世界各地のユダヤ同祖論考 |
更新日/2021(平成31.5.1栄和/令和3).7.24日
(れんだいこのショートメッセージ) |
ここで、「世界各地のユダヤ同祖論」につき検証考察する。 「ウィキペディア日ユ同祖論」、「日ユ同祖論の謎」その他を参照する。
「日ユ同祖論」(日猶同祖論、にちゆどうそろん)を「日ユ同祖論」プロパガンダの一点視野からのみ拝聴すめのは愚昧である。「ユダヤ人は、〇〇〇と共通の先祖を持つ兄弟民族であるという説」が各地にあり、どうやら世界植民地化の流れの中での慰撫理論として機能させられている観がある。ここで、このことを確認しておく。 2009.5.22日 れんだいこ拝 |
【世界各地のユダヤ同祖論考】 | |||||||||||||||||||||
18世紀の人リチャード・ブラザーズは、イギリス王家はイエスの祖先、イギリス王はイスラエルの後継者で、イギリス人こそが、ユダヤの失われた10支族の末裔だと述べている。これがブリテイッシュ―イスラエルニズムつまり英ユ同祖論の始まりである。彼の死後、エドワード・ハインが「イギリス国民と失われたイスラエル10支族の47の同一点」(1874年)を発表。これに触発された感じで4年後、スコットランド人マクラウドが日ユ同祖論を発表した。次のように比較されている。
「英ユ同祖論」から始まり「日/ユ同祖論」、「韓/ユ同祖論」、「エチオピア人/ユ同祖論」、「ネイティブアメリカインディアン/ユ同祖論」、「アメリカ黒人/ユ同祖論」という説も存在している。「アングロサクソン/ユ同祖論」もある。「アラブ/ユ同祖論」もある。 「日本人はユダヤ人の末裔なのですか?」のアンサーを転載しておく。
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【韓ユ同祖論】 |
2023.7.31日、佐々木李洋子「韓ユ同祖論と日ユ同祖論」その他参照。 「日ユ同祖論」(日本人の祖先はユダヤ人)を始め、「◯ユ同祖論」はもともとフリーメーソンが各国に吹き込んだ惑わしであることが明らかにされている。「日ユ同祖論」を信じ、「天皇家はダビデ王の直系」、「聖書の東方とはヤマトのこと」等というトンデモ説を語る者が増えている。 韓ユ同祖論がある。「我こそはメシアである」と主張する韓国発メシアが幾人も出て居る。文鮮明は、「私はソロモン王(ダビデ王の息子)の子孫である」と言っている。 |
大抵の韓国発メシアは、李氏朝鮮が禁書にした『鄭鑑録』を底本にしている。李氏朝鮮・大韓帝国における韓ユ同祖論とは、どのようなものなのか? 李氏朝鮮の国教は儒教(朝鮮朱子学)だった。古代ユダヤ教で許されていた神の信じ方は3つあったが、その1つが神を否定することだった。李氏朝鮮は神を否定することにして、国体を守ろうとした。しかし、もう1つの信じ方である唯一神を信仰することも許していた。その場合、『クッ』との同体異名を採る。末端の信仰がどうであったかはまた別として、宮廷に雇われていた巫女(国巫=クンム)にはそのように教えていたようだ。大韓帝国の愛国歌には、上帝との言葉が出てくる。上帝とは唯一である神のことを指す。対して、この時代は清国から独立したことで王ではなく皇帝を使うようになったが、国家の最高位は皇帝であった。唯一神である上帝は、皇帝よりも目上の存在とされていた。 |
【朝鮮ユダヤ同祖論、韓ユ同祖論】 | |||||
メシアはソロモン王の直系の血統から誕生するとされる。文鮮明は、セム族は黄色人種であり、古代イスラエル人の子孫が昔に韓国に移住した(韓ユ同祖論)と信じていたとされる。
■文鮮明教祖は「自分はソロモン王の直系の末裔」だと思っていた ソロモンは古代イスラエルの王で、ユダ-ダビデ-ソロモンの血統からメシアが誕生すると聖書で予言されている。文鮮明教祖は1945年10月25日イスラエル修道院で金百文から「ソロモン王の祝福」を受けたとしている。その後、「自分はソロモン王の直系だ」と信じるようになり、聖書の予言どおり自分はメシアだと原理の摂理に自分を当てはめてしまったと云われている。原理講論にはメシアは「ユダ-ダビデ-ソロモンの直系から誕生」する内容と、ユダヤの血統は関係なく「キリスト教徒から誕生」する二種類の記載が同時に存在する。文教祖は自分がソロモンの直系の子孫でないことも予想して、予言が当たらなくてもどちらでも取れるように書いておいたのだと考えられる。文教祖は「韓国はユダヤの風習や歴史背景が似ている」と述べるにとどまらず、昔に韓国に古代イスラエルの子孫がやってきて、その子孫の中でも自分はソロモン王の直系だと思い込んでいた。後にユダヤ民族の末裔が韓国に住んでいないと聞き、自分はソロモン王の直系の子孫ではないことを知り落胆し、その後は信者にも「自分はソロモン王の直系の子孫」と語らなくなった。文教祖は神の摂理の中心人物と自分の関係をこのように述べています。
この発言は1970年代の世界巡回前のもので、自分とソロモン王の関連性を否定していない。文教祖は自分がソロモンの子孫だと思い込んだように、全て自分に関係があるとする思い込みの深さは誰にも負けない。 |
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2012.1.7日、「日ユ同祖論と韓ユ同祖論」の「韓国のすべての風習はユダヤ民族の風習とかなり似ています。(by文鮮明)2 」。
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2012.1.9日、「日ユ同祖論と韓ユ同祖論」の「韓国とユダヤの共通点と矛盾
」。
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「★阿修羅♪ > 戦争b25 」「赤かぶ 日時 2024 年 8 月 08 日」、「日本をアメリカの空母として中国やロシアとの戦争に使うと中曽根も主張(櫻井ジャーナル)」。
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石井田恵/同志社大学大学院神学研究科博士後期課程の「中田重治における日本人とユダヤ人の関係理解 ―キリスト教シオニズムの一例としての考察―」 。 |
要旨 近年、キリスト教シオニズムは、世界情勢を理解する上で看過できないグルー プとして存在感を増してきている。キリスト教シオニズムは欧米だけでなく、日本にも存在する。中田重治(1870-1939)は、日本ホーリネス教会の源流となった伝道者である。中田はユダヤ人に強い関心を持ち、1932年以降、イスラエル主義への傾倒を強めた。そして、世界の終わりにイスラエルが回復され、その時、日本人が軍事的および宗教的な使命を果たすと主張した。本稿ではイスラエル主義とも呼ばれる中田の晩年の思想を、日本におけるキリスト教シオニズムの一例として考察し、中田がユダヤ人の回復に救済史的意味を 認め、ユダヤ人に過度な理想を投影していた可能性、さらにそれが多重的なユダヤ人理解を形成させ、結果的に、反ユダヤ主義を批判した中田を無意識的に反ユダヤ主義的にさせた可能性を指摘する。また、考察を通して、キリスト教シオニズムが一部のクリスチャンに支持されている理由、キリスト教シオニズムが抱える課題を明らかにすることを目指す。 |
Juji Nakada’s Idea about the Relationship Between Japanese and Jews: A Consideration of the Case of Christian Zionism Megumi Ishiida Doctoral Student Graduate School of Theology, Doshisha University Abstract: Christian Zionism is now becoming a prominent school of thought indispensable to understanding world politics. Christian Zionists exist not only in the West but also in Japan. Juji Nakada (1870-1939), one of the founders of Japan Holiness Church, was deeply interested in Jewish people and became Zionistic after 1932. He asserted that Israel would be restored in the end times and that Japan would play a role to help them militarily and religiously. In this paper, Nakada’s thoughts will be studied as one case of Christian Zionism in Japan. Though Nakada appreciated the Jewish people’s significance in salvation history, his eschatological expectations toward them may have influenced his multi-faceted understanding of the Jewish people. As a result, even though he criticized anti-Semitism, Nakada unwittingly leaned towards anti-Semitism. Finally, we will discuss the reason why Christian Zionism is supported by some Christians, and the problematic nature of their ideas. |
(1)はじめに |
近年、キリスト教シオニズムは、世界情勢を理解する上で看過できないグルー プとして存在感を増してきている。立山良司によれば、アメリカにおけるキリスト教シオニスト団体の多くがイスラエルのための活動を展開している。在イスラ エル米大使館のエルサレム移転の背景に、彼らの影響力があることは、多くの人々が指摘するとおりである。 キリスト教シオニズムは欧米だけでなく日本にも存在する。日本のキリスト教シオニストによる活動は1920年代頃から展開されてきた。そこには大きく二つの潮流―(1)無教会派の流れに属する人物やグループと(2)ホーリネス教会の流れに属する人物やグループ―がある。しかし、日本のキリスト教シオニズムに関する研究で中心的に扱われてきたのは(1)の無教会派の系譜に連なる人物やグルー プであった。 中田重治(1870-1939)は、日本ホーリネス教会の源流となった伝道者である。中田はユダヤ人問題に強い関心を持ち、1918~9年にかけて内村鑑三らとともに再臨運動(大正のリバイバル)を行った。また、池上良正や役重善洋によれば、中田は1932年以降、イスラエル主義への傾倒を強めていった。そして、世界の終わりにイスラエルが回復され、その時、日本人が軍事的および宗教的な使命を果たすと主張した。同思想は1933年のホーリネス教会分裂の一因ともなった。 本稿ではイスラエル主義とも呼ばれる中田の思想を日本におけるキリスト教シオニズムの一例として考察する。そこで、まず同思想について瞥見した上で、中田がなぜイスラエルに特別の意味を見出し、日本がイスラエルに対して使命を持つと考えるに至ったのか、時代背景、思想的背景を概観する。さらに、中田のユダヤ人と日本人の関係理解に見られる多重性を指摘し、それが中田の反ユダヤ主義に対する二面性となって表れている可能性を指摘する。そして、最後にキリス ト教シオニズムが一部のクリスチャンに支持される理由、キリスト教シオニズムが今日抱える課題を指摘することを目指す。 なお、資料としては主に1932年以降の中田の著作を用いる。『中田重治全集2』には、1932年以降の著作である『聖書より見たる日本』、『民族への警告』が収められているが、全集所収の版は、発禁処分等により改定が加えられた版であると見られる。本論文では、改定が加えられる前の版を用いることとする。具体的には、中田重治『聖書より見たる日本』(第七版、きよめ教会出版部、1938年)、および中田重治『民族への警告』(第一版、きよめ教会出版部、1933年)を使用する。 |
(2)日本民族の使命とユダヤ人の位置 |
本章では、イスラエル主義とも呼ばれる中田の晩年の思想におけるユダヤ人の位置、そして軍事的使命と宗教的使命の内容について瞥見する。『聖書より見たる日本』と『民族への警告』に記されている日本民族が担う使命の内容は、概ね以下のように要約できる。 日本民族は(1)イスラエル人民の救いのために祈り、世界に散在しているイスラエル人に神の選民たる自覚を起こさせ、故国に帰還させ、彼らの建国を援助するために用いられる。それは主イエスの来臨を早め、平和の千年王国設立にまで影響することである。 (2)世界の平和を攪乱する四大民族をおさえ、選民を救う使命を持つ。その時、世界を相手に戦い、大陸にも進出するであろう。 上記の使命は、中田自身が使用した用語ではないが、それぞれ(1)宗教的使命、(2)軍事的使命と言い表せよう。そのため、本稿でもこれらをそれぞれ宗教的使命、軍事的使命と呼ぶ。宗教的使命と軍事的使命は本来異なる性格を持つものである。というのも、軍事的使命は人間的な努力を強調するものであり、宗教的使命は再臨による解決を待つものだからである。中田は二つの使命の関係をどのように理解していたのであろうか。 中田は、自身らは非戦論者ではないと宣言する。そして、聖書無謬説的聖書解釈を基に、神はハルマゲドンの戦いをやめさせるために日本の軍備を用いるとして、軍備増強を正当化している。さらに、艱難時代に起こるであろう世界的大戦争の時に日本民族が世界を相手に戦い、平和を乱すものをおさえるために大陸に進出すると説く。 ただ、中田は日本の参戦が最善の選択と考えていなかったようにも思われる。というのも、中田は「徒らに日本の大陸政策を謳歌するのでもなければ、軍部に阿諛して居るのでもない」し、「決して戦争を礼賛する者ではない」と繰り返し主張しているからである。そして、「感謝すべき事にはその時 〔ハルマゲドンの大戦争、あるいはその序幕となる戦争の際〕日本は傍観的態度を取る」とも述べている。 さらに、中田は、平和は人間の手では実現できず、真の平和が訪れるには、キリストの再臨を待たねばならないと考えていた。『聖書より見たる日本』の最終章においては、我らは一日も早く主の再臨と裁きが行われるよう祈り求めなければならないと強調している。そして、再臨にいっさいの解決策としての期待を寄せる。中田にとり、真の平和の到来とは「千年王国」の到来に他ならなかった。その期待は、切迫した終末観となって表れている。たとえば、再臨は切迫している、主イエスはすぐおいでになるため偶像から離れなければならない、末の世のしるしを見せられているといった発言をしている。その他にも、現実に起こるものとして再臨を待望するという旨の発言―近々、キリスト信者の携挙が起こる、患難時代は必ず近々全世界に臨むといった発言―が目立つ。「我らは世界の平和はどうしても義の太陽、平和の君なる基督が再臨するのでなければ来たらないことを知つて居る」と述べているように、中田は真の世界平和はキリス トの再臨によって成就すると考えていた。 さらに、ユダヤ人の故国への帰還は終末の予兆と理解された。たとえば、中田は「猶太人が目醒め出して来たならば、この時代の終りが近いことを知つて備へせよ」と説いている。そして今現に、目覚めたユダヤ人が「続々その本国に帰りつつある」という。加えて、中田は「イスラエルが救はれ、故国に帰る事は主イエスの再臨を早める」と考えていた。中田が真の世界平和はキリストの再臨によってのみ成就すると理解していたことに鑑みれば、キリストの再臨を早めるという ユダヤ人の故国帰還にも重要な意味が付与されていたと見てよかろう。 以上で概観したように、中田は日本民族がユダヤ人に対して軍事的使命と宗教的使命を負っていると説いた。しかし彼は、すべての問題を解決しうるのは再臨のみであり、再臨はユダヤ人の故国への帰還によって早められると考えていた。救済史において重要な意味を持つイスラエルの回復に対して日本民族が使命を持つとする思想は、日本民族を救済史の中に位置付ける試みであったとも言える。 |
(3)思想的背景と時代背景 |
ユダヤ人の回復に特別の意味を付与する終末観は、ディスペンセーション主義に基づくものであると考えられる。ディスペンセーション主義とは、1830年代に元アイルランド国教会牧師のジョン・ネルソン・ダービー(John
Nelson Darby: 1800-1882)によって提唱された前千年王国説であり、ユダヤ人のパレスチナへの帰還を終末にいたる予定表の中に位置付けることを特徴の一つとする思想である。ディスペンセーション主義は、シオニズムを擁護する理論であった。そして、シオニズムも、ディスペンセーション主義の正当性を擁護するかのような形で隆盛した。それは、聖書と「今」を結びつける一つの根拠となった。 本章では、なぜ中田がイスラエルに特別の意味を見出し、日本がイスラエルに対して使命を持つと考えるに至ったか、その理由について時代背景、思想的背景 を中心に考察する。 |
3-1. アメリカにおけるディスペンセーション主義 森孝一によれば、ディスペンセーション主義は、1870年代以降のアメリカで受け入れられた。19世紀前半のアメリカを支配していたのは、楽観主義的かつナショナリスティックな色彩の強い、後千年王国説であった。しかし、1870年代以降のアメリカにおいて、(1)工業化にともなう都市の発達と移民の急激な増加、また1873年以降の恐慌と労働争議の増加、1880〜90年代の人種暴動、暴力を伴う労働運動などの頻発、(2)思想状況における新しい波―進化論、聖書批評学、比較宗教学等―の到来により、伝統的なプロテスタント中産階級の価値観がゆるがされ、彼らは危機感を覚えた。このような中、ディスペンセーション主義が拡大していった。 さらに、アメリカにおけるディスペンセーション主義は、その後、独自の変容を遂げた。元来、ニューイングランドの正統的なカルヴィン主義的信仰理解からすると、ホーリネスは救いにおける神の恵みの絶対唯一性を否定するものであり、異端的に映った。しかし、D・L・ムーディー(Dwight L. Moody: 1837-1899)はノースフィールド・カンファレンスを通して、ホーリネスの教えを当時の前千年王国主義者の間に定着させた。前千年王国主義者は異言を語ることの中に千年王国の前兆を見、ホーリネスの人々は、個人の魂と社会の浄化の中に聖霊の働きを見たという。 また、森によれば、前千年王国主義は世界と歴史に対して分離主義の立場をとり、政治や社会改革から自らを分離しておくことに努める。そのため、分離主義は時として平和主義に進む。ところが第一次世界大戦を境に、アメリカにおけるディスペンセーション主義は、軍備、戦争を支持する立場を取り始めたという。森は、アメリカにおけるディスペンセーション主義の軍備、戦争に対する積極的立場への移行は、戦時下のヒステリー現象によっておこってきた「非国民」という非難に起因した、と指摘している。 中田が再臨を待望するだけではなく、自民族の軍事的使命を説くに至った背景にはホーリネス教会に対する「非国民」という批判の高まりがあったのではないか。ホーリネス教会に対する迫害は1939年の中田の死後、激しさを増し、1942年にホーリネス系教会の一斉検挙が起こっている。ただ、それ以前から、ホーリネス教会に対する迫害は始まっていた。米田勇によれば、1928年には幹部の一人の息子が靖国神社参拝を拒否したことによって退学を要求され、1930年4月には、満州南部の安東高等女学校に通うホーリネス信者の生徒4名が神社参拝を拒否したことに端を発する一連の紛争が発生している。同年9月ごろにも、第二の安東事件ともいうべき迫害事件が山陰の浜田の女子師範学校で起こっている。このようなホーリネスを取り巻く環境の変化は、中田が軍事的使命を説くに至る要因になったと考えられる。 |
3-2. 中田に見られるディスペンセーション主義の影響 中田は青森県弘前市に生まれ、17歳頃に受洗した。東京英和学校(のちの青山学院)に学んだが、成績不良で退学となる。しかし院長本多庸一の計らいにより千島に伝道師として赴き、1894年に按手礼を受けた。そして、1896年末に渡米し、ムーディー聖書学院の短期コースを終了した。役重は、中田がムーディー聖書学院で学んだ神学は、ディスペンセーション主義と結合したホーリネス信仰であったと述べている。 中田は帰国後、すぐさまディスペンセーション主義を強調することはなかった。しかし、1917年10月、新教団設立に伴い、初代のホーリネス教会の監督となり、ダービーの弟子の一人であるウィリアム・ユージン・ブラックストン(William Eugene Blackstone: 1841-1935)の著作 Jesus is Coming (1878)の邦訳『耶蘇は来る』 を出版した。役重によれば、これはホーリネス教会の主要テキストの一つとなっ たという。 1918年から、中田は内村鑑三、木村清松らとともに再臨運動を行った。米田によれば、1918年の講演会では「日出ずる国より昇る天使」と題して、日本国民にもキリストの再臨に関する使命があると説かれたという。中田がディスペンセーション主義を強調し始めた初期の段階で、すでに日本人の使命にも関心を持っていたことが窺える。ディスペンセーション主義に基づく再臨思想は、日本人の使命が高唱されるようになってからも強められた。1930年、31年にホーリネス教会でおこったリバイバル、1932年11月の講演「聖書より見たる日本」、また1933年に行われた「民 族への警告伝道」もディスペンセーション主義の再臨信仰を共有しており、信徒らも再臨への期待を高めた。ブラックストンによる『耶蘇は来る』の50銭の廉価版も発行され、前千年王国思想が力説された。日本民族の使命を強調するにあたって、ディスペンセーション主義は強められていった。 以上、中田がアメリカでディスペンセーション主義とホーリネス信仰が融合した神学に触れ、これを基に日本民族の使命を自覚していったと述べた。彼の再臨信仰はディスペンセーション主義に基づくものであったと考えられる。ただ、中田は日本民族が宗教的使命のみならず、軍事的使命も持つと説いた。アメリカのディスペンセーション主義は戦時下のヒステリー現象によっておこってきた「非国民」という非難によって軍備、戦争を支持する立場を取り始めた。中田が日本民族の軍事的使命を高唱するようになった背景にも、日本における国粋主義的機運の強まり、ホーリネスに対する「非国民」という非難の高まりがあったと考えられる。 |
(4) ユダヤ人と日本人の関係理解に見られる多重性 |
中田は日本人のユダヤ人に対する使命を強調したが、当時の日本人にとって、ユダヤ人は遠い存在であった。日本は1933年のドイツにおけるナチス政権成立まで、政府レベルでユダヤ人問題に向き合うことはなかった。1938年12月に五相会議で、日本外交の基本方針として、英米との対立回避のための政治宣伝、あるいはユダヤ系米国資本の導入を目指した「ユダヤ人利用」の原則が定められたが、その原則も1942年には破綻している。宮澤正典は、日本政府が一貫して、ユダヤ人を排斥する必然性はないとしていた理由に、ユダヤ人が日本人にとって身近な存在ではなかったこと等があると指摘している。 中田は、日本人にとって遠い存在であったユダヤ人と、日本人の関係をいかに理解したのか。中田のユダヤ人と日本人の関係理解を表す語を挙げるとすれば、日ユ同祖論、「セム族」、選民と非選民、が挙げられる。以下では、その関係理解に見られる多重性から、中田がイスラエルに特別な意味を見出した理由について考察する。 |
4-1. 日ユ同祖論 中田のユダヤ人と日本人の関係理解について、日ユ同祖論を抜きにして語るこ とは困難である。中田は度々ヘブライ語と日本語の類似性に言及し、ユダヤ人が日本に渡来したことには歴史的根拠があり、日本民族には、ユダヤ民族の血が混じっていると主張する。 宮澤によれば、中田の同祖論は、主に佐伯好郎「太秦を論ず」および小谷部全一郎『日本及日本国民之起源』の主張をベースにしたものであるという。ただ、中田は、佐伯や小谷部と異なり、同祖論を再臨の使命に関係づけて信仰の世界に持ち込んだ点で特徴的であったという。中田は、聖書中に記されている「東」、「日のいづる處」を日本と同定し、それらが日本に関する預言であると考えた。たとえば黙示録7:2の「東より上り来たる天の使い」を日本国民のことであると見なし、詩篇50:1、113:3、イザヤ59:19、マラキ1:11の「日のいづる處」も日本についての記述であると解釈した。中田は、このような聖書解釈を基に日本人の使命について語った。 中田は日ユ同祖論を支持する一方で、日本人=ユダヤ人ではないとする。たとえば、彼は英米におけるアングロ・イスラエル主義―すなわち、現在全世界に散在する英国並び米国人が失われたイスラエルの十族であるという説―に関連して、「我らは決して日本・イスラエル主義を唱へて居るのではない」と述べる。そして、「只英国人の中に失はれた十族の或一部が雑つたことは事実である様に、日本にもイスラエルの血の流れが入つたといふだけであつて、日本人そのものはイスラエルの十族であるなどゝ主張する者でない」と続ける。 日ユ同祖論は中田の主張を理解するのに欠かせない理論である。一方で、それが中田の思想に占める位置を過大評価することにも慎重であるべきではないか。中田は「我らは大和民族がイスラエルと血の関係あらうがなからうが聖書の上より見て彼らの為に祈り且つ盡さねばならぬ事を高調するのであつて、もし血の関係があるとするならば尚更の事、彼らを援助するのは当然であるといふのみである」と論じている。つまり、彼の主眼は同祖論の正当性を立証することに置かれていたのではなく、同祖論を根拠として日本人が使命を持つと主張することに置かれていたと言える。 |
4-2. 「セム族」としての同族意識 中田は日本人とユダヤ人は同じ「セム族」であると考えていた。なお、ここで中田の言う「セム族」とは言語学的集団のことではなく、創世記に登場するセム、ハム、ヤフェトの「セム」のことである。 創世記9:18-19に「この三人はノアの子らで、全地の民は彼らから出て、広がったのである」とあり、10章にはセム、ハム、ヤフェトの系図が記されている。これをもとにセム、ハム、ヤフェトを黄色人種、黒色人種、白色人種に当てはめる解釈がある。中田もセム、ハム、ヤフェトを黄色人種、黒色人種、白色人種に当てはめて理解していた。 また、中田は「東洋人」と「西洋人」を対照させ、「最初人種は或る高原より東へ東へと降つたものと、西へ西へと降つたものとあり、その東へ東へと降つた者が東洋人で、西へ西へと降つた者が今の西洋人である」と述べている。彼は早稲田大学教授の西村真次による「東方憧憬」説―すなわち「凡て人類は太陽に対する一種の憧憬を持ち、日の出づる処を憧れて東へ東へと移つて行つた」とする説を紹介している。これは、西へ西へと進むアングロサクソン主義に対するアンチテーゼとして理解できる。 中田は「黄色人種・東洋人・アジア人」の対立概念として「白色人種・西洋人・ ヨーロッパ人」を想定していたであろう。たとえば、中田は国際連盟が「偽キリストの先駆者」であるとし、日本は「列国」の御機嫌を取っている場合ではなく、 「亜細亜は亜細亜人のものである。彼らは彼らでやればよい」と述べ、国際連盟に代わる、黄色人種連盟が将来できるであろうと主張する。さらに、各国の 白色人種は彼らが抱いている白人優越主義を破られまいと「黄色人種の代表ともいふべき日本」をおさえつけようとしていると説く。 また中田は「白色人種・西洋人・ヨーロッパ人」を中心とする聖書解釈も批判している。たとえば、これまで、聖書における「日本に関する事柄」は、白人本位的な聖書解釈がなされてきたことによって隠されてきたと主張する。中田は聖書における日出る国や、東の島々という言葉を日本と結びつけて解釈し、それらの預言を「日本に関する事柄」と理解していた。黙示録やその他の預言書の預言は白人本位で解釈すべきでなく、ユダヤ人を中心にして解釈すべきで、広い心をもって見ねばならないという。 では、中田は日本人とユダヤ人との関係をどのように捉えていたのか。彼は日本人とユダヤ人が同じアジア人であるという認識を持っていた。たとえば、「我ら〔日本人〕が極東のアジア人とすれば、彼ら〔ユダヤ人〕は極西のアジア人である」、また「同じセム族であるが故に、我国が武力を以て彼を助けるとするならば、彼は金力を以て我に報いると想像することはさほど困難でない」といった発言には、同じアジア人、「セム族」としてのいわば同族意識が見られる。この同族意識は、神認識にも反映されている。たとえば、全世界に伝えられた「セムの神」は「即ちアジア人の神なるエホバ」であると述べている。 以上、中田の主張から、彼がユダヤ人と日本人を同じ「黄色人種・東洋人・アジア人」と捉えていたであろうこと、そして「黄色人種・東洋人・アジア人」の対立概念として「白色人種・西洋人・ヨーロッパ人」を想定していたのであろう ことが指摘される。 |
4-3. 選民ユダヤ人と非選民 中田はユダヤ人を選民と認めていた。ユダヤ人を選民と認めることは、同時に非選民の存在を認めることを意味する。非選民とは、すなわち非ユダヤ人を指す。中田は「ユダヤ人以外の世界の人間を総称して異邦人、英語ではGentilesと 呼ぶ」と定義している。中田は、欧米人は「日本人や支那人やアフリカ土人等」のことを異邦人と呼び、キリスト教国である彼ら自身は「その籍を脱し」ている と主張していることを批判する。そして、「ユダヤ人ならざる者は、何国人たるを問はず、凡て異邦人」であると述べる。彼はユダヤ民族という一つの民族の「選び」を認めることによって、それ以外の民族が等しく非選民であると主張した。 さらに、中田は、神は「世界の人を平等に愛し給ふ」と説く。そして、すべての民族は祝福を受けると主張する。たとえば、「神ヤペテを大ならしめたまはん」という聖書箇所を根拠に、「過去幾世紀か神の祝福はヤペテの子孫の上に置かれ、白人は世界の果々にまで手を伸ばす様になった」と述べた上で、セムの上にも祝福があると説く。 加えて、中田は聖書の記述を基に、各民族にはそれぞれ使命が与えられていると主張する。そして、日本民族のみが特別に使命を与えられているわけではないとする。 たとえば、中田は伝道の使命に関して、「初めはエテオピア人の如き黒色人種が用ひられ、次に白色人種によりて福音が宣伝へられたが、神は今や黄色人種に使命を賦けて用ひんとして居給ふと思われる。強ち黄色人種が偉いからではなく、万物を支配し給ふ神が崇められ給はんが為に、今や黄色人種の上に神の御手が置かれてある」と。 中田は西欧における「異邦人」理解を批判する中で、ユダヤ民族の選民たるを認め、非ユダヤ人は等しく非選民であると主張した。彼が、神が世界の人を平等に愛し、すべての民族が祝福を受け、すべての民族が使命を持つと説いたことに鑑みれば、中田はユダヤ民族以外のすべての民族の平等―ただ、中田の念頭にあったのはアジア人と欧米人の平等であろう―を訴えようとしていたと考えられる。 以上、本章では中田がユダヤ人と日本人の関係をいかに理解していたのかについて論じた。中田は、ユダヤ人と日本人が同じアジア人であるという意識を持っていた。しかし一方で、ユダヤ人を選民、また日本を含めるそれ以外の民族を異邦人と定義し、非ユダヤ人である民族間の平等を規定した。また、日ユ同祖論は、日本人がユダヤ人に対する、そして救済史に対する使命を持つことの根拠とされた。中田は自身の理想―西欧とアジアの間の平等、救済史の中で役割を果たす日本人―を遠い存在であったユダヤ人に投影したのではないか。 |
5. 反ユダヤ主義に対する中田の態度の二面性 シオニズムは反ユダヤ主義の台頭に伴い本格化していった。勝又悦 子によれば 、近現代ユダヤ教において宗教に対する立場の二極化が進行した。東欧では敬虔主義運動が拡大した。一方、西欧・アメリカ合衆国では居住する国家の国民としての意識が高まり、ユダヤ教から改宗、同化する者が現れた。しかし、二極化が進む中で、いずれの運動も反ユダヤ主義の台頭に直面することとなる。ロシア帝国領内ではユダヤ人迫害(ポグロム)が頻発し、同化が進んだはずのフランスでも、1894年にフランス陸軍参謀本部のユダヤ人大尉アルフレド・ドレフュスがスパイ容疑で逮捕されるドレフュス事件が起こった。さらにドイツでは1933年に ナチス政権が成立し、ユダヤ人社会に対する暴力を伴う対ユダヤ政策が四つの段階を踏んで実行された。反ユダヤ主義の根深さが露呈される中、ヨーロッパ以外の地にユダヤ人国家の建設を目指すシオニズム運動が本格化していった。 中田は世界的な反ユダヤ主義の高まりを批判した。ただ、中田自身も無意識的に反ユダヤ主義的傾向を有していた。以下では、中田の反ユダヤ主義に対する矛盾する態度―反ユダヤ主義批判と、自らの無意識的反ユダヤ主義的傾向―を指摘し、今日に通ずるキリスト教シオニズムの課題を明らかにしたい。 |
5-1. 反ユダヤ主義批判 中田は西欧における反ユダヤ主義を批判し、日本が同様の反ユダヤ主義に陥らないようにと述べた。中田はドイツにおける反ユダヤ主義について度々言及している。たとえば、ヒトラーが「猶太人くたばれ、パレスチナに帰れ」というスロー ガンをもって盛んに反ユダヤ熱を煽っていること、また、彼が内閣を組織した場合にユダヤ人の財産を政府が没収すると説いていることを批判している。また、 ロシア、英国、米国においても反ユダヤ主義が存在しており、程度の差こそあれ「四大人種」が皆な反ユダヤ主義に加担していると指摘する。そして、近年の日本における反ユダヤ主義の高まりに警鐘を鳴らす。 中田の批判は、キリスト教界における反ユダヤ主義にも向けられる。たとえば、中田は「欧米人は猶太人に対して天主教に依りて吹込まれた偏見を持つて居る」とし、反ユダヤ主義的傾向がカトリックにあったと指摘する。また、教会が愛を説きながら、ユダヤ人を虐殺してきたこと、そして彼らを苦しめてきたことを 断罪している。 さらに、中田は置換神学的な聖書解釈も否定している。マーク・R・アムスタッツによれば、置換神学とは、キリストが現れたとき、神はユダヤ人とその土地を 気にかけることをやめ、新しい契約の下で、イスラエルは「新しい」イスラエル、すなわちイエスを救世主であり神であると信じるすべての人間から成るキリストの教会に置き換えられたとする考えである。中田は、「彼ら〔英米人〕の引用する聖句といふものは、盡くイスラエル人に関したものを自分等に当て嵌めて考えて居るので、誠に得手勝手な解釈が多い」と置換神学的聖書解釈を批判している。中田にとって、黙示録やその他の預言書の預言は白人本位で解釈すべきでなく、ユダヤ人を中心にして解釈すべきものであった。そして、在来の註釈家は白人中心に偏していたと指摘する。中田は、イスラエルの選びは取り消されておらず、ユダヤ民族は回復されると説いた。 中田が反ユダヤ主義に対する問題意識を持った理由の一つとして、米国における排日運動が投影された可能性が指摘される。中田は『聖書より見たる日本』の中で、欧米における排日運動について論じている。「今迄は世界の人々は日本人を賤しめて排斥したものであるが、今日に於いてはこの人種は驚くべき人種であるとして底気味悪く感じ、之を危険視して排斥するやうになつた」と。中田は、排日運動について論ずる直前に、ユダヤ人と日本人に共通する優れた点を指摘している。中田は「優れているために排斥されるユダヤ人」に「優れているために排斥される日本人」の姿を重ね合わせたのではないか。 また、中田による反ユダヤ主義批判は、反ユダヤ主義に加担してきた欧米諸国と、それに加担していない日本人との対照をなす形で展開されている。そして 「この民〔ユダヤ人〕に神の選民であるとの自覚を明白ならしめて結びつけ、而してその故国に帰るやうにするのが、彼らを虐めて居る欧羅巴人ではなくして、我ら大和民族である」という主張にも表れているように、世界の強国の中でもユダヤ人を迫害しない日本が、ユダヤ人に対して使命を持つと理解した。 以上で概観したように、中田の反ユダヤ主義批判はいわゆる人道的観点からなされるものとは性質を異にしていた。彼は、排日運動と反ユダヤ主義の間に類似性を見出し、ヨーロッパにおける反ユダヤ主義を批判した。また、日本が反ユダヤ主義に加担してないことを、日本民族が特別の使命を持つ根拠の一つとした。 |
5-2. 反ユダヤ主義的性格 中田は反ユダヤ主義批判をしつつも、自身の反ユダヤ的性格に無自覚であった。中田はユダヤ人を迫害してはならない理由として、「大多 数の猶太人は、真面目に聖書を信じ、今尚メシヤ(救主)の来臨を待つて」おり、「彼らの願ふメシヤは我らの現に待望んで居る再臨のキリストである」ことを挙げている。しかし、ユダヤ人が待ち望んでいるメシアと、一部のキリスト教徒が待ち望む再臨のキリストが同じものであるとの主張は、当時も現在も大多数のユダヤ人にとって受け入れられるものではなかろう。また、杉田六一も、中田による「自民族の利益のためにユダヤ人のために祈れ」や、「ユダヤ人を呪えば、呪われる」などの主張は、一種の強迫観念であり、親ユダヤというよりも反ユダヤ主義を思わせると指摘している。 このように、中田は反ユダヤ主義を批判しつつも、自身の反ユダヤ主義的性格には無自覚であった。彼は終末論的期待や、アジアと欧米の間の平等実現への期待を持ち、自身の聖書理解に基づいて反ユダヤ主義を批判した。ただ、ユダヤ人に対する自身のユダヤ人観、ステレオタイプの押し付けは、反ユダヤ主義的でさえあった。現在のキリスト教シオニズムも、ユダヤ人に対する過度の期待感が持つ危険性と決して無縁ではない。 |
6. おわりに 中田のユダヤ人理解は多重的であった。この多重的なユダヤ人理解は、中田の様々な理想が投影された結果、形成されたように思われる。まず、中田はユダヤ人の選民たるを認め、シオニズムの勃興―ユダヤ人の故国帰還に、終末の前兆、再臨を早めるものとしての意味を付与した。また、日本人が、その特別な民であるユダヤ人に対して使命を持つと説き、日本を救済史という世界史の中に位置付けた。 日本人が反ユダヤ主義に加担していないという主張や、日ユ同祖論は、日本人がユダヤ人に対する特別の使命を負うことの根拠となった。日本民族が宗教的使命のみならず軍事的使命も負うと中田が主張した背景には、ホーリネスに対する「非国民」という非難の高まりもあったと考えられる。 さらに、中田はユダヤ人と日本人が同じアジア人であるという意識を持ちながらも、ユダヤ人は選民であるが日本人は非選民であるとして、両者を区別した。また、ユダヤ民族以外の民族は日本人を含め等しく非選民であり、すべての民族は平等であると説いた。これらの主張や、西欧における反ユダヤ主義に対する批判の背景には、アジアと欧米の間の平等実現への期待もあったと思われる。このように、彼は自身の理想―救済史の中で役割を果たす日本人の姿、西欧と アジアの間の平等実現の希望―を遠い存在であるユダヤ人の中に見たのではないか。ただ、過度な理想の投影はやや利己的なユダヤ人理解、あるいは非自覚的な反ユダヤ主義的傾向を生み出すことになった。今日のキリスト教シオニズムも、一方的な期待の投影が持つ危うさに、自覚的である必要がある。 さて、本稿で考察を加えた中田のイスラエル主義はホーリネス教会に分裂をもたらした。しかし、一方でリバイバルももたらした。使命を果たすことにより救済史に参与するという中田の思想は、ある一定数のクリスチャンの支持を得た。このような歴史観は、今日においても多くのキリスト教シオニストを惹きつけている。人類の救済という神の計画の中に、自らの使命―明確な人生の目標を見出すことで、個人の人生を凌駕する歴史への参与が可能になる。そのことにより、個人の生は新たな意味を持つことになる。しかし、このような歴史観は、異なる歴史観を持つ他者との対話を拒否させがちであり、またその歴史観を共有しないものを排除しがちである。第二次世界大戦以降、中東問題はさらに複雑化している。キリスト教シオニストは、特定の救済史観への固執が持つ危険性についても認識することが求められている。 推薦者:小原 克博 同志社大学神学部教授 |
(私論.私見)