担当者より:『名言力』(ソフトバンク新書)の著者・大山くまおさんに、太田龍について論じていただいた原稿です。

 2009年の1月、新書の原稿も書かずにゴロゴロしていた僕のところへ、とある雑誌から仕事の依頼があった。ユダヤ陰謀論がまたぞろ流行りだしているので、講演会などの現場を取材してほしい、というのだ。僕の専門領域というわけではないのだが(そんなことを言ったら専門領域などない)、好奇心半分で出かけていった。それが太田龍の講演会だった。正直、まだ現役だったのか、と驚いた。ベストセラーになった、と学会の『トンデモ本の世界』で槍玉にあげられたのが1995年。今から14年前(!)のことである。その時点で老境にさしかかっていたはずだ。結論から言うと、残念ながら、太田は講演会場には現れなかった。僕の潜入取材がバレたからではない。今思えば相当体調が悪かったのだろう。この日の講演キャンセル以来、そのまま公の場に姿を現すこともなく、5月19日に没している。享年79歳。そんな歳になっても、太田はライブでユダヤ人の陰謀を人々に伝えようとしていた。出版活動も旺盛で、対談本(ベンジャミン・フルフォード、船井幸雄ら)、翻訳本を含め、ここ数年だけで軽く10冊を超える書籍を刊行している。では、一体何がそこまで太田を突き動かしていたのだろうか?

 太田は1930年、樺太にて8人兄弟の末っ子として生まれた(出産後、間もなく死亡した2人を含めると第10子にあたる)。家族ともども千葉に引き揚げた太田だったが、次兄である東洋の影響で、戦中にも関わらずマルクス・レーニン主義に傾倒する。まだ中学2年生の頃の話だ。日本の敗戦を級友たちに予告して上級生によるリンチを受けながらも、太田は敗戦後の共産主義革命を待ち望んでいた。そして、1945年8月15日を迎える。「私はその日から全速力で疾走しはじめた」(「私的戦後左翼史」)。

 戦後、太田は日本共産党に入党し、活発な左翼活動を開始する。兄・東洋が共産党から除名されても太田の「疾走」には影響を与えなかった。しかし、マルクス原理主義者である太田にとって、台頭するスターリニズムは受け入れられるものではなかった。「反米帝、これは良い。なにもそれについて恐れるものはない。しかし、同時に、ソ連一辺倒、スターリン一辺倒となるには、問題が多すぎる」(同上)。ならばと、太田はトロツキーに傾倒していく。共産党との決別はもとより、愛する恋人とも別れてまでトロキツズム運動にすべてを傾けようと決意する。ここで、マルクス・レーニン主義やスターリニズム、トロキツズムについて詳述するつもりはない。ただ、太田の闇雲なパワーを感じてもらえればいいと思う。「おそらくは私は三十歳までは生きないだろう。よろしい、私の短い生涯を、悔いなく悪戦苦闘のうちに、革命へのエネルギーを年少しつくしてかけ抜けよう。(中略)私の人生は決まった」(同上)。太田龍、22歳の誓いである。

 その後の、太田のウヨ曲折の左翼活動も割愛する。しかし、大きく親米路線に舵をとる日本政府と日本国民に対して、そしてそれに相対する左翼陣営に対しても、日に日に絶望と諦念が深まっていったようだ。「左翼も、右翼も、共にその独自の型を失ない、美学を忘れ、その言動、一挙一動がみにくく、汚らしくなって来る」(同上)。また、太田は労働者階級の賃上げ闘争に対しても、疑問を持つようになっていた。それは単なる自らの帝国主義化なのではないだろうか? このままでは第三世界との格差は開くばかりではないだろうか? 所得倍増、高度成長に沸き立つ日本の中で、太田は賃金切り下げ、世界的所得の平均化、地域資源の消費の切り下げ(エコ!)について考えるようになっていく。

 ここに至り、太田はマルクス主義からの脱却を図ろうとする。「原始共産制に向って退却しよう! 辺境最深部に向って退却しよう! (中略)私は、これまで彼ら(筆者注。マルクス、レーニン、トロツキー)と同じ陣営にいたことを恥じた。彼らはアメリカインディアンを皆殺しにして来たヨーロッパ白人の一味であり、その特権の上に寄生して、ごたごたと文句をならべているごろつきどもと何も変わらない!」(同上)。太田龍、37歳の叫びである。極端だ。

 マルクスにも左翼にも共産党にも別れを告げ、自ら結成した「武装蜂起準備委員会プロレタリア軍団」に死刑宣告されるなど物騒な目にも遭うが、本人はどこ吹く風。チェ・ゲバラの生き方に心酔し、彼に「世界革命浪人」という称号を(勝手に)与えて、自らもそう名乗った。「まず、私自身が国境を超えて人類の共和国の人民に志願しよう!」(同上)。太田龍、41歳の目覚めであった。

 太田は男性中心主義を反省し、引き揚げを目指す在韓日本人妻らのために活動をはじめる。同時に政治運動家であり映画評論家の松田政男の紹介でドキュメンタリー映画『アイヌの結婚式』の試写会に招かれ、そこでアイヌ問題に取り組むことを決意する。ここからが太田の真骨頂。アイヌなど「日本原住民」の問題に取り組みながら、同時に日本の「食」についての思索を深めていった。安藤昌益、桜沢如一、藤井平司らの江戸から昭和にかけての思想家、食文化研究家たちを「食革命家」と名づけ、食品汚染問題や食料危機問題に対する一つの回答としてエコロジー運動、マクロビオティック運動を推進した。今から20年以上前のことである。

 これらの運動の背景には、太田なりの環境や食に対する問題意識もあったが、当然のように「反米帝」の思想もあった。アメリカによって国家神道と日本人の食べ物に対する宗教感覚(水田稲作農耕のお祭りなど)が破壊されてしまった。マクドナルドに代表されるように食べ物に関しても唯物論的物質至上主義になってしまい、そこから食品汚染問題が広がっている、と憤慨しているのだ。

 80年代に入ると、家畜や害虫、微生物の解放と人類との共存を説く『日本エコロジスト宣言』(84年)、『家畜制度全廃論序説』(85年)を立て続けにリリース。しかし、時まさにバブル前夜。そんな折に「ゴキブリの解放を!」と叫んでも、誰も聞く耳はもってくれなかった。今でこそ、マクロビオティックは多くの人に支持され、食虫芸人・佐々木孫悟空と立教大学教授・野中健一らによる「食虫大学」の面々がゴキブリなどの害虫と人類の共存を語っているが、ハッキリ言って太田はその20年先を「疾走」していたのだ。

 80年代後半から90年代前半にかけては、折からのミニ政党ブームに乗って、環境問題を主眼にした「日本みどりの党」を結成し、自らも参議院選挙、東京都知事選挙などに打って出るがいずれも落選。その惨敗劇がこたえたのかどうかわからないが、この時期、太田はユダヤ陰謀論に目覚めてしまった。

 実は太田は、ユダヤ陰謀論者としては後発の部類に属する。1986年に発売された、宇野正美による二冊の著書『ユダヤが解ると世界が見えてくる』、『ユダヤが解ると日本が見えてくる』は合計100万部を超えるベストセラーになっていた。宇野を嚆矢として、翌87年にはタイトルに「ユダヤ人」が含まれた書籍が82冊も刊行されるというユダヤ陰謀論の一大ブームが巻き起こった。アメリカはユダヤ人によるユダヤ国家であり、メディアも大企業も彼らが操っている、ついでに世界の政治と経済も操っている、などがその論旨である。

 この一大ブームの背景には、バブル経済の栄華をほしいままにする日本とアメリカの政治・経済における緊張関係があると言われている。つまり、ユダヤ人は日本をこのままにはしておくまい、いずれ日本を壊滅に導くに違いない、という陰謀論だ。これらはビジネス書の形をとって書店のベストセラーコーナーを賑わし、多くのマスコミまでがこのブームを煽り立てた。

 太田が彗星のようにユダヤ陰謀論ワールドに登場したのは、バブル経済が崩壊した90年代に入ってからのことである。ここでも太田は「疾走」する。またたく間に刊行点数はユダヤ陰謀論の先達である宇野と肩を並べるほどになった。ちなみに後で触れるが、思想家としての太田を徹底的にこき下ろした呉智英の『バカにつける薬』が88年に刊行されているが、そこではまだユダヤ陰謀論者としての太田については触れられていない。

 太田の語るユダヤ陰謀論は、宇野らのものと比べてもよりスケールがデカく、トンデモ度も高い。それ以前のユダヤ陰謀論本は、一応ビジネス本の体裁をとっており、購買層も一応世界経済の仕組みを知ろうとするサラリーマンたちだったりした。しかし太田は書籍を通して、とにかく闇雲に日本の、世界の、そして地球の危機を訴え続けた。

 宇野はキリスト教原理主義者であり、根本的にはそれを否定していない。と学会の山本弘は太田について、「他の陰謀論者と違うところがあるとすれば、ユダヤだけでなく、キリスト教をも陰謀の一部と考えているところだろうか。『キリスト教的宇宙観と、その延長線上の欧米科学の支配』に反対し、仏教的宇宙観の復活を説いている」と述べている(『トンデモ本の世界』)。

 太田によるもっとも初期のユダヤ陰謀論本『UFO原理と宇宙文明』は、前述の『トンデモ本の世界』でも取り上げられ、徹底的にツッコミを入れられた。

 「日本国内にも、人類を滅亡にむかって引きずっていく大悪魔、ロスチャイルド=ロックフェラーのエージェント(手先)となっている小悪魔が、政官界、財界、学会、宗教界、マスコミ界、芸術界、教育界に植え込まれている。その固有名詞を列挙するとしたら、今日、日本の表舞台で派手に躍っている人々の九〇パーセントにも達するだろう」(『UFO原理と宇宙文明』『トンデモ本の世界』より孫引き)。

 太田がどこでどうなってしまったかはわからない。もう一つ、山本による指摘を引用しておく。実はこれが正鵠を射ていると思うのだ。

 「この『UFO原理と宇宙文明』を読んで驚くのは、太田竜氏が実に純真でだまされやすい人らしい、ということだ。コンノケンイチ、矢追純一、宇野正美、鬼塚五十一などの本の内容を頭から信じこみ、MJ12も『シオン賢者の議定書』も、ファティマの預言も、『第3の選択』も、すべて事実だと思いこんでいるのだ」(『トンデモ本の世界』)。

 太田龍はだまされやすい! これは、まったくもって身も蓋もない指摘である。「一日16時間勉強していた」とも言われる太田だけあって、きっとユダヤ陰謀論について書かれた本も大量に読み込んだのだろう。そして自身の問題意識とブレンドされ、独自の世界観が形成されていったのだ。

 そのせいもあってか、日本におけるユダヤ人陰謀論について分析したデイヴィッド・グッドマンと宮澤正典による大著『ユダヤ人陰謀説 日本の中の反ユダヤと親ユダヤ』においても、太田龍の扱いはほんの少しでしかない。宇野正美は大活躍(?)しているのに。ここまで太田の足跡を追っている身からすると、なんだか残念な気がするから不思議だ。

 太田の問題意識はユダヤ陰謀論にとどまらず、さらに拡大していく。96年に刊行された『日本型文明の根本原理』という本は、反グローバリズム(世界主義)、反米(とそれを操るユダヤ悪魔主義世界権力)、古き日本文明回帰を謳ったものだ。

 2007年に刊行された書籍のタイトルは、『地球の支配者は爬虫類人的異星人である』だった。比喩などではない。ズバリ、そのままの内容の本である。冒頭で述べた太田の講演会に行ったとき、僕が集まっていた人々に「地球って爬虫類人的異星人に支配されているんですか?」と聞いた瞬間の、彼らの苦笑いが印象に残っている。

 「太田竜の軌跡はこうだ。かわいそうな労働者がいる=旧左翼→それに抑圧されている労働者がいる=新左翼→だがもっと虐げられている人がいる→窮民革命論→しかしさらにかわいそうなのは動物だ=菜食主義。自らの外部に立脚点をつぎ足していくことが思想の構築だと思っているバカの、哀れな末路である」(『バカにつける薬』呉智英)。

 太田の思想の歴史は、常に弱者のことと日本のことを本気で心配し、本気で「疾走」し続けた結果であるといえるだろう。その間、兄の東洋に影響され、マルクスに影響され、トロツキーに影響され、チェ・ゲバラに影響され、宇野正美らユダヤ陰謀論の面々やオカルトまがいの連中にも影響されていた。食の問題については『41歳寿命説』で知られる食生態学者の西丸震哉に影響されていたようだ。ミニ政党からの出馬もまわりから影響されたことかもしれない。この影響されやすさは、勉強熱心であることの裏返しでもある。

 僕の手元に、最後の(行われなかった)講演会で配布されていた、太田の講義録の小冊子がある(2008年10月24日)。西洋文明の破綻とユダヤの陰謀(ここではイルミナティと呼びかえられている)、イルミナティに日本の文明を売り渡した天皇家への断罪、と従来の論旨を語りながら、そこから脱する希望を南米の歴史と文化に求めている。アンデスとインカ文明の復興を目する人々と連帯せよ。そう太田は呼びかけているのだ。爬虫類的宇宙人はどこへ行った? 飽きたのか? いや、そうではないだろう。

 太田は50になっても60になっても70になっても、常に目覚めつづけてきた。そして死を間際にしながらも、まだ新たな情報を摂取しようとしていたのだ。太田が暮らした同じ東京の文京区白山に暮らす物書きのはしくれとして、彼の闇雲なパワーと旺盛な勉強欲は見習いたいものである。合掌。

 ※太田龍は、太田竜名義の著作も多いが、引用を除く本文では、太田龍に統一させていただきました。

 ●大山くまお(おおやま・くまお)
 ライター。著書に『名言力』(ソフトバンク新書)、共著に『バンド臨終図巻』(河出書房新社)がある。ブログ:くまお白書2