「西郷派大東流合気武術を創始した西郷頼母の一族系統は、その先祖が九州の菊池一族に始まる。菊池一族は菊池則隆(孝)を初代当主とする日本屈指の豪族で、歴史の中で極めて重要な位置に属した一族である。菊池氏は古代末から中世にかけて、肥後国菊池郡を本拠地として栄えてきた武当派の戦闘集団で、この一族の掲げるスローガンは、何時の時代も尊王主義に基づく『正義武断』であった。菊池則隆の祖父に当たる太宰府の長官であった権帥藤原隆家(979ー1044年)は、1019(寛仁3)年、沿海州辺境民の女真人による刀伊(刀夷)の賊が来冦し、壱岐・対馬、博多を襲い、掠奪と殺戮を繰り返して北九州にまで及んだ時、隆家は北部九州の豪族たちを指揮して、これを悉く撃退したという。その子孫が長距離遠征を繰り返して、中国四国地方、関東各地、更には東北に至り、会津に及んだ。ちなみに、幕末の英雄西郷隆盛が薩摩藩の藩命により大島に流された時、彼は菊池源吾と名を変えている。つまり薩摩西郷家も菊池一族の末裔である可能性がある。
西郷氏(及び西の姓)は菊池家と親族関係にあり、他にも、宇佐氏や山鹿氏や東郷氏(及び東の姓)の姓も、元は菊池氏の流れを汲んでおり、代々が神主や神道と深い関係を持つ。菊池一族は宮司家を勤めた人を多く輩出している。会津藩における西郷家は
その傍流の1つとして目され、初代の西郷近房以来200年余、会津藩松平家の家老を代々務める家柄(家碌1700石)であり、頼母近悳(以降、頼母と表記)で9代目となっていた。
1830()年、西郷頼母、生まれる。幼少の頃から学問を好み、剣は溝口派一刀流を学んだ。甲州流軍学を究めた。父の西郷近思が江戸詰の為、22歳で番頭になり、飯沼智恵子を妻に迎えている。
1860(万延元)年、西郷頼母は家督と会津藩国家老職を継いで藩主・松平容保に仕えた。1862( 文久2)年、藩主・松平容保は幕府の文久の改革により京都守護職就任を要請された。これに対し、西郷頼母は政局に巻き込まれる懸念から辞退を進言したために容保の怒りを買う。その後も、藩の請け負った京都守護の責務に対して否定的な姿勢を覆さず、1864()年、禁門の変が起きる直前に上京して藩士たちに帰国を説いている。ところが、賛同されずに帰国を強いられた。しかも、家老職まで解任された上に、会津若松の栖雲亭(せいうんてい)に蟄居させられる。幽閉の身となっても、天下国家を広い見地から観察する見識に長(た)けていた。その後、他の家老たちの間で頼母の罪を赦してはどうかと話し合われてもいる。こうして、国家の大事の時、頼母は家老としての優れた見識を示し、屡々(しばしば)藩主に建議したが用いられなかった。
西郷頼母は、密かに幕府の命を受け、「会津藩御留流」と称して伝来されていた古来よりの武術、武技(剣術、柔術、拳法、杖術、棒術、槍術、馬術、弓術、鉄扇術、古式泳法、居合術、躰術(体術)、骨法、白兵戦組討躰術等)を編纂し直し、西郷派大東流を創出した。その直接の意図は、幕末動乱に於ける幕府や皇族の要員を警護することにあった。西郷頼母は幕府の命を受け、江戸幕末期から明治初期に至って完成させた。
但し、西郷派大東流を裏付ける伝書や記録等は一切なく、会津藩にもその痕跡は全く残っていない。全て秘密に古神道や密教の印伝形式をとり、そして門外不出の武技の研究が行われていたものと思われる。大東流は現代でも流派の人脈が複雑で、極めて系統的、及び修行法に謎が多い。
1868(明治元)年、戊辰戦争の勃発によって容保から家老職復帰を許された頼母は、江戸藩邸の後始末の任を終えたのち会津へ帰還する。このとき、頼母を含む主な家老、若年寄たちは、容保の意に従い新政府への恭順に備えていたが、新政府側は容保親子の斬首を要求した為、応戦することになった。これを会津戊辰戦争と云う。会津藩は奥羽越列藩同盟で対抗する戦略をとり、頼母は白河口総督として白河城を攻略し拠点として新政府軍を迎撃した。その後、伊地知正治率いる薩摩兵主幹の新政府軍による攻撃を受け白河城を失陥する(白河口の戦い)。白河城の奪還を果たせぬまま会津進入路に当たる峠の1つを守っていたが、他方面の母成峠を突破されたために新政府軍の城下侵入を許すことになった。この時、白虎隊の悲劇が起っている。
頼母は勢至堂口総督を命じられたが、若松城に登城した頼母は再び恭順を勧めた。しかし会津藩士の多くは徹底抗戦を主張。意見の折り合わぬ頼母は登城差し止めとなった。8月22日、西軍は戸ノ口原に殺到し、城危うしとみた頼母は一族の者たちを集め、「事ここに至っては一死難に殉ずるのみであるが、しかし藩主をはじめとするわが藩が、これまでに尽くしてきた忠誠心が認められず、会津が賊軍としての汚名を負うている間は暫くの生を忍んでも、その汚名はそそがねばならぬ」と言って、11歳になったばかりの一子吉十郎を伴ってあえて登城、冬坂峠(背炙峠)方面の防備に赴いていった。越後口から引き揚げてくる萱野権兵衛、上田学太夫らに藩主からの命令を伝えた後、米沢から仙台に至り、榎本武揚の海軍に合流した。この際の頼母自身は「軽き使者の任を仰せつかり…」、と述べており(栖雲記)、越後口の萱野長修の軍への連絡にかこつけた追放措置とされる。道中には藩主・容保か、もしくは家老・梶原平馬の命令で差し向けられた暗殺者の目を潜りぬけるが、刺客の任に当たった者たちは敢えて頼母親子の後を追わなかったともいう。
1868(慶応4).10.8日(陰暦8.23日)早朝、この時、頼母の母や妻子など一族21名が頼母の登城後に自邸で自刃している。
頼母は会津から落ち延びて以降、榎本武揚や土方歳三と合流して軍艦開陽丸に乗艦して箱館に赴いた。これより以降の闘いを函館五稜郭戦争と云う。結果、旧幕府軍の降伏で終り、頼母は館林藩(群馬県)預け置きとなった。6カ月間幽閉生活を送る。1870(明治3)年、西郷家は藩主である保科家(会津松平家)の分家でもあったため、本姓の保科に改姓し、保科頼母となる。1872(明治5)年、赦免され、伊豆で依田佐二平の開設した謹申学舎塾の塾長となる。1875(明治8)年、都都古別神社(現福島県東白川郡棚倉町)の宮司となるが、西南戦争が勃発すると、西郷隆盛と交遊があったため謀反を疑われ、西南戦争に荷担した疑いで宮司を解任される。実際、隆盛と頼母の手紙のやりとりが遺されている。
1879(明治12)年、長男の吉十郎が病没(亨年23歳)したため、甥(志田貞二郎の三男)の志田四郎を養子とし、彼に柔術を教えた。四郎は成人した後、上京して講道館に入門し柔道家として大成する。小説や映画で名高い姿三四郎は彼がモデルとされる。
1880(明治13)年、旧会津藩主・松平容保が日光東照宮の宮司となると、頼母は禰宜となった。1887(明治20)年、日光東照宮の禰宜を辞し、大同団結運動に加わる。会津と東京を拠点として政治活動に加わり、代議士となる準備を進めていたが、大同団結運動が瓦解したため政治運動から身を引き、郷里の若松(現会津若松市)に戻った。1889(明治22)年から1899(明治32)年まで、福島県伊達郡の霊山神社で宮司神職を務め、辞職後は再び若松に戻った。この時に、頼母の編纂した武術は霊的な神技(天之御中主神を中心座に据えた、左右旋回の右旋回の神・高御産巣日神と、左旋回の神産巣日神の業)が加わり、これが『合気』となったとされている。
1903(明治36)年、会津若松の十軒長屋で死去(亨年74歳)。墓所は妻・千重子の墓とともに、会津の善龍寺にある。
西郷頼母の創始した西郷派大東流合気武術は、極秘の裡に養子の西郷四郎(旧姓志田四郎、頼母と骨格が似ているので実子かも知れない)に受け継がれていく。四郎は、柔道創始者の嘉納治五郎とも関係しており、講道館柔道草創期の講道館四天王の一人となっている。
この頃、中国大陸では、孫文派の革命勢力が台頭していた。秘密結社「哥老会」(かろうかい)、「興中会」(こうちゅうかい、清末の1894年に孫文がハワイで広東出身の華僑を中心に組織した反満革命の秘密政治結社)、後に「華興会」、「光復会」が合同して起した中国同盟会(後の中国国民党の母体)が発足する。「興中会」勃興当時、日本人として孫文に惜しみない援助をしたのが梅屋庄吉(Mパティー商会で現在の日活の前身の社長)であった。梅屋は孫文の掲げる三民主義(民権・民生・民族)のスローガンである「自由・平等・博愛」(フリーメーソンのスローガン)に入れ上げ、彼の盟友となる。また梅屋とともに孫文に応援したのが、当時外務省の役人であった宮崎滔天(とうてん/名は虎蔵または寅蔵。熊本県生まれ)だった。宮崎は中国革命運動の援助者で、孫文と深く交わり、その革命運動を支援した人物である。
西郷頼母は、中国大陸に於けるフリーメーソンの不穏な行動に気付き、孫文の掲げる革命(レボリューション/revolution)の地に養子四郎を新聞記者として差し向けた。目的は彼等革命勢力の実態を暴き、事態を正しく認識して有効な対処策を講ずるためであった。西郷四郎は単独でこれを為したわけではなかった。頼母の「大東流蜘蛛之巣伝」(だいとうりゅうくものすでん)の情報網が働いていた。 |