四王天延孝氏のユダヤ思想研究考

 (最新見直し2013.09.15日)

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 2013.02.19日 れんだいこ拝


【四王天延孝(しおうてん のぶたか)氏の履歴】
 1879(明治12).9.2日、前橋藩士・西村茂兵衛の弟として生まれる。川越藩士・四王天政彬の養嗣子となる。

 1897(明治30).12月、月士官候補生。

 1899(明治32).11月、陸軍士官学校(11期)卒業。

 1900(明治33).6月、工兵少尉に任官し近衛工兵大隊付となる。 

 1904(明治37).2月、清国駐屯工兵中隊付などを経て日露戦争に出征する。1905(明治38).12月まで出征する。鴨緑江渡河の際に功をたてた。伝書鳩を陸軍に持ち帰ったりと、工兵将校としても色々な仕事をし軍内で「極めて優秀」の評を得る。近衛工兵大隊中隊長、大本営運輸通信長官部副官、陸士教官、近衛工兵大隊付などを歴任する。

 1909(明治42).12月、陸軍大学校(21期)を卒業する。関東都督府陸軍参謀、工兵第7大隊付、陸軍砲工学校教官。

 1916(大正5).8月、フランスに駐在、従軍し、フランス陸軍側から対ドイツ戦を見ている(1919(大正8).3月まで)。

 1920(大正9).1月、浦塩派遣軍司令部付としてシベリア出兵に出征。8月、工兵大佐。11月、関東軍司令部付となりハルピン特務機関長を務めた。

 1922(大正11).4月、陸軍航空学校教官となり、同年9月同下志津分校長。以降、同下志津分校長。

 1923(大正12).8月、陸軍省軍務局航空課長などの航空畑の役職を歴任。この頃、民族研究会が結成され、参加する(「星製薬の謎(その2)」)。

 1924(大正13).5月、国本社理事。8月、陸軍少将に進級した。陸軍兵器本廠付、国際連盟陸軍代表、兼同空軍代表、豊予要塞司令官、第16師団・第3師団の各司令部付などを経る。

 1925(大正14).3月、帝国飛行協会専務理事。

 1929(昭和4).8月、陸軍中将に昇進し予備役に編入された。この背後に、上原元帥より「その反ユダヤ主義を捨てなければ重用できない。ユダヤ問題から手を引くよう」勧告を受け、これを拒否した事情が介在している。四王天は、「ロシア革命はユダヤ革命である。アメリカの政策はユダヤ人によって動かされている」との主張を変えなかった。帝国飛行協会専務理事を務めながらユダヤ問題の研究に没頭する。
 
 1936(昭和11).2月、反ユダヤ主義の国際政経学会が創立され顧問となる。(同学会については「桜澤如一と関根康喜(関根喜太郎)(その1)」参照のこと)。11.2日、増田正雄とともに反ユダヤの国際思想研究所を設立する。

 1941(昭和16).7月、「猶太思想及び運動」(内外書房)を刊行。小田光雄「古本夜話112」によれば、この本の出版祝賀会が8月に開かれたことが真崎甚三郎の日記に見える。次のように記述されている。

 「昭和16年7月17日 渡辺十二時半に来訪、来月四王天の著書出版の祝賀会を行ふにつき、予を発起人の一人に加はることを乞ふ。予は之を諾す。中野正剛も挙げられたりと云ふ。果して真か。8月4日 十七時三十分松本楼に至る。四王天中将の猶太思想及運動に関する著書の出版祝賀会に列する為なり。参会者百五十名余、盛会にして堀内、坂西中将、松島元大使、中島海軍中将、匠[ママ]瑳海軍少将、猪野毛代議士等の祝辞あり、最后に予の聖寿万歳を三唱して終り、二十一時半に帰宅す」。

 1942(昭和17).4月、翼賛選挙で東京5区(品川、目黒、世田谷、渋谷など)から推薦候補として出馬し、「大東亜戦争はユダヤが動かしている。日本はそれに立ち向かえ」等々の弁論を振るった。7万6250票を獲得しトップ、全国でも最高の得票数を得て当選し衆議院議員となる。

 1943(昭和18).1月、大日本回教協会会長→同協会について「大日本回教協会の評議員」。5月、民族研究会の常任幹事だった内藤順太郎の「支那フリーメーソン」(国民社)が刊行される。口絵写真には、「民族研究会創立当時の会員(大正十三年)」とあり、陸軍軍人としては小松原道太郎、飯村穣、坪井善明、島本正一、黒木親慶、安江仙弘、秦眞次、中岡彌高、海軍軍人としては前田稔、有馬寛、その他に安岡正篤、若宮卯之助、菊池武徳、樋口艶之助、赤池濃、酒井勝軍の名前がある。また、本文の方では会員として、他に今井時郎、陸軍軍人の樋口季一郎、中澤三夫の名前がある。

 1944(昭和19).4月、松村吉助「猶太民族と世界制覇の陰謀」(冨山房)刊。四王天、白鳥敏夫、増田が序文を寄せている。白鳥の序文によると、著者松村は「多年宗教団体「道会」の主宰者として、又ユダヤ研究の権威たる政経学会の同人として、ユダヤの研究に力を注いで来られた」とある。

 10.16日、朝日新聞に大直会(麹町区麹町一ノ八)による「ユダヤ禍闡明神国顕現大直会結成大講演会」の広告がある。同月21日、日比谷公会堂で諸岡存と反ユダヤ主義の大直会を設立。開催、講師として四王天の他、匝瑳海軍少将の名前が見える。

 1945(昭和20).4.23日、読売新聞に大直会による「敵前国民有志大会」の広告がある。同月28日、日比谷公会堂で会長の四王天、匝瑳海軍少将、長谷川泰造、武富邦茂海軍少将らの講演が予定されていることがわかる。

 以後、帝国飛行協会専務理事、大日本回教協会会長などを歴任した。他に国本社理事、日本反ユダヤ協会会長なども務めた。

 1945(昭和20).8月、終戦。12月、A級戦犯容疑で逮捕される。「推薦議員、大直会有力幹部、東亜建設協会理事」を理由として公職追放される。  

 1947(昭和22)年、釈放された。

 戦前の反ユダヤ主義者はしばしば日ユ同祖論者でもあり、戦後は戦前の反ユダヤ言動について素知らぬ顔をして親ユダヤ主義者を自称したが、四王天については、そのようなことはなかった。

 1962(昭和37).8.8日、死去。

 主な著書『ユダヤ思想及運動 付・シオンの議定書』(内外書房1941年初版、心交社1987年復刻)。『四王天延孝回顧録』(みすず書房、964(昭和39)年7月25日)。


 「ユダヤ思想及運動」昭和16 四王天延孝 内外書房 517頁

 筆者は旧陸軍中将で戦前日本におけるユダヤ問題研究の権威であり、世界的にも著名な研究者であった。筆者は全生涯をかけて身命を賭してこの問題を研究された。本書はユダヤ問題に対する戦前戦後を通じての大著述であり、体系的に組織的に詳述されており、ユダヤ問題研究者の必読の書である。現在でも入手はさして困難ではない。 序文から抜粋する。

 「予が猶太人問題の研究に着手したのは第一次世界大戦中からで、仏軍の中におり仏国のユダヤ人アンドレ・スピール著「猶太人と大戦」から啓蒙せられる所頗る多かったのである。 またシベリア事変中は主としてハルピンに駐在して職務上毎月、過激派・反過激派の露人と接触し、過激派の大部がユダヤ人で反過激派が純露人であることを目のあたり体験し、終には意を決してユダヤの家庭に下宿し、彼等のお寺に出入し、彼等の雰囲気の中に入って研究し始めたのである。 ドイツの今日の挙国一致体制が確立した一面の理由は、ユダヤに関する知識を充分に取り入れたことにあると思う。

 本書は皇国同胞の大部分がユダヤの問題に開眼して来たにも拘らず、いまなお煙幕が上の方から張られるのを座視するに忍びずして、忙中執筆の閑なきに拘らず強て一気に筆をかして、単に在来発表したものを取りまとめて世に問い、猶太人問題の真相を同胞に披瀝して、内外より迫りかかった非常時局突破の参考に供したい為である」。

 「猶太の世界支配綱領」昭和16 愛宕北山 政経書房 466頁

 著者愛宕北山氏は学者として戦前戦後を通じ、わが国ユダヤ問題研究における権威であり、現在しておられる数少ない貴重な存在である。序文の一部を記す。

 「日本と猶太との間には、あらゆる点に於て二百六十度の差がある。 即ち存在の次元が全く異るのである。それ故に日本的原理が世界的に認識されるまでは猶太の世界征服の欲望は断絶されることはなく、従ってまた世界に真の平和と正義とは無いであろう。然もその日の以前に於て、日本と猶太との正面衝突は必然の運命と考えられる。非猶太人と猶太人との戦いの序幕戦である今次欧州大戦に続くものは、何故なる形式となるかは別として、不可避的に日本と猶太との戦いである。然して真に猶太問題を解決し、全人類を「悪」の手より解放し得るものでは八紘一宇の精神を奉ずる日本以外にはないのである。然もその八紘一宇の精神とは平等人道主義ではなく猶太人東洋人説の如き安価なる感傷ではなく、何等の根拠なき日猶同祖説の如き寛容ではなくて、まつろわざる者は之を討ち平げる処のものでなくてなくてはならぬ。 然してその後に於てのみ猶太その者も「人間」に還元され得る秋が来るであろう」

 一冊の書物でこれくらい広汎にユダヤ問題の本質を解明した文献は世界的にもないと言われており、ユダヤ問題研究者は是非入手しなければならない本である。神田の古書店で時折り出品される。


 
 太田龍の時事寸評の2004.2.27日付け№867。  

 月刊「ニューリーダー」誌に、落合莞爾氏の「陸軍特務吉薗周蔵の「手記」が連載されて居り、平成十六年三月号で、九十七回目。「吉薗」の「薗」は、滅多に使われない漢字で、その読み方が分らない。一応、薗(その)、吉薗(よしぞの)、と読んで置く。筆者は、この連載を、途中から読み始めて居るので、この吉薗周蔵、と言う人物の素性が分らない。

 平成十六年三月号(「ニューリーダー」)の第九十七回目によると、周蔵の祖母、三居こと吉薗ギンズルが、昭和六年、九十一歳で亡くなった。このギンズルは、天保十二年(西暦一八四一年)生れ、そして、このギンズル女は、元帥上原勇作の叔母にあたる、とある。上原勇作陸軍元帥は、薩摩藩の最後の大物、として知られて居り、大正昭和初期、日本陸軍、ひいては日本の国家中枢の実力者の一人。吉薗周蔵は、この上原陸軍元帥直属の「陸軍特務」であったと言う。

 この関係は、吉薗周蔵が、上原の親戚であったことに由来するものであったわけだ。吉薗ギンズルは、薩摩武士、四位次兵衛の娘に生まれ、宮崎の郷士吉薗家の養女に入り、京都で、下級公家、堤哲長の子、林次郎を生む。 林次郎の長男が、周蔵。ギンズルが上原勇作の叔母、とあるが、そのギンズルが世話をして、吉薗周蔵は、上原元帥の特命を帯びて、大正昭和前期、秘密諜報工作活動に従事して居た、と言うことである。

 その吉薗周蔵は、死後、克明な日記を残した。周蔵の死後、遺族がそれを大切に保管して居り、落合莞爾と言うひとが、吉薗家の許可を得てそれを閲覧し、それをもとに、「ニューリーダー」誌に長期連載中、と言う次第である。

 これで、吉薗周蔵と上原元帥との長期に亘って続いた特別な関係の意味と根拠が、腑に落ちた。吉薗周蔵と言う人物のこうした役割からすれば、その名前その業績が、全く、人目に触れず、知られることもなく、まして公式の歴史、マスコミ報道には、全く登場して来なかったのも、当然であろう。

 注目すべきことは、落合莞爾氏が、吉薗周蔵手記にもとづいて、上原勇作陸軍元帥は、ユダヤ陣営の人物であることは疑いの余地なし、そして、米国留学時に、フリーメーソンに入会加盟して居たことも確実である、として居られる、その説である。改めて、この「陸軍特務吉薗(よしぞの)周蔵」問題に焦点を当てる必要を認める。(了)
 太田龍の時事寸評の2008.8.21日ヅケ№2521。

 「EIR」誌二〇〇八年八月十五日号、七十二頁「論説」、「ジョージ・ソロスとロンドンの第三次世界大戦」。この重要な論説は、 ブリテンの工作員(エージェント)、ジョージ・ソロスが、ロンドンの手先と成ってコーカサスで第三次世界大戦の引きがねを引こうとして居る。と、警告する。

 一九一四年=大正三年。第壱次世界大戦が始まりつつあったとき、日本人の中で、ユダヤによって世界大戦が準備されて居る、と言うことに気付いたものは、上から下まで、右から左まで、唯の一人もいない。辛うじて、のちの四王天延孝中将が、少佐の時代、第一次世界大戦期、フランス軍の観戦武官として、ドイツ軍との戦争に従軍して居たとき、同僚のフランス軍士官たちから、「これはユダヤが背後で動かして居る戦争である」、「ユダヤは、この世界大戦を通じて、ユダヤの世界支配を推進しつつある」と聞かされた。との趣旨のことを、「四王天延孝回顧録」(みすず書房)の中で書いて居る。

 つまり、日本で、最初にこの第一次大戦の真相に気付いた人物は、四王天延孝(のちの陸軍中将)である。四王天少将は、大正末~昭和初年には、既に、国際ユダヤによって、次の世界大戦は準備されつつある、と、公然、警告し始めていた。しかし、この四王天少将(のちに中将)は、陸軍上層部によって、 追放された。四王天延孝を追放したこの「陸軍上層部」とは、「四王天回顧録」によれば、 上原勇作陸軍元帥である。上原勇作元帥は、若い頃、フランス留学中、フリーメーソンに加盟している、 と言はれている。

 落合莞爾氏が「月刊ニューリーダー」に連載中の論文によれば、明治初年以後、左英ワンワールド秘密結社は、極秘のうちに、薩摩武士のトップクラスを直系のエージェントとして取り込み、日本の国家中枢と国策を動かした、と言ふ。そして、この系列は、大正、昭和初期に於ては、上原勇作(陸軍大臣、陸軍参謀総長など歴任、陸軍元帥)引き継がれた、と。上原勇作元帥[1856.12.6-1933.11.8]は、満州事変[1931.9.18-1933.5.31]前後には、死去した。そのあとは、不明である。

 第二次世界大戦は一九三九年に開始された。この時期には、第一次大戦前とは異なり、少数とは言え、断乎として、反ユダヤ反フリーメーソンと戦う思想戦線が確立され、死力を尽して日本国民に、ユダヤが、第二次世界大戦を演出しつつある!! と、警告した。今、まぎれもなく、イルミナティ世界権力によって、第三次世界大戦が演出 されようとしているとき、状況はどうなのか!!我々は、死力を尽して日本国民に対して、イルミナティ世界権力が全人類を第三次世界大戦に狩り立てつつある!! と警告しなければならない。(了)

 「[] 古本夜話112 四王天延孝『猶太思想及び運動』と内外書房」を転載する。
 『驚異の怪文書ユダヤ議定書』の「訳者の言葉」において、久保田栄吉はユダヤ研究の権威として、「四王天延孝閣下及安江陸軍、犬塚海軍其他の先輩」の名前を挙げ、謝辞を恩師の相馬愛蔵、黒光や杉山茂丸などに掲げている。後者の相馬夫妻や杉山のことはひとまずおくが、前者の名前は久保田のユダヤ研究が軍部の人々と歩調を合わせ、進んできたことを語っている。

 しかも四王天たちは既述した酒井勝軍の著書の版元である内外書房から、いずれもがペンネームでユダヤ問題に関する著作を刊行している。彼らのペンネームは宮沢正典が『ユダヤ人論考』(新泉社)で指摘しているように、四王天延孝=藤原信孝、安江仙弘=包荒子、犬塚惟重=宇部宮希洋である。

 内外書房によったすべての著者たちが判明しているわけではないが、これまで名前を挙げた人々を考えると、酒井や樋口艶之助=北上梅石は神学校出身、四王天たちは語学に通じ、特務機関に関係する軍人で、彼らの共通点はシベリア出兵体験と従軍、ロシア革命とボルシェヴィキへの注視であろう。また国内における大正デモクラシーへの反発も共有していたと思われる。そうした彼らが内外書房と手を携え、『プロトコル』に基づく反ユダヤプロパガンダを繰り広げていったのである。彼らが行なった全国各地での夥しい講演を、内外書房は本や小冊子として刊行した。その内外書房について、管見の限り出版史における言及を見ていないし、全貌も発行人の舟越石治のこともわからない。ただ外務省の外郭団体で、『国際秘密力の研究』(後に『猶太研究』)を出していた国際政経学会の関係者との推測はつくにしても。

 しかし内外書房が行なった反ユダヤプロパガンダを称して、宮沢は『ユダヤ人論考』の本文ではなく、注の部分で「内外書房の熱烈な肩入れ」と見なし、同社の大沢鷺山『日本に現存するフリーメーソンリー』や武藤貞一『ユダヤ人の対日攻勢』の巻末やカバーに寄せられた出版者の言葉を引用している。この二冊は入手していないので、宮沢の同書から再引用する。

 大正十二年の大震災直後から小房が発行したユダヤ研究に関する諸先生十余種の著述は計らず憂国の各位より大好評を受け、この種の出版を続行するやう絶えず激励せられました。厚く感謝します。

 願ふ、関東大震の劫火未だ消えさらざる時、切に猶太研究の先覚の諸先生に願ひ、『猶太禍』『猶太人の世界政略運動』『猶太民族の研究』『共産党の話』『猶太人の大陰謀』『世界の正体と猶太人』を発行、好評絶讃普及実に四万冊を突破、更に、『何故の露国承認ぞ』『自由平等友愛と猶太民族』『皇国を呪ふ二重陰謀』の三小冊子五万を全国的に無料配布せし等、小房が報国一片の赤心、此の驚くべき猶太禍を警告せしは、諸者各位の尚御記憶せらるゝであらう云々。

 これらのおそらく発行人の舟越の言葉によって、内外書房が関東大震災後に立ち上げられ、それに続く昭和経済恐慌の中で、書名に象徴される反ユダヤ人言説が日本中に撒き散らされていった状況がまざまざと浮かんでくるような気がする。それに次回言及するナチズム文献の翻訳と研究書の出版が相乗し、さらに多くの周辺出版物が加わり、確たる分野を形成したと考えて間違いないだろう。

 その集大成的一冊が陸軍中将の位を冠した四王天延孝の『猶太思想及運動』(ただし箱表記はユダヤ)で、これは昭和十六年にもちろん内外書房から刊行されている。菊判五百ページ余、内容はユダヤ民族の歴史と思想、その秘密結社フリーメーソンがフランス革命、アメリカ独立革命、ロシア革命、第一次世界大戦に及ぼした影響、及び東洋政策、満州事変、第二次世界大戦への関与、日本とユダヤ問題に付け加え、「付録」としてフランス語からの彼自身の翻訳『シオンの議定書』の収録もある。したがって同書は四王天が戦後になって著わした『四王天延孝回顧録』みすず書房)で述べているハルピン特務機関時代の大正十年頃に大連で印刷し、菊判二百ページ、五百部にまとめたユダヤ研究から始まる到達点を示していよう。

 『四王天延孝回顧録』や人名事典によれば、彼は日露戦争を経て陸大を卒業後、フランス語やロシア語を修得し、教官などを務め、第一次世界大戦において三年間フランス軍に従軍し、帰国後は前述のハルピン特務機関の他に陸軍航空学校、陸軍省、国際連盟を経て、衆議院議員にもなっている。そのかたわらで、彼が反ユダヤ運動に携わってきたことは明白だが、『回顧録』にユダヤ研究やそのための民族研究会の創立は書かれていても、それらの詳細や内外書房から出した本については記されていない。それゆえに彼の戦後の『回顧録』は、反ユダヤ言説やプロパガンダの渦中にいた自らを描いているとは言い難い。これが昭和十年までの記録だとしても、意図的に省かれていると考えるしかない。だが彼は第二次世界大戦がユダヤの陰謀だとの説を終生変えていなかったはずだ。

 それでも四王天が『回顧録』を執筆したことに比べ、安江仙弘は敗戦時にも満州国政府顧問としてとどまり、ソ連軍に捕えられ、シベリアに送られ、ハバロフスクで死亡。犬塚惟重はこれも敗戦の際にマニラで逮捕され、捕虜虐待容疑で戦犯裁判にかけられ、その後釈放され、日本に戻り、日本イスラエル友好協会に加わっていたが、戦時中に反ユダヤ主義であったことが発覚し、それを退会せざるをえなかったようだ。また内外書房の舟越石治の消息はまったくつかめない。四王天以外の三人が何らかの記録や証言を残していれば、もう少し内外書房の出版物とプロパガンダに象徴的に表出した、大正末から昭和にかけての日本における反ユダヤ主義のくっきりした軌跡が描けたように思えるが、それはあきらめるしかない。

 そのことを無視して、M・トケイヤーたちの『河豚計画』(加藤明彦訳、日本ブリタニカ)や赤間剛の『日本=ユダヤ陰謀の構図』徳間書店)へ飛躍してしまうのは、資料的に心もとないように考えられるので、ここで止める。


【上原勇作考】
 上原勇作 大正~昭和の日本を裏から操った男
 http://homepage2.nifty.com/hokusai/rekishi/uehara.htm


 軍部や政治の表舞台にほとんど出てこない上原勇作ですが、周蔵手記によると大正~昭和にかけて軍部を裏から操っていたのが表向きは「昼行灯」を装い回りを欺いていた上原勇作であった事が明らかになりました。また、大正政変の時には親密であった田中義一/宇垣一成との確執がやがて昭和になってからの統制派、皇道派の抗争へと繋がっている事も明らかになりました。上原勇作の配下としては、石光真臣[1870-1937]、真清[1868-1942]兄弟、甘粕正彦[1891-1945]、貴志彌次郎、久原房之助[1869-1965](引用注:2,26事件時、社会大衆党や共産主義者に資金提供したと言われている)など多数いますが、いずれも上原派とはされていなかった面々です。これも歴史を裏読みする上で興味深いことです。

 (記述内容は、基本的に「ニューリーダー」の落合莞爾氏の記載によります)

1.略歴
2.二個師団増師問題
3.アヘンで肺壊疽を克服する
4.シーメンス事件
5.甘粕事件
6.シベリア金塊 (1) (2)
7.ユダヤ - フリーメンソン
8.中野正剛のシベリア出兵軍事費不正の糾弾
9. 張作霖爆殺
(1)一番困るのは田中義一
(2)広がる上原不信と藤田嗣治の帰国
(3)貴志彌次郎の苦悩

 陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記 読書日記
 http://2006530.blog69.fc2.com/blog-category-2.html


 (16)より

 吉薗家の伝承では、上原元帥は横浜正金銀行にも特殊な権力を持っていた。それが陸軍大将・荒木貞夫に受け継がれたようで、大戦が始まり為替が不自由になった中、フランス再渡航を希望する薩摩次郎八に頼まれた吉薗周蔵が、荒木閣下に頼んで為替を入手した、との記述がある。

 『横浜正金銀行史』は、「顧ふに本行は大隈侯の懇切な指導の下に、13年2月28日を以て世に生まれたのであるが、翌14年から15年に亘る財界の不振に際し、当局者の措置が宜しきを得なかったので、資本金半額以上の欠損を来たし、殆ど破綻に瀕したのを、松方侯の懇篤周到な指導の下に九死に一生を得て、今日の盛大を見るべき基礎を固めたのである。故に本行歴代の当局者は、大隈侯を生の母とし、松方侯を再生の恩ある養育の母として常に敬意を表し、尚今後も永くその恩を忘れぬであろう」として、大隈と松方の恩を挙げるが、西南戦争前後の財政を担ったのは、確かに大隈と松方であったから、当時誕生した同行が2人の世話になったのも当然である。鍋島藩士の大隈は、明治元年1月に徴士参与職・外国事務局判事に挙げられ、外国官副知事から会計官副知事に転じた。2年7月の官制改定で、会計官の後身大蔵省の大輔となった大隈は、民部・大蔵両方の事実上の統合を献言し、自ら民部大輔兼大蔵大輔として内省を取り仕切った。3年7月、両省は再び分離し、大隈は大蔵大輔専任となり9月には参議に補されたが、4年7月の官制改定に際し、大蔵省を大久保・井上コンビに譲った。






(私論.私見)