『鬼塚英昭氏のネオ・シオニズム研究』考

 更新日/2018(平成30).2.25日

 (れんだいこのショートメッセージ)
Re:Re3:れんだいこのカンテラ時評210 れんだいこ/2006/09/07
 【「鬼塚英昭氏のネオ・シオニズム研究」考】

 太田龍・氏は、今日も凄いことを書き付けている。「太田龍・氏の2006.9.7日付け時事寸評、広島に原爆を投下した米空軍爆撃機に付けられた愛称『エノラ・ゲイ』は、イディッシュ語で、『天皇を屠れ』の意味である、との『モルデカイ・モーゼ/久保田政男』説」(http://www.pavc.ne.jp/~ryu/cgi-bin/jiji.cgi)で、「エノラ・ゲイ」が「天皇を屠れ」という意味であったということ。それを明らかにした著者の久保田政男氏が、戦前来よりユダヤ・フリーメーソン研究者の一人であった久保田栄吉(1887年生まれ)の子息であり、政男氏もまたユダヤ・フリーメーソン研究に手を染めたので、「暗殺された、と言う話を聞いた記憶がある」と述べている。

 れんだいこは、後者の指摘の方に興味を覚える。まことに、「ユダヤ・ネオ・シオニストの陰謀史」研究に関わる者は不慮死が多過ぎる。しかるべき社会的地位からの追放は朝飯前である。それでも後続が止まらないのは、歴史の真実に迫ろうとする精神がいわば本能的なものであるからであろう。あるところまで究めると、そこから先へ向おうとする意欲が強まるのは知能の性(さが)であり、これを止めるのは生ける屍に過ぎず、不利益があろうとも出来ないのだろう。れんだいこはそう解する。

 そういう意味では、世の自称識者の多くが「ネオ・シオニズムおあつらえのテキスト」に沿って、その範疇で口をパクパクさせているのが羨ましい。耳タコのホロコースト論が典型であるが、そっくりそのままお返ししたいようなロジックで、ナチスの残虐非道ぶりをなじって正義顔する者が多い。所詮オツムがその程度なのだということも弁えず真実そうに語って、自ら護民官を買って出る者が多い。インターネット界隈にも輩出し過ぎている。

 そういう技ができる幸せ者とできない者がいるということになるが、れんだいこは元来の天邪鬼精神によってか体制的見解に与し得ない。常識的主流見解がプロパガンダされると眉唾する習性がある。ロッキード事件がそうだった。左右両翼の大合唱を前にすると、待てよ変ではないかとするアンテナが作動してしまう。その後のれんだいこ研究で、このアンテナの正しさが立証されたと思っている。こういう性分が不幸せかどうかは分からない。死と隣り合わせにいるのかどうか、それは半分覚悟している。バカな奴と云われても、生ける屍よりは良いわさ、そう考えている。

 2006.9.7日現在、れんだいこは、鬼塚英昭氏の「20世紀のファウスト」(2005.12.1日初版)を読み進めている。これまで何度も太田龍・氏が推奨していたのを遣り過ごしていたが、急に読みたくなったので求めた。かなりの分量であり、決して速読派ではないれんだいこは一気には読めない。今半ばあたり読み進めている。その昔、広瀬隆・氏の「赤い楯」の続篇「鬼塚版」のような気がしている。

 広瀬氏の「赤い楯」に衝撃を受けた折には、こうしたインターネットサイトを開設していなかったので、頭の中を素通りしてしまった。改めて読み直そうと思っている。それに比べて、鬼塚氏の「20世紀のファウスト」は、一旦読み終え、それから抜書きしておこうと思う。自前のインターネットサイトがあるということは有り難いことである。但し、どこをどう取り込めばよいのだろう。それも又かなりの分量になり、骨の折れることである。逆に云えば、随所が値打ちものとなっているということである。

 思うに、既成の「ネオ・シオニズム・テキスト」で歴史を習って染まり過ぎている連中は、鬼塚本にどういう反応を示すのだろうか。脳震盪を起すのならともかくも、却って書そのものを退けるのかも知れない。根底から歴史の見直しを迫られるからである。連中の軟弱頭脳はそれに耐えきれまいから話は合っている。

 鬼塚氏の執筆意欲は意気軒昂のようである。となると、この論を誰が受け継ぐのかという事になる。れんだいこもその一人に繋がりたいが、かなりの博学でなければ覚束ず、その点不安がある。しかしまぁ何事も一歩一歩でも進まないことには近づけない。ため息ばかりでは何も生み出さない。そう思って独習していくことに決めた。以上が第一感想である。

 2006.9.7日 れんだいこ拝

Re:れんだいこのカンテラ時評218 れんだいこ 2006/09/25
 【「鬼塚英昭氏のネオ・シオニズム研究」考その2】

 鬼塚英昭氏の自費出版「20世紀のファウスト」をようやく読み終えた。第二次世界大戦前後をネオ・シオニズム奥の院メンバーの一人として暗躍したアヴェレル・ハリマン氏の履歴に照準を当てて、近現代史の激動の解析を試みた好著であった。自費出版が如何なくその能力を発揮しており、太田龍・氏が何度も紹介していただけのことがある。他に「天皇のロザリオ」も著作しているとのことなので、これも読もうと思う。

 鬼塚氏は、気の遠くなる作業でコツコツと収集してきたであろう各種資料を、羅列するのではなく、単に字面を読むのではなく、的確に読み取って、場合によれば裏意味まで推理して、諸事象の中に垣間見える歴史意思をあぶり出している。これを能く為し得ていることで、問わず語りでこれまでの歴史家や評論家の無能力を際立たせている。れんだいこが範としたい学風を見せてくれた。

 れんだいこは続いて、久保田政男氏の「フリーメーソン」を読む機会を与えられた。これを鬼塚氏の「20世紀のファウスト」と比較すると、いわゆるフリーメーソン研究も随分と進化発達してきていることが分かる。久保田氏の「フリーメーソン」も好著であり、取り込みたい記述が何箇所もあるが、私的見解を披瀝し過ぎているきらいがある。その分やや実証性に欠ける。致し方ないとしても、今日的研究水準からすれば史実検証的に耐えられない記述が散見する。その点に於いて、鬼塚氏の「20世紀のファウスト」は、私的見解を述べる際には依拠した資料を提示しており、その分説得力を増している。鬼塚氏の読み取り方が正確であるかどうかが問われるが、れんだいこには全て示唆的であった。

 「シオン長老の議定書」に対する捉え方も的確であるように思われる。欲を云えば、小出しにするのではなく、これを廻って奥の院でどういう遣り取りしていたのか解析して貰いたかった。が、そういう資料が漏洩されるはずも無く、ないものねだりかも知れない。ヒトラー、スターリンの素性解析も説得的であった。久保田氏の「フリーメーソン」に於けるヒトラー、スターリン観との際立つ違いである。欲を云えば、ヒトラー、スターリンのそれぞれを、二面性即ちネオ・シオニスト性と反ネオ・シオニスト性のどちらに重きを置いて評するべきかの視座をはっきりさせて貰いたかった。

 マッカーサー、ケネディー、フルシチョフ考も為になった。核兵器開発制限交渉の裏舞台も生き生きと伝えていた。近現代史が、ネオ・シオニストの目論む革命と戦争の時代として推移しており、これに人脈が複雑に絡み合っていることも鋭く暴いている。産軍複合体が第二次世界大戦後も絶えず紛争を求めて暗躍していることも分かった。この辺りを広瀬隆・氏の「赤い盾」と読み比べてみようと思った。

 「20世紀のファウスト」ハリマン氏の晩年の「変節」にどのような要因があったのか。それまでのロスチャイルドのエージェント活動から「自律」し始めた契機は奈辺にあったのか、興趣が注がれる。1970年代、老齢化したハリマンの代わりにキッシンジャーが登場し、ネオ・シオニストをしてはるか今日に繋がる兇暴性を増す陰謀政策へと転換させた。れんだいこはそう理解したが、キッシンジャー登場の経緯が為になった。

 それにしても、政権の重みというものを改めて考えさせられた。トップリーダーの舵取りによって政治の質と世相が様変わりする事を教えられた。俗流自称マルキストが駄弁するへなちょこあんちょこ階級史観なぞ何の役にも立たない人脈が織り成す利権闘争的政治の実態を垣間見せてくれた。政治がまさに生き物であること、日々作り創られていることが分かった。れんだいこが次第に見抜いてきた政治運動の実態、即ち、ネオ・シオニズム被れの表からのウヨ、裏からのサヨの御用聞き的性格が裏付けられた。連中は口先では対立しているが、裏の奥の院を通じて呼応している。このことが確認できた。

 思いつくままを記したが、「20世紀のファウスト」は、現代政治運動が踏まえねばならない必読本的地位を獲得している。鬼塚氏は次には何を明らかにしてくれるのだろうか。今度は「天皇のロザリオ」の感想を記そうと思う。

 2006.9.25日 れんだいこ拝




(私論.私見)