの逃げ道を遮ろうと主導したのは英国政府だった」(「英国とヨーロッパのユダヤ人、1939年~1945年」(Britain and the Jews of Europe,1939-1945)、。歴史で重要なのは、何ごとも見かけとは異なるということを忘れないことだ。すべては何世紀にも及ぶ計画に従って組織されている。キリスト教文明の薄明が消えうせる一方で、暗黒と不安の時代がこの世に忍び寄っている。
 「雑記帳01−0‎ > ‎イルミナテイのTop」の「24、オカルト独裁の隠れ蓑、ピアソンの「国際主義」」を転載する。
 オカルト独裁の隠れ蓑、ピアソンの「国際主義」

 「反逆は決して成功しない。それはなぜか? もし成功したら、誰もそれを反逆とは呼ばないからだ」。誰でも悪い知らせを聞かせたり、ぐつすり眠っている同胞を揺り起こしたりはしたくない。私もこんなことを伝えるのは気が重いが、カナダの首相レスター・ピアソン(在任1963-68年)は、1942年から1946年にワシントンDCでカナダ大使を務めていた一方、GRU(ロシア連邦軍参謀本部情報総局)に機密情報を提供していた。残念ながら、これは孤立した特殊なケースではない。反逆は西側の支配的エリートの間の隠れた政策である。意識的、あるいは無意識的に、彼らは「新世界秩序」というジョージ・オーウエル的な警察国家を目指すイルミナテイの「世界政府」計画に役立っている。イルミナテイはフリーメイソンの最高位を示す秘密の悪魔的カルト集団で、そのメンバーは世界中で要職に就いている。イルミナテイは中央銀行の独占(イングランド銀行、連邦準備銀行)や、互いに連動するカルテルの巨大ネットワーク(特にマスコミ、製薬、化学、食品、鉱産、石油)を支配している。イルミナテイ主義では、人間(即ち彼ら)が神や造物主に代わって現実を定義するとされている。そのため、彼らにとって客観的真実や道徳といった概念は不都合である。共産主義は西側文明の土台(宗教、民族、国家、家族)を崩すためにイルミナテイが生み出したものだが、彼らはそれによって平等と社会的公正に基づくよりよい世界をつくるふりをしている。彼らは何百万もの人々や日和見主義者、そして真の理想家たちを同様に騙した。レスター・ピアソンが国連で推進した「国際主義」(1957年にノーベル平和賞を受賞)は、大富豪たちによるこうしたオカルト独裁をごまかすための隠れ蓑である。近年の出来事(9・11、イラクとの「対テロ戦争」、愛国者「抑圧」法)は、この異様な陰謀の観点から見る必要がある。
 「人類を救うのはやめろ! 時間と労力に値しない」

 1951年8月、元GRUのスパイ組織の責任者エリザベス・ベントレーは、レスター・「マイク」・ピアソンが主要な情報源だったと証言した。ピアソンは彼女の監督下にあったソ連の工作員で、カナダ国立映画製作庁で働いていたヘーズン・シスに機密情報を提供していた。ペントレーは米国上院マッカラン委員会でこう証言した。「私はヘーズンが共産主義者であることを知ったピアソンが、それに手を貸そうとしたとヘーズンから聞いている。ピアソンはその立場を利用して、いずれも極秘とされていた米国の会議や、特に英国の警察組織に関する英国の会合をよく傍聴していた」。1951年当時、ピアソンはカナダの外務大臣を務めていたため、この証言は内密にされた。それはトロント大学の政治学教授ジェームズ・バーロスの著書「悪意の欠落‥スパイ行為、ハーパート・ノーマン事件」(No Sense of Evil: Espionage, The Case of Herbart Norman、1986年)の付録に掲載されている。カナダの駐エジプト大使だったハーパート・ノーマンは、旧ソ連内務人民委員部の工作員で、1957年に当局の取り調べを受け、「自殺」を遂げたピアソンの同僚だった。ピアソンは彼を弁護しかばった。ピアソンは1944年10月、ベントレーの監督官アナトリー・ゴルスキ(「グロモフ」)とワシントンで会った。ゴルスキはKGBの上級スパイの一人で、英国のプラント、パージエス、マクリーン、フィルビーを動かしていた。バーロスは「ピアソンがモスクワの決定的スパイだった」という「思いも寄らないこと」を推測している。1959年、米国国務省はこの問題を追及すべきかどうかについて会議を開いた。その結論はこうだった。「ピアソンは英雄だ。現在、彼は防衛契約において我々の政府に最大限の協力をしている」。1939年から1941年まで、彼はロンドンでカナダ高等弁務官を務め、世界政府計画の指導者たちと交流した。彼は北大西洋条約機構(NATO)の創設に尽力し、1956年のスエズ危機では国連の交渉窓口となつた。

 カナダ海軍司令官のガイ・カーは、1930年代から1940年代、オタワでこの高級官僚グループと付き合っていた。彼らはフリーメイソンの合図によって互いを認識し、夫婦交換のような「進歩的な」気晴らしにふけった。ある人物はカーにこう言った。「人類を救おうとするのはやめろ。大多数はその時間や労力に値しない。ほとんどは全体主義の独裁下にある方が幸せになれる。彼らは政府が彼らのためになると判断したものを受け入れるだろう」(「サタン‥この世の王子」(Satan: Prince of this World、)。エリザベス・ベントレーの証言は、ソ連大使館とモスクワのKGBとの間の暗号文を解読した「ヴエノナ」文書によって裏づけられ、「米国当局に彼女の証言が真実であることを確信させた」(「ヴエノナ‥米国におけるソ連諜報活動の解読」(Venona: Decoding Soviet Espionage in America、1999年)。
 ある仕掛けが旧ソ連への世論を一変させた

 レスター・ピアソンはカナダの有力政党である自由党の党首だった。彼は1921年から1948年まで(途中6年間を除いて)、首相マッケンジー・キングの支援を受けていた。J.D・ロックフエラーはマッケンジー・キングを「我が親友」と呼んでいた。キングは19144年から1918年にかけて、大衆を陥れ、大きな政府をつくり出すための企業内組合や「社会改革」政策を展開し、ロックフエラーに役立った。ロックフエラー家はロスチャイルド家の米国代理人で、ケベックを拠点とするポール・デスマライス一族(パワー・コーポレーションなど)を仲介者としてずっと自由党を支配してきた。元首相のポール・マーチィンは、デスマライスに談合によってカナダ汽船会社を譲り受けた恩義のある元社員である。1945年9月、エリザベス・ベントレーがGRUを離脱する3カ月前、オタワのソ連大使館の暗号係だったイゴール・グーゼンコが、西側での大規模なソ連諜報活動に関する証拠書類とともに逃亡した。当初、キングは彼らが重大な危機にあつたにも拘らず職員たちにグーゼンコとその家族を引き止めるように命じた。勇敢で哀れなその家族はオフィスからオフィスヘとたらい回しにされ、罪証となるような書類を持ってオタワを駆けめぐつた。グーゼンコ一家は事実、ソ連大使館に戻るか、さもなければ自殺しろと言われたのだ! それはなぜか。表向きとして、キングは貴重な戦時同盟国であるソ連を怒らせたくなかった。そして実際、「謎めいた」人物として知られていたキングは、レスター・ピアソンや自分のようなソ連の(つまりイルミナテイの)スパイが西側の支配的エリートにはびこっていることをグーゼンコに暴露されるのを恐れていた。グーゼンコが助かったのはイルミナテイがすぐに彼の利用法を考え出したからのようだ。上級スパイの一人で「イントレピッド(恐れを知らぬ)と呼ばれた男」、そして英国特殊作戦執行部のリーダーだったカナダ人のウイリアム・ステイーヴンソンが突如としてニューヨークから現われ、グーゼンコ一家を保護した。彼は偽りの「冷戦」を始めるためにグーゼンコの暴露を利用した。ソ連があちこちにスパイを抱え、原爆に関する秘密を盗み出しているというニュースは世間を驚愕させ、ソ連に対する世論を一夜にして好意から敵意に変えた(ウイリアム・ステイーヴンソン「イントレピッドの最後の事件」(Intrepid's  Last Case、)。この策略は、エリート陰謀の首謀者たちが明るみに出ることなく、カナダ内外で冷戦を正当化するのに十分な恐怖を生み出すためのものだった。彼らの犠牲となつたのは原子科学者のアラン.ナン・メイのような下っ端で、彼はスパイ行為で逮捕され、6年の刑に処された。しかし、レスター・ピアソンのようなエリート反逆者の幹部たちは無傷だった。一方、グーゼンコは不安定な状態に置かれた。彼の尋問記録は失われ、事件に関連するマッヶンジー・キングの日記も国立公文書館から消えた。グーゼンコは自由党や左派グループから日常的な中傷を受けた。ところで、ピーター・ライトの「スパイキャッチャー」によれば、ステイーヴンソンの副官フォン・ペトロフはソ連のスパイだったという。イルミナチイに仕えていなかった者などいるのだろうか。
 国務省高官アルジャー・ヒスの黒い役割

 米国でこれと同じことが起きたのは、1938年、ソ連工作員のホイッタカー・チエンバーズが逃亡したときだった。1939年、彼はフランクリン・D・ルーズヴエルトの国内治安担当補佐官だつたアドルフ・バーリと会い、重要な地位にあった多数のソ連工作員を密告した。その中には後に財務次官補となつたハリー・デクスター・ホワイトも含まれていたが何の措置もなされなかった。1948年、冷戦をさらに煽るため、彼らはアルジャー・ヒスに対するチエンバーズの告発に世間の注目を引きつけた。ソ連のスパイだったヒスは、ヤルタ会談でルーズヴエルトの顧問を務めた国務省の高官だった。彼は国連憲章も起草し、1945年にはその初代臨時事務総長を務めた。ヒスは自分についての噂が流れ始めると、公職を辞任してロックフエラーの「カーネギー国際平和財団」の理事となった。共産主義の規律に従い、ヒスは潔白を主張して憤慨するふりをし、チエンバーズとその支持者が「魔女狩り」をしていると非難した。ヒスはチエンバーズを名誉毀損で訴え、東海岸主流派の「有力者たち」が彼の擁護に回った。その中にはフェリックス・フランクファーターやアドレイ・ステイーブンソンが含まれていた。残念ながら、チエンバーズがヒスの自筆の証拠文書を提出したため、ヒスは比較的軽微な偽証罪で禁固3年入力月の刑に処された。
 優雅な余生を送った英国派遣K G Bスパイたち

 英国は、外交・安全保障部局にいた五人のソ連上級「スパイ」に痛い目に遭わされた。しかし、ソ連(とイスラエル)はどちらも英国のフリーメイソンが作り出したものだ。つまり、この世界政府の陰謀の中心にいるのは英国のエリートたちで、実際それは包装を新たにした「英国」帝国主義にほかならない。あきれたことに、五人日のスパイだったアンニー・プラントは、1979年にその「正体が明らかになった」とき、エリザベス女王の個人的な美術鑑定家を務めていた。もう一つの危機は、1945年、イスタンブールの内務人民委員部の長官で、副顧問の名の下にスパイ活動をしていたコンスタンティン・ヴオルコフが逃亡について尋問を受けたときだ。モスクワの中枢で働いていた彼は300人のスパイに関する情報を持っており、そこには英国外務省の二人のスパイのほか、「ロンドンの防諜機関を指揮する」もう一人のスパイも含まれていた(ステイーヴンソン「イントレピッドの最後の事件」)。ロンドンに何人の防諜指揮官を抱えているのかは知らないが、M15の長官スチユアート・メンジーズは、防諜指揮官のキム・フィルビーにその件の「面倒をみる」ように指示した。そしてフィルビーは面倒をみた。ヴオルコフとその妻は大量の鎮静剤を投与され、拷問と処刑のためにモスクワヘ運ばれた。フィルビーは後に引退してモスクワへ逃れ、KGB将校としての満足な年金をもらって余生をすごした。同じくガイ・パージエスやドナルド・マクリーンなど、より明白なスパイとして英国外務省の中心にいた者たちも、最終的にはロシアの保養地の別荘に隠居した。BBCは、彼らを理想家ではみ出し者の英雄として伝えている。英国の原子科学者クラウス・フックスは、水素爆弾の機密情報をソ連に漏らして禁固14年の刑に処された。しかし、9年後に釈放され、東ドイツヘ逃れて原子核物理学研究所の副所長となつた。本当の戦いは「左派」と「右派」によるものではなく、富のすべてを独占しようとする大富豪と、安定した生活を維持するためにわずかな金を求める大衆との長年の戦いである。敵は資本主義ではなく、独占資本主義であり、企業ではなく、究極の独占として世界政府を目指すカルテルである。共産主義は策略にすぎず、銀行家たちはそれによって人類の集団的本能を取り込み、間違った理想主義をその悪魔的陰謀に利用した。本当の敵はイスラム教ではなく、西側社会の中心部を侵食している古くからの悪魔的カルト集団である。彼らは人類をその本来の健全な進路からハイジャックし、巧妙な社会統制の手段を使って奴隷化しょうとしている。
 恐るべき新世界秩序ファシストの系譜

 英米のビジネスエリートは、「新世界株序」の初期の試みとしてのナチス第三帝国にどつぶりっかっていた。それはイルミナチイが単にユダヤだけのものではないことを再確認させる。そこにはユダヤ運動としての共産主義やシオニズムの一方、アーリア運動としてのファシズムやナチズムも含まれているからだ。経済学者のロバート・プレーデイーは、ナチス国家を「独占資本主義の独裁政権」と定義し、「その『ファシズム』とは独占を基本とし、国家の軍事力、警察力、法的強制力、そして宣伝カのすべてを完全に支配した企業によるものだ」としている(リチヤード・サスリー「l.G.フアルベン」(I.G. Farben、1947年)。共産主義ロシアはその弁証法の片割れを形成し、同じく独占資本主義の独裁政権ではあつたが、こちらは「公有制」を装った。1930年代にロシアを訪れたナチスの将官は、共産主義を「ナチズムの鏡像」と述べた。二つはいずれも社会主義であり、唯二の違いは一方が人種をふれ回り、もう一方が階級をふれ回ったということだけだ。実際、どちらも中央銀行カルテルが生み出したものである。新世界秩序を理解するための鍵は、カルテルの心理にある。彼らはすべてを欲しがる。カルテルとは陰謀にほかならない。彼らの目的は、価格を高く保つことによって大衆から金を騙し取ることだ。彼らは競争や市場、資源、そして新しい技術をコントロールすることでこれを行なう。彼らは本質的に権力欲が異常に強く、反国家的、反社会的である。もっとも初期のカルテルの一つがJ・D・ロックフエラーのスタンダードオイルで、彼らは輸送費を密かに調整することによって競争相手を排除した。キリスト教徒を装いながら、ロックフエラーは「唯一の罪は競争である」と言ったことで知られる。

 一方、ドイツ最大のカルテルだったのが、化学、製薬、そして映画産業の巨大企業IGファルベンである。マックス・ウォーバーグは1910年から1938年までファルベンの重役だった。ファルベンは第二次世界大戦でドイツ軍の爆薬の85%を製造した。1926年、ファルベンとスタンダードオイルは、スタンダードが米国でファルベンを代表する代わりに、ファルベンは合成潤滑油に手を出さないという協定を結んだ。その結果、スタンダードオイルは米国内での供給不足にもかかわらず、ナチスに石油を提供した。彼らはドイツ空軍機の飛行に不可欠だった希少な鉛添加剤を供給した。また、米国での合成ゴムの生産を抑制し、そのために連合国はあやうく戦争に負けるところだった。同様に、ロックフエラーはファルベンの他の事業の分け前を手にした。それにはアウシユビッツのような強制収容所の奴隷労働者を雇う多くの工場が含まれていた(ファルベン、ロックフエラーは収容者の労働への格安の賃金をナチス親衛隊に支払った。彼らはナチス親衛隊の給料も負担していた)。彼らは用済みになつた労働者を殺すための毒ガスも提供した。これが、アウシユビッツヘの鉄道線路が爆撃されなかった真の理由である。連合国の爆撃機はァゥシユビッツの周囲約八キロは攻撃したが、工場や死の収容所の空域は飛行禁止にされた。実際、ドイツの産業がそこへ移転したのはこのためだった。戦後、CIAは損害を受けなかったフランクフルトのフアルペンの超高層ビルに、そのドイツ本部を設けた。ホロコーストは絶好の「ビジネス」だった。1930年代を通して、ウォール街の投資銀行は「アーリア化」に参加し、ユダヤ人が所有する醸造所や銀行、工場、百貨店などを本来の価値の3割で手に入れた。ホロコーストの犠牲者の義歯から取った金まで、彼らの金庫に入れられた。ナチスの軍事機構は、イングランド銀行(チエコの金準備をナチスヘ譲渡した)やウォール街、ユダヤ人からの略奪品によって資金を調達した。それは弁護士のジョン・フオスター・ダレスと彼の法律事務所サリヴアン・アンド・クロムウエルの巧みな策略によって行なわれた。ダレスは後に米国国務長官になつた。ナチス・ドイツは資本主義の天国だった。週60時間の低賃金労働で労働組合もなかった。ドイツのカルテルは、ヒトラーに資金を提供するずっと以前から戦争の準備を始めていた。周辺諸国がナチスの軍靴に踏みにじられると、彼らはそれまでの競争相手を格安の価格で吸収した。「ドイツの大企業にとって、第二次世界大戦は史上最大規模での略奪のチャンスだった」とサスリーは書いている。

 戦後、デイロン・リードの銀行家だったウイリアム・ドレーバー将軍は、ドイツ産業を解体し、各企業を連合国間で分配するという仕事を任された。言うまでもないことだが、分配など行なわれなかった。ウォール街のドレーバー将軍の仲間たちがそのはとんどを所有したからだ。ナチスの実業家も有力な地位にとどまった。戦犯は南米に送られたり、CIAの下で働いたりした。ナチス・ドイツに80億ドル相当の投資をしていた米国企業のリストには、スタンダードオイル、ゼネラルモーターズ、IBM、フォード、チエース・ナショナル・バンクおよびナショナル・シティ・バンク、IT&T(国際電話電信会社)などが含まれている。結果として、「もっとも偉大な世代」のアメリカ人は、IT&Tが敵の爆撃機の主要部品を製造しているとは知らなかった。フォードやゼネラルモーターズがナチスの運搬車や戦車を造っているとは知らなかった。ナチスの軍備に不可欠なボールベアリングがフィラデルフィアで製造されていながら、米国では供給不足であることを知らなかった。これらはすべて米国政府の認識と同意の下で行なわれたことだ。
 五年の戦争で資産を倍増させた大企業群

 英国へ向かう米国の護送船団はナチス・ドイツで再保険をかけられていた。ドイツの保険会社は積荷や出航時間の詳細を知っており、これらはナチス諜報部へ伝えられた。ジェームズ・マーチインは、著書「すべての高潔な人々」(All Honourable Men、1950年)でこの話に触れている。マーチインは米国司法省戦時経済局の局長で、後にドイツの米軍政府経済部に勤務した。ミュンヘン再保険会社のファイルの中に、マーチインは「写真の束や設計図、米国の産業開発の詳細な記述」を見つけた。「その多くは保険会社経由で入手されたものだった。同時に、それらは我々の戦争経済のきわめて重要な統計資料でもあった」。

 マーチインは、デイロン・リード社やブラウン・プラザーズ・ハリマン(プレスコット・ブッシュが社長だった)といったニューヨークの銀行家が、1920年代、ドイツ産業をどのように合同製鋼やIGフアルペンのような巨大カルテルにまとめたのかについて述べている。ドイツ銀行やドレスナー銀行と結びついた100人に満たない者たちが、ナチスの産業の三分の二を支配し、ナチスに資金を提供していた。「戦前の映画では、上げ足歩調をするナチスがドイツの絶対的支配者として描かれていた」とマーチインは書いている。「我々の(中略)アルフレート・クルップとその工場長たちへの質問はその印象を消し去った。アドルフ・ヒトラーとその党は、自分たちが政権を握るために実業家を頼りにしたこと、そして今後も、そうした実業家の助けを借りた方がより前進できることを決して忘れてはならなかった」。

 ナチスのカルテルはいずれも、デユボンやスタンダードオイル、ゼネラルモーターズ、lT&T、ゼネラルエレクトリックといった米国企業と結びついていた。1944年、マーチインはドイツ企業と米国企業の間の3600もの協定を見つけたが、それによれば重要な原料や特許品はナチスの軍備に回され、米国には与えられなかった。マーチインは敵が政治勢力ではなく経済勢力であることに気づいた。「兵器を必要とせず、あるいは使用しなかったために軍事的敗北を生き延びられた敵の実態がまとまりつつあつた」。マーチインはこう締めくくつている「軍事的結末を除いて、ナチスの実験はその当初からの出資者の目には成功だったようだ。ナチス支援におけるドイツ財界の結束を反映するように、ナチス政府はまさに有力資本家や実業家の目的と利益を支えるために働いた。そして今度は、ナチス体制の経済政策をそのまま維持するため、彼らは戦後の激しい戦いを行なってきた」。

 戦争はナチスの米国のパートナーにとっても成功だった。戦時中の5年間で、米国の大企業の60社がその総資産を2倍以上に増やした。もしエリートがナチスを支援したなら、なぜナチスは勝てなかったのだろうか。読者もご存じのように、それはドイツ国民が敗北し、破壊され、最後には今日のような軟弱者になるように「計画」されたからである。ナチスはドイツ国民を惑わし、欺くための隠れ蓑だった(もちろん、ほとんどのナチス党員は走狗だった)。その一方で、国際的なビジネスエリートは存分に金を稼ぎ、戦争は人類を堕落させ、混乱させて、銀行家による世界政府を受け入れるよう働いた。どの戦争もそうだったように、第二世界大戦はオカルトの金融エリートによる人類への戦争だった。結論として、新世界株序、つまり近代史は、信用の独占を富や政治、文化のすべてに対する独占に変えようとするイルミナチイの中央銀行カルテルによる欲望の産物である。その最終目的は、神の意図から人類を奪い取り、人質として悪魔に引き渡すことだ。
 第二次世界大戦の「きわめて醜い」秘密

 英国植民地(ケニア)の高官だった第22代エロール伯爵ジョスリン・ヴイクター・ヘイ(1901-1941)は、第二次世界大戦の真の理由に気づき、その名を知られることになった。ウインストン・チャーチルは諜報部(特殊作戦執行部)にエロール卿の殺害を命じた。英国政府に植民地の著名な政治家を殺させたほどの「醜い秘密」とは、いったいどんなものだったのか。陰謀者たちはエロール卿の殺害に「ハイランド・クリアランス作戦」という意味ありげなコードネームをつけた。1800年代初頭、スコットランドの農民に対して行なわれたこの無慈悲な立ち退き政策は、新世界秩序による人類の追い立てにふさわしい象徴であり、第二次世界大戦はその推進に大きく貢献した。このケニア・ナイロビ殺人は、1987年に「白い炎の女」として映画化され、エロール伯爵をチャールズ・ダンス、ダイアナ・ブロートンをグレタ・スカッキが演じた。エロール卿の遺体は1941年1月24日の早朝に発見された。車の助手席の足元にひざまずくようにして耳の後ろを撃たれ、それはまるで処刑のような殺され方だった。40歳の男やもめだったエロール卿は人妻のダイアナと不倫中で、その日も彼女を真夜中過ぎに家まで送っていったところだった。嫌疑はダイアナの年老いた夫ヘンリー・ブロートンにかけられたが、裁判の結果、彼は釈放された。映画では、その罪は彼と白人入植者全般の頚廃のせいにされている。もし元特殊作戦執行部の内部関係者がいなければ、この殺人事件は迷宮入りになつていただろう。末期の病を告げられたその人物は、同僚のトニー・トラフォードに情報を伝え、トラフォードは100ページに及ぶメモを作成した。死後、トラフォードはそれを偶然にも同名の作家エロール・トレビンスキに渡し、作品は「エロール卿の生と死‥ハッピー・ヴアレー殺人事件の真相」(The Life and Death of Lord Errol: The Truth Behind the Happy Valley Murder) 、2000年)として発表された。身長188センチで北欧系の整った顔立ちをしたエロール卿は、生来の指導者として由緒あるスコットランドの家柄に生まれ、頭脳明晰で知性に溢れ、正確な記憶力を持つ雄弁家だった。ケニア植民地議会の主要メンバーでもあった卿は、重要な軍事・諜報活動を担う軍事次官の地位にあった。特殊作戦執行部の「ハイランド・クリアランス作戦」には100人以上が関与した。世界大戦の初期段階において、この男を黙らせることがチャーチル政権にとってなぜそれほど重要だったのか。
 新世界秩序を糾弾して口封じされたエロール卿

 ヒトラーは本来、世界戦争には関心がなかった。彼の計画は、英国との緩やかな「北欧」同盟によってソ連を征服することだった。エロール卿はこの同盟を支持する英国エリートの有力派閥「クリヴデン・セット」に属していた。チャーチルを支援する民間のイングランド銀行は、スターリンを脅かし、世界戦争を引き起こして、一気にドイツを破壊するための手段としてヒトラーを祭り上げた。戦争によって、彼らは富と権力を手中に集め、世界政府を邪魔する愛国的エリートを虐殺することができるからだ。銀行家たちはクリヴデンのメンバーを利用し、ヒトラーを騙して英国が彼の計画に同意するかのように思わせた。ナチスは誇らしげな子分のように英国を喜ばせ、彼らに軍備増強についての情報を与えた。ナチスは罠に陥れられたのだ。これが「宥和政策」の真の目的である。クリヴデン・セットは二つのグループに分けられた 一つはその策略に気づいている者たち、もう一つは気づいていない者たちである。エロール卿はヒトラーが共産主義に対する防壁になると心から信じていた後者の一人だった。戦争が始まると、エロール卿は愛国者としての義務を果たした。しかし、彼は多くを知りすぎた。ヒトラーとチャーチルが同じ同性愛のオカルト秘密結社に属していることを知った彼は、M15のスパイ要員にそのことを話したのかもしれない。

 1941年5月、エロール卿の死から3カ月後、総統代理のルドルフ・ヘスはスコットランドへ飛び、ハミルトンに寛大な和平案を提示した。二人はどちらも同性愛者だった。ヘスはランツベルク刑務所でヒトラーの同性愛の相手となり、「わが闘争」の執筆を手伝った。ハミルトンは、ヒトラーとヘスの恩師で「生活圏」の概念を生み出したカール・ハウスホーファーの息子、アルプレヒト・ハウスホーファーと性的関係を持っていた可能性がある。アルプレヒトは、ヒトラーを押しのけ、英国と和平を結ぶことを望んだドイツ・レジスタンスの一員だった。おそらくヒトラーは、英国とナチス幹部の両方にまたがる同性愛のオカルト秘密結社によって生み出された人物である。この結社はドイツでは「トーレ協会」、英国では「黄金の夜明け団」と呼ばれ、アレイスター・クローリーの「東洋テンプル騎士団」とも関連があった。ドルイド団員で同性愛者のウインストン・チャーチルは、このホモ・オカルト組織の一員だった(彼はナチスのシソパとされるエドワード八世の友人でもあった)。しかし、ナチスは英国の隠れた策略に気づいていなかった。エロール卿が口封じされたのは、おそらく彼が共産主義と新世界秩序に反対したからだろう。彼はチャーチルと英国の戦備に疑いを抱き、ヒトラーに警告したのかもしれない。
 旧ソ連という国家はフリーメイソンの創造物

 1940年9月7日、第14代ハミルトン公爵ダグラス・ダグラスハミルトンをはじめとする上位グループは、スコットランドに集まり、エロール卿ジョスリン・ヘイの暗殺を決定した。この件は特殊作戦執行部のカイロ支局が担当することになつた。1940年11月、ケニアヘ渡ったジョック・ブロートンとダイアナ・ブロートンの夫妻は、エロール卿の思惑に気づき、彼を恋愛の三角関係に巻き込んだ。それはエロール殺害の真の目的をわかりにくくするものだった。12月、別のスパイの二人連れがケニアに入り、殺害の夜、車のエンジンが故障したふりをした。エロール卿は女の方を町まで送ってほしいと頼まれ、その女に射殺された。エロールの後ろには無線の追跡チームがいた。暗殺チームは後に「戦争犠牲者」として始末された。トレビンスキの元特殊作戦執行部の関係筋は、エロール卿が殺されたのは、「ハミルトン公爵、チエンバレン内閣の高官、エドワード八世の親友とエドワード自身」を含む支配者層の「元宥和政策派」にとって不都合な事実をエロール卿が知ったからではないかとして、一連の出来事にやや異なった解釈を加えようとしている。ある内部関係者によれば、ルドルフ・ヘスとモイン卿、そしてエロール卿は何らかの「醜い」秘密を握っていた。1944年、モイン卿が表向きにはユダヤ人テロリストによって殺されたのはこのためだった。他にもクリヴデンのメンバーで怪死や早死にを遂げた者として、ロジアン卿(1940年)、ロザミア卿(1940年)、ハリー・オークス卿(1943年)、そして辞職からわずか半年後の1940年11月に「癌」で死亡した元首相ネヴイル・チエンバレンがいた。ハミルトンは1944年に都合よく戦死し、エロールを処刑した二人の特殊作戦執行部の工作員も都合よく殉職した。

 この内部関係者によれば、「醜い秘密」とは、「チャーチルが〔ドイツと和平を結ぶための〕陰謀に気づいていたことではなく、彼がそれに加担していたこと」である。私の直感では、チャーチル、ヒトラー、スターリン、そしてフランクリン・D・ルーズヴエルトは同じオカルト秘密結社(イルミナチイ)のメンバーであり、エロール卿はヒトラーが策略に陥れられていることを知っていた。このためにエロール卿は口を封じられたのだ。究極の「醜い秘密」とは、ソ連という国家がイングランド銀行の資金提供を受けていた英国フリーメイソンの創造物だったということだ。スターリンを制御できなくなつた彼らは、彼を脅かすためにヒトラーを立てたのかもしれない。つまり、スターリンは英国にヒトラーを取り込ませるほどの何かまずいことをしでかしたのだろう。「ロシア共産主義は彼らの新世界秩序というヘーゲル弁証法の片割れだった。今日、それは専制的国家権力や弾圧、教化といった形で現われている。ナチズムも新世界秩序の予行演習だったが、それは彼らの「第二の」手段だつた。エロール卿の死が世間に知れわたれば、各諜報機関は彼らが仕えるふりをしている国家のためではなく、フリーメイソンの中央銀行家たちのために働く。彼らは銀行家の信用独占や世界独裁計画に対する真の脅威を排除するために利用されている。重要なのは、歴史は世界独裁を進めようとするオカルト中央銀行家たちのでっち上げにすぎないということだ。彼らは性倒錯者やはみ出し者に権力を与え、戦争や騒乱を引き起こす。事実、慢性的な鬱病に苦しんでいたウインストン・チャーチルは、騒乱を生きがいにしていた。彼は第一次大戦の初めにこう告白した「あらゆることが破滅と崩壊に向かっている。私はそれに興じ、興奮し、取り憑かれているようだ。こんなふうになるのは恐ろしいことではないか」。これらの怪物たちが、私たちの指導者である。西側社会は悪魔的カルト集団によって堕落させられ、その道徳的破綻は物質的繁栄という仮面で覆われているが、これはそう長くは続かない。彼らが警察国家の構築を進める一方で、知識階級や大衆は、それでも彼らの信用によって買収される。

 「記帳01−0‎ > ‎イルミナテイのTop」の「25、シオニズム阻止を試みたイギリスのユダヤ社会」を転載する。
 シオニズム阻止を試みたイギリスのユダヤ社会

 パレスチナにユダヤ人の「民族的郷土」ナショナル・ホームを建設することを支持するという1917年のバルフォア宣言は、ただ一人のユダヤ人議員エドウイン・モンタギユーの猛反対を制して英内閣により発表された。宣言を後押ししたのは、多数の反ユダヤ主義者を含む非ユダヤ人だった。シオニズムは英帝国主義とフリーメイソンによる「新世界株序」を推し進める道具だったのである。インド担当国務大臣を務めていたモンタギユーは、ロイド=ジョージ首相に告げた。「生まれてこのかたずっとユダヤ人街から出ようとしてきたのに、あなたは無理やりそこへ連れ戻そうとするのですね」。
同化ユダヤ人のモンタギユーは、ユダヤ教は一つの信仰であると考え、シオニズムについては「有害な政治的信条であり、国を愛する英国民にはとうてい支持されない」という見解を持っていた。モンタギユーを見れば、新世界株序が、特定のユダヤ人富裕層、さらに婚姻によってユダヤ人と親戚関係になることの多かった非ユダヤ人名家の主導による「エリートの陰謀」だったことがわかる。それがユダヤ人の意図的な計画であったかどうかという点については、歴史的に見ても彼らがむしろ同化することを選んできたことを考えれば、ユダヤ人の意志ではない。1917年5月、有力なユダヤ人組織の代表委員会はロンドン・タイムズ紙に声明を発表した。「解放されたユダヤ人は一般の国民と異なる政治的野望を抱えているわけではない。ユダヤ人は祖国を持っていないという理論に基づいてパレスチナにユダヤ人国家を建設するということは、我々ユダヤ人が生まれた母国でよそ者のレッテルを張られてしまうことになりかねない」。

 バルフォア宣言はパレスチナにユダヤ人の民族的郷土を約束した。ひとつには、これはアメリカを第一次世界大戦に巻き込んでイギリス側につけたことに対するシオニストヘの報酬でもあった。シオニスト組織の代表だったハイム・ヴアイツマンは、合意を取りつけるための最大の障害がユダヤ人の反対であることに激怒した。ユダヤ社会は分裂した。サミユエル家やロスチャイルド家はバルフォア宣言に賛成した。コーヘン、マグナス、モンテフイオーリ、モンタギユーは反対だった。「これが単にユダヤ社会内のシオニストと非シオニスト分派のあいだの問題なら、まちがいなく後者が勝っただろう」。ハイム・パーマントは著書「親族」(The Cousinhood)に記している。「だが、非ユダヤ人のシオニストを考慮する必要があった。彼らが時代を動かしていたのだ」。そうした非ユダヤ人には、アーサー・バルフォア卿、ミルナー卿、ロジアン卿のフイリップ・カー、ロバート・セシル卿が名を連ねていた。ハイム・ヴアイツマンは、シオニズムがさらに大きな計画の一部であることを見抜いた。「〔セシル〕にとって、パレスチナにユダヤの祖国を再建し、世界を巨大な連邦とする世界機構を作ることは、人類を思いのままに操るという次の一歩に向けた補助的な役割にすぎない」(リード「シオン論」(The Controversy of Zion)。

 ジョージタウン大学のキヤロル・キグリー教授は「英米権力体制」(The Anglo American Establishment)1981年)の巻末付表で、この世界政府の陰謀に加担している100人の名を挙げている。上記の人物に加えて、セシル・ローズ、ライオネル・カーティス、ウィリアム・T・ステッド、ジエフリー・ドーソン、グレイ伯爵が含まれている。見たところ、ユダヤ人はネイサン・ロスチャイルド、レオポルド・エイメリー、アルフレッド・バイトの3名だけだ。何世紀にもわたって、セシル家を中心とする貴族の集団がイギリス政治を支配してきた、とキグリーは述べている。1891年、彼らはセシル・ローズとネイサン・ロスチャイルドの手による秘密結社を結成した。ローズが言うところの「イギリス帝国拡大のための教会組織」である。「ラウンドテーブル(円卓会議)」あるいは「ミルナーグループ」と呼ばれるこの集団の目的は、イギリスのエリートによる世界支配とアメリカの再植民地化だった。「教会組織」はフリーメイソンだった。シオニズムを支援した政治家は総じて高位の会員だった。恐らく何人かはイルミナチィだろう。「世界政府」は魔王ルシファーをこの世の神として崇めようとしている。シオニズムと共産主義はこの計画に捧げられたフリーメイソンの組織だ。
 同化ユダヤ人の英雄、その数奇な人生

 エドウイン・モンタギユーは銀塊取引業者サミユエル・モンタギユーの次男として生まれ、父親の正統派ユダヤ教と、自分はイギリス人でありたいという欲求との板ばさみになっていた。彼はユダヤ教を突っぱねたが、ユダヤ人であることを捨てるつもりはなかった。「自分の見識に応じた立派なユダヤ人でありつづけます」と彼は父親に書き送っている。「ただ父さんとは定義が違うのです」。若い時分は、儀式を守ったりユダヤ人女性と結婚したりしなければならないことに苛立った。大人になってからは、名門英国紳士の生活スタイルを取り入れた。地方の私有地で狩りを楽しみ、動植物や鳥類の知識を得た。「何かこう、イギリスに対する愛情の奥底に異質なものがあった」とパーマントは述べている。片眼鏡をかけていて、背が高く、野暮ったい感じのするモンタギユーは、密かに友人やライバルから物笑いの種にされていた。だが彼の「醜さを魅力がかき消してしていた」と友人のダフ・クーバーは記している。「ぶざまな巨体だけれど、穏やかな低い声、そして優しくきらめく黒い瞳を持っていた」。ケンブリッジ大学で討論を得意としていたモンタギユーは、ライバルのオックスフォード大学学生クラブの代表だったH・H・アスキスの目を引いた。モンタギユーはアスキスを追って政界入りし、1906年に自由党が圧勝してからは彼の個人秘書兼友人となった。優れた管理能力を持ち、説得力のある弁論を得意とするモンタギユーの未来は明るいかに見えた。1908年、アスキスは首相の座に就いた。彼とモンタギユーはそろって、アスキスより35歳も年下の、アスキスの娘の友人ヴエネシア・スタンリーに夢中になった。アスキスの熱愛に堪えられなくなったヴエネシアは、彼女より8歳年上のモンタギユーと結婚した。アスキスは当惑した。モンタギユーは「〔アスキスは〕男らしくない。むら気で神経質で病気の魂だ。ひどく自分の考えにとらわれている。それにいや、これ以上気が滅入るようなことを並べ立てるのはやめておこう」と記している。イギリスヘの愛情と同じように、モンタギユーのヴエネシアヘの愛もまた報われなかった。彼女は「人生を最大限に楽しむ」ために生き、多くの男性と肉体関係を持ち、婚外子を産んで(モンタギユーが養子として迎え入れた)、彼の財産を喰いつぶした。だが彼はまったく意に介さず、45歳での早すぎる死を迎える前夜、彼女に一筆したためた。「もう逝かなければならないのがつらい。きみはぼくを幸せにしてくれた。いつまでもきみの幸せが続きますように」。彼にも婚外子として生まれた娘があった。また、モンタギユーはインドとケニアで植民地支配を受けている人々の権利を擁護したため、イギリス権力組織内の人間からこころよく思われていなかった。早すぎる彼の死には疑問が多い。
 バルフォア宣言に盛り込まれたパレスチナ条項

 1917年、モンタギユーは内閣のバルフォア宣言に反対して、政府の反ユダヤ主義はユダヤ系イギリス人をまとめて「よそ者の外国人」扱いにしてしまうと非難する文書を配布した。「シオニストから一人残らず公民権を剥奪することに異存はない。シオニスト組織は違法であり、国家の利益に反するものだとして禁止したい」と彼は述べた。むろん彼は正しい。しかしながら、銀行家の息子であったにもかかわらず、モンタギユーはフリーメイソンとシオニストの世界政府計画に気づいていなかった。彼らがパレスチナ確保に120万もの兵力を回したため、あやうく欧州大戦で敗北を喫するところだったほどである。しかもそれを実行するために、アスキスと陸軍参謀総長のウイリアム・ロバートソン将軍を更迭させることもやってのけた。モンタギユーは、この反ユダヤ主義を「馬鹿げた憎悪」だと片づけてしまうかわりに、その理由を理解しょうと試みた、数少ないユダヤ人のうちの一人だった。「ユダヤ人社会が嫌われていることはずっと認識していた。人数から見れば、我々はこの国の物資や好機の分け前を必要以上に取りすぎてきた。概して早熟なので、同じ年代の人々と張り合うのは不公平というものだ。我々の多くは限られた友人しか持たず、自分たちと異なる考え方を拒絶する態度をとる。英国の多くの非ユダヤ人がユダヤ人を追放したいと願うことは容易に理解できる」。「だが、キリスト教徒の英国民のあいだで思想や生活様式が共通していないのとまさに同じように、ユダヤ人の英国民にも共通性はない。我々は以前にもまして、パブリックスクールや大学で教育を受け、この国の政治家、軍人、公務員としてみずからの使命を立派に果たすようになってきている。そして喜ばしいことに、異なる宗教間の結婚に対する偏見も崩れつつある。しかし、ユダヤ人に民族の故郷ができれば、まちがいなく、我々からイギリスの市民権を取り上げようとする動きは一気に加速する。パレスチナが世界のユダヤ人強制居住区域(ゲットー)になってしまう」。モンタギユーのおかげでバルフォア宣言には以下の条項が盛り込まれた。「パレスチナに存在する非ユダヤ人社会の公民権ならびに宗教権、あるいはパレスチナ以外の国々に居住するユダヤ人が享受している権利ならびに政治的地位に損害を与えるようなことは一切あってはならない」。
 世界政府の陰謀に騙されたユダヤ人

 ユダヤ人は自分たちがスケープゴートであることは悟ったが、自分たちを利用しているのが世界政府の陰謀団であることまではつかめなかった。シオニスト、共産主義者、自由主義者、フエミニスト、あるいは新保守主義者の組織を介して、陰謀団はユダヤ人を騙し、人間のアイデンティティーや社会的な結びつきを支える四本柱、すなわち「人種」、「宗教」、「国家」、そして「家族」を根底から切り崩すような政策やプロパガンダを提言させた。そのため一見すると、ユダヤ人全般が新世界秩序を招いているように見えてしまう。多くのユダヤ人が無知であるがゆえにこの陰謀の存在を否定し、銀行家が非難を受けるたびに「反ユダヤ主義だ」と声を上げる。それでは何にもならない。多くの人々がイスラエルは必要だと思い込まされていることにしても得るところはない。事実、イスラエル国民は、フリーメイソンのエリート銀行家による中東確保に利用されているだけだ。イスラエル最高裁判所の新しい建物はロスチャイルド家が資金を提供して設計されたもので、いたるところにフリーメイソンの象徴(シンボル)が見える。ロスチャイルド一族の一部とユダヤ人の協力者らはこの悪魔の陰謀に加担している。だが、ほとんどのユダヤ人はそれぞれの国を第一に考え、世界政府への関与など望んでいない。温和で誠実な礼儀正しい人物、エドウイン・モンタギユーはそんなユダヤ人の代表であり、皆なを元気づけてくれる。
 最悪の反ユダヤ主義者はシオニストだ

 最悪の反ユダヤ主義者はシオニストである。彼らが反ユダヤ主義を生み出し、それを利用して、イルミナティの銀行家による世界政府独裁政治計画を推し進めるためにユダヤ人を騙して操っている。シオニズムは保護を語ったゆすりであり、ユダヤ人に対する陰謀だということを、私は以下の論説で明らかにしていこうと思う。ここでは、シオニストがごく普通のユダヤ人から文化的ならびに精神的表現の自由を奪い、自らの邪悪な大義のためにユダヤの人々を乗っ取ったということを提言したい。シオニストがアメリカ政府を支配するのに先立って、彼らはまずアメリカのユダヤ人社会を支配して、自分たちの手先とした。ヘンリー・ハーウイツツのメノラ・ジャーナル誌とメノラ協会は「ユダヤの祖国」を支援する組織ではなく、アメリカ・ユダヤ民族がみずからを文化的、精神的に理解することを目的とする試みだった。だがシオニストはこの自由な民主主義集団を抑圧した。ちょうどアメリカ国民全体から政治と文化の自由を奪ったのと同じように。
 メノラ協会を圧死させた「ユダヤ系慈善団体」

 ヘンリー・ハーウイツツは1906年、ハーバード大学にメノラ協会を創設、次いで1915年にメノラ・ジャーナルを創刊した。メノラ運動は「アメリカにおけるユダヤ人文化と理念の研究および向上」を支持していた。第一次世界大戦が終わるころまでには、大学連合メノラ協会、夏期学校、教育会議、講師会を持つまでに広がっていた。本質的にこの運動は、ユダヤの歴史、精神、文化に関して、教義を押しっけることなく、また政治色を持たずに研究することを奨励していた。様々な異なる見解を表明することができ、当初は中央銀行家たちから支援を受けていた。ところが、ハーウイツツが、ユダヤ教とシオニズムとは何ら関係がなく、ユダヤ人はアメリカでまったく気兼ねなくのびのびと生きていけばよいと主張したとたん、銀行家がメノラ運動の資金援助を凍結した。1958年、ハーウイツツは友人に書き送っている。「あちこちの資金豊富な組織からそれとなく複数の引き継ぎの申し出があった。それで財政面での問題は解決するだろう。だが、我々の自由すなわち真の生き方は失われた」(メヌーヒン「現代ユダヤ教の衰退」(The Decadence of Judaism in Our Time、1965年)。

 メノラ・ジャーナルの1959年秋冬号で、ハーウイッツは「偏狭な行為」、つまりはシオニストの銀行家によるユダヤ民族の組織的支配がもたらす影響について述べている。「この偏狭な行為による攻撃の標的は、歴史と定評のある独立した一組織と、おそらく半世紀以上ものあいだユダヤ教に何らかの貢献をしてきたであろうその雑誌だけにとどまらない。この偏狭な行為は、アメリカ・ユダヤ人の社会生活を毒している。アメリカの根本原則である言論の自由と報道の自由を抑え込もうとしている。ユダヤ系国民による非課税の慈善基金を管理しているがゆえに、気に入った組織には豊富な資金を提供し、屈服しない者は餓死させる権限を手にしている〔者の〕公正な判断に制裁を加えている。かくして実際に、イスラエルの人々が長期的視野に立ったときに、彼らにとってもっとも利益になることは何かと理性的に考察することを妨げているのである。さらに、周知のように、本来任意の慈善的な寄付であるはずの大部分が、罰としての経済的および社会的な制裁という脅しを用いて実業界や職業人から引き出されている。これはテロリズムの類に属する、とはっきり事実を述べなければなるまい。このようなテロが、ユダヤ人の大規模基金集めにおいてもっとも効果の高い手段となってしまっている」(メメーヒン『現代ユダヤ教の衰退』)。残念なことに、メノラ運動はその創設者とともに1961年に終焉を迎えた。その仕事は一部がアメリカ・ユダヤ教会議と、その創設者であるエネルギッシュなラビ=エルマー・バーガー(1908-1996)のもとに引き継がれていた。1965年、モシエ・メメーヒンはアメリカ・ユダヤ人の暮らしぶりを以下のような言葉で表わしている。「今日のアメリカでは、ユダヤの文化、さらにユダヤの信仰さえもが『ユダヤの』国家主義へと変質してしまっている。そしてユダヤ人慈善家、ユダヤ人学校、ユダヤ人専用の事業は、いくつかの立派な例外を除いてみな根底から崩され、『ユダヤの祖国』建設のために使われている」。この描写の代償として、モシエ・メメーヒンは著書を自費出版しなければならなくなつた。
 非シオニストだけがホロコーストの犠牲になつた

 「保護を語ったゆすり」とは、攻撃者が「偽装」攻撃をけしかけ、実在しない人物にその非をなすりつけておいて、被害者をその犯人から守るという名目で金銭や権力を取り上げることである。現下の 「対テロ戦争」がこれにあたる。攻撃者はロンドンを本拠とする世界金融のエリート集団で、「クラウン」として知られている。彼らの道具はシオニスト計画、厳密にはイスラエル政府、イスラエルの秘密情報機関モサド、そしてアメリカ国内の新保守主義者とシオニストの集団だ。被害者はアメリカと西側諸国全般の人々である。目的は西側文明を破壊して、「新世界秩序」という名の世界警察国家を打ち立てることだ。「シオニズムはただ計り知れないほど遠大な計画でしかない」と、アメリカのシオニストの第一人者で、1917年にクーン・ロープ商会の銀行役員の顧問だったルイス・マーシャルは述べている。「強力な武器をぶらさげておく便利な釘にすぎない」。

 国土安全保障省の長官はイスラエルとの二重国籍を持つシオニスト、マイケル・チャートフだ。世界貿易センターが崩れ落ちて喜んでいる場面を目撃された五名のモサド諜報貞が逮捕されたとき、彼はニュージャージー州検事だった。諜報貞のワゴン車からは爆薬反応が検出された。9・11事件の前に航空会社の株を空売りした投資家はイスラエル人だったことが判明している。

 ユダヤ人のエリートは、ユダヤ人の一般人を将棋の駒に例えるなら、巧みに操れる歩だと考えている。「反ユダヤ主義は、劣等な同胞を操作するのになくてはならないものだ」と「シオン長老の議定書」の執筆者は語っている。イスラエルを「民族的郷土」として建設する。即ち、中東を植民地化して世界政府の中核を築き上げるためにはユダヤ人を脅迫する必要があった。ウォール街と英中央銀行であるイングランド銀行はナチスに資金援助をした。シオニストは積極的に彼らと協力していたのだ。ユダヤ人が無抵抗で死へと向かっていった原因はシオニストの裏切りだった。ラビ=モシエ・ションフエルドは著書「ホロコースト犠牲者の告発」(Holocaust Victims Accuse、)でそう述べている。「生贅」から道徳的そして財政的な資産を奪い取ったシオニストの指導者たちにとって、シオニストではないユダヤ人は、生きているよりも死んでもらうことに価値があったのである。ユダヤ人のエリートには、ユダヤ人をこのように扱ってきた長い歴史がある。例えば、1950年、反ユダヤ主義とイラク国内のテロが高まったことを受けて、21歳のナエイム・ギラデイはシオニストの地下組織に加わった。ギラデイはイラク当局によって投獄され、拷問を受け、死刑を言い渡された。彼は脱出してイスラエルに逃げ延びたが、そこでわかったのは、反ユダヤ主義も爆撃も、イラクのユダヤ人を騙してイスラエルに向かわせるために同胞のシオニストが仕組んだということだった。古くから続いてきたイラクのユダヤ人社会は、富を奪われ、イスラエルでは二級市民の地位に定められた。パレスチナ人の労働力の代わりにすぎなかったのだ。モシエ・シヤレット首相の秘密の日記によれば、イスラエルは「精神的緊張を保つ」ために近隣諸国を挑発して攻撃させている。同国は戦争を始めるために「危機を作り出す」必要があり、そうすることによって「領土を手に入れる」と彼は記している。
 「反ユダヤ主義」が「反米主義」になる瞬間

 9・11事件のような大虐殺は、アメリカ人に衝撃を与えて、公民権剥奪と中東侵略へと暴走させるために計画された。メディアは一斉に声を上げて、アメリカはイスラム過激派の犠牲になったと主張し、国民を納得させようとしている。このプロパガンダ・キャンペーンは新保守主義者、またの名をシオニストの手によるものだ。マイケル・コリンズ・パイバーは著書「新エルサレム‥アメリカのシオニストパワー」(The New Jerusalem: Zionist Power in America、) のなかで以下のように述べている。

 「イラク戦争へと発展させるなかで、シオニストのプロパガンデイストやメディアはアメリカ国民に対して、『全世界が敵だ』というメッセージを一段と強く売り込むようになった。そしてイスラエルだけが信頼できる強力な同盟国だとも。反米主義が激しく巻き起こつたという考えが少しずつアメリカ人に浸透していった。その目的はまさに、イラク戦争、そしてさらに広大なシオニストの計画を支持しない者すべてを『敵視』させることだった」。パイバーは、シオニズムがアメリカニズムと同一のものだと考える。ナタン・シヤランスキー(旧ソ連の反体制運動家・作家で、イスラエルに移住して政治家に)のようなシオニストの手先が、アメリカが武力を用いてシオニストの計画を推し進めることを確約するなどという、度が過ぎた、そしてまことしやかなブッシュ大統領の二度日の就任演説を練り上げたのである。これが行き着くところはどこか。歴史が冷静な警告を送っている。ロシアの作家ウラデイーミル・ステピンは、彼の論文「シオニズム本来の姿」(The Nature of Zionism、)に書き記している。「ロシアの内戦中も、シオニストは仕事を遂行した。赤軍の部隊をいくつか利用して、セヴエルスクでユダヤ人大虐殺を行なつた。革命軍事会議長はトロッキーだった」。結果は、1918年7月27日の「大虐殺に関わった者に関する法律」だ。この法に沿ってロシアでは10年ものあいだ、シオニストによる不条理なテロが猛威を振るつた。反ユダヤ主義の疑いがかけられると、一切の反論は許されず、大虐殺に関わったとみなされて、銃殺されるべく壁に向かって立たされた。シオニストに反対を唱える者だけではなく、ロシアの知識人を代表する顔ぶれもまた反ユダヤ主義だと非難される可能性があった。誰かがその気になれば、誰もが非難の対象になり得たのだ。民衆は、ロシアで権力を振るつているのが何者かを知り、不満を表明した。1918年から1922年にかけて、ソビエトの保安機関チエカの9割はシオニストだった。大虐殺に関わった者に関する法律以外に、シオニストはロシア国内に居住していた少数民族の集団殺戟を実行し、そうしながら反革命活動や破壊行為などに関わったとしてそれらの人々を非難した。実際にその糾弾された人々がそのような行為に及んだかどうかは無関係だった。単に銃殺刑に処するための常套手段にすぎなかったのである。

 世界金融のエリートは、軍事ならびに情報機関内のフリーメイソン秘密結社を利用して、テロの90%に関わっているのではないかと私は考えている。目的は、人々を操って新世界秩序の様々な目標へ向けて前進させることである。そこには真の信仰、国民国家、民主主義、人種、家族を破壊することも含まれている。彼らの考えに基づけば、政府の信用、すなわち資金創出を独占しつづけるためには、私たちを動揺させ、支配しなければならないのである。彼らは自分たちが作り上げた「テロ」から私たちを守るためだと騙ってゆすりを働いている。シオニスト、あるいはこの犯罪計画を実行するアメリカ人は、ひとつ間違えば全責任を負うことになるかもしれない。いや、それが正しいと言うべきだろう。忘れないでほしい。彼らは全宇宙でもっとも大きなカ、すなわち神、あるいはすべての人々の魂に内在する真実に挑もうとしているのだ。彼らが遂行した9・11テロ事件について、彼らは今もっとも非難を受けやすい状態にある。私たちがこの残虐行為の真相究明を求めれば、彼らの忌まわしい犯罪計画は崩壊し始めることだろう。





(私論.私見)