れんだいこの大田龍・氏の時事評論論

 (最新見直し2011.02.16日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、太田龍・氏の時事寸評のれんだいこ論評を記しておく。

 2011.02.16日 れんだいこ拝


Re::れんだいこのカンテラ時評906 れんだいこ 2011/02/16 21:38
 【大田龍の時事評論を読みなおそう】

 転向左翼にして且つ革命的理論を営為し続けた稀代の革命浪人、晩年は専ら国際金融資本帝国主義の姦計を警鐘乱打し続けた太田龍・氏が逝ったのは2009.5.19日、まもなく2年になろうとしている。太田龍ありせば今日の国内外の政治事象を快刀乱麻に解析しているであろうが、これを後継する者なく今となっては寂しい限りである。

 そうい思いに捉われてであろうふと在りし日々の時事寸評を確認したくなった。余人にはマネのできない、あの小刻みの簡潔文体にして、歯切れのよい論旨明快な、珠玉の名言集でもあるディリー時評が懐かしい。もう一度あの謦咳に耳を傾けてみたい。

 時に激烈過ぎることもあった。特に同様の言及をしていると思われる論客に対する偽物と本物の仕分けが厳しかった。この辺りは太田龍的態度を良しとすべきか太田龍氏の性分の為せる技として受け止めるべきか今も分からない。この辺りはれんだいこなりに判断するしかない。この面を除けば教えられることばかりであった。

 特に、ネオシオニズムに対する系統的且つ歴史的批判の質の高さは他の論者の追随を許さないものがあった。中でも「シオンの議定書」を刊行したのは大いなる功績であろう。その他西欧の反ネオシオニズム系思想家の著作を次々と翻訳刊行し、我々の耳目を洗ってくれた。大田龍が切り開いたこの方面の事業が今止まっているように思える。日本の現代思想水準の頭脳がすっぽり落ちてしまっている感がある。

 大田龍は返す刀で日本思想の称揚に向かった。それは戦前の皇国史観とは別物であり、天皇制以前のいわば縄文的思想の再発見であり、その思想水準の高さを賞賛し、現代世界における日本の世界史的使命を語るものでもあった。その為に、あらゆる角度から純日本的な思想、制度、社会形態を探ろうとしていた。幕末維新から明治維新過程での偽造的歴史を告発し、この時点での歪みから直さねば日本の再生はないと指摘していた。その他その他尽きるところのない思想源泉生み出しつつあった。寿命との相談であるから欲は言えないが、あたら惜しい逝去であった。

 啓発されるばかりの太田龍史観ではあったが、個々の分析では、特に古代史に於ける見方では、れんだいこ史観と違う面もある。この辺りは、太田氏が生存中にすり合わせしておきたかったところである。それは叶わなかった。一度、講演に出向き、二次会までお付き合いさせて貰い、面と向かって少々話させていただいた、あのひと時が懐かしい。印象としての太田氏の風貌は学者風でもなく政治家風でもなく熱血漢的革命家でもなかった。れんだいこには物静かな思想家のように思えた。但し、物静かなのは口調だけであり、云っている論旨は透徹した歴史偽造批判の真言であった。その言説は今も朽ちない。否むしろもっと学ぶべき光芒を放ち続けていると思う。

 れんだいこは今頃になって、太田龍・氏の時事評論が恋しくなった。そこで大田龍ホームページを訪ねてみたが、逝去通知のまま棚晒しにされている。(ttp://www.pavc.ne.jp/~ryu/cgi-bin/jiji.cgi) 
 時事寸評をたぐってみたが一部しか開示されていない。しかも、ナンバーがアトランダムにされており、まことに読み難い。何のためにこういうことをするのかが分からない。いずれ誰かが出版するつもりでの細工なのかもしれない。ネット検索で探すと「白金掲示板ワード」がかなり拾っていることが分かった。しかし十分とは言い難い。ひょっとして意図的故意に押し込められているのかもしれない。このままでは宝の持ち腐れになる。

 そういう訳で、れんだいこの反骨精神により、れんだいこなりに収集してみることにする。バックナンバー1からの全編をサイトアップしてみたいと思う。近々公刊されると云うのなら止めても良い。公刊される気配がないのなら、れんだいこが日の目を見せようと思う。何事も手遅れと云うことがある。今この時期に大田龍の警告を確認せねばならないと思う。太田龍の時事寸評をカンテラとして日本の再生方向を指針せしめておくべきだと信ずるからである。以下取り組むが、どなたかの協力を頼みたい。みんなで手分けして全文開示させたいと思う。

 こういう場合、例によって著作権を主張されるのだろうか。しかしそれは、著作権なるものが、大田龍の謦咳を世に出さない為に機能していることを明らかにすることになろう。実際、著作権なるものは、著作権者の権利を守ると云うのは付け足しの理由で、実際には情報コントロールの道具に使われている。そのお目こぼしの下で、著作権料なるおこぼれが分配されているに過ぎない。こういうことを知る必要があろう。大田龍の例は、このことを鋭く突きつけている。

 今日からぼちぼち手掛けることにしたが、今読み返してみて懐かしい。かの時に読んだ知的興奮が蘇る。思うに、太田龍は稀有な政治軍師だったのではなかろうか。軍師とは一般に合戦軍師を指すが、政治軍師なる存在もあるのではなかろうか。俗に知恵袋とも云うが、大田龍のそれは特定の誰かにぬかずくようなものではない。歴史そのものに仕えた使徒のような知性を感じる。れんだいこ一人では彼の代わりはできない、その意味で御意の同志と束になって仕えたいと思う。

 「太田龍・氏のネオシオニズム研究」
 (ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/judea/hanyudayasyugico/nihonnokenkyushi/ootaryunokenkyuco/oot
aryunokenkyuco.htm)

 「大田龍の時事寸評」
 (ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/judea/hanyudayasyugico/nihonnokenkyushi/ootaryunokenkyuco/
jijisunpyo/top.html)

 「時事寸評年次版」
 (ttp://www.marino.ne.jp/~rendaico/judea/hanyudayasyugico/nihonnokenkyushi/ootaryunokenkyuco/jijis
unpyo/nenji/top.html)

 2011.02.16日 れんだいこ拝

 【大田龍の時事評論を読みなおそう】
 ここで、太田龍・氏の時事寸評を確認しておく。れんだいこは今、余人にはマネのできない、あの小刻みの文体にして、歯切れのよい論旨明快な、珠玉の名言集でもある大田龍の時事寸評を思い出している。もう一度あの謦咳に耳を傾けてみたい。そう思い出している。時に激烈過ぎることもあり、同様の言及をしていると思われる論客に対する偽物と本物の仕分けが厳しい。この辺りは太田龍的態度を良しとすべきか太田龍氏の性分なのか分からない。よってれんだいこなりに判断するしかない。

 歴史事象の解析については教えられることばかりである。ネオシオニズムに対する系統的歴史的批判の質の高さは他の論者の追随を許さない。日本思想の称揚とその起源についての解析、日本の世界史的使命論も然りであろう。歴史の通説批判は爽快でさえある。込み入ったところでの個々の分析では、特に古代史に於ける見方は、れんだいこと違う面もある。この辺りは、大田氏が生存中にすり合わせしておきたかったところである。それは叶わなかった。それはそれとして、大田龍史観から紡ぎだされる警鐘は朽ちない。否むしろもっと学ぶべき光芒を放ち続けている。これが日の目を見ないのはオカシイ。操作されているとしか考えられない。

 そこで、れんだいこの反骨精神から、れんだいこなりに収集してみることにする。大田龍ホームページは逝去通知のまま棚晒しにされている。時事寸評をたぐってみたが一部しか開示されていない。しかも、ナンバーがアトランダムにされており、まことに読み難い。何のためにこういうことをするのかが分からない。これに抗して、れんだいこがバックナンバー1からサイトアップしてみたい。いずれ誰かが出版するのなら良いのだが、何事も手遅れと云うことがある。今この時期に大田龍の警告を確認せねばならないとも思う。そういう訳で以下取り組む。どなたか協力頼む。「白金掲示板ワールド」」が特に参考になった。ここに謝しておく。

 こういう場合、例によって著作権を主張されるのだろうか。しかしそれは、著作権が、大田龍の謦咳を世に出さない為に機能していることを明らかにすることになろう。実際、著作権なるものは、著作権者の権利を守ると云うのは付け足しの理由で、実際には情報コントロールの道具に使われている。そのお目こぼしの下で、著作権料なるおこぼれが分配されているに過ぎない。こういうことを知る必要があろう。大田龍の例は、このことを鋭く突きつけている。

 今読み返してみて懐かしい。かの時に読んだ知的興奮が蘇る。太田龍は稀有な政治軍師だったのではなかろうか。軍師とは一般に合戦軍師を指すが、政治軍師なる存在もあるのではなかろうか。

 2011.02.16日 れんだいこ拝

 陰謀論を理解できない日本人」。

 いわゆる「陰謀論」は日本人には理解できない。conspiracy(コンスピラシー)を日本語で『陰謀』と訳したのは、いつで誰かは知らないが、西洋におけるコンスピラシーには土台がある。つまり『陰謀の歴史』が長い。だから、日本人の『陰謀史観』と西洋の『陰謀史観』には開きがある。歴史修正主義のはじまりが、ユダヤの宣伝されたホロコーストに反対し歴史の見直しをしたところから始まったように、コンスピラシーテオリ−(陰謀論)の始まりは、イルミナティ悪魔支配に抵抗をはじめた勇気ある人々によって起こった。「イルミナティ」も「悪魔」もピンとこない日本人に理解できないのは至極当然なことであった。

 有史の悪魔支配は、旧約聖書の地球期の起こりから始まる。地球乗っ取りのアジェンダという広大な歴史観の上で見ているのであって、小さなゲームについてあれこれ言っているのではない。彼らのアジェンダ(行動計画)に、地球人類削減が含まれている。抵抗する人間や命令を聞かない人間をあらゆる手段と方法で始末し、都合のいい人間だけを残すことを考えているとしたとしても、知ったかぶりをしないように。その兆候は、戦後64年たっても教育で政治で法律で医療面等でひしひしと身の回りで感じているはずだ。太田龍の命が尽きるまで言い続けたとしても本気になった人間はどのくらいなのだろう。悪魔主義の本拠地の英国のタブーを破りデーヴィッド・アイクが出現したのは、奇跡にひとしい。

 アメリカで刑務所に服役中のスプリングマイヤーの著作に「イルミナティ悪魔の13血流」がある。最初、私家版の簡易製本で作られたその書籍は、第四版増補版が出版され、コンスピラシーを研究するものにとって必読の書となっている。

 ユースタス・マリンズは、エズラ・パウンドの収監されていた精神病院に通ってロスチャイルド家を中核とするユダヤ金融寡頭権力によって創設されたことを暴く「民間が所有する中央銀行(FRBの秘密)」を世に出した。これは、マリンズ著となっているが、エズラ・パウンドによるところが多いという。

 ジョン・コールマン博士の情報くらいは、当たり前の世の中になりつつある。キャッシュレス社会、鳥インフルエンザ、フェミニズム、マイクロチップ、監視カメラ、監視国家の誕生だ。日本でベストセラーとなった、「ユダヤが解ると世界が見えてくる」という本は、ジョン・コールマン博士の情報がベースになっていたと言われている。

 この爆発的人気のあとから、外務省によるユダヤ関係の本の取り締まりが厳しくなった。海外からのこのような依頼(命令)は、すべて外務省を通るのが通常である。太田龍の名前は、大手出版社で拒否されるようになり、有料広告もだせなくなった。そこで日本で自称陰謀論者及び研究するものはどうするのだろうか。日本人がそれに立ち向かうには、まず幕末明治維新「孝明天皇弑逆事件」という自分たちのタブーを解明しなければ、彼らと肩を並べて運動に参加することはできない。これはまず手始めである。

 参考文献
 鹿島昇著「裏切られた三人の天皇」新国民出版社
 (敬称略)【mikisol】






(私論.私見)