隠れキリシタンの末裔はいま?離島の旅人を出迎える和洋折衷の墓地
外海から佐世保市の相浦港まで海際を走り、午後1時のフェリーに乗った。キリシタン関連遺産が世界遺産になり、多くの観光客が訪れるようになったため、船体はマイクロバスが並べるほど大きくなった。約1時間で着く黒島は、国立公園に指定されている絶景の群島、九十九島の1つだ。面積は約5.3平方キロメートル。420人ほどの住民の8割はカトリック信者だ。波止場には、世界遺産での訪問者増を期して「ウエルカムセンター」という案内所兼土産物店ができていた。まず訪れた「カトリック共同墓地」。ずらりと並ぶ日本式の墓石の上には十字架が立つ。縦書きの日本人名にミハエル、マリアなどの洋名がつけられている。「マリア観音」同様、まさに和洋折衷だ。こんな光景は他ではまず見ない。キリスト教は土葬のため、あとで掘り返して骨を焼くこともあったそうだ。異文化の最終形態はやはり墓だ。一角に、明治時代の長崎で活動したフランス人宣教師、ジョゼフ・マルマン神父(Josef
Fernand Marman)の墓もあった。マルマン神父は1849年にフランスのロワール県で生まれ、神学校卒業後、外国宣教会から1877年に日本へ派遣された。始めは五島列島の福江島を拠点に布教し、1897年に黒島天主堂に主任司祭として赴任した。島には古い教会があったが、設計技師、建築技師だったマルマン神父は着任早々それを建て直し1902年に完成させた。一時帰国したが、黒島に戻って1912年(大正元年)にこの地で没した。
「信仰復活の地」に住む老婆が憂う人がどんどん減って田畑は荒れ放題
近くに「Cafe海咲(カフェみさき)」という喫茶店があった。その裏側では「天水」をつくっている。黒島は自然の湧水が豊富で、「天水」として売り出されているが、ここはその天水をつくる有限会社「みずや」(本社・佐世保市)の黒島工場である。天水でつくられたおいしいアイスコーヒーが喫茶店で提供されていたので、早速注文した。店長の山内由紀さんが、黒島の歴史を教えてくれた。「黒島には五島や長崎から信者が来ていて、方言がバラバラ。禁教が解けた後、島の出口さんという人が、島にたくさん潜伏キリシタン信者がいるということを明かした。出口さんは洗礼を受け直して、潜伏キリシタンから正式なカトリック信者になり、自宅を布教の場にしたのです。今自宅は、マリア像がある信仰復活の地となっていますよ」。「マルマン神父さんは設計師で、学校、病院、役所のようなものもつくっています。五島にもマルマン神父は行き、あちらに像がある。63歳で亡くなりました」。
山内さんは島のことなどを丹念に綴った、素晴らしい『海咲(みさき)通信』を編集している。夫は黒島出身でクリスチャンだが、長崎市出身の由紀さんは仏教徒とか。「今後、お墓のこととか色々難しくなりそうで……」と笑った。「信仰復活の地」に行ってみた。道は狭い。レンタカーを軽四にして正解。狭い庭のようなところにマリア像があった。台座に刻まれた建立年は、筆者生誕の1956年だった。「人がどんどん減って、何でも自分でしなくてはならない」とこぼしながら、近くで出口サヨ子さん(81)が焚火をしていた。出口さんは黒島生まれ。車はなく買い物も徒歩でかなり距離がある、古くからの藤村商店に行く程度だ。本数の少ないフェリーで佐世保病院に月3回通う。夫は若いときに漁師をやめて神戸の荷役会社へ出稼ぎに行った。27年間盆と正月しか返らず、島に戻って3年後に亡くなった。「下の段々畑も、草ぼうぼうで見えない。木が生い茂っても整備する人がなく、伸び放題。昔見えた花火も見えない。あげく、イノシシが佐世保から泳いでくる。しょっちゅう出合いますよ。出口の名の家はもう2軒しかいない。住民は私が結婚した頃は1500人くらいいたけれど、今は400人くらい」。
黒島の「生き字引」が語る隠れキリシタンの歴史
筆者が投宿した民宿「つるさき」の経営者の父親、鶴崎時雄さん(80)は黒島の生き字引だ。「黒島には隠れキリシタンが、昭和34年に2500人もいた。カトリックが8割で、集落が8つに分かれていた。江戸時代半ばまで無人でしたが、平戸藩が馬を放牧し、江戸の終わり頃から馬の監視役が住んでいたのです」。大村藩はここに信者がいるのを薄々知っていたという。「五島に行くはずの船が強風でこの島の蕨地区にたどり着いて住みついたのが、最初の信者。高台に石垣をつくって住んでいたが、アコウの木の根を張らせて石垣を丈夫にするなどの工夫をしていた」。アコウの木は熱帯植物で、「蛸の木」、「絞め殺しの木」と呼ばれて防風林にもなった。この木は島でよく見かけた。「仏教徒は海の近くに住んだが、カトリック信者はまとまると目に付くから1軒ずつ離れ、住居を木で囲ってしまったのです」(鶴崎さん)。島は「水島」と呼ばれるほど水が豊富で、川や井戸で十分生活できた。仏教の集落だけが船着き場横の湧き水を水道で汲み上げて使っている。
黒島天主堂は長崎では4番目に古いという。「煉瓦は平戸や佐世保からも取り寄せている。黒っぽいのは地元で焼いたもので、黒くなるのは火力が足りないせい」(鶴崎さん)。煉瓦造りの教会は九州に17あり、16が長崎に立地する。1つは福岡の今村教会だそうだ。黒島天主堂は昭和58年の台風で傷んだが、平成9年に国の文化財になった。石垣は島の名産の御影石。「黒島石は花崗岩。鉄分が多いから黒島の土は赤いんです」と鶴崎さん。確かに赤い。カトリックは寺の檀家となり、仏教徒を装っていた。「玄関を開けたら見える神棚は、後ろにマリア様とかの細工していた。踏み絵は踏んだ。表は仏教徒の潜伏キリシタン。隠れではない。出口さんの家は長崎から初めて神父が来て、初めてミサをやったところ。昼間は捕まるから、夜になって船で行ったのです」(鶴崎さん)。
鶴崎さんの先祖も外海から来た。明治45年生まれの父は長男で、百姓をやめて役場に勤めた。弟たちは漁師だったが、漁が廃れ、農協や銀行務めに変わった。黒島の名産はサツマイモと麦。田はほとんどない。「野菜も実が詰まっている。冬の黒島産メークインは飛ぶように売れ、軽トラで島中回って集めた。神父に許しをもらって朝、2番目のミサを終えてから、芋堀り仕事をする。日曜に仕事したい人は神父さんに懺悔し、その日の稼ぎは教会に渡す。漁師も教会に行くために土曜は休む。日曜の午後から食糧を5週間分積み込んで漁に出る」と鶴崎さんは説明してくれた。史跡保存会の会長でもある鶴崎さんは、「教会が世界遺産になったのは嬉しい。ガイド役の試験をやって認定証をカトリックセンターにもらうのです。私も認定証を持っていますが、そろそろ若い世代に譲りたい」と話していた。長男の子どもが長崎の神学校に通うことを嬉しそうに語る鶴崎さんは、筆者に長時間、島のことを説明してくれた翌朝、観光ガイドの仕事に出かけた。島の老人はパワフルだ。
信者は半世紀で5分の1へ心の拠り所は黒島天主堂
主よ、我らの罪を許したまえ――。翌朝、筆者は6時からのミサに参加した。黒島天主堂は特に内部が美しい。ミサの最中、白い装束を纏った可愛らしい少年がローソクの火を消し、ベルを鳴らす。すぐ近くの藤村商店の藤村スミ子さん(77)が連れていた孫の淳平君(7)だった。毎日のミサでは小学生に役割が振り分けられる。「淳平は最初、鐘鳴らすタイミングがわからなかったり、忘れて鳴らさなかったりとか。やっと覚えたね」と笑う。「土曜の夜とか日曜の朝とかもある。冬は真っ暗。眠いけど朝ごはんの前に我慢してくる」と夏休みが楽しみな淳平君は、礼儀正しい。
藤村さんも代々、カトリック信者だ。支所長だった夫は57歳で亡くなった。「私が子どもの頃、2000人以上いた信者は今420人くらいになってしまった」と嘆く藤村さんは、島民が管理し切れない教会を世界遺産として国が保存してくれることに安堵する。「五島も教会は多いけど、中の雰囲気は黒島教会に負ける。この教会を大事に守らなきゃ」と自慢の天主堂を見上げた。
異端にも寛容だった島 「踏み絵」でも信仰は消えなかった
神父の大山繁(しげし)さん(72)の生まれは、平戸の紐差(ひもさし)。去年4月に赴任した。「島民は8割がカトリックですが、港近くなどは曹洞宗の寺や神社もあり、平戸から宮司が来る。1802年に平戸藩が牧場をやめて、移住者を受け入れた。針生島から最初に来た人も、カトリックになった。信仰を排除する政策下でも、島民はみんな受け入れてくれた」。そんな島が集落として世界遺産に認められたことを喜ぶ。「お寺などで踏み絵はあった。うわべでは踏んでも、神を裏切れなかった。宣教師は前もって信者に『心配するな』と伝えて、踏み絵に臨ませていたんです」。大山神父は「幸せの実現は死を超えて入っていく。その姿を十字架で苦しんで死んだイエスは見せてくれた。復活のときこそ本当の姿が実現する」とマタイ福音書などを引用して説いてくれた。
キリスト教は貧困に喘いだ人の精神的支柱だった。「江戸時代、飢饉で多くの人が餓死している。島ではコメができなかったが、五島に逃げたのは自由のためでした。大村藩は人口抑制策を取ったけれど、子どもを殺すことができなかった。そんな庶民にとって、神様が『みんな平等』と教えてくれたのが衝撃的だったのです」。この地でも、少子高齢化が悩みだ。「島には小中学校しかない。高校から島を出るとほぼ帰ってこないんです」と大山神父は寂しそう。素晴らしい空間美をつくり出す黒島天主堂の天井は、木目を筆で描いたとされる。大山神父は自慢すると思いきや、「描いたというのはどうも……。ニス塗ったら木目が出るでしょ」と謙遜する。老朽化で11月から修理する予定だが、30ヵ月かかるとか。内部が見えるようにするというものの、工事前に訪れることができてよかった。
この地には、確かに古き良き「心の信仰」が密やかに生き続けている――。そんなことを感じた旅だった。