「1947年9月20日、天皇が、日本占領軍の指揮官ダグラス・マッカーサーと、マーシャル国務長官に送ったメモが、ワシントンの米国・国立公文書館に存在している。そこには、『沖縄に米軍の大部分を駐留させ、沖縄を米国領土とすることによって、日本本土を米軍支配から独立させる方法を取りたい』と、記載されている。つまり沖縄を『日本から切り捨て』、『沖縄だけに米軍を置き、犠牲にする事』を、天皇自身が米国に『提言』していた」。 |
「太平洋問題調査会に集った人々 太平洋問題調査会は(IPR)は、大正15年(1926)から日本で常設となった機関であるが、これはロックフェラーとソ連の指令下にあった秘密工作組織である。
「日支闘争計画案」は大正7年(1918)にモスクワのイルミナティ会議(ユダヤとボリシェビキとの合同)で採択されたが、内容は「日本と支那の内部破壊をはかるとともに、支那に反日運動を起こさせ、日支の武力闘争にまで発展させる。これをソ連とアメリカが参画する戦争にまで発展させて日本を倒し、同時にヨーロッパに社会革命を起こさせる第二次世界大戦を計画する」というものである。
IPRの日本代表は、新渡戸稲造、松岡洋右、鶴見祐輔 であり、幹事長はキリスト界の斉藤惣一である。
第三回会議は昭和4年に京都で開催され、アーノルド・トインビー、ジョン・ロックフェラーⅢらが参加した。米国代表のオーエン・ラティモアはソ連のスパイ。親英・親米と見せながらコミンテルンに身を置いていた、西園寺公一も参加。
IPRは以後対日・対中謀略ルートとなり、ゾルゲもこのルートをたどった。尾崎秀実もIPRの協力者である。
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世界支配の英国諜報網とユダヤの金権情報網が合流したユダヤ・フリーメイソンは、日本の政・財・経・軍の機密の大略を入手していた。それは、フリーメイソン網と、その外郭情報機関であるロータリー・クラブからの報告によるものであった。それらの情報は、上海にあったユダヤ・サッスーン財閥に集められた。 |
日本は、チャーチル、ルーズベルトによって戦争に引き込まれた。 |
「フリーメイソンはユダヤの組織である。その歴史も階級も、職務、標語、規則もユダヤのものである」(ユダヤのラビ、アイザック・ワイズ) |
ユダヤ・フリーメイソンの陰謀が日本で問題視されたのは、ナチスの宣伝やシベリア出兵後のことではなかった。新渡戸稲造や吉野作造らがユダヤ・フリーメイソンであったことが知られていた。 |
ユダヤがユダヤの砦として造りあげた二つの人造国家、フリーメイソンによるアメリカとマルキシズムによるソヴィエト社会主義共和国連邦とは、表は拮抗対立と見せ、裏は一つに結んでいた。赤と白として見せたほうが、ユダヤが儲かるというだけのことであった。 |
平沼騏一郎、赤尾敏、大川周明は米国の対日工作員であった |
甘粕のこの説明のなかで、特に興味を覚えるのは、彼がはっきりユダヤ禍を口にしたことである。そのユダヤの陰謀が日本に禍いしていたこと、さらにはユダヤの陰謀に大杉が関与していたことを甘粕が知っていたということである。日本の重臣どもが既にユダヤの虜になっており、その重臣の意によって動く警視庁では、このユダヤの禍根は断ち切れぬと甘粕らが判断してかかった事実は、ユダヤ問題をナチスの宣伝とした大川(周明)や石原(莞爾)らの主張に反駁するに足る証左といえよう。 |
ルーズベルトは就任早々ユダヤの要請に基づいて、日本に戦争を仕掛ける計画をたてはじめた。計画に参加したのはIPRのヘンリー・スチムソンである。一方ユダヤは同委員会を利用してゾルゲをはじめ共産主義者らに日本のスパイ網を組織させた。資金はチェースマンハッタンから出た。西安事件は、抗日擁ソのための統一戦線構築のためで、日本の戦力拡散をねらったものである。
宇垣内閣では、ゾルゲグループの一員であった米共産党系の宮城与徳の近親者・矢部秀が秘書をしていた。林内閣ではコンミンテルンの浅原謙三と十河信二が密着していた。近衛内閣では、後藤隆之助による昭和研究会の取り巻かれながら、左翼の風見章を中心に、ゾルゲ関係の尾崎秀実、西園寺公一らによって牛耳られていた。
これと前後して、蒋介石を盟主とし日本を米国の1州として、アジアをソ連が支配するという原理にたつ東亜連盟が、石原完爾を表にたてて偽装右翼活動をとりはじめた。石原を林銑十郎に進言して仙台から参謀本部に転出させたのは浅原謙三である。
すべては夷をもって夷を攻めさせるという日支闘争計画を知らないでは理解できない。近衛も米内も、日支の衝突を画策する者のあることを感じてはいたが、その正体を知らなかった。
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ユダヤが策した日支闘争計画
1919年(大正7)にモスクワでイルミナティ(ユダヤとボリシェビキの合同)会議がひらかれ、「日支闘争計画案」が採択された:
・日本と支那の内部破壊
・支那に反日運動を起こさせる
・日支武力闘争から、ソ連・アメリカが干渉する戦争へ発展させて日本を倒す
・ヨーロッパに社会革命を起こさせる第二次の世界大戦を計画する
この実行機関となったのがIPR(既出)である。
1931年(昭和6)の満州事変以来、ユダヤが日本と中国の共産党にとらせた行動とは:
・中国大陸への日本の進出を軍事的に失敗させ、日本の革命を進める
・中国人民の抗日感情をあおり、国民党と日本の妥協を不可能にする
・戦線を華北から華南にまで発展させ、ソ連包囲体制にひびを入れ、国府軍と日本軍との衝突の間隙に乗じて中共の発展をねらう。
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日本がとらされた南進策
1936年(昭和11)にヨセミテでIPR総会が開催され、日本側委員として尾崎秀実が出席した。関東軍に南進策をとらせてソ連の苦境を救い、日本とアメリカを戦わせる。ソ連を討つのは日本が敗れた時である、というのが会合の目標であった。尾崎はこれに従って資料をでっちあげ、東条に南進を決断させた。なお、1937年(昭和12)にほソ連は日本を攻撃する決定をしている。 |
ユダヤの操り人形・ルーズベルト
ルーズベルトは就任早々ユダヤの要請に基づいて、日本に戦争を仕掛ける計画をたてはじめた。計画に参加したのはIPRのヘンリー・スチムソンである。一方ユダヤは同委員会を利用してゾルゲをはじめ共産主義者らに日本のスパイ網を組織させた。資金はチェースマンハッタンから出た。西安事件は、抗日擁ソのための統一戦線構築のためで、日本の戦力拡散をねらったものである。
宇垣内閣では、ゾルゲグループの一員であった米共産党系の宮城与徳の近親者・矢部秀が秘書をしていた。林内閣ではコンミンテルンの浅原謙三と十河信二が密着していた。近衛内閣では、後藤隆之助による昭和研究会の取り巻かれながら、左翼の風見章を中心に、ゾルゲ関係の尾崎秀実、西園寺公一らによって牛耳られていた。
これと前後して、蒋介石を盟主とし日本を米国の1州として、アジアをソ連が支配するという原理にたつ東亜連盟が、石原完爾を表にたてて偽装右翼活動をとりはじめた。石原を林銑十郎に進言して仙台から参謀本部に転出させたのは浅原謙三である。
すべては夷をもって夷を攻めさせるという日支闘争計画を知らないでは理解できない。近衛も米内も、日支の衝突を画策する者のあることを感じてはいたが、その正体を知らなかった。 |
南進を決定づけた謀略レポート
1941年(昭和16)に独ソ戦が始まると、ソ連は「日本がシベリアに侵攻しないようあらゆる工作をすべし」との指示を日本共産党員にだした。満鉄調査部にいた左翼の佐藤大四郎は、シベリアの農産物と畜産事情のレポートを求められて、「日本軍100万の食料はシベリアでは調達不能」という報告書を提出した。同調査部には尾崎秀実もいて、この内意を佐藤は受けていた。
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ユダヤに踊らされた日本人
米内光政の身内や縁故者たちから、国家機密が敵国に流されていたのは事実である。縁故者の中には東条の鎌倉での生活費を賄っていた者もいる。ミッドウエーの敗戦は、ユダヤ問題の犬塚惟重と国際連盟に身を置いた稲垣守克が情報を流したことによって起こった。
大川周明は、裏表が多く、見え透いた嘘が多い扇動家である。北一輝も扇動家であり、北と大川の訣別は安田保善問題が原因といわれるが、金の分け前を巡る争いである。この金銭授受にはユダヤの代理人巖本善治が関係している。巖本は米英ユダヤの手先となり、私設外交官として暗躍していた男で、大川周明との関係は愛国陣営にまでもユダヤの手が伸びていたことを示す。巖本と大川の資金元は上海ユダヤのハードン財閥である。大川は反英を装いながら親米であり、ユダヤの資金ほしさに巖本に近づいた。
大川のいわゆる日米経済提携というのは、ユダヤの対日謀略の一環として計画されたもので、ユダヤ資本の援助を受けていた西川末吉からでたものである。
大川は戦後、自分は中国と事を構えるのに反対していたと書いているが、これは明らかな嘘である。
佐々弘雄が戦後に大川周明、楢橋渡、児玉誉士夫の三人がハードン財閥と直結していたことを発表している。
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