「西郷派大東流合気道史観」考

 (最新見直し2013.10.21日)

Re:れんだいこのカンテラ時評その167 れんだいこ 2006/05/04
 【西郷頼母史観考】

 「西郷頼母史観」の何たるかは「西郷派大東流合気武術総本部」の「合気揚げの基礎知識についてシリーズ」に詳しい。ここでは、この流派の歴史観を学ぶこととする。
 (http://www.daitouryu.com/syoudoukan/frame/f-aikiage.htm)

 もとより、れんだいこ史観と一致する箇所ばかりではない。食えないところも多いので、不一致のところを捨象し、れんだいこが理解できるところをサイトアップしておくことにする。れんだいこが理解できるところとは、妙に説得性のあるところという意味である。 

 「西郷派大東流合気武術総本部」は、ペリー黒船の来航より幕末維新への流れ、明治以降の流れに国際ユダヤの息づかいを認め、それに対抗する結社として大東流が創設されたとして、次のように延べている。


 概要「元会津藩家老の西郷頼母は、西欧列強の正体(国際ユダヤ金融資本の上に西欧の肉と皮を纏った西欧支配層)を見抜いていた。西洋と言う、欧米の実態が、実はヨーロッパやアメリカの骨格の上にユダヤと言う肉を纏ったものであるということを知っていた。だからこれに対峙し、牽制(けんせい)するためには『大東流』というものが表面に打ち出されていなければならず、この流名由来は『九州のスメラギ』と言われた菊池一族の『大いなる東(ひむがし)』であった。

 そして、欧米ユダヤ(国際ユダヤ金融資本)の『血のネットワーク』(欧米は同じ先祖から出て、血統のつづいている者、あるいは養親子を含める法定血族からなる血族結婚によってその血統を重んじる社会)に対峙(たいじ)して、西郷頼母の掲げたものは『大東流蜘蛛之巣伝』(だいとうりゅうくものすでん)という日本人の霊的神性を蘇らせる特異な『秘伝科学』だった」。
 
 れんだいこは、ネオシオニズムの世界支配構想の存在と動向につき太田龍史観にほぼ同様の見立てを学んでいるが、元会津藩家老西郷頼母は幕末の只中の時点でかような認識を得ていたことになる。そしてそれを「西郷派大東流合気武術総本部」がインターネットで伝えていることになる。

 れんだいこの判ずるところ、事象の根本を射抜いており、古来より連綿と継承されてきた日本武術の眼力の確かさと頭脳を証しているように思われる。この眼力と頭脳は史上に誉れであり誇るべきものであろう。最近知るところとなったが今からでも大いに学ぶべきであろう。

 以下、れんだいこ風に整理しつつ弁証してみたいと思う。個々の史実に関するところは、れんだいこの「幕末通史」に取り込み、幕末維新観につき注目させたい記述のくだりを採りあげることにする。

 daitoryuaikidoco/top.htm

 それにしても歴史は深い。明治維新を問う講座派と労農派の論争など象の表皮を撫でる遣り取りに過ぎなかったとさえ思えてくる。この所感いかがなものだろうか。

 2006.5.3日 れんだいこ拝


西郷頼母の履歴、「西郷派大東流合気武術」考】
 西郷頼母及び「西郷派大東流合気武術」とはどういうものかについて次のように語られている。詳細は「合気揚げの基礎知識についてシリーズ」、「ウィキペディア西郷頼母」で確認するとして、れんだいこが要点整理すると次のように概述できるようである。
 「西郷派大東流合気武術を創始した西郷頼母の一族系統は、その先祖が九州の菊池一族に始まる。菊池一族は菊池則隆(孝)を初代当主とする日本屈指の豪族で、歴史の中で極めて重要な位置に属した一族である。菊池氏は古代末から中世にかけて、肥後国菊池郡を本拠地として栄えてきた武当派の戦闘集団で、この一族の掲げるスローガンは、何時の時代も尊王主義に基づく『正義武断』であった。菊池則隆の祖父に当たる太宰府の長官であった権帥藤原隆家(979ー1044年)は、1019(寛仁3)年、沿海州辺境民の女真人による刀伊(刀夷)の賊が来冦し、壱岐・対馬、博多を襲い、掠奪と殺戮を繰り返して北九州にまで及んだ時、隆家は北部九州の豪族たちを指揮して、これを悉く撃退したという。その子孫が長距離遠征を繰り返して、中国四国地方、関東各地、更には東北に至り、会津に及んだ。ちなみに、幕末の英雄西郷隆盛が薩摩藩の藩命により大島に流された時、彼は菊池源吾と名を変えている。つまり薩摩西郷家も菊池一族の末裔である可能性がある。

 西郷氏(及び西の姓)は菊池家と親族関係にあり、他にも、宇佐氏や山鹿氏や東郷氏(及び東の姓)の姓も、元は菊池氏の流れを汲んでおり、代々が神主や神道と深い関係を持つ。菊池一族は宮司家を勤めた人を多く輩出している。会津藩における西郷家は その傍流の1つとして目され、初代の西郷近房以来200年余、会津藩松平家の家老を代々務める家柄(家碌1700石)であり、頼母近悳(以降、頼母と表記)で9代目となっていた。

 1830()年、西郷頼母、生まれる。幼少の頃から学問を好み、剣は溝口派一刀流を学んだ。甲州流軍学を究めた。父の西郷近思が江戸詰の為、22歳で番頭になり、飯沼智恵子を妻に迎えている。

 1860(万延元)年、西郷頼母は家督と会津藩国家老職を継いで藩主・松平容保に仕えた。1862( 文久2)年、藩主・松平容保は幕府の文久の改革により京都守護職就任を要請された。これに対し、西郷頼母は政局に巻き込まれる懸念から辞退を進言したために容保の怒りを買う。その後も、藩の請け負った京都守護の責務に対して否定的な姿勢を覆さず、1864()年、禁門の変が起きる直前に上京して藩士たちに帰国を説いている。ところが、賛同されずに帰国を強いられた。しかも、家老職まで解任された上に、会津若松の栖雲亭(せいうんてい)に蟄居させられる。幽閉の身となっても、天下国家を広い見地から観察する見識に長(た)けていた。その後、他の家老たちの間で頼母の罪を赦してはどうかと話し合われてもいる。こうして、国家の大事の時、頼母は家老としての優れた見識を示し、屡々(しばしば)藩主に建議したが用いられなかった。

 西郷頼母は、密かに幕府の命を受け、「会津藩御留流」と称して伝来されていた古来よりの武術、武技(剣術、柔術、拳法、杖術、棒術、槍術、馬術、弓術、鉄扇術、古式泳法、居合術、躰術(体術)、骨法、白兵戦組討躰術等)を編纂し直し、西郷派大東流を創出した。その直接の意図は、幕末動乱に於ける幕府や皇族の要員を警護することにあった。西郷頼母は幕府の命を受け、江戸幕末期から明治初期に至って完成させた。

 但し、西郷派大東流を裏付ける伝書や記録等は一切なく、会津藩にもその痕跡は全く残っていない。全て秘密に古神道や密教の印伝形式をとり、そして門外不出の武技の研究が行われていたものと思われる。大東流は現代でも流派の人脈が複雑で、極めて系統的、及び修行法に謎が多い。

 1868(明治元)年、戊辰戦争の勃発によって容保から家老職復帰を許された頼母は、江戸藩邸の後始末の任を終えたのち会津へ帰還する。このとき、頼母を含む主な家老、若年寄たちは、容保の意に従い新政府への恭順に備えていたが、新政府側は容保親子の斬首を要求した為、応戦することになった。これを会津戊辰戦争と云う。会津藩は奥羽越列藩同盟で対抗する戦略をとり、頼母は白河口総督として白河城を攻略し拠点として新政府軍を迎撃した。その後、伊地知正治率いる薩摩兵主幹の新政府軍による攻撃を受け白河城を失陥する(白河口の戦い)。白河城の奪還を果たせぬまま会津進入路に当たる峠の1つを守っていたが、他方面の母成峠を突破されたために新政府軍の城下侵入を許すことになった。この時、白虎隊の悲劇が起っている。

 頼母は勢至堂口総督を命じられたが、若松城に登城した頼母は再び恭順を勧めた。しかし会津藩士の多くは徹底抗戦を主張。意見の折り合わぬ頼母は登城差し止めとなった。8月22日、西軍は戸ノ口原に殺到し、城危うしとみた頼母は一族の者たちを集め、「事ここに至っては一死難に殉ずるのみであるが、しかし藩主をはじめとするわが藩が、これまでに尽くしてきた忠誠心が認められず、会津が賊軍としての汚名を負うている間は暫くの生を忍んでも、その汚名はそそがねばならぬ」と言って、11歳になったばかりの一子吉十郎を伴ってあえて登城、冬坂峠(背炙峠)方面の防備に赴いていった。越後口から引き揚げてくる萱野権兵衛、上田学太夫らに藩主からの命令を伝えた後、米沢から仙台に至り、榎本武揚の海軍に合流した。この際の頼母自身は「軽き使者の任を仰せつかり…」、と述べており(栖雲記)、越後口の萱野長修の軍への連絡にかこつけた追放措置とされる。道中には藩主・容保か、もしくは家老・梶原平馬の命令で差し向けられた暗殺者の目を潜りぬけるが、刺客の任に当たった者たちは敢えて頼母親子の後を追わなかったともいう。 


 1868(慶応4).10.8日(陰暦8.23日)早朝、この時、頼母の母や妻子など一族21名が頼母の登城後に自邸で自刃している。


 頼母は会津から落ち延びて以降、榎本武揚や土方歳三と合流して軍艦開陽丸に乗艦して箱館に赴いた。これより以降の闘いを函館五稜郭戦争と云う。結果、旧幕府軍の降伏で終り、頼母は館林藩(群馬県)預け置きとなった。6カ月間幽閉生活を送る。1870(明治3)年、西郷家は藩主である保科家(会津松平家)の分家でもあったため、本姓の保科に改姓し、保科頼母となる。1872(明治5)年、赦免され、伊豆で依田佐二平の開設した謹申学舎塾の塾長となる。1875(明治8)年、都都古別神社(現福島県東白川郡棚倉町)の宮司となるが、西南戦争が勃発すると、西郷隆盛と交遊があったため謀反を疑われ、西南戦争に荷担した疑いで宮司を解任される。実際、隆盛と頼母の手紙のやりとりが遺されている。

 1879(明治12)年、長男の吉十郎が病没(亨年23歳)したため、甥(志田貞二郎の三男)の志田四郎を養子とし、彼に柔術を教えた。四郎は成人した後、上京して講道館に入門し柔道家として大成する。小説や映画で名高い姿三四郎は彼がモデルとされる。

 1880(明治13)年、旧会津藩主・松平容保が日光東照宮の宮司となると、頼母は禰宜となった。1887(明治20)年、日光東照宮の禰宜を辞し、大同団結運動に加わる。会津と東京を拠点として政治活動に加わり、代議士となる準備を進めていたが、大同団結運動が瓦解したため政治運動から身を引き、郷里の若松(現会津若松市)に戻った。1889(明治22)年から1899(明治32)年まで、福島県伊達郡の霊山神社で宮司神職を務め、辞職後は再び若松に戻った。この時に、頼母の編纂した武術は霊的な神技(天之御中主神を中心座に据えた、左右旋回の右旋回の神・高御産巣日神と、左旋回の神産巣日神の業)が加わり、これが『合気』となったとされている。

 1903(明治36)年、会津若松の十軒長屋で死去(亨年74歳)。墓所は妻・千重子の墓とともに、会津の善龍寺にある。

 西郷頼母の創始した西郷派大東流合気武術は、極秘の裡に養子の西郷四郎(旧姓志田四郎、頼母と骨格が似ているので実子かも知れない)に受け継がれていく。四郎は、柔道創始者の嘉納治五郎とも関係しており、講道館柔道草創期の講道館四天王の一人となっている。

 この頃、中国大陸では、孫文派の革命勢力が台頭していた。秘密結社「哥老会」(かろうかい)、「興中会」(こうちゅうかい、清末の1894年に孫文がハワイで広東出身の華僑を中心に組織した反満革命の秘密政治結社)、後に「華興会」、「光復会」が合同して起した中国同盟会(後の中国国民党の母体)が発足する。「興中会」勃興当時、日本人として孫文に惜しみない援助をしたのが梅屋庄吉(Mパティー商会で現在の日活の前身の社長)であった。梅屋は孫文の掲げる三民主義(民権・民生・民族)のスローガンである「自由・平等・博愛」(フリーメーソンのスローガン)に入れ上げ、彼の盟友となる。また梅屋とともに孫文に応援したのが、当時外務省の役人であった宮崎滔天(とうてん/名は虎蔵または寅蔵。熊本県生まれ)だった。宮崎は中国革命運動の援助者で、孫文と深く交わり、その革命運動を支援した人物である。

 西郷頼母は、中国大陸に於けるフリーメーソンの不穏な行動に気付き、孫文の掲げる革命(レボリューション/revolution)の地に養子四郎を新聞記者として差し向けた。目的は彼等革命勢力の実態を暴き、事態を正しく認識して有効な対処策を講ずるためであった。
西郷四郎は単独でこれを為したわけではなかった。頼母の「大東流蜘蛛之巣伝」(だいとうりゅうくものすでん)の情報網が働いていた。

 「戊辰戦争百話・会津」の「◆第九十二話:家老・西郷頼母◆」を転載しておく。
 ■西郷頼母(さいごう・たのも)

 会津藩家老西郷近思嫡男として、天保元年(一八三〇)三月二十四日、若松城大手口前の藩邸に生まれた。幼名は龍太郎、通称は頼母、諱(いみな)は近悳(ちかのり)、号は栖雲(せいうん)、後に酔月、八握髯翁(やっかぜんおう)などと称した。西郷家は藩祖保科正之と同族で、代々家老職の家柄であり、父近思は江戸詰家老をつとめた。母は会津藩士小林悌蔵の次女律子。

 頼母は幼少の頃より学を好み、武芸は溝口派一刀流の剣を学び、甲州流軍学をきわめた大東流合気柔術の継承者であった。父近思が江戸詰であったため江戸で暮らすことが多く二十二歳のときに番頭となった。文久二年(一八六二)三十三歳で家老職を継いだが、この頃天下の風雲は急を告げ、幕府は従来の京都所司代では力不足とし、さらに強力な京都守護職を置くことを検討、その白羽の矢を立てられたのが会津藩であった。このとき頼母は留守家老として会津にあったが、容保の京都守護職任命の内報を聞くや国家老の田中土佐とともに急きょ江戸に上った。容保に謁して時局の形勢を論じ、朝幕の間に立って難局の打開にあたることの容易ならざることを説き、京都守護職はご辞退あるべしと諌めて、横山主税(ちから)ら他の藩老たちとも最後まで争った。しかし、幕府の政治総裁松平春嶽が就任勧告をつづけ、容保もまた徳川宗家の危急存亡のときにあたり、一藩の利害をもって論ずべきではないと言って、遂に京都守護職を受諾することになった。頼母は翌年も上洛し、容保に守護職の辞任を諌言したが容れられず、十月、病に托して辞表を提出し家老職より身を退いた。その後の頼母は、若松の東北舟石下の長原村に幽居して栖雲亭と名づけ、心たのしまぬままここで五年の歳月をすごした。

 慶応四年(一八六八)正月、鳥羽・伏見の変が起きるや、頼母は再び起用されることになった。世子喜徳の執事となり、ついで頼母は江戸に上って会津藩邸の後始末をして会津に帰った。一方容保はひたすらに悔悟謹慎、干戈(かんか)を動かさずに降を乞うたが、世良修蔵らの奸策によってその意は朝廷に達せられず、西軍は次第に会津に迫って来た。会津藩はやむなく防衛に立ち、頼母は勢至堂口総督を命じられたが、この後においても尚恭順を説き続けた。しかし、やはり受け入れられず、諸将との間もしっくりしなかったので遂に登城差し止めとなった。八月二十二日、西軍は戸ノ口原に殺到し、城危うしとみた頼母は一族の者たちを集め、「事ここに至っては一死難に殉ずるのみであるが、しかし藩主をはじめとするわが藩が、これまでに尽くしてきた忠誠心が認められず、会津が賊軍としての汚名を負うている間は暫くの生を忍んでも、その汚名はそそがねばならぬ」と言って一子吉十郎だけを伴ってあえて登城、冬坂峠(背炙峠)方面の防備に赴いていった。一方頼母を城に見送った妻の千重子をはじめ一族の者二十一人はその翌二十三日、西軍の郭内侵入を目前にみながら、全員自決して果てた。

 この日、城下に火焔の挙がるのをみた頼母は冬坂峠より急きょ引き返して入城したが、藩主の無事なる姿をみておおいに喜び、「この危急存亡のときには一致協力して国難に当たらなくてはならぬ」と言って城中の者共を励ましたが、一方「事ここに至ったのは藩主を輔けた者の責任である」と言って同僚を非難したため、主戦派の中には頼母を亡き者にしようとする空気もみえはじめた。容保はこれをいたく案じ、頼母に越後口から帰国する陣将に伝言する使者という口実を与えて城から脱出させた。このとき頼母は、途中で同僚の簗瀬三左衛門と会って城にとどまるよう勧められたが、それを丁重に断り、年来の厚情に対して厚く礼を述べ感慨無量の面持ちで悄然としながら城を去った。頼母が城から出るとまもなく二人の討手が後を追ったがしかし彼らは頼母の余りにも厳しく、真っすぐなその心情を哀れんだのか故意に別の途をとり、頼母には会わなかったと、帰ってから虚偽の報告をしたという。頼母はこのときも僅か十一歳になったばかりの一子吉十郎を伴い、越後口から引き揚げてくる萱野権兵衛、上田学太夫らに藩主からの命令を伝え、自分は米沢から仙台に至り、榎本武揚の海軍に合流した。榎本の軍艦開陽丸に乗艦して箱館に赴いたが、頼母はこの艦中で会津の開城降伏の報を聞くことになる。

 北海道における戦いは箱館を中心として行われた。翌二年五月十一日、西軍の将山内顕義、黒田清隆らは未明の午前三時を期して総攻撃を開始、十三日に頼母は榎本に対しても降伏することを勧めたが、やはり容れられなかった。しかし五月十八日、その榎本も遂に降伏、頼母もまた自ら西軍の陣営に下った。七月十四日、箱館において降伏した会津藩士十六名に対し、軍務局から古河藩外三藩に分けて幽閉する命が降りた。頼母も一旦は東京に押送されたが九月改めて館林藩に幽閉された。翌三年二月に幽閉が解かれると、伊豆月ノ浦近くに謹申学舎を設けて自ら塾長となり、里人らの指導に当たった。(後年この子弟の中から北海道開拓の拓聖とまでいわれた依田勉三らが輩出した)また頼母は、西郷の姓を本姓の保科に復し、保科頼母と称するようになった。明治八年八月三日磐城国の都々古別(つつこわけ)神社の宮司となったが、十一年六月に職を去った。理由は頼母が西郷隆盛の謀反(西南の役)に与していたという疑いを持たれたためであった。

 辞職後は東京に移り、在京の旧藩士小森駿馬・加藤寛六郎、館林幽閉中に世話になった塩谷良翰の宅などを往来していたが、明治十三年二月二日、旧藩主容保が日光東照宮宮司となるや、頼母も旧主に従って日光の禰宜(ねぎ)となって容保を補佐した。同二十年四月、神官が廃せられるや一旦若松に帰り、同二十二年四月三十日、改めて岩代霊山神社の宮司に輔せられた。霊山神社は北畠親房・顕家・顕信・顕時・守親の五柱を祀り、明治十九年に別格官幣大社となった神社で、三代目宮司が保科頼母であった。霊山神社の宮司を努める傍ら、自身の希望から県の師範学校の嘱託となり、古人の格言などを講義した。明治三十二年四月一日、古稀を迎えた頼母は、二十一年にわたった神官生活をやめ、さらに一切の公職からも離れて若松に帰り、旧藩邸から百メートルばかり離れた通称十軒長屋と呼ばれる陋屋(ろうおく)に下女のお仲と二人でひっそりと暮らした。

 明治三十六年四月二十八日午前六時頃、「あいづねの遠近人(おちこちひと)に知らせてよ  保科近悳今日死ぬるなり」の時世を残して静かに息を引き取った。死因は脳溢血、享年七十三歳。ちなみに一子吉十郎は明治十二年八月九日に二十二歳で病没している。

 次→◆第九十二話:会津藩主・松平容保◆

西郷頼母一族の自刃考
 1868(慶応4).10.8日(陰暦8.23日)早朝、この時、頼母の母や妻子など一族21名が頼母の登城後に自邸で自刃している。これを確認するのに「実話-西郷頼母一族の自刃と中島信行」が次のように記している。
 ■西郷頼母一族の自刃

 若松城の城門近くに、会津藩の家老の西郷頼母(さいごう・たのも)の家老屋敷があり、この家老屋敷で西郷頼母一族21人が自刃に倒れた。西郷頼母一族の自刃があったのは、家老の西郷頼母が国境警備にあたっている時のことである。

 1868年10月8日(慶応4年8月23日)早朝、城下町に早鐘が鳴り響き、藩士の家族が続々と若松城に向かうなか、西郷頼母の一族21人は西郷頼母の家老屋敷に集まっていた。西郷頼母の母親・西郷律子は「女が城に居ては足手まといになる。されど、敵の手に落ちて辱めを受けるわけにはいかない」と言い、辞世の句を詠むと、自刃に倒れた。西郷頼母の妻・西郷千恵子は義母・西郷律子の後に続き、まだ自害できない幼い我が子を刺した。そして、妻の西郷千恵子は我が子の死を確認すると、返す刀で自分の喉を貫き、会津藩士の妻としての役目を果たした。こうして、西郷頼母の家族9人が自害した。また、別室に集まった西郷頼母の縁者12人も西郷律子らに続き自害した。この日、西郷頼母の家老屋敷では一族21人が自殺した。

 ■土佐藩の中島信行の介錯

 一方、若松城まで到達した新政府軍・土佐藩の中島信行は、若松城の近くにある屋敷を一軒一軒、調べていた。中島信行は大きな屋敷に鉄砲を撃ち込む。しかし、反応が無いので、屋敷内を捜索した。土佐藩士・中島信行が長い廊下を渡って1室の障子を開けると、女子供が自刃に倒れて死んでいた。それは西郷頼母の一族21人だった。しかし、17〜18歳の女が1人まだ息を残していた。年齢から考えて、女は西郷頼母の長女・西郷細布子(16歳)だとされている。西郷細布子は母に頼らずに自害したが、急所を外して自殺に失敗し、意識がもうろうとしていた。西郷細布子はもうろうとしながらも、障子を開けた中島信行の気配に気づくと、「敵か、味方か」と問うた。土佐藩士の中島信行が「安心せい、味方じゃ」と答えると、西郷細布子は力を振り絞って懐刀を差し出し、介錯を頼んだ。中島信行は「御免」と言い、西郷細布子の首を落としてやった。(注釈:西郷頼母の家老屋敷に入ったのは、土佐藩士・中島信行とされているが、中島信行は土佐藩を脱藩しており、会津戦争に加わっていないため、別人の可能性がある。)

 会津藩士の家族の中には、西郷頼母一族と同じように新政府軍の辱めを受けることを危惧して、自害した者が大勢居た。柴五郎の家族も自害している。内藤介右衛門の家族も面川泰雲寺で自害している。戊辰戦争で死んだ会津藩の女性の数は計230人に上ったという。

 この時、次のような辞世の句が遺されている。
律子 58歳 「秋霜飛兮金風冷 白雲去兮月輪高」
千重子 34歳 「なよ竹の 風にまかする身ながらも たわまぬ節は ありとこそきけ」
眉寿子 26歳 「死にかへり 幾度世には生きるとも ますら武雄となりなんものを」。
由布子 23歳 「武士の道 と聞きしをたよりにて 思いたちぬる黄泉の旅かな」
長女 細布子 16歳 「手をとりて ともに行なばまよはじよ いざたどらまし死出の山みち」
次女 瀑布子 13歳

【西郷頼母史観による幕末維新考】
 このような系譜を持つ「西郷派大東流合気武術」の創始者西郷頼母が捉えた歴史観に興味深いものが認められる。これを仮に「西郷頼母史観」と命名する。「西郷頼母史観」は、幕末情勢に於ける「フリーメーソンの眼、企図」について次のように述べている。「西郷派大東流合気武術総本部」の「合気揚げの基礎知識についてシリーズ」がこれを伝えているので、要点を確認する。
 「この時、日本攻略フリーメーソンは、イギリスを中心としたアングロサクソン・グループとフランスを中心としたラテン・グループに分かれていた。そして両者は地下脈路では完全に繋がっていた。西南雄藩が徳川幕府と対立し、これらが対決する時、西南雄藩にはイギリスが、そして幕府側にはフランスがついて軍事顧問となっていた」。
 「明治維新の幕開けは、ペリーの砲艦外交に始まり、孝明天皇崩御、大政奉還、明治維新、会津戊辰戦争と目紛しく時流が移り変わった。幕末に起こった倒幕運動は、反西欧的な徳川幕府を打倒させ、日本に親欧米的な立憲君主国を建設するのが欧米列強の狙いであった。つまりこの狙いの意図は、ユダヤ地下政府(日本では「ユッタ衆」と言われた)を司令塔にして、明治維新即ち日本に於て神秘主義を推進し、これを基盤にしたフリーメーソン革命を日本で成功させることが目的であった」。
 「一般には、明治維新がフリーメーソン革命であり、その背後に『弥次郎』(やじろう)という影の総帥が居て、その配下にユッタ衆と言う穏微な集団が暗躍したということが、あまり知られていない。日本においても、幕末以前からこうした組織が入り込んでいて、既に十六世紀には陰の易断政府というものがあり、ここに暗躍した結社員をユッタ衆と呼んでいた。そしてこのユッタ衆は幕末期、欧米のフリーメーソンと秘密提携し、この提携によって明治維新の構想が練られるのである」。
 「明治という近代史の裏には、既に欧米に操られる火種が存在していたということになるのである。そして明治維新の構想プログラムは、その第一が、約265年程続いた反欧米的である徳川幕府を打倒して、親欧米的な立権君主制に基づく政府を樹立させることであった。これが尊王思想と結び付き、更には水戸学(江戸時代、水戸藩で興隆した学派で、特色ある学風を形成したのは寛政年間以降のことである。そして幕末の尊王攘夷運動に大きな影響を与えた)などが利用された」。

 「西郷頼母史観」は、幕末情勢を上述のように見立てている。この観点に照らせば、徳川幕府最後の将軍(十五代)徳川慶喜の徳川政権の引き際は、敵の策に乗ぜられず賢明に対処していたことになる。次のように述べている。
 「しかしイギリスとフランスの巧妙な仕掛けに気付いた人物がいた。それは徳川幕府最後の将軍(十五代)徳川慶喜だった。慶喜は、政権を捨ててまでフリーメーソンの仕掛ける内乱誘発陰謀に乗らぬよう自重する。大政奉還が行われたのは慶応3年10月14日(1867年11月9日)のことだった。翌年の2月12日、朝敵の汚名を着せられた慶喜は江戸城を明け渡して上野寛永寺大慈院に移った。そしてそこで示した態度は恭順謹慎であった。謹慎を貫いて日本の内乱を防いだことになる」。
 「明治維新という革命は紛れもなくイギリスとフランスのフリーメーソンによって仕掛けられたフリーメーソン革命であった。従って、そこには西欧の虎視眈々と漁夫の利を窺うワン・ワールド主義者達の意図が働いていた。そうした気配を敏感に感じ取っていたのが慶喜だった。謹慎を貫き通し、貝の如く頑(かたくな)に口を閉ざしたままであった。万一イギリスとフランスのフリーメーソンの画策に乗せられて西南雄藩軍と幕府軍が戦っていたらどうなったか。恐らく日本は分裂の危機を招いたであろう」。

 「西郷頼母史観」は、徳川慶喜の対応を上述のように見立てている。この観点に照らせば、その後の戊辰戦争には何としてでも内乱を誘発せしめようとしていたフリーメーソンの意図が働いていたことになる。次のように述べている。
 「こうした慶喜の謹慎の中で、翌年の4月11日、江戸城が開城した。西欧支配層は日本分裂を目論んでいたが、幕府軍の呆気無さに拍子抜けし、次に戦場の場を東北に移すことを企てる。これが戊辰戦争であった」。

 つまり、上野戦争、奥羽列藩同盟の動き、長岡藩国家老・河井継之助率いる長岡城攻防戦、会津戦争、函館五稜郭(ごりょうかく)戦争は、フリーメーソンの意図を知りつつ、その策に乗りつつ闘わざるを得ず、遂に散華した悲劇の歴史であったことになる。

 「西郷頼母史観」は、
水戸学について次のように述べている。
 「水戸学は江戸時代、水戸藩で興隆した学派である。国学・史学・神道を基幹とした国家意識を特色とし、藩主徳川光圀(みつくに)の大日本史編纂(へんさん)に由来するが、特色ある学風を形成したのは寛政(1789〜1801)年間以降であり、尊王攘夷運動に大きな影響を与えた。そしてこの運動は、瞬く間に全国に、尊王攘夷思想として飛び火する」。

【西郷頼母史観による明治政府考】
 「西郷派大東流合気武術総本部」の「合気揚げの基礎知識についてシリーズ」は、総纏めとして次のように述べている。
 「明治維新という革命事件は徳川十五代まで続いた将軍慶喜を追放することによって封建時代が終焉を向かえ、江戸幕府を瓦解に導くことによって、日本を近代国家に移行させたと一般には信じられている。この時、スローガンとして掲げられたものが大政奉還であり、王政復古であった。しかし結局はこの革命事件は神をも恐れぬ欧米に入れ挙げる唯物論者が仕掛けた事件であり、そのスローガンは有名無実に回帰した。唱えられたのは掛け声だけで、終わって見れば当時の事件を画策した権力者層の都合のいいように扱われ、仕立て上げられてしまったのである。そして権力者が自分の特権を更に不動のものにするために西郷隆盛を追放して西南の役を画策する。

 そしてユッタ衆(影の易断政府)の総帥・弥次郎(やじろう)の指令に従い、坂本龍馬、伊藤博文、井上馨(かおる)、五代友厚、岩倉具視(ともみ)、大久保利通(としみち)、木戸孝允(たかよし)、大隈重信(しげのぶ)、寺島宗則、森有礼(ありのり)、福沢諭吉、新渡戸稲造、西園寺公望(さいおんじきんもち)らが走狗となって奔走する。いつの時代も、有識者や進歩的文化人がこうした穏微な集団の手先となって走狗(そうく)する現実がある。

 この事実を、西郷頼母はしっかりと把握し、『欧米は騙す』という、白人主導型の骨子に、ユダヤと言う肉を纏った国家群であると言うことを見抜いていたのである。頼母の目指すところは歐米に喰われないための日本であり、彼等の圧力に対峙し、牽制して、是非がでも『大いなる東』の、菊池一族の大スローガンでなければならないと考え、これが大東流を名乗る根拠になっていたようである。

 この背後には欧米列強の帝国主義の陰が見隠れする。近代における帝国主義は植民地主義であり、近代史は穏微な集団によって画策された、もう一つの歴史を持つ。幕末から明治にかけて日本はこうした穏微な集団に画策され、内戦状態となり、国内二分化の危機にあった。ところがこうした現実を即座に見抜いたのは徳川十五代将軍慶喜であり、また会津藩では西郷頼母であった。西郷頼母の『大東流蜘蛛之巣伝』はこうした時代を背景に誕生する」。

【ユッタ衆について】
 「西郷派大東流合気武術総本部」の「合気揚げの基礎知識についてシリーズ」は、「ユッタ衆」について次のように解析している。れんだいこにとって「ユッタ衆」というのは初めて聞く言葉であり首肯し難いが、暫し沈思黙考するに値する内容なのでれんだいこ風に分かりやすく意訳して愚考する。

 概要「明治維新を陰で操ったユッタ衆とは何者か。ユッタ衆とは弥次郎集団とも云われるが、ユダ者が訛った語源であり、ユダ衆と置き換えられてもいいものである。大衆からはヤジロベイ(=弥次郎兵衛)と称されて、親しみとも、愚直ともとれぬ呼び名で呼ばれていた。日本では、戦国時代にイエズス会系キリスト教を始発として種々のカトリック教派が外来してきたが、彼らはこの時同時に上陸したと考えられる。今風に云うならばネオシオニズムの使徒である。

 戦国時代が終焉(しゅうえん)を告げ、徳川家康によって日本が統一されると、徳川幕府は直ちに鎖国を敷き、キリスト教及びその背後のネオシオニズムは禁教された。これによりユッタ衆達は地下に潜った。そして、陰の易断(えきだん)政府を形成することになる。キリスト教の布教(カトリシズム工作)を仮想したネオシオニストによる易断政府を形成した。そして徳川幕藩体制が揺らぐまで逼塞することになる。

 ペリーの黒船砲艦外交がユッタ衆復権の合図となった。この穏微な集団は、背後に巨大な経済力を持ち、幕末期に多くの志士達を洗脳して、日本を縦横に駆け巡った。ユッタ衆は明治維新の志士達の裏方として実質的な活動を行っていくことになった。

 ユッタ衆は、幕末維新の過程で、まず西南雄藩に取り憑いた。これに関わるのはグラバーに代表されるフリーメーソンであり、これに内応したのが薩摩の小松帯刀(こまつたてわき。島津久光の側役として藩政に参与。のち京都にあって大政奉還に尽力、薩長同盟を結んだ)、公家の岩倉具視、長州の木戸孝允、伊藤博文、井上馨、土佐の坂本龍馬、政商・五代友厚、その他明治政府下で頭角を現した森有礼、寺島宗則、西園寺公望、福沢諭吉らである。当時の開国派有識者や文化人は殆どこれに被れている」。
 
 これ以降については稿を改める。

【西郷頼母・四郎親子の眼力と奔走について】
 西郷派大東流合気武道の開祖西郷頼母・四郎親子の眼力を確認しておく。次のように述べられている。
 「西郷頼母・四郎親子が徹底的な毛唐(欧米人)嫌いであったのは、日本が真の独立国家としての国体を失い、日本古来から連綿として続いた秩序は旧来の陋習と受け止められ、一方的に欧米従属主義を押し進める、欧米推進派の自由主義・功利主義を危惧したからであった。薩長こそ、国を誤る奸臣(かんしん)だとしたのである。そしてその背後に薩長を操るユッタ衆の存在に気付いたのであった。そしてこれ等の背後にはもっと大きな、日本の神秘主義をすっぽり包含する、ユダヤ地下政府のプロ活動家の姿が、波の狭間から見え隠れしていたのである。西郷頼母は、これを即座に捕えたのだった。」。
 「会津戊辰戦争で敗れて以来、頼母の怒りの眼は、明治新政府を横領したこれ等の藩閥政治首謀者に向けられることになる。事あるごとにその反撃の機会を窺(うかが)っていたが、明治10年の西南戦争が蜂起した際、頼母は薩摩西郷軍に軍資金を送って、これを援助している。会津藩を考えた場合、これは戊辰戦争の恨みに逆行することであるが、会津という一藩を超えて考えた場合、大局的には頼母の考え方の方が、欧米列強を相手にしてその深層部に鎮座する、列強の奥の院に対峙する思想であった。頼母は、真当の敵が誰であるかを知っていたのである。西南の役後、西欧追随政策をとり、西欧的植民地主義を模倣して、日本は帝国主義路線を直走ることになる」。

【西郷頼母史観による近代革命、マルクス主義運動について】
 西郷頼母史観による近代革命、マルクス主義運動について、「西郷派大東流合気武術総本部」の「合気揚げの基礎知識についてシリーズ」は次のように述べている。興味深いので採録しておく。

 「19世紀初頭、世界を戦争の渦中に巻き込んだ植民地主義、並びに帝国主義は、資本主義を継続するための、一種の詭弁(きべん)であり、また資本主義に対抗して生まれた社会主義や共産主義は、まぎれもない虚構理論であった。

 世界は疑いようもなく、18世紀頃から、ある種の意図をもって、凡(おおよ)その一つの流脈をもった人工的な意図に導かれて動かされるようになった。つまり、歴史はまさしく、特定の目的をもち、特定の意図をもって、穏微な集団によって動かされているということである。

 アメリカ合衆国建国(アメリカ革命戦争)も、フランス革命も、第一次世界大戦も、ロシア革命も、総べて、ある特定の目的と意をもって画策されたものである。その意味で、近代史は一つの方向性をもった、特定の目的と意図によって動かされ来たと言っても過言ではない。そしてあらゆる民族や国家を包含する世界人類は最終ゴールに向かって動いているのである。

 もしこうした政治体制が完成すれば、もはや国家と言う意識はなくなるのである。これが国際主義(インターナショナリズム)であり、民族は融合され、争いがなくなり、価値観の総ては統一されることになる。

 この魁(さきがけ)として、十九世紀初頭に登場したのが社会主義並びに共産主義(社会主義を方便として起用し、その完成された形が共産主義)であった。しかしこの虚構理論は、ソビエト崩壊と言う終焉(しゅうえん)によって奇(く)しくも潰えた。そして近年に新たな産声を上げたのがワン・ワールドであり、国際主義と言われるものである。

 この国際主義は、統一の宗教、統一の言語、統一の通貨、統一の価値観によって、地球を一つの国家とみなすもので、世界は一つの覇権巨大勢力によって運営ならびに融合するというものである。

 その為に、大衆を進歩的文化人の権威で洗脳し、工作し、家畜化もしくは動物化して、思想的価値観を根底から覆して、覇権的巨大国家体制に吸収しようとするものなのである。そして今、世界は、紛れもなく白人主導型の、グローバリズムの政治システムによって運営されているのである。

 その運営の根底には、西欧と言うユダヤの骨格に、肉を纏った思考が、その根底にあり、その走狗は欧米ではフリーメーソンであり、日本国内ではユッタ衆と言われる穏微な集団が一般大衆を装って走狗となっているのである。

 また、この穏微な集団は、進歩的文化人と言われる有識者層のコントロールを、実に上手にやる技術を持っている。その最たるものが、ダーウィンの進化論であり、この進化論は、思想的な洗脳を行う事を第一の目的にした策略である。しかし大衆の多くは、その隠れた部分に真摯(しんし)に目を向けようとしない。誰もが安易に進化論を受け入れているのである」。





(私論.私見)