【太田龍・氏の履歴】

 更新日/2021(平成31.5.1栄和改元/栄和3)年.8.10日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、太田龍・氏の履歴を確認しておくことにする。「(ウィキペディア)太田竜」、「太田龍」、「太田龍とは」、「私的戦後左翼史」(話の特集1985.6月)その他を参照する。

 2006.1.14日 れんだいこ拝


【太田龍・氏の履歴その1】
 太田龍(1930.8.16日~2009年)は、 当時、日本領であった樺太豊原町出身。東京理科大学中退。トロツキズム系の日本革命的共産主義者同盟(第4インターナショナル日本支部)創設者の一人であり、その後アイヌ解放運動に転じ、更にシオニストユダヤの歴史的陰謀論批判者に転向した。本名は栗原 登一(くりはら といち)。太田龍の名で「週刊日本新聞」編集主幹となり言論界に一家言持ち続けた。

 週刊日本新聞編輯主幹。ベジタリアンにして自称「天寿学会」、「文明批判学会」、「歴史修正研究所」、「宇宙戦略研究所」を主宰、地球維新連盟会長、日本動物保護連盟会長、地球みどりの連合会長、仏教経済学会理事、日本動物保護連盟会長、「動物実験を批判する医師と科学者の会」事務局長、日本動物実験廃止協会理事となる。著書として「家畜制度全廃論序説(絶版)」その他多数。講演、執筆活動に追われる。
 1930(昭和5).8.16日、樺太豊原町で、医師栗原達三郎とトミ(旧姓小林)の8人兄弟の末っ子の4男として誕生する(出産後、間もなく死亡した2人を含めると第10子にあたる)。本名、栗原登一(くりはら といち)。父方は千葉県印旛郡物井村(現在の四街道市)に代々続いた漢方医の家系。

 1942年、豊原第一尋常小学校入学。この頃、次兄の東洋がマルクス主義者として逮捕され、北海道帝国大学予科を退学になる。小学校6年生の時に映画「阿片戦争」を見てイギリスの侵略に怒りを覚え米英帝国主義打倒を決意する。

 1944.3月、父母の郷里である家族ともども千葉県に引き揚げる。

【太田龍・氏の履歴その2】
 14歳の時、次兄である東洋の影響でマルクスを読み始め、旧制千葉中学校(千葉県立千葉高等学校)2年生の頃既に、次兄の蔵書に読み耽った影響で熱心な共産主義者となっていた。戦争末期には級友たちに日本の敗戦を予告したために売国奴と見なされ、運動部の部室で上級生によるリンチを受けたこともあると云う(太田竜「私的戦後左翼史」)

 1945(昭和20).8.15日、「私はその日から全速力で疾走しはじめた」(「私的戦後左翼史」)。

 1945(昭和20).10月、青年共産同盟(のちの民主青年同盟)に加盟。

 1947(昭和22)年、日本共産党に入党、活発な左翼活動を開始する。

 1950(昭和25)年、目を患い、漢方医の荒木正胤氏に診てもらったことから東洋医学に関心を持ち始める。

 ***年、東京理科大学中退。

【太田龍・氏の履歴その3】
 兄・東洋が共産党から除名される。太田の「疾走」には影響を与えなかった。しかし、マルクス原理主義者である太田にとって、台頭するスターリニズムは受け入れられるものではなかった。次のように述べている。
 「反米帝、これは良い。なにもそれについて恐れるものはない。しかし、同時に、ソ連一辺倒、スターリン一辺倒となるには、問題が多すぎる」(太田竜「私的戦後左翼史」) 。

 1952(昭和27).22歳の時、4月、「ソ連スターリニスト共産党官僚権力は人類と労働者人民の敵と化した」との結論に達し、第四インターナショナル日本支部のための活動を始める。次のように語っている。

 「おそらくは私は三十歳までは生きないだろう。よろしい、私の短い生涯を、悔いなく悪戦苦闘のうちに、22歳の誓いである。革命へのエネルギーを年少しつくしてかけ抜けよう。(中略)私の人生は決まった」(太田竜「私的戦後左翼史」) 。

 1953(昭和28)年、日共離党。第四インターナショナル日本支部結成に向けて精力的に活動し始める。

 1957年、内田兄弟、黒田寛一らと共にトロツキズム系の日本革命的共産主義者同盟を結成。第四インターナショナル日本支部委員長を務めたが、後に分裂。

 1958年、第四インターナショナル第五回大会に出席した太田は、帰国するなり革共同の全面的な社会党への「加入戦術」の採用を提起する。提起を拒否された太田は自身の影響下にあった東学大と日比谷高校のグループを引き連れて分裂した(いわゆる「革共同第一次分裂」)。

 1958.8月、「トロツキスト同志会」(トロ同)を結成。トロ同は全組織を挙げて、日本社会党の地区組織に「加入戦術」を行う。

 1958.12月、トロ同が「国際主義共産党」(ICP)に発展解消した。

 1960.6月、安保闘争の大高揚に直面した太田は突如、独断で「大衆は武装蜂起せよ」と呼びかけるビラをたった一人で御茶ノ水駅頭にて配布する。この独断専行によって、太田はICPから除名される。

 1963年、ICPグループに再び「指導者」として迎え入れられる。

 1964年、「関西派」と称された西京司、酒井与七らの革命的共産主義者同盟と統一する。

 1965年、太田が組織決定を経ずして立川米軍基地内デモ隊突入を指導し、米兵にデモ隊を射殺させることで大衆の憤激を喚起し反米軍基地闘争を全国化させることを目的とした「5.18闘争」が不発に終わる。


【太田龍・氏の履歴その4】

 1967年、37歳の時、第四インター離党、同時に第四インターBL(ボルシェビキ・レーニン)派、その大衆組織である武装蜂起準備委員会-プロレタリア軍団を結成する。「世界革命」(1967年)。

 この頃と思われるが次のように述べている。

 「左翼も、右翼も、共にその独自の型を失ない、美学を忘れ、その言動、一挙一動がみにくく、汚らしくなって来る」(太田竜「私的戦後左翼史」)。

 太田はマルクス主義からの脱却を図ろうとしており次のように述べている。

 「原始共産制に向って退却しよう!辺境最深部に向って退却しよう!(中略)私は、これまで彼ら(筆者注。マルクス、レーニン、トロツキー)と同じ陣営にいたことを恥じた。彼らはアメリカインディアンを皆殺しにして来たヨーロッパ白人の一味であり、その特権の上に寄生して、ごたごたと文句をならべているごろつきどもと何も変わらない!」(太田竜「私的戦後左翼史」)。
この時期、「マルクス共産主義は資本主義と同根同罪の西洋近代主義の一味」との結論に達し、マルクス主義そのものとの決別を開始する。

 1970年頃、太田龍は、マルクス主義、それに列なる左翼に決別し、自ら結成した「武装蜂起準備委員会プロレタリア軍団」を脱党し、同党から死刑宣告される。この頃、チェ・ゲバラの生き方に心酔し、竹中労、平岡正明らと3バカゲバリスタと呼ばれる仲になり「世界革命浪人」と自称する。

 1971年、41歳の時、次のように述べている。
 「まず、私自身が国境を超えて人類の共和国の人民に志願しよう!」(太田竜「私的戦後左翼史」)。

 この頃、引き揚げを目指す在韓日本人妻らのために活動をはじめる。同時に政治運動家であり映画評論家の松田政男の紹介でドキュメンタリー記録映画『アイヌの結婚式』の試写会に招かれ、そこでアイヌ問題に取り組むことを決意する。「辺境最深部に向かって退却せよ」(1971年)、「よみかきのしかた」(1971年)。

 1972年、アイヌ革命論者となり、アイヌ解放闘争へと向かう。「辺境最深部に向かって退却せよ」を提唱する。北海道庁爆破事件、白老町長および北海道知事に「死刑執行」宣告事件が発生する。但し、「転向後」、白老町長襲撃実行犯に対して、自分は関係ないことを表明している。  
 1977年、現代革命論研究会を組織し、新たな理論形成に向かう。この頃、太田龍は、エコロジー(生態学)、宗教、カタカムナ相似象学に並々ならぬ関心を寄せ始めている。「新左翼世界で既に毀誉褒貶の烈しい人物」の評があるところへの又亦の転換である。「節度なくコロコロ変わる太田さんのことだから---」の陰の声も出ている。しかし、ここが太田龍の魅力でもあろう。太田龍をもってしか、この転換は誰一人できていない事を思えば。
 1978年、「宗教と革命」(1978年)。
 1979年、桜沢如一の著作に接してマクロビオティック運動に参加。安藤昌益、桜沢如一、藤井平司らの江戸から昭和にかけての思想家、食文化研究家たちを「食革命家」と名づけ、食品汚染問題や食料危機問題に対する一つの回答としてエコロジー運動、マクロビオティック運動を推進した。
 1980年前後、エコロジー運動、さらに食の革命(食べ物学)、自然食運動による家畜制度全廃運動を土台とする日本原住民史、世界原住民史、天寿学体系構築に着手する。日本で初めて動物実験全面廃止運動を開始する。土着革命論へと転換する。1980年代後半、環境問題を主眼にした日本みどりの党を結成する。 
 1980年、「革命思想の扉を開く」(1980年)、太田龍と柴谷篤弘対談「自然観の革命」(1980年)、「いのちの革命」(1980年)。「革命思想の扉を開く」の序文では、「記念すべき1979年、人類の本源的な至福の原始共産制文明の根拠として、カタカムナ---相似象学に注目するに至ったのである」と記し、相似象学会との接触を明記している。
 1980.2.24日、「自然食生活協同組合」設立総会を開き、活動を開始する。設立趣意書によると、「日本原住民及び世界のすべての原住民の生活と文化に学び、自然食、自然農法、自然医学の実践を通じて、天然自然の生活の甦りと創造に努める」云々。
 1981年、「何から始めるべきか」(「同時代思想」、JCA出版、1981年)。太田龍は、同書の中で、「人類的倫理学の革命、飲み食いの仕方の革命、よみかきのしかたの革命、性の革命、自然観の革命」という五つの革命を提起している。「よみかきのしかたの革命」とは「近代合理主義に毒された認識方法を改め、カタカムナ的な認識をせよ」と要点整理したうえで、次のように述べている。
 「よみかきのしかたの革命でまず第一になすべきことは、太古の人類の直観力をよみがえらせることである」。
 「太古の人類の直観力とは、つまり、人間が、宇宙万物、万象の中に、同じ心を(相似象)を見出すはたらきである。それを受け入れる感受性である」。
 「更に、太古の人類の直観力とは、超心理現象、超能力現象、サイ現象にもつながっている。13世紀から17世紀に至る五百年の間、西欧キリスト教教団国家によって行われた異端審問と魔女狩り裁判こそ、ヨーロッパの民衆、とくに女性の間に残っていたこれらの心的能力の絶滅をはかったものに他ならない」。
 1982年、「性の革命」(1982年)、「日本原住民史序説」(1982年)、「日本原住民と天皇制」(1982年)。

 1984年、家畜や害虫、微生物の解放と人類との共存を説く。『日本の食革命家たち』(1984)。

 1985年、11月、「家畜制度全廃論序説」(新泉社)刊行する。

 1986年、第14回参議院選挙で、日本みどりの連合公認で比例区から出馬するが落選。東京都知事選挙などに打って出るがいずれも落選。その後、党内で路線対立が生じた為、新たに日本みどりの連合を結成させ、党が二つの政治団体に分裂した。後に「みどりといのちのネットワーク」として再統合する。6月、「日本エコロジスト宣言」(新泉社 )刊行する。『マルクスを超えて』(1986)。

 1987年、「たべもの学入門」(1987年)。

 1989年、「エコロジー教育学」(1989年)。

【太田龍・氏の履歴その5】
 1990年前後、天寿学文明建設の一環として、ユダヤ・フリーメーソンを中心とした闇の巨大勢力による、全人類の世界牧場計画を始めとする新世界秩序(ニューワールド・オーダー)構想の危険性を看破して警鐘乱打を開始する。

 1990年、第39回総選挙には地球維新党を率いて東京1区から立候補するも落選。

 1991年、6月、初期のユダヤ陰謀論本「UFO原理と宇宙文明」(日経企画出版局)を刊行する。次のように述べている。
 「日本国内にも、人類を滅亡にむかって引きずっていく大悪魔、ロスチャイルド=ロックフェラーのエージェント(手先)となっている小悪魔が、政官界、財界、学会、宗教界、マスコミ界、芸術界、教育界に植え込まれている。その固有名詞を列挙するとしたら、今日、日本の表舞台で派手に躍っている人々の九〇パーセントにも達するだろう」。

 本書は次のように紹介されている。
 「地球人類は、いま、自滅か、超人類、真人類への進化か、そのどちらかを選択する分岐点に立っている。二つに一つである。本書は、全人類にこのことを警告し、その因縁、由来を説き、超人類・真人類に進化して、UFO宇宙文明の仲間入りする道を、詳しく解明する、きわめて重大な使命を持つ本である」(「BOOKデータベース」)。
 「人類自滅の主犯は、収縮と破壊の現代物理学である。このまま進めば、現生地球人類の滅亡はきわめて近い、と警告を発する著者が、その解決策としてUFO革命を断行し、地球維新に向かって前進しようと提案する」(「MARCデータベース」)。
 1992(平成4)年、参院選で自らは出馬せず候補を擁立するも落選。1992年以降海外の文献を渉猟し、F・スプリングマイヤー、ジョン・コールマン、ユースタス・マリンズ、ヘンリー・メイコウ、マイケル・ホフマン、デービッド・アイク等の著作を監訳するなど、海外の貴重文献の紹介を精力的に続ける。「ユダヤ世界帝国の日本侵攻戦略」(1992年)。

 1993年、第40回総選挙で、雑民党(代表・東郷健)公認で本名の栗原登一の名で東京5区から立候補するも落選。以降は選挙に出なくなる。『ユダヤ7大財閥の世界戦略』(1993)。、『ユダヤ=バチカンの世界支配戦略』(1993)。

 1994年、『ユダヤの日本侵略450年の秘密』(1994)、『ユダヤの日本占領計画』(1994)、『天寿学体系』(1994)、『ユダヤ問題入門』(1994)。

 1995年、『沈黙の兵器』(1995)。自伝『私的戦後左翼史』(1995)。

 1996年、11月、「日本型文明の根本原理」(泰流社)を刊行する。反グローバリズム(世界主義)、反米(とそれを操るユダヤ悪魔主義世界権力)、古き日本文明回帰を謳っている。本書は次のように紹介されている。
 「日本型文明を知ることは、天壌無窮、弥栄の道に即して、日本型文明を生成発展せしめることである。在るべき文明のかたちを提唱する」(「MARCデータベース」)。

 1998年、『悪魔が支配する悲劇の超大国アメリカ』(1998)。

 2001(平成3).2月、大東亜戦争時の国際政経学会による対ユダヤ・フリーメーソン研究の事蹟を知り、新たな思想分野に分け入る。「シオン長老の議定書」とその前後関係の本格的研究に入る。こうして、歴史学の立場からのユダヤ主義批判論者になる。反ユダヤ主義者に転向した後は太田龍の表記を用いる。

 2002年、『天皇破壊史』(2002)。

 2003年、7月、「縄文日本文明一万五千年史序論」(成甲書房)。本書は次のように紹介されている。
 「縄文文明は生きている。しかし今や、恐るべき強力な外敵によって抹殺されようとしている。縄文日本文明を潰滅させようとする、その外敵とは何者か。滅亡寸前に追いつめられている日本民族の覚醒の書」(「MARCデータベース」)。

 P106~

 「……周知のように、文字で書かれた日本の歴史書は『古事記』『日本書紀』に始まる。けれども記紀は、口伝(くでん=口つたえ)に基づいている、口承(こうしょう)である。代々の言い伝え、語り部が親から子へ、子から孫へ、誤りなく正確に伝承してきた‘精神的遺産’が土台となっている。『古事記』が【編集】され、漢字(仮名)で表記刊行されたのは八世紀だが、【それは千年、二千年、数千年もの日本人の口承なしにはあり得ない。】

 ※「稗田阿礼(ひだのあれい)の住居跡が飛騨の山中の楢谷(ならだに)にあり、子孫の阿礼清一氏の旧家が今もその近くにあります。阿礼清一氏は(飛騨)清美村三日月町に移り今も健在です。大和時代以前は稗田阿礼の家は飛騨の宮村へ越す峠の入口にあったのが、『古事記』編さんに近い頃は五百メートルほどの所にある峠の入口(国府町に通ずる)に移り住み、御休み処になっていたので、昔の人々の物語を聞いて暗誦(あんしょう)したり旧辞(ふるつことば)で記録を作るのに都合がよかったのです。」(『明らかにされた神武以前』)

 二千数百年の間、代々、飛騨古老の口承する秘伝を受けた山本健造氏の『日本起源の謎を解く』『明らかにされた神武以前』『裏古事記』などによれば、五億年前、海上に最初に頭を出したのが飛騨の高地(ちなみに現在も、北アルプス最奥飛騨側には「高天原」という地名が存在している)、そこに数十万年前、日本原人出現、氷河時代にも暖流に囲まれて進化、冷涼な飛騨に古神道中心の飛騨王朝出現。大雪降る縄文晩期二度の下界移動、弥生時代前期、鏡を奉じて大和や九州に大移動、これが記紀に語られる高天原からの「天孫降臨」神話の真相である、という。私は平成十一年二月、この山本健造説を知り、これを詳しく検討してその主旨に全く納得した」。

 2005年、『長州の天皇征伐』(2005)。 

 2007年、9.15日、「地球の支配者は爬虫類人的異星人である」(成甲書房)を刊行する。本書は次のように紹介されている。
 「ニューワールドオーダー(新世界権力)を邪悪に推進する勢力イルミナティとは何ものなのか。今、日本民族の前にその正体が見え始めてきた。彼らの中核は、爬虫類人的異星人の地球侵略軍である。この異星人の戦略目標は、地球をまるごと彼らのグローバル・プランテーション、世界人間牧場とすることである。信じられるか?という疑義、信じたくない!!という恐怖、レプティリアン奇説に太田文明評論が挑む」(「BOOKデータベース」)。


 『神々の指紋』グラハム・ハンコックの指摘は的を射ているか

 
『神々の指紋』の著者グラハム・ハンコックが来日し、6週間かけて日本の縄文文化遺跡を調査した(2000年)。 「日本以外ではほとんど知られてないけれど、私は縄文を古代世界で最も重要な文化と位置づけています」と彼は述べる。 1万2千年前、地球を襲った天変地異によって世界中の古代文明が滅びた。しかし日本列島の縄文人はその目撃証人であり、しかも生き残って現在の日本人までその系統はつながっているのではないかと、ハンコックは推測する。 「縄文文化は海外ではほとんど知られていない。それは日本人が過小評価し、発信もしてこなかったからだ」。その封印がハンコック氏によって解かれようとしている。「1万2千年超の足跡を現在まで連綿と残している、世界でも希有な縄文文化に、どんなに注目しても注目のしすぎということはない」。 日本人が過小評価してきた、西洋(英国)の作家がその封印を破って云々、という。しかし、「日本人」と、容易に一般化してもらっても困るのである。太古以来の日本の伝統を過小評価したのは、まず、中国かぶれの売国奴エリート権力階級、次に西洋かぶれの同じ売国奴エリート権力者階級、であろう。過小評価が究極まで煮詰まると、まさしく現在の日本の政財官学界マスコミ界エリート集団のように、日本的なるものの一切を抹殺しないではおれない心理メカニズムとなる。

 日本人の脳の特異性、角田忠信博士説

 
西洋式言語学の訓練を受けた日本の学者たちは、百年以上にわたって日本語をいじくりまわしてきた。日本語という、何から何まで奇妙な、人類文明の頂点に立つ西洋人の言語に対して異質であり、それ故劣悪な言語を破壊して、これを西洋語化することこそ、西洋文明の洗礼を受けた自分たちエリートの使命である、と固く信じた。その国その民族の言語はまた、その民族の音楽と緊密不可分に結びついている。日本語が西洋語およびユーラシア大陸のすべての民族の言語と決定的に異質であると同時に、日本人の音楽もまた、西洋人の音楽と本質的に異なる。ところが、西洋かぶれの明治国家官僚は、小学校の全般的義務教育学制を施行するにあたって、全児童に西洋音楽を強制した。 「日本の義務教育での音楽教育は、日本人が長い伝統で培った音楽の感覚を全く無視して、これとは異質な西洋音楽の方法でなされているという指摘は、日本の教育者からされている」と角田博士が言われる通りである。 (中略) にもかかわらず、角田博士は、(少なくとも9歳頃まで)日本語で育った人間の脳の働きは、西洋人のみならず日本人以外の他のすべての民族と人種とは全く異質であるという独自の新説を立て、それを実証する仕事を営々と積み重ねられた。(中略) 角田博士の学術論文を発表年代順に収録しただけの、まるで一般受けのする要素のない『日本人の脳』が、平成5年に34版というから脱帽だ。

 日本語はまるで「原始の尻尾」をつけたような言葉 

 
日本では認識過程をロゴス(論理)とパトス(感情、情念、情緒)に分けるという考え方は、西欧文化に接するまではついに生じなかったし、また現在に至っても、哲学、論理学は日本人一般には定着していないように思う──と角田博士は語っておられる。西欧人においては、左脳(言語半球)はロゴス的脳。言語は子音(音節)、そして計算。右脳(劣位半球)はパトス的脳と機械音、楽器音、自然音、そして母音、という。しかるに、日本人の場合は、左脳(言語半球)は、子音のみならず母音、あらゆる人声。そして、虫の声、動物の鳴き声などの自然音、そして計算を司どる。右脳(劣位半球)は楽器音、機械音。この事実は、『日本人の脳』が出版された昭和53年までの間に、角田博士によって明らかにされたことである。しかも、その後実験を続けていくうちに、西欧人のみならず、日本人とポリネシア人を除く、他のすべての民族と人種が、西欧型に分類されるという。

 日本語は完全に孤立しているのか──?。渡部昇一(上智大学教授)は「日本語だけが変にユニークで原始の尻尾をつけたような言葉である」とさえ語っており、「西洋人もうんと太古には日本語みたいに左のほう(左脳)にみんな入っちゃうような言葉だったのではないか」と続ける。日本以外の民族では、何度も何度も「原始の尻尾」を切られた。日本は幾度か「切られそう」にはなったがその度に生き延びた。そこを「私が数えただけで5回あるんですよ。一回目は用明天皇のときの仏教導入です。2回目は頼朝の時。3回目は北条泰時。それから明治維新。そして敗戦」と渡部は解説する。「日本語のユニークさ」とは、つまるところ、人類の原始太古時代の言葉が生き延びている、いや単に言葉というのではなくて、脳の仕組み、脳の働きが太古のまま維持されている、ということなのであろう。「日本文化を考えますと、どうも普通の文明国の文化じゃないところがあるんですね。おかしい文化なんですよ」(渡部昇一)。超太古原始人の精神と最先端西洋科学技術文明が共存している。日本人以外は、いずれかの時点でこの原始性が切断されて消滅している。しかし日本人だけはそれが生き続けている。どうも、日本に関する限り、超太古期縄文文明は今日まで生きている、と言えそうなのだ。日本には、外国のいかなる規準や物差しもそのままあてはめることは出来ない。また、ハンコックのこうした発言も重要だ。「縄文土器は、素晴らしい古代文化の結晶です。縄文人が作った土器を手にすると、電流のようなものに打たれて、縄文人の知的水準の高さ、創造力、あるいは芸術的センスといったものが、歳月を超えて伝わりました。私たちにとって幸運なことは、縄文文化は失われた文明ではないということです」。


 ひとくちコメント ―― この文章のあとに、画家の岡本太郎(1996年没)が上野の博物館で初めて縄文土器を見て、「‥‥心臓がひっくりかえる思いだった。人間の生命の根源をほとばしるように刻み込み凝集した凄みとでもいったらいいか、とにかく圧倒的な迫力でした。全身がぶるぶる震えるくらいのね。こんな凄い造形が太古の日本にあったのかと‥‥」と驚いたエピソードが紹介されています。縄文人の流れを引く私たち日本人の脳は、世界の他の民族の脳とは異なっているのです。この秘密はどうやら日本語の中にあるようです。日本語は大切に守っていきたいですね。日本文明に関してユニークな研究を続けてこられた太田龍氏も、今は亡き人となってしまいましたが、氏の著書はぜひ多くの人に読まれるべきだと思います。特に「どうも自分は自虐史観の影響を受けているのではないか」と思われる方にお勧めします。(なわ・ふみひと)

 

【太田龍死因考】
 2009(平成21)・5・19日、都内の病院にて逝去する(享年78歳)。
 「★阿修羅♪ > Ψ空耳の丘Ψ62」のあのに 氏の2019 年 1 月 29日付投稿「人口削減のあたらしいフェーズ 109:変化の時 4  CIA工作員の破壊工作、暗躍」。
 2、CIA工作員の破壊工作

 さて、間接的にしか知らないのだが、みつぼし まこと氏が、このアングロサクソン・ミッションの動画の和訳にかかわっていたようだ。以前、月刊ムー誌にバシアーゴにインタビューしてテレポーテーションの記事を書いたひとだ。だが、もう肝臓癌で亡くなっておられるときいた。暗殺されたのだと、わたしはすぐ思った。病院にかかるのは,じつは、ひとによっては、とんでもない大きなリスクがある。どこで、なにをされるか、しれたものでないからだ。わたしは、病院は工作員の巣窟であると考えてきた。たんに、検査をするだけでも、大きな危険がある。(中略)おそらくネットばかりか,実生活もだ。ある宗教団体がかかわる可能性があることを、丁寧版さんからおしえてもらった。みつぼし まこと氏も、おそらく似たようなものだったのだろう。病院をつかった暗殺であったと思う。日本での可能性さえある。かれが、どこまで、危険を感じていたか、わからないが。わたしの場合も似たようなものだ。ブルセラ病なんて、国内ではありえようがない。ある宗教団体SGがかかわる可能性があるのだ。ブルセラ病らしいとわかって、攻撃の可能性をはじめて考えた。道路からなにかをする可能性をかんがえ、毎回家を出る際、あたりをカメラで撮影していたこともある。ある宗教団体SGの議員さんは、つねに話もする隣人であったので、警戒をゆるめていた。ブルセラ病はわたしは、まだ全治してなく、波状熱が出る。筋痛症状もある。ひどいうつ感があるので、すぐわかる。だが、治療は休止状態である。抗生物質の大きな副作用が出てしまったからだ。副作用が消えるまでに、もう1ヶ月以上かかっている。どうすべきか、思案中である。

 故太田龍氏も、たとば講演会でのお茶のペットボトルになにか菌を仕込まれたかと考えている。講演会でのお茶や水は、肌身離さず持っているもの以外は、けっして口にしてはだめなのだろう。病院ばかりか、どこで、なにをされるか、しれたものでない。かれらは、完全犯罪をするからだ。


【太田龍・氏の歴史観の変化】
 太田龍・氏の歴史観の変化につき「縄文日本文明1万5千年史序論」の232Pに次のように記している。
第一期  1960(昭和35)年以降10年間  闘う論拠の再構築としての「辺境最深部に向かって退却せよ」。
第二期  1970(昭和45)年以降10年間  闘う論拠としての「縄文に帰れ」史観の確立。
第三期  1979(昭和54)年以降の10年間  闘う理論としての「天寿学的文明の建設即ち地球維新世界維新へ」の打ち出し。
第四期  1990(平成2)年以降の10年間  闘う敵としての「ユダヤ・イルミナティ秘密結社批判」
第五期  2000(平成12)年以降  闘う敵としての「異星人による地球乗っ取り超長期侵略戦争計画批判」。





(私論.私見)