原発作業員直ちに予防治療国費で(katsuko)氏の国際ユダ屋論

 (最新見直し2015.02.17日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「原発作業員直ちに予防治療国費で(katsuko)氏の国際ユダ屋論」を転載しておく。

 2015.02.17日 れんだいこ拝


 2014-04-05 21:57:44

『ユダヤは日本人に~』れんだいこさん概要続き

テーマ:LOVE PEACE

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 真の戦争犯罪人ユダヤ(36P)

 こう見て来ると、第一次世界大戦もユダヤの世界支配計画によって勃発させられたものであり、それゆえに敗戦によってドイツが賠償の責を負うこともなかったし、第二次世界大戦後の日本における東京裁判もまったく不正義なものであつた。すべてユダヤの為すがままの世界の動きなのだ。今や世界は一つになって、ユダヤのことを考えてみなければならないことになる。まさに「ユダヤ対世界」という図式の問題である。

 第一次世界大戦も、第二次世界大戦も、ユダヤが計画し、勃発させたものである。それゆえに英国の元首相チェンバレンも、「イギリスに戦争を強いたのは、アメリカと世界のユダヤ人とである」と言明していたのである。真の戦争犯罪人はユダヤなのだ。


 あてがわれた女たち(44P)

  そして、ここに私は、原子兵器関係の機密に関連した東北大学金属研究所に起きた一青年助手の死が、単なる自殺として葬り去られてはならなかった理由をみるのである。彼の死は、宮城県警当局によって自殺と断定されたのだが、それは既に日本が敵国の張り巡らしていた対日攻略網に取り込まれていたからであり、真相究明のために捜査に乗り出すとしても、その上層部にはそれを阻む組織ができあがっており、満足な捜査もできない仕組みになっていたのである。 ここで、この失踪死した金属研究所員の件をいっそうよく理解するために、この青年の周囲の状況を振り返ってみることにする。

  菊池清太郎というこの青年は、仙台市の東北帝大に籍をおいていたが、彼のように重要機密の研究にたずさわっていた軍関係の委託学生や青年技術下士官たちは、等しく敵国スパイの狙うところであり、その謀略の罠からは容易に逃れ得なかった。

  まず、彼らには手頃の女性がかならずあてがわれる。それら女性の身元、品格、性情なども綿密に調べ上げられており、あてがう男の好みにあった女性がつけられる。カトリック教会や聖公会につながる良家の婦女子もあれば、夜の女たちもいた。 したがって、その関係も正式に結婚を予定したものもあり、単に性の享楽だけの者もいた。その逢い引きには、あらかじめ諜報のためにしつらえられていた共産党員の家や、東亜連盟の関係者の家の一室が提供されていた。

  情報の盗り方にもいろいろあったが、特定の良家の子女と婚約していた委託学生が、婚約者以外の女性と、仕組まれた場所で会っていたとする。あらかじめ指示を受けていたその女は、きわどいところまで男を誘っておき、頃合いを見て叫び声をあげ、助けを求める。そこに主人という男が踏み込んで、その学生の弱みを握り、許嫁者(いいなずけ)の親元に言うぞとおどして機密を聞き出し、その後も「機密を漏らした」ということで、さらに深く探り出すという仕組みもあった。

  このようにして洩らされた機密が敵国に流れ、それによって精鋭青年技術将校団の移動が敵に知られ、極秘に極秘をかさねたにもかかわらず、忽然と雲間から舞い降りる敵機や、突如波間に浮かんだ潜水艦によって、一瞬で海の藻屑となって消え去った悲劇が幾度もあった。


 秘密地下室の拷問部屋(47P)

 私が仙台の空襲の報を聞き、東京から翌朝仙台に着いてすぐ現地を見にいったところ、建物も地下室も空爆を受けて跡形もなく破壊しつくされていた。大東亜戦争直前に真白く塗り替えられた細い高い煙突の換気搭も、空襲の目標としての任務を終って瓦礫となっていた。(中略)

 東京が空襲されていた頃、私は銀座方面に出かけて、敵機がどこを狙うのかを確かめようとしたことがある。大本営では敵機の盲爆を宣伝していたが、実際は逆で極めて精確であり、見事な狙いだった。敵の攻撃目標を事前に察知することは、市民を被曝から守るために絶対に必要なことであった。敵機が爆撃しない地点、市民を誘導して待機させうる場所、それはいくつか予断できた。例えば、動坂の聖学院、銀座の教文館ビル、服部時計店などもそのうちの一つであった。実際、銀座の空襲直後に見回ったところ、服部ビルと教文館ビルとは無傷でそのまま残り、紙一重で両ビルの間のビルと商店街は壊滅させられていた。


 フリーメーソンのユダヤ化(64P) 

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 満州国の存在を許さなかったイルミナティ(67P)

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 世界支配に邪魔な日本への敗戦指令(76P)

 その国その民族から国家意識と民族感情を取り去って、いわゆる精神的国際人を作り上げるために「ユダヤの寺」が用いていた観想の法に、「心内の声を聴く」という心霊術系統の念法があった。聖霊主義を唱えていたキリスト教諸派・終末論的無教会派など、いずれも同じ流れを汲むものであり、心霊術の研究とテオブル・ティピングなども、この寺に出入りする者たちの間で流行していた。

 この心霊術系統の諸研究は、その頃の日本の新興宗教の根底をつちかうものになったのであるが、大本教をはじめとして大禮堂、岡田茂吉のメシア教、大本教から出て般若心経の空観に立ち、華厳の実相論を踏まえ、カールメニンジャーとクリスチャン・サイエンスの体系を作り上げた谷口雅春にいたるまで、いずれも「心内の声を聴く」系統につながるものである。一般に実相論起こりて国滅ぶといわれるように、インドも大乗実相論が普及して国家が滅んでいる。


 心内の声を聴くには国境はない、という考え方になると国家を脱することとなる。信教の自由を唱えるフリーメイソンはそこを狙っている。心内の声によって国を失い、やがてきたるべき神の子の天降りを待ち望むこと、これ旧約の書と新約の書であるキリスト教教典の示すところだ。

 キリスト教会で使う児童向けの絵カードに、白衣に緋色の衿姿の少年が、天空から射る光の中に座した姿のものがあった。聖公会で目にしたものだ。これはイエスの再臨を表現している(引用注:実は反キリスト世界王ですかね)。これが昭和初期のキリスト教の「神の国運動」であり、ユダヤの寺で説いていた「主の道を直くせよ」との意味なのである。そして、「天降るべきユダヤの王」のために直くされた道とは、すなわち国際連合を意味するのである。

 人種、民族、国境は人為にすぎず、国際連合によって主の道を直くし、そこにユダヤの王が天降るのだということは、とりもなおさずユダヤの世界支配を意味する。主の道を直くするためと称して、ユダヤは第一次世界大戦を勃発させ、それによって国際連盟を作り、各国に主権と軍備とを認めてしまったためにそれは失敗に終わったのだとして第二次世界大戦を計画し勃発させ、それによって第二次の国際連盟、つまり国際連合を樹立したのである。昭和十六年(一九四一年)二月の、世界ユダヤ人会議[World Jewish Congress]議長ゴールドマン[Nahum Goldmann, 1895-1982, Polish/Israeli Zionist. President, World Jewish Congress, 1948-1977. President, World Zionist Organization, 1956-1968.]の言明どおりである。
 このゴールドマンの言葉を受けて、イスラエル初代首相ベングリオン[David Ben-Gurion]は次のように発言している。「すべての国々は世界支配されるようになり、国際警察のもとに管理される。すべての軍隊は破壊され、もはや戦争は存在せぬ。エルサレムで本当の意昧での国際連合が、世界連邦のための預言者の神殿を造るであろう。これは世界連邦のすべての論争を解決するための人類の最高裁判所の座を占める」。
 それゆえに、ユダヤ・フリーメイソンとキリスト教とコミンテルン(国際共産主義)の三つは三位一体のものであり、これらに対してわが愛国陣営の先覚は等しく攘夷の態度をとり、その適性からわが国を守ろうとした。すなわちわが国の愛国陣営は、既に早くから敵の正体を見すえていたのである。

 かつて国際連盟が開かれていた頃、その会合の開催される前日にかならずユダヤ会議が開かれ、その予備会議で決定されたとおり本会議で議決されていた事実は、会議に参集していた各国の情報官によって伝えられている。

 ユダヤと利害をともにすることができなかった国家群が、国際連盟を脱退しなければならなかった原因もここにあったのである。 キリスト教とユダヤ・フリーメイソンとコミンテルン、これらをつらぬく敵性が、歴史と伝統とを保持する国々に革命を起こして滅ぼし、これら敵性に拮抗して自国と民との自立共栄を念願していた国々を地上から抹殺しようとした理由もまた、この「主の道を直くする」ということのなかに意図されていたのである。

 「主の道を直くする」というユダヤの寺の教理はその後も永くキリスト教伝道の基調になってきたのであるが、日本における「神の国運動」も、ユダヤの王の再臨を準備するということであって、賀川豊彦らがアメリカ共産党からの資金によって主唱していたものであった。この運動も日本に敵国の内応者を養成する企みからなされたものだ。キリスト教の単なる信仰上の運動なら問題はなかったのだが、陰に隠された企みがあったのである。

 この陰謀は、私が東北学院の神学生だった頃、御殿場の東山荘で開催されたキリスト教青年夏期講習会に出席し、講義の内容と講師たちの密議から体験によって知りえたことである。

 「日本人がユダヤの王の前に立つためには、日本という国家を背負った驕り高ぶったままの姿であってはならない。悔い改めによって遜らなけれぱならぬ。日本人はそう簡単には国を捨てない。国を捨てさせるには、国そのものを無くしてしまえばよろしい。それは戦争によって日本を負かすしかないのだ。日本が戦争に敗れて打ちのめされて初めて遜るようになるのである。そうなれば天皇の神格も地に落ち、国民も拠りどころを失う。それによって日本も共和国となりうる」というのが密議の主旨であった。

 回顧すれば、昭和六、七年頃からユダヤ・キリスト教はすでに日米戦争を予定して計画を進めていた。中国・日本に差遣された宣教師らも、その使命をおびての伝道であった。マッカーサーによる来攻の目的もここにあったと断ずることができる。いつか 賀川豊彦の近親の者が、「何が理由で収監されたのかわからない」と雑誌に書いていたが、収監を進言したのは私なのである。その理由は前述の密議の内容に基づいて、賀川が収監直前まで日本敗北の運動を鼓舞していたからだ。

 米国共産党のユダヤ人サムエル・ゴンバース[Samuel Gompers]との関係を保っていた賀川豊彦らが、日本を「反戦ではなく戦争によって敗戦させ、それによって革命を実現する」というユダヤ・フリーメイソンの敗戦テーゼに従ったものであった。賀川らが米国系共産党員としての本性を発揮して、日本の敗亡を目指した神の国運動を展開し、日本の革命を図ったという理由での収監であった。


 「迫害」という言葉で惑わす切支丹布教(83P)

  そもそもキリスト教の日本への渡来は、天文18(1549)年にフランシスコ・デ・サビエルによって始まったものである。彼らが何をしに来たのかといえば、黄金の国ジパングをポルトガル王やローマ法王の領土にするための尖兵として来日したのである。

  サビエルはカトリック教会の主であるローマ法王の僧兵団の一員であり、東方渡来はジョアン三世の要請によるものであった。彼はローマ法王パウルス三世から聖使に任ぜられ、インドにおける法王の代理としての全権を与えられ、ポルトガルの東方植民地の官吏のすべての上に、一切の俗権を行使できる権能を与えられて来たのである。インドにおいて土民をキリスト教に改宗させるために宗教裁判を実施し、改宗を強制し、従わない者は惨殺・焚刑に処した。富裕の者の財産は強奪して僧兵団の手に没収し、僧院・教会を建設した。

  天文18年夏、日本は黄金の国であり、数百万の人口を有するジーペンの人たちを改宗させれば、巨億の富が入ると思い定め、日本の首都を目指してマラッカを出帆したのである。 彼の後、各派各団の宣教師らが渡来した。いずれもサビエルと大同小異の心組みで訪れてきたのである。日本の富と国土を狙って来た者であり、日本人を奴隷として売り渡したり、一国の領主に金を貸して領地を担保にして取り上げたりし、ついには島原の民百姓を煽勤して大乱を起こさせている。しかも原城に立て籠もって死んだ遺骸には、この信心深い素朴な人々の自殺行為を招来したイエズス会士も、一人のバテレンの遺骸も見つからなかった。煽るだげ煽りたてて死にいたらしめ、自分たちはとっくに逃げうせてしまったのである。

  これに対し豊臣・徳川は布教を禁圧し、宣教師らの国外退去の策に出た。これが国法であり、国禁であり、国をあずかる者の当然の施策である。国禁を犯し、国法を蔑(なみ)する者はこれを罰する。キリスト教が宗教裁判で異端・異教を焚刑・傑刑に処したように、徳川もまた同じことを行なったまでのことである。それを「切支丹殉教」とか「切支丹迫害」などと称するのはおこがましいかぎりである。日本人自らが発するべき言辞ではない。

  彼らバテレンたちは日本の金山・銀山を狙って金堀師らを帯同してきていた。今日でも鉱山の鉱脈の露頭に彫り刻まれた十字の印が見られる。そこには異人の堀り師が潜み、隠れ切支丹らの祈祷所としていたのである。

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 ユダヤの操り人形・ルーズベルト(111P)

 山本五十六フリーメイソン説(144P)

 山本五十六が司令長官になった頃、ハーバード大学ルートの情報で、米国の海軍力は山本五十六が司令長官である間ならば、日本に撃って出ても勝算があり、悪く行っても五分五分で決着がつく。早々に戦端を開くべきだという海軍側の意向が伝えられて来た。しかもその理由の中に一項目、山本はフリーメーソンの結社員だからという条項が入っていた。(略) 山本五十六が、米内光政や高橋三吉らと、日独伊三国の軍事同盟反対の密議を凝らしていた場所は、東京麻布の狸穴(まみあな)にあった。この妾宅の若い女性は当時18歳で、新橋あたりで芸妓をしていた。(略) 山本が戦死した報を得て、須藤某が文書の遺稿でもと狸穴に訪ねた時には、すでにこの女性が一切を処理し終えた後であり、


 国全体がユダヤ諜報網の中に(146P)
 
 戦時中、米内光政の身内や縁故者たちから、国の機密に属する事柄が敵国に流されていたことは事実であり、しかもその事柄が、日本の戦争遂行を不可能にするほどの重要なものもあったことを特筆しておく。またこの縁辺の者のうちには、首相であった東条の鎌倉での生活苦を賄っていた者もあり、それらを取り巻く近親の者たちの言動から察知された国家機密が直ちに敵国に通報されていた事実も明白になっていた。

 日本に張りめぐらされていた敵国のスパイ網は、ミッドウェーの完敗を喫したように、誰かが写真に撮り、誰かが盗聴し、それを集めて誰かが通報するようなスケールの小さいものばかりではなく、はるか以前から計画的に仕組まれ、長年かかって出来上がった全日本的なものが多く、単に一回的なものだけではなかった。


大川に接近した甘粕正彦の真意(156P) 

 満州の赤化が満鉄の調査局を中核としてようやくその激しさを増してきた頃、時の満鉄副総裁・八田嘉明は、赤化防止の方策を立て、安田生命問題のとき、北一輝とともに大川と袂を分かった島野三郎氏を東亜経済調査局長の椅子に据えようとしていた。このポストを狙っていた大川周明が、河本大作を操って自分が局長になる工作をし、それが実現して大川の局長就任となったのである。だが、それによって満鉄内には赤色勢力が滔々として流れ入り、防共の策も立たぬほどになったのである。このあたりの経緯については、戦時中、成城の島野氏の自宅を訪ねて詳しく聞いたところである。後になってから大川周三氏(周明実弟)に確かめたが前述のとおりの経緯ということであった。

 満鉄を赤の巣窟にし、大川に甘粕を加え、さらに黒川を足して満州協和会を作り、さらに石原莞爾が加わり、それに支那問題研究所とソルゲ・ルートの昭和研究会及び国際問題研究所まで取り入れた頃には、ユダヤの企てていた中国を中核とした一連による極東攻略の陰謀も、ほぼその実現の域に達していたのではなかったか。それゆえにこそ尾崎秀実は獄中にあって、「日本の革命準備は、九分どおり成れり」とうそぶいていたのではなかったのか。

 大杉栄殺害に関係した甘粕が、満州に渡る機会を得たのは参謀本部の人選による。甘粕が大川に師の礼をとり、大川の周辺に身をおこうとした真意が何であったかは不明だ。

 甘粕が金を出し、大川が人選にあたるということで、私の友人・香川文雄君が偶然にも選ばれてドイツに留学することになったことがある。満州からわざわざ東京・渋谷の私の下宿まで、渡独留学のことについて相談に来たのであったが、今さらドイツにまで出かけて勉強でもあるまい。ドイツで出来る勉強なら日本でも出来る。つまらぬ真似はしないことだということになって、留学の件を甘粕に返上した。だが、機縁というのは不思議なもので、香川君の代わりに選ばれたのが、やはり知人であり、同郷の★斉藤信治氏であった。留学先はカイロであった。日独交換学生を望んでいたのだが、同輩に出し抜かれて失意のうちにあったときの朗報であった。東北大学の小山教授の人選で、大川が甘粕に推薦したのである。★留学の目的は回教研究ということであった。もちろんこれは甘粕の特務機関用務であったと思われる。

 大川の弟の周三が、特務関係の仕事で南方に行けるつもりでいたところ、それが沙汰止みとなり、東京の近親のもとに身を寄せていた頃、その南方行きの沙汰止みは単なる甘粕の邪魔くらいにしか考えていなかったが、それは周明の行動に疑いの持たれるふしがあって、達識の士が周明の行動を調査させていたからであった。

 この調査にあたった者たちは中野学校系であった。行動に移る前の事前説明において、その説明にあたった人物が甘粕正彦その人だったのである。甘粕はその説明のなかで、大川がユダヤ財閥と特殊な関係を持って行動していることを明確に指摘したというのである。

 鮎川義介、大川周明、石原莞爾らが、ユダヤ利用論者であったことは周知の事実であった。甘粕が日華事変の長引くのはユダヤの陰謀によるものと断じ、世界を牛耳るのがユダヤであり、大川をその一連の者として厳重に監視するよう指示したことは、一体どう解釈したらよいのか。表面は大川の指示によって動いていたように見せて、裏では大川の動きを封ずる策に出ていたとみるべきであったであろうか。

 石原莞爾が戦後、郷里の山形に仮寓していたとき、私の友人でかつて石原の秘書であった桐谷誠君を使って、石原の対ユダヤ観を徴させたことかあった。桐谷君に石原は「利用論者」と告げたということであった。これで石原将軍もユダヤ利用論者であったことが明確になったのである。

 甘粕が日華事変の長引くのはユダヤの陰謀によるものと断じ、世界を牛耳るのがユダヤであり、大川をその手先の者として厳重に監視するように指示したのは、いったいどう解釈したらよいのか。表面は大川の指示で動いているように見せて、実は大川の動きを封じる策に出ていたとみるべきであろうか。甘粕は「南方に出張しました」と言っては大川宅に立ち寄り、妻女にワニ革のバッグなどを土産として持参していた。


 大杉栄殺害の裏にユダヤ禍 (159P)
  
 北一輝が刑死して、その遺骸が北家に送り届けられたとき、焼香に来た大川を北夫人が拒絶した話が伝えられていた。その大川は機会をとらえて、北と自分の関係が最後までうまくいっていたように見せようとしていた。自分が北に信じられていたということを、ことさらに印象づけようとして、極端に作為したのはどうしたことか。それは遠藤無水氏や横山雪堂和尚に尋ねる必要もなかった。愛国陣営の大川に対する不信を糊塗するための作為にすぎなかったのである。

 革命者として一家を成した北一輝が、単にその場その場だけの気分に駆り立てられる煽動屋にすぎなかった大川を、どの程度相手にしていたかは、北の腹のうちにあったことであり、私の想像は許されない。

 猶存社に堀やす子(*堀保子。堺利彦の義妹で大杉栄夫人)がおり、北の弟(*吉)が大杉栄からフランス語を学んでいたりしたためか、甘粕が大杉らに手をかけたことを知ったとき、北は激怒したという。その北一輝がヨッフェ問題では、その来朝を願っていたところの大川や満川亀太郎らとは反対の行動をとり、これが原因で北が大川や満川らと訣別するにいたった、と言われるほどの態度に出たのは何ゆえか。
 *北一輝『ヨッフェ君に訓(おし)ふる公開状』は、大正12年5月9日付で約3万部が全国に配布されたという。

 ヨッフェの来朝の工作をしたのは藤田勇だともいわれ、あるいはその以前に、大杉栄が後藤新平の内意を受けて北京に潜行し、事前の工作をしていたのだとも言われていた。その大杉を死なせた甘粕が、出獄してから川渡(かわたび)温泉に身を潜めていた理由は何か。単なる静養のためではなかったはずである。
     
 朝日新聞の国見特派員が甘粕を川渡温泉の高友旅館に探しあてる前に、既に渥美先生の懐刀の熊谷甚平(寂)先生が甘粕を訪ねている。そのとき甘粕は身辺に危険を感じ、身を潜めていたという。

 甘粕が出獄後、身辺に危険を感じなければならなかった理由として熊谷先生から説明をうけたが、大杉は愛国陣営から好感を持たれていたからだったという。大杉たちが憲兵隊員に連行されたときも、淀橋署員が尾行していたし、検束されたことが直ちに警視庁に通報されたのも、大杉に対する警察当局の特別の慮りからだったと当時の愛国陣営では考えていたようである。またある者は、大杉は警視庁の特命を帯びて危険思想の陣営に入りこんでいたものだとも想像していた。

 この大杉の★警視庁密偵説の真偽を確かめるため、私が私設秘書をしていた貴族院議員で元警視総監の赤池濃氏に尋ねたことがあったが、氏は言下に否定された。ちょうど会話が大和の水平社や朝鮮人の頭目の鄭寅学のことにふれていたときであった。「私が警保の当路にあたったときのことであり、間違いない」とのことであり、故意に事実を蔽うふうでもなかった。生前の赤池氏からは、大杉栄と後藤新平との接触のこととか、ヨッフェ来朝の真意などについても聞いておくべきことが多くあったが、空襲を受けて話も中断し残念なことをした。その後間もなく大阪駅で暗殺の厄にあわれ、まったく心残りであった。

 大杉栄の警視庁密偵説を赤池濃氏にただしたことには付記することがある。甘粕が大杉を殺さなければならなかった理由を、甘粕自身の口から聞くこととする。

 ―上海のガーデンブリッジを渡り、一つ目の四つ角を右に入ったところに、酒池肉林の地下室を持つキャバレーがあり、その奥の部屋に、長身で黒眼鏡に鳥打帽の男が入っては消えてゆき、数日間は出て来ない男といえば、それは上海においての大川周明のことであった。大川は上海に現われると、その宿舎とされていたホテルやビルには入らずに、大抵は、まずこのキャバレーを通路としていずこへか消え、上海に出先機関を有するユダヤ財閥と連絡を保っていた。

 その大川の動静を探らせるための機関員に対して、予備知識を与えるために大川を解剖した甘粕の説明のなかに、甘粕の渡満のきっかけとなった大杉栄事件があった。甘粕の言うところによれば、大杉は★後藤新平の内意を受けて、ヨッフェ来朝に使いし、それが成功したので、いよいよ名声を博するようになった。甘粕がその大杉を抹殺しなければならなくなった理由は、★大杉がユダヤ財閥と深い関係を持っていたからであり、その殺害は、ユダヤと大杉との関係を絶つためであったという。警視庁は、親英米派である重臣どもの息がかかっていて実行できないから、憲兵隊でこれを始末するしかなかったというのであった。

 甘粕のこの説明のなかで、特に興味を覚えるのは、彼がはっきりユダヤ禍を口にしたことである。そのユダヤの陰謀が日本に禍いしていたこと、さらにはユダヤの陰謀に大杉が関与していたことを甘粕が知っていたということである。日本の重臣どもが既にユダヤの虜となっており、その重臣の意によって動く警視庁では、このユダヤの禍根は絶ち切れぬと甘粕らが判断してかかった事実は、ユダヤ問題をナチスの宣伝とした大川や石原らの主張に反駁するに足る証左といえよう。


 頭山翁に問うた中野正剛自刃の原因 (163P)
 
 確かな人から確かなことを聞いておきたいと思い、私か確かめに訪れていった人物に頭山満がいる。それは中野正剛の死について真相を知りたいと思い、末永節翁と中野佐柿(さかき)先生に相談したところ、中野の遺書は頭山翁に宛てたものだけだから、東京・渋谷の常盤松に翁を訪ねてみたらどうかとの指示によったものである。

 古い話だが、小泉輝三朗の『大正犯罪史正談』が出版されたとき、赤松克麿や三田村武夫らにひどく叩かれたものだが、私は特に、《中野正剛の謎の項》に深い興味を覚えていた。

 ユダヤに日本を売り渡した者たちによって招来された敗戦後の今日では、外国から金をもらってその手先になっても、節を売ったとして自らを恥じることもなく、他もまたこれを売国奴として難ずることもなくなったが、昔はそうではなかった。張学良経由の米国からの対日謀略資金を、キリスト教婦人運動家たちの手を経て受け取っていた者や、労働者が残業までして最高一ヵ月に十円程度だった頃、日本共産党に巣喰った煽動屋たちはソ連から月二百円ずつの支給を受け取っていたものであった。

 中野正剛がきわめて勢い盛んであった頃のことであったが、私たちは中野が右翼ではあっても、真に愛国陣営に属する者であるかとうかということを疑っていた。それで中野が死んだということを聞き、その死がわれわれの疑念をはらしてくれる何かを持っているのではないかと期待したのである。そこで私は中野の死の直後、先輩を訪ねて中野が死ななければならなかった理由を問うたことがあった。先輩は即座に答えて、それは中野がロシアからもらった金を苦にしたからだと言うのであった。

 正剛の死はきわめて立派なものだったと言われていた。その模様については頭山翁からも築地の高乃屋の女主人からも聞かされた。それほどまでして死んだ中野の死が、単に東条の弾圧の結果だという風評は、にわかには信じえなかった。東条の圧迫といわれていた政治管制は、なにも東方会に限ってなされたものではなかったからだ。

 これでは説明にならないので、今度は、中野の取調べが進められると、累が宮様に及ぶことになるから、中野は責めを一身に負って、事実が明るみに出るのを防いだのだという解釈が出た。一身に負うなら負えばよろしいので、死ねば負えないことになる。説明にはならない。

 私自身もその渦中にあったからふれておくが、当時、宮様担ぎ出しには二つの流れがあった。中野がそのどちらかに加わっていたということは、当時は聞かなかった。近衛は東条内閣の末期、弟を使って、次期政権への野心を重慶に表明していたが、既に重慶の軍令部には、東条の次には東久邇宮の内閣という情報が入っていた。もちろん、この情報も黒田善治の判断によって修正され、日本の重大危機にあたって、皇族が内閣の首班になるなどということはありえないという見方に変わったのであるが、宮様担ぎ出し工作は実際あったのである。東亜連盟、ゾルゲ関連系統による東久邇宮、私たちによる高松宮様内閣構想であった。東久邇宮様担ぎ出しは、最後の狙いを赤色政治犯の釈放におき、終戦への早期借置を急務とし、ソ連の対日参戦をも計算の上で、対英・米工作にソ連を仲介させ、次に重慶を足がかりにした対米和平工作をするという東条抹殺の運動であった。

 これに対し私たちのものは、敵国と通ずる君側の奸を除き、一挙に宮様内閣を樹立し、必戦の態勢を打ち立てようとしたものである。しかし、この頃には陛下の大綱も既にソ連仲介、対連合国和平交渉に傾かれており、時機は既に去ったとの感が深かった。

 それで、中野がそのどちらかに加わっていたということは聞いていなかったので、中野取調べの進むにつれ、彼がのっぴきならぬ立場に追い込まれることになるのだとすれば、その理由はやはり純正愛国陣営が言っていたごとく、ロシア系の資金を受け取っていた事実が明るみに出されることを苦慮したからのものと考えられたのである。

 中野への工作費が、ロシアから渡されたものであることがはっきりすれば、日本の右翼も左翼も、ともに同じくユダヤに踊らされてその資金と指令とを受けて操られていたことの立証がなされる。そのため、私はこの中野の死の原因を徹底的に洗い出す必要を感じていたのであった。

 私が中野正剛の死の理由を知るために、渋谷の常盤松に頭山満翁を訪ねた日、翁は病臥しておられた。枕元でゆっくり話すつもりであったところ、起き直られて丹前を羽織られ、私はその横に坐して、耳近く話すことにした。病中のことであり、三点にしぼってご教示を願った。それは次の点についてであった。

 一、中野は右翼といわれながら、ロシアの《赤い金》、背後関係のある第三国の資金を受けたといわれるが、赤色革命関係の金を実際に受け取ったことがあるのか。中野の死は、それを苦にしたものか。

 二、日支事変は日支闘争計画によって起こされたものであり、日本の敗戦と革命とを招き、支那を米・英・ソと連合させて、日支戦争を世界戦争に発展させたのだから、翁が蒋介石は話せばわかるといって事を進めても、いたずらに敵側に乗ぜられるばかりだと思うがどうか。

 三、大川周明と米国ユダヤとの資金関係、及び二・二六事件のとき、岡田首相は官邸にいなかったのだということ。その真偽。

 以上三項目のうち、第三項の大川と米国ユダヤとの交渉に関するものは知らぬとのことであった。岡田啓介が二・二六事件の起きた日に官邸にはいなかったことについては、世間ではどう言っているかとの問い返しであった。岡田はあの夜は赤坂の料亭で、頭山翁その他と会っていたのだと言い、岡田の弟の松尾大佐はぜひ岡田に会って話す必要があったので、戻らぬ兄を待って一泊したために兄啓介と間違われて殺されたのだと言われている。岡田の天機奉伺が遅れ、後藤文夫が臨時首相代理となった理由もそこにあった。もしそれが本当ならば、岡田を官邸から助け出したという★迫水久常の正体を明かす必要がでてきますと話したところ、いちいち頷かれていたが寡黙、ついに語るところがなかった。

 蒋介石とはよく話しさえすればわかってくれるのだということについては、翁が日ごろ考えておられた構想をいろいろ話されたが、やはり蒋を昔日の彼と同一視しておられ、彼がユダヤーフリーメイソンの指令によって動き、ユダヤのサッスーン財閥と結託して、支那の金銀をユダヤに提供して、紙幣という紙屑と取り換える制度を立て、己れの利得は外国のユダヤ銀行に預託して、中国をユダヤに売り渡したのですよと話し、米英の援助で対日戦を継続しているので、和平の心などありませんと説明しても、翁の理解を得ることは既に遅すぎていた。

 第一の主題の中野正剛に死を覚悟させた理由について、東条の退陣工作に宮様を関係させたことで、累の皇族に及ぶことを恐れたからだという憶測もあるが、以前ロシアから赤い工作資金を受け取ったことが明るみに出ることを慮ったためというのが正しい見方ではないですかと尋ねたところ、巷間の噂や、赤色資金の情報の出どころなどを聞かれたのでお答えしたのだが、ロシアからの赤い金のことについては、一言もそれを否定する言辞はなかったのである。私はこれによって、中野の死の理由は、検察の調べがその赤い金に関したことであったと理解し、右翼に身を置きながら、左翼の金を受け取っていた汚点ゆえに身を潔くするための自刃と確信したのであった。

 翁の語るところは、故人にきわめて同情的であり、愛弟子を追憶して悼む心情に切なるものがあった。ことに中野の後半生における生活態度の立派さを褒めてやまなかった。その語るところを略述すれば、

 ― 中野も若い頃には数多く馬鹿げたことをしたものだ。しかし一切を清算してしまった今は、それは許してやれ。後半生における彼の精進ぶりは、立派に昔の愚行を償ってあまりあるものであり、ことに彼が妻に死なれた後の生活やその心境は、まさに透徹した清らかさを持っていた。まことに見上げた神韻の域に心身を置いたというべきで、遠く余人の及ふところではなかった。ようやくあの男もものになると思っていたところ、今度のようなことになってしまい、まことにかわいそうなことをした。中野の若い頃の愚行は責めてはいけないよ。というものであった。それで、頭山翁の以上の言辞から、中野がまだ血気さかんであった頃、いわゆるロシアからの資金と関係があったということを理解し、小泉輝三朗著するところのものによって、その証左を得たとしたのである。

 小泉氏は、東方同志会系の人たちからいろいろと反駁を受けたが、中野自らが師事していた頭山翁の私に語られた口吻を跳ね返すに足る中野側の論拠に接したことはない。


 ローマ法王の工作員、サビエルの挑戦(191P)

  サビエルは伝道のためではなく、戦いを挑んできたのだ。サビエルはローマ法王の僧兵の一人なのである。ローマ法王は全世界を支配する皇帝であり、この世においては法王の権威に勝るものはないとされていた。サビエルはその法王から、法王の代理としての全権のみならず、ポルトガルの東方植民地における軍隊と官吏とに対する命令の全権をも与えられていたのである。

  それゆえ東方占領地においてキリスト教に改宗しない土民を殺戮し、財産を奪い、焚刑に処し、寺院を焼き払い、暴虐の限りを尽したのである。異端・異教は悪魔の教えであるとして、愉しければ愉しいほどキリスト教の神は悦ぶとした。欧州・東方・南米において、キリスト教によって虐殺された人の教は一千万を超す。

  私が20代の頃、仙台の東北学院神学部で講義を受けてい教授に出村剛という教授がいた。キリスト教会史の講義の時間にいつも述懐していたことは、キリスト教のこの異端・異教を虐殺した事実であった。そして教授は、キリスト教による異端虐殺史を集大成して世に問うことを念願していると告白したものである。

  異端・異教迫害に関する研究書の頁を開き、挿絵を示してくれたが、女性を全裸にして、陰部から杙(くい)を突き刺し、頭蓋まで貫いていたのを裸馬に跨がらせて練り歩いているエッチングであった。「キリスト教ほど、このような罪悪を犯した宗教はない」と幾度も呟いていたのを60年後の今日でも思い起こす。この絵はローマ法王の命によるカタリー教徒皆殺しのときの情景の一つであった。

  これは異端皆殺しの例であるが、異教の地インドにおけるポルトガル宣教師らの土民虐殺と財宝奪取、南米太平洋岸諸国のスペイン宣教師の手引きによるスペイン軍隊たちの人民殺戮と財宝収奪とは、歴史上顕著な事実であり、西欧諸国のキリスト教宣教師らによる先導によって植民地占領がなされていた事実も蔽い隠すことはできまい。しかし、そのようなことは日本においては果たすことはできなかった。その理由は次に示すイエズス会のドン・ロドリゴとフランシスコ会の宣教師フライ・ルイス・ソテロらが、スペイン国王に送った上書に記すところである。

  「殿下を日本の君主とすることは望ましい。しかし、日本には住民が多く、城郭も堅固であるため、軍隊の力による侵入は無理であるから、福音を宣伝する方策をもって日本の国民が殿下に悦びいさんで臣事するように仕向けるほかなし」 と、敵情報告に判断を付して諜報している。 ザビエルもまたポルトガル国王に、 「軍備においては日本はヨーロッパと同水準にあるため、軍隊をもって征服する望みは抱かぬほうがよろしい。それよりも心に訴えて納得させれば、この上なく忠実なキリスト教の下僕となるのだから、もっと智能の勝れたバテレンを派遣せられたい」 と上申している。武力占拠は断念し、諸藩を貿易の利潤で誘い、キリシタンの布教を公許させる方策に出たのである。いずれも日本乗っ取りの方策の謀であった。

  この書翰に見るように、キリシタン・バテレンたちの正体は、対日諜報員であり、対日工作員であったのだ。日本をまずキリシタンにしてしまってからキリスト教国の属国として占領してもよく、キリスト教国の属国として占領してからキリスト教化してもよかったのである。 以前、アメリカ・ミッションから差遣されていた宣教師たちが帰米するたび、まず軍の関係機関に立ち寄って報告を終えてからそれぞれの地に帰ったという話を、留学を終えて帰国した日本人神学生に聞かされていた。


 「1947年9月20日、天皇が、日本占領軍の指揮官ダグラス・マッカーサーと、マーシャル国務長官に送ったメモが、ワシントンの米国・国立公文書館に存在している。そこには、『沖縄に米軍の大部分を駐留させ、沖縄を米国領土とすることによって、日本本土を米軍支配から独立させる方法を取りたい』と、記載されている。つまり沖縄を『日本から切り捨て』、『沖縄だけに米軍を置き、犠牲にする事』を、天皇自身が米国に『提言』していた」。

 「太平洋問題調査会に集った人々

 太平洋問題調査会は(IPR)は、大正15年(1926)から日本で常設となった機関であるが、これはロックフェラーとソ連の指令下にあった秘密工作組織である。「日支闘争計画案」は大正7年(1918)にモスクワのイルミナティ会議(ユダヤとボリシェビキとの合同)で採択されたが、内容は「日本と支那の内部破壊をはかるとともに、支那に反日運動を起こさせ、日支の武力闘争にまで発展させる。これをソ連とアメリカが参画する戦争にまで発展させて日本を倒し、同時にヨーロッパに社会革命を起こさせる第二次世界大戦を計画する」というものである。IPRの日本代表は、新渡戸稲造、松岡洋右、鶴見祐輔 であり、幹事長はキリスト界の斉藤惣一である。第三回会議は昭和4年に京都で開催され、アーノルド・トインビー、ジョン・ロックフェラーⅢらが参加した。米国代表のオーエン・ラティモアはソ連のスパイ。親英・親米と見せながらコミンテルンに身を置いていた、西園寺公一も参加。IPRは以後対日・対中謀略ルートとなり、ゾルゲもこのルートをたどった。尾崎秀実もIPRの協力者である。世界支配の英国諜報網とユダヤの金権情報網が合流したユダヤ・フリーメイソンは、日本の政・財・経・軍の機密の大略を入手していた。それは、フリーメイソン網と、その外郭情報機関であるロータリー・クラブからの報告によるものであった。それらの情報は、上海にあったユダヤ・サッスーン財閥に集められた。日本は、チャーチル、ルーズベルトによって戦争に引き込まれた。「フリーメイソンはユダヤの組織である。その歴史も階級も、職務、標語、規則もユダヤのものである」(ユダヤのラビ、アイザック・ワイズ) ユダヤ・フリーメイソンの陰謀が日本で問題視されたのは、ナチスの宣伝やシベリア出兵後のことではなかった。新渡戸稲造や吉野作造らがユダヤ・フリーメイソンであったことが知られていた。ユダヤがユダヤの砦として造りあげた二つの人造国家、フリーメイソンによるアメリカとマルキシズムによるソヴィエト社会主義共和国連邦とは、表は拮抗対立と見せ、裏は一つに結んでいた。赤と白として見せたほうが、ユダヤが儲かるというだけのことであった。

 平沼騏一郎、赤尾敏、大川周明は米国の対日工作員であった

 甘粕のこの説明のなかで、特に興味を覚えるのは、彼がはっきりユダヤ禍を口にしたことである。そのユダヤの陰謀が日本に禍いしていたこと、さらにはユダヤの陰謀に大杉が関与していたことを甘粕が知っていたということである。日本の重臣どもが既にユダヤの虜になっており、その重臣の意によって動く警視庁では、このユダヤの禍根は断ち切れぬと甘粕らが判断してかかった事実は、ユダヤ問題をナチスの宣伝とした大川(周明)や石原(莞爾)らの主張に反駁するに足る証左といえよう。

 ルーズベルトは就任早々ユダヤの要請に基づいて、日本に戦争を仕掛ける計画をたてはじめた。計画に参加したのはIPRのヘンリー・スチムソンである。一方ユダヤは同委員会を利用してゾルゲをはじめ共産主義者らに日本のスパイ網を組織させた。資金はチェースマンハッタンから出た。西安事件は、抗日擁ソのための統一戦線構築のためで、日本の戦力拡散をねらったものである。宇垣内閣では、ゾルゲグループの一員であった米共産党系の宮城与徳の近親者・矢部秀が秘書をしていた。林内閣ではコンミンテルンの浅原謙三と十河信二が密着していた。近衛内閣では、後藤隆之助による昭和研究会の取り巻かれながら、左翼の風見章を中心に、ゾルゲ関係の尾崎秀実、西園寺公一らによって牛耳られていた。これと前後して、蒋介石を盟主とし日本を米国の1州として、アジアをソ連が支配するという原理にたつ東亜連盟が、石原完爾を表にたてて偽装右翼活動をとりはじめた。石原を林銑十郎に進言して仙台から参謀本部に転出させたのは浅原謙三である。すべては夷をもって夷を攻めさせるという日支闘争計画を知らないでは理解できない。近衛も米内も、日支の衝突を画策する者のあることを感じてはいたが、その正体を知らなかった。

 ユダヤが策した日支闘争計画

 1919年(大正7)にモスクワでイルミナティ(ユダヤとボリシェビキの合同)会議がひらかれ、「日支闘争計画案」が採択された:
・日本と支那の内部破壊
・支那に反日運動を起こさせる
・日支武力闘争から、ソ連・アメリカが干渉する戦争へ発展させて日本を倒す
・ヨーロッパに社会革命を起こさせる第二次の世界大戦を計画する
 この実行機関となったのがIPR(既出)である。
 1931年(昭和6)の満州事変以来、ユダヤが日本と中国の共産党にとらせた行動とは:
・中国大陸への日本の進出を軍事的に失敗させ、日本の革命を進める
・中国人民の抗日感情をあおり、国民党と日本の妥協を不可能にする
・戦線を華北から華南にまで発展させ、ソ連包囲体制にひびを入れ、国府軍と日本軍との衝突の間隙に乗じて中共の発展をねらう


 南進を決定づけた謀略レポート

 1941年(昭和16)に独ソ戦が始まると、ソ連は「日本がシベリアに侵攻しないようあらゆる工作をすべし」との指示を日本共産党員にだした。満鉄調査部にいた左翼の佐藤大四郎は、シベリアの農産物と畜産事情のレポートを求められて、「日本軍100万の食料はシベリアでは調達不能」という報告書を提出した。同調査部には尾崎秀実もいて、この内意を佐藤は受けていた。

 ユダヤに踊らされた日本人

 米内光政の身内や縁故者たちから、国家機密が敵国に流されていたのは事実である。縁故者の中には東条の鎌倉での生活費を賄っていた者もいる。ミッドウエーの敗戦は、ユダヤ問題の犬塚惟重と国際連盟に身を置いた稲垣守克が情報を流したことによって起こった。

 大川周明は、裏表が多く、見え透いた嘘が多い扇動家である。北一輝も扇動家であり、北と大川の訣別は安田保善問題が原因といわれるが、金の分け前を巡る争いである。この金銭授受にはユダヤの代理人巖本善治が関係している。巖本は米英ユダヤの手先となり、私設外交官として暗躍していた男で、大川周明との関係は愛国陣営にまでもユダヤの手が伸びていたことを示す。巖本と大川の資金元は上海ユダヤのハードン財閥である。大川は反英を装いながら親米であり、ユダヤの資金ほしさに巖本に近づいた。大川のいわゆる日米経済提携というのは、ユダヤの対日謀略の一環として計画されたもので、ユダヤ資本の援助を受けていた西川末吉からでたものである。大川は戦後、自分は中国と事を構えるのに反対していたと書いているが、これは明らかな嘘である。佐々弘雄が戦後に大川周明、楢橋渡、児玉誉士夫の三人がハードン財閥と直結していたことを発表している。








(私論.私見)