【太田龍・氏の履歴】 |
更新日/2021(平成31.5.1栄和改元/栄和3)年.8.10日
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、太田龍・氏の履歴を確認しておくことにする。「(ウィキペディア)太田竜」、「太田龍」、「太田龍とは」、「私的戦後左翼史」(話の特集、1985.6月)その他を参照する。 2006.1.14日 れんだいこ拝 |
【太田龍・氏の履歴その1】 |
太田龍(1930.8.16日~2009年)は、 当時、日本領であった樺太豊原町出身。東京理科大学中退。トロツキズム系の日本革命的共産主義者同盟(第4インターナショナル日本支部)創設者の一人であり、その後アイヌ解放運動に転じ、更にシオニストユダヤの歴史的陰謀論批判者に転向した。本名は栗原
登一(くりはら といち)。太田龍の名で「週刊日本新聞」編集主幹となり言論界に一家言持ち続けた。 週刊日本新聞編輯主幹。ベジタリアンにして自称「天寿学会」、「文明批判学会」、「歴史修正研究所」、「宇宙戦略研究所」を主宰、地球維新連盟会長、日本動物保護連盟会長、地球みどりの連合会長、仏教経済学会理事、日本動物保護連盟会長、「動物実験を批判する医師と科学者の会」事務局長、日本動物実験廃止協会理事となる。著書として「家畜制度全廃論序説(絶版)」その他多数。講演、執筆活動に追われる。 |
1930(昭和5).8.16日、樺太豊原町で、医師栗原達三郎とトミ(旧姓小林)の8人兄弟の末っ子の4男として誕生する(出産後、間もなく死亡した2人を含めると第10子にあたる)。本名、栗原登一(くりはら
といち)。父方は千葉県印旛郡物井村(現在の四街道市)に代々続いた漢方医の家系。 1942年、豊原第一尋常小学校入学。この頃、次兄の東洋がマルクス主義者として逮捕され、北海道帝国大学予科を退学になる。小学校6年生の時に映画「阿片戦争」を見てイギリスの侵略に怒りを覚え米英帝国主義打倒を決意する。 1944.3月、父母の郷里である家族ともども千葉県に引き揚げる。 |
【太田龍・氏の履歴その2】 |
14歳の時、次兄である東洋の影響でマルクスを読み始め、旧制千葉中学校(千葉県立千葉高等学校)2年生の頃既に、次兄の蔵書に読み耽った影響で熱心な共産主義者となっていた。戦争末期には級友たちに日本の敗戦を予告したために売国奴と見なされ、運動部の部室で上級生によるリンチを受けたこともあると云う(太田竜「私的戦後左翼史」)
1945(昭和20).8.15日、「私はその日から全速力で疾走しはじめた」(「私的戦後左翼史」)。 1945(昭和20).10月、青年共産同盟(のちの民主青年同盟)に加盟。 1947(昭和22)年、日本共産党に入党、活発な左翼活動を開始する。 1950(昭和25)年、目を患い、漢方医の荒木正胤氏に診てもらったことから東洋医学に関心を持ち始める。 ***年、東京理科大学中退。 |
【太田龍・氏の履歴その3】 | |
兄・東洋が共産党から除名される。太田の「疾走」には影響を与えなかった。しかし、マルクス原理主義者である太田にとって、台頭するスターリニズムは受け入れられるものではなかった。次のように述べている。
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1952(昭和27).22歳の時、4月、「ソ連スターリニスト共産党官僚権力は人類と労働者人民の敵と化した」との結論に達し、第四インターナショナル日本支部のための活動を始める。次のように語っている。
1953(昭和28)年、日共離党。第四インターナショナル日本支部結成に向けて精力的に活動し始める。 1965年、太田が組織決定を経ずして立川米軍基地内デモ隊突入を指導し、米兵にデモ隊を射殺させることで大衆の憤激を喚起し反米軍基地闘争を全国化させることを目的とした「5.18闘争」が不発に終わる。 |
【太田龍・氏の履歴その4】 | |||
1967年、37歳の時、第四インター離党、同時に第四インターBL(ボルシェビキ・レーニン)派、その大衆組織である武装蜂起準備委員会-プロレタリア軍団を結成する。「世界革命」(1967年)。
太田はマルクス主義からの脱却を図ろうとしており次のように述べている。
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この時期、「マルクス共産主義は資本主義と同根同罪の西洋近代主義の一味」との結論に達し、マルクス主義そのものとの決別を開始する。 1970年頃、太田龍は、マルクス主義、それに列なる左翼に決別し、自ら結成した「武装蜂起準備委員会プロレタリア軍団」を脱党し、同党から死刑宣告される。この頃、チェ・ゲバラの生き方に心酔し、竹中労、平岡正明らと3バカゲバリスタと呼ばれる仲になり「世界革命浪人」と自称する。 1971年、41歳の時、次のように述べている。
この頃、引き揚げを目指す在韓日本人妻らのために活動をはじめる。同時に政治運動家であり映画評論家の松田政男の紹介でドキュメンタリー記録映画『アイヌの結婚式』の試写会に招かれ、そこでアイヌ問題に取り組むことを決意する。「辺境最深部に向かって退却せよ」(1971年)、「よみかきのしかた」(1971年)。 1972年、アイヌ革命論者となり、アイヌ解放闘争へと向かう。「辺境最深部に向かって退却せよ」を提唱する。北海道庁爆破事件、白老町長および北海道知事に「死刑執行」宣告事件が発生する。但し、「転向後」、白老町長襲撃実行犯に対して、自分は関係ないことを表明している。 |
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1977年、現代革命論研究会を組織し、新たな理論形成に向かう。この頃、太田龍は、エコロジー(生態学)、宗教、カタカムナ相似象学に並々ならぬ関心を寄せ始めている。「新左翼世界で既に毀誉褒貶の烈しい人物」の評があるところへの又亦の転換である。「節度なくコロコロ変わる太田さんのことだから---」の陰の声も出ている。しかし、ここが太田龍の魅力でもあろう。太田龍をもってしか、この転換は誰一人できていない事を思えば。 | |||
1978年、「宗教と革命」(1978年)。 | |||
1979年、桜沢如一の著作に接してマクロビオティック運動に参加。安藤昌益、桜沢如一、藤井平司らの江戸から昭和にかけての思想家、食文化研究家たちを「食革命家」と名づけ、食品汚染問題や食料危機問題に対する一つの回答としてエコロジー運動、マクロビオティック運動を推進した。 | |||
1980年前後、エコロジー運動、さらに食の革命(食べ物学)、自然食運動による家畜制度全廃運動を土台とする日本原住民史、世界原住民史、天寿学体系構築に着手する。日本で初めて動物実験全面廃止運動を開始する。土着革命論へと転換する。1980年代後半、環境問題を主眼にした日本みどりの党を結成する。 | |||
1980年、「革命思想の扉を開く」(1980年)、太田龍と柴谷篤弘対談「自然観の革命」(1980年)、「いのちの革命」(1980年)。「革命思想の扉を開く」の序文では、「記念すべき1979年、人類の本源的な至福の原始共産制文明の根拠として、カタカムナ---相似象学に注目するに至ったのである」と記し、相似象学会との接触を明記している。 | |||
1980.2.24日、「自然食生活協同組合」設立総会を開き、活動を開始する。設立趣意書によると、「日本原住民及び世界のすべての原住民の生活と文化に学び、自然食、自然農法、自然医学の実践を通じて、天然自然の生活の甦りと創造に努める」云々。 | |||
1981年、「何から始めるべきか」(「同時代思想」、JCA出版、1981年)。太田龍は、同書の中で、「人類的倫理学の革命、飲み食いの仕方の革命、よみかきのしかたの革命、性の革命、自然観の革命」という五つの革命を提起している。「よみかきのしかたの革命」とは「近代合理主義に毒された認識方法を改め、カタカムナ的な認識をせよ」と要点整理したうえで、次のように述べている。
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1982年、「性の革命」(1982年)、「日本原住民史序説」(1982年)、「日本原住民と天皇制」(1982年)。 1984年、家畜や害虫、微生物の解放と人類との共存を説く。『日本の食革命家たち』(1984)。 1985年、11月、「家畜制度全廃論序説」(新泉社)刊行する。 1986年、第14回参議院選挙で、日本みどりの連合公認で比例区から出馬するが落選。東京都知事選挙などに打って出るがいずれも落選。その後、党内で路線対立が生じた為、新たに日本みどりの連合を結成させ、党が二つの政治団体に分裂した。後に「みどりといのちのネットワーク」として再統合する。6月、「日本エコロジスト宣言」(新泉社 )刊行する。『マルクスを超えて』(1986)。 1987年、「たべもの学入門」(1987年)。 1989年、「エコロジー教育学」(1989年)。 |
【太田龍・氏の履歴その5】 | |||||||
1990年前後、天寿学文明建設の一環として、ユダヤ・フリーメーソンを中心とした闇の巨大勢力による、全人類の世界牧場計画を始めとする新世界秩序(ニューワールド・オーダー)構想の危険性を看破して警鐘乱打を開始する。 1990年、第39回総選挙には地球維新党を率いて東京1区から立候補するも落選。 1991年、6月、初期のユダヤ陰謀論本「UFO原理と宇宙文明」(日経企画出版局)を刊行する。次のように述べている。
本書は次のように紹介されている。
1993年、第40回総選挙で、雑民党(代表・東郷健)公認で本名の栗原登一の名で東京5区から立候補するも落選。以降は選挙に出なくなる。『ユダヤ7大財閥の世界戦略』(1993)。、『ユダヤ=バチカンの世界支配戦略』(1993)。 1994年、『ユダヤの日本侵略450年の秘密』(1994)、『ユダヤの日本占領計画』(1994)、『天寿学体系』(1994)、『ユダヤ問題入門』(1994)。 1995年、『沈黙の兵器』(1995)。自伝『私的戦後左翼史』(1995)。 1996年、11月、「日本型文明の根本原理」(泰流社)を刊行する。反グローバリズム(世界主義)、反米(とそれを操るユダヤ悪魔主義世界権力)、古き日本文明回帰を謳っている。本書は次のように紹介されている。
1998年、『悪魔が支配する悲劇の超大国アメリカ』(1998)。 2001(平成3).2月、大東亜戦争時の国際政経学会による対ユダヤ・フリーメーソン研究の事蹟を知り、新たな思想分野に分け入る。「シオン長老の議定書」とその前後関係の本格的研究に入る。こうして、歴史学の立場からのユダヤ主義批判論者になる。反ユダヤ主義者に転向した後は太田龍の表記を用いる。 2002年、『天皇破壊史』(2002)。 2003年、7月、「縄文日本文明一万五千年史序論」(成甲書房)。本書は次のように紹介されている。
2005年、『長州の天皇征伐』(2005)。 2007年、9.15日、「地球の支配者は爬虫類人的異星人である」(成甲書房)を刊行する。本書は次のように紹介されている。
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【太田龍死因考】 | |
2009(平成21)・5・19日、都内の病院にて逝去する(享年78歳)。 | |
「★阿修羅♪ > Ψ空耳の丘Ψ62」のあのに 氏の2019 年 1 月 29日付投稿「人口削減のあたらしいフェーズ 109:変化の時 4 CIA工作員の破壊工作、暗躍」。
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【太田龍・氏の歴史観の変化】 | |||||||||||||||
太田龍・氏の歴史観の変化につき「縄文日本文明1万5千年史序論」の232Pに次のように記している。 | |||||||||||||||
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(私論.私見)