
2006-10-31 妄想的論文
■歴史と国際情勢から読む北朝鮮問題② 
妄想的 世界史
現在は過去の積み重ねによって成り立っています。
そして、未来は過去からのベクトルに現在の意思(集合的意識・無意識を含む)を加え修正した延長線上にあると思います。
現在だけを見て未来を予測することはできません。過去からの大きな歴史の流れを見ていく必要があると思います。
ただ、いま語られている歴史は、勝者によってつくられたもの。
典型的な例が「コロンブスによるアメリカ新大陸の発見」でしょう。
アメリカ大陸は当然ながらコロンブスが発見する以前から在るわけです。
ヨーロッパの視点からみたものが「歴史」として日本でもそのまま教えられます。
勇壮に語られる開拓史の裏で、5000万人いた先住民の99.94%が虐殺され、残った3万人も土地を奪われたことなど、教えられることはほとんどありません。
私たちが歴史を振り返るとき、敗者からの視点に加えて、勝者が知られたくない隠された歴史も、考慮する必要があると思います。
ただ、これも“裏づけ”がないので、表層的な現象やインサイダーからの告発、あるいは“こぼれ話”の類から推測するしかありません。
現在に続くこの物語は、旧約聖書の時代、中東の砂漠地帯から始まります。
(※話を簡潔にまとめるために年代が前後しているところがあります。)
過酷な生存環境は、そこに住む民族に過酷な性質をもたらしました。
生き残るために、近隣の民族と絶えず抗争を繰り返し、敵を殺して物資を奪うことは英雄的行為でした。
「神に選ばれた民」として栄華を誇った民族も、諸行無常、離散や奴隷生活など辛苦を舐めるような経験を長年にわたって味わうことになります。
長い長い迫害された生活の中で、いつか自由になり、かつての栄華を取り戻したい、その思想は『タルムード』として結晶していきました。
そして、神との約束「この地の王となり、支配する」ことが民族の目的となります。
彼らの一番の武器は「知恵」でした。生きるためには聡明でなければならない。お人良しでは殺されてしまう。
イブが悪魔に唆され食べた禁断の木の実=知恵の実のせいで原罪を背負ったとする当時のキリスト教では、人間が「知恵」を持つことは良くないこととされていました。
知恵を持たないキリスト教徒を知恵のある「選ばれた民」が手玉に取るのは簡単でした。
しかし、そうすればするほど迫害は強まり、彼らはあちこちで追放処分を受けます。
国を持たない彼らは、教会やロッジ等を拠点として世界中にネットワークを貼り巡らせ、主に貿易や金融業を通してグローバルな活躍を繰り広げていきます。
次第に「選ばれた民」の血統は少なくなっていきましたが、いつの間にか自称「選ばれた民」が同胞として加わってきました。
もともと遊牧騎馬民族であった自称「選ばれた民」は、略奪を得意としていました。
従来の血の結束に代わり、共通の思想・信条が拠り所となりました。
やがて彼らは、忌み嫌われた職業=金融業を通じて、社会的影響力を強めていきます。
贅沢な暮らしに慣れた王様や貴族にとって、金策の上手な「選ばれた民」は欠かせない存在でした。
彼らの一部は宮廷に入り込み、忠実な僕として信頼されていきますが、多くの同胞は迫害されたままです。
同胞を解放するためには、国王や教皇の持つ権力を打倒しなければならない。
彼らは人権や自由・平等・博愛というスローガンを掲げ、市民を先導し、革命を起こしていきます。
市民の地位が向上し、古い権威が没落する中で、新たに権力を手にしたのは「知力」と「金力」、それに敢えて付け加えるなら「ファウスト的精神」*1を持つ者でした。
「知」を信望する彼らは、優秀な頭脳を取り込み、さまざまな「結社」を通じて支配力を強めていきます。
選民思想にグノーシス信仰や悪魔崇拝、カバラ、フリーメーソン思想、拝金主義、のちに優生学や共産主義などが混然一体となり、世界統一思想となって、エスタブリッシュメントたちは「New World Order」へと向かっていきます。
彼らの描く未来図は、無知で野蛮な大衆を無害化し、一部の知的エリートが絶対的な権力で徹底管理する平和な社会。言い換えれば「大衆家畜化社会」とでも言いましょうか。
共産主義という思想は、イルミナティのアダム・ヴァイスハウプトによって生み出され、それをマルクスが理論化し、レーニンやトロツキーが革命によって実行、そして、1922年、ソ連という社会主義国家が史上初めて誕生します。
※ソ連成立の経緯については『ラコフスキー調書』をご参照ください。
彼らに資金提供して支援したのが国際金融資本。「資本主義の敵」とされた共産主義は、「資本主義の権化」ともいえる国際金融資本(主にロスチャイルド系)の援助によって生み出されたものでした。
レーニンの後を継いだスターリンは、従来のボリシェヴィキの理論「国際共産主義」を放棄し「一国共産主義」政策をとりました。古参党員を追放し、反対派を「粛清」と称して2000万人以上もの国民や党員を殺戮します。
スターリンは独裁者であり、国際金融資本の言うことをなかなか聞かなかったと言います。しかしながら、米国(主にロックフェラー系)から資金と技術の援助を受け続けており、スポンサーをロスチャイルドからロックフェラーに乗り換えたのかもしれません。
ただ、米国資本と言っても、モルガンもハリマンも、そしてロックフェラーも、もともとはロスチャイルドから資金援助を受けて財を成しています。この辺の事情はよくわかりませんが、米国を超大国に育てたのも、ソ連を米国に敵対する社会主義大国に育てたのも、ヒトラーを育て軍事力を強化しドイツを戦争に追い込んだのも、そのナチス・ドイツを打倒するため「武器供与法」をつくって英国に武器を供与させたのも、のちに中国を共産党に支配させたのも、そして日本が日露・日中戦争に突入したのも、一本の糸でつながる国際金融資本の“支援”があればこそ可能となったことなのです。この歴史の真実を見ずして目先の政治家の言動だけを眺めても、片手落ちになってしまうのではないでしょうか?
なにはともあれ、このスターリンが金日成に北朝鮮を建国させることになります。
世界は裏の世界を知らない、世間一般の人々が想像しているものとはずいぶん違った人物によって動かされているのだよ。
(つづく)
2006-10-30 妄想的論文
■歴史と国際情勢から読む北朝鮮問題① 
私流 国際情勢の読み方
『日本の闇を探る』シリーズの補足と、これからの話をわかりやすくするため、一つの例え話をします。
ある所になかなか良い演劇をする劇団があるとします。芝居の上手な役者、感動的なストーリーを書ける作家、観客を魅了する術を心得た演出家が揃っています。ただ、自分たちで興行を催すだけの資金力がありません。
そこで劇団はスポンサーを探します。
劇団長がなんとかスポンサーを見つけてきましたが、このスポンサーと契約した時点で、三つの制約が劇団に課せられます。
1.興行収益を黒字にして、利益をスポンサーに還元する。
2.スポンサーの意向に沿った芝居をしなければならない。
3.スポンサーの不利益になるような表現をしてはならない。
本来、劇団は自分たちのやりたい演劇をしたいのです。
そうすれば観客が満足する自信もあります。
でも、スポンサーが資金を出してくれなければ興行ができないのですから、ある程度の妥協は仕方ありません。
ただ、ここで困った問題が発生しました。
観客が求めるような演劇をするとスポンサーに降りられてしまいます。
そうすれば興行自体がおこなえない。
板ばさみとなった劇団長は、悩みに悩んだ末、観客が求めるような劇をするふりをして、スポンサーが求める劇をしました。
しかし、当然、観客からは不満の声があがり、日々、客数が減っていきます。
このままでは興行は赤字となり、スポンサーに利益を還元することができない。
そうすれば、やはりスポンサーに降りられてしまう。
悩みに悩んだ劇団長は、今度はスポンサーが求めるような劇をするふりをして、観客が求める劇をしました。
観客は大喜びです。
しかし、残念ながら、この劇団はもう興行をおこなうことができませんでした。(END)
もうおわかりかと思いますが、スポンサーは資本家、劇団は政治家、観客は国民です。
観客は、舞台裏でスポンサーと劇団長にどのようなやり取りがあったのかわかりませんし、そんなことには興味もありません。
目の前に繰り広げられる演劇が面白ければ、それで良いのです。
また、メディアや政治・経済評論家あるいは学者や研究者も、舞台の上だけしか対象にしません。
舞台裏でのやり取りは非公式だし、証拠もありません。“裏づけ”のないものはゴシップやトンデモ扱いされますから“マトモ”な人は敬遠します。
しかし、“裏づけ”がないからといって舞台裏でのやり取りが舞台上の演劇に影響しないわけではありません。
むしろ、スポンサーの要求が一義的に舞台上を規定するはずです。
ただ、証拠がないので、舞台上の現象やインサイダーからの告発、あるいは“こぼれ話”の類から想像力を働かせて「舞台裏のやり取り」を推測するしかありません。
現実には、観客のニーズは多様で、スポンサーも複数つく場合が多いでしょう。
一定の指向を持つ観客が結束し、「こういう劇をやってほしい」と劇団に要求するのがロビー活動。
厄介なのは、ロビー団体がスポンサーにつく場合です。そうなると、劇団は自分たちのやりたい演劇は、まずできません。
何故、創価学会や統一教会が自民党に対して、また、キリスト教原理主義やユダヤ・イスラエルロビーがブッシュ政権に対して力を持つのかの理由がここにあります。
数あるスポンサーの中で、誰が優先されるかは、「劇団の意向をどれだけ尊重してもらえるか」も選択基準となりますが、基本的に出資するには何らかの見返りを求めるものなので、やはり、より出資額の多いスポンサーが優先されることになるでしょう。
この世で最も力を持つスポンサーは国際金融資本です。国際金融資本は戦争のたびに勢力を拡大し、影響力を強めてきました。その中でも、「金」と「力」を兼ね備えた軍産複合体のロスチャイルド財閥(ブリティッシュ・エアロスペース、ダッソー、ロッキード、ヴィッカースなどを傘下とする)とロックフェラー財閥(GM、ゼネラル・ダイナミックス、レイセオン、ボーイングなどを傘下とする)とが双璧です。両者は普段、敵対しているように見えて、お互いの利益になることには容易に手を結びます。もっとも手強い相手と組むのが彼らの常套手段なのです。
以前、『新しい貨幣システムを実現しよう!』の中で、「国家は国益のために動く」「「国益とは“経済的利益”と“安全の確保”である」という話をしましたが、スポンサーの原理も同様で、主に“資本”と“安全保障”の原理で行動します。
資本は、それ自体、際限のない増殖を求める性質を持っています。有限な世界で際限のない増殖を求めれば、必然的に“独占”に到ることになります。独占は“支配”と呼び変えてもよいでしょう。
世界を支配していけば、当然、反発が起こります。いかに自分たちの安全を確保し、支配下においた人々を反発させないか。
その真偽は別として、『シオンの議定書』は統治のためのHow to 本として出色の出来です。国際エスタブリッシュが『シオンの議定書』に沿って行動しているようにみえるのも、その完成度の高さによるものでしょう。(このため私は『シオンの議定書』を偽書として葬ることに異議を唱えます。)
そして、これが最も重要なポイント。
軍産複合体は、人の生血を啜りながら戦争を永久に続けることでのみ、生きながらえることができるモンスターなのです。
前置きが長くなりましたが、つまり、これから論ずるのは、国家の利害関係よりも国際金融資本の意向に重点を置いた北朝鮮問題論となります。
(つづく)
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2006-10-26 オウム事件の背後に潜むもの
■日本の闇を探る⑭ 
オウム事件は終わらない
『「オウム真理教と北朝鮮」の闇を解いた』では、オウムは北朝鮮の核開発に関与しており、教団の核武装化を目指していたと書かれていました。
『オウム帝国の正体』では、下記のように書かれています。
早川が教団に引っ張ってきたメンバーは、不動産から殺人兵器まで資材を調達するプロをはじめ、信者の獲得や煽動、まとめ役の第一人者、闇の世界に精通し、多彩な人脈を持っている者、出所不明の多額の資金を集めて来る者…など、いずれも“百戦錬磨”の強者ばかりと言っていいだろう。
この早川グループの面々は、リーダーの早川同様、地下鉄サリン事件などの現場には決して顔を見せず、松本、地下鉄両サリン事件の発生直後、2回に分かれて大量脱会している。
しかも、早川グループがロシアなどから買い集めてきた大量の武器の行方が、全く分からないままなのである。
さらに興味深いのが、彼らの大半が脱会後、別の宗教団体の幹部に収まったり、暴力団幹部や企業舎弟、別の宗教団体関係者と一緒に事業を始めたり、北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)に食い込んで、大々的にビジネスを展開するなど、いかにも怪しげな軌跡を辿っていることだ。
サリンは、どこで生成されたものか。その答えが、CIA関係者が指摘した「ロシアからの密輸」であった。
<中略>
捜査当局が地下鉄サリン事件後、捜査員ら7人を新潟に派遣し、94年~95年にかけて新潟港に入った船舶の乗船名簿や荷揚げリストを徹底的に洗ったり、船内の検索、化学物質の鑑定を行ったのは、そのためである。
捜査当局はロシア-新潟-上九一色のサリン密輸ルート解明に全力を挙げたが、結局、外交問題に発展しかねないとして断念している。
ロシアマフィアで忘れてならないのは、極東マフィアの存在だ。ロシア内務省の調査では、ハバロフスクに31団体、サハリンに50団体の約1千人のマフィアがいて、ロシア、中国、韓国、北朝鮮系に分かれているらしい。
中でも、ハバロフスクとウラジオストックのマフィアは、日本の暴力団とのパイプがある。ロシア陸軍出身者の多い前者が関東、海軍の退役軍人が中心後者が関西の暴力団と強力なコネクションがあり、「原潜以外なら、何でも手に入る」と豪語しているらしい。
主要なビジネスは武器と麻薬で、中ロ国境は事実上フリーパスと言われ、早川が頻繁にハバロフスクに出入りしていたのは、彼らに接触するため、と見られている。
ロシア当局によると、ハバロフスクから日本への密輸ルートは、①空路ウラジオストックに運び、貨物船で新潟沖まで運搬、日本の漁船に積み替える。②トラックで約380キロ離れたバニーノやソビエツカヤなどの港に運び、小樽や稚内近くの漁港まで海上輸送する。③空路、カムチャツカ半島に運び、貨物船で網走沖まで運搬し、引き渡す-の3つのコースがあって、早川はサリンや武器を①のルートで密輸した疑いが強いとされる。
(ここで出てくる関東の暴力団とは住吉会、関西の暴力団とは山口組のことでしょう。)
95年12月、巨大な軍港を備えた産軍複合都市のサンクトペテルブルグで会ったネオナチグループのリーダーは、92年と94年の2回、麻原らと会ったことを認め、早川を武器商人に紹介したことを明らかにした。その武器商人に話を聞いたところ、恐るべき証言が飛び出してきた。
「オウムが買おうとしていたのは、トカレフやカラシニコフなんかじゃない。戦車やヘリでもない。本当に狙っていたのは、核兵器なんだよ。それも入手したはずだ…」
オウム教団はウクライナに貿易会社『マハーポーシャ・ウクライナ』を設立し、兵器や高度情報・通信システムなどの輸出入窓口にしており、早川も頻繁にウクライナを訪れている。また、“解散命令”を受けた後の教団の拠点は、モスクワから南に約1700キロ離れた北オセチア共和国の首都、ウラジカフカスであった。
<中略>
ウラジカフカスは当時、内戦下にあったチェチェン共和国の首都・グロズヌイから約110キロと近く、ソ連崩壊で旧ソ連軍が引き上げた時、大量に放棄した武器をチェチェン軍、反政府ゲリラが奪い、闇ルートで売り捌いてきた町で、オウムとって武器調達の宝庫だった。早川は何度もこの町を訪れ、水陸両用戦車や潜水艦まで購入しようとしたし、地下鉄サリン事件当時もウラジカフカスにいたとされる。
米上院調査小委員会顧問のエーデルマンは96年3月の上院公聴会で、オウムが地下鉄サリン事件を起こす以前に、旧ソ連内で核兵器を購入しようとしていたことを明らかにした。それによると、教団幹部が核兵器購入をめぐり、ロシア高官と協議したという。前出の武器商人の「オウムは核兵器を入手したはず」という証言には根拠があったのだ。
オウムが大量に入手したはずの武器・兵器は、どこかへ消えたままになっています。
オウム真理教は既に力を失い、残った信者たちは社会の片隅で息を潜めている状態ですが、オウムの背後に潜み操っていたと思われる統一教会や創価学会は健在であり、むしろますます勢力を強めている感があります。
彼らは、銃器のみならず、生物化学兵器や核兵器さえ持っている可能性すらあります。
そして、政治家の体質も、変わったようで変わらず、暴力団やアメリカとの関係も相変わらずです。
そしてそして、北朝鮮は更に追い詰められ、金正日の焦燥は日ごとに募るばかり…。
北朝鮮の挑発を受けて、日本では憲法改正、そして核武装論までも声高に叫ばれ始めました。
もし北朝鮮が日本にミサイルを撃ち込んだり、北朝鮮の仕業とされるテロが起これば、日本は一気に軍国主義に傾くでしょう。
オウムに対する強制捜査がおこなわれた約1か月前に作成された公安の捜査報告書には、オウムの計画していたハルマゲドンの中身が次のように書かれていたそうです。
計画は5段階に分かれ、第1段階はサリンを使った無差別テロ。第2段階は銃器や爆発物を使用した要人テロ。第3段階は細菌兵器を上水道に混入する無差別テロ。第4段階はサリンなどの薬剤の空中散布による無差別テロ。そして、第5段階は核兵器による首都殲滅である…
これから第2段階以降の計画が実行される可能性も十分にあり得るのではないでしょうか? (終)
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2006-10-25 オウム事件の背後に潜むもの
■日本の闇を探る⑬ 

『オウム帝国の正体』の中には、オウムによる池田名誉会長の暗殺計画があったとありますが、この辺の関係はよくわからないままです。ただ、オウム信者の中には「元創価学会の信者がたくさんいた」という元信者の証言もありますので、オウムの中に潜んでいたのは北朝鮮と統一教会だけでなく、創価学会も関与していたことは間違いないようです。
かつて創価学会の副理事長であり、顧問弁護士も勤めていた山崎正友氏は、「創価学会は、決してただの宗教団体ではない。政治の世界で、経済の世界で、その他あらゆる面に手をのばし、世界に類を見ない巨大で強力なコングロマリットなのだ。強大な権力と、ずばぬけた財力を持ち、また、東大、京大等の卒業者等で固めたエリートの官僚機構を持っている。その上、自前の情報機関を持ち、合法、非合法にわたって“特殊活動”を任務とする師団をかかえている。百名をこえる弁護団を擁し、その多くは小・中・高校生の頃から、「ハイル池田」を骨のずいまでたたき込まれ、英才教育を受けて法曹界に入ったメンバーである。彼らは、国法の秩序より、創価学会の利益を優先させる。裁判でも、偽証を行うことなど何とも思っていない。警察に圧力をかけ、検事や裁判官にも、たくみに根回しをする。時には、相手方の弁護士すら買収する。」と告発しています。
このような創価学会を率いている池田会長は何を狙っているのでしょう?
「本当は全体主義は一番理想の形態だ。」「私は最高権力者になる。そのときには創価学会を解散してもいい。」
つまり宗教とは名ばかりで、“学会”は池田会長の支配の道具というわけですね。
そんな池田会長の“実力”を知るのに適した記事、『噂の真相』2000年7月号の「闇の永田町キングメーカー池田大作の全体主義政権づくりに向けた権力欲」を引用します。
『噂の真相』が指摘した買春疑惑に続き、「天皇を中心とする神の国」大発言…。小渕恵三前首相の緊急入院・死去により突如、タナボタ式に総理大臣に就任した森喜朗が、日本の最高権力者にあるまじき失態を次から次へと演じ続けている。
今更ながら、国民不在の密室でこんなとんでもない人物を勝手に新首相に決めてしまった野中広務ら自民党五人組の責任は徹底して追及されるべきだが、実をいうと、この犯罪的な後継首相選びに関わっていたのは、彼らだけではない。
「小渕が倒れた翌日の四月二日夜、赤坂プリンスホテルで野中、青木、森らによる二度目の五者会談が開かれているんですが、その直前、野中は公明党の神崎武法代表を通じて、池田大作に『後継は森さんでいこうと思っているが、どうか』と内々で打診しているんです。で、五者会談の途中に神崎から池田の了承を伝える電話が来て、森新首相が決まったんです」(自民党関係者)
そう、森首相誕生を最終的に決定したのは創価学会名誉会長・池田大作だったのである。「仏の国」の実現を目指す独裁者が「神の国」発言のバカ宰相を生み出したとはお笑い草ではないか。だが、実際、森の「神の国」発言で自民党がもっとも憂慮したのは国民の目などではなく、池田の反応だったという。今度は官邸担当記者が語る。
「発言の数日後に森が陳謝の意を表明しましたが、実は森自身は最後まで、謝罪することに低抗していたんです。ところが、野中らが『このままでは学会が離れてしまう』と説得し、撤回はしないが、陳謝するという方向でケリをつけた。当然、池田との間で話ができてたと見ていいでしょう」
要するに陳謝の言葉は国民に向けられたものではなく、一宗教団体のトップに向けられたものだったというわけだ。当の自民党中堅幹部も憤懣やる方ないという様子でこう洩らす。
「そもそも、自民党の総裁選出で外部の了解を取りつけるということ自体前代未聞なんです。それくらい、池田と学会が現政権を牛耳っているということですよ。六月二十五日投票の総選挙についても、事実上の解散権を行使したのは、内閣総理大臣でも自民党幹事長でもなく、池田ですからね。そういう意味では現在、この国のキングメーカーは竹下登でも野中広務でもなく池田大作ですよ」
一宗教団体のトップがキングメーカーとして君臨する国…。信じられないような事態だが、考えてみれば、自民党が公明党という「トロイの木馬」を政権に引き込んだ時点で、こうなるのは当然だったともいえる。
創価学会と公明党の「政教一致」の実態は、大新聞がいつも枕詞的に表現しているところの、「創価学会は公明党の『支持母体』などといったなまやさしいものではない。実際のところは「支持母体」どころか、「“指示”母体」そのものである。
「学会におけるカネの分配、人事権の行使、最高戦略決定権はすべて池田が握っています。法案の賛否、衆議院の解散、投票日など、『重要案件』は、必ず池田の了解を取らなければなりません。よく国対レベルで決まっていたことが、一晩でひっくり返ることがありますが、公明党の方針なんて、常に池田のツルの一声でガラッと変わるわけですから」(元側近の一人)
立花隆氏が「米国の了解が得られないと日本の首相にはなれない」という話をしていましたが、まさか池田氏の了解まで必要になっているとは…。
自民党に強大な影響力を持っている教団は、統一教会だけではありませんでした。
続けて、藤原肇著『小泉純一郎と日本の病理』から引用します。
小泉改革がペテンに包まれているのは、小泉内閣が公明党によって支えられていることにも起因する。公明党の裏側(支持母体)に創価学会があるのは周知のことだから、改革は創価学会に操られてしまうことになる。
「宗教の仮面をかぶった全体主義」ということで、社会に有害な組織だとされているのである。1996年末、パリの行政裁判所が下した判決は、「創価学会は、雑誌、本、アクセサリー、集会などの営利活動を利用して、収入の大半を、収益率50%のビジネスを行っており、その活動は公権カヘの浸透を目指す」というものだった。
しかも、本来の仏教の戒律は、経済行為を厳禁しているため、仏教者の生活は喜捨に基づき、必要以上の富を得ることはできない。しかし、日本の仏教は鎖国の影響もあってか、国内で独自の俗的発展を遂げてしまい、そのまま創価学会も引き継いでしまった。世界のどこに、営利事業を行う仏教があるのか?<略>
創価学会が公明党をつくって政界に進出したときに、大宅壮一(1900-1970)は、「ファシズムの体質がある」と指摘した。また、田中角栄は、当時の池田大作を名指しで、「法華経を唱えるヒトラーだ」と言い切り、公明党を操る創価学会の体質を喝破した。
現に、池田大作は、1972年の社長会の席上で、「今の世の中は個人主義と自由主義だが、本当は、全体主義がいちばん理想の形態だ」と発言している。そして、その頃から「天下取り」を目指す創価学会の活動が始まったのである。
こうして、池田の野望と独善により、創価学会は信仰を逸脱してカルト性を強め、今では日蓮正宗からも破門(1990)され、池田教に成り果てている。そして、「天下取り」という妄執に取り憑かれ、「総体革命」の道に踏み込んでしまったのである。
「総体革命」は「天下取り」のための布石である。今や創価学会は、官庁や有力組織の内部に浸透して拠点をつくり、幹部会員をネットワーク化することで、”いざ鎌倉”のときに備えているという。
「総体革命」の最優先ターゲットは、法務省と外務省であり、検事になった会員は、すでに100人に達している。在外公館職員の4分の1は学会員であり、自民党員の3分の1も命綱を握られている。その下に、社会の下層を構成する伝統集団が位置し、芸能界や自衛隊にも隠れ会員が大量にいて、組織力はあらゆる業界に広がっているのだ。
これら代表的な集団には、次のようなものがある。
「草峰グループ」理容師の学会員グループ
「白雲会」調理士の学会員グループ
「牙城会」警備関係の学会員グループ
こうした組織力と機動性の高さは、今や自民党を圧倒するに至っているし、絶対服従(Ikeda is the law)の堅固な統一機構を誇った状態で、「天下取り」の命令が届くのを待ち構えている。
評論家の藤原弘達(1921-1999)が書いた『創価学会を斬る』(日新報道1969)には、次のような記述がある。
「公明党が社会党と連立政権を組むとか、野党連合の中に入ると言うようなことは、まずありえないと私は考える。その意味において、自民党と連立政権を組んだとき、ちょうどナチス・ヒトラーが出たときの形と非常によく似て、自民党という政党の中にある右翼ファシズム的要素、公明党の中における宗教的ファナティックな要素、この両者の間に微妙な癒着関係ができ、保守独裁体制を安定化する機能を果たしながら、同時にこれをファッショ的な傾向にもっていく起爆的な役割として、働く可能性も非常に多く持っている。そうなったときには日本の議会政治、民主政治もまさにアウトになる。そうなってからでは遅い、ということを私は現在の段階においてあえて言う。」
この藤原の予言は、ほぼ的中したと言わざるを得ない。
歴史を鑑にして現在の状況を見れば、従来は「突撃隊」を中心に動いた大衆運動が、エリートによる「親衛隊」を主役にしたものへと転化しかけている。創価学会のエリートは、主に法務省と外務省を中心に構成され、特に際立っているのが法務官僚への浸透で、高検検事のうちで15名が学会員だという。だから、検察が汚職議員を監視する”威力”の前で、利権で汚れた自民党の族議員は怯えているという。そして、それが自民党が公明党に追従する理由であるともされる。
<略>
『月刊・現代』(2005年7月号)で、「宗教に権力が屈するとき」と題して、ジャーナリストの魚住明と前参議院議員の平野貞夫が対談している。この中で、平野は次のような恐ろしい指摘をしている。
「平野:いまの自公政権の構造は、自民党内の柔軟な保守層を政権中枢から外した小泉首相と、ともすれば、一気にファシズムに傾きかねない公明党との結合体となっています。これが議会を機能させないような働きをしているんです。自民・公明が合意してしまえば、多数を握っているわけだから、もう民主党に議論させないでしょう。これでは本来、国民の要請を受けて国会議員が果たすべきチェック機能が働きませんよ。
それから日歯連から橋本派へ渡った迂回献金の問題について、本来だったら公明党が一番、政治倫理の確立を言うべきでしょう。それなのに、橋本元首相の証人喚問もしようとしない。「これで打ち切り」となったら一切議論しない。
魚住:結局、自公政権になってから、議会が機能しなくなっているのですね。
平野:まさに、それこそ問題なんです。私がもっとも心配するのは、公明党がいままでの動きを反省せずに、この路線を突っ走り、近い将来、彼らと安倍晋三が組んだ政権ができることです。
公明党は田中角栄以来、竹下派─小渕派─橋本派というラインとの関係が深いことはよく知られています。しかし、じつは創価学会は戸田城聖会長の時代から、岸信介と関係が深かったんです。岸さんが亡くなったときには聖教新聞が一面トップで大きく報じ、追悼記事を組んだほどです。
岸の政治的DNAを引き継ぐ安倍さんと、ある意味で戸田城聖の遺言を忠実に守っている池田大作体制下の創価学会が、もう一度結びつく可能性は決して低くありません。私はそれを懸念しています。安倍さんには、いま国内の一部の勢力が振り付けをしようとしている。そこに学会まで乗ってきたら、間違いなく日本のデモクラシーは壊れます。」
オウムが統一協会の仏教部なら、創価学会はオプス・デイの仏教部のようです。
そして、今まさに平野貞夫氏の恐れていた事態が出現しているわけです。
新聞報道によれば、「安倍氏は、自民党総裁選に勝ったあと、さっそく池田氏に挨拶に行っているようです。
(自民党≒勝共連合≒統一教会)+(公明党=創価学会)=安倍首相率いる自公連立政権、という図式ですね。
カルト教団と呼ばれ、数多くの被害者を生み出し、オウム事件の背後に潜みながらも一切の裁きを受けていない、このような二団体が後ろ盾となっている政権を、あなたは信じることができますか?
【参考】
創価学会から被害を受けた方の、なんとも生々しいブログもご紹介しておきます。
このような話は私も知人からよく聞くので「ありがち」なことなんでしょうね。
(つづく)
- 書き残そう、あなたの人生の物語シンプル、モダンなブログサービス「はてなブログ」hatenablog.com
2006-10-24 オウム事件の背後に潜むもの
■日本の闇を探る⑫ 
統一協会とは、どんな団体なのか?
全国霊感商法対策弁護士連絡会の「統一協会の現状」から、その概要をみてみましょう。
世界基督教統一神霊協会(略称統一協会)は1920年に今の北朝鮮で出生した文鮮明が1954年5月に韓国で創立しました。文鮮明は日本の高等学校で学んだ後、今の北朝鮮に帰省し、社会秩序を乱した罪で北朝鮮で1948年に実刑判決を受け、韓国に逃走した後にも同種事件で1955年にソウルで逮捕されています。多くの女性と性関係を持ったことが理由と言われています。
<略>
韓国で始まった統一協会は、1958年に日本で布教を始めました。
統一協会は、1961年に成立した朴政権に反共活動の面で利用されるようになり、63年に韓国で財団として認可され、64年に日本で宗教法人として認証されました。それ以来、統一協会は、勝共連合の実質的母体として韓国や日本の反共政治組織に利用されました。1974年にニクソン大統領と文鮮明が会ってからは米国でも様々な政治工作を展開してきました。1979年に米国議会でコリアゲート事件では、統一協会幹部の朴晋煕が議会で証言を求められたこともあります。
アメリカでは1982年に文鮮明が提唱して設立したWashingtonTimes 紙を中心に言論界や政界に一定の影響力をもっています。しかし、アメリカでは文鮮明とその手下の神山威(元日本統一協会会長)の2人が脱税で実刑判決を受け、1984年7月から1年余り刑務所に入っていました。
韓国では、日本から送られる資金をもとに統一重工業や一信石 材、一和、世界日報などの企業を有し、財閥のひとつと言われていました。文鮮明は経済的な成功者と見なされていました。しかし、1997年からの韓国経済の破綻と日本の統一協会組織からの送金が減少したため、統一協会系の企業のほとんどが倒産してしまいました。統一協会の企業で生活していた韓国人たち(信者も多い)は文鮮明にとって今では邪魔者のようです。
日本では、1970年頃から目立った存在になり、1975年頃から大理石壺や人参液を霊感商法の手口で高額価格で売って潤沢な資金を手にするようになりました。1975年から約10年間余りにわたって、日本の統一協会は、文鮮明のもとに、毎月50ないし100億円の資金を送りつづけたと言われています。今でも、日本人信者は毎年100億円以上の資金を文鮮明に送りつづけています。
この資金を使って文鮮明やその手下は、ソ連のゴルバチョフや北朝鮮の金日成、更には中国の要人と会っています。文は朝鮮半島の南北統一に寄与したいと述べていますが、本音は金日成のように国の支配者帝王になりたかったのではないでしょうか。
統一協会は「勝共連合」以外にも「全国大学原理研究会」(原理研、大学生への伝道組織)、「ハッピーワールド」(統一協会系企業の総元締め)、「世界平和教授アカデミー」(大学教授たちを人脈やお金、研究の機会などを提供することによって集めて作った組織)、「世界平和女性連合」(チャリティーショーやバザーの名目でお金を集める団体)、「天地正教」(霊感商法が社会問題化したため仏教系の装いをしてインチキ商法を続けるための組織)など数多くの別組織を作ってその活動領域を広げています。ただ、それらの組織の多くは「統一協会とは別組織」であると主張しています。
また、2000年にはUPI通信も買収しています。
『オウム帝国の正体』(一橋文哉著)には次のような記述があります。
オウム事件の真相を解明する鍵を、私は早川、村井、上祐という3人の最高幹部による権力闘争の中に見出そうと考えている。中でも地下鉄サリン事件以前の教団膨張期、即ち麻原の妄想がどんどん広がり、それに伴って教団の勢力とハルマゲドンが拡大していった時期にあって、“最大の功労者”は早川であった、と言っていいだろう。
彼は当時、教団の実質ナンバー2として活躍していたし、教団と闇社会が交錯する地点には、必ずと言っていいほど顔を出している。
公安当局によると、早川は教団「建設省」大臣として、表向きは土地の取得や施設の建設などを担当していたが、実際は、オウム関連企業「世界統一通商産業」の社長としてオーストリア経由で軍用ヘリを購入したり、教団幹部の井上嘉浩や岐部哲也、暴力団幹部出身の中田清秀ら実行部隊を指揮し、“裏の司令官”と呼ばれていた。
早川については当時から、赤軍など過激派の残党とか、外国諜報機関のエージェントではないか、という見方をする公安関係者もいたが、はたして、そうだろうか。
「オウムが、国家転覆を狙うような団体に変貌した陰に、早川の存在がある」(公安当局)ことは間違いない。彼が国家権力への反感と、教団発展のための利権獲得、ひいては自分の理想とか夢、さらには野望の達成に意欲を燃やしたことが教団の暴走に拍車をかけたのではないか。
こんな早川が麻原と初めて会ったのは、阿含宗の信者時代であった、とされる。
麻原が、84年にオウムの前進組織「オウム神仙の会」を設立する前に阿含宗にいたことは、捜査当局も確認している。
<中略>
当時、2人は顔見知り程度の付き合いはあったかもしれないが、さほど仲が良かったという話は聞こえてこない。ところが、麻原が阿含宗を辞めると、早川も後を追うように退会。麻原が「神仙の会」を結成すると早川も入会し、87年に同会が「オウム」と改称した時に、早川も妻と共に出家し、麻原の側近になっている。
2人をよく知る元信者は、こう語る。
「麻原が宗教ビジネスを思いつく天才なら、早川はそれを具体的にきちんと実行する名参謀。2人がオウムを作ったんです」
確かに、それからのオウムの躍進ぶりは凄まじかった。
早川が教団に引っ張ってきたメンバーは、不動産から殺人兵器まで資材を調達するプロをはじめ、信者の獲得や煽動、まとめ役の第一人者、闇の世界に精通し、多彩な人脈を持っている者、出所不明の多額の資金を集めて来る者…など、いずれも“百戦錬磨”の強者ばかりと言っていいだろう。
この早川グループの面々は、リーダーの早川同様、地下鉄サリン事件などの現場には決して顔を見せず、松本、地下鉄両サリン事件の発生直後、2回に分かれて大量脱会している。
しかも、早川グループがロシアなどから買い集めてきた大量の武器の行方が、全く分からないままなのである。
さらに興味深いのが、彼らの大半が脱会後、別の宗教団体の幹部に収まったり、暴力団幹部や企業舎弟、別の宗教団体関係者と一緒に事業を始めたり、北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)に食い込んで、大々的にビジネスを展開するなど、いかにも怪しげな軌跡を辿っていることだ。
捜査当局がオウム教団から押収した資料の中に、「オウム真理教内の統一教会信者名簿」があった。これは、統一教会の合同結婚式に参加したオウム信者の名簿と見られ、統一教会信者と同姓同名という23人の名前が書かれてあった。オウム教団内には、創価学会や阿含宗など他の宗教団体から加わった信者が多く、新左翼などの脱会組もいると言われている。
オウムは88年ごろから統一教会系企業と交流を深め、90年の衆院選では選挙活動のコンサルティングを受けていた。選挙後に統一教会からオウムに、大量に信者が移った。
続いて『オウムと統一教会を結ぶ線』から引用します。
オウム真理教とはいったいどんな宗教団体だったのか。一億総オウム・ウオッチャーとなった今、改めて語る必要もないと思うが、本誌なりにちょっと纏めてみよう。
1:輪廻転生、前世、来世、地獄や天国(極楽)を信じている。
2:超能力、あるいは神通力といった摩訶不思議な能力に憧れる。
3:世紀末思想、終末思想を持つ。
5:一般には無価値な物を高額で売りつけ、多大なカネを得ようとする。(この無価値な物には、超能力を引き出したり、人格を高めたりする力があるとされる。)
6:統一教会の元信者が、高い位置にいる。
7:創価学会との関連、協力が噂される。
8:ロシアとのコネクションに力を入れる。
9:武装し、武力行使を考えている。
11:全国に支部を広げるが、最大の拠点を富士一帯に置く。
12:女性信者が多く、また一般信者は平均して若年である。
まだあるが、とりあえず気にかかるのはこれくらいだろう。
これはオウム真理教について述べたものである。ところが不思議な事に、日本中のさまざまな新興宗教団体、新興思想団体には、この十二の条件のすべて、あるいはかなりの条項があてはまるのである。
逮捕された早川紀代秀(建設大臣)は、御存じのとおり元統一教会の人間である。それが阿含宗に入り込み、そこで麻原彰晃とめぐり合い、後にオウム神仙の会を作ることになったのだが、もし早川が麻原と会わなかったらば、彼は阿含宗の信者として、阿含宗を統一教会の目的通り操ることにすべてを賭けたことだろう。阿含宗には現在も統一教会の元信者が入り込んでいるが、これは阿含宗に限ったことではない。幸福の科学にも、エホバの証人にも、いや、あらゆる新興宗教団体、思想団体に、統一教会は人を送り込んでいるのだ。もちろんその中には、ほんとうに統一教会をやめた元信者もいるだろうが・・・。
この早川紀代秀は、ロシア射撃ツアーを企画したり、軍事訓練を受けたりと、非常にロシアに接近している。麻原オウムがロシアに接近しようとした最初のヒントは、恐らくはこの早川紀代秀によるものだろう。
ここでちょっと、オウム真理教の歴史をざっと見てみよう。
阿含宗で麻原彰晃と早川紀代秀が運命の出会いをしたのが昭和六二年(一九八七年)、その翌年には、麻原も早川も阿含宗を飛び出してオウム神仙の会を作っている。オウム真理教と名称を変え、平成元年(一九八九年)八月には東京都から「宗教法人」の認証を受ける。この頃からすでに、山梨県上九一色村の土地を買い始めている。
そして翌年、平成二年(一九九〇年)二月、麻原彰晃は「真理党」を組織し、二五名が総選挙に打って出るが、惨敗する。この総選挙出馬は、早川紀代秀の案によるもので、当時は幹部の上祐史浩らが猛反対したと伝えられるが、早川が押し勝つ。この選挙惨敗によりオウム真理教は、「米びつに米一粒さえもなくなった」(元信者の話)というほどの経済的打撃を受ける。
ところが、資金ゼロのはずのオウムが、その年の五月には熊本県波野村に六ヘクタールの土地を購入。そして翌年平成三年にはロシアを訪問、エリツィン大統領の側近のロボフ氏に面会して、有名な「ロシア日本大学」構想をぶち上げる。これによりロシア政府の有力スポンサーとなった麻原彰晃は、平成四年には信者三〇〇人を引き連れてロシアを訪問、政権中枢に接触して本格的な布教活動を開始する。
さてここで問題なのは、資金ゼロのオウムがいったいどこからそのカネを持ち出したのかということである。立証はされていないが、統一教会が五〇億円を出したといわれている。だが当時、統一教会にそんなカネがあったのだろうか。
「文鮮明が池田大作にたのんで五〇億円を出させ、そのうちの三〇億円をオウムに渡したといわれる。なぜオウムにカネを渡したのか--それは、創価学会の最大の敵をオウムの力で叩かせるつもりだったのだ。」(信頼できる事情通の話)
噂話は信頼できないかもしれない。現実にオウム真理教とロシア政府との仲を取り持った人物は、加藤六月、草川昭三、後に山口敏夫が関っている。この三人の政治家のなかで、とくに熱心だったのが草川昭三である。では、草川昭三とはどんな人物なのか。
草川昭三。昭和三年生まれ。名古屋第一工芸高卒。愛知県選出の衆議院議員。最初は民社党から出馬、後に公明党となる。当選七回。早くから在日朝鮮人の差別問題に取り組み、公明党のなかでも朝鮮半島に明るい人物とされる。
オウム真理教麻原彰晃をロシア政府に紹介した政治家とは、創価学会員であり、朝鮮と密接な関係を持つ男だった!
創価学会と統一教会が密約を交わした関係にあることは明々白々である。この両者の接点にオウム・麻原がおり、オウムはサリン作成を実験し実行に移した可能性がある。それ以外にも、銃器・細菌兵器の研究等を進めていた。オウムは強引な信者獲得、お布施の強要によって資金を作っていったが、実際に使用された資金はそれを遙に上回る。ということは当然、創価学会あるいは統一教会から出資があったと推測されるし、さらにオウムの武装化について、創価学会・統一教会が理解していなかったとは、考えられない。
続いて『週刊現代』平成7年5月27日号の「麻原オウム事件の『全真相』」からも引用します。
麻原が阿含宗を脱会した時、早川紀代秀他数人が一緒に阿含宗を辞めて、麻原に付いて行った。その中に「統一協会から送り込まれていた人物」がいたと、栗本は指摘する。
平成5年の春頃、三橋はある宗教ウォッチャーと雑談して、話がオウム真理教に及んだとき、その人は、「オウムは統一協会の仏教部です」といった。その頃の三橋はオウムには全く関心がなかったが、彼が「会員や信徒が500人以上いる宗教団体には、決まって隠れ統一協会員が入っているか、入ろうとしていますよ」と言い添えたことは記憶している。
忍者のような彼らは、最初は熱心な信者であり、幹部の注目を惹く。やがて抜擢されて、教団の出版部とか事業部とかに入る。
いったんそこに入ったら、教祖や幹部の思惑を越えて、いろんなことをやり出す。そしてその教団はガタガタになる。
これまでも統一協会批判はあった。一つには、「勝共連合」に対する批判である。勝共連合は統一協会と表裏一体の組織で、文字通り”反共”が旗印だったから、左翼には不倶戴天の敵だった。統一協会とは、世界基督教統一神霊協会の略である。文鮮明が1954年に韓国で創立、その4年後に日本名・西川勝こと崔翔翊により日本に上陸した。日本で宗教法人認可になったのは、昭和39年。その会長の久保木修己が勝共連合のトップを兼ねた。
以後、統一協会や勝共連合は、文化人に、政界に食い込む。代議士の秘書には多くの統一協会員を送り込み、選挙には、統一協会・勝共連合の力を借りなければ当選しないとまでいわれる程の勢力を持った。
昭和61年の衆参ダブル選挙では、130人の“勝共推進議員”が当選したと「思想新聞」(同年7月20日号)が伝えている。また、その3年後に東京で開かれた勝共連合推進国会議員の集いには、自民・民社などの国会議員232名が参加している。
1984(昭和59)年、文鮮明は米国で脱税の為有罪の判決が下り、1年余りダンベリー刑務所に収監された。その為、平成4年に来日の際は入国出来ない筈だったが、超法規的に日本に入国した。
文鮮明を招待したのは6名の「北東アジアの平和を考える国会議員の会」名義だが、実際に動いたのは統一協会直系の「スパイ防止法制定促進国民議会」で、法務大臣に口をきいたのは、金丸信自民党副総裁だった。この時、文鮮明から金丸氏に巨額のカネが送られたといううわさがある。
統一協会・勝共連合は「原理研究会」なる団体を通じて学生に食い込んだ。勝共連合や原理研学生達が、選挙運動の時の手足に駆り出される。
かっては“親泣かせ”の「原理運動」「花売り」、後には「霊感商法」「集団結婚」で有名(?)になった統一協会、勝共連合だが、原理運動、霊感商法という面での批判者はいても、幾つもの宗教団体に隠れ協会員を送り込み(或いは統一協会の脱会者と称して)破壊工作を進める裏部隊としての統一協会の活動について追究している人がいるかどうかは知らない。
統一協会が何のために、とりわけ宗教団体に会員を潜らせているのか。統一協会自身が、その目的を公表するはずもない。ここに極めて興味深い文献がある。アメリカの歴史修正学者であるF・スプリングマイヤー著『蛇の如く狡猾に』(1991年)である。
スプリングマイヤーは、色々の団体(特に最近はニューエイジ宗教)に入り込むモルモン教とよく似ている団体として統一協会を挙げ、「如何に洗脳(マインドコントロール)してカネ集めをさせるエセ宗教をつくる事が出来るかの良い例である」と見ている。
が、次の事実は日本では知られていたかどうか。
韓国政府はロックフェラーの銀行であるチェース・マンハッタン銀行を取引先に指定した。1962年10月、米国政府は同銀行の助言に従って、韓国諜報機関であるKCIA(韓国中央情報局)の局長に金鍾泌を就任させた。1962年10月、いわばCIAの出先機関であるKCIA(韓国中央情報局)の金局長が訪米した。その際に同行したのが文鮮明だった。金と文はCIAのジョン・マッコーン並びにキャロル陸軍中将と会談するのが目的だったが、この訪米でネルソン&ディヴィッド・ロックフェラーと会った。文鮮明とネルソン・ロックフェラーは、ぜひ自分たちの目で世界統一政府実現を見届けたいと、たちまち意気投合した。
スプリングマイヤーによると、第2次世界大戦直後にロックフェラーは日本で密かにかなりの株式(又は資金)を保有していたが、その日本セクターが隠密裡に文鮮明に資金援助することを決定したという。彼の反共十字軍は、「ロックフェラーの新世界秩序に反対する日本の愛国的保守勢力を骨抜きにする」ことを使命にして動き出した。これが勝共連合だった。
スプリングマイヤーは、ロックフェラーと仕事をしている弁護士が自信をもって語ったことを次のように紹介している。
「ディヴィッド&ネルソン・ロックフェラーは、熱狂的なグローバリストだ。文鮮明だって、そうだ。統一協会の目的は、ロックフェラーが世界各国をがんじがらめにしようとしている国際的なタガを、キリスト教にはめ込んでしまおうというのだから。このゴールに到達するためには、チェース・マンハッタンの連中は、いわゆる共和党右翼と呼ばれる愛国者達を骨抜きにしなくちゃならんのだ。よく見てご覧なさい。文鮮明がやっていることは、それなんだよ」
なんと!ここにロックフェラーの名が出てきました。
なるほど世界皇帝がバックアップしてくれるなら「怖いものなし」です。
ロックフェラー家の実力は、米国政権の主要な顔触れをみるだけでもわかります。
父ブッシュは、テキサスでロックフェラー財団に利権を売っていた石油採掘業者。
そして、その息子が現在の大統領。
ブッシュの右腕コンドリーザ・ライス国務長官は、ロックフェラーの石油メジャー「シェヴロン・コーポレーション」の社外重役。
チェイニー副大統領はロックフェラーの石油メジャーと繋がる石油会社、ハリバートン元会長。
チェイニーの夫人はロックフェラー系の兵器産業、ロッキードマーチンの重役。
ドナルド・ラムズフェルド国防長官は、そのロッキード・マーチンと関係の深いシンクタンクであるランド研究所の理事。
つまり、今の米国政権は、ロックフェラー家の使用人で構成されているのです。
ちなみに、このラムズフェルドが、北朝鮮がミサイル発射実験をしたことで日本に導入が決まったMD計画の主導者です。
先日、北朝鮮は核実験を強行し、またまた日本を騒がせましたが、興味深いことに、ラムズフェルドは北朝鮮の核施設開発に技術提供したスイスの核施設開発企業ABB.ltd.の役員でもありました。
統一協会が講演料名目で多額の報酬をブッシュ家に提供*1していることも有名であり、1995年9月14日に東京ドームでおこなわれた世界平和女性連合(統一教会の女性組織)の集会でも、父ブッシュ夫妻が出席し講演しています。
また、統一教会は、1982年にアメリカで保守系新聞『ワシントン・タイムズ』*2を創刊していますが、シオニズム活動を熱烈に支持し、特に右派リクードを支援しています。イスラエルのシャロンが、リクード党の党首選挙でネタニヤフに勝った時の資金も、統一教会から流れていたそうです。
さらに統一協会は、シモン・ヴィーゼンタール・センター(SWC)とも友好関係を結んでいます。
SWCは、「戦後世界史最大のタブー、ナチ『ガス室』はなかった」という記事を載せた文藝春秋社の雑誌『マルコポーロ』を廃刊に追い込んだアメリカのユダヤ人組織(圧力団体)です。
ちなみに、創価学会も1993年からSWCと連携しています。公明党が推進した「人権擁護法案」という名と実のかけ離れた人権侵害法案は、おそらくこの連携から生み出されたものでしょう。
文鮮明は、次のような話もしています。
「2012年までには神の摂理のすべてを完成させなければなりません。イエス様が2000年前に受け入れられずに失敗したすべてを蕩減しなければならない。キリスト教徒はユダヤ人と共にそれを成し遂げなければならない。私は私の100%の力を投入し、イスラエルを救うために歩む覚悟でいます。すべてのアメリカ人が目覚め、そのことのために働かなくてはなりません。皆さんもそのようにお願いします。皆さん、キリスト教の指導者はキリスト教の統一のために働いて、それを成し遂げてください。」
「キリスト教の指導者はキリスト教の統一のために働いて、それを成し遂げてください」とは、まるでオプス・デイの代理人のようなセリフです。そして一番気になるのは「2012年までには神の摂理のすべてを完成させなければなりません」という言葉。聖書は、終末論を唱えています。「最終戦争のあとにキリストが再臨する」のを待ち望む“福音派”と同じ、危険な解釈をしているようです。
これは、言い換えれば「2012年までにキリスト教徒はユダヤ人と共に最終戦争を起こしましょう」という意味なのではないでしょうか?
藤原肇著『小泉純一郎と日本の病理』には興味深い記述があります。
彼(小泉)に課せられた使命は、自民党を潰すことではなく、森政権を支えた張本人だったので、日本を潰すことだとアメリカでは見ています。日本人は誰も知らないが、アメリカでは彼は“隠れ統一教会”と見られています。5、6年前のデータですが、統一教会がアメリカの大学を出た優秀な連中を400人ほど、自民党の議員秘書に送り込んでいます。つまり、ここ数年、表面的には自民党政治が行われていたのですが、裏では統一教会が動いています。そこへ公明党が連立を組んでいる。これは私だけの見方ではなく、日本にいる外国人特派員たちの見方でもあります。
どうもここ最近の日本の“奇妙な”右傾化は、統一教会の影響が強まっている顕れなのではないでしょうか?
2006年1月27日付けの森田実政治日誌に妙に気になる情報が載っていました。
『「権力の親衛隊」=忍者的仕掛け人集団の存在は本当か?それは平成時代の「新撰組」か?動き出した右翼革命の中核部隊か?政権の末期症状の一つか?』
古い知人から電話があった。彼が言った言葉――「日本の情報をコントロールし、日本の政治を動かす政治権力の一種の親衛隊が組織されているという情報があるが、あなたは知っているか」――が、ここしばらくの間、気になっていた。
昨日、別の古い知人から電話があり、政治権力の「親衛隊」の存在を教えてくれた。彼が話したのは、次のようなことだった。
(1) 「親衛隊」の構成は、官庁、巨大広告企業、各種報道機関、大企業、大銀行、研究機関のメンバーと各種専門家などの約100名。ボスは現政権の某中心幹部。
(2)性格は一種の情報機関。約100名のメンバーは諸々の情報を集めボスに報告する。その情報をボスが分析し、攻撃すべき人物と彼に関するスキャンダル資料を集める。これを報道機関が一斉に報道する。そのほかの機関も動き出す。ターゲットにされた人物はマスコミ報道によって葬られる。
(3)この集団の狙いは「現体制の政治路線の存続・発展」。政治理念は岸信介元首相の政治理念と生き方に近い。「誰か」のために働く一種の忍者的集団の性格が強い。
(4)資金力は豊富なようだ。メンバー約100名には一回20万円の活動費が渡されている。
(5)マスコミはほぼ完全に握った。大マスコミの実力スタッフをメンバーにしているようだ。「某マスコミ機関の実力者が反政府的言動を強めているが、そのマスコミを自由に動かすことができないのは、その報道機関のなかに親衛隊が存在しているからだ」。
(6)当面の仕事は、ポスト小泉の主導権争いのなかで反対派を押さえること。反対派幹部を調査し、スキャンダル的なものがあれば、マスコミを使って暴露し、追い詰める。
以上が旧友の話である。この内容を何人かの“情報通”に知らせ、意見を求めたところ、「その種の情報を耳にしたことがある」との返事だった。「そんなこと、よく知っていますね。深入りしないほうがいいですよ」と言った者もいる。
9月の総裁選に向けて、今後、非主流派の特定の政治家とその周辺に関する週刊誌記事が出るだろう。この背後に「仕掛け人集団」の策動があると見てよいだろう。「とくに狙われるのは中国に近い政治家ではないか」との見方が比較的強かった。
ポスト小泉をめぐる政治闘争はこれから激化する。現体制を守ろうとする勢力は強く激しく働く。もし体制が根底から変わると、現体制の「影」の部分が暴かれるおそれが生ずる。これを防ぐための一種の「新撰組」的役割を担ったプロ集団が動き出したようである。
ボスとされる小泉政権時の某中心幹部とは誰を指すのか?
「政治理念は岸信介元首相の政治理念と生き方に近い」がヒントになるのではないでしょうか?
そして「誰かのために働く」という「誰か」とは、いったい誰を指すのか?
(つづく)
2006-10-23 オウム事件の背後に潜むもの
■日本の闇を探る⑪ 
ところで、オウム真理教は、なぜ利用されたのでしょう?
その理由の一つには、宗教が本質的に持つ性質があります。
哲学は論理的に「真理」を探求するものですが、宗教は「真理」とされるものを信じることが重視されます。
それが非論理的であっても、理不尽であっても、反社会的であっても、信じることが“尊い”とされる価値観を持っているのです。
誰かを利用しようとする者にとって、これほど都合の良いものはありません。
しかも人件費はタダ!それどころかなけなしの財産まで貢いでくれる!これほどオイシイ話はありません。
そして、こうした忠実な信者を“組織票”として、政治家を操るための“エサ”としても利用できます。
もう一つの理由は、宗教は日本でも外国でも“非課税”だということです。
宗教団体には、国税局も手が出せません。つまり、治外法権になっているのです。
国際金融資本家たちは、免税団体である「財団」を脱税に利用していることは知られていますが、宗教団体も同様に利用していることは容易に推測できます。
つまり、宗教団体によって“マネー・ロンダリング”がおこなえるのです。
例えば、戦後長い間、CIAの資金が創価学会を通して自民党に流れ込んできました。
(これは最近機密解除されたCIAの文書から発覚したことですが、ネタ元を忘れてしまいました。)
池田大作氏は信者から集めた金をパナマで運用し、ノリエガ将軍の麻薬取引の資金繰りに使わせていました。
そして、そこで得た利益を当時の自民党のドン・小沢一郎氏に渡し、小沢氏はその金で政界工作をするというカラクリでした。
以下は鶴見芳浩著『アメリカ殺しの超発想』から引用です。
94年5月以来、ワシントンを起点にしてアメリカの各所に配られた「オザワ批判リポート」はもう1つ重大なことに触れている。まず、小沢氏が唱える「普通の国日本」は、その実態は日本戦略研究センターの「指針」でも明らかなように、日本の昔来た道、つまり、アジアでの軍事大国化と帝国主義的海外膨張を狙うものだとリポートでは的確に指摘している。実際に、アジア・太平洋諸国が「小沢ヒットラー」の出現かと、警戒し始めてもいる。そうした事情を背景に、小沢レバーがこれまで便利だったとはいえ、アメリカとしてこんな小沢氏の勢力拡大に力を貸していると、先々で大変な目に遭うよ、と問題のリポートが指摘したことは、すでにお話ししたとおりである。
そして次に、これに関連して同リポートは、小沢氏が創価学会名誉会長で偽本尊を作ったりしてとか会員の中でも批判のある池田大作氏と連携して、池田大作氏の野望である政教一致による日本の支配と、そのためのハク付けとして「ノーベル平和賞」の獲得に、小沢氏が協力している事実も暴露する。池田氏と同盟を結んでいる小沢氏は、アメリカにとってはますます好ましくない人間だとも明言している。実はこのくだりを読んだとき、私もひとつ思い出すことがあった。それは、ブッシュ前大統領が金丸、そして小沢両氏を思うままに操っていたころ、両氏に与えるアメ玉だけでは説明がつかないと思うことがいくつかあったのだ。そこで、CIAに近いアメリカ人が聞かせてくれたのが、小沢氏、池田氏、そしてパナマの独裁者だったノリエガ将軍を結ぶ線だった。
ノリエガ将軍は、ブッシュ氏がCIA長官時代には、その手先となって、キューバのカストロ首相やニカラグアなど中米の革命グループの撹乱に協力した。そして、その代償として、パナマを中継地として、時にはCIAの輸送機も使ってアメリカに南米コロンビア産のコカインを輸出(?)する暴挙を大目に見てもらっていた。このためにブッシュ氏の弱味を握ったとして、ノリエガ将軍は、ブッシュ氏が大統領となったアメリカを、好きなように操れると過信したのだ。
しかし、こんなノリエガを放置しておいたら自分の政治生命が危ないと知って、ブッシュ大統領は89年就任早々に、米軍による電撃的なパナマ侵攻をやって、ノリエガ将軍を「戦犯」として捕え、アメリカのフロリダにさらって来た。そして、同将軍を「アメリカへのコカイン麻薬供給の罪」もつけて秘密裁判にかけて有罪とし特別監獄の奥に閉じ込めてしまった。
このノリエガ将軍が吐かされたものの中に、池田大作氏が創価学界の金をパナマで運用し、ノリエガ将軍の麻薬取引の資金繰りにも使わせていたことと、このあがりから、池田氏は小沢氏へ相当な額を常時渡していたというものがあった。ブッシュ氏はこの自白の証拠書類もがっちりと手に入れて、金丸、そして小沢の両氏を操作するムチとして使っていた。もちろん、アマコスト駐日大使は、このムチを必要に応じて直接使用した中心人物であったということだった。この話は「小沢のパナマコネクション」として、アジア・太平洋諸国の政府の間にも知れ渡っている、と教えてくれたアジアの外交官もいる。知らぬは日本のみということだろうか。
ノリエガ将軍は池田氏に感謝の気持ちを表すため、1986年パナマに「池田パーク」を作り、また池田氏も翌年、そのお返しに富士山の麓に「ノリエガ将軍の石碑」を建立しているという。なぜ日本にはこのような情報が入ってこないのだろうか。
ちなみに本書には、現在、反自民党の一部の人たちから、まるで救世主のように言われている小沢一郎氏が、かつて如何に米国の走狗であったかが描かれていて面白いです。まぁ、人間、変わる可能性があることは否定しませんが、『私物国家』にも頻繁に登場する小沢氏が、その“黒い関係”を簡単に断ち切れるものか、疑問です。
話が少し飛びますが、上記の件について藤原肇氏が『日本が本当に危ない』の中で興味深い情報を載せてくれています。
何とも胡散臭い児玉、小佐野、中曽根、笹川、そして小沢と続くCIA人脈
共通する放置現象として思い出されるのは、児玉誉士夫、小佐野賢治、中曽根康弘、笹川良一など疑惑がらみで注目された人物が、多くのスキャンダルでも厳しい追及も受けず、奇妙な具合に逃げのびてしまった事実だ。
これらの人物は謎に包まれた影の部分を持ち、CIAとの特殊な繋がりを取り沙汰されたものだが、この中に最近やたらに不審な行動が目立つ小沢を加えるなら、何ともウサン臭い人脈のパターンが浮かび出す。
日本の検察には奇妙な不文律が伝統としてあるようで、CIA絡みの事件は国際上の取り扱いや、厄介な日米政府間の暗黙の了解により、できるだけ介入しないことになっているとか。だから、M資金絡みの事件は解明された試しがないし、大蔵省には絶対に摘発の手が伸びないとヒントをくれたのは、「日本の黒い霧」でそれを追った松本清張だが、似た話を私は別のいくつかの情報筋から聞いている。
そんな話を下敷きにして思い描くなら、湾岸戦争の時に自民党幹事長だった小沢が、アメリカに約一億七千億円の戦費を貢いだ時に、それを取り仕切った米国のアマコスト大使が、外交官よりCIAエージェントとして動いた点が気になる。
しかも、CIAは政治家やフィクサーの弱みを掴んで、それを利用して政治を動かす戦法を得意にしており、麻薬がらみで米国に拘留されたパナマのノリエガの自白や、池田大作とノリエガの密着関係の背後に、未だ誰も指摘しない不吉な影が見え隠れしている。
池田はパナマに出向いて公園を寄贈したので、ノリエガは池田に友好勲章を授けているし、お礼に創価学会は富士宮にノリエガの銅像のある公園を作っている。また、新日鉄の大将が第二パナマ運河計画に熱を入れ、新日鉄釜石のレジャー投資の関係で、岩手の小沢が便宜を図ったことから、小沢はパナマの縁で創価学会と密着し、そこをCIAが押さえたとも言われている。また、池田コネクションで創価学会の資金と結びつき、不用意に見せる最近の小沢の高圧的な姿勢が、得意満面とした時期の中曽根に二重写しになり、国民は安心していられなくなるのである。
湾岸戦争時、日本政府は総計135億ドルを“国際貢献”の為に支払いました。これを決定したのが当時の自民党幹事長だった小沢一郎氏。ところが、米国政府の報告書では日本からの戦費は100億ドルと記載されていて、35億ドルの行方は不明のまま。
また、イラク攻撃を支持した小泉首相に異議申し立てをして外務省を辞めた天木直人氏によれば、日本は約31億円の戦闘機F-15を108億円で、約16億円の戦闘ヘリコプター「アパッチ」を72億円で買っているそうです。これは米国が日本に兵器開発費を転嫁させているという側面もありますが、こうして軍需産業は防衛庁から儲けさせてもらい、その見返りに防衛庁は軍需産業に天下りのポストを要求するという構図になりっています。また、この差額から“防衛族議員”へのリベートも生まれるようです。
兵器の輸出入は機密保持を理由に政府間で決定されるので、国民が本当のことを知ることはまずできませんが、こういった“こぼれ話”によって「軍備増強」を主張する政・官・財の“背景”をうかがい知ることができるのではないでしょうか?
閑話休題。
オウム真理教も、このようなマネーロンダリング機関として使われていた可能性があります。
北朝鮮は1970年代から、東南アジアなどで買い集めた麻薬を在外公館や北朝鮮系商社を通じて密輸・密売していました。
1980年代半ばから北朝鮮国内でケシの自家栽培を始め、1991年9月からは外貨獲得策として本格化。
1993年に約30t、1994年に約40tの阿片を生産し、その後は年間数百㎏のヘロインを日本や香港などに密輸出し、国際麻薬市場にも供給しています。
日本は世界最大の覚醒剤の消費国家です。密売しているのは、もちろん暴力団。覚醒剤は暴力団の収入の60%を占めると言われています。そして、日本で消費される覚醒剤の60%以上が北朝鮮産。
オウムは自ら覚醒剤を製造していましたし、山口組系の後藤組とつるんでいました。後藤組は日本の覚醒剤取引の中核的存在でもあります。
『オウム帝国の正体』(一橋文哉著)によれば、「1993年頃、関東で供給源の解らない覚醒剤が大量に流れたことがあり、暴力団が出所を調べたところ、オウムとわかった。通常の密輸ルート品の三分の一の価格だった。」とあります。どうやらオウムは、サリンを製造していたとされる第7サティアンで覚醒剤を密造していたようです。その第7サティアンは、外部の専門家が入ることを警視庁が阻止し、裁判半ばにもかかわらず、まるで証拠を隠滅するかのごとく解体されてしまいました。
オウム‐暴力団‐北朝鮮の麻薬コネクションが存在し、それに日本の“権力者”が関わっていたことに間違いないでしょう。
創価学会の会員に、稲川会前会長の石井進氏、山口組若頭の山本健一元氏、会津小鉄会長の高山登久太郎氏など、著名なヤクザさんたちが、軒並み名を連ねているのは、おそらくマネー・ロンダリングが目的なのでは…と邪推してしまいます。(^^;)
そういえば、オウムとつるんでいた山口組系後藤組も、創価学会と深いつながりがあるようです。
(つづく)
2006-10-22 オウム事件の背後に潜むもの
■日本の闇を探る⑩ 
週刊現代の『「オウム真理教と北朝鮮」の闇を解いた』の第三回「金正日総書記直筆の『日本破壊工作』指令書の全貌」の中で、著者の高沢氏は、地下鉄サリン事件を北朝鮮の「日本攪乱工作の予行演習」で「日本の危機管理の杜撰さと、どのような動きが取られるのかというシミュレーションのデータを得るため」におこなったのではないかという見方をしていますが、あくまで推論の域を出ないものであり、可能性の一部でしょう。
当時の警察や検察そしてマスコミ等は、明らかにおかしな動きをしています。
オウム裁判対策協議会のホームページから『「オウム事件」とくに松本・地下鉄サリン事件について』を抜粋・引用します。
権力は知っていた
マスメディアの大勢は、一九九五年三月二十日の地下鉄サリン事件で、突然大騒ぎになったということになっている。ところが、あとで知るところによると、前の日の日曜日には多数の警察官が朝霞の自衛隊施設で防毒マスクの装着訓練をやっていた。警察幹部は、少なくとも何者かが、近く毒ガス散布を決行することを察知していたのだ。そして同じ十九日夜、青山のオウム真理教団本部前に火炎瓶が投げつけられる事件があった。あとで、それはオウム信者の自衛隊員が自作自演したものだったという。地下鉄サリン事件にしても、捜査攪乱が目的などというが、ちっとも攪乱していないではないか。みえみえの自滅的事件である。
午前八時ころに事件発生、証拠物を警察が入手したのが九時だとして、それを大宮の自衛隊化学学校に運んで仕分けしたともいわれているが、裁判では警視庁科学捜査研究所の技師が分析・鑑定したとされている。いずれにしろ午前十一時の警視庁寺尾捜査一課長記者会見におけるサリン断定は、あまりにも手際が良すぎる。私は、十九日の時点で、警察幹部とオウム幹部またはその周辺にいた別人物など、ルート複数の可能性も含めて、緊迫した情報のやりとりがあったことは確実だと考えている。たとえば、「いよいよサリンを撒く」「いや、やめさせろ」「いや、もう間に合わない」など。
しかも、前年の九月には、松本サリン事件はオウムの犯行だという怪文書が出回っていたというではないか。そのうえ九五年一月一日の読売新聞を始めとして複数のマスメディアは、富士山麓のオウム施設周辺において、サリンの痕跡が警察によって分析されたと報道している。警察は何をしていたのか? 三月二十日を本当に防ぐ気は、なかったのではないか。
私は、だからと言って、警察の怠慢を第一の問題と言うつもりはない。知っていて防がなかったことに、謀略性があると言いたいのである。
カナリアの語るもの
三月二十二日のサティアン一斉捜索についても疑問が多い。早朝の捜索開始は全マスメディアに知らされており、中央道を疾走中の車内からすでに中継は始まっていた。傑作なのは、カナリアの映像である。テレビカメラは、重装備(十九日の防毒マスクは二十日には間に合わず二十二日には役にたったことになる)で待機している警察部隊とサティアンの中間にセットされていた。噂によれば、各テレビ局のカメラがスタンバイして、「ハィ!OKデース」ということになった。そこで警察部隊は、カナリア籠を先頭に静々と歩きだした――という。そして、カメラはカナリア籠を、左から右へ、きっちりとパン撮影したのである。警察部隊よりもサティアンに近いところにテレビクルーは先に行っていたということだ。もしサリンを撒かれたら、一番危険なところにマスメディアが先に行っていた。それほどに命を張ってまで取材するにふさわしい大事件だと説明されるだろうか。風は警察部隊方向からサティアン方向に吹いていたという説明もあるかも知れない。だったら、何でカナリアを先頭にたてるのだ。ヤラセじゃないか。いずれにしろ!――これらの事実は、サリンがもう無いことを知っていた者が警察側にいたということにより、はじめて納得できる。
物証がなさすぎる
だいたいオウムが、本当にサリンを作っていたのかという疑問もある。第7サティアンの器械装置では、本格的なサリン合成は無理だと言われている。私は詳細は判らないが、きちんとした換気装置がないと合成作業をしている者に危険が及ぶのだという。この点、オウムの人々の「ワーク」は、綿密性がなく失敗は日常茶飯事だったという話もあるし、何かの時には撒いた当人が中毒症状になって、あわてて治療したという話も伝えられているから、案外粗雑なやり方で薬品を扱っていたのかも知れないとも思う。地下鉄サリン裁判における検察側主張は、第7サティアンではなくプレハブの研究棟で作ったということになった。そうであるならば、第7サティアンの器械装置を「ワーク」しただけの人に殺人予備の罪名を適用するのは無理ということになる。でも、その罪名で重い判決がすでに出ている。
サリンの化学的な詳細については、私たちの仲間の三浦英明さん(緑風出版『DNA鑑定』の著者)が相当勉強しているので、彼からの受け売りが多くなるが、純粋なサリンは無色・無臭だそうだ。ところが、松本でも地下鉄でも現場で白っぽい霧のような煙のようなものを見たという証言が多い。また、刺激臭を証言している人も多い。そこから、オウムのサリンは純粋なものではなく、不純物が混じったか、わざと混ぜたか、あるいは現場で2種類の薬品を混ぜた(バイナリ方式)か、またはサリンとは違った毒ガスを発生させたのではないかという説が有力だ。
刑事裁判の形骸化
このあたりは、裁判ではおよそ不十分にしか審理されていない。地下鉄サリンの薬品についても、いつのまにか出来上がったものがビニールだかポリエチレンだかナイロンだかの袋に入っていて配給され、だいたい2袋ずつなのに誰とかは3袋になって、その時の気持ちは……と、心情の方ばかりが「自白」されて、肝心の物証としての証明は全くおろそかになっている。熱心な弁護士が、この辺を突っ込もうとすると、「時間の無駄使い」「裁判の引き延ばし」と検察官・裁判官・マスメディアに、寄ってたかってバッシングされ、あげくの果ては別件をでっち上げられて弁護士が逮捕されてしまうのだから(麻原主任弁護人・安田好弘氏のケース)ひどい世の中になったものだ。
サリンが入っていたという袋も、サリンの残留物も、法廷では明らかになっていない。押収・仕分け・鑑定の過程の写真さえきちんと提出されていないと聞く。袋は、病院で点滴に使うようなものという話も出たが、それを誰がどこから調達してきたのかなども、これまでの別の裁判だったら必ず問題になった点だろうに、今回は全く出てこない。点滴に使うような袋ならば、雨傘の先で穴を開けることは不可能だと言っている人もいた。想像は膨らむが、では傘の先を削ってとがらせていたのかとも思ってみる。ところが、その雨傘がどこからも発見されないのだから、証明・納得のしようがない。
三浦英明さんの研究によれば、地下鉄車内での薬品収納容器は、袋ではなく箱型のものという話も沢山あり、乗客がビンの割れるような音を聞いたという話もあるという。
地下鉄の線によって被害の程度が全然違うのはなぜか。日比谷線が特に被害が大きかった。
消防庁の分析では、アセトニトリルが検出されたという。ところが、警視庁は一貫してそれを無視・否定している。三浦さんの研究では、アセトニトリルは、現在起訴されているオウム幹部のサリン生成過程では登場しない。またサリンの分解の過程にも登場しない。工業的によく使われる薬品で毒性はあるという。サリンの効果を遅らせるために混ぜられた可能性はあるとのことだ。一方、自衛隊の化学部隊は、ガス検知器でびらん性ガスを検出したという情報もある。びらん性ガスとなると、サリンやタブンなど神経性毒ガスとは系統が異なる。この他、地下鉄サリンには多くの疑問点がある。すべて裁判では一向に解明される気配はない。
911事件をホワイトハウスが知っていて放置しておいたことは既に明らかになっていますが、どうやら日本の警察もサリン事件を知っていて放置していた可能性があります。しかも、司法まで一緒になって事件の真相をうやむやにしようとしている。
ブッシュ家がビンラディン家とはビジネスパートナーであったように、何か表に出ていない“つながり”があるのではないでしょうか?
911事件以降、米国が愛国者法等によって政府の権限が強まり、管理社会になっていったように、日本でもオウム事件以後、組織犯罪対策法や破壊活動防止法が成立し、管理社会へと移行していきました。
再びオウム裁判対策協議会のホームページから『オウム事件の意味』を抜粋・引用します。
1995年に起きた「オウム真理教団関係の事件」は、日本の社会に対して、はっきりとは眼に見えにくいが非常に深刻な影響をもたらしている。
日本のマスメディアは、欧米のマスメディアにくらべて、より一層画一的という欠点を持っているが、そのマスメディアは一斉に「オウム信者さえいなければ、日本は幸せな国だ。オウムをつぶすためには、何をやっても許される」というキャンペーンを1999年の現在までやり続けている。実際に、日本の国会では、オウムのような危険な団体をつぶす目的で、「組織犯罪対策法」(これには通信の盗聴を警察に許す法律、犯罪によって得た収益と疑われる預金について銀行は密告する義務をもつ法律などが含まれている)などが成立してしまった。日本は、警察国家への道を大きく前進した。歴史には多くの前例があるが、特殊な恐ろしい犯罪事件をきっかけとして、その恐ろしさへの反動として、美しく見えるスローガンが人々の眼を狂わせ、結果として警察と保守的政治家が権力の基盤を強固にする。その意味では「歴史は繰り返す」ようにも思えるが、「オウム事件」には、いままでの日本の歴史にはなかった新しい要素が内在していると思われる。
<略>
1995年1月1日の読売新聞(発行部数日本最多)は、オウムの富士山麓に作られた建造物の周辺から、サリンの痕跡が検出されたと報道した。これが事実であるならば、警察は富士山麓のオウムの建造物およびそこに出入りする人々への監視を強めることが可能だったはずだ。ところが、警察は、3月20日の「地下鉄サリン事件」の発生を予防することに失敗した。3月20日には、首都東京の政府機関が集中している場所を中心とする地下鉄の車内で、同時に数カ所でサリンガスらしき毒ガスが撒かれ、11人が死亡し多数の人が病気になった。この無差別テロには多くの日本人が驚愕し、一種の社会ヒステリー状態が生まれた。この「地下鉄サリン事件」をきっかけとして警察は大々的にオウム弾圧にのりだし、多くの「オウムの犯罪」を暴露し、その大部分が「麻原彰晃教祖」の命令で「オウム真理教団」の幹部が実行したことが明らかとなり、彼らはそれぞれ複数の罪名で逮捕され、裁判にかけられた――と、公式には発表されている。しかし、真相はいまだ闇の中にあり、私は、現在裁判で検察官が主張し、マスメディアが書き立てていることが真実だとは到底考えられない。
<略>
現在進行中の裁判では、物的・科学的な証拠が非常に少ししか提出されていない。証拠の大部分は、自白と証言という言葉である。言葉のニュアンスは非常に微妙である。オウム信者の言葉と警察官や検察官の言葉では、外国語以上の違いがあると、私は確信する。被告人としての麻原氏は、一切のコミュニケーションを断ち切ってしまっているように思える。事実関係に多くの矛盾や疑問点がある。1995年の「地下鉄サリン事件」の10日後に起きた「警察庁長官銃撃事件」の犯人はオウムだといわれ、元オウム信者だったという警察官の自白まであったが結局起訴されないままに終わっている。また同じ年の4月23日に起きた、麻原氏の第1の弟子の「村井氏刺殺事件」は現場で「やくざ」らしき者が現行犯逮捕されたが、背後関係は全く解明されないままになっている。
検察側にとって一番重要とされているのは、麻原氏の裁判である。麻原氏についた国選弁護人たちは、非常に熱心に、刑事弁護の原則どおりに弁護活動を行っている。手続きを法律どおりに進め、事実に関する疑問点は、できるだけ追及する姿勢を貫こうとした。これに対して、検察官・裁判官はむろんのこと、政治家も、マスメディアも一斉に「裁判の引き延ばしだ」と弁護士を責めたてた。この傾向は、ほかの一般の事件にまで波及し、1997年以来、「凶悪な犯人を弁護するのは、悪い弁護士だ」という風潮が日本社会全体を覆いつくしている。私は、日本人の大部分がそのように近代的な社会システムを否定する考えに陥っているとは考えない。明らかにマスメディアが冷静さを失い、麻原氏を早く死刑にすることが正義であるかのように、煽り立てる記事を書いているのだ。
そうしたなかで1998年12月に、麻原氏弁護団の中心的な存在だった安田弁護士が、他の事件で逮捕・起訴され、9か月以上勾留されたうえで、裁判にかけられている。安田弁護士は、顧問をやっていたある不動産会社の倒産を防ぐために別会社を作りあげ、賃貸しビルディングのテナントは賃料をその別会社に支払うように経営者にアドバイスしたということを罪に問われている。しかし企業の顧問弁護士が、そのようなアドバイスをすることは当然のことで、何かの犯罪を構成するものではない。安田弁護士への不当な弾圧は、明らかに麻原氏の裁判を検察官の計画どおりに進めるための陰謀である。日本のマスメディアは、安田弁護士を悪い弁護士のように報道し、安田弁護士の人権を侵害し、同時に読者・視聴者の人権をも蹂躪したのである。
<略>
前述の「組織犯罪対策法」は、そうした新たな「オウム排斥」運動のなかで成立してしまった。さらに、「破壊活動防止法」という特別法を、オウムに適用することを 1997年に見送ったことは間違いで、新たにその法律を改正してまでもオウムに適用すべきだという論調が、最近になって盛んに行われるようになっている。「破壊活動防止法」は1952年に出来た法律で、政治目的で破壊活動を行なう団体およびその幹部に厳罰を与えるものだ。1970年代に破壊活動を煽動したということで、左翼の活動家個人には適用されたことがあるが、団体や政党に適用されたことはない。オウムに対しても、宗教団体であるし将来にわたる危険性はとぼしいとして適用が見送られた経緯がある。それを、今回は「政治目的」という制限規定をなくし、あらゆるテロ活動を封じ込めるためと称して、一部の保守的政治家・評論家とマスメディア幹部が、改正の必要を叫んでいるのである。「破壊活動防止法」が団体に適用された場合、その団体のために2人でも3人でも集まって相談したり金を出したりすれば、それが犯罪になるという非常に危険な法律だ。太平洋戦争中の「治安維持法」の復活であると言われている。「治安維持法」は、日本の天皇制を守るための法律だった。「破壊活動防止法」は、今日の社会の安全を守るためという非常に抽象的な、漠然とした目的で改悪されようとしている。
それまで一貫してオウムを擁護してきた警察が、地下鉄サリン事件を機に一転して、叩き潰しにきました。真相には触れさせないままに…。
CIAがアルカイダを育てた後、911事件を機に一転して国際テロ組織として批難し始めたこと、米国がフセインを育てた後、クエート侵攻を機に一転して叩き潰したことと構図が似ている気がします。
警察や検察、マスコミにまで圧力をかけられる存在といえば、政治家ぐらいしか思いつきません。
『秘密のファイル-CIAの対日工作-』によれば、CIAは岸信介政権以来たびたび自民党を支援してきました。それどころか、自民党はCIAの秘密工作を手伝ったことさえあります。自民党の五十五年体制が維持できたのも、日本が輸出立国になったのも、米国の対日戦略に基づいて秘密工作をCIAが実行してきた結果なのです。
CIAは、これまで日本のみならず世界を股にかけてさまざまな秘密工作をおこなってきました。
そして、何度も言うようですが、CIAの下請けKCIAのフロント機関=統一教会は、信者を北朝鮮に送り込んでいました。
北朝鮮あるいは統一教会≒CIAと共謀していたとまでは言わないものの、日本を警察国家にしたい政治家たちが、“テロとの戦い”という口実を設けるために、この事件を放置したというシナリオも十分に考えられるのではないでしょうか?
より大きな視点からみれば、地下鉄サリン事件は、世界規模の“テロとの戦い”に突入する予行演習だったのかもしれません。
さて、この先に来るものは…?
【参考】『法整備からみる戦争準備態勢』
(地下鉄サリン事件の翌年から戦争関連法が次々に成立し始めています。安倍政権が成立を目指している共謀罪は、破防法の枠を拡大した、更に危険度の高い内容になっています。ちなみに、どうやら統一協会も共謀罪を支持しているようです。)
(つづく)
2006-10-21 オウム事件の背後に潜むもの
■日本の闇を探る⑨ 
再び、週刊現代の記事『「オウム真理教と北朝鮮」の闇を解いた』から話を続けます。
全文はこちらから読むことができますので、是非ご一読いただきたいのですが、一応、タイトルと要約を載せておきます。
オウムには、北朝鮮のチュチェ(主体)思想を身に付けた工作員Aが潜入していた。
その頃から、オウムは急激に変質、過激化した。
Aは村井・科学技術省長官に重用されて武器製造に関与していた。
工作員Aは、一連の事件でオウムの幹部が逮捕された後に、オウムを脱会し、スペインのマドリッドへ飛んだ。
そこは北朝鮮の工作拠点のある街で、あの赤軍派「よど号」グループらが、日本人留学生の拉致等の活動拠点としていた場所だった。
そこでAは「よど号犯」の一人・柴田泰弘と同じホテルに宿泊していた。マドリッドで工作員Aと「よど号」グループとがつながった。
1982年5月6日、「よど号犯」は、金正日から直筆の極秘指令を受けていた。
その指令書の内容は「金日成主義によって日本革命を準備・達成せよ」というものだった。
金正日は、自衛隊工作や軍事クーデターの中核的人間の育成などを、赤軍派に指示していた。
しかし「よど号犯」の工作活動は、相次ぐ逮捕などのために、1980年代後半に挫折した。
この後を継いで「金正日指令の日本破壊・撹乱工作を実行したのが、オウムではなかったのか」と高沢氏は推測する。
第4回 故金日成主席の「毒ガス兵器」研究と麻原彰晃のテロ実行
一連のオウム事件が起こった後、韓国は、事件の背後に北朝鮮の影を読み取り、毒ガスの緊急防護訓練を行っていた。
金日成の著作集には、毒ガスや細菌兵器についての大量の論文・教示がある。
朝鮮戦争後、北朝鮮では、毒ガスや細菌兵器の研究が行われている。
「オウム真理教が毒ガスや細菌兵器の開発に手を染めはじめていたのは、そこに北朝鮮の工作組織の浸透があったとすれば、けっして偶然ではないのである」と高沢氏は推測する。
第5回 潜入工作員Aが全ての疑惑に答えた
Aは、今でもチュチェ思想は「すばらしい思想」だと言い、黄長ヨプ元朝鮮労働党中央委員会書記と何度も会ったと明かす。
しかし、「北朝鮮の工作員だったのではないか」という質問には「100%、潔白」だと答え、全ての疑惑を否定した。
だが、Aに連なる潜入工作員がおり、その一人Bは、医師としてオウム真理教付属病院に入り、林郁夫の下で働いていた。
第6回 もう一人の潜入工作員は林郁夫の右腕だった
工作員Bは、共産党系の病院に医師として勤務していた時に、オウムに入信した。
ある時、突然、都内にある北朝鮮系の病院に移り、さらにオウム付属病院へ移った。
以後、Bは林の右腕となり、麻酔剤・電気ショック・LSDなどを用いて、信者に洗脳を行っていた。
これらの方法は、高沢氏によると「北朝鮮の洗脳技術と瓜ふたつ」らしい。
北の毒ガス等の兵器開発と「まったく同じ軌道上にあるもの」という。
しかもBは、教祖・麻原に対しても心理療法、あるいは催眠療法などの『イニシエーション』を行える立場にあった。
こうしたイニシエーションなどを指揮指導していたのは、Bと法皇官房の実質的トップだったIだった。
こうしたI-B-林郁夫のラインは、教団武装化をめざしていた早川-村井のラインとは別に、教団内部の不透明な部分のひとつだった。
第7回 国松長官狙撃事件と「よど号」犯・田中善三
サリン事件の10日後、国松警察庁長官が狙撃された。
犯人は 海外で特殊な訓練を受けた人間と見られ、現場には、北朝鮮のバッジが落ちていた。
目撃された犯人像を聞いた田宮高麿は、同じ「よど号」グループの田中義三に「似ている」と言った。
北朝鮮で訓練を受けた日本人の中で、田中は抜群の射撃能力を持っていた。
田中は、後日、北朝鮮の偽ドルを使用した容疑で、カンボジアで逮捕された。
オウムには、外部から多額の資金提供を受けていた疑惑がある。
しかも、それは田中が関係していた偽ドル「スーパーK」だった疑いが濃い。
オウム元幹部の証言によると、早川建設省長官は、ドイツから精巧な印刷機を手配し、北朝鮮の偽ドル印刷に関係していた。
早川は、頻繁にウクライナの首都・キエフへ行き、そこを経由して北朝鮮に行っていた。
「早川はロシアでは、武器の購入だけでなく、プルトニウムの密輸事件にも関係があったようだ」と高沢氏は推測する。
早川が窓口としていたのは、北朝鮮の核兵器関連物資やIC機器の調達を行う部署「経済第2委員会」だった可能性が最も高いからだ。
第9回 村井秀夫はなぜ口封じされたのか
村井科学技術庁長官刺殺事件の実行犯・徐浩行の背後には、北朝鮮工作組織の影が濃い。
徐には数年間、北朝鮮に渡っていた形跡もある。
彼は北朝鮮の「きわめて高度に訓練されたテロリストであり、工作員」と高沢氏は推測する。
オウムには、偽ドルによる資金のルートと、サリンの入手ルートの秘密以外に、さらに深い第三の秘密があった。
刺殺される前、村井はテレビでその秘密にふれかねない発言をしていた。
そのことが、きわめて強い危惧を、北朝鮮側に抱かせたのではないだろうか。
村井はテレビで、資金は一千億あると言った。また、地下鉄で使われた毒ガスは、サリンではないとも証言した。
そして、さらに村井がさらけ出しかねなかった第三の秘密は、日本の原子力発電所に関するものだった。
村井らが200人もの作業員を潜入させて収集したもので、専門家も初めて見るような詳細な資料だった。
こうした原発の機密資料が、早川ルートによって北朝鮮に流出していた可能性がある。
第11回 村井秀夫は「北朝鮮の核」機密保持のために殺害された
村井は、物理学の専門家であり、原発のデータを理解することができた。
彼は、究極の教団武装化として「核」開発を考えてた。
村井は早川とともに北朝鮮に渡航し、関係を持っていた。
北朝鮮も、核開発のために、日本の技術とデータを必要として、オウムを利用していた。
両者の利益は一致していた。
しかし、平成6年のIAEAの北朝鮮核査察問題で、その野望は挫折した。
オウムの一連の事件への「北朝鮮の関与、工作組織の存在は、村井の命を奪ってもなお、死守しなければならない機密に属していた」「村井刺殺事件の背後には、国際政治の闇の部分が渦巻いていた。」と高沢氏はいう。
オウムが北朝鮮の核開発に関与していたとすれば、これは大事ですが、この問題は私の手には余るので、とりあえずここでは触れません。
さて、ここでイニシャルで登場する「A」とは森泰人、「B」とされているのは霜鳥隆二、「I」とは『日本の闇を探る①』でも登場した石川公一のことです。
そして、霜鳥隆二と石川公一は麻原彰晃に対しても「イニシエーション」つまり洗脳できる立場にあったとのこと。
どうやら、北の工作員たちがオウム真理教を操っていたことは確かなようです。
ただ、麻薬や催眠術を用いた洗脳は、悪名高き“MKウルトラ計画”で知られるように、もともとCIAが研究・確立した軍事技術です。
オウムの問題に詳しい脳機能学者である苫米地英人氏は「CIAの洗脳手法とオウムの洗脳手法には類似点が多い。」と述べています。
上九一色村のオウムの施設の上空を米軍機がたびたび通ったというのも、よく考えれば不思議な話です。私は生まれも育ちも米軍基地のある横須賀ですが、米軍機が飛んでいるところなどほとんど見たことがありません。米軍機は、いったい何をしにいったのでしょう?ちなみに米軍は、本国でケムトレイル計画という、化学薬品を空中散布して、何も知らない住民で人体実験をおこなっていたことがあります。
北朝鮮には統一教会の信者が送り込まれています。そして統一教会はCIAのフロント機関です。この件にCIAも関与していた可能性があるのではないでしょうか?
(つづく)
2006-10-20 オウム事件の背後に潜むもの
■日本の闇を探る⑧ 
不可解な行動をとる公安の謎
十五代警察庁長官の城内康光氏は警備局長出身、つまり公安からの出身です。十六代警察庁長官はオウムに狙撃された刑事局長出身の国松孝次氏。
1995年3月30日の朝日新聞より当時の記事をみてみましょう。
警察庁長官、撃たれ重傷 自宅前、白マスクの男 計4発、自転車で逃走
30日午前8時ごろ、東京都荒川区南千住六丁目のマンション「アクロシティー」に住む警察庁の国松孝次長官(57)が、男に腹部などを撃たれて重傷を負った。男は自転車で逃走した。警視庁は直ちに総合警備本部を設置して、都内全域に緊急配備態勢を敷いて男の行方を追う一方、殺人未遂などの容疑で公安部長を本部長とする特別捜査本部を置いた。国松長官は文京区の日本医科大付属病院に運ばれた。東京消防庁によると、高度救急救命センターで手当てを受けたが、生命に別状はないという。事件後、都内の報道機関に「オウムに対する捜査をやめろ」などと犯行をにおわす電話があり、捜査本部が関連を調べている。
「オウムに対する捜査をやめろ」と電話があったということは、城内氏によってオウム事件の捜査を抑えられていたのに、長官が国松氏に変わったことで本格的な捜査を始められてしまったことが、この事件の原因だったようです。
再度、『オウム帝国の正体』第3章 圧力 の中から公安に関する部分を抜き出してみましょう。
・公安警察は、八王子のアジトで潜伏中の私たちの行動を監視していました。(略)どうしてもっと早く、捕まえてくれなかったんでしょうか…
・公安当局の泳がせ捜査が、事件の発生防止に繋がらず、新たな被害者を生み出したことは紛れもない事実である。
・捜査員たちは密かに、上九一色村の住民たちに接触したり、麻原被告をはじめ教団幹部の同行や都内のアジトを監視したり、信者を懐柔して、教団内部やその局辺にS(情報提供者)を養成するなど、時間をかけて捜査を進めてきた。
・公安当局の捜査員が少なくとも数人は潜り込んでいたようで、上九一色村の教団施設に対する強制捜査の時、神奈川、静岡県警ではテレビの中継に映った信者の中に、同僚の顔を発見して驚きの声を上げたケースがあったという。
・昨年[1995]11月29日、名吉屋地裁で開かれた大内早苗被告の第3回公判に検察側証人として出廷した元教団幹部、満生均史被告は突然、「宗教関係を調べている“ある人”から頼まれて、松本サリン事件などオウムについて調べた。スパイ行為をして、スパイ容疑をかけられた」と告白し、関係者に衝撃を与えた。満生被告は依頼主を問われ、「名前は言えない」ど答えているが、その後の公安関係者のあわてぶりがら、満生被告は公安当局のスパイだった可能性が高いと見られている。
・スパイと言えば、1994年暮れから1995年1月にかけて出回り、話題を集めた『松本サリン事件に関する一考察』と題する怪文書がある。「サリン事件はオウムである」と断言したこの文書の作成者は、未だに不明だが、捜査当局やマスコミの間では、公安関係者が書いたとする意見が強い。1994年暮れ段階で、松本サリン事件がオウムの仕業であると知っていた者は、麻原被告をはじめ犯行の実行グループなどごく少数の教団関係者だけであろう。しかも、サリンの化学的な説明から上九一色村の教団施設内の情報、宮崎県の旅館の経営者拉致事件、オウムとロシアの関係まで言及しており、教団上層部でもそう簡単には書けない幅広い内容になっている。そうなると、複数の教団内部情報に捜査情報を加えて、公安関係者が書いたとしか思えない。つまり、その時点で公安当局のSがあれだけのレポートを書くほどの調査をしていたことになる。満生被告も法廷で、自ら松本サリン事件を調査し、内部レポートを作成した1人であることを認めている。この怪文書は、公安当局が警察庁上層部の消極姿勢に対し、マスコミを巻き込んで決起を促したものと見られている。
・オウム真理教に対する強制捜査の方針が決定されたのは、昨年[1995]1月の国松孝次警察庁長官と吉永祐介検事総長のトップ会談であり、そこで摘発時の適用法令や取り調べ体制など具体策の協議に入ったと言われている。もし、怪文書が公安関係者の手によるものだとしたら、公安当局の奇策がまんまと成功したことになる。
・だが、逆に、公安当局が早い段階で、松本サリン事件とオウムとの関連をキャッチしていたなら、河野さんに対する“冤罪”はもとより、仮谷さん殺害、地下鉄サリン事件の発生を防げたのではないか、との見方も出てくる。
・公安当局がこうした情報を掴みながら、警察首脳の了解が出ないからと言って、わざと麻原被告の荒唐無稽な思想やカルト集団の狂気を面白おかしく書くことに、能力と時間を割いていたのは、あまりにも情けない。なぜ、警察当局はもっと早く、オウム真理教の摘発に乗り出さなかったのか。
こうしてみると、やはり公安の動きはおかしいです。
国松長官銃撃事件に関しては、2004年7月7日に、警視庁の元巡査長で会社員の小杉敏行、植村哲也、砂押光朗の3人と爆発物取締罰則違反の疑いで石川公一が逮捕されました。小杉容疑者は「自分が狙撃した」と自供したものの、7月28日には「証拠が乏しく公判維持は困難」として処分保留のまま釈放されています。そして9月17日、処分保留のまま釈放された4人は嫌疑不充分として不起訴とされました。
城内康光氏には他にも疑わしい言動があります。
カルトvsオタクのハルマゲドン『城内康光と利権』から引用します。
平成二年夏、自治大臣兼国家公安委員長に就任していた奥田敬和氏(故人)は、金澤昭雄警察庁長官から示された警察庁のトップ人事案に対し、異例のクレームをつけ、予定されていた城内康光警備局長の警察庁次長への昇任を頑として認めなかった。
〔略〕奥田敬和氏が城内氏に敵意を持ったには、それなりの理由があった。 奥田敬和氏は、その前年まで自民党の国会対策委員長を務めていた。
おりから、パチンコ業界から莫大なヤミ資金が北朝鮮に流れ、その便宜を図ってもらう目的で社会党議員達に政治工作資金が提供されたとされる。いわゆる「パチンコ疑惑」が発覚、政界の焦点となっていた。
奥田氏は社会党の疑惑議員徹底追及の腹を固め、奥田情報網で情報を集める一方、警察庁に対して、治安上の問題を理由に協力を求めた。
この要請を受けた城内警備局長は、こともあろうに、パチンコ業界に多数の警察OBが天下っている事を理由に協力を拒否したのだ。この行為こそ、国益無視、省益優先の典型的な事例だ。
テポドンの開発資金を始め、生物兵器、核ミサイルと、日本攻撃用に開発されている北朝鮮の兵器が、明らかに在日朝鮮人からのヤミ資金によって製造されていた事が、より明確になってきている今日、城内氏のとった警察官僚の、しかも警備責任者としての行為は改めて厳しく批判されるべきである。
そもそも警察のキャリアは、天下国家あってのキャリアではないか。地方警察組織に対し、より高い次元での国家的見識を示すのが警察庁のキャリアではないのか。そう云う意味では、奥田敬和氏が、城内氏の昇任に異議を唱えたのは当然の行為である。
城内氏はその後、次長に昇任、そして警察官僚のトップ警察庁長官へと登りつめるのだがその長官在任中、かつての威厳ある制服から郵便局の配達員と見間違える程と不評な警察官制服の変更、所持するピストルのメーカー変更など「警察利権」に積極的に関与したり、情実人事を徹底して実行した為、優秀な人材や、素直な意見を具申する人材などが一掃され、組織の沈滞化が急速に進行した。
パチンコ業界から北朝鮮への資金の流れの解明を「パチンコ業界に多数の警察OBが天下っている事を理由に拒否」とは、恐れ入りました。
しかも、その人物が後に、警察官僚のトップである警察庁長官へと登りつめるのですから、訳がわかりません。
ちなみに、城内氏が警察庁長官に就任した1992年9月に警察行政を監督する国家公安委員長の座にいたのは、森喜朗、三塚博、加藤六月と共に“安倍(晋太郎)派四天王”の一人と称された「塩爺」こと塩川正十郎氏でした。
そして、オウム事件当時の国家公安委員長は、2003年に引退した自民党の実力者で「影の総理」と呼ばれた野中広務氏。
余談ですが、その野中氏のバックには、どうやら創価学会がいるようです。
『オウム帝国の正体』(一橋文哉著)を読んでいたので、石川公一の件(『日本の闇を探る①』を参照)を知ったとき、「警察OBの大物」とは後藤田正晴氏かと思いました。しかし、『日本の闇を探る⑥』で触れたように、その人物とは城内康光氏だったようです。そして、その城内氏は日本会議の代表委員を務め、日本の政治に大きな影響を与えています。
さて、ここまでを一旦、整理すると「警察OBの城内康光氏が現役時代、部下をレイプしたあげく愛人にした。それをオウムと関係のあった山口組の武闘派「後藤組」に知られ、脅迫されてオウム事件の真相を闇に葬った。その城内氏は、どうやら昔から北朝鮮とコネクションがあり、現在はユダヤ・ロビーと組んで日本会議で自民党と共に日本の右傾化を推進している」となります。
(つづく)
2006-10-19 オウム事件の背後に潜むもの
■日本の闇を探る⑦ 

日本会議は、日本最大規模の保守主義・民族主義系の政治・言論団体です。
概要
愛国主義・反共・「国益」重視を基本スタンスとし、親米保守主義の立場から提言を行っている。島村宜伸、麻生太郎、安倍晋三、山谷えり子、稲田朋美、平沼赳夫、高市早苗、下村博文、西村真悟などの政府与党系国会議員との結びつきが強い。(野党では松原仁ら)「全日本愛国者団体会議」(全愛会議)などと同じく、各保守系団体同士の連絡機関(労働組合で言うところの「ナショナルセンター」)の役割も果たしている。一般的には財界系右翼団体と認識されている。
前身は「日本を守る国民会議」と「日本を守る会」。両団体が統合する形で1997年(平成9年)5月30日に発足した。9ブロックに区切られた47都道府県のほぼ全てに支部または類似組織が置かれている。毎月、機関紙『日本の息吹』を発行している。
文化人から政治家、財界や官僚出身者、宗教家、民族派団体活動家まで各方面の広範・多彩なメンバーを擁し、国益と伝統的価値観に基づき、憲法改定問題、教育基本法改定や道徳教育などの教育問題、靖国神社参拝の推進活動、皇室典範改正や、外国人参政権、夫婦別姓、人権擁護法案に反対するなどの主張・活動を展開している。
メンバーには安倍新総理に加え、新たに入閣した大臣の名も見受けられます。
余談ですが、今回の組閣は見事に“疑惑の人”たちが集まっていますね。
特に、農林水産大臣の松岡利勝氏と経済産業大臣の甘利明氏の就任は、悪い冗談としか思えません。
さて、続いて日本会議のホームページの「日本会議とは」から引用します。
各界から、全国から国民運動を担う1,000名の代表が結集!
平成9年5月30日、「日本会議」設立大会が盛大に開催されました。国会議員約100名をはじめ経済界、学界、宗教界など各界代表や北は北海道から南は沖縄に至る全国47都道府県の代表約1000名が結集。20年の国民運動の成果を引き継ぎ、美しい日本を再建し誇りある国づくりを目指した新しい国民運動がスタートしました。
「美しい日本を再建し誇りある国づくりを目指し」ているとは、まさに安倍新総理のキャッチフレーズにピッタリ!
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「日本会議」は、日本最大の保守系団体である。「新しい教科書をつくる会」「北朝鮮拉致家族を救う会」「北朝鮮拉致家族を救うブルーリボンキャンペーン」などの本体である。
最近の日本の右翼化傾向の“もと”は、どうやらここにあるようです。
『日本の闇を探る⑤』で触れたとおり、「新潟救う会」の代表は、右翼団体「日本青年社」の現役幹部で、その幹部は、広域指定暴力団「住吉会」の幹部です。
ちなみに「日本青年社」幹部を国会に招いて感謝の言葉を捧げた「日本の領土を守るため行動する議員連盟」の幹事は、城内康光の息子、自民党の城内実(元)衆議院議員で、城内実氏は「ネット右翼の巣窟」といわれる「チャンネル桜」のキャスターも務め、安倍晋三氏の弟分と言われています。
「日本会議」とは、会長は三好達(元最高裁長官)、全国9ブロック47都道府県になんらかの組織をもつ、日本最大の保守系組織である。2002年9月以来、「10万人ネットワーク」(設立5周年事業リーフレット)を目指して活動を続けている。また、これに協力する「日本会議国会議員懇談会」(現在242人、会長・麻生太郎衆議院議員)を持ち、国会と地方議会に強い影響力がある。1997年、「日本を守る国民会議」(運営委員長・黛敏郎)と「日本を守る会」が組織統合して結成されたもので、機関誌『日本の息吹』を毎月発行してきた。
「日本会議」は、1.憲法改正 2.教育基本法改正 3.靖国公式参拝の定着 4.夫婦別姓法案反対 5.より良い教科書を子供たちに 6.日本会議の主張の発信、の6大スローガンを掲げて活動している。
憲法改正と教育基本法改正、まさに安倍新政権の“目玉”ですね。
ちなみに、会長となっている三好達(元最高裁長官)氏は、裁判官時代に司法予算を横領していました。
小泉政権時代の閣僚が勢ぞろいしていますね。
「民間教育臨調」の副会長は5人のうち4人までを「日本会議」の役員が占め、同会に大きな影響力をもつ体制が作られている。「日本会議」の役員77人のうち、「民間教育臨調」に名を連ねている者は30人にも達する。名前を加えていない47人のうち25人は宗教団体役員であり、4人が「軍恩連盟?」「日本遺族会」「日本郷友連盟」「英霊にこたえる会」など旧軍・自衛隊関係団体の役員、そして会長・事務総長の2人である。「日本会議」の四割近い(39%)役員を「民間教育臨調」に送り込みながら、明らかにそれと分かる会長・事務総長、および3分の1以上を占める宗教団体および旧軍関係者等を表に出さない工夫と努力がなされている。
民間教育臨調は日本の教育改革有識者懇談会と呼ばれ、日本の教育改革をどう構想するかを提言しています。そのメンバーが主に「日本会議」のメンバーということは、果たしてどういう改革がなされるか…?
そういえば、先日、靖国神社の遊就館に行ってきました。そこで『私たちは忘れない!』という映画を観たのですが、この映画を企画・制作したのが「日本会議」でした。
「日清・日露戦争から大東亜戦争に至るまでの日本の戦争の歴史を、当時の映像で再現し、東京裁判で歪められた歴史の真実に迫る」というドキュメント映画です。
米英が、世界を植民地化してゆき、このままでは日本も侵略される。日本を守るためにも、侵略されたアジアを開放するためにも、日本は仕方なく戦争に突入していったのだ。と、そこでは、まぁ、間違っていないでしょう。驚いたのは「日本兵には一人として略奪や虐殺をおこなった者はいない」というようなナレーションが堂々と入っていたことです。
私は数人の元日本兵の方に、戦争の体験談をうかがったことがあります。搾り出すように自らの“忌まわしい過去”を語ってくださった方々の“証言”とは、明らかに違っています。どちらが嘘を語っているかは、明らかでしょう。
いわゆる「自虐史観」というのも感心しませんが、このような誤った歴史認識を持つ団体が推進する教育が主流となったとき、日本は再び国際社会から孤立していく可能性が高まるのではないでしょうか?
「日本会議」は、1997年に「日本を守る会」と「日本を守る国民会議」が合体して結成された。「国民会議」は、保守系文化人を中心としつつ旧軍関係者とも共闘する組織であった。「守る会」の方は、神社本庁・生長の家・仏所護念会・念法眞教・モラロジーなど宗教・修養団体が中心となり、そこに曹洞宗管長・日蓮宗管長なども名前を連ねる宗教関係者中心の団体であった。
「キリストの幕屋」も「日本会議」の有力な構成団体である。「キリストの幕屋」は毎週、サンケイプラザで日曜集会を行なっている。http://www.makuya.or.jp/hikari/sankei.htm
「日本会議大阪」の構成団体をみると、キリストの幕屋のみならず、神道政治連盟(神社本庁)・国柱会・仏所護念会・IIC(霊友会)・崇教真光・念法眞教・神道青年会などの宗教団体が名を連ねているし、大阪府遺族連合会という日本遺族会の下部団体も名を連ねている。
「生長の家」の名が見られますね。
話はアメリカが日本を“反共の砦”として利用しようとした頃に遡ります。
岸信介や児玉誉士夫は、反共運動を目的として、日本の右翼とヤクザを統合しようとしました。その結果、山口組が肥大化し、日本のヤクザが海外へ進出することになります。1960年代の朴政権は軍事独裁政権だったので、日本のヤクザのようなものは存在できませんでした。韓国の裏社会は、KCIAと日本のヤクザによって形成されたと言っても過言ではないでしょう。
朴正熙が新興勢力「統一教会」を取り込んで利用したように、岸信介も新興宗教「生長の家」に注目し、これを利用しました。反共活動では、右翼と「生長の家」信者が伴に行動していたのです。その後、「生長の家」は、統一協会の加入戦術にあい、勝共連合に加わりました。ここにも日本会議と勝共連合(≒統一教会)のつながりをみることができます。
もう一つ、ここで問題にしたいのは「キリストの幕屋」です。
キリストの幕屋(―のまくや)は、正式名を原始福音と言い、1948年に手島郁郎が開いた無教会系、保守系の新宗教である。但し団体側は、一般的なキリスト教会には批判的である。一方の教会側も団体を異端視しており区別される。神道など、日本の伝統的な思想を根に花開いたキリスト教といえる。
活動
機関紙は「生命之光」。
布教の一端として、誰でも持ち帰れるように、よくガードレールやバス停などに吊るされている。
また、テレビ番組「生命之光」は、CS衛星放送では全国で、首都圏などの主要都市では独立UHF局で、また地方では主にフジテレビの系列局で放送されている。
キリスト教でありながら、日本人の魂をわすれず新しい歴史教科書をつくる会など日本を再興する運動を積極的に支援したり、自分たちも靖国神社を参拝したりするなどしており、外部からは宗教右翼と目されている。
女性信者は共通の特徴的な髪型にする事で知られるが、若い信者はあまりそのような髪型にしないようである。
なんと!「日本におけるユダヤ・イスラエルのロビー団体」だそうです。
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教団の特色
教団名も変わっているが、信仰の内容もかなり変わっている。教団名に「キリスト」の文字が入っていながら、本人たちはキリスト教の一派ではないと明言している。キリスト教を信奉していながら、本人たちがいわゆるキリスト教ではない(カトリック・プロテスタントやどの異端宗派とも違う)と明言している以上、異端のキリスト教ともいえない。たしかに教団名はキリスト「教」ではない。キリストの「幕屋」なのである。分類が難しい新興教団である。
また、既成のキリスト教派と違ってユダヤ民族の信仰であるユダヤ教にも重きをおいているところが一風変わっている。手島氏は生前にはイスラエルのユダヤ教関係者とも親交を持ち、信徒とともに聖地巡礼(ユダヤ教・キリスト教聖地としてのエルサレムへの訪問)を行っている。幕屋ではキリスト教の原点となるユダヤ民族の歴史やイスラエルの国家とその文化についても深い興味をもっており、聖地巡礼、聖地留学を大事な信仰活動の一部と捉えている。
一方で、幕屋ではさらに日本人の在り方、国の在り方、信仰による日本民族の発展・救済といった民族主義的な教えも付加される(なんで?)。〔略〕
ホント、なんで?ですね。
「救う会」「つくる会」の主力団体の一つは「キリストの幕屋」である。
http://web.sfc.keio.ac.jp/~oguma/report/thesis/2001/ueno.htm
史の会では、よく「北朝鮮拉致問題」に関する署名活動が行われる。「この問題を早く解決するためにはより多くの方の署名が必要です。お願いします。」の声とともに、署名用紙がまわされる。これは、北朝鮮に拉致された日本人を救出するための全国協議会(略称「救う会全国協議会」)の活動の一環である。〔略〕前述した「キリストの幕屋」信者の割合が増えているのが目に見えてわかるというのだ。なぜわかるのか、と問うたところT氏(44歳男性)とH氏(34歳女性)が頭の上で指をくるくる回した。
「幕屋の女性の信者さんは皆ほとんど同じ髪型をしているからわかります。長くのばした髪を三つ編みにして上にあげているんです。だからすぐ分かる。」
「『つくる会』じわり浸透 ポストに冊子・一八〇〇円の本」 朝日新聞 二〇〇一年三月十七日 三十七面記事
〔略〕九九年十月、『国民の歴史』が、一部の世田谷区議の自宅に届いた。差出人は、世田谷区に事務局を置く宗教法人「キリスト教聖書塾」(手島千代子代表 本部・熊本市)の伝道者。「つくる会」の会員である。「百冊買って、議員や企業の役員、近所の人にも配った」と説明する。
同じころ、別の信徒が区議会に教科書採択の陳情書を出していた。
この団体は、六一年に設立された原始福音を重んじる宗教法人。「キリストの幕屋」という別名も持ち、全国各地で伝道活動をしている。〔略〕
正式名を原始福音と言い、1948年に手島郁郎が開いたキリスト教系の新宗教である。
T氏(44歳会社員)は次のように述べた。「(つくる会が最近「キリストの幕屋」という宗教団体の影響を非常に受けてきていることに対して)こういう運動っていうのは一般市民には無理ですよ。基本的にボランティアなんですから。逆に言うと、幕屋の人たちは信仰と結びついているから、すごく熱心。つくる会への入会だって家族ぐるみでやる。つくる会の教科書とか国民の歴史なんかを自腹で何十冊も買って、知人に配っている。今、つくる会の会員って8000人くらいに減ってきているんですよね。普通の人だったら年会費6000円払って、時折会誌「史」が届くくらいじゃ納得いかないですよ。わりにあわない。」
http://web.sfc.keio.ac.jp/~oguma/report/thesis/2001/ueno.htm
こんなところに“ユダヤの影”が潜んでいたとは思いませんでした。
【参考】『日本における「宗教右翼」の台頭と「つくる会」「日本会議」』
(つづく)
2006-10-18 オウム事件の背後に潜むもの
■日本の闇を探る⑥ 
闇に葬られた警察情報
オウム真理教の闇の部分に肉迫した貴重な本があります。
ぜひ読んでいただきたいのですが、その重要な部分がWEB雑誌『憎まれ愚痴』38号に掲載されていましたので、少々長くなりますが、引用させていただきます。
第1章 伝説
女がひとり、泣いていた。
厳格で真面目な仕事人間である父親。優しく控えめな性格ながら、シンの強さを持っている母親。そんな典型的な中流家庭に育った女性は、地方都市ではよく見られるように、家柄や学歴、父親の職業に対する信頼度、地域社会における評価などから、学校や周囲の推薦もあって、その地方でも規律が厳しいことで知られる団体に就職した。父親がその団体の関係者であったことも影響したのは間違いない。
その団体は全国組織で、本拠地が東京にある。女性が勤めたのは、その県の中心都市にある本部であった。
職場では総務畑に属し、さまざまな事務処理を担当したほか、本部の上層部である上司の秘書的な仕事も任せられた。
明るく素直な性格や、スリムで都会的な容姿、のびのびと健康的な色気を感じさせる肢体は、圧倒的に男性が多い職場ではかなり目立ったようである。
元同僚の一人は、こう話す。
「とにかく明るくて、我々がからかうと、頬をポーッと染めるような純情な女の子でした。何一つ不自由なく育ったせいか、ややひ弱で、他人に甘えるところもありましたが、そこがまた可愛らしくて、『俗世間の荒波から守ってあげたい』と思わせるところがありましたね。男性からも女性からも“職場のマスコットガール”として、大変な人気でした」
数年後、職場の先輩からの紹介で同じ団体に勤める“明朗快活で前途有望な青年”と見合いし、半年程度の交際期間を経て婚約……という、これまた、お決まりの「幸せコース」を辿った。
すべてが順風満帆……のはずだった。そんな彼女に悲劇が襲いかかったのは、結婚式を数ヵ月後に控えた、ある蒸し暑い日のことであった。
女性はその日、東京から単身赴任中で、団体の上層部専用宿舎に1人で生活している上司のため、宿舎の清掃に出掛けた。
これは正規の業務ではないが、そうした上司のほとんどが単身赴任であるため、総務畑の女性職員が月に数回、交代で宿舎の清掃などを行うのが、長年の慣習となっていた。同僚の女性織員と一緒のケースが多いのだが、この日はたまたま、同僚に急用ができたこともあり、1人で宿舎に向かった。
この女性にとって、こうした雑用は貴重な休日を潰される難点はあったものの、必ずしも嫌な仕事ではなかったようだ。
彼女はある日、女友達の一人に、
「あの上司は男らしいし、仕事もできて尊敬できる人だから、(身辺の世話は)決して嫌じやないの。それに、私たちからすれば、雲の上の人みたいに近寄り難いエリートでしょう。その素顔を見ることは、他の人にはなかなかできない訳だから、楽しみなところもあるわ」
と語っている。
だが、そうした“密やかな期待”が、逆に警戒心を緩め、悲劇を生んだ。
女性が家事をしている最中に、その上司が突然、襲いかかってきたのである。
上司は団体内におけるポストはもちろんだが、社会的にも信頼される地位にあった。しかも、日頃の温厚で紳士的な言動、いかにも優秀なエリートといった感じの冷静沈着な仕事ぶりなどから、まさかそんな破廉恥行為に及ぶなどとは想像もできなかった。女性の心の油断を責めるのは、あまりにも酷い状況であった。
その男の妻が長期間にわたり重病を患っていたことも災いした。
不意をつかれた女性は最初、ショックで呆然としてしまい、「止めて下さい」と懇願するのが精一杯だった。それでも途中から必死に抵抗したが、女性の細腕ではどうにもならなかった。
それは決して不倫だとか、醜聞などではない。レイプというれっきとした犯罪行為であった。しかも、被害者は親子ほども年齢が離れた自分の部下で、フィアンセがいる女性なのだ。
女性は帰宅後、ずっと自分の部屋に閉じこもって泣き続け、事情を知らない家族を心配させた。
信頼していた上司に裏切られたショックや、婚約者に対する悔恨の情が女性の心を苛み、絶望の淵に追いやったことは想像に難くない。女性は誰にも相談できず、1人部屋の片隅で泣くしかなかったのだろう。
性はその“事件”の後、しばらく勤め先を休んだ。それを知った上司は自分の行為が発覚し、スキャンダルに発展することを恐れた。何どか女性と連絡を取り、謝罪するなど善後策を講じようとしたが、うまくいかなかった。
男は立場上あまり自由に行動できなかった。そうかと言って周囲に相談することもできず、焦り始めた。
そこで、本拠地の東京近辺にいる腹心を呼んで打ち明け、“事件”のもみ消しを依頼した。
腹心が何をしたのかは分からない。が、女性は数日間休んだだけで、その後は何事もなかったかのように出勤し、前にも増して熱心に仕事を続けた。
ただ、私生活の面は大きく変わった。
明るく爽やかな笑顔は消え、口数も滅った。あまりの激変ぶりに、同僚らは心配して理由を尋ねたり励ましたりしたが、女性は何も語らなかった。
しぱらくして、女性は結婚相手の青年に理由を一切告げないまま、一方的に婚約を解消した。
そして何と、いつの間にか、その上司の愛人となっていたのである。
最初は男の方が女性を無理に呼び出し、関係を続けていたが、そのうち、女性も男の指示に従うようになったようだ。
2人の関係は密かに続けられた。周囲に悟られないように、女性が深夜や休日にこっそり宿舎を訪れたり、東京などに出張した際、都内のホテルで会うようにした。
翌年、その上司は東京に栄転したが、度々お忍びでその県を訪れては女性と会ったり、時には東京に呼び寄せることもあったという。
最終的には、その女性を退職させ、都内にマンションを借りて住まわせた。
女性が口を噤んだおかげで、男は順調に出世街道を歩いた。ついに、その団体全体のトップクラスにまで上り詰め、絶大な権力を握った。
“事件”のもみ消しに奔走し、女性のその後の世話係を務めた腹心たちも皆、揃って出世した。
現在、男は団体を定年退職し、海外で別の仕事をしている。外国に出発する際に、その女性も連れて行こうとしたが、さすがに腹心たちが押し止め、女性が日本を離れるのを嫌がったこともあって、実現はしなかった。ただ、2人が会う機会は減ったものの、その関係は未だに続いている……。
捜査打ち切りの「取引」
これは、女性の周辺や、元の勤務先の関係者の問で密かに語り継がれている「伝説」である。
2人の関係はもちろん、一部の人間しか知らないトップシークレットであった。
だが、そこは狭くて排他的な地域社会のこと。それぞれの様子が微妙に変化したことに不審を感じ、あれこれ詮索する人がいたり、1人が一緒にいるところを目撃した人も現れた。
最初の“事件”の直後、憔悴し切った女性の姿を知っている家族や友人には、その後の女性の変化が訪しく映った。一方的に婚約を破棄されたフィアンセとその関係者たちも、突然の破談に思い当たるフシがなく、とても納得できなかった。
そうした疑念がやがて、関係者の間で1つの「伝説」となって語られるようになったのである。数年前には「内部告発」として一部のマスコミに伝わり、取材されかけたこともあった。
だが、幾つかの客観的な証拠や、複数の関係者証言がありながら、それが「事実」として報じられず、今でも「伝説」のまま残っているのは、女性がレイプ事件はもちろん、その後の愛人関係さえ頑として認めなかったからだ。
それを敢えて、ここに記したのには訳がある。
実は、その「伝説」に関する情報が、オウム真理教との関与が囁かれている暴力団に流れた形跡があったからだ。
そして、何よりも、2人が勤めていた団体が「警察」であったためである。
それが漏れ出したのは、ひょんなことからであった。
「オウム真理教がまだ、オウム神仙の会と呼ばれでいたころ、ある事件に関連して現地の警察に目を付けられていたことがあった。ところが、当局がいよいよ、麻原彰晃被告ら幹部から事憤聴取を行い、本格的な取り調べに入ろうとした矢先、なぜが、上の方からストップがかかったらしい。
その事件自体は今、次々と判明している一連のオウム事件のような凶悪犯罪ではなかったし、オウムの名前もまだ知られていなかったから現場の捜査員たちは皆、訳が分からずに首を傾げはしたが、結局、そのままになったようだ。当時の捜査員たちは、オウム真理教の実熊が明らかになるにつれ、『あのころ、オウムを摘発していれば、地下鉄サリンなど悲惨な事件を未然に防げたかも知れない』と侮しい思いをしていると聞いている」
捜査関係者の1人は、そう明かす。
その事件があったのは、2人がいた県であった。
しかし、それが「伝説」とどう繋がるのであろうか。
「その事件が潰れたという噂は、私も警察内部で耳にしたことがある。でも、その背景にある話の方が、もっと恐ろしい内容なんだよ」
と話すのは、別の警察関係者。
「事件が潰れた時期は、オウム真理教側はちょうど、東京都に宗教法人の認証を得るため申請している最中で、トラブル発覚にはかなり神経質になっていたんだ。約1年後、オウムは坂本弁護士一家を殺害しているが、それも認証を得た直後ゆえに「トラブルの表面化を恐れて犯行に及んだとされている。だが、この場合は警察全体が相手だから、まさか皆殺しにする訳にもいかない。困り切ったオウムは、その当時親しい関係にあった暴力団組長に対応策を相談した、というんだ。
その暴力団が独自の情報網を駆使して調べたところ、現地警察の最高幹部の女性スキャンダルが浮がんできたどいう訳だ。そこで警察組織に太いパイプを持つ政治家らを通して、警察当局の上層部に『スキャンダルを公にしない代わりに、ある小さな事件の捜査を打ち切ってほしい』といった趣旨の取引を持ちかけた、という途方もない話なんだ」
確かに、信じがたい話である。
だが、この警察関係者が明かした女性スキャンダルは、登場人物から発生場所、年月日、ストーリーの細部に至るまで、冒頭に紹介した「伝説」そのものであった。
実際、そうした取引が行われたのか、また、それが功を奏したかは定かではない。
だが、結果的にその事件に関する捜査はストップががかり、「伝説」は再び、闇の中に葬られた。
その1件に関わった警察関係者が、一連の顛末を記録したメモは、組織の奥深くに封印されてしまったのである。
ところが、その“信じがたい話”は、後にオウム捜査に関わり、少なからぬ影響を及ぼすのである。
第2章 供述
この取引疑惑から1年後に発生したのが坂本弁護士一家殺害事件である。
この事件は、早川紀代秀被告ら実行犯グループが自供し、その供述通り3人の遺体が発見された。また、今年[1996]3月12日に東京地裁で開かれた中川智正被告の第4回公判をはじめ、一連の坂本事件の公判で、被告たちが犯行を大筋で認めたことで、事件の真相は解明されたかに見えるが、果してそうだろうか。
本誌はこれまで再三にわたり、坂本事件が抱える数々の疑問点を指摘してきたが、それらは公判段階に至った現在でも、必ずしも解決していない。
実は、この事件に関しても“闇に葬られた警察情報”があった。
それを明らかにする前に、坂本事件の疑問点について振り返ってみよう。詳細な検証は、本誌1995年8,11月号で行っているので、ここでは要点だけを記す。
第1の疑問は何と言っても、坂本宅の鍵はなぜ、開いていたかということだろう。
中川被告らに対する検察側の冒頭陳述によると、早川被告ら6人は1989年11月2日深夜から1日未明にかけ、静岡県富士宮市の富士山総本部で麻原被告から坂本弁護士殺害の指示を受け、3日午前中、2台の車に分乗して出発。途中で地図や背広を買い、同日夕、坂本宅付近に到着した。
メンバーはこの日が祝日であることを忘れていたため、早川被告ら2人が坂本弁護士が電車で帰宅するはずのJR洋光台駅前に、岡崎一明被告ら4人が坂本宅付近の路上に、それぞれ車を停めて見張った。
坂本弁護士の帰宅が遅いため、岡崎被告は午後9時ごろ、坂本宅の様子を窺い、玄関ドアが施錠されていないことに気づき、早川被告に無線で連絡した。早川被告は坂本弁護士が家族とともに自宅にいる可能性が高いと考え、公衆電話で麻原被告に報告した結果、深夜になってから家族とともに殺害するように指示された。そこで実行犯グループが相談し、犯行時刻を4日午前3時と決め、無施錠のドアから坂本宅に侵入した。その際、故・村井秀夫幹部は車内に手袋を置き忘れ、早川被告はポケットに手袋を入れてあることを失念し、素手のままであった……というものだ。
この冒陳を読む限り、6人の犯行はとても計画的だとは思えない。
まず、メンバーが誰一人、下見しておらず、祝日さえ認識していなかったのに、坂本弁護士がなぜ、在宅中だとか帰宅すると決めつけられたのかとの疑問がある。
実際、坂本一家は3日から2泊3日の予定で、四国に旅行に出掛けるはずだった。たまたま坂本弁護士と息子の龍彦ちやんが風邪気味だったため、2日前に中止しただけで、在宅していたのは偶然であった。
次に、現場での見張りだが、岡崎被告ら4人は坂本弁護士宅近くの路上に駐車していたとしているが、坂本宅付近の道路は皆、狭くて一方通行が多いうえ、生活道路として意外と交通量がある。
しかも、タ方6時から夜9時という車の通行が多い時間帯に、大の男4人がビッグホーンのような大きな車に乗っていたら、かなり目立っただろう。それどころか、通行妨害でトラブルさえ発生する可能性が高い。ところが、近くに駐車していた京都ナンバーのワゴン車を目撃した人はいたのに、ビッグホーンの目撃情報は皆無なのである。
そして、いよいよ問題の鍵についてである。冒陳では岡崎被告が午後9時ごろ、坂本宅の様子を窺って、初めて無施錠状熊が分かったことになっている。鍵がかかっていなかった理由については、「就寝の際、自宅の玄関ドアの鍵は施錠されていなかった」としか触れておらず、はっきり分かっていない。
ただ、そう記されている以上、こじ開けた形跡などはないのであろう。
坂本弁護士は同僚に、わざわざ電話をかけて「鍵をしっかりとかけた方がいい」と注意しており、妻の都子さんの几帳面な性格からしても、自宅のドアの鍵をかけ忘れることはまず、考えられない。
「龍彦ちやんに添い寝してうたた寝したのではないか」との説も、同じ冒陳で、都子さんがネグリジェ姿で絞殺されたことが明らかになっており、考えにくい。
例えば、坂本一家がついうっかり、鍵をかけ忘れて就寝したのだとしても、実行犯グループは、坂本一家がたまたま風邪のために旅行を中止して家におり、たまたま鍵をかけ忘れた日に襲撃したことになる。
しかも、岡崎被告がたまたま、その事実を発見したのだから、計画性云々のレベルではなく、3重の偶然が重なった犯行としか言いようがあるまい。
実行犯は、坂本一家が旅行に出掛けていたとしたら、何日も坂本宅の前で待機するつもりだったのか。もし、ドアが施錠してあったら、ドアや窓を叩き割って侵入したのであろうか。
もう一つ気になるのは、岡崎被告から無施錠の報告を聞いた早川、麻原両被告がなぜ、坂本弁護士の在宅を確信したのかだ。普通は無施錠と聞けば、家族は在宅していても坂本弁護士は帰宅していないとか、外出時にかけ忘れたと考えるはずである。
それに、仮に午後9時段階では鍵が開いていたとしても、その後かけられてしまう可能性もあるはずだ。
実際、早川被告の「やるなら今だと言ったら、麻原に『3時を待って侵入しろ』と言われた。鍵がかかっていたらどうしたらいいかを尋ねると、麻原は『大丈夫だ。玄関のドアは開いている』と答えた」という供述が、いつの間にか消えているのも不可解だ。
早川被告は「そんな馬鹿なことはないだろう。どうぜ、鍵がかかっているから、今夜は中止だとタカをくくって、村井とともに手袋を付けずに行った」とも供述しており、これらの供述内容の方がよほど自然であり、説得力がある。
「この連中が本当にやったのか?」
第2点目は、坂本夫妻が自宅で殺害された際、実行犯グループとかなり争ったと見られるのに、周辺の住民が物音ひとつ聞いていなかったり、事件現場に争った跡がほとんどないという疑問だ。
冒陳によると、6人は寝ていた坂本夫妻の上に馬乗りになり、殴る蹴るの暴行を加えている。激しく抵抗する坂本弁護士の両足を押さえ付けていた早川被告は、途中で蹴飛ばされ、後ろに倒れて鏡台にぶつかり、その反動で鏡台が襖に当たって、襖が外れたほどである。
一方、都子さんは村井幹部の指に噛みつき激しく抵抗。村井幹部の指から流れ出た血が畳に付着し、龍彦ちやんは泣き出すなど現場はかなりの惨状だったようだが、隣家も階下の住民も、全く気づいていない。
プレハブのアパートに暮らした経験者はよくご存じだと思うが、ドアの開閉や子供が走り回る音でさえうるさく聞こえるものだ。ましてや夜中の3時に、これほどの騒ぎがあれば、地震が起きたと思うほどではないか。
それも、隣家の主婦は「その日は午前3時ごろに起きて、赤ん坊にミルクを上げていたが、何の物音も聞こえなかった」と証言しているのだから、いかにも奇妙だ。これもたまたま聞こえなかったのだろうか。
さらに、冒陳は、実行犯のうち5人が坂本一家の死体をそれぞれ布団やタオルケットでくるみ、外に運び出し、アパートの階段を下りる際には靴音を立てないように注意して、車の後部に乗せた、という。
だが、アパートの階段はいくら注意深く昇り降りしてもギシギシと音を立てるし、幅80センチしかないドアから、小太りの坂本弁護士の死体を布団でくるんで遅び出すのは至難の業。後日、同僚弁護士たちがモデルになって実験してみたが、重くて数人がかりでなければ運べないし、壁や家具に何度もぶつけ、大きな音がしたという。
それに3人も殺害し、しかも、かなり争ったとなれば、とにかく直ぐに逃げることを考えるのが犯罪者心理であろう。血の付いた布団を遅び出さなければならなかった事情を考慮しても、遺体を1人ずつ担ぎ上げて車に運び、布団だけ別に運搬した方がずっと効率的である。
また、冒陳では、岡崎被告が坂本宅寝室内に付着した村井幹部の血痕などを浴室にあったタオルで拭き取ったり、早川被告が倒れたために外れた襖を元に戻すなど、最後にチェックしたことを明かしている。
ところが、中川被告が肌着に付けていた教団のバッジであるプルシャが寝室内に落ちていることには気づかず、しかも、そのプルシャの存在は、最初に坂本宅を実況検分した神奈川県警の警察官さえ見落としているというのだ。その警察官は鑑識係であり、他の警察官以上に現場の状況には目が届くはずであった。
また、捜査当局がプルシャから指紋を採取したところ、発見者である坂本弁護士の母さちよさんらの指紋しか検出されず、中川被告の指紋は出ていないのだ。
さらに、坂本宅の電話の呼び出し音がオフになっていたが、岡崎被告をはじめ誰もオフにしたと供述した者がいなかった。
ところで、冒陳は犯行時、寝室内は豆電球しかついておらず、薄暗かったとしている。そこに、村井幹部と早川被告が素手のまま乱入したのだ。襖は外れ、血痕は飛び散り、指紋が付いているかも知れない室内を、両崎被告は豆電球の薄暗い中でチェックしたのだろうか。
それにしては、捜査当局の現場検証では実行犯たちの指紋も血痕も発見されず、せいぜい襖や敷居の傷と敷物がめくれていた程度でしかなかった。その状況は、相当綿密に事後処理したことを物語っているが、それなのにプルシャが落ちていることには気づいていない。この綿密さと杜撰さが同居した現場は、いったい何を意味するのであろうか。
事件を担当した神奈川県警の捜査員は、こう明かす。
「捜査本部は各容疑者を取り調べた際、坂本弁護士一家が住んでいたアバートの模型を作り、それを示しながら進めた。ところが、彼らの供述はかなりいい加減で、殺害の手順も計画性はなく、行き当たりばったりといった感じだった。供述内容はいずれも、あいまいで2転3転するし、辻棲が合わないことも多かった。正直言って、この連中が本当にやったのかという印象が強かった。中川以外は皆、小柄で腕力もなさそう。空手の有段者とされた新実にしても、本当は8級だったからね」
これらの疑問点や矛盾点を解決するにはたった1つのケースしかない。
現場を下見したり、信者たちの犯行を見届け、現場の事後処理を行うための別働隊がいた、という想定である。
本誌はこれまで、暴力団員らによる犯行支援グループの存在を指摘してきた。
また、付近住民の目撃情報や、坂本宅から来客用の湯飲み茶腕がなくなっていることなどから、3日夜8時過ぎに、坂本宅に来客があったとの説を提示している。
重複するので詳述しないが、その来客が別働隊の一員なら、鍵や電話のミステリーに説明がつく。拉致・監禁を専門とするメンバーが支援すれぱ、事後処理などは完壁にできるはずだ。
プルシャについては「暴力団員が後で教団から莫大な資金を脅し取るために、わざわざ落としてきた」という暴力団幹部の証言を紹介している。
冒陳が示すように、麻原被告が宗教法人の認証を得た直後ゆえ、教団のトラブル発覚を防ぐために、坂本弁護士一家を殺害したとしたら、何よりも犯行に細心の注意を払うばずである。
公安関係者の中には「麻原は早川、岡崎ら幹部たちの忠誠心を試すために、殺人を命じた。坂本事件の共犯になることで離反、逃亡の可能性を断ち切った」との見方を取る人もあるが、いずれにぜよ、犯行の失敗はもとより、教団関与の発覚だけは避けなければならなかったはずだ。
それを、こうした“成り行き任せ”的な行動を取る信者たちだけに任せられるだろうか。麻原被告が並行して、何らかの善後策を講じた可能性が高いのではないか、と見る方が自然であろう。
そうした観点から坂本事件を検証してみると、随所に暴力団の影がチラつくことが分かる。
例えば、坂本弁護士宅付近で目撃された京都ナンバーのワゴン車が京都の暴力団関係者の所有で、坂本一家の死体遺棄の際、富士山総本部でも目撃されていたこと。さらには、オウム真理教との関与が囁かれている組長の隠し口座に、坂本事件の後、オウム関係者と見られる人物から約5億円が振り込まれたとの情報もある。
そして、これらの話は単なる情報ではなく、実は、別の事件で逮捕されていた暴力団幹部が詳細に供述し、調書まで取られていたのである。
因みに、その幹部は、私が数年前にインタビューした人間とは違う。もう1人、極秘の情報を告白した人物がいたのだ。
それが、2つ目の封印された警察情報であった。
「あれはオウムの金だよ」
この幹部は、山口組の中でも“武闘派”として知られる組の中心メンバーの1人で、その系列の下部組織を率いている。本人もなかなかの“武闘派”歴を誇る半面、経済事件を得意とし、別の宗教団体とのバイプ役も果すなど「切れ者」として知られている。現在は、オウムとは関係ない別の傷害事件に関与したとして実刑判決を受け、東日本の刑務所に服役中の身だ。
「この幹部は、逮捕された傷害事件に関して誤解を受け、上部組織とトラブルになり、組織内で難しい立場に置かれていた。そのため一時は生命の危険を察知し、かなり神経質になっており、取り調べに対しでも一切答えなかった。だが、出所後の身の振り方にほぼメドがついたんで、ようやく口を開いたんだ」
捜査幹部は、そう明かす。
その供述によると、幹部は1990年2月ごろ、上部組織の組長の親族で、その組織のフロント企業の社長でもある男性から「オウムを手伝わないか。あそこはカネになるぞ」と持ちかけられた。幹部は当時、資金繰りに苦しんでおり、喜んで引き受けた。その際、社長は「坂本事件は、実はウチがやったんだ。今や、オウムはカネの成る木だよ」と明かしたという。
だが、約2ヵ月後、社長が数百万円を持って幹部の元を訪れ、「あの話はなかったことにしてくれ」と言ってきた。理由を聞いたが、「答えられない」の一点張りで、その切羽詰まった表情から、かなり危ない話ではないかと感じたらしい。
実際、上部組織の組長からも直接、「オウムのことは、決して口にするな」との指示があった、というのだ。
その幹部はこんな供述もしている。
「その儲け話が潰れた前後、今度は上部組織の企業舎弟が乗り回していた車のダッシュボードの中に、エロ写真などと一緒に、どこかのアパートを撮影した数枚のポラロイド写真が入っているのを見つけた。何か儲け話のネタではないかと思って、企業舎弟を問い詰めたら、坂本弁護士宅のドアや全景、局辺の様子であることを認めた。また、ダッシュボードに、同じ風景を撮影したビデオテープも入っていた」
また、この幹部がしばらくして上部組織の本部詰めを担当している時、上部組織の組長と麻原被告、それに別の宗教団体幹部が、本部近くのゴルフ場で密談するとの話を漏れ聞いた。組長の警護が本部詰めの重要な仕事であるため、その日程や場所を組長に確認しに行ったら、「今日は護衛はいらない」と言われたという。
この件について、幹部は「麻原という男は盲人なのにゴルフをするのか、と変に思ったのでよく覚えている」と捜査員に話している。
さらに、この幹部は1990年4月、前出のフロント企業社長の銀行口座に、オウム真理教から約5億円が払い込まれたことを知った、とも供述している。
知り合いの組員がオウムから受け取って入金しており、多額なカネに興奮し、「銀行から預金小切手を貰って帰ってきた」などと話していたからである。
しかも、幹部が社長周辺にそれとなく尋ねると、何と、社長自身が「あれはオウムの金だよ」と明かしたというのだ。
さすがに、社長はそれ以上は説明しなかったが、幹部は「麻薬の代金にしては金額が大き過ぎる。きっと坂本事件のお礼だなと思った」と、捜査員に話している。
捜査当局は、これらの供述内容が極めで具体的であるうえ、論理的に矛盾がなく信頼性が高いことから重視した。ただ、この幹部が上部組織とトラブルを起こしているため、慎重に裏付け捜査を進めた。
周辺の聞き込み捜査などから、上部組織の組長と麻原被告らの3者会談が行われたことも突き止めたし、社長が持っている都内の銀行支店の口座を割り出し、オウム関係者からの入金も確認できた。
また、坂本宅のポラロイド写真を積んでいた車は、上部組織のフロント企業の社長が所有していることも判明した。
さらに、坂本弁護士宅付近で目撃された京都ナンバーのワゴン車の所有者が、この幹部の上部組織と関わりがあり、坂本事件の直前、そのフロント企業周辺に駐車していたことも分かった。
しかも、そのフロント企業には早川、新実被告らが出入りしていたのである。
まだある。
驚くべきことには、この幹部が勢力を持っていた地方で、村井幹部を刺殺した徐裕行服役囚との接点が出てきたのだ。
徐服役囚が村井暗殺を引き受けた動機の1つは、多額の借金と見られているが、捜査当局の調べによると、その借金の原因となったイベント失敗の舞台となった場所がその地方であった。
そのうえ、捜査当局が徐被告のバックにいると見ていた別の暴力団組長の拠点がすぐ近くにあり、接触があった可能性が出て来たのである。
その組長こそ、捜査当局が「多額の報酬で村井暗殺を請負い、徐の借金の裏保証をする代わりに、暗殺を行わせたのではないか」と睨んでいた人物であり、供述した幹部とは同じ組織の系列であった。
さて、このようにオウム真理教と暴力団を結ぶ捜査は着実に進展し、照準は絞られつつあったかに見えた。
ところが、この捜査は突然、打ち切られてしまった。
「いよいよ、坂本事件の真相究明ができると張り切っていた矢先に、暴力団関与説を唱えていた幹部や捜査員が次々と、人事異動で捜査から外されたり、発言を封じられるようになったんだ。内部でつい、暴力団の話でもしようものなら、上司から『今さら何を言い出すんだ。あれはオウムに決まっているだろう』と一喝される始末だ」
「現場の捜査員の間では『暴力団を叩き演す絶好のチャンスなのに、どうして止めるんだ』との声が高かった。直属の上司は我々の話を理解してくれ、意見具申してくれたようだが、かなり上の方の考えらしく、どうにもならなかったらしい」
現場の捜査員たちからは、こうした不審や不満の声が漏れたが、上層部の方針は変わらなかった。
神奈川県警磯子署の坂本事件捜査本部は既に、昨年[1995]11月に解散している。打ち上げ式では、未だに「本当にあれでいいのかな」と漏らす捜査員もいたという。
これだけの有力情報がなぜ、封印されてしまったのであろうか。
第3章 圧力
「公安警察は、八王子のアジトで潜伏中の私たちの行動を監視していました。逮捕後に取り調べられた時、『捜査報告書』で人の出入りや服装のチェックも正確であることが分かった。それなら、私が都庁職員の方の指を飛ばす前に逮捕して欲しかった。悪いのは私だし、すべての責任は私たちにある。声高に『宗教弾圧』というつもりはないが、どうしてもっと早く、捕まえてくれなかったんでしょうか……」
5月21日、東京地裁で開かれた中川被告の第5回公判で、中川被告は泣きながら、そう意見陳述した。
この言い分はあまりに手前勝手であり、賛同できないのは当然だ。捜査当局は必ずしも、オウム真理教の実態をすべて把握していた訳ではないから、それだけで徒に捜査手法を批判すべきではない。ましてや、被告側が捜査当局に対して文句を言うなど、見当違いも甚だしい。
ただ、結果論的に言えば、公安当局の泳がせ捜査が、事件の発生防止に繋がらず、新たな被害者を生み出したことは紛れもない事実である。
ところで、公安当局はいったい、いつの段階でオウム真理教に容疑を抱き、教団を監視下に置いて内偵捜査に乗り出したのであろうか。
1994年9月、宮崎県の旅館経営者がオウム信者に拉致・監禁されたと宮崎県警に告訴した。これを受けて警察庁は密かに、全国の警察にオウム真理教に対する捜査を指示しており、この辺りが正式な内偵捜査の始まりとされている。
ただ、公安当局は松本サリン事件直後から、オウム真理教がサリンを製造しているのではないかとの情報を得て、教団の内偵授査を続けてきたと言われている。
当時、第1通報者の会社員を調べていた長野県警に、それを知らせなかったのは、いかにも公安的手法と言わざるを得ない。
捜査員たちは密かに、上九一色村の住民たちに接触したり、麻原被告をはじめ教団幹部の同行や都内のアジトを監視したり、信者を懐柔して、教団内部やその局辺にS(情報提供者)を養成するなど、時間をかけて捜査を進めてきた。
Sは一般の在家・出家信者だけでなく、教団幹部にも及んでおり、最低でも5,6人はいたと見られている。また、公安当局の捜査員が少なくとも数人は潜り込んでいたようで、上九一色村の教団施設に対する強制捜査の時、神奈川、静岡県警ではテレビの中継に映った信者の中に、同僚の顔を発見して驚きの声を上げたケースがあったという。
昨年[1995]11月29日、名吉屋地裁で開かれた大内早苗被告の第3回公判に検察側証人として出廷した元教団幹部、満生均史被告は突然、「宗教関係を調べている“ある人”から頼まれて、松本サリン事件などオウムについて調べた。スパイ行為をして、スパイ容疑をかけられた」と告白し、関係者に衝撃を与えた。
満生被告は依頼主を問われ、「名前は言えない」ど答えているが、その後の公安関係者のあわてぶりがら、満生被告は公安当局のスパイだった可能性が高いと見られている。
スパイと言えば、1994年暮れから1995年1月にかけて出回り、話題を集めた『松本サリン事件に関する一考察』と題する怪文書がある。
「サリン事件はオウムである」と断言したこの文書の作成者は、未だに不明だが、捜査当局やマスコミの間では、公安関係者が書いたとする意見が強い。
1994年暮れ段階で、松本サリン事件がオウムの仕業であると知っていた者は、麻原被告をはじめ犯行の実行グループなどごく少数の教団関係者だけであろう。
しかも、サリンの化学的な説明から上九一色村の教団施設内の情報、宮崎県の旅館の経営者拉致事件、オウムとロシアの関係まで言及しており、教団上層部でもそう簡単には書けない幅広い内容になっている。
そうなると、複数の教団内部情報に捜査情報を加えて、公安関係者が書いたとしか思えない。つまり、その時点で公安当局のSがあれだけのレポートを書くほどの調査をしていたことになる。
満生被告も法廷で、自ら松本サリン事件を調査し、内部レポートを作成した1人であることを認めている。
この怪文書は、公安当局が警察庁上層部の消極姿勢に対し、マスコミを巻き込んで決起を促したものと見られている。
オウム真理教に対する強制捜査の方針が決定されたのは、昨年[1995]1月の国松孝次警察庁長官と吉永祐介検事総長のトップ会談であり、そこで摘発時の適用法令や取り調べ体制など具体策の協議に入ったと言われている。もし、怪文書が公安関係者の手によるものだとしたら、公安当局の奇策がまんまと成功したことになる。
だが、逆に、公安当局が早い段階で、松本サリン事件とオウムとの関連をキャッチしていたなら、河野さんに対する“冤罪”はもとより、仮谷さん殺害、地下鉄サリン事件の発生を防げたのではないか、との見方も出てくる。
公安当局がこうした情報を掴みながら、警察首脳の了解が出ないからと言って、わざと麻原被告の荒唐無稽な思想やカルト集団の狂気を面白おかしく書くことに、能力と時間を割いていたのは、あまりにも情けない。
なぜ、警察当局はもっと早く、オウム真理教の摘発に乗り出さなかったのか。
昨年[1995]11月、故・村井幹部の元妻らによるサリン製造事件の初公判で、オウム真理教が3年前、東京都八王子市の創価学会施設周辺で、池田大作名誉会長を暗殺しようとしてサリンを2回まいたが、失敗したとの事実が明らかにされた。
冒陳によると、麻原被告は1993年10月中旬、かねてより教団と敵対関係にあると考えていた宗教団体関係者をサリンで暗殺しようと計画。土谷正実被告らに製造を、村井幹部らに実行を指示した。
冒陳では実名が伏せられているが、宗教団体関係者とは、創価学会の池田名誉会長のことであった。
村井幹部は新実智光被告とともに11月中旬と12月中旬の2回、農薬用噴霧器などにサリンを詰め、トラックに乗せて八王子市内で噴霧したが、失敗に終わった。
3回目は1994年1月の予定で、大量に散布する計画だったが、サリンの製造が間に合わず延期された。この時、量産されたサリンが後に、松本市でまかれることになったのである。幸い、計画は失敗に終わったものの、その意味では、松本サリン事件ではなく、八王子サリン事件になっていたかも知れないのだ。
ところが、この公判には提出されなかった捜査報告書がある。ここにも、封印された警察情報が存在したのだ。
その報告書を見ると、創価学会は2回目に襲撃された後、警察に被害届を出していたことが分かる。
「被害者は創価学会青年部員で、1993年12月17日深夜から翌18日未明にかけ、八王子市の創価学会施設『牧口記念会館』付近で警備業務に当たっていたと申告している。18日は創価大学で、池田氏も出席して、べートーベンの『第9』の演奏会が開かれる予定になっていたためだと言っている。その青年部員が18日午前3時前後に、牧口記念会館前の道路を白っぽいトラックが暴走していったのを見つけ、追跡しようとしたが見失った。彼はその直後から、視野が狭くなり、身体がだるくなるなどの症状を訴え、しばらく自宅で休養していたようだが、数日経っても治らないので、眼科で治療を受けたんだ」
捜査幹部は、そう説明する。
創価学会は青年部員が突然、体調を崩した原因が分からなかったため、何者かによる嫌がらせではないかと見て、被害届を出した。しかし、これが実は、オウムによる池田名誉会長の暗殺計画だったのである。
警察当局はこの被害届をあまり重視しなかった。被害の原因が分からなかったし、ましてサリンの存在など知らなかったから止むを得ないという弁解も、分からない訳ではない。が、警察当局はほとんど、捜査らしいことをしていない。この段階で徹底的な現場検証が行われ、もしサリンを検出するようなことになっていれば、その後の展開はかなり違ったものになっただろう。
警察庁幹部は、こう語る。
「身内を庇う訳ではないが、あの八王子の状況で地元警察署を責めるのは、いくら何でも酷だ。しかし、我々が宗教法人が絡んだ事件に対し、かなりナーバスになっていて、慎重に行ぎ過ぎたことは事実だ。その後のオウム真理教に対する内偵捜査でも、次第にオウムが恐ろしい団体であることが分かってきたが、宗教法人ゆえに手が出しにくかった。でも、仮に警察が宗教団体の情報収集をしていることが発覚したら、それだけで、宗教界はもちろん、マスコミや世論から『官憲による宗教弾圧だ』とか『信教の自由を侵すな』との批判を浴びたに違いない」
この幹部に限らず、警察幹部は皆、宗教団体が絡んだ捜査の難しさを強調する。だが、オウムに対する捜査の遅れは、果してそれだけの理由だろうか。
確かに、一連のオウム事件では、マスコミをはじめ、世論、裁判所でさえ過剰反応しているところがある。
マスコミの場合、それが裏目に出て、公安当局の情報操作にまんまと、乗せられてしまった感は否めない。公安当局による泳がせ捜査や微罪・別件逮捕、リークによる情報操作などに行き過ぎを感じても、マスコミ側がそれらを批判するのは、難しい状態であったことは事実である。
地下鉄サリン事件のようなテロ事件がいつ、再び発生するか分からないという恐怖心と、「大量無差別殺人を犯したオウムは絶対、許せない」という感情から、世論が警察の強権発動を認知したからだ。
マスコミも警察情報に頼らざるを得ない現状から、それに追従してしまったように感じるのは私だけだろうか。
だが、警察当局による情報操作に乗せられ、当局の発表を鵜呑みにして、その裏側で着々と進められている強引なストーリー展開を見過ごしてはならない。
1つに繋がる「3つの警察情報」
本稿では、3つの封印された警察情報を紹介してきたが、これらは、オウム真理教の犯罪行為が1980年代後半から始まっていたことを示している。
麻原被告は、自身の野望と狂気を10年近くにわたって募らせ、少しずつ実現させようとしてきた訳だ。
その過程で、オウムに絡む利権を狙い、その突進力を利用しようとした輩がいたことは間違いあるまい。
本誌が再三にわたり指摘した暴力団や政冶家、外国勢力などである。
捜査当局は、政治や外交問題という厚い壁に阻まれ、こうした“闇の勢力”に対しては無力であった。
それは、警察という組織に幾つかの問題点が内在していたからである。
1つは、一握りの国家公務員上級職のエリート官僚が警察組織を支配していることだ。彼らは他の省庁同様に、警察庁長官を頂点にして、激しい出世競争を展開しており、失敗を恐れて消極的になる傾向が見られる。また、政治家などの権力者に弱い。
2つ目は、組織の硬直化である。都道府県警同士の横の繋がりは薄く、広域事件の捜査に度々失敗している。
第3点は、組織内の各セクションや、都道府県警の間の縄張り意識が強いことだ。特に刑事と公安は同じ捜査部門ながら、その体制や手法に大きな隔たりがあり、激しいライバル意識を持っている。
さらに、各都道府県警内でも出身地ごとの派閥が形成されているケースが多い。
1例を挙げれば、警察庁と警視庁は建物は隣同士だが、お互いの連携は必ずしもうまくいっていない。半面、警察庁は長官の出身地派閥の警察本部と“いい関係”になるとされている。
冒頭に紹介した上司も、その意味から全国に腹心や子飼いの部下を大勢抱えていた。特に当時、神奈川県警に強い影響力を持っていたとされる。
実は、その腹心たちの一部がオウム真理教に対する捜査に有形無形の“圧力”をかけているフシが見られるのだ。
前章で、坂本事件の捜査方針に絡んで、警察上層部が現場の捜査員の暴力団関与説を真っ向から否定したため、暴力団ルートの捜査が打ぢ切りにならざるを得なくなったことを紹介した。
現場の捜査に横槍を入れた上層部の背後には、何人かの警察官僚や、その意を受けたOBらの影がチラついている。その中には、冒頭に記した上司の女性スキャンダルを尻拭いしたとされる腹心の名前も上がっていた。
そして、その“圧力”の系譜を辿っていくと、第1線の捜査員が「かなり上の方の考えらしい」と嘆いた通り、次第に警察組織の頂点に近づいていくことが分かる。
それだけではない。
例えば、この上司は、出身地派閥の関係で大物政治家らとも繋がりがあった。
そうした中に、オウム真理教との関与が囁かれる団体に関わったり、ロシアや北朝鮮の利権絡みで名前が浮上した人もいるのだ。
さらに、腹心たちの中には、風俗産業やパチンコ業界との関係から、暴力団や在日朝鮮人などとの繋がりを指摘される人たちもいる。
どうやら、3つの封印された警察情報は1つに繋がっているようである。
オテム真理教、暴力団、政治家、そして警察組織……。それぞれの点を結んだ延長線上に、オウム事件の「真実」が潜んでいる気がしてならない。
そして、そこはまさに、“闇の世界”そのものなのである。
さて、以上の内容を要約すると「警察OBの大物が現役時代、部下をレイプしたあげく愛人にした。それをオウムと関係のあった暴力団が知り、脅迫してオウム事件の捜査から手を引かした。」となります。
この暴力団とは、山口組きっての武闘派団体「後藤組」のようです。
そして、脅迫された「警察OBの大物」とは『憎まれ愚痴』編集長の木村愛二氏によれば、元神奈川県警本部長、地下鉄サリン事件当時の警察庁長官の前任者、城内康光氏だそうです。
確かにオウム事件の多くは城内氏が警察庁長官をしていた時代に起きていました。
城内康光(きうち やすみつ、1936年 - )は、第15代警察庁長官(1992年9月18日~1994年7月12日)。元群馬警本部長。(株)東京三菱銀行顧問。松下政経塾顧問。1995年9月から1998年3月までギリシャ大使。財団法人・吉田科学技術財団監事。前田建設監査役。日本会議代表委員の一人。
北朝鮮拉致問題での、「辛光洙(シン・ガンス)」の件を国会で答弁したのが、当時警察庁警備局長であった城内である。
なんと、東京三菱銀行の顧問であり、松下政経塾の顧問もしているのです。
さらに、ノーパンしゃぶしゃぶ事件で一時、総裁を追われたものの、復帰したあとも村上ファンドに資金を拠出していたことで世間を騒がせた、あの日本銀行総裁・福井俊彦氏とは同窓生とのこと。
そして、何より重要なことは「日本会議」の代表委員となっていることです。
(つづく)
2006-10-17 オウム事件の背後に潜むもの
■日本の闇を探る⑤ 
さて、少し話は逸れますが、政治家への右翼のテロ行為として記憶に新しいのは、加藤紘一氏の実家への放火事件です。
北海道新聞の8月29日号より引用します。
山形県鶴岡市の元自民党幹事長加藤紘一衆院議員の実家と事務所が15日に全焼した火災で、鶴岡署は29日、放火などの疑いで右翼団体「大日本同胞社」の構成員堀米正広容疑者(65)=東京都新宿区歌舞伎町=を逮捕した。
加藤議員が小泉純一郎首相の靖国神社参拝を批判していることから、鶴岡署は動機や思想的背景を追及する。
調べでは、堀米容疑者は15日午後5時50分ごろ、山形県鶴岡市大東町の加藤議員の実家兼事務所に侵入し、放火して全焼させた疑い。
堀米容疑者は加藤議員の実家の室内で割腹自殺を図ったとみられ、火災直後、敷地内で腹部から血を流して倒れており、病院で手当てを受けていた。
8月16日の朝日・読売・日経・聖教新聞では、まだ男の素性は判っていません。
翌17日の朝日・読売・日経・聖教新聞では、「男の身元を東京都内の右翼団体に所属する男(65)と断定した」とあり、団体名と個人名は記載されていません。
そして19日、朝日・読売・日経は「男(65)が関係する東京都新宿区の右翼団体(大日本同胞社)の事務所など」と団体名を記載したものの、個人名は明かしていません。聖教新聞は記事にもなっていない。
この時点では個人名も判明しているはずなのに、未成年でもない堀米の名を明かさなかったのは何故なのでしょう?
結局、地方紙が個人名を記載したあとになって、大手紙でも明かされましたが…。
犯人の堀込正広は、東京都内の右翼団体「忠孝塾愛国連盟」の常任参与と、その下部団体「大日本同胞社」の相談役に就いていました。
大日本同胞社は、過去にも事件を起こしています。
1982年には団体のメンバーが関連団体を立ち上げ、対旧ソ連や対共産党、対左翼の運動を中心に活動。
1984年には東京都千代田区の海運会社に団員の少年が侵入し、 総務副部長(51)に包丁を突きつけ40分間監禁。ソ連漁船相手の商売をやめるように脅迫。
1992年には天皇陛下の訪中反対を訴え、この関連団体の構成員が宮沢首相(当時)の私邸前で割腹自殺未遂事件を起こしています。
ところが、この「大日本同胞社」は、ここ数年の収支がゼロ、つまり全く活動していない団体でした。登記して看板だけ掲げた幽霊組織なのです。
「大日本同胞社」の上部団体とされる「忠孝塾愛国連盟」は、尖閣諸島へ何度も上陸を繰り返し、灯台を建設したことで有名な「日本青年社」と同系列であり、「日本青年社」は、指定暴力団・住吉会総裁の西口茂男氏が最高顧問を務めています。そもそも「日本青年社」は、1961年に当時の住吉連合・住吉一家・小林会初代会長の小林楠扶氏が創設した右翼団体でした。
ちなみに、住吉連合は全国二位の広域暴力団で、関東の麻薬取引を主に仕切っていて、北朝鮮と麻薬・銃器の取引をしています。
そんな住吉会の系列の「日本青年社」の幹部・水野孝吉氏(総本部時局対策局長)が、北朝鮮拉致問題の「新潟救う会」の幹事を務めているという不思議な関係もあります。
この「日本青年社」の幹部は、2005年3月3日に「日本の領土を守るため行動する議員連盟」によって国会に招かれました。
2005年3月4日(金)「しんぶん赤旗」より引用します。
自民党、民主党などの国会議員でつくる「日本の領土を守るため行動する議員連盟」(会長・森岡正宏衆院議員=自民)は三日、国会内で開いた会合に右翼団体の日本青年社幹部を招き、感謝のことばをささげました。
日本青年社は一九七八年に尖閣諸島の魚釣島に上陸したことで知られる右翼団体。一九六九年に結成され、指定暴力団・住吉会との関係が深いことは、警察庁も国会で認めています。昨年十月には最高幹部の一人が恐喝未遂容疑で警視庁に逮捕されています。
同日の会合で山崎誠日本青年社総局長が「最近の尖閣諸島をめぐる動き」について約三十分間、説明しました。森岡会長はあいさつで「あの島を守ってくれた日本青年社に感謝をしなくてはならない」と日本青年社の活動を称賛しました。
会合には自民党は玉沢徳一郎元防衛庁長官、岩屋毅国防部会長ら、民主党は原口一博、渡辺周、松原仁の各氏ら、十五人ほどが出席しました。
会合に呼ばれていた内閣府、海上保安庁の係官は「(右翼団体との)同席は困る」(森岡会長の説明)として、時間をずらして出席しました。
自民、民主の若手有力議員が加わる会合で、国会施設内に白昼堂々、右翼団体幹部を呼び込んだことから国会運営上の問題にも発展しそうです。
また、中川秀直元官房長官(現・自民党幹事長)が愛人と覚醒剤に耽っていたスキャンダルを「日本青年社」に握られ、脅されて官房機密費を横流しして以来、住吉会との繋がりが続いているという“黒い噂”があります。
加藤氏の家を放火した犯人の名がなかなか明かされなかったのは、このあたりの繋がりから圧力があったのかもしれません。
ちなみに、今年6月28日に覚醒剤容疑で逮捕され、その際、芸能人やスポーツ選手のタニマチだったことがスポーツ新聞で暴露された中山諭社長の不動産会社「ダイナシティ」は住吉会のフロント企業でした。
(中山社長の逮捕後に「ダイナシティ」の筆頭株主となったのがホリエモン率いるライブドア傘下のライブドアファイナンスでした。)
新首相となった安倍晋三氏は、父親・安倍晋太郎の代から新興宗教まがいと評判の経営コンサルタント会社「慧光塾」の光永仁義氏と懇意にしており、光永氏の長男と「穴吹工務店」社長の娘との結婚披露宴には安倍晋三氏が媒酌人を務めるほどの間柄でした。
【参考】
『なぜ、「救う会」には、北朝鮮と武器・覚醒剤密輸をしている暴力団住吉会が深く関わっているのか?』
『覚せい剤逮捕社長も参加していた「慧光塾」“教祖”長男結婚式』
『ヒューザー・小嶋社長証人喚問、ライブドア疑惑のどちらでも名前が出る安倍晋三官房長官の不徳』
(つづく)
2006-10-16 オウム事件の背後に潜むもの
■日本の闇を探る④ 


石井紘基氏の握っていた秘密とは?
石井氏に関しては『日本は官制経済国家』の中で、その著作を紹介しています。
石井氏は、議員ならではの国政調査権を用いて、自分の足で丹念に調査をし、具体的に世間にそれを提示するという、非常に珍しい手法を実践された政治家です。
私は石井氏の著作で初めてブラックボックスのような「国家予算の仕組み」を知ることができました。
2002年10月25日に起きた石井紘基議員刺殺事件の犯人は、指定暴力団山口組系の右翼団体と云われてる『守皇塾』の伊藤白水こと本名:尹白水。
では、犯行の様子を『石井紘基は、本当は誰に殺されたのか?』から引用してみましょう。
闇の犯行動機
2004年、6月18日に伊藤白水(はくすい)被告に対し、東京地裁は、求刑通り無期懲役を言い渡した。
しかし裁判官は、「被告の供述は荒唐無稽で全く信用できない。遺憾ながら犯行動機の詳細について解明するのは困難だ」と述べた。
伊藤被告は動機を「多額の資金提供をしたり、右翼の大物を紹介したのに、恩をあだで返された」と主張したのである。
犯行動機がわからず、彼を犯人としていいのだろうか?
死の前日の石井紘基
私は故石井氏には、彼が殺害される前日に、ある場所で会っている。個人的に会ったわけではない。某経営コンサルタントが開いている集会にわずかな時間来られたのである。
そのとき彼は持論の日本の税金の使い方のひどさなどについて話たのだが、国会で見られるような声の強さはなかった。
石井は数日前からおびえて過していたという。死ぬXX日前に暴漢にも襲われている。
証言
後日、身近な人間から話を聞く機会があった。
「あの日は、朝、庭がごそごそいうので、前に頼んでいた庭師かな?って思って、インターホーンで聞いたら『XXX』って言って行ってしまいました。窓から見ると坊主頭でバンダナを巻いた屈強な男でした」
石井はその日、某コンサルタントと会う約束をしていた。
3日後に迫った国会の冒頭質問に係わるものであったであろう。それは日本がひっくり返るような質問になるはずであった:
「石井はひとつきで刺されました。下りてみると、ナイフを引き抜いているところでした。すぐに警察に電話をしようとしたのですが、最初は電話がぜんぜん繋がらなかったんです」
やっと電話がつながり、最初にパトカーが数台来た。しかし多すぎた。あとから来た救急車は道路をふさぐパトカーのおかげで、石井の家までなかなか辿りつかなかった。パトカーが道をあけなければならなかった。
その間、石井は出血しつづけていた。
「不思議なのは、救急車にやっと乗って病院に向かった時間にすでにテレビのテロップに石井紘基死亡って流れていたんです。国会でももう、犯人は右翼の伊藤白水(はくすい)ってメモ書きが議員の間を行き来してました。伊藤はXX日前に怪我をして事務所に傷の手当てを受けにきたりしていて、そんな人が石井を殺すなんて!」
心臓をひとつきしたテロの犯行は、完全にプロの仕業である。伊藤周辺の人間のいうところでは、人を一つきで殺せるような男ではないという。
「普通右翼というのは、人を殺したら靖国神社へまず報告に行くんだ。でも、白水はそんなこともせずに高尾山に逃げて捕まったんだ。普通人を殺して数年して出てくれば右翼の生活は保証される」
<略>
誰も調べない
彼の暗殺後、この件にかかわる国会質問はなされず、民主党の別の議員が代役となった。国会に安堵の雰囲気が流れた。
石井が心血を注いで調べた資料はダンボール箱数箱にのぼる。もちろん警察は調べるようなことはしない。民主党の誰も調べない。大手マスコミも調べない。そして、彼が持っていたメモ書きと資料は消えたままだ!
犯人の伊藤は、事件後、東京郊外の高尾山に逃走。その後、新宿に戻り喫茶店などにいたといいます。
そして、不思議なことに26日午前6時45分ごろ「公安部と連絡を取りたい」と警視庁正面玄関に出頭。
なぜ「公安部と連絡を」なのでしょう?
公安は、国家に対する犯罪行為を取締る部門です。
「恩を仇で返された」という私怨が犯行動機なら、公安なんていう関係ない言葉は出てこないはずではないでしょうか?
続いて『日刊ゲンダイ』に2002年10月31日に掲載された記事「霍見芳浩のニッポンを斬る」をみてみましょう。
民主党の石井紘基議員の非業の死について、米国の指導的メディアは国粋右翼による政治的暗殺だと的確に報じた。「借金を断られて」という私怨の口実は見え見えの偽証だった。また石井暗殺は、1960年10月、同じ行動右翼による社会党の浅沼稲次郎委員長の暗殺に始まる戦後から今日までの国粋右翼による民主リベラルの政治家の暗殺の系譜の一環だとの解説だった。この系譜には1990年、「昭和天皇に戦争責任あり」と長崎市議会で答弁した本島市長が国粋右翼にピストルで撃たれた暗殺未遂も含まれていた。日本の政治暗殺は自民党の保守右派に近いとささやかれる右翼の下請け人による民主改革派政敵の殺傷に偏っている。そして、この暗殺はその後、狙い通りの成果をあげて、昭和天皇の戦争責任論や日米安保体制による日本の対米隷属、憲法第9条の拡大解釈改憲、銀行の膨大な不良債権に絡むヤクザまみれの政官産腐敗、そして、日本の民主主義の退化などの批判がタブー視されてきている。
石井議員暗殺を米国から見れば、「自殺」と警察が早々と断定した新井将敬自民党議員の怪死や、同じく大阪駅近くのホテルで「自殺」と即断された銀行の頭取の変死にもつながってくる。日本の警察や検察は、米国ではとても「自殺」と即断されないほどの怪しい状況証拠があっても、お上に都合よく処理してしまう。米国のメディアは、諜報機関の資料を使って「悪い奴ほどよく眠る」日本の暗部にメスを入れている。政官産の汚職の核心に迫る者が出てくると、暗殺されたり、「謎の自殺」に仕立てられたりする。従って、米国各界の日本通にとっては、石井暗殺で、「議員の暗殺で政治活動を止めるとは全身に怒りをおぼえる」との小泉首相談は、「白々しい」としか受け取られない。首相が本当に怒りを感じているのなら、遅まきながらも民主党と協力して議員や官僚の「ザル法でないあっせん収賄罪」を確立するのと同時に、自民党員や官僚、特に司法官僚と組織暴力団や国粋右翼グループとの近すぎる関係を清算すべきである。
石井暗殺は、日本が非民主的な法痴国の証とされている。主権在民の民主国では国民の基本的人権と裁判官の独立性(良心と憲法にのみ忠実に審理して、時の政官産の権力との癒着を避ける)を保障した憲法が主人公である。しかし、日本では、この憲法を無視する最高裁判事以下の司法腐敗によって、与党政治家と官僚が主人公なのである。石井暗殺も「狂った個人の蛮行」として、早々と処理される。
「石井暗殺は戦後から今日までの国粋右翼による民主リベラルの政治家の暗殺の系譜」とありますが、“邪魔者”を右翼に暗殺させる手法は、頭山満の玄洋社からみられる戦前からの系譜です。
石井氏の著作とベンジャミン・フルフォード氏の一連の著作を合わせて読めば、日本が、私腹を肥やすために政・官・業それにヤクザも加わった「鉄の四角形」が国民から収奪を続け、そのため出来た国の借金を国民に転化し、ツケを押しつけようとしている腐りきった国家であることがよくわかるでしょう。
ヘンな言い方ですが、正義感に駆られ数々の腐敗を告発し続けた石井氏は、悪の蔓延るこの世の中で、暗殺されるに相応しい活躍をしていました。
その石井氏は、超党派の「オウム問題を考える議員の会」の代表世話人を務めていて、『オウム事件は終わらない』という本の共著者にもなっていました。
石井:「僕の地元の成城で、最近統一教会が建物を借りて改装工事を始めたのです。それで地域住民はこぞってピケをはり、統一教会が建物の中に入れないようにしていますが、こんなことにしても、始まってから何ヶ月経っても政治家はさっぱり表に出てこないんですね。いろいろアプローチしていくと、どうも統一教会の息のかかった政治家というのが随分といるようだと、地元の人も言っていました。
未来に向けて社会をどのように改革していくか、ということを政治家が真剣に考えないものだから、その間に経済活動や政治活動を通じて宗教団体にどんどん侵食されているという面がありますね。」
岡崎:「そう、だから、もしかしてもっと早期にメスをいれていたら、オウムまで進展しなかったかもしれません。」
錦織:「(略)ともかく私には、オウムは統一教会をラジカルにしたものだという感じがするのです。オウムの原型というのは、つまりオウムの初期の活動形態は、統一教会がやってきたことときわめて類似しているのです。(略)」
石井:「ロシアにオウムが進出していきましたね。ロシアには五万人もオウムの信者がいたそうですが、オウムが行く前に統一教会が、ロシアに進出していました。ところが、そういう連中が、どうも何時の間にかオウム信者とすりかわってしまった。
捜査についてですが、日本ではオウムの全容が明らかにされません。オウム事件というのは、いったいどういうことだったのか。僕は、岡崎さんがおっしゃったように、オウム真理教は、宗教法人制度をうまく利用してアンダーグラウンドで儲けようという要素を非常に強く持っていたのだと思います。それが暴力団と結びつき、国際的に密貿易をしたり、薬物を流したりしたのはいったい何のためだったのか。」
なんと!ここに統一教会の名が挙がってきました。
「オウムが行く前に統一教会が、ロシアに進出していました。ところが、そういう連中が、どうも何時の間にかオウム信者とすりかわってしまった。」
これは、オウムが統一教会を取り込んだというより、両者の力関係から言って、統一教会が何かの理由で看板を架け替えたのでしょう。
『安倍晋三と日本の闇』でも触れましたが、統一教会はCIAの下請け組織KCIAのフロント機関であり、北朝鮮・金政権の最大の支援者です。そして、ブッシュ政権の支持母体であるキリスト教福音派の一員にもなっています。
また、CIAは要職をスカル&ボーンズ人脈(父ブッシュは元CIA長官)が占め、ウォール街と“回転ドア”*1で結ばれていると言われています。そして「麻薬と武器の密輸を資金源としている」という、暴力団や北朝鮮、統一教会との共通点を持っています。
石井氏はソ連留学(モスクワ大学大学院)経験者であり、奥様もロシア人。
彼はオウム事件の渦中、モスクワの人脈から情報を集めて、テレビの取材で「日本の政治家とも深くかかわっていますね」と話していたといいます。
ここに、おぼろげながら右翼と暴力団、在日朝鮮系団体、北朝鮮、統一教会、政治家、そしてCIAとユダヤとの関係がつながってきました。
【参考】
(つづく)
2006-10-15 オウム事件の背後に潜むもの
■日本の闇を探る③ 
村井秀夫はなぜ殺されたのか?
村井秀夫刺殺事件の詳細を1999年に『週刊現代』に連載された高沢皓司氏の「オウムと北朝鮮の闇⑨」から抜粋・引用します。
犯人の徐裕行は、逮捕後、「上祐、青山、村井の3幹部のうち、誰でもよかった」と供述していた。だが、これは明らかな嘘だった。
<略>
事件が起こったのは1995年4月23日、地下鉄サリン事件から、ほぼ1ヵ月後。東京・南青山にあった「オウム真理教総本部」前、多くの報道陣、関係者、さらに衆人環視の真っただ中で引き起こされた事件だった。
東京・南青山にあった「オウム真理教総本部」前、多くの報道陣、関係者、さらに衆人環視の真っただ中で引き起こされた事件だった。
事件前日の4月22日朝、徐裕行は足立区の自宅を出てタクシーを拾うと、まもなく運転手に、「ここらへんで包丁が買えるところはないか」と聞いている。近くの金物屋で刃渡り20cmの包丁を買った。値段は5000円だった。
その足で南青山の教団総本部前を下見。渋谷に出て喫茶店に入り、アイスミルクを注文。しばらくして店を出るが、すぐに同じ店に入り、夜まで時間を潰す。その夜は渋谷・道玄坂のラブホテルにホテトル嬢と泊まった。
翌日午前11時、そのラブホテルをチェック・アウト、南青山のオウム真理教総本部前に到着したのは、それから約20分後のことである。近くのコンビニでパンを買い、ふたたび総本部前に。それから約9時間、徐は本部前でじっとひとりの男がそこから出てくるのを待ちつづけた。この間、徐がその場を離れたのは、夕方になって近くのラーメン屋に入ったときだけである。辛抱強く、この暗殺者はただひたすら「男」の出てくるのを待っていた。つまり、科学技術省トップ・村井秀夫が彼の前に姿を見せるのを、である。
彼がたったひとりの男、村井を待ち続けている間に、午前11時26分、上祐史浩緊急対策本部長が外出先から教団本部に戻ってきた。徐の前を通り過ぎるが、彼は手を出さない。徐が本部前に到着して数分後のことである。
午後2時38分、これも教団の幹部だった青山吉伸弁護士が外出先から総本部へ戻ってくるが、徐は動こうとしない。その10分後、ふたたび上祐が外出のために姿を現す。しかし、徐は今度も動こうとしない。
そして夜8時36分、村井秀夫が教団総本部かち姿を現した。この日、村井は普段つかっていた通用口が閉まっているのを知って、本部の正面玄関に姿を見せたのである。徐裕行の身体がゆっくりと動いた。手にしていたアタッシェケースから包丁を取り出すと、ゆっくりと向きを変えた。テレビクルーのまばゆいライトの中へ暗殺者は平然と入っていった。村井の腹部に、買ったばかりで値札がついたままの包丁が突き刺さっていったのは、その数秒後のことである。
<略>
「自分ひとりで考えてやった。テレビでオウムの報道を、見て義憤にかられた。このままオウムを放置しておくと危険だと思い、誰でもいいから幹部を痛めつけようと思った」
と言っている。しかし、この供述を信用した人間は、捜査関係者のなかにも誰一人としていないだろう。誰でもよかったというのは、明らかに事実と違う。
犯行後しばらくして、徐は所属団体について供述を変える。
「所属団体は伊勢市の神洲士衛館」
右翼団体である。しかし、この政治結社はなんの活動もしていなかった。前年、'94年の10月に三重県選挙管理委員会を通じて自治省に政治団体の設立届が出されてはいたが、街宣車もなく、事件の5日後には解散届が出されていた。
さらに供述は、
「山口組系暴力団・羽根組(三重県伊勢市)幹部の上峯憲司から指示されたものである」
という内容に変えられた。警視庁は事件から20日ほどたった5月11日、羽根組幹部上峯憲司の逮捕に踏み切る。
裁判所は次のような判断を明らかにした。
「徐の供述には主要な点で不自然、不合理なところがある。……被告(上峯)が徐に殺害を指示したのであれば、それは絶対に組との関係が明るみに出ないように配慮すべき極秘指令であるはずである。刑事責任を免れようともくろんでいた被告が、わざわざこのような指示をする合理的な理由は見出しがたい。……(犯行を指示されたとする)日付に関する(徐の)供述変遷も非常に不自然で、被告からの話が徐にとってはさして重要なことではなかったのでは、との疑いをぬぐえない。……徐の供述には重要な疑問点があり、ほかに被告の犯行への関与を推認させる有力な証拠もない……」
ここで裁判所が示した徐の供述にたいする疑問は、この事件の経過を検証したときに、まったく正当なものである。上峯は、この村井秀夫刺殺事件に、どうやらまったく関係していない。では、なぜ、徐は「指示された」という供述をし、羽根組との関係を強調したのだろうか。
<略>
実行犯・徐裕行の背後には、明らかに北朝鮮工作組織の影がある。
<略>
東京・五反田のコリアン・クラブ「M」に徐が何度か顔を出していた、という話。ここのママの姉にあたる人物が、北朝鮮の工作員・辛光洙と同居していた人物であるという事実。また、この店のママの所有していた家屋に、徐が仲間3人と同届し、住民票を移していたという事実。
<略>
徐が一緒に住んでいた友人Mの父親が、朝鮮総連の幹部だったという事実に突き当たった。さらにタクシーの運転手をしていた徐の父親もまた、朝鮮総連と関係の深い人物であったようである。
しかし、だからといって、これらの登場人物が、徐の犯行の背後に直接なんらかのかたちで関係しているということはできない。ただ、私はこうした事実の積み重ねのなかで、徐裕行の生い立ちにおける北朝鮮との深い関わりを見る。
<略>
'95年4月、事件の数日前に村井「才ウム科学技術省」長官は、テレビに出演し、次のようなことを語っている。
「使える金は1000億ある」
「地下鉄事件で使われたのはサリンではなく、別のガスだ。アメリカの研究所もそのことを証明してくれる」
この放送を聞いていたある関係者は、一瞬、身が凍ったという。村井が秘密にせねばならないことを話してしまうのではないのか、と。
村井は、周辺の人間の印象として、ひどく生真面目で、誠実な人柄だった、という証言がきわめて多い。それは村井という人間の気の弱さをも象徴しているだろう。
「村井がしゃべってしまう」
その危機感をオウム幹部の誰もがいだいた。
引き続き「オウムと北朝鮮の闇⑩」から抜粋・引用します。
なぜ村井秀夫だったのか。村井でなければならなかったのか?
<略>
刺殺事件の直前にテレビに出演した村井が、ふたつの重要な秘密について口をすべらせかけたことは前回の記事の中でも述べた。つまり1000億円という途方もない資金の所在についてと、地下鉄サリン事件で用いられた毒ガスは、じつはサリンではなかった、という驚くべき証言である。
教団武装化を推進しはじめたオウム真理教の資金源に、北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)のからむ偽ドル疑惑があることはこれまでにも指摘してきたが、第二の「サリンが、ほかの毒ガスか」という疑問については、もう少しだけ言葉を足しておかねばならないだろう。
村井は、地下鉄の毒ガス事件で使われたガスの種類について、「サリンではなく別のガスだ。アメリカの研究所でもそのことを証明してくれるはずだ」と、確信をもって話している。
<略>
翌年3月20日に引き起こされた東京での「地下鉄サリン事件」では、複数の実行犯の誰もがこのような防護策を講じていない。さらに、散布方法についても傘の先で「サリン」を入れた袋を突き破るという杜撰な方法がとられている。また地下鉄車内の床に濡れたような痕跡すら残している。地下鉄の車内およびプラットホームという閉鎖空間では、松本サリン事件の例からすると、さらに被害の規模は大きくなるはずだった。
ところが、数千人にのぼる被害者を出したとはいえ、地下鉄の事件では、その規模と程度には大きな隔たりがある。このことから分かることは、地下鉄事件で使用された毒ガスが、世間一般に伝えられているように「サリン」ではなく、まったく別種の毒ガスであった可能性が濃厚なのである。
<略>
製造元が違うということが明らかにされれば、その製造元がどこか、どこの国かが問題にされるだろう。これは、当の製造国だけにとどまらず、日本政府にとっても利害関係は奇妙に一致していた、と考えざるを得ないのである。
それが国内で製造されたものではない、とされれば、製造国、搬入ルート、入手ルート、さまざまな部分が一挙に複雑になり、国際謀略の壁にぶつかってしまうことは必至である。オウム真理教第7サティアンのサリン・プラント設備では、高純度のサリン製造が不可能とされつつも、この問題が曖昧な形で封印されているのは、どうやらそのあたりに原因がありそうである。
この記事の執筆者、高沢皓司氏は『宿命-よど号亡命者たちの秘密工作』で「講談社ノンフィクション賞」を受賞した北朝鮮情勢に詳しいジャーナリストで、読む限りかなり信憑性の高い情報です。
さらに驚くべきことは、徐は殺人犯でありながら早々に出所して、既に自由の身になっているようなのです。
これは一体どういうことなのでしょう?
そういえば、はじめに除裕行が犯人との報道がなされた時に、「右翼なのに朝鮮人?」と違和感を持ったことを思い出しました。
私が子供の頃、在日朝鮮人や混血の子に対する差別が公然とありました。人間の“裏・表”などよく分からない頃ですから、「差別はよくない」という建前と現実のギャップに戸惑ったことを覚えています。もちろん中には日本で幸せに暮らしてきた人たちもいるでしょうが、あんなひどい扱いを受けてきて、日本を愛することなどできるのだろうか?という想いが心の隅に残っていたからかもしれません。
そして、もう一つ、やはり「右翼なのに朝鮮人」の犯人に刺殺された“謎の事件”を思い出しました。
(つづく)
2006-10-14 オウム事件の背後に潜むもの
■日本の闇を探る② 
闇に葬られるオウム事件
9月16日に麻原彰晃の死刑が確定し、なんとなくオウム事件は一段落ついた感じがします。
しかし、オウム事件の真相は、まったく解明されていないままです。
オウム真理教松本智津夫被告=教祖名麻原彰晃=の死刑が確定した。地下鉄サリンなど十三事件で殺人、同未遂など六つの罪に問われ、一審で死刑を言い渡されていた。
東京高裁は今年三月、弁護団の控訴趣意書の提出遅延を理由に裁判を打ち切った。高裁の決定を最高裁第三小法廷が支持し、弁護団の特別抗告を棄却する決定を下した。結局、松本被告の実質審理は一審だけで終わった。あまりにも異様な結末と言わざるを得ない。
弁護団は「被告には訴訟能力がなく、意思疎通もできない」と公判停止を申し立てていた。しかし、最高裁は決定理由で、東京高裁の精神鑑定医と検察官が依頼した医師が松本被告の訴訟能力を認めたことを「十分信用できる」と判断した。
松本被告の裁判は約十年五カ月に及んだ。長い年月をかけながら、一審後は弁護団の裁判引き延ばしの意図が目立ち、控訴審が一度も開かれなかったのはむなしい。最高裁は「松本被告は自ら弁護人と意思疎通を図ろうとせず、それがこのような事態に至った大きな原因になった」と指摘し「責任は弁護人のみならず被告にもある」と断じた。
死刑確定は当然との思いが強いものの、二十七人もの命が奪われ、多くの重症者を出した一連の日本の犯罪史上に特筆される凶悪事件がなぜ起きたのか、真相が松本被告の口から直接語られなかったのはやりきれない。深い闇が残ったままだ。
期待されたのは、松本被告が法廷できちんと罪を認め、謝罪することだった。優秀な若者を引き込み、犯罪集団にしていった狙いがどこにあったのか、肉声による説明を聞きたかった。
語らないまま死刑になっては、いまだに松本被告を信じる信者たちのマインドコントロールを解き放つことが出来るのか心配になる。警戒すべきは、死刑が執行されると松本被告は「殉教者」とみなされかねないことである。
ここでオウム真理教に関する一連の事件の簡単なおさらいをしておきましょう。
オウム真理教の起源は、1984年に麻原彰晃が開いた“オウム神仙の会”というヨガ団体でした。
このヨガ団体結成当初からいた、上祐史浩、村井秀夫、早川紀代秀、石井久子、井上嘉浩が教団の中核になります。
1985年、雑誌『ムー』に麻原彰晃の空中浮遊が掲載され、一躍有名になります。
1987年、オウム真理教と改称。すべての財産を投げ出して出家する制度を始める。
未成年者に高額なお布施をさせて出家させることに親たちが反対運動を起こす。
1989年6月、坂本堤弁護士らが「オウム真理教被害対策弁護団」を結成。
11月4日、坂本堤弁護士一家3人殺害事件。
1993年3月、『麻原彰晃、戦慄の予言』を出版、1997年に「ハルマゲドン」が起きると予言。
1995年3月18日、麻原彰晃が村井秀夫に地下鉄サリン事件の総指揮を指示。(リムジン共謀)
3月20日、地下鉄サリン事件。
3月22日、上九一色村など全国の教団施設25ヶ所を強制捜査。この頃、出家信者1600人、在家信者1万5000人、ロシアで自称3万人。
4月23日、村井秀夫刺殺事件。
5月6日、林郁夫の自供で地下鉄サリン事件の全容解明。
※オウム真理教に関連する事件の年表はこちらをご参照ください。
※オウム事件に関する数々の疑問は下記にまとめられています。
私がもっとも気になっていたのは、『オウム真理教の怪文書①』でも触れたとおり、村井秀夫幹部が刺殺された時、「ユダにやられた」と謎の言葉を残したことです。「ユダ」という言葉は仲間の裏切り者を指す比喩だという説がありますが、サスペンスドラマじゃあるまいし、死ぬ直前にそんな謎かけのような言葉を発するものでしょうか?犯人に心当たりがあるなら、もっと直接的にその名を叫ぶはずではないでしょうか?
怪文書で、オウムがアメリカ≒ユダヤを敵視していたことを知ってからは、やはり「ユダヤにやられた」だったのではないかとの疑念が心にひっかかっていました。
そこでまず、村井秀夫刺殺事件から調べてみました。
犯人の除裕行は、1965年、群馬県高崎市生まれの在日韓国人二世。
1988年5月、イベント企画会社の設立に参加。その後、代表取締役社長に就任。
会社はバブル経済崩壊で業績が悪化、1992年秋、総額2300万円の負債を抱え倒産。
1994年に東京に戻り、山口組系暴力団・羽根組組員らと親交を結ぶ。
1995年4月、若頭から犯行を指示されると自供するが、除に指示したとされる暴力団幹部の上峯憲司は無罪となった。
徐は自称右翼だが、所属団体とされる神州士衛館は実体のない架空団体であった。
徐が犯行直前まで住んでいた家の所有者は朴春仙(パク・チュンソン)の妹。
朴春仙の妹の経営するクラブには、オウム真理教の中田清秀(元暴力団幹部)が出入りしていた。
徐は在日の北朝鮮出身者がつくるチュチェ思想研究会の一員であった。
徐の友人で、同じ家で暮らしたこともある男性の父親は、朝鮮総連の幹部。
これは驚きました。
オウムウォッチャーの方には既に常識なのかもしれませんが、徐の背後にいるのは、ユダヤではなく、北朝鮮だったようです。
(つづく)
2006-10-13 オウム事件の背後に潜むもの
■日本の闇を探る① 
これからしばらくは『日本の闇を探る』と題したシリーズを書いていきます。
これは『安倍晋三と日本の闇』の続編となりますので、まだ読まれていない方は事前にご一読ください。
さて、私がこのシリーズを書こうと思ったのは、元オウム信者、松永英明氏のブログ『オウム・アレフ(アーレフ)の物語』から当ブログの『オウム真理教の怪文書①』『オウム真理教の怪文書②』『オウム真理教の怪文書③』にリンクが貼られたことに端を発します。
私の関心は“世界を動かす仕組み”にあり、その中心にいる“国際金融資本”にありましたので、オウム真理教事件についての関心は、ごく普通の一般的な興味を越えるものではありませんでした。ですから、ここからは“にわか調べ”ですので、確信の持てない情報も多少含まれていることをあらかじめご了承ください。
では、まず『オウム・アレフ(アーレフ)の物語』から抜粋して引用します。
尾崎ビデオ
このころ、教団内で通称「尾崎ビデオ」と呼ばれるビデオが作られた。タイトルを『戦いか破滅か』という。法皇官房が企画、究聖法院が実際の制作にあたったものだったと思う(郵政省はタッチしていないはずだ)。このビデオは、1994年から1995年の教団の方向性を決めたきわめて重要なビデオである。教団の暴走を知るには、このビデオをもう少し検討すべきではないかと思う。
尾崎豊の死の原因がアメリカにある、という内容から始まるこのビデオは、別名「反Aビデオ」とも呼ばれていた。この「A」とはアメリカのこと。まもなく日米戦争が始まり、アメリカが日本を再占領、そして日本人を滅ぼそうとしている、というプロパガンダビデオである。日本はすでにアメリカのコントロール下にあり、アメリカは「影の世界政府」の支配下にある。影の世界政府は世界人口30億人の大虐殺計画を持っており、その作戦の一貫として、日本を滅ぼそうとして攻撃してくる。尾崎はその計画に都合が悪いので暗殺された。そして、その「影の世界政府」・アメリカの攻撃には対抗して戦わなければならない。アフガニスタンやヴェトナムやキューバのようにレジスタンスを繰り広げなければならない。そして、その戦いを率いる救世主は、日本に現われる……(それが誰かはいわずもがな)……という内容だ。
<中略>
影の世界政府=フリーメーソン=ユダヤの陰謀、という連鎖になるわけだが、この「反Aビデオ」・省庁制(法皇官房体制)がこの時期の教団を大きく変えたと思う。もちろん、それ以前からの流れ、プラズマ説法や毒ガス攻撃を受けているという説法の流れを引いてはいるのだが、ここで完全に教団は「アメリカに対する戦闘モード」に入っていたのである。オウム真理教は、日本を守るための最前線部隊であるというモードに入っていった。
敵はアメリカ
ここで注意してほしいことがある。それは、あくまでも敵はアメリカや影の世界政府であり、「この日本に僕たちを勝利に導く魂があらわれる」とされているのである。つまり、日本の破滅を食い止めるために、日本のために戦うのがオウム真理教だと規定されていたのだ。
敵は日本ではない。
日本でクーデターを起こそうとしていたとか、日本政府や日本人を敵視していたという感覚はまったくなかったのだ。アメリカの手先となってしまっている公安という認識はあったが、オウムは日本を守るためにある。
少なくとも教団内ではそういう認識だった。だから、事件後「日本政府に対するクーデター計画」だとか「日本人への大量虐殺計画」みたいに言われても、信者がまるでピンとこなかったのは、ここにも原因があると思う。少なくとも僕はそうだった。なんで日本を守ろうとしていた団体が日本を攻撃しなければならないのか。アメリカへの攻撃計画ならともかく、日本が敵になるとは思ってもみなかったのだ。
敵はアメリカ。影の政府に操られた軍事超大国の魔手から日本を守ろうとしているオウムを、アメリカに心を売り渡した公安や一部の権力者が潰そうとしている――その大きなストーリーが信徒・サマナには共有されていたのだ。そのストーリーを広めようとした法皇官房やトップクラスの人間たちがどう考えていたのかは知らないし、何かをカモフラージュしようとしていたのかもしれないが、教団の内外に流布されたストーリーはこういうものだった。
それを単純にだまされていたと言って被害者面するつもりはない。このストーリーに自分の使命感のようなものがかき立てられたのは事実だからだ。来るべき日米戦争で日本をアメリカの攻撃から守るには、我々が立ち上がらなければならない! そう思わせるだけの迫力を持ったビデオだった。その使命感が、教団全体の勢いを作っていたのも事実だ。
ご覧のとおり、このビデオが契機となって“教団の暴走”が始まったようですが、そうなるには伏線がありました。
再び『オウム・アレフ(アーレフ)の物語』から引用します。
毒ガス攻撃を受ける
第6サティアンにこもっているときはあまりわからなかったが、第9サティアンは外気の中で吹きさらしである。その上空を時々、米軍輸送機や県警のヘリが飛んでいくのだった。時には米海軍の戦闘機も見かけることがあった。
そして、米軍輸送機などが通っていった後、急に体調不良を訴える人たちが出るというのが恒例だった。
厳密に原因が何であったかはわからない。しかし、「米軍機→体調不良」という現象から、説法に合わせて「米軍や公安警察が教団に毒ガス攻撃を仕掛けている」ということが真実として受け入れられていったのだった。
それが、実は教団の誰かによる自作自演攻撃だったのかもしれないし、説法による刷り込みで体調不良を起こしたのかもしれないし、実際に何かほかの要因がいろいろとあったのかもしれない。いずれにせよ、事実として言えるのは、教団が外部からの攻撃を受けており、それに対して踏ん張らなければならないという意識が強まっていたことだった。それを荒唐無稽というには、実際にロシア製の毒ガス検知器を使った測定があったり、「警察のヘリから何かが撒かれている」というのをサマナが目撃したり、という状況証拠が揃いすぎていた。
こういう事態があれば信者たちがアメリカから攻撃されていると思い込むのも無理のないことでしょう。
この重要なビデオを製作したのは法皇官房のトップ、ホーリーネーム:サルヴァ・ニーヴァラナ・ヴィシュカンビン正悟師こと本名:石川公一でした。
石川公一は、灘高から東大医学部出身というエリートで、カミソリ後藤田こと後藤田正晴*1氏の後援会長の息子です。
石川は、地下鉄サリン事件の謀議をしたリムジン共謀の場にもいましたが、何故か逮捕されず、2004年7月7日に国松孝次警察庁長官銃撃事件に関連して逮捕されたときも処分保留のまま釈放されています。
再び『オウム・アレフ(アーレフ)の物語』から引用しましょう。
省庁制の誕生
<略>
この省庁制の誕生で何が変わっただろうか。一つは各部署の省庁単位での権限が強化されたことである。意外に思われるかもしれないが、今まですべて麻原裁定だったものが、各省庁のトップの判断に譲られる部分が出てきたということだ。多少の分権がおこなわれたわけである。
それと関連して、省庁間の断絶が強まった部分もある。省庁が違うとワークをともにしないし、各省庁のトップ同士で承認を受けないと部署間の連携もしづらい、という「縦割り行政化」が進んだという感じも受けた。だから、省庁が違うともう何をやっているかあまりわからないという状況だったのである。そして、他部署のことなどを気にしていると、集中力がないとか、場合によってはスパイ視されてしまうので、結局、教団の全体を把握しようという考えはなくなるのだった。
その一方で、法皇官房の絶対性が強まっていく状況もあった。イニシエーションにしろ、セミナーにしろ、その他の様々な試みにしろ、法皇官房はきわめて「改革的」であり、何でも思いついたらやるという方向性だった。それは、学生出身者を多く抱え、アイデアと行動力に秀でたヴィシュカンビン正悟師が率いることが大きく関係していたと思われる。
この省庁制以降、事件までの期間、この法皇官房が教団の流れを大きく変えていたように思うのである。
ところで、腑に落ちない点があります。
ビデオによって意気高揚したものの、信者は「敵はアメリカや影の世界政府」「オウム真理教は、日本を守るための最前線部隊」「日本の破滅を食い止めるために、日本のために戦うのがオウム真理教」と考えていたのです。
「オウムは日本を守るためにある」と考えていた彼らが、何故、地下鉄でサリンをばら撒いたのでしょう?
マスコミで言われるように、本当に日本政府の転覆を考えていたのなら、議員たちのいる国会や、実質的に日本を動かしている官僚たちのいる官庁で仕掛けるものでしょう。要職に就いている人間は、たいてい地下鉄なんかで通勤しないはずです。
それに、日本人を殲滅しようとするなら毒物を自前のヘリで空から撒くか、水道の水に混入すればいい。また、サリンじゃなくても原発に入り込み炉心を暴走させれば核兵器を使用したのとほぼ同じ効果を得ることができます。(目的は違いますが実際にオウムは多くの信者を原発に労働者として送り込んでいました。)
霞ヶ関まで行って、わざわざ一般市民を巻き込む必要性はまったくありません。
また、松本氏の記述に嘘があるようにも思えません。「日本政府に対するクーデター計画だとか日本人への大量虐殺計画みたいに言われても、まるでピンとこなかった」というのは一般信者の偽らざる心境なのでしょう。
「テロ」とは「心理的恐怖心を引き起こすことにより、政治的主張や理想を達成する目的で行われる暴力行為」を指します。
しかし、彼らには政治的主張や理想を達成するというような姿勢はみられず、単に恐怖を引き起こしただけです。
地下鉄サリン事件は、一般的にマスコミで言われていたような、単なる「狂ったカルト集団による凶行」などではないのではないか?
今さらになってやっとですが、一連のオウム事件に疑問が起こってきました。
そこで調べてみると、次から次に意外な事実が浮かびあがってきたのです。
(つづく)
2006-10-11 研究メモ
■壊される日本 
9月1日から「皇室とバチカンとフリーメーソンの関係」についてみてきました。「ちょっと」と言いながら結構な情報量になってしまいましたが…。(^^;)
とりあえず、ここまでのまとめとして適当な文章がありましたので、1993年に出版された『壊される日本』から引用してご紹介します。
ペリー艦隊来航の工作者
ペリーは1852年に4隻の軍艦を率いて江戸埠頭に現れ、開国と通商を強要した。ペリー艦隊はきわめて大規模な艦隊であり、有力な海兵を搭載していた。
当時の幕府はすでに幕末症状を呈しており、この武力威嚇に対して手の打ちようがなかった。ついに日米和親条約を締結したが、これは幕府の無知につけ込んだ不平等条約であった。そして日本は鎖国以来250年にして開国したわけである。
当時の東アジアの状況を見ると、すでにインドは植民地化が着々と進められており、清国はアヘン戦争に敗れ、広東、上海等を貿易港として解放し、そこにはイギリス人を中心とする酷い貿易商人が入り込んで、中国搾取の体系を築き上げつつあった。
ところで、ここでわれわれが深く考えなければならないことは、イギリスさらにはオランダ、フランスの勢力が、それまでの2世紀の間に東洋の植民地化を進めてきた事実である。
今日の歴史書には、単に英・蘭・仏の政府が国策として東洋の植民地化を進めたように書いてあるが、実は、彼らの植民地化の実態は、国家が動いたというよりは、むしろ各国の一部グループ(各東インド会社)による商業的冒険主義者の連合勢力による動きだった。
日本人は、日清戦争以後の大陸進出が政府主導というよりは、むしろ軍部主導でなされた経緯があるから、イギリスやオランダ、フランスの東洋への植民地獲得活動を、日本と同じように政府や軍人たちによる計画的な動きだと考えやすい。しかし実際はそうではなくて、むしろ商工業者(その中核の冒険商人)による経済的侵略行為が、のちにそれぞれの政府によって認知されて、植民地として政治的体裁を整えるようになったのである。
東インド会社の正体
ここに国家的に海外進出を行なった日本と、それに3世紀先行するヨーロッパ各国との大きな違いがある。そして、こういう動きの中心には必ず何らかの思想的、宗教的な背景があるものだ。
イギリス、オランダ、フランスの場合は、その中心を成したのはユダヤ系の商人であったと思われる。アメリカ大陸を発見したコロンブスも、その身元を探るとやはりユダヤ人であったと見られている。つまり、海外に出て行って商売をし、そこで軍事力・政治力を打ち立てて植民地化し、独占的商業圏を築き上げ、その住民を搾取するという観念は、ヨーロッパ土着の考えというよりは、むしろ古い中東の歴史から出た考えであると見るべきであろう。
イギリスの東インド会社が設立されたのは1600年で、これは秀吉が亡くなって2年後のことである。そして、オランダの東インド会社ができたのは、それから2年遅れた1602年、フランスの東インド会社は1604年である。
その後のイギリス、オランダ、フランスの植民地経営を見ると、現地の住民を教育するといった考えはなく、単に労働力として酷使したのである。また現地人の中で頭の良い者は、本国の大学に入れて植民地政府の従順な官吏として使った。
さて、英・蘭・仏の東インド会社なるものは、主としてユダヤ系の勢力によって作られたものであり、その中には太古の中東から脈々と流れる精神が深く隠されていたのである。彼らの植民地支配の内容を見ると、流血と詐取と搾取の跡が歴々としている。こういうことは本来の敬虔なキリスト教徒である本国ヨーロッパ人は避けていたことであろう。
たとえば中国に侵入したイギリスの行なったアヘン戦争と、アヘンの中国への無制限の持ち込みといったことは、尋常の精神で考えられるものではない。以後の中国は、上海を中心とするサッスーン財閥その他の、もともとアヘン貿易によって資産を成した者によって牛耳られていったのである。
フリーメーソンの暗躍
フリーメーソンの起原あるいは性格については、今日でもごく最内部にいる少数者を除いて十分に知っている者はいないと考えられるが、この東インド会社なるものの行動規範にフリーメーソンがまとわりついていることは疑う余地がない。
ところで、すでにアヘン戦争を起こして中国に入り込んでいたイギリスが、なぜ日本に真っ先に来ないで、代わって米国の東洋艦隊司令官マシュー・ペリー代将が江戸埠頭に現れたのか。これは各国フリーメーソンの共同謀議の結果と見るべきであろう。
彼らがアジア諸国を植民地化するに際して用いたのは、現地の王侯、大商人等をフリーメーソン組織に入れ、あるいは彼らを操って内部抗争を起こさせ、その混乱に乗じて全体を手に入れるという手口であった。インドなどはその典型である。
たとえば戦前の中国は、まさしくフリーメーソンによって四分五裂の状態に陥っていた。孫文も、蒋介石を取り巻く人物の多くもフリーメーソンであった。蒋介石の婦人は宗美齢だが、この宗一家はことごとくフリーメーソンであった。そして周恩来もまたフリーメーソンであったと言われている。周恩来は若いころフランスに留学している。
日本開国の遠謀
それでは彼らは日本に対して、いったいどういう手を用いたか。
幕末をフリーメーソンの光に照らしてみると、当時の事情が鮮明に浮かび上がってくる。ペリーの来航前、フリーメーソンは彼らの占領していた上海で日本征服の会議を開いたと伝えられている。その時期や場所、内容は現在のところわかっていない。おそらくその当時長崎の出島に橋頭堡を持っていたオランダのフリーメーソンが主導権をとって、日本征服の計画を練ったものと思われる。
当時の清国に対してとった武力侵攻政策を日本に適用することは否決されたと言われている。それは、日本を武力で侵攻することに成功の保証がなかったからである。
日本は侍の国であって、ペリーの来航66年も前の1786年に、林小平が『海国兵談』などで外国の攻撃の危険を説いていた。その後、多くの人が外国からの攻撃の危険を論じ、幕府はじめ各藩は海防を厳にしていた事情がある。
アヘン戦争が1840年であるから、いかに林小平が先覚の士であったかがわかる。
日本侵入に関するフリーメーソン上海会議は、アヘン戦争以後数年以内に行なわれたものであろう。日本侵入の第一着手として、アメリカの東洋艦隊による日本強制開国が決定されたものと思われる。
では、なぜイギリスではなくてアメリカだったのかという問題であるが、イギリスに対しては、アヘン戦争における清国での行状から、日本人は極端な悪感情を抱いており、またオランダは長年にわたって長崎・出島に住みつき、幕府に対しては極めて恭順の体裁をとっていたので、いずれも日本に開国を迫る当事者としては不適当であった。
そこで、フリーメーソン国家アメリカが呼び出され、その任を授けられたのがペリーであったのだろう。
極めて興味深いのは、ペリーに対するアメリカ大統領の訓令の中に、「決して武力を行使してはならない」ことが記されていたことである。つまり、日本の武士たちの対面を大砲によって破ることは、その後に計り知れない悪影響を及ぼすことを、彼らは悟っていたのである。
アメリカ海軍のペリー提督は、日本開国について十分知識を集めて研究をして来たものであり、衰弱した幕府官僚は一方的に条件を呑まされるしかなかったのである。
内乱を起こして植民地にせよ
このとき、フリーメーソンはどういうプロセスを経て日本を手に入れようとしたのか。それは当時の事情から分析することができる。つまり、彼らの常套手段―対抗勢力を操って内乱を起こさせる―を使ったのである。
幕府に入ったのがフランス・フリーメーソンで、フランスから相当規模の使節団を入れて借款を申し入れている。つまり薩長土肥の倒幕派に対して幕府が十分戦闘できるだけの軍資金と兵器・弾薬の提供を申し出たのである。
一方、薩長側にはイギリス・フリーメーソンがついており、長崎に駐在していた武器商人のトーマス・グラバーを通じて相当の便宜供与を行なった。
こうして日本を内乱状態に陥れ、そのどさくさに紛れて日本の植民地化を図ったのである。
この時、日本に2人の英雄が現れた。一人は官軍の参謀総長である西郷吉之助(隆盛)、もう一人は幕府軍の参謀総長・勝海舟であった。西郷と勝が小人物で、英仏フリーメーソンの影響を受け、金で買われていたならば、とんでもない大戦争になり、江戸は焼け野原になって、今日までも大きな禍根を残しただろう。
このような事情から、フリーメーソンはその後も日本への侵入と日本国家のコントロールをきわめて長期の計画で辛抱強く進めてきた。その後の日本の政財界の西洋一辺倒の風潮に乗って、彼らがその本心を隠して日本の著名な人士、勢力を持つ人物にそれとなく浸透していったことは間違いない。
当時の元老・西園寺公望などは、10年間もパリに滞在したのち帰国しているが、彼は公家出身者で公爵でありながら、完全に、しかし隠微にメーソン的思想のもとに行動した人物である。フリーメーソンは現在の日本の政財界にも深く浸透していると考えて間違いはないだろう。
日本を日米戦争に導く構想が指導したのは1921年のワシントン軍縮会議である。
それ以来、日英同盟の廃棄、中国における排日思想の誘発、満州における張学良を使っての日本との紛争の惹起、満州事変への誘導などの手が打たれ、さらに中国共産党と連携して支那事変を起こさせ、蒋介石を指導援助して対日抗戦を継続させた。そして最終的には、石油禁輸によって日本を絶体絶命の窮地に陥れ、ハル・ノートで戦争に追い込んだのである。この間の情勢を冷静に検討してみると、日本の政治家、軍人の非常な愚かさがあるし、また彼らの計画の水も漏らさぬ周密さが際だっている。
1921年から41年までの20年間の日米関係、日英関係を振り返ってみると、深い謀略が周到に張り巡らされていたことが明らかである。
しかも極めて残念なことに、日本国民の中にこれらの謀略の手先を務め、決定的に日本を対米戦争に追い込んだ者たちが見受けられる。もっとも忠実な日本人であるべき陸軍軍人の中枢にさえも、きわめて少数ではあるがその筋の影響を受けて日本を戦争に追い込むのに加担したものがいたのだ。
占領政策の内実
こうして日本はイギリス、アメリカ、そしてそれらの意のままに動かされた中国によって自在に操られ、ついに支那事変から日米戦争へと追い込まれる。これは米英を動かしてきた中心勢力の隠微なる働きによることは明白であるが、一方、長年にわたり国内に培われていたマルキシズム、共産思想、社会主義分子によっても大きく動かされてきたのである。
戦後の日本は6年間の占領によって根本的に変えられてしまった。米国外交政策を指導するフリーメーソンにしてみれば、天皇制を廃し、自由民主主義の美名のもとに少数の資本家を中核とし、大多数の国民を従順なる羊の群れとして搾取するという構想を考えていたことであろう。
皇室はその力を削がれ、大部分の皇族は一般人となり、華族制度は解消され、財産税の無差別な適用によって上は皇室から財閥、市井の金持ちにいたるまで、すべて一様に巨大な収奪を被ったのである。
これは、要するに伝統的支配階級を滅ぼす政策であり、日本の歴史的伝統、精神的中核を骨抜きにする作業であった。これによって今日、まったく骨のない、歴史を忘れたわけのわからぬ日本人が無数に出てきたのである。
日本の敗戦後の状況は、フリーメーソン、イルミナティが表面に現れないようにして日本を改変し、彼らの思う方向に誘導してきた結果である。これは半ば成功し、半ば失敗したと言うことができるであろう。
彼らは結局天皇制を廃止することができなかったし、天皇に対する崇敬を根絶することもできなかった。しかも、彼らが手を加えて大いにその衰滅を図った日本神道は、今日でも各地の神社が盛大である。少なくとも彼らが完全な成功を収めたとは言いがたいようだ。彼らからしてみれば、日本は頑強に彼らの誘導する方向に抵抗したということができよう。
明治から大正、大正から昭和、昭和から平成と、それぞれ大きな時代の変わり目であった。現在は平成5年であるが、この5年間に日本のフリーメーソン化は急激に進んでいる。
日本の企業は大挙アメリカに出て行った。そして日本の金融機関はたいへん巨額の金を海外とくにアメリカに持ち出した。そしていわゆるバブル経済がピークに達し、その破裂が起こったのもこの時期である。
1929年のニューヨーク株式大暴落は決して自然的経済現象ではなく、周到に根回しされ、引き起こされた人為的経済現象であるというのが、私の考えである。これと同じく、一昨年初めからの株式大暴落は、1つの劇つまり人為的なものであって、まさしく半世紀前にニューヨークの市場を操ったのと同一の手によるものであると思っている。
当時ニューヨーク市場を動かしたのは、もとより米国人であったが、それよりはさらに大きいヨーロッパの勢力、おそらくはロスチャイルドやワーバーグの関係者がいたのである。つまり、当時のアメリカ金融界はなおヨーロッパのコントロール下にあった。それと同じように、敗戦以来の日本の経済、政治、あるいは社会は、ほとんど完全にアメリカの手によって操られているといって差し支えない。
恐るべき時代の開幕
さて、現在の日本の企業・金融関係者に世界支配中枢の手が伸びていることは確実である。しかもその魔の手はすでに官僚や学者や宗教関係者にまで伸びて、深く入り込んでいる。もとよりマスコミ関係、評論家には戦前から深く食い込んでいると言ってよい。
私がもっとも危惧しているのは、次代の日本を背負うべき児童や青少年を規制する教育関係者に、すでにこの影が入り込んでいるのではないかということだ。一般に考えられているよりもはるかに広範に、彼らの力が入っていることを恐れざるを得ない。
もちろん、彼らの力はすでに政界に深く入っている。共産党、社会党はまさしくイルミナティの代弁者である。そして自民党もまた、中曽根首相以来、その中枢部はこの一派によって独占されてきたように思われる。つまり、彼らと同調する以外に主要な政治家としてのキャリアを持つことができなくなっているのではないか。
今や日本が陥りつつある状況は、決して誇張ではなく恐るべきものである。本当に恐怖すべき状況にわれわれは突入しつつあるのだ。
われわれは第二次大戦によって植民地はすべて解放されたと思い込んでいる。アメリカ大統領ルーズベルトは、世界植民地の解放を第二次大戦を戦う有力なスローガンとしていた。しかしながら、これは他のルーズベルトの言明と同じくまったくのまやかしであった。西洋はその国家社会の本質として植民地主義を血肉としてきているのであって、それを一時の戦争によって捨て去ることなどとうていあり得ないのである。
ところが、このことを日本人はまったく理解していない。外面の行動・宣伝に惑わされて、事の本質を理解していないものが多いのである。
なるほど法制的に見れば、世界の植民地はすべて解放されてしまった。本国が直接に統治する植民地は消滅した。しかしながら、植民地主義の妖怪は決して消えていない。植民そのものの様態が変わってしまっているのである。
第二次大戦に際して、なぜ西洋の首魁ルーズベルトが植民地解放を呼号したかをよく考えてみなければならない。ルーズベルトの政治は、人から吹き込まれた科白を、巧みな演技でもっともらしく並べ立てていただけなのだが、その科白の作者たちは、はるかに遠く世の中の動きを見、将来を慮っていたのである。
どういうことかというと、直接統治という方式はすでに時代遅れとなって、非常に高コストなものになるという事態が進行していたからである。この世界史の方向をいち早く見抜き、それに対する方策をルーズベルトに授け、そして当時の世界最大の力を持つアメリカ国家を使って世界をその方向に誘導した彼らの先見と力量は、敵ながら天晴れなものであると言わなければならない。つまり直接統治によって覚醒した民衆の反乱が起こり、それを鎮圧しなければならないといった事態の発生によって、とうてい従来の直接植民地統治は不可能になると早々と察したわけであろう。
さてそうすると、世界植民地主義の本源とも言うべきこの世界支配中枢が、いったい何を考えて従来の軍事的、政治的植民地経営を放棄したのだろうか。それは、世界はもう軍事力だけでは動かない歴史相に入ったことを理解し、特に核兵器ができた以上、実際にこれを使用する戦争が起こることはないという認識のもとに、その植民地体制の中心を軍事・政治から商業・金融に移したものと考えられるのである。すなわち、彼らが収奪をもくろむ国家・国民を商業・金融の世界的ネットワークの中に包含し、そこからまったく目に見えない間接的な方法をもって産業的・金融的に寄生し、自ら労せずして金銭・物質等を調達しようという考えである。
日本は世界植民地体制の覆滅を目指して第二次大戦を戦った。これはそれなりに立派なものであったが、残念ながらアメリカの武力に敗れ、よくよく見ると、今日では完全なアメリカの植民地に堕してしまった。しかもそのことに気づく日本人が誰一人としていないのである。
再び狙われるアジアの国々
周知のように、東洋は久しくイギリス、オランダ、フランスの植民地であった。第二次世界大戦の日本の奮戦によって、それぞれ独立国家となり今日に至っている。かつて日本の支配下にあった台湾および韓国、北朝鮮も独立している。そして、半植民地と言われた中国は今日堂々たる中華人民共和国として大国の位置についている。しかし、これらの国々の将来が新しい植民地主義から安泰であるかと言えば、これには大いに疑問符をつけるべき理由がある。
日本自体がすでにその実態はアメリカの植民地である。このような状況がいずれこれらの戦後独立した諸国に及ぶであろうことは明らかである。
一国ないし多国を植民地化しようとする場合、彼らの使う常套手段は、その内部に2つないし3つの勢力を分立させ、それぞれにエージェント(諜報員)を送り込み、これらを互いに抗争させて、その国家ないし社会を弱体化させ、その間隙に乗じて侵入するというものであった。この方法は、植民地方式が大変化した今日でも、まったく同じ構図のもとに応用されているものと考えてよい。複数の勢力を抗争させて相手を倒させ、自らの目的を達するという方法は、常に彼らがとってきた方法である。
東アジアを彼らの自由にするために行なったのが日中間の離隔、そして最終的には日中戦争を起こすことであった。蒋介石政権と日本政府は幾度も和平を交渉したにもかかわらず、どこからか邪魔が入って成功しなかった。当時のすべての事態を洗ってみると、ここに隠微な陰の手が回っていたことがわかる。この日中間の抗争の中でもっとも陰謀の働いたのは西安事件と、近衛首相の「蒋介石相手にせず」の声明の2つであった。それには、かたや周恩来、かたや尾崎秀実の両共産主義者による力が大きかった。共産主義なるものが世界支配構造の1つの駒であることからすれば、すべてが割れてこようというものである。
これは1930年代の事件であったが、1990年代には何が行なわれるであろうか。一般に報道はされていないが、デイビッド・ロックフェラーが幾度も中国を訪問しているし、すでに上海には戦前のアヘン戦争以来奥深く食い込んだサッスーン財閥も復活したと伝えられている。かたや日本にもデイビッド・ロックフェラーはしばしば来日しているが、最近の報道によるとフランス・ロスチャイルド家からも人が来ていると言われている。
日本人は、戦後の洗脳(もちろん世界支配勢力による)によって、戦前のことをすべて忘却させられ、それを一方的に日本の悪逆によるものと教え込まれて、逆に世界中枢に通ずる筋、その最大の傀儡アメリカ政府に対するまったく無邪気な信頼が抜きがたく育ってしまっている。戦後の愚昧狡猾なる政治家たちはアメリカに追随し、彼らの言うとおりに事をなし、さらには言われない前から彼らの意向を察して事をなすといった、哀れむべき状態に陥ってしまっている。
「金融」による新たな植民地化
西洋文明は根元的に他民族、他地域に寄生する習癖を持つものであり、大戦による日本の努力によって全世界的に解放された旧植民地体制に代わって、新植民地体制が現れてくるのは理の当然なのである。では、いったいこの新植民地体制とはどんな様態のものなのか。
それは金銭的、情報的支配である。
第三世界の資源は、今日完全に西洋新植民勢力によって押さえられている。そして世界的な西洋化、アメリカ化を見ると、文化的植民地化の歴々たるものがある。すでに日本の伝統的文化は「国際化」によって危機に瀕している。スクリーン、スポーツ、セックスのいわゆる3S政策は、今日全世界を覆ったが、これは西洋植民地化の一面に過ぎない。
今ここで私が明らかにしておきたいのは、誰も気づいていない「金融寄生」植民地化である。実は日本がその最大の被害者なのである。日本の貿易黒字は、国民の精良な日本精神から由来したものである。その貴重な日本人の生来の美質と勤勉によって得た金銭は、完全に西洋勢力によっただまし取られている。
つまり日本は、誰も気づかないうちに西洋植民地化に成り下がっていたのだ。
終わりに
ころは日本の幕末だった。今はむしろ世界終末の気配が濃い。いつの時代にも覚者は稀少である。だが幕末には数多くの志士が自らの想いに命をかけた。平成のとろけた若者はいったい何を思っているだろうか。
今われわれに必要なのは、真実を曇りなく見抜くことである。いつの時代にもそれは時の権力によって隠されるのが常であるが、現在は衆愚政治の広範化、金銭経済の肥大、情報技術の革命によって、事実の隠蔽、虚構の造作は驚くほど盛大に進行している。
今の世界権力とはいったい何なのか。いかなる目的を抱いているのか。―それを考える自由は誰にでも与えられている。だがそれに気づく者はほとんどいないのが実情である。世にこれ以上危険なことがあるものではない。
人間にはそれぞれ持って生まれた性能と背負った宿命がある。世の危険を予感し察知する能力は、少数の人たちにしか与えられてはいない。それを弁知し分析する知能を併せ持つ人に至っては、ますます少ない。さらにその危険の根因に思いをめぐらし、その正体を突きとめる人に至っては稀というべきだろう。
読者の身辺目先の話にたとえれば、先ごろのバブルの顛末を見通した人は稀だ。ところが問題はそこに留まらない。覚者の警告は大衆によって無視される。逆に世相の短気のベクトルを増幅して益もない言説を流し虚名を求める者たちは数多い。これらの者の吹く笛の音に迷わされ、どれだけの人が大金を失ったか。いつの世にも変わらない大衆の悲哀である。さらなる厄介は、稀少なる世の覚者を大衆は嫌がる。目先の欲得に水を注すからだ。
金を失うくらいならば大したことではない。個人であれ国家であれ、元通り心を入れ替えて働けば済むことだ。しかし、もしバブルがこれらから金を抜き取る計略であっただけではなく、日本の人と社会を壊滅させる計画の一環であったならば、実に恐るべきことだろう。読者の深考を促したいところである。
これからのわが国の政治、社会は腐敗の度を深めてゆき、長期暗夜の時代に入るおそれが大きい。かくて、どこにその根因があるかわからないままに、表面的な対症療法で時を過ごし、病巣はますます体内深く入り、ついに斃死するに至る。
殷鑑はアメリカにある。これは200年前につくられた人工国家である。「人工」であるからには設計図があるし、工事を指揮した者がいるはずだ。それは誰だろうか。この国と社会はこの30年間にツルベ落としに落下した。この現象も「人工」であるはずだ。200年にして壊れるように設計してあっただろうからだ。
今にして思うのだが、日本もまた130年前、幕末維新の時、不完全ではあっても同じ手によって「設計」されていたのではなかったか。それを完成するのが「平成維新」ではないのだろうか。その手に悪魔の刻印が捺されていたとしても、それに気づく人は寥々たるものだろう。
もとより建国や維新はその時代の要求に応じたものであり、それなりの必然性があった。それを否定することはできない。革命、戦争、恐慌もまた同じ。人心と体制は変化を拒む性質がある。しかし世は進む。変化は必然である。だが悪魔がその「間」に入ることにわれわれは注意しすぎることはない。
13年前に著者が危惧していた通り、日本は壊され続けています。多くの日本人が気がつかぬままのうちに…。
「今われわれに必要なのは、真実を曇りなく見抜くことである」という著者の提言は重要だと思います。
2006-10-10 研究メモ
■バチカンのユダヤ化③ 
以下は『超巨大カルト、バチカン研究:(2)第2バチカン公会議「カトリックのユダヤ化」』からの引用です。
以前のカトリックでは、その教義(一般信者向け)の最大のファクターは「原罪」でした。人間はその存在の初期から「原罪」を背負っており、この地上は罪悪に満ちて救いは天国にのみ存在するが、「原罪」を背負う人間にとっては不可能。そこで、神は自らの子を「罪のあがない」のために地上に遣わした、「キリストの十字架上のあがないを信じることによる霊魂の救済」のみが人類の目標とすべきことである、と、まあ非常に簡単に言えばこのようなものでした。
十字架による救済を信じて地上の国にではなく天の国に宝を積め。もちろんカトリックの総本山ローマがこの掟を守っていたとも思えませんが、とにかくその最大の「売り物」はこの「原罪」「十字架」「天国」の三本柱でした。これはプロテスタントにも共通の要素ですが、カトリックでは特にその形式化・儀式化が非常に進み、司祭はその神秘の世界への導き手であり一般信徒とは厳格な格差がありました。
必然的にカトリック教会にのみ救いがあり、そこに属さない者には天国への道は閉ざされました。本来キリスト教の「神の元での平等」は「平等に原罪を背負っている」という意味だったのです。その「原罪意識」と無関係な「良心」などは存在しなかったのです。したがって他の宗派や一般的な「良心」を受け入れることは考えられませんでした。
そしてその神秘的な権威を印象付けるための彫刻や絵画が最大限に利用され、いわゆる「偶像崇拝」的な要素が極端なまでに発達しました。旧来のカトリック教会で我々の眼を楽しませる事物が多いのはこのためです。
そしてこのような「カトリック精神」の対極にあったのが「ユダヤ人」だったのです。彼らは何よりも「この世の王国」を愛して天国を否定し、キリストを殺害した上に十字架による魂の救済を信じない、キリスト教徒に対して常に憎しみを持ち続け、教会の神秘性に満ちたヒエラルキーを軽蔑している、これが旧来のカトリックによる「ユダヤ人観」でしょう。
要するにユダヤ教の変形として出発したキリスト教がローマ帝国の中で出身母体との差異を明確にし、自らが「この世の王国」を追及する際にその出自をごまかすために発明したものなのでしょうが、主に布教と信者管理の道具として利用されたように思われます。キリスト教国家での宮廷ユダヤ人の歴史からも分かるように、「この世の王国」の中では決して手を切ってはいなかったのです。
その意味では上記の第2バチカン公会議の決議事項やオプス・デイの方針などは、以前の熱心なカトリック信徒にとってなら「ユダヤ化」以外の何物でもなくなります。近代以降、世界的に「原罪」による脅しが通用しなくなり「十字架の救い」から意味が失われた以上、「自由」「平等」「博愛」等の近代精神を受け入れることは必然的に従来否定してきた「ユダヤ」を受け入れること、つまり「先祖帰り」とイコールになります。
◎現在「この世の王国」で「この世の富と権力の独占」を志向する人々の中に「ユダヤ系」と称せられる者が非常に多いことは否定できないでしょう。本来的に国を持たない彼らは、逆に言えば国家や地域社会の枠に縛られること無く「世界全体」を自分の関心の対象に出来ますし、事実そうしているようです。
一神教の「普遍性」に加えてこの「世界性」に関心が強いわけですから芸術や科学にも才能を発揮しやすいでしょう。一方でユダヤ人トロツキーがユダヤ人マルクスの思想で「世界革命」を目指し、さらにユダヤ人のネオコンが自分たちの「世界革命」を推し進めようとしており、ユダヤ資本は世界中にその手を張り巡らせ、その代理人が世界の国々の政府をコントロールし、世界の資源と資金の独占を図り、世界の主要マスコミと芸能活動はユダヤ資本の手の中にあり、・・・・、等々。
そしてそのような社会での「ユダヤ化」とは文字通りの意味になってこざるをえません。それは旧来のキリスト教社会から「埒外」として排除されていたユダヤ人たちが最も求めていたことでしょうから。
2006-10-09 研究メモ
■バチカンのユダヤ化② 
“第2バチカン公会議”とは、それまで独善的・閉鎖的・排他的で伝統固執の宗教だったカトリックを「社会の進歩」に合わせて「改革」しようという会議で、1962年10月から1965年12月まで開催されました。
(この間、途中でヨハネス23世が死亡し(1963年6月)、その後を継いだパウロ6世の手によって続けられました。)
改革のポイントは三つ。
1. 信教の自由…キリスト教の絶対性の否定と各人間の「良心」に沿った新たな宗教観。
2. 他宗教との対話と協調…キリスト教諸派だけではなくユダヤ教やイスラム教などを受け入れそれらとの間に「一つの共通の舞台」を設定する。
3. 教会の社会との積極的な関わり…慈善運動だけではなく政治的・社会的な世俗の動きにローマ教会が積極的に働きかける。
以下は、オプス・デイが日本で経営する学校、精道三川台小・中学校のサイトから「第二バチカン公会議の先駆者ホセマリア・エスクリバー【オプス・デイの創始者】」という文章を引用します。
ヨハネ23世教皇とパウロ6世教皇のお望みにより、私は公会議の準備段階で聖職者委員会委員長として、公会議中は聖職者とキリストの民の規律委員会書記、さらに第二バチカン公会議中の広範にわたる諸問題のうち、すこぶる重要な教理ならびに規律に関する四つの委員会で専門家として仕事をしなければなりませんでした。公会議の種々の最終会議において、さまざまな委員会の仕事の具体的な結果を取りまとめていた時、既に聞いていた取るに足りぬようなことではあっても、非常に深い意味のある電話のエピソードを幾度も思い出しました。公会議文書が承認された時、オプス・デイ創立者と話し、おめでとうを繰り返すのが公正で当然であると思われることが幾度もありました。それというのも、1928年以来、創立者が心に持っていたこと、飽くことなく教えてきたことが、教会の教導職によって荘厳に宣言されていたからです。
【中略】
公会議の『教会憲章』は経験に裏打ちされた確かな道を歩んで宣言されたと保証できます。「どのような身分と地位にあっても、すべてのキリスト信者がキリスト教的生活の完成と完全な愛に到るよう召されていることは誰の目にも明らかである」。「したがって、すべてのキリスト信者が各自の生活の条件、職務、環境の中で(…)日々、ますます聖化されるであろう」。「すべてのキリスト信者は、聖性とそれぞれの身分における完徳を追求するように招かれ、また義務づけられている」。
他の多くの点と同じくこの点についても、エスクリバー・デ・バラゲル師の教えと公会議文書とは完全に一致しています。オプス・デイ創立者は第二バチカン公会議の偉大な先駆者の一人として公に認められて当然でしたし、教会の主だった人々もそう表明していたことですが、この点について私はその証人です。
【中略】
こういうことをお話しするのは、エスクリバー・デ・バラゲル師の多数の友人の中には、第二バチカン公会議に参加した多くの国の大司教や司教方が含まれていたからです。
【中略】
というわけで、カトリックの信徒の間に、倫理原理の面での一致と共に、専門職や社会的政治的事柄に関する個人の自由な振舞いにおいては、正当な多様性が見られるのは、不思議なことではなく、当然なことです。教会の教理は自由に意見を述べて良い事柄について教義を定めることがないからです。この点に関する公会議の指針は明白ですが、1932年頃は、市民生活においても教会関係においてもあまり明らかでなかったというより、全く理解されていませんでした。エスクリバー神父は、オプス・デイのメンバーにこう書いています。「誰の目にも明らかであり、事実、世界中で現れているように、現代猛威をふるっているこの行き過ぎを避けなければならない。すなわち、人々の正当な自由に反し、自由に意見を述べて良いはずの事柄に関して、すべての人が同じ意見を持つ唯一のグループを作るよう強制する傾向であり、現世的な事柄に関して教理上の教義(ドグマ)を造ろうという試みのことである」。
【中略】
このような文章〔創始者エスクリバーの書いた文章:引用者注〕が第二バチカン公会議文書の準備と検討を続けているところに届いた時、最初は、深い印象を引き起し、後には完全に受け入れられました。私はその証人です。師の教えが決定的な貢献をした結果、聖性への呼びかけに関して在俗教区司祭の生活と役務を階級的に考える解釈が崩れました。
【中略】
最初にお話したように、エスクリバー師は人間的な友情と司祭的な交際の面で無限の能力を持っており、これらは常に切り離すことのできない二面でした。キリスト者でない人も含めて大勢のカトリックでない人々が、個人的に指導を受けたいと望み、また様々な社会的条件や宗教に属するあらゆる年齢の男女とのカテケージスの集まりで皆の前で質問をし、助言を求めることがよくありました。
このような機会には常に、エスクリバー師は「人々の良心の自由(思想・信仰の自由)」を尊重しました。ただし、師は、『勝手気まま・なんでもしてよい自由』という認めることのできない自由と常にはっきり区別していました。とにかく良心の自由を濃やかな心で尊重する態度と、イエズス・キリストの唯一の教会への自己の忠誠とがあいまって、大勢の人々と直接的で、すこぶる効果的なエキュメニズムの仕事、人々を信仰へと導く使徒職に効果を上げていました。それも「エキュメニズム」という言葉がまだ通常の用語として教会内で使用されていなかった時の話です。
ご覧のとおり、オプス・デイの創設者ホセマリア・エスクリバーと同じ方向の「改革」を目指す「エスクリバーの多数の友人」が公会議の中にいたことが明らかにされています。
そして、第2バチカン公会議の後、キリスト教の宗派間の対話、異宗教との対話が急速に進みますが、それこそがオプス・デイが公会議のはるか以前から押し進めていたことであるとしています。
続いて、第2公会議以降のバチカンの「自由主義」に反対しているマイケル・デイヴィースの『第二バチカン公会議と信教の自由』からの引用です。
信教の自由に関する第二バチカン公会議宣言については、おそらく典礼憲章に次いで、もっとも数多くの論文が出されていることであろう。拙著『Pope John's Council』(教皇ヨハネ二十三世の公会議)で、「公会議で実権を握っていたのは司教たちと言うよりペリティといわれる専門家たちであった」とするアイルランドは、コークアンドロスの故ルーセー司教の観察がどれほど正しかったか、を証明する文書を掲載してある。R・M・ヴィルトゲン神父著『The Rhine Flows into the Tiber』(ライン川がティベル川に流れ込む)はその客観性で知られる古典的著書であるが、一人の専門家がドイツの司教団を説得できれば、全公会議に自分の考えを押しつけることができたと記している。本書では、一人の専門家が米国の司教団を説得できれば、全公会議に自分の考えを押しつけることができたことが示されている。
問題の専門家はイエズス会のジョン・コートニー・マレー神父である。彼の長上は教会と国家の関係について書くことを禁止しており、公会議の第一会期にはその正統性についてローマが疑っていたために、専門家としての招聘を受けていなかった。
マレー神父の目的は簡単で、一貫していた。彼が望んでいたのは教会と国家関係に関するカトリック教会の伝統的教義を、アメリカ合衆国憲法に基づいた新しい体系で置き換えたかったのである。しかも彼は自分自身で夢にも思わなかったほどの成功を収めた。1967年、彼は満足げに「この宣言と米国合衆国憲法に明記されている信教の自由に関する権利の目的もしくは内容は、同一である」。マレーは信教の自由に関する草案がしばしば「米国製の草案」と呼ばれたことを記している。そして草案は「米国司教団の一貫した堅固な支持があったために、またかれらが頻繁に介入してくれたこともその本質的部分と用語を決定するに当たって役に立った」。彼は本当であればこれらの介入の中でももっとも決定的な箇所、つまり、自分が書いた草案を自分で賞賛している部分に関しては、自分に責任があったと書いてもおかしくなかった。ある米国人高位聖職者の言葉を引用しよう。「声は確かに米国司教団の声ではあるが、そこにある思想はマレー神父のものだ」。
1992年7月20日発行のザ・カトリック・ヴァージニアンには、「リッチモンド・アメリカニズムと信教の自由の発祥地」という、米国カトリック史学会会長G・P・フォガティ神父の記事が掲載されている。フォガティ神父は自分がアメリカニズムにも信教の自由にも賛成である、と明白に書いている。さらに、「教皇レオ十三世の回勅『テステム・ベネヴォレンツィエ』が、信教の自由に関する米国カトリック教会の賞賛に影を落としているのが残念である」と付け加えている。引き続いて、彼はマレー神父が第二バチカン公会議中に果たした決定的役割を果たしたことを認めている。実はわたしも「決定的役割」という言葉を使っているのだが、彼の場合は同じ言葉でさらに無遠慮にマレー神父を褒めちぎっている。
特に注目していただきたいのは次の箇所です。
「本書では、一人の専門家が米国の司教団を説得できれば、全公会議に自分の考えを押しつけることができたことが示されている。
問題の専門家はイエズス会のジョン・コートニー・マレー神父である。」
「マレー神父の目的は簡単で、一貫していた。彼が望んでいたのは教会と国家関係に関するカトリック教会の伝統的教義を、アメリカ合衆国憲法に基づいた新しい体系で置き換えたかったのである。しかも彼は自分自身で夢にも思わなかったほどの成功を収めた。1967年、彼は満足げに「この宣言と米国合衆国憲法に明記されている信教の自由に関する権利の目的もしくは内容は、同一である」。
この、キーマンであるジョン・コートニー・マレー神父はイエズス会士であり、彼を公会議に呼び寄せたのは、フランシス・スペルマン枢機卿でした。
もう一人「エスクリバーの多数の友人」の中に重要人物がいます。ドイツ人のイエズス会士であるアウグスティン・ベア枢機卿です。ベア枢機卿は教皇ピオ(ピウス)12世の聴罪師を務めるなどバチカンの中で大きな実権を握っていました。
以下は、バチカンの公会議資料から「第2バチカン公会議とユダヤ人」と題される文章の一部です。
カトリック教徒とユダヤ人たちとの各地での対話が何年も続いた後で、ついにその必要性が頂点にまで達し、そしてバチカン自身の関心事へとなった。その事柄、つまり必要性が他の宗教へ水路を開いている間、教会はリフォームの最中にあった。ヨーロッパでのつい最近のホロコーストという恐怖の出来事の後、ヨハネス23世教皇聖下はアウグスティン・ベア枢機卿にユダヤ人に関する声明を作るように求めた。
この後に教会に対してユダヤ人と他の宗教への見方を変えるように求める多くの声が上がった。ベア枢機卿によると『国家社会主義時代のドイツにおける反ユダヤ主義の「巨大な暴力と犯罪的行為」のために、教会があらゆる反ユダヤ主義的態度とスローガンから切り離されることが必要となった。』(Roukanen p.38)この文書の原文は決して聖座へは送られなかった。それが余りにも強烈な言葉であり、そして余りにも多くの論争を呼び起こして会議の目的から取り去られるかもしれない、と公会議が判断したからである。同時にイスラム教の国々も同様の改革を求めて圧力をかけていた。それはユダヤ教だけというのではなくすべての非キリスト教に焦点を当てる諸文書を導いた。しかしユダヤ教は、この二つの宗教〔キリスト教とユダヤ教:訳者〕の間の結びつきのために、決定事項の中でより支配的なものとなっていった。
ローマ教会の従来からの「反ユダヤ主義」を取り去るための文案はアウグスティン・ベアによって作成されています。
そしてそれは教皇へ知らされないまま“公会議の決議”とされてしまっていたのでした。
こうしてユダヤ教は多くの宗教の中で“特別扱い”されることになりました。
さらに、カトリック内で反オプス・デイの立場を取っている司祭のトマス小野田圭志師の発言を見てみましょう。
〔小野田師が引用するピオ10世(1903年-1914年)のシオン運動に関する手紙から:引用者〕
かかる共同作業の結果として、何が生じてくるのでしょうか。それは単に言葉の上だけの幻想的な構築物に過ぎません。そしてその中には、誤って理解された「人間の尊厳」に基いた自由・正義・博愛・愛・平等および人間の発揚という言葉が混ざりながら映し出され、混沌のうちにも人の心を誘っています。これは騒乱をまき起こす種となり、意図されている目的のためには効果がありません。これはまたあまり理想郷を追い求めず人民を攪乱する者たちをして利得を得させるでしょう。
【中略】
20世紀初頭の教皇ピオ10世は「誤って理解された『人間の尊厳』に基いた自由・正義・博愛・愛・平等および人間の発揚」というフリーメーソン的発想に対して非常な警戒心を抱いていることがわかる。この手紙の他の箇所では、カトリック教徒の中にこのような事柄に引かれ積極的に協力する者が多いことを嘆いている。
なお、この引用箇所で、「シオン運動」とあるのはもちろんシオニズムのことである。シオニズムの創始者テオドル・ヘルツルはカトリック教会の支援を得るために1904年に教皇ピオ(ピウス)10世に会っている。しかし厳格な伝統主義者であった教皇はシオニズムに良い顔をしなかった。
第2バチカン公会議以降、バチカンとオプス・デイは一体となり、その思想は「誤って理解された『人間の尊厳』に基いた自由・正義・博愛・愛・平等および人間の発揚」という近代フリーメーソンの思想、そして米国憲法の思想とも一体となっていったのです。
2006-10-08 研究メモ
■バチカンのユダヤ化① 
1830年、それまでカトリックでは「金貸しは破門」とされていたのですが、ラテラノ公会議の規定が改められ、「高利貸しでない限り許される」ことになりました。
この頃からローマ・カトリック教会は、ロスチャイルド家と金融取引を始めています。
1870年、イタリアの統一によって教皇領を奪われたローマ・カトリック教会は、それまで領地からの得ていた収入を絶たれ、深刻な財政難に陥りました。
それを救ったのが1929年にムッソリーニ政権とピウス(ピオ)11世との間で結ばれたラテラノ条約です。
このラテラノ条約の取り決めにより、バチカンは「原資」を持つようになりました。
第1条:イタリアは条約調印とともに法王庁に対して7億5000万リラを支払うと共に額面10億リラの整理国債を法王庁に対して交付するものとする。
バチカンが獲得した金銭は当時のレートで8500万ドル、現時価に換算しておよそ10億ドル、1200億円にあたります。
この大金を管理するため、ピウス11世(在位1922~39)は1929年6月7日に財産管理局を設け、聖職者ではない「カトリックに改宗したユダヤ人」ベルナルディーノ・ノガーラを局長に任命し、その運用を任せるさせるようにしました。
ノガーラは、任務を引き受けるにあたり、教皇に一つのことをお願いしました。
それは、彼が“普通の銀行家”としてこの資産を運用することを許してほしいということでした。
つまり、キリストや神の教えに囚われることなく、そして良心の呵責に囚われることなく、自由に運用させてほしいということです。
教皇は、この条件を呑みました。「このユダヤ人に罪を負わせないでおこう!」
以後、ノガーラは、その「原資」をさまざまな投機に回して、バチカンの経済的基盤を支えることとなります。
ニューヨークのスペルマン枢機卿は、ノガーラを讃えて次のように話しています。
「カトリック教会に今まで起こったことのうちで、イエス・キリストに次ぐものは、ベルナルディーノ・ノガーラである。」
ヨーロッパが戦争に向かうに先立って、ノガーラは軍需産業に投資し、その多くを買い取りました。
これにより、1935年にムッソリーニがアビシニアに侵略した時、また第二次世界大戦の時、バチカンは莫大な利益を手に入れ、金融大国となっていったのです。
2006-10-07 研究メモ
■バチカンとロスチャイルド② 
引き続き、広瀬隆著『赤い盾㊦』の「バチカンのゴッドファーザー」を要約したものです。
初代ペテロからヨハネ・パウロ二世に至るまでの1900年にわたる長い歴史の中で、ローマ法王の性格が大きく変化したのは1870年のことであった。この年に意外な人物がバチカンに勢力を浸透させ、今日のどす黒い聖地を誕生させたのである。
当時、イタリアは全土に革命の気運が高まり、隣国フランスで二百家族の「フランス銀行」が札束を独占した1848年、ミラノでは民衆の暴動が勃発した。民族主義によるイタリア統一を果たそうと、民衆が決起したのである。
そちこちに入り込んだフランスやオーストリア、スペインなどの王国がイタリアを分断したが、この統一に反対したのがローマ法王とナポリ王であった。前者はバチカン、後者はロスチャイルド商会が王室の財政を支えていたナポリである。ともに民衆から搾り取るには当時の勢力分布ほど心地よいものはなかったため、イタリア統一などはもってのほかだった。
ところがイタリア革命の嵐はとどまるところを知らず、1860年にはバチカンとナポリ王国、そしてヴェネツィアを除いて、全土が統一されるという快挙を成し遂げてしまった。
愛国者ガリバルディーの率いる革命軍“赤シャツ隊”はシシリー島を占拠したあと、ナポリに進軍して、1860年9月7日にフランス王室ブルボン家のナポリ王朝を倒した。
1866年にはヴェネツィアもイタリアに統合した。民衆にとって残る敵は、バチカンの独裁者たちであった。
当時の法王ピオス(またの名をピオ)九世は、自ら“バチカンは牢獄である”と定義して引きこもり、そこには侵入を許さないという戦略に出た。これが今日のバチカン市国の原形となった。
では、1870年から翌年にかけて、バチカン内部に何が起こっていたのであろう。広大な領地を失って法王の収入がなくなったため、第一の問題は金であった。その窮地に立つローマ法王に融資を申し出た者があった。という貴重な記録がバチカンに残されている。その救済者の名はロスチャイルド。
今日、バチカン銀行の投資顧問としては、ロンドン・ロスチャイルド銀行とハンブローズ銀行とクレディ・スイスがヨーロッパと世界戦略を担当している。この三つとも“赤い盾”である。
ただし、力を失ったバチカンだけで“統一イタリア”を支配できるわけではないので、民衆の王として権力の座についたヴィットリオ・エマヌエレ二世の懐柔に乗り出すことも、パリ・ロスチャイルド家は忘れなかった。この初代イタリア国王ファミリーは、今日ではフランス王室とたびたび合体している。
ピオ九世の後継者レオ十三世は、バチカン内部に“宗教活動協会”という変わった事務所を設立した。これが一般的に「バチカン銀行」と呼ばれるものである。
歴史家の目は、ローマ法王の分析に余念がない。しかし、それではバチカンの真相に迫ることはできない。実際には、ローマ法王を取り巻く黒い法衣を着た参謀たち、ことに枢機卿と呼ばれる70人の最高権力者が、このカトリック総本山の金庫の鍵を握り、法王を動かしているのである。
彼らは世界各地に散らばり、それぞれの国家や地域で聖なる献金を受け取りながら政治と経済に絶えず目を配り、懺悔室でさまざまな階層の人間の告白に耳を傾けて世情をつかんできた。
国連の裏をはじめとして、“黒いパラシュート部隊”と呼ばれる僧侶が動き回り、実際、パラシュート訓練からボクシングまで体得したこの男たちが外交の世界で何をしてきたかは、よく知られている。
とくに注目すべきは、バチカン銀行の創設期からローマ法王庁を動かした最大の実力者、ラファエル・メリーテルヴァル枢機卿である。
この枢機卿がバチカンの存在をムッソリーニに納得させ、ついに1929年、ラテラノ条約を取り結んでバチカン市国の独立を認めさせたのである。一体この人物は何者か?
彼がロンドンのロスチャイルド家と親しくしていた事実は、歴史の断片にさまざまな形で存在する。たとえばロシアのポグロムをおさえるため、ロスチャイルドから依頼を受けたメリーテルヴァルは、ユダヤ人の救済にも乗り出していた。
メリーテルヴァル家は、イギリス貴族を先祖に持つスペイン貴族で、父がウィーン駐在のスペイン大使、兄がロンドン駐在のスペイン大使。
さらに、いとこの息子フィリップ・ズルエタがイーデン首相、マクミラン首相、ダグラス=ヒューム首相と歴代のイギリス首相に個人秘書として仕えた大英帝国の知恵袋であった。
ズルエタの妻はコニャックのヘネシー家七代目の娘マリー・ルイーズであり、ズルエタ本人はベルギー最大の企業「ソシエテ・ジェネラル・ド・ベルジック」重役、「ベルギー銀行」重役、コンゴのウラン鉱山「ユニオン・ミニエール」重役、香港の「香港上海銀行」重役、イギリスのマーチャント・バンク「ヒル・サミュエル」重役、現代アメリカでAIDSの診断薬で六割のシェアを持つ「アボット・ラボラトリー」の重役…これがイギリス首相秘書の正体であった。
ロスチャイルド家にとって、右腕と頼むフィリップ・ズルエタの国際的な投機戦略ほど頼もしいものはなかった。
パチカン市国の誕生とバチカン銀行の性格は、こうして内部からロスチャイルド財閥によってしっかり固められてきた。
第二次大戦中には、1942年に法王ピオ十二世がバチカン銀行を改革し、一層投機的な性格を持つ今日の銀行制度が誕生したが、ピオ十二世はそれまで十年以上にわたってパチカンの財産を管理してきた人物で、ロスチャイルド銀行に“小ロの口座を開いていたという。
そしてこのローマに対して、世界各地の教会が動き出したが、とりわけ大英帝国ではイギリス国教のカンタベリー大主教が、イギリス国民に聖なる教義を説きながら、パチカン銀行の創成期に大いなる貢献をすることになった。
バチカン銀行の性格を決定した最も重要な“創立時”と“改革期”にカンタベリー寺院の大主教として君臨したふたりの人物は、興味深いことに、偶然にも同じ姓を持つフレデリック・テンプルとウィリアム・テンブルであった。
ふたりは実の親子であり、モルガン・グレンフェルー族であるばかりか、先祖が“ダイヤモンドのピット”一族だったのである。
父親のテンブルを大主教のポストに推奨したのが、ボーア戦争のソールズベリー首相だったのであるから、この物語は大僧正たちの裸の姿を見せてくれる。
以上がカルヴィ事件の背景にあった黒い世界-ブラックフライヤーズである。
パチカン内部には、バチカン銀行と連動する「世襲財産管理局」の特殊部門があり、そこでは、アニェリ財閥が支配するイタリア商業銀行の副会長ペルナルディノ・ノガラがポスの座を占めてきた。
民間人であってもカトリック教徒のバンカーであれば、このようにパチカン内部のNo.1のポストを支配してしまう。
そこに必要なのは、バチカンの世襲財産を大きく太らせてくれる投資能力だからである。
そのためパチカン銀行は現在、ロンドンの財界紙“フィナンシャル・タイムズ”と連絡網を持ち、同紙オーナーの「ラザール・ブラザース」ビアソンー族から特別の情報を入手できるようになっている。
顧問のロスチャイルド銀行とハンブローズ銀行に金を託せば、パリのフリーメーソンから“キャパレー・セクシー”に資金が投下されてもそれは自然の理にかなう現象であった。
カルヴィ怪死事件ではロスチャイルド財閥と黒い関係は一切聞かれず、犯人像は、マフィアとフリーメーソンとバチカンに絞られてきた。しかしそれは下手人の話であって、黒幕の話ではない。
これまで述べなかったカルヴィ事件のリストを追加すれば-
・バチカン銀行の投資先「聖霊銀行」の最大株主はアニェリが副社長を務めるIRI。
・アンブロシアーノ銀行に最大の融資をした「バンカ・ナツィオナーレ・デル・ラヴォロ」は、ロスチャイルドが支配するイスラエル最大のレウミ銀行重役ゴールドスミスのパートナーが重役。これがイラクのフセイン大統領に莫大な不正融資をした問題の銀行。
・アンブロシアーノ銀行のカルヴィ頭取をパリバの幹部に引き合わせた男“フランチェスコ・ミケーリ”はロスチャイルドのモルガン・グレンフェル・イタリア重役。
・カルヴィの財産を管理した男“アンドレ・リツォーリ”と、アンブロシアーノ銀行が買収した「リツォーリ社」は、アニェリ財閥傘下にあるイタリア最大の新聞雑誌の出版グループ
・青酸カリで死亡したシンドーナの銀行に融資した「ローマ銀行」の最大株主はアニェリが副社長をつとめるIRI。
このリストはまだまだ延々と続くが、アニェリ財閥の金庫の一つであるイタリア商業銀行の場合は、頭取のスタマティがフリーメーソン“P2”に名を連ね、イタリアの大蔵大臣でもあった。
イタリア最後の玉手箱は、やはりアニェリ一族が何者であろう。“赤い盾”ラザール・フレールのアンドレ・マイヤーに育てられた三代目ジョヴァンニ・アニェリたちが、ただのイタリア大富豪であるはずはない。
“バチカンのゴッドファーザー”アニェリ家を系図に描けば、その力はヨーロッパ王室から来ていることがわかる。スペイン王室、フランス王室、ドイツ王室、イギリス王室につながる強大なものだ。それはどこへ行ってもロスチャイルド家の系図にぶつかる。
何よりフィアット総帥のジョヴァンニ・アニェリが、ラザール・フレールを中核とするユーラフランスの重役として、全世界のロスチャイルド企業に貢献していることが現代イタリアの特質となっている。北欧のヴァーレンベリと共に世界最大の重工業会社を動かし、ジェームズ・ゴールドスミスと手を組んで全世界に投資するアニェリ一族は“正体を現した赤い盾”である。
2006-10-06 研究メモ
■バチカンとロスチャイルド① 
以下は広瀬隆著『赤い盾㊦』の「バチカンのゴッドファーザー」を要約したものです。
1982年6月17日、イタリアで民間最大のアンブロシアーノ銀行本店の五階からグラツィエラ・コロケルが投身自殺した。
この女性は30年にわたってアンブロシアーノ銀行に勤務し、頭取の秘書をつとめてきた。
その翌日、テームズ河にかかる橋の下で、アンブロシアーノ銀行の代表取締役ロベルト・カルヴィの首吊り死体が発見された。
カルヴィは6月11日から謎の失踪を遂げていた。
ロンドン警視庁によれば、やがて、この死体はきわめて例外的なものであることがわかった。
調査が進められると共に、既に無数の犠牲者が存在していることが一般にも知られるようになった。
さらに、アンブロシアーノ銀行が世界各地の幽霊会社に不正融資をおこない、その投資ビジネスのパートナーがローマ法王のいるバチカンだったという信じ難いスキャンダルが明るみに出てきた。ローマ法王とは、世界各地を訪れて平和を訴えてきた、あのヨハネ・パウロ二世のことである。
さらにそれから四年後の1986年、今度はバチカン銀行の財政顧問であったミケーレ・シンドーナがイタリアの刑務所内で、大量の青酸カリを飲んで死んだ。シンドーナこそ、アンブロシアーノ銀行の頭取カルヴィを育てた男であった。
1979年、両人(シンドーナとカルヴィ)の黒い投資をかぎつけたイタリア当局が調査を開始した途端、その調査官ジョルジョ・アンブロゾーリが自宅前で銃弾四発を射ち込まれて殺された。シンドーナはその殺人をシカゴ・ギャングに依頼したとして牢屋に入っていた。
そして、イタリアで“国家の中の一国家”と言われるフリーメーソンの大組織プロパガンダ2(略称“P2”)の存在が問題になってきた。
シンドーナ本人がP2の中堅幹部だった。
P2の首領リチオ・ジェリについて暴露記事を書いた新聞編集人ミノ・ピコレリは、すでに1979年に、その記事を出してわずか数時間後、何者かに殺されるという事件が起こっていた。その後、捜査当局が執拗にジェリを追跡した結果、実にイタリア政界の大臣三人がP2のメンバーで、国会議員43名がこの秘密結社に参加しているという空前のスキャンダルが暴露された。
国家ぐるみの犯罪組織に、イタリア国民はなす術もなく茫然自失となった。
1989年に六度目の首相の座についたアンドレオッティ首相はP2のシンドーナの“親友”だった人物で、過去にはロッキード・スキャンダルをもみ消したほか、無数の問題が指摘されてきた。
アンドレオッティ首相が指名したグイド・カルリ大蔵大臣は、バチカン銀行の不正を黙認してきたことで知られるイタリア中央銀行の元総裁だった。
マフィアやフリーメーソンの殺し方は、誰もが知るように、社会から明らかに犯人が見えるという挑戦的な手法をとる。カルヴィ頭取の死体が発見されたブラックフライヤーズ橋は、フリーメーソンP2にとって、彼らの儀式に使われる黒い衣を意味するもので、その殺され方はすべて彼らの儀式通りだと言われてきたが、別の見方をすれば、マフィアが犯人である可能性も高く、黒い衣はバチカンの法衣を連想させずにはおかない。ほぼ完全犯罪に近い方法で殺し、これを裁くべき司法官も掌中に握った彼らの背後にいるのは誰か?
ブラックフライヤーズについて、いかなるジャーナリストも指摘していないことがある。それは世界最大の食品会社ユニリーヴァーの創業一族セインズベリー家-ロスチャイルドと結ばれたこの食品チェーンの王者がブラックフライヤーズに社員の訓練センターを設立し、ここを本拠地として活動してきた。実は、目の前に犯人がいるのである。
1896年、ミラノの守護聖人アンブローゼに因んで、カトリック教会の手で「アンブロシアーノ銀行」が設立された。
イタリアの最北部にあり、スイスに至る大都会、ミラノは実質的な首都である。
その西にフランスに至る都市トリノがあり、こちらにはフィアットの大財閥アニェリ一族が控えている。
イタリア半島を南に下りると首都ローマがある。このローマの一画にファシスト党ムッソリーニとローマ法王の取り決めによって誕生した独立国“バチカン市国”がある。
さらに南に下りるとナポリ。ここはかつてロスチャイルド五人兄弟のひとりカールが商会を開いた南イタリアの商業都市で、貿易と文化の中心地として栄えてきた港町。ムッソリーニのファシスト党がローマに進軍したのも、ナポリからの出撃だった。
南端にはシシリー(シチリア)島があり、『ゴッドファーザー』で有名なシシリアン・マフィアが支配する土地である。
そして鉄道王ジェームズ・ロスチャイルドこそ、このシシリー島の経済を握る重要人物、独立国家であるシシリーの貨幣を鋳造する影の支配者であった。
アル・カポネ、ラッキー・ルチアーノ、ガンビーノ・ファミリー、のちにイスラエル首相となるメナヒム・ぺギン、ポール・カステラーノなどを次々と誕生させたマフィアの黒幕は、ヨーロッパの貴族社会であった。この歴史の中にマフィアとフリーメーソンとファシスト、それにバチカンの僧侶たち、彼らに資金を提供する銀行家や工業家というものを結びつけて見る必要が出てくる。
カルヴィ事件の登場人物を丹念に洗っていくと、どうしてもひとつの答えしか出てこない。それはフィアットのアニェリ財閥である。
カルヴィはフリーメーソンの力を背景に政財界の人脈を緻密につくりあげていき、アンブロシアーノ銀行をイタリア第一の勢力に育て上げた。そこまで財力を持つと、社会が持っている貯蓄力がアンブロシアーノに集中してゆき、本物の力を持つようになる。
トップの座についたアンブロシアーノの財力は、実はカルヴィ頭取が世界各地にこしらえた幽霊会社を通じて闇の投機事業から得た収入が、かなりの部分を占めていた。そこで特に問題となったのが、神聖なるカトリック教徒の総本山「バチカン銀行」がこれに関与し、兵器メーカー、ポルノ出版社、避妊用ピルのメーカーといった、信徒にとって悪魔的な企業の株をバチカンが所有していたことである。
一度、信用が崩れ始めると、財力も急激に減り始め、追い詰められたカルヴィは信用を回復するため、右腕と頼むカルボーニを使って、イタリアの有力者に救済を求めた。
その有力者のひとりが、週刊誌“エスプレッソ”とイタリアで一、二を争う有力紙“レプブリカ”の社長カルロ・カラッチオロという出版業者だった。これらの版元となっているモンダドーリ・グループは、財界の巨頭オリヴェッティ社のデベネデッティによって支配されている。デベネデッティはアンブローシア銀行の副頭取に就任し、一時はカルヴィと手を組んでいた。
大手事務機器メーカーのオリヴェッティ社は、ユダヤ人カミロ・オリヴェッティによって創業され、それをトリノの裕福なユダヤ一族デベネデッティが受け継いできた。
デベネデッティはブイトーニの支配者であり、ロスチャイルドの象徴的な代理人であった。しかも、フィアットの副社長としてアニェリ財閥の№2のポストも経験していた。
カルヴィに救済を求められた出版社社長カラッチオロはフリーメーソンの大団長コロナ、そしてバチカンの高官フランコらと談合して、アンブロシアーノの支援作戦を展開した。
カラッチオロ家は、フィアットのアニェリ財閥と婚姻関係にあり、一族のフィリッポはイタリア自動車クラブの会長であった。
1899年に初代ジョヴァンニ・アニェリが創業したフィアットは、アメリカから自動車王ヘンリー・フォードの技術を導入し、フランスのラザール一族からシトロエンの株49%を買収したほか、アルファロメオとフェラーリを子会社に持つ。傘下には事務機のオリヴェッティ社、イタリア最大の国有公社IRI、大化学会社モンテジソン、穀物商人フェルッツィ、金融業のイタリア商業銀行とクレディット・イタリアーノ、メディオバンカ、軍需産業のアエリタリアとスニア、エアラインのアリタリア航空、スパゲッティのブイトーニがある。
カルヴィが、このアニェリ一族のカラッチオロに助けを求めたのは当然である。しかし、彼はバチカンという聖地を汚すスキャンダルを起こしたため、テームズ河の橋の下で責任を取らねばならなかった。
(つづく)
2006-10-05 研究メモ
■オプス・デイの正体③ 
『超巨大カルト、バチカン研究:(10)オプス・デイの正体とネオコン』より抜粋・引用します。
今まで日本ではほとんど知る人の無かったオプス・デイも「ダ・ヴィンチ・コード」のおかげでその名が多少は知られるようになった。しかしこの小説で描かれるような、裏社会で闇の権力を握る中世的な不気味さを漂わせた秘密教団のイメージでこの教団を見るならば、全くその正体を見誤ってしまうだろう。
確かにこの教団(創設1928年)の初期には、ヌメラリーと呼ばれる僧職あるいは独身を守る会員の中にはとげの付いた鎖帷子を身に付け自らの背中を鞭で打ってこの教団に忠実であろうと務め苦行する者たちもいたかもしれない。しかしその初期であっても教団の圧倒的多数を占める世俗会員たちがそのようなことをしたとは思えない。
現在オプス・デイの会員は世界に約8万4千人と言われるが、その中心になっているのは、スマートに着こなしてウオール街で仕事に励む証券マンやエコノミスト、重役室で経営戦略を練る銀行や企業の幹部、オフィスでてきぱきと依頼の処理に励む弁護士や会計士、ロビーとの折衝や外交に忙しく飛び回る政治家とそのスタッフ、その他、高級官僚、軍の幹部、マスコミの編集委員や作家・評論家、大学教授や学者といった、有能な社会エリートたちなのである。(略)
しかしこの教団には正式な会員の他に「協力者」という名目のシンパたちが数多くおり、その規模や実体は必ずしも明らかではない。それは社会の有力者層に意外なほど幅広く浸透し非常に柔軟な構造を持っているように思える。
カトリックの僧職に就いている者は2千名余りだが、現在バチカンの実務を取り仕切って「実質的な教皇」と言われる広報室長ホアキン・ナバロ・バイュス、枢機卿の中で影響力の大きさを誇るフリアン・エランスとルイス・シプリアニは自他共に認める正式な会員だ。そしてローマ教皇ベネディクト16世は先代のヨハネ・パウロ2世と同様にこの教団の重要なシンパであり、バチカン市国の国務長官アンジェロ・ソダノはオプス・デイに極めて親密で隠れ会員と目される。またカトリック・シオニストとしてイスラエルの信任が厚いクリストフ・シェンボーンもこの教団に近い。バチカンはすでに完全にオプス・デイに乗っ取られていると考えて構わない。
世俗社会でも、「EUの父」として知られるロベルト・シューマン、チリの元独裁者ピノチェット、元イタリア首相アンドレオッチ、ポーランドの労組「連帯」の委員長で後に大統領となったレフ・ワレサ、元スペイン首相アスナール、現イタリア首相ベルルスコーニなどが会員、あるいは極めて近いシンパと言われる。またEU執行部と議会のほかに、イタリア、スペイン、フランス、ベルギーなどの国会議員や政府閣僚には会員が大勢いるし、スペイン国王フアン・カルロスを含む欧州各国の王族や貴族にも会員とシンパの層が広がっている。
また以前からバチカンと表裏一体のロスチャイルド系資本とのつながりは当然で、閣僚に会員を登用した英国首相トニー・ブレアはカトリック教徒である妻に引きずられてオプス・デイに接近していると言われ、英国聖教会との馴れ合い的な関係も疑われる。レーガンとブッシュ父子といった米国大統領はこの教団には頭が上がらず、歴代のCIAやFBIの幹部にもオプス・デイ関係者は多いと噂されている。
「伏魔殿バチカンに巣食う薄気味の悪い秘密教団」のイメージでこのカルト組織を見ているととんでもない思い違いをしてしまうのだ。彼らは現実に世界を動かす巨大は実力をすでに身に付けているのである。
神学的な屁理屈はともかくとして、実際のオプス・デイからうかがわれることは、この教団こそまさに『キリスト教的な粉飾を施したある種の世俗的なメシアニズム』の典型と言える点であろう。(略)
一応『キリスト教的な粉飾』をほどこしているので、例えば「原罪」などの概念は持っているが、その位置づけは従来のカトリックと比較すると見えないくらいに水で薄められている。
ここでオプス・デイ自身のサイトからThe most important ”business”: the children(最も重要な「ビジネス」:それは子供作り)と題される文章を見てみよう。
【前略、翻訳・引用開始】
キリスト教の地でさえ、人々はしばしば仕事を神から与えられた罰であるとみなしている。最初の親〔アダムとイブのこと:訳注〕が原罪を犯した後でエデンの園から追放されるときにヤーウェが言った言葉は十分に馴染み深いものである。「お前たちは額に汗してパンを食べなければならない。」しかし多くの人々は次の神聖な命令を忘れる。「増殖しそして何重にも増やし、この地を満たして支配せよ。」主が男と女を自分に似た姿で作ったときのことである。
【後略、翻訳・引用終り】
最初の「キリスト教の地でさえ〔原文:Even in Christian lands〕」は奇妙だ。旧来のカトリックは、アダムとイブが犯した罪の結果として人間は苦労して働き子供を産まねばならなくなった、という聖書の解釈をしているのだから、「キリスト教の地だから」ならば話はわかるのだが。オプス・デイはキリスト教とユダヤ教をゴチャゴチャにしているのだろうか。(ホンネがポロリとこぼれたのかもしれない。)
また「増殖しそして何重にも増やし、この地を満たして支配せよ。〔原文:Increase and multiply, fill the earth and subdue it,〕」は日本語の旧約聖書では「産めよ増やせよ、地に満ちよ」となっていることが多い。この文章の聖書から引用ではそれに「支配せよ」がくっついている。まあこれが一神教の本質的な思想なのだろう。そしてこの論文では原罪の意味よりも増殖して地球を支配することが強調されている。これが人間にとって最も重要な「ビジネス」である、という主張なのだ。この点は面白いことに文鮮明の統一教会と全く軌を一にしている。
しかし何といってもオプス・デイの聖書解釈の特徴は「仕事」に関するものであろう。旧来のカトリック教会は旧約聖書創世記2:15を「主なる天主は、人間をとらえてエデンの園に置き、そこを耕させ、守らせた。」と解釈してきた。オプス・デイの創始者ホセ・マリア・エスクリバー・デ・バラゲー(以下、エスクリバーを記述する)はこの箇所を「人間は働くために創造された」という意味であると説明する。その上で旧来のカトリックが「人は苦悩のために、鳥は飛ぶために生まれた」を訳したヨブ記5:7を、エスクリバーは「人は働くために、鳥は飛ぶために生まれた」と解釈しなおした。
私はこれに関する神学論争に加わる気は無いが、原罪の結果として人間は苦しんで労働しなければならない運命を背負っている、と解説してきたカトリックの発想は大きく変えられ、オプス・デイにおいては「労働は聖性追求の特別の手段であり、われわれの内的生活―――社会の中における観想生活―――は、われわれ各人の外的な労働の生活のなかに、その源泉と推進力がある」というように、人間の労働は原罪による罰ではなく「聖性追求の特別の手段」とまで言われる。
もちろん歴史的にカトリックの中にはドミニコ会のように労働を聖性追求の手段としたグループもあった。しかし「特別の手段」つまり「最も優れた手段」とまで解釈した例はなかった。またカトリックのこのような労働観がカトリック諸国で資本主義の進展を遅らせた原因となったのかもしれない。
<略>
スペインの反オプス・デイ団体のサイトからOpus Dei Libros:La red del Opus Dei en America Latina(ラテン・アメリカにおけるオプス・デイの支配網)は、ヌエボ・ヘラルド紙(2002年11月11日)の記事を引用して次のように告げる。
【前略、翻訳・引用開始】
コロンビアのオプス・デイ会員であるセサル・マウリシオ・ベラスケスは、世界中にオプス・デイが急速に広まったことに関して「実を言うとオプス・デイは今の時代にあっているのです」と説明した。「なぜかというと現代の人間は実際に大きな虚しさを感じており、[オプス・デイを通して]自分の存在感を与えられることによりそれが癒されるのです。」ボゴタにあるサバナ大学新聞学部長であるベラスケスはこう主張した。
エスクリバーの哲学によると、人間は日常生活のすべての活動に聖化の道を求めなければならない。
「ある人はウォール・ストリートでの仕事を聖なるものにすることができます」とベラスケスは付け加えた。
ラテン・アメリカの様々な国の大統領、長官、大富豪の企業経営者たちが、協力関係と連帯関係を保ち、そして自ら熱心な活動家としてオプス・デイとつながっている。
ある者たちは、自由主義者や左翼に対する挑戦的な言葉を出しては議論や事件を巻き起こす傾向を共有している。他の者たちは仕事での疲れを知らないペースとその根気よさでよく知られている。
【後略、翻訳・引用終り】
彼らはウォール・ストリートでラテン・アメリカやアフリカの経済を破壊する仕事でも、大規模国際企業の重役室で中南米の貧乏人からナケナシの富を絞り上げて大富豪をますます肥え太らす画策をしていても、テレビ局でCIAと手を組んでデタラメなプロパガンダを撒き散らしても、それを完璧に行うことによって、『自らを聖なるものとして完成させている』のだ!
オプス・デイ会員は、良心の呵責どころか、神による祝福を身いっぱいに浴びながら、ネオ・リベラル経済の世界的完成に精を出すことができる、というわけだ。この教義が南北アメリカと欧州でこの教団がエリート層の中で勢力を拡大した最大の要因の一つであることに間違いは無かろう。「自分は神聖なことを行っている」という確信は人間のエネルギーを数倍にさせるものである。
オプス・デイは「宗産複合体」と言ってもよい、各国の表裏の経済に食らい込んでいる集団だ。欧州のラテン系各国の大企業はもとより、南北アメリカでネオ・リベラル経済を最も熱心に推し進めてきた(その結果として中南米経済を次々と破綻に追いやった)勢力の重要な一端を担っている。彼らにとって最も重要な仕事は経済活動と情報活動である。これが、この教団が「聖なるマフィア」と呼ばれるゆえんなのだ。
<略>
オプス・デイの基本方針は『信仰と政治的忠誠心の結合』つまり「政教一致」「政教融合」の方針である。もっと言えば「宗教の政治化」「政治の宗教化」である。
<略>
オプス・デイは初めから「政教融合の神権政治」を目指す団体なのだ。先ほどの経済活動と併せて「政経教融合の神権政治」と言っても良い。これが彼らの正体である。1950年代の後半から70年代の前半にかけてスペインのフランコ独裁政権の下で彼らはこの神権政治を実現させた。しかしこれは『雛形』、つまり予行演習に過ぎなかったのである。
やがてこのカルト集団は徐々にバチカンを乗っ取って中南米に支配の手を伸ばし、米国に浸透して、今や英国をも手玉に取ろうとしている。カトリック教徒とユダヤ教徒が多いウクライナで親欧米政権が生まれた裏にも、おそらく彼らの暗躍があっただろう。非キリスト教国である日本にも早くから進出してきており、彼らのアジア最大の拠点であるフィリピンからアジアと太平洋にもにらみを効かす。オーストラリアは彼らの重要拠点の一つである。そして日本に亡命している子飼いのフジモリが再びペルーに戻るようなことになれば完全に地球をぐるりと囲んで縛り付けることになるだろう。
<略>
彼らの目指すもの、つまり今までの動きの延長上にあるものは、地球規模の神権国家体制を作り上げその中核を担うことである。
日本人は世界がすでにこのような『信仰と政治的忠誠心の結合』の方向へ向けて大きく動き出していることに気付こうとしない。それは決して「歴史の流れ」とか「歴史的な必然」などではなく、ある少数グループによる意図的な誘導なのだ。機を見るに敏なくせに間の抜けた日本の政治学者や歴史学者は、それを自ら見ることも他人に見せることもしない。私は一人でも多くの人にこの危険な流れに気付いてもらいたいのだ。
2006-10-04 研究メモ
■ローマ法王とオプス・デイvsイエズス会② 
引き続き『天皇のロザリオ』(鬼塚英昭著)から引用します。
十億人の信者の頂点に立つ法王は何者だったのか。クラクフの大司教だった時代、ヴォイティワはローマに滞在するたびにオプス・デイの屋敷に招かれた。オプス・デイに反対し続けたパウロ六世は、1975年以降、教会関係者から不審の目で見られるようになった。
1977年11月、ジャーナリストのテオドル・コールベルは『世紀の欺瞞』という本の中でパウロ六世の物的証拠を挙げて、ニセ法王の存在を証明した。顔写真の比較、声紋の相違点が発見されると、一年後、パウロ六世は死去した。暗殺説が流れた。反オプス・デイゆえに殺されたという説が有力である。枢機卿たちはヨハネ・パウロ一世を選出した。パウロ六世と同じように、ヨハネ・パウロ一世も反オプス・デイ派であった。新法王は就任して三日後に死んだ。ヴァチカン内のフリーメーソンの聖職者を追放しようとしたとの説もある。私はオプス・デイに生前から反対していたためだと思う。この死についてもたくさんの本が出た。中でも、D・P・ヤロップの『法王暗殺』が法王の死因に迫っている。
こうした中で、カロル・ヴォイティワが法王に選出されたのである。選出直前、ヴォイティワは、オプス・デイの創設者エスクリバの墓の前に跪き、祈りを捧げた。策謀的な祈りは成功率が高いのである。オプス・デイはヴォイティワを法王にすべく動いた。そしてヨハネ・パウロ二世の誕生となったのだ。
1981年3月2日、法王は「フリーメーソンおよび類似の秘密結社に入会した者は、教会法により破門となる」との声明を出した。この声明を出す前に法王は、エクスリバを讃える儀式に出席し、オプス・デイは秘密結社ではないと語っていた。「オプス・デイはフリーメーソン組織とは無縁である」。では、法王のフリーメーソン非難の声を聞こう。
「私の子供たちよ。私は再びサタンの秘密組織に加わらないように、あなたたちに警告します。それは本当にサタンの会堂なのです。これらの秘密組織は、兄弟、愛、博愛、人類同胞主義などのラベルを身につけています。しかし、私の子供たちよ、どんなことをいっても、あなたがたの信仰をくつがえそうとしているのです。」
オプス・デイこそは、ローマ法王が警告する秘密結社の中の秘密結社ではないのか。法王は自らの秘密が暴露されるのを恐れて、「サタンの会堂」について語らざるをえなかったのではないか。何はともあれ、法王自ら語るごとく、サタンの会堂がローマ・カトリック内にあることは間違いないことである。
エスクリバの後継者であったアルバロ・ポルティージョが1994年に死んだとき、カロル・ヴォイティワはふたたびオプス・デイの屋敷を訪れ、法王ヨハネ・パウロ二世として、亡きオプス・デイの最高聖職者の棺の前に跪き、祈りを捧げたのである。ポルティージョは枢機卿ではなかったので、この法王の行為は歴史上前例のないものであった。
日本の学者もジャーナリストもフリーメーソンについて書くこと多しだが、このオプス・デイについては全く書かず、無視し続けている。ローマ・カトリックの深部で暗躍した、かつてのイエズス会、そしてフリーメーソンは今や、ヨハネ・パウロ二世の出現によりオプス・デイの支配下にあることを知ろうとしないようである。
スペルマンが一介のボストンの司祭から、ニューヨークの大司教、そして枢機卿になれたのは、ジョセフ・ケネディの力によった。同じようにヴォイティワが法王になれたのは、オプス・デイの力によった。この二つの例に共通するのは金と権力の力なのである。すなわち、金権教の力により、ローマ・カトリックも言わずもがな、プロテスタントも大きく動かされているという厳然たる事実である。
2006-10-03 研究メモ
■ローマ法王とオプス・デイvsイエズス会① 
『天皇のロザリオ』(鬼塚英昭著)から引用します。
広瀬隆は『赤い盾』の中でヨハネ・パウロ二世について書いている。
「第264代法王ヨハネ・パウロ二世はポーランドが生んだ初の法王で、そのためポーランドの“連帯”にヴァチカン銀行を通じて莫大な支援を送り、愛読書はポーランドの作品『クオ・ヴァディス』であることはよく知られている。1981年5月に起きた法王暗殺未遂事件は、この“連帯”との関係を断たせるため、KGBが裏で糸を引き、トルコのテロリスト、アリ・アジャに銃撃させたのが真相だと言われているが、アリ・アジャの組織に係わって武器密輸の疑いで起訴されたのが、ミュージカル映画『南太平洋』の主役ロッサノ・ブラッティであった。」
1920年5月18日、ポーランドのヴァドヴィツェの軍人の家に、カロル・ヴォイティワ(後のヨハネ・パウロ二世)は生まれた。彼は九歳で母を失った。1938年クラクフのヤギェウェオ大学で文学を学んだといわれるが、はっきりしない。彼はナチ占領下で石切り場や化学工場で労働者として働いていたと自ら語るが、その他にも、ロック・クライマーや素人の役者などをしていたといわれる。彼は共産主義者であり、夢想家であり、パートタイマーの詩人でもあった。当時の彼の試作のひとつの「武装工場労働者」の書き出し、「私は世界の運命に影響を与えることはできない」。1942年、地下組織の神学校で哲学、神学を学んだといわれる。祖国に帰り、クラクフで司教活動。1958年、クラクフ司教。1967年パウロ六世により枢機卿に任命された。
ホセ・カサノヴァの『近代世界の公共宗教』に、「ヴォイティワ枢機卿はまた、ローマ・カトリック教会内におけるオプス・デイの早くからの支持者にして保護者になった」と書かれている。この本から引用する。
「ヴォイティワは知識人たちの希望であった。彼はナショナリズムのレトリックを避けたが、それでもナショナリズムの伝統に深く根を降ろしていた。彼は人権の名のもとに共産主義に反対して、広範囲の理解を得たが、それでも世俗的で民主的な国家における寛容な社会という、西洋的なモデルに顔を向けた強い留保を維持していた。(略)ポーランドにおいて、われわれは、自由の友としての彼に挨拶を送った。西ヨーロッパは彼を、教会の進歩的な働きにストップをかけようとする保守主義者とみていた。」
ヴォイティワはクラクフの枢機卿として、ポーランド・カトリシズム内における最初の信仰復興主義、福音主義的な運動である「オロシス」、もしくは「光明生活」運動を推進した。この運動とオプス・デイは深く結びついていた。ヴォイティワは近代カトリシズムの推進者ではあったが、私的道徳と公共道徳の連結の主張者でもあった。彼は共同体の倫理的な生活の原則を維持する立場をとった。
ヨハネ・パウロ二世となったヴォイティワは、普遍的な人間らしい価値に由来する諸規範に従って生きよと説いた。彼はキリストの再来であるかのように振舞い、キリスト的な表現を多用し、自らを神聖化して生きた。
ヴォイティワが法王になったことにより、カトリシズムは「連帯」(ポーランド独立自主管理組合)の台頭に大きく寄与した。グダニスク造船所(旧レーニン造船所)の労働者たちが聖餐式で跪いている映像がテレビに映し出されたとき、「ソヴィエト崩壊の兆し」が見えてきた。オプス・デイは国際金融資本家たちの依頼を受け入れ、ヴォイティワを法王にし、共産主義体制の壊滅への道を開いたのであった。金権教は、一世紀をかけて“育成”した共産主義を捨て去ることにしたのである。
ポーランドに戒厳令が敷かれ、教会が仲介者の役割を果たした。法王と、あの連帯の指導者のほとんどがユダヤ系の人々であったのは偶然ではない。百年前、ユダヤ系の人々が帝政ロシアで革命を起こしたのと同じように。
ヨハネ・パウロ二世が就任してまもなく、イエズス会の総長選に法王は介入した。これは過去の歴史には全くなかったことであった。当時の会長のペドロ・アルッペは病に倒れ、その代理にアメリカのイエズス会のフォーダム大学学長のビンセント・オキーフェの任命が有力であった。法王は、次期総長に、79歳でほとんど盲目のパオロ・デッツァを任命しろと押し付けにかかった。イエズス会は法王に請願し、やっとのことで妥協して、穏健派のオランダ人のピェト・H・コルベンバックを選出した。オプス・デイが強力組織のイエズス会を恐れたためである。
また、法王は、フリーメーソン組織を壊滅させる手段をとった。すなわち、フリーメーソン系が多い枢機卿たちとの会見を控えてしまった。聖職者は政治の圏外にいなければならないと繰り返し語り続けた。しかし、法王は枢機卿たちを二度だけ招集したことがあった。それはいずれも財政危機の討議のときであった。
では、ポーランドの枢機卿カロル・ヴォイティワが、どうして法王になったかの秘密に迫ろう。この事実を通して、私たち日本人はキリスト教の恐怖を再確認する必要がある。
(つづく)
2006-10-02 研究メモ
■オプス・デイの正体② 
引き続き『天皇のロザリオ』(鬼塚英昭著)からの引用です。
ヴァチカンの財政難に目をつけた黒い貴族とオプス・デイは、カトリック教徒のフランコ将軍を動かし、ヴァチカンに接近していった。かくて、フランコ将軍の力添えを得て、国際金融資本(特にユダヤ人)がオプス・デイのルートでローマ・カトリックと結びつくのである。
ピオ十二世は、オプス・デイを実質的なローマ・カトリックの支配者の地位に押し上げていった。一方、オプス・デイはラテンアメリカの「解放の神学」を破壊すべく数多くの工作をした。したがって、ラテン・アメリカのかなりのカトリック司祭はオプス・デイの配下にある。
ヴァチカンの財政・資金は一切、公表されていない。世界中には十億のカトリック信者がいる。プロテスタントは合計で八億人。すなわち、人類の五人に一人がカトリック信者である。
7兆リラ(1990年当時で1兆500億円)と30億ドルの金塊が、アメリカの連邦準備制度理事会(FRB)の金庫に預けられているといわれる。他にも世界中の銀行に、膨大な額の金が預けられていることは疑いがない。
しかし、一時、ヴァチカンの投資ビジネスのアンブロシアーノ銀行とヴァチカン銀行が13億ドルの損出を出して、ヴァチカンが財政難に陥ったときがあった。このとき、その財政危機を救ったのはオプス・デイであった。
アンブロシアーノ銀行は1898年、カトリック教会によって設立された。アンブロシアーノ銀行とヴァチカン銀行は闇の組織をでっちあげ、兵器メーカー、ポルノ出版社、避妊用ピルのメーカーなどの株を所有し、利益をあげていた。この事業を背後で操っていたのが、国際金融資本の首領、ユダヤのロスチャイルド財閥であった。
ローマ・カトリックとユダヤ教は、闇のトンネル組織を通じて密接に結ばれていった。オプス・デイはハリウッドの二流役者ロナルド・レーガンを育て上げ、アメリカ大統領に仕上げた。レーガンが大統領になると、オプス・デイはレーガンを動かし、1984年にヴァチカンをアメリカが正式に国家として承認させることに成功した。
1985年、レーガン大統領は45歳の実業家、スペイン系ユダヤのジョン・N・ガウディを、30人からなる国の機関の「コロンブス記念委員会」の長に任命した。この委員会のメンバーにはベーカー国務長官、モスバーカー商務長官も名を連ねた。ガウディはオプス・デイのメンバーである。彼はコロンブス帆船の複製製造、帆船ツアー、グランドコロンブス・レガッタ等々の企画をした。ユダヤ人のコロンブスの壮挙(?)を讃えるべく、国際ユダヤ資本家たちとオプス・デイが仕組んだ一大ショーであった。レーガン時代、オプス・デイの有力メンバーがホワイト・ハウスとペンタゴンで数多く重要な職についたのであった。
レーガン政権が発足すると、オプス・デイは自らの結社員を政権の中枢に送り込んだ。
CIA長官のW・ケーシー、国家安全保障問題担当補佐官のW・P・クラーク、国務長官のA・ヘイグ、彼らはみな、オプス・デイの息のかかったカトリック信者である。彼ら三人が中心となって、秘密ユダヤ組織「連帯」を支援する体制がワシントンにできた。それが、「ソ連共産主義国打倒計画」となった。この計画は、ヨハネ・パウロ二世とレーガンの1982年6月の会見で具体化された。そのお膳立てをしたのがオプス・デイであった。
どうしてソ連邦は崩壊しなければならなかったのか。国際金融資本家(特にロスチャイルドとオッペンハイマーの両財閥)にとって、金・ダイヤモンドなどの資源が凋落したソヴィエトは、彼らがどれだけ資金を導入しても、その借金を返す能力がないと判断されたからである。オプス・デイはそのソヴィエト倒産劇のストーリーテラーの役割を演じたのである。クリントン大統領の時代にも、オプス・デイのメンバーが数多くホワイト・ハウスに入った。FBI長官のルイス・フリーアはその代表的人物であった。FBIファイルはオプス・デイに流れ出たのであった。
2006-10-01 研究メモ
■オプス・デイの正体① 
続いてはカトリック最大の平信徒組織で、『ダ・ヴィンチ・コード』に登場して以来、一躍有名となったオプス・デイについてです。
オプス・デイは、もともとユダヤ人スパイ、ベラスコも設立に関わったスペインのフランコ将軍率いるファランヘ党支援のためにユダヤ国際金融資本が資金提供をし、その資金をもとに設立された秘密組織でした。
以下は『天皇のロザリオ』(鬼塚英昭著)からの引用です。
「オプス・デイ」とは、ラテン語で「神の仕事」という意味である。1928年10月、当時、全く無名であったスペインのカトリック司祭のホセマリア・エスクリバ(ユダヤ人)により、マドリードにこの秘密結社は創設された。この結社は創立当時のイエズス会によく似ている。
組織内は現在においても秘密主義そのものである。一応、表向きは、各自の職業、地位、生活条件の中で、キリスト教の徳を体現していくということを提唱し、個人主義的福音を唱えているようである。かつて、この結社の中にいた社会学者のアルベルト・モンカーダは、この結社の経験をもとに出版した本の中で次のように書いている。
「オプス・デイは一種の秘密組織です。社会的構造(規約)も秘密です。実際の会員数や、会員名の大半も秘密です。それに経済構造も秘密です。運用資金を追っていくとスイスの銀行にたどり着きますが、どのような財産運営をなされているのか誰も知りません。」
スペインに第二共和国が出来たのは、1930年から36年の間であった。カトリック教会は共和国の指導者マヌエル・アサーニャにより、「スペインはすでにカトリック教国ではない」とカディス議会で宣言された。
ユダヤ人のフランコ将軍率いる反共和国軍にカトリック陣営が加わり、内戦に勝利し、再び、カトリックは公式な国家宗教となった。国家カトリック主義という言葉が生まれた。この主義を持つカトリックのエリートたちにより、「オプス・デイ」という平信徒組織が生まれてきた。ヒトラー、ムッソリーニが死に、ファシズムはヨーロッパから消えたように見えたが、スペインのみはフランコ体制として残った。そのフランコ体制を政治的、経済的に支えたのが、オプス・デイであった。
1939年、内戦勝利後、オプス・デイの創設者エスクリバは小冊子『カミーノ』を著し、布教と組織の拡張的福音を唱えた。1945年ごろには、マドリード、バレンシス、バルセロナなどの大都市で、徐々に共鳴者が増えていった。エスクリバは組織拡張の目的として、結社加入者を知識人、官僚、中上流階級の上層部エリートに的を絞った。かくて、精神生活のみならず、社会的、政治的影響力を強めた。
オプス・ディは古来のイエズス会に似ているが、カトリシズム内における闘争型の近代的プロテスタント倫理の最初の表れであった。1950年ごろ、フランコ政権の中枢に入ったオプス・ディの「テクノクラート」たちは、国家行政の合理化をなし、世界資本主義システムにスペインを組み入れることに成功した。彼らは「スペインの奇跡」の演出者といわれ、フランコ将軍の非民主的な独裁体制から国民の眼をそらすことができた。
かくてスペインを実質的に支配したオプス・デイは、国際金融資本家たちの強力なバックアップを得て、ローマ・カトリックを支配すべく動き出したのである。
(つづく)