日ユ同祖論解説その2

 更新日/2021(平成31.5.1栄和/令和3).7.24日

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「日ユ同祖論」につき検証考察する。 「ウィキペディア日ユ同祖論」、「日ユ同祖論の謎」その他を参照する。

 日ユ同祖論(日猶同祖論、にちゆどうそろん)とは、日本人とユダヤ人は、共通の先祖を持つ兄弟民族であるという説であり、理論的にはユダヤ人の祖日性、日本人の祖ユダヤ性の二種が考えられようが、専らユダヤ人の祖日性としての民族的同一性、古代イスラエルの全12支族のうち「失われた10支族」の一部が日本に渡来し、天皇制王朝を創建したという天皇制のルーツとしてのユダヤ性が問われる。

 2009.5.22日 れんだいこ拝


 「聖書と日本フォーラム」の「日本のイスラエル」、「イスラエルと日本の類似」を転載する。
 日本ルーツシリーズ
1 神道のルーツは古代イスラエルか? 小石 豊
2 お神輿とイスラエルの契約の箱 小石 豊
3 神社とイスラエルの神殿 久保 有政
4 お正月とイスラエルの過越の祭り 小石 豊
5 わが民族の心の故郷1億2千万の私たちはどこからきたのか? 畠田 秀生
 1 神道のルーツは古代イスラエルか? 小石 豊
 年が明けると、日本列島至るところ善男善女の大群衆が敬虔な思いをこめて神社にお参りにでかけます。その数なんと8千万。いやそれ以上!大晦日から神社への道路は車の渋滞。日本人全体の3分の2を超える数です。「今年こそは良い1年でありますように」と柏手を打ち、頭をさげます。平素は信仰に無関心のように見えますが、この時期だけは国中熱心な信者で溢れます。日本人と神道は、建国以来連綿と続けられてきました。

 その神道の中心、伊勢神宮がここに安置されてから2千年。キリストの誕生と丁度同じですが、神道そのものはそれ以前からあったわけで、日本民族存在の心のよりどころとして今も息づいています。20年毎の式年遷宮は1300年前から数えてすでに61回。シンプルな建物にはいつも檜の香りがただよい、今日も石畳を歩く音が聞こえています。

 「神道は弥生文化をもたらした渡来人とともに大陸から渡来してきた。」というのが考古学者の大方の見解です。縄文時代の神話も入り込んでいますが発生期は弥生時代でした。この宗教の特徴は無教祖・無教義・無戒律・無偶像。天皇家とともに国民と深くかかわっています。祭儀は非常に伝統的で行事重視であり、それを保つことに強い意義と目的をもっています。


 このように高度に整えられた宗教が、この列島で自然発生的に発生し育ったとは考えられません。文明の発祥地であるメソポタミヤ、エジプトかイスラエルからもたらされたと思われます。今から70年程前、小谷部全一郎は、古代日本にイスラエル人が大挙して渡来し、国家意識や天皇制や神道を植えつけたに違いないと考えました。その根拠として、紀元前700年代にイスラエル人の一部が国を追われ東に移動したこと。イスラエルの風俗習慣・言語・宗教性・民族意識など、日本のそれが非常に似ている点をあげています。下の『神道と古代イスラエルの比較』は、その論旨を表にしたものです。彼は今まで説明できなかった神道のすべてが、旧約聖書ならば充分説明できると語りました。

神道と古代イスラエルの比較
項目 神道 古代イスラエル
禊ぎ・清め 神を祀ったり喪があけた時や大嘗祭の時 祭司は衣服を洗い水浴びる 民数記19.7
鳥居 神社の入口の二基の柱、上部に横木を渡す 柱を本堂の前左右に建てる 歴代誌3.17
神殿の檜材 神殿の造営は必ず檜材、屋根は杉材 ソロモンの神殿も同じ サムエル5.11
柱は堀建て 屋根を支えている両方の柱は地より棟まで 幕屋の柱も掘っ建てで棟まで達している
高き所 古代から高い所に城(シロ)を築いた シロに会見の幕屋を建て ヨシュア18.1
宣言 天照大神「まず豊受の神を礼拝せよ」 ソロモン「まず神殿造営を」列王記7.1
厚板の塀 鳥居を起点に四方を瑞垣の塀で囲う 幕屋は布、神殿は厚板の塀 列王記6
神殿の構造 拝殿と奥殿、木材を重ねた階段 聖所と至聖所、木材の階段 列王記6
榊の枝 榊の枝を振る清め、玉串の神前への供え物 らい病の清めヒソプを振る レビ14.6
獅子の像 石像の雌雄1対の獅子、獅子舞 神殿の獅子像や王座の脚彫刻 列王記7
しめ縄 しめ縄を神聖な場所や器具、家などに張る 測り縄で巻いて30キュピト 列王記7.23
自然石 伊勢神宮の石垣など自然石を用いる 祭壇は切石で築かない 出エジプト20.25
石をまつる 鹿島神宮や主石神社の御神体は石 石を立てて誓約 創世記28.16 31.44
柱は神表示 この三柱はみな独神なりまして 天の御柱 昼は雲の柱、夜は火の柱 出エジプト13.22
雲は神臨在 神は雲の上におられる 雲上人など 神臨在の栄光の雲満ちた エゼキエル10.3
白を尊ぶ 皇室や神社の衣服は純白が用いられる 白い布、白亜麻布 伝道の書9.8
塩をまく 葬儀後の清め、神殿の塩盛、相撲の塩まき 穀物の捧げ物に塩 祭司と塩 レビ2.13
屍を忌む 汚れに触れた者は厳しい禁制の後清められ 屍に触れた者は七日間汚れる 民数記6.6
お守り札 家に張ったり腰に下げたりする 玄関右の柱に小箱付ける 出エジプト13.9
手洗い盤 神社の入口にあり水をたたえ手洗い口濯ぐ 幕屋と祭壇の間の洗盤 出エジプト40.7
神社にはどこでも鳩がいる 動物犠牲の1つに1羽の鳩 レビ12.8
賽銭箱 賽銭箱は故実に基づく造営ではない 神殿経費捻出以前はなかった 歴代誌24
神酒と酒宴 神酒として欠くことのできない供え物 注ぎの捧げ物ぶどう酒 出エジプト29.40
初穂の祭り 11月の新嘗祭は新穀を捧げて祀る大祭 初穂の7週の祭り 出エジプト29.40
拍手 神社参拝や約束事で手を打つ 喜びの表現 油を注ぎ手を打った 列王記11.12
お辞儀 身を屈め頭を下げ神を礼拝し人に礼をする ヤコブ7回地に伏してお辞儀 創世記33
祭りと御輿 祭りでお御輿を担ぎ熱狂し踊る風習の継承 ダビデは契約箱の前で踊る サムエル6.12
神楽舞 上代の神楽と楽器は神話によく出てくる ミリアムはタンバリンで 出エジプト15

 あなたが聖書をお持ちでしたら、どうぞ旧約聖書を開き、表の下段に記されている引照に従って調べてください。長い年月をかけての民族移動や世代交代で伝統に変化が生まれ、また他宗教の影響があったとしても、古代イスラエル宗教が神道の中で保存されていることに驚かれることでしょう。聖書は失われたイスラエル人が、終わりの日に再び出現し、ユダヤ人と合体して12部族を完成すると預言しています。そして今が終わりの日です。日本人が神道を愛する姿は、そのイスラエル人が真の神を見失ったものの、故郷を忘れることができず、記憶したわずかなものを形骸化した宗教という形で守ることに意義を見い出そうとしているように見受けられます。 

 旧約聖書はメシア(救い主)が来ることを預言しました。そしてイエス・キリストが来られました。しかしユダヤ人はこのお方を拒否しました。そこで救いがユダヤ人に限らず、全て信じる人々に及びました。それが新約聖書の教えです。『すべての人は罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ神の恵みにより、イエス・キリストによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。』(ロマ2.23、24) 『わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っています。』(ヨハネ5.24)

 このように聖書は私たち日本人とは縁のない遠い外国の教典ではなく、仏教よりももっと近い、日本人の心の奥深いところで共鳴する、驚くべき真理なのです。そこでまず旧約聖書を深く学ばれることをお勧めします。
 2 お神輿とイスラエルの契約の箱  小石 豊
 
神道の神事が、旧約聖書の神事やできごとと類似しているという指摘は、神道関係者のあいだで早くからささやかれてきました。一方、クリスチャンは毎日聖書を読み、賛美を歌い、お祈りをします。その中で旧約聖書を読んでいると、日本の風俗習慣と似ているところが多くあるので、不思議に思ってきました。

 『お神輿』は夏や秋の風物詩。お祭りのメイン・イベント。その日になると、若い衆が笛や太鼓に合わせ、神輿をかつぎ、ワッショイ、ワッショイと町中を練り歩きます。山車でひっぱるもの、海や川に入るものもあります。
日本全国にいったいどれだけのお神輿があるのでしょうか。大変な数でしょう。お神輿は場所によっていろいろ違いますが、原型は等身大の箱に2本のかつぎ棒が通り、屋根には鳳凰が舞っている形をしています。

 ではこれはいったい、誰が、いつ、何の目的で始めたのでしょう。箱は何を象徴しているのか、なぜ鳳凰が舞っているのか誰も説明できません。すべてご先祖様から伝えられてきた神事であることしかわかりません。日本人の先祖の多くが大陸から渡来してきたとしたら、アジアの近隣の国に同じような風習があってもいいはずなのに、どの国にもありません。ところが驚くなかれ。これが唯一イスラエルにあったのです。
 
 旧約聖書には『契約の箱』という神器が出てきます。それはアカシヤ材に純金を覆って作られ、大きさは等身大で、四隅には金の輪が取り付けられ、アカシヤ材の棒が2本、金で覆われ、輪の中を通してありました。
箱の上には『贖いのふた』があり、1対の『ケルビム』(天使)が翼を広げてそのふたを覆っていました。

 これはイスラエルがモーセに導かれて荒野を放浪中、シナイ山のふもとで神の指示のもとに製作されたもので、彼らが行進するときには、必ずこの契約の箱を先頭に行進しました。(出エジプト25) いわば神の臨在を象徴する重要な神器でした。 その後ヨシュアによって約束の国にはいるとき、契約の箱をかついだ祭司がヨルダン川にはいると、水はせき止められ、全員が渡り終わるまで箱は川の真中に止まっていました。(ヨシュア記3)

 その後ダビデ王が、この箱をエルサレムに運び入れようとして牛車に載せた所、神の聖なる方法でなかったため神罰が起こり、箱に触ったウザが即死しました。ダビデは恐れて神にお伺いをたて、祭司の肩にかつぐことを教えられました。

 やがて契約の箱は祭司にかつがれ、人々の熱狂的な叫び声と踊りの中でエルサレムに運びこまれ、ダビデ王も感激のあまり、人民の前で踊りました。そして人々に輪型のパンやなつめやしの菓子やほしぶどうの菓子が振る舞われました。(サムエル6)

 今日、契約の箱は行方不明になっています。預言者エレミヤがエルサレム陥落のとき荒野の中に隠したといわれていますが、さだかではありません。箱の形、ケルビムと鳳凰、2本の棒、担ぐ作業、川や海に入る、山車にひかれる、喜びの祭りなどなど、まさに日本のお神輿のルーツを見るようではありませんか!

 契約の箱には『三種神器』が入っていました。それはモーセがシナイ山で唯一の神から授けられた十戒の2枚の『石の板』、祭司を決めるとき立てた杖に一晩で花や実が付いたといわれる『アロンの杖』、40年間荒野で食べた『マナの壷』です。

 世界広しといえども、イスラエルの他に三種神器を持っているのは日本だけです。皇位の御璽(ぎょじ)として捧持され、宮中三殿といわれる賢所、神殿、皇霊殿には、伊勢皇大神宮の御鏡の写しがご分霊として鎮まっており、剣と璽は宮殿に奉安されています。一般的にいわれる三種神器は、八咫の鏡(やたのかがみ)、草薙剣(くさなぎのつるぎ)、八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)です。

 イスラエルと日本の三種神器を比較しますと、十戒の2枚の石は心を、鏡は姿を見るためで、ともにそれが正しいかどうかを知る基準です。アロンの杖と剣は形が似ています。マナの壷と勾玉は違いますが、祭司が胸につけるウリムとトミンムという石の形が、不思議にも勾玉とよく似ています。(出エジプト28.30)

 このイスラエルの契約の箱や、三種神器という民族継承の最も重要な神器が、形を変えているとはいえ、日本においても宗教的、国家的最重要な器具として存在している事実に注目しましょう。

 紀元前200年から数百年にわたって、大陸から渡来した強力な集団によって始まった弥生時代に、初めて国家意識が生まれました。その意識をもたらした集団が、古代イスラエル人だった可能性が非常に大きいのです。もしかすると私たち日本人には、イスラエル人の血が、全部とはいいませんが流れているのかも知れません。それですから旧約聖書の出来事や人物を学ぶとき、不思議な親近感を受けるものと思われます。

 ということは、聖書の神様は日本人にとって決して遠い神様ではなく、非常に親しみやすいお方であるということです。

 キリスト教会では契約の箱が等身大の生きたキリストを象徴していると解釈しています。アカシヤの木はその人性、金は神性、輪は神の愛、肩でかつぐことはその清さ、箱は神の守りと保護、ケルビムは神の尊厳さ、贖いのふたは十字架で流された血による贖いを示しています。三種神器では、十戒はキリストが生きた律法であること、杖は導くお方、マナの壷ではいのちのパンを表しています。

 「キリストはすでに成就したすばらしい事がらの大祭司として来られ、手で造った物でない、言い替えればこの造られた物とは違った、さらに偉大な、さらに完全な幕屋を通り、また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によってただ一度、まことの聖所にはいり、永遠の贖いを成し遂げられたのです。」(ヘブル9.11、12)
 3 神社とイスラエルの神殿 久保 有政

 
日本の神社を調べてみると、古代イスラエル宗教によく似たものが非常に多い、という興味深い事実に気づきます。「神社と古代イスラエル宗教と、一体何の関係があるのか。」という方もおられるでしょう。しかしこのことは古くから、少なからず人々の間で論議されてきたことなのです。

 たとえば神社の構造です。神社は、礼拝をする拝殿と、御神体を安置する本殿とに分かれています。イスラエルの神殿も、中は聖所と至聖所と呼ばれる2つの場所に分かれていました。神社で一般の人々は拝殿の前で祈りますが、イスラエルの神殿でも聖所の前で祈りました。ふつう神社の拝殿には一般の人ははいれません。まして本殿にははいれません。同様にイスラエルの神殿では聖所には祭司のみがはいり、至聖所は大祭司が年に一度だけはいる神聖な場所でした。

 本殿は拝殿よりも一般に少し高い位置にあり、イスラエルの神殿も、学者によれば至聖所の床は聖所の床より少し高い構造になっていました。神社の造りには幾つかの種類があり、これはどの神社にも共通しています。とくに住吉大社の住吉造りなどは、形や構造がイスラエルの神殿や『幕屋』とよばれた移動可能な神殿によく似ています。

 幕屋の内部は常に赤い色でしたが、神社も朱色で塗られたものが多くあります。鳥居も朱色で塗られています。これはイスラエル人が出エジプトのとき小羊の血を入口の鴨居と2本の門柱とに塗り、赤く染まったことを連想させます。(出エジプト記12.23、36.8)

 神社内部の庭にはふつう手水舎(てみずや)があります。これは参拝の前に口をすすぎ手を洗って禊ぎ(みそぎ)をし、心身を清めるためのものです。同様にイスラエルの神殿においても内庭に洗盤、または青銅の海と呼ばれる禊ぎの場があり、そこで手と足を洗い、心身を清めました。(出エジプト30.18〜19)神社では灯火をともすことが多くあり、特に伝統ある神社はそうです。イスラエルでも常に灯火が掲げられていました。(出エジプト27.20)

 神社にはまた賽銭箱があります。神殿にも賽銭箱(献金箱)がありました。南王国ユダのヨアシュ王の時代にそれが置かれるようになったと旧約聖書に記されています。(歴代24.8)

 神社は基本的に、狭義での偶像が置かれないということにも注目すべきです。仏教で仏像が盛んに造られ、寺に置かれたのに対し、神道では神々の彫像が造られませんでした。イスラエルの宗教は唯一の神のみ礼拝します。偶像礼拝はモーセの十戒で厳重に禁止されています。(申命記5.8)

 神社の拝殿の前には狛犬が2頭立っていますが、頭部が毛に覆われており、あれはどう見てもライオンのようです。
獅子は昔日本には一頭もいなかったのに『獅子舞』の文化があるのは、いったいなぜでしょう。イスラエルの神殿や王宮には獅子の像が礼拝の対象としてではなく置かれていました。(列王記7.36、10.19)

 神社はたいてい山の上に建てられます。山と信仰は深い関係にあります。これはイスラエルの宗教でも同様で、モーセはシナイ山で十戒を授けられ、神殿はモリヤの山に建てられていました。 神社が檜の木造建築であるように、イスラエルの神殿でも石材とともに大量のレバノン杉材が用いられ、壁や床や天井に至るまで内部は木材で覆われていたのです。また要所要所が金で覆われたことも同じでした。(列王記5.6、6.9、20〜30)

 神社の屋根は山の形というよりは天幕テントの形をしていますが、これは移動神殿『幕屋』とそっくりです。(出エジプト26.7)お寺と神社を区別する鳥居は、イスラエルの神殿の入口の2本の太い柱を思いださせます。

 このように神社の建造物に限って考えてみてもイスラエルの宗教とそっくりなのはなぜでしょうか?大切なことは、古代イスラエル人が渡来して、日本文化形成に決定的影響を与えたのではないか、ということです。もちろん以前からアジア全域の人々が渡来していましたから、他の民族の血と混合してしまいました。

 しかし血縁以上に大切なのは、宗教的問題で、『日本建国の神はイスラエルを造られた神と同じである。』ということなのです。日本人の生活・風俗・宗教に流れているものは、もともとイスラエルを造られた神から来た教えなんだということを私たちは理解して、まず旧約聖書が何を示そうとしているかを学んでいただきたいのです。

 神殿は霊的にイエス・キリストを指しています。彼は『生きた神殿』であり、その『神殿の礎石』でした。「見よ。わたしはシオンに、選ばれた石、尊い礎石を置く。彼に信頼する者は決して失望させられることがない。」(ペテロ2.6)またキリストご自身が『犠牲の小羊』となられ、唯一の『大祭司』となられました。

 そうして「私を見た者は、父(天の真の神)を見たのです。」(ヨハネ14.9)といわれました。このお方を見ていると、旧約聖書に顕れた多くの真理が、こんがらがった糸をほどくようにひとつひとつわかってきます。

 「救いはユダヤ人から出るのですから、私たちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。」(ヨハネ4.22)とキリストがいわれたように、日本人は古代イスラエルの宗教を知らないで守っていますが、やがてこれが明らかにされる時がきます。そして、その日はもうすぐそばまできています。この神秘な事実をさらに深くご理解くださることを願っております。
 4 お正月とイスラエルの過越の祭り 小石 豊

 元旦や 冥土の旅の一里塚めでたくもあり めでたくもなし

 『お正月』は玄関にしめ縄と門松、床の間にお供え餅、食卓はお節料理です。
大晦日は大掃除とごちそう作りに追われ、まるで特別なお客様が来られるのを待つかのようです。
そしてソバをツルツル食べながら年を越します。

 百八つの除夜の鐘が鳴ると非常に宗教的な、それでいて家庭的な緊張感に包まれて年が明け、何ともすがすがしい朝を迎えます。
みんな服装を整えて挨拶をかわし、お屠蘇やお雑煮をいただきます。

 三が日は家族そろってお宮参り。8千数百万人が一斉に国中の神社に初詣に行きますので、道路は大渋滞ですが混雑を恐れません。
後から後から人が押し寄せて、信心深く石畳を歩き、お社の前にぬかずき、大自然から聞こえてくる声なき声に満足し、柏手を打ち、頭をさげます。
平素の不信仰がまるで嘘のようです。

 1つは民族がこれほどまで清らかな思いで過ごすのはこの時期しかありません。
しかもこれが日本人特有の、礼儀正しい1年のスタートです。
この風習がいつごろから今のようになったのか、誰もわかりません。
先祖伝来の習慣として当然のように守られ、そのお陰で何千年も変わらない民族性が保持されてきました。

 ところで旧約聖書を読みますと、『過越の祭り』という祭りが出てきますが、それが日本のお正月と大変似ているので驚いてしまいます。
過越の祭りとは、エジプトの奴隷になっていたイスラエル人がモーセのよって解放され、エジプトを脱出したときに起こった数々の事件を記念し、ユダヤ人の間で厳粛に守られているものです。

 それは春の満月がこうこうと輝く印象的な夜でした。
イスラエル人の人々は神の命令に従って旅支度を整え、犠牲の小羊を殺してその血を玄関の鴨居と2本の柱に塗り、肉を家族や近所の人たちと分け合って食べていました。
突然エジプト中から悲痛な叫び声が響きわたりました。玄関に血の塗られていない家の、すべての長男(家畜に至るまで)が死の使いによって殺されたのです。
しかし血の塗ってあるイスラエルの家の長男は守られました。死の使いが血を見てその家を過ぎ越したからです。
この恐怖の中で脱出したのでした。(出エジプト12)

 それまでエジプトの暦に従っていた彼らは、脱出するとすぐ、その月『ニサンの月』をイスラエルの新年としました。
そのことで民族自立を確立したのです。
ニサンの月は日本の3、4月頃で、15日から(イスラエルの1日は日没から始まりますので、日本では14日夕方となります。
1週間が過越の祭りで、神はこれを『永遠のおきて』として守るように命じられました。

おきてとは法律というよりも暦と考えられます。
その暦を守り続けることが神とイスラエルの間の永遠の契約でした。
暦の基本は春の過越の祭りと秋の仮庵の祭りで、ユダヤ人はこれを守ることでその民族性を保持してきたのです。

 紀元前7百年代に一部のイスラエル人が偶像崇拝のため国を追放され、アッシリヤに連行された後、行方不明となりました。(列王記17)
外典には彼らは神が命令された『永遠のおきて』を守るため、人の住んでいないところに行こうと決心し、すきを見て東に逃れ、アジア大陸のはるか彼方に集団で移動したと記されています。
彼らは偶像崇拝に陥ったといえども、その暦だけはしっかりと生活に根ざしていたものと思われます。

 日本人が伝統的にお正月を守ってきたその理由はわかりませんが、その考え方を植えつけたのが渡来してきた古代イスラエル人だったとしたら、私たちは知らずに永遠のおきてを守っていることになります。
(下の比較表をごらんください)


項目 イスラエルの過越の祭り 日本のお正月
1月15日 ニサンの月15日(三月頃)春の満月 昔の自然歴では15日が中心だった
松の内 過越の祭りは1週間 松の内は1週間
鴨居と2本柱 鴨居と2本の柱に血が塗られた 鴨居にしめ縄、2本の柱に門松
大晦日の大掃除 ※パン種を徹底的に除くため大忙し 新年を迎える準備の大掃除、昔は煤払い
宗教的緊張感 神が寝ずの番をされたことを感謝する 1年の無事を感謝し、除夜の鐘を聞く
非常に家族的 父は家族礼拝の中心、母は燭台に点火 一家の主人、父母が挨拶の中心
参拝に行く 国中がシナゴグ(会堂)の礼拝に行く 国中が神社へ初詣に行く
主食は種なし 種なしパン・マッツァーを1週間食べる 種のないモチを1週間食べる
苦菜を添える 15日は苦菜を添える 苦しみの象徴 七日目に七草がゆを食べる
料理 料理は出エジプトの旅支度を記念する お節料理は旅支度のような携行食糧

※祭りの間の1週間は家の中にパン種(イースト菌)が一かけらもあってはなりません。

 このようにユダヤ人が守っている過越の祭りとよく似た祭りを守っているのは、世界中を見渡しても唯一、日本人だけです。さらに日本のお月見や秋の収穫感謝祭は、イスラエルの『仮庵の祭り』に似ています。
 日本人は血筋の上では多くの民の混血民族です。
しかし弥生時代に、非常に優れた集団が大挙して渡来し、それまで国家のなかった列島に始めて国家意識が生まれたといわれています。
この渡来人が古代イスラエル人だったとしたら、彼らは聖書の神を信じていたが、そのお方を忘れ、宗教行事や風俗習慣の形だけが子孫に伝えられて、それが日本のお正月のような伝統になった、と考えられます。
 ということは聖書が示している真の神は異国の神ではなく、私たちにとって非常に近いお方なのではないでしょうか。
そう思うと聖書の学びが楽しくなります。

 イエス・キリストは最後の晩餐のとき、「わたしは苦しみを受ける前にあなたがたと一緒に、この過越の食事をすることをどんなに望んでいたことか。
過越が神の国において成就するまでは、わたしはもはや2度と過越の食事をすることはありません。」(ルカ22.15、16)といわれました。

 その過越の犠牲となった小羊は、十字架の上で人類のすべての罪を背負って犠牲となられた神の子イエス・キリストの姿を表していました。
「ましてキリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心を清めて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。」(ヘブル9.28)
 5 わが民族の心の故郷 

 1億2千万の私たちはどこからきたのか? 畠田 秀生 

 外国に行ったり、また住んだりして日本が恋しくなる、また自分のふるさとが恋しくなる、そんな体験をしたことがおありでしょうか。年をとればとるほど、その思いはつのるものでしょう。日本は世界でも、最も年をとっている国の1つです。そして、私たちの多くは、「私は、いったいどこからきたのだろう。」と心の中で尋ねています。

 柳田国男は、椰子の実が伊良湖岬に漂着したことから、祖先は何方から来たという壮大な仮設を唱えました。また、藤村は西の遥かな彼方を思い巡らして作詞しました。「名も知らぬ遠き島より 流れ寄る椰子の実1つ故郷の岸を離れて 汝はそも波の幾月・・・」。その柳田国男に師事した折口信夫は、大正9年、『妣(はは)が国へ、常世へ』という論文を発表して次のように言いました。「10年前、熊野に旅して、光り充つ真昼の海に突き出た大王ヶ先の突端に立ったとき、遥かな波路の果てに、わが魂のふるさとのあるような気がしてならなかった。」。

 古事記に、『妣の国』ということばが多く出てきます。かのスサノオノミコトの条に見受けられ、日本書紀には、多く『根の国』ということばになっています。今のことばでいうと、『母国』ということになるでしょう。遠い私たちの先祖(みやお)たちは、この妣の国すなわち私たちの本国で生まれ、成長し、そこで死んだのですから、子孫の私たちが懐かしんで当たり前でしょう。

 鳥居竜蔵はこう言いました。「われらの遠いみやおたちは、大陸から来たもので、この本土は移住地で、本国は向こうにあるわけであります」(妣の国・論集日本文化の起源)。日本人の心の中にひそむ源郷意識が、カミ(親、先祖)がやってきたもとの場所を探し求めさせるのでしょう。

 文献時代の初期のもののなかに、ひとぐに、ひとの国と書かれてあるのは、ひと(人)・ひと(他人、他国)という意味にとれるのですが、他国といっても未知の国ではなく、身近さを感じさせる国です。空想の国としての異国、異郷を意味するものではありません。なぜなら邪馬台国の本とか、日本人のルーツに関する本を出版すると、まず5千部は売れるとある出版社の編集長は私に話してくれました。シルクロードや黒潮は日本人に地理的のみならず心情的にも親密さを覚えさせるものがあります。

 もう1つ、スサノオノミコトの話をさせてください。イザナギノミコトが三柱のカミ(アマテラス、ツクヨミノミコト、スサノオノミコト)にそれぞれの国の統治を命じました。しかし、スサノオが泣いてばかりいて自分の領地を治めず、そのため悪い神様の仕業が蠅のように起こり、ありとあらゆる悪霊が働き、災いがおこりました。

 イザナギノミコトは、「どういうわけで、お前は支配せよといった海原を統治せず、泣いてばかりおるのか。」と問いました。スサノオは、「私のお母さんのいらっしゃるあの根の国の堅州国(堅固な根の国に行きたくて泣いているのです。」と釈明するのですが、イザナギノミコトは怒り、スサノオを追放したという記事が古事記にあります。

 スサノオがいった堅固な国というのは、歴史の古い、確固たる文化と宗教の花咲いた立派な国であることが伺い知れます。さて、日本建国のとき、すでにそのような歴史を築いていた国はどこにあったのでしょうか。

 世界最古の書物『聖書』との関係を述べさせてください。聖書は、日本の多くの人々が思っているような道徳書、宗教書ではありません。ある国の歴史書のようなものなのです。神様がおられることと、神様を敬い従うときにどういうことがおこるかを著した書なのです。

 そこで、明治時代に輩出したキリスト教の大先輩内村鑑三のことばを引用します。 「日本人の内にユダヤ人の血が流れているとは早くより学者の唱えたところである。かつてある有名な西洋人の人類学者が京都を歩きながら、行き交う市民の内に、まぎろうべきなき多くのユダヤ人のあるを見て、指さしてこれを案内の日本人に示したとのことである。

 その他、日本人の習慣の内に、ユダヤ人のそれに似たるもの多く、また、神道とユダヤ教との間に、多くの類似点ありという。今回、米国の日本人排斥に対して、かの国の1派のキリスト信者が『日本人イスラエル説』を唱えて、大いに日本人のために弁じたことを余輩は知る。日本人の敬神にユダヤ的の熱意あるは人のよく知るところである。

 キリスト教の宣教歴史において、日本人のごとくに真実にこの教えを受けた者は他に無いと信じる。宣教開始以来60年後の今日、キリスト教はすでに日本人の宗教となった。キリスト教は他国において見ざる発展を遂げるであろう。西洋人の宣教師が日本人を教化するあたわざるは日本人に宗教心が不足するからではない。それが西洋人以上にはるかに多いからである」(聖書の研究誌1924年11月号)

 聖書はまた預言の書で、預言も含みます。偶像の木や石の神を拝んで追放された古代イスラエル民族の一部が(申命記28.36)、終末の世には、地の果てから蘇って自分の足で立ち(イザヤ41.9)、神様の民となるといっています。彼らは谷間で干からびた骨になっているが、イスラエル全家として墓が開かれるように蘇ります。(エゼキエル37)

 これは、国や民族へのメッセージです。しかし、それが完成するためには、その国を構成する一人一人が神様の計画を知らねばなりません。神様は私たちを愛され、ご自分の計画を教え、また実行する能力を与えるために、ひとり子なるイエス・キリストをこの世に遣わされました。そして私たちの魂のふるさとを知る方法は、イエス・キリストの十字架上でのとりなしと、墓の中から3日目に甦えられた復活にあります。どうか聖書の中にあなたの希望と、日本の希望を見つけ出してください。

 「聖書と日本フォーラム」の「イスラエルと日本の類似」を転載する。
・正月の餅は日本の祝福
 聖書と日本フォーラム会長・聖書日本キリスト教会牧師・畠田 秀生
 
 3年前の2004年、家内の母が逝った時、骨と皮だった。97歳。1年ほど寝たきりだった。今から4年前、私の母が旅立ったときも骨と皮だけだった。96歳。彼女は10年間入退院を繰り返したが自分の家での大往生だった。ふたりとも納骨時の焼けた骨は、小さな骨壷に入りきるくらいしかなかった。哀れ人の結末、終着駅は栄枯盛衰、人はみな草のようでその栄えは、みな花のようで、草はしおれ花は散る。死者を水で清める儀式のとき、私は「ありがとう、すまんね」が口癖であった寝たきりの義母の光り輝く魂を知るがゆえに、横たわる醜い死体との対比をいやがうえにも思い知らされていた。

 体は滅びても魂は輝き天に昇る。人の最期に立ち会うとき、国民こぞって正月元旦に神社仏閣に詣でて手を合わせ祈る姿にだれが異を唱えよう。無病息災、家内安全、商売繁盛は私たちの祈り、それも心からの神への願いである。

 10月、出雲大社前ホテルで「聖書と日本フォーラム」主催の大会に出席した際、大社の絵馬を読んでみた。「私と私にかかわりのあるある人が幸福でありますように」「○○子と△△男が結ばれますように」「よい人と巡り合えますように」という無数の切実な祈りがあった。縁結びの神さまはご多忙である。 正月に日本人は祈る習性を持っている。両手を胸にそして頭を垂れて祈る姿は日本の美である。日本人には宗教はないという人もいる。いや宗教心は豊かであるという人もいる。両端から同じものを見た場合の言い得て妙である。

 私は40年、牧師をしてきて、日本人の宗教意識の喚起に努めて来たつもりだ。しかし、老人の棺おけから語る無言のことばにはとうてい及ばない。まして若者が棺おけから無言に語るその語りかけは牧師が語ることばなどは貧弱な虫けらの鳴声で、それらは比較にもならないほど強烈である。

 人は人生の豊かさを願う。その度合いの大きさを呼び覚ますのは、結婚式のときより、葬式のときだ。スタート時よりゴール時である。 だが私は日本人のスタートがすばらしいのだということをこの年の初めに喚起したい。9千万人が1度にどこの国に、ある時期、同時にそれもみんな一緒に祈る民があるだろうか。それも夜中に正装(?)して出かけて祈る、そして同じものを食べる。韓国、インド、中国、ヨーロッパの国々、アメリカ、ニュージーランド、オーストラリアの友人に尋ねてみた。国中、一緒にはそんなことしませんという同じ返答であった。

 日本のパン 日本人の風習、極みとも言えるものについて書いてみたい。それは正月のモチである。 モチはぺッタンコ、ぺッタンコと杵と臼で打たれて押しつぶされて練られてできる。モチはその悲鳴の果てに私たちの口に入る。そのモチの起源が旧約聖書にあるといえば、まさか!と言われるかもしれない。 「出エジプト」というイスラエル民族大脱走事件がある。時は紀元前1500年くらい前、奴隷から解放された歴史上の前代未聞、空前絶後のできごとである。その時、神は言われた。「羊かやぎの血を家の2本の門柱とかもいにつける。その夜、その肉を食べる。種を入れないパンと苦菜を添えて食べなければならない。あなたはこれを主への祭りとして祝い、代々守るべき永遠の掟としてこれを祝わなければならない」。この祭りは7日間行われた。仕事もしてはならない。最初の月の7日から14日まで。

 ユダヤ暦第1月のニサンの月(新暦の3月または4月頃)の14日目を祭りとして祝った。旧約聖書レビ記23章5節に第1月の14日には夕暮れに過越しのいけにえを主にささげたとある。イスラエルの民が正月に行う過越しの祭りは、ユダヤ暦の正月、民族の祭りで種入れないパンを食べる。発酵させない小麦粉の輪型のパンである。そのしきたりは12個のパンを一並びに6個ずつ2並びに置く。12部族を象徴している。日本のおかがみは1並びに3個ずつ床の間に2並びに置く。

 アメリカでヘブル語を学び故郷の東北民謡にヘブル語で謡う歌があると発表した川守田英二氏は、日本語としては意味不明な民謡、囃子詞もヘブル語で解すると意味が通じると言う。

 種入れないパンのことをヘブル語(母音がない)MTshと書くという。モッチと発音するかもしれないが、現在はそれをマッツォと発音している。麦のみ産するカナン(現在のパレスチナ)地方では、麦のクラッカーを食べて昔を偲んでいるがエジプトでは米が産したので大元は米のパンということになろう。それをパンと言わないで日本語では餅と言いその名の方が正式な名であるし、マッツォに発音上も近い。

 さて、エジプト脱出時イスラエルの民は、鴨居に子羊の血を塗り、種入れないパンを食べて出発した。その数約300万人ともいわれている。そしてそれから自分たちの約束の地をめざして旅するのだが、まわり道して40年間さまようのである。だがしかし、その間荒野を旅する者たちすべてが健康であったという。これは信じられないほど驚くべきことではないか。彼らは40年間、第1の月に発酵させない純粋の米のパンすなわち「マッツォ」を食べ続けていたのだ。
 
 健康は人生を豊かにする条件のひとつというより、そのものずばりだろう。人の願いは体も心も健康であること、これを日本の民は正月元旦に祈る。その効力の原因となることを知らないで毎年やっているとすると、世界で平均寿命第1位というその記録の意味もなるほどということになるのかもしれない。体のいやし 家内の母の体は見るも無残な骨と皮であったが心は輝いていた。「ありがとう」のその声は何にもまして美しい。

 イエスは「人はパンのみで生きるのはない。」と言われた。パンで体の健康を維持し、神のことばで人は生きると言われている。そのパンがわたしだとも言われた。

 イエスは、過越しの小羊として、ニサンの月の14日午後十字架上で死なれ、16日の朝よみがえられた。過越しの小羊のほふられる種なしパンの日が来た。その時イエスは、言われた。「わたしは、苦しみを受ける前に、あなたがたと一緒に、この過越しの食事をすることをどんなに望んでいたことか」。彼の流された血と身体こそが人類の罪やとがを贖う神への捧げものであるというのだ。

 キリスト教には2つの儀式しかない。洗礼(水によるバプテスマ)と聖餐式である。聖書は次のように言っている。 それからパンを取り、感謝をささげてから、裂いて弟子たちに与えて言われた。「これは、あなたがたのために与える、わたしのからだです」。

 私たちが裂くパンは、キリストのからだにあずかることであり、永遠のいのちと日常の生活での万病に効く薬と予防の働きをするのである。私たち日本人は、彼によって邪気が除かれ、健康を保つことができる。知らないで正月に餅を食べて祝っているが、そのルーツはこんなところにある。

 紀元前760年頃、イエスに関する預言をイザヤが言っている。「彼は私たちの病を負い、私たちの悩みをになった。・・・彼の打ち傷によって、私たちはいやされた」。

 私たちの多くは決して環境抜群のところには住んでいない。東京も大阪も天の川など見られない。私の住む近く、伊勢志摩の海岸でも今や大きな魚は釣れない。汚染されて伊勢海老も少ない。それにもかかわらず、日本の老人は若々しい。皮膚は滑らかだ。日本食の寿司が身体にいいのもその1つかもしれないが、最大要因は「モチ」なのだ。正月に食べるモチ。私は子供のころ、めでたい正月なのに、なぜ7日間も冷たい膾の料理でモチばかり食べるの?と不思議に思って母に尋ねたことがある。母はその理由を知らなかった。

 メルギブソンのパッション この映画を私は封切りの日に、ニュージーランドで見た。その強烈さに息をのんだ。彼の身体が打たれたたかれ、骨の付いた鞭で裂かれていくその様は、まるで蒸篭で蒸された米が、臼のなかでたたかれ練られていく様のようだった。私たち日本人は、正月にモチを食べる。なぜモチを食べるのかその真意を問わず、ただ先祖からの慣わしだからという理由で食べている。イエスの体を食べている?とすると健康と長寿の恩恵のみならず世界でまれに見る平和と繁栄を掌中にしているのもうなずける。これは、イエスが十字架上で砕かれた目的であった。私たちの病を負い、いやすためにその姿は見る影もなく打たれ、苦しめられた。まるでモチがつかれている様そのものではないか。私たちが知らないで行っている行事の中に人の知恵でははかり知れない力があるものだ。

 そのことを「聖書と日本フォーラム」というグループが伊勢志摩の地で学びを開始した。今後参加者を募りながら、この活動にたずさわれることをこの上ない特権と受けとめて、日本人として日本の魂に触れて行きたいと思っている。
・日本の礼儀日本の礼儀

 聖書と日本フォーラム会長・畠田 秀生

 日本は礼儀を重んじる国であり、日本国民にとっては切り離すことができないものである。恩恵を受ければ感謝の念をもってそれに応える、これは自然の理である。礼には礼をもって返礼する。尊き風習であり、その心は美しい。神に頭を垂れ、人におじぎをするのは最もすばらしい風習である。礼儀は形であると誤解されやすく、外面的つくろいであると誤解されやすい。しかし、これは日本人の日本人たる真骨頂なのであって遠慮の徳の表れなのである。

 日本人は礼を欠くことを恥じとする。これは対面をおもんばかるからではない。謙遜の美徳を失うことを恐れる日本人の特性である。これを失った日本人は、もはや日本人ではない。論議を好まないのは相手を傷つけたくない日本人のやさしさであって、理論より愛を重んじるからである。真理を重んじるからであって、真理を主張することによってごり押しすることからは、何も生まれないことを知っている日本人の道徳性、倫理性、宗教性の深さを知っているが故の実である。西欧諸国のいずれにも培われなかったものである。彼らの遠慮を知らない低級な風潮は、私たち日本人をして苦笑いさせていることをも気づかないほど、無知蒙味はもう論外である。

 私はあるとき、西欧人からお礼としてドル札を裸で手渡されたことがある。そのドル札を受け取るときの戸惑いを今もはっきり覚えている。素直に受け取ることができずにどうしたものかとその裸のドル札の丸めた束をみつめていたものだ。彼らの感謝の気持ちと、むき出しのドル札とは重なり合わないのであり、日本人にはとうてい理解しがたいことなのである。その渡し方と彼らのあっけらかんとしたしぐさを、日本人にまねしろと言ってもそれはとうてい及びもつかない。

 むき出しのドル札をお礼にもらっても、日本人は心から喜んで受け取れない。「ありがとう」と言って素直に受け取る者は、日本人ではない。私はノーサンキューと言ったが、彼らはそれをポケットにねじ込んで、感謝の意を表したと思っている。それでもこれもお礼には違いないか、と思って遠慮しがちに受け取ったが、ましてや日本人はその額が少なくとも「額が少ないです。もう少しください。」など殺されても言わない。彼ら西欧人は、逆の立場なら「少ない。もう少しください。」と平気な顔で言うのである。それが何か悪いのかと言わんばかりに両手を広げて肩をすくめている。

 あぁ、この特性は神の子としてどちらがふさわしいかは、火を見るより明らかではないか。どちらがキリスト教に則っているか。どちらがイエスの従者としての新しく造りかえられた者としてふさわしいか。日本人をして異邦人というなかれ。西欧キリスト教風潮として自他とも認知している諸国の民をして、イスラエルと言うことなかれ。

 「これこそほんとうのイスラエル人だ、彼のうちには偽りがない。」といちじくの木の下にいたナタナエルに言われたイエスのことばこそ、今の日本人に投げかけられていることばではないか。
今日本人は、礼という徳に付け加えてこう言うべきではないか。「先生、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」と。

・「君が代」日本の国歌「君が代」日本の国歌
     
 聖書と日本フォーラム会長・事務局長・畠田 秀生

 「君が代」日本の国歌  ・・・へブル語?

 私の姉八十三才に「君が代」に別の意味があるという小石牧師から送られてきた「声石」八十号の記事を見せた。そしてその内容を一緒に読んだ。すると姉が言った。 「だれかがどこかで君が代には別の意味があるということを聞いたことがある」。それは、どこで誰がいつ?と尋ねても覚えていなかったが、確かにあると言い、それがヘブライ語なら、 「そんなら、私たちの先祖はイスラエルということになる。」とひとりつぶやいた。

 こんな意味だそうだ。 「神の選民シオンの民は 選民として喜べ 人類に救いが訪れ 神の預言が成就した 全地にあまねく宣べ伝えよ 立ち上がれ、神を讃えよ」。ここで、国歌「君が代」の一つ一つのことばをヘブライ語で解訳されたものを中島氏の記述から。

 「神」を意味する「ヤ」、「ヨ」が「千代に八千代に」というフレーズに三回繰り返されている。「シオンの民」を表現する「チヨニ」。ヘブライ語で救いを意味するISH「イシ」や、ヤウエーの神を象徴する「イワ」また、物事が成就することを意味する「ナリッテ」など、繰り返し読むだけでも複数のヘブライ語が思い出され、ただならぬ予感がする。

 「君が代」のフレーズは、ヘブライ語「クム・ガ・ヨワ」という三つの言葉に分かれる。「クム」はヘブライ語の (koom、クム)が語源であり、立つ、または起き上がることを意味する。(gaah、ガ)には、「クム」と類似した「立ち上がる」という意味だけでなく、「相手を誉め称える」というニュアンス スも含まれていることに注目。そして「ヨワ」は神を意味するヤーウェーの発音が多少訛ったか、YHWHに任意の母音を付加したものだろう。

 YHWH という神聖な神の名を意味する言葉は、人間が発音できないように当初から母音が無いため、任意の母音を充てて「ヤーウェー」とも「ヨーワー」とも発音することができる。すると「キミガヨワ」は、ヘブライ語で「立ち上がって神を誉め称えよ!」と解釈できる。残りの歌詞も引き続き、ヘブライ語で解釈でき、「チヨニ」は とヘブライ語で綴るが、これは一般的な言葉でもあり、「シオンの民」を意味する。それ故、神を意味する「ヤ」を付加して「ヤ・チヨニ」とすれば、「神の(シオンの)民」、または「神の選民」となる。つまり「千代に八千代に」は、ヘブライ語で「シオンの民、神の選民」を意味した。

 次に「サザレ」、これはヘブライ語で「サッ」と「サリード」と発音するふたつの言葉が合わさった言葉で、 (sas、サッ)は喜ぶ、 (sareed、サリード)は「残りの民」「選民」を意味する。すると直訳で「残りの民として喜べ!」という意。そして「イシノ」は、「イシ」というヘブライ語で救いを意味するYESHAに、 (enosh、イノシュ)という「人間」、「人類」を意味する言葉が語尾に付加して、「イシィノ(シュ)」という言葉になり、「人類を救う」という意味になる。すなわち「サザレイシノ」はヘブライ語で、「人類を救う残された民として喜べ!」と、歌っていた。

 君が代に秘められた、ヘブライ語によるもう一つのメッセージ、それは、神の選民であるイスラエルの民に託された使命である。「クムガヨワ」から始まり、前半のメッセージは、シオンの民が国家の滅びから逃れ、神の選民である「残りの民」として神を讃えることが中心のテーマとなっていたが、はたして歌詞の後半はどうであろうか?

 「(さざれ)石の巌となりて」という誰もがよく知っている君が代の一節は、一般的に小粒のさざれ石が長い年月を経て堆積し、いつしか大きな岩に変貌する意味であると解釈されているが、実はこのフレーズには君が代の中心となる貴重な宗教メッセージが、ヘブライ語で書かれている。「イシノ」は前述したとおり、ヘブライ語で救いを意味する (yasha、ヤシャ)が語源の (ish、イシュ)という言葉と、人類を意味する (enosh 、イノシュ)が複合してできた「イシィノ(シュ)」で、「人類の救い」を意味する。次に「イワ・オト・ナリテ」という三つのヘブライ語が続く。「イワ」は、神を意味するヘブライ語の子音 (yhwh)に任意の母音をつけて、日本流の「神」の呼び名、「イワ」となった。また、ヘブライ系ユダヤ人のことをアラム語では「IWARAA 」、「イワラ」と呼んだり、神の民を「YEHUDI」、「イフディ」、「イワデ」と呼んで、それらに「イワ」という発音が含まれるのも、そこに「神」の意が含まれているからに他ならない。新約聖書においてはイエス・キリストも「救いの岩」と呼ばれているように、「イワ」は神を象徴する言葉である。

 次の「オト」は、印やサインを意味する (ot 、オト)で、神の証や予言に関わるニュアンスが含まれている言葉。つまり「イワ・オト」と繋がることにより「神の印」や「神の証」の意となり、言い換えれば「神の予言」とも解釈できるだろう。また「成就する」「完成する」、という意味の言葉に (nali-atah、ナリァタ)というヘブライ語がある。「ナリ」は「得る」、「アタ」は「来る」の意味があり、このふたつの言葉が繋がって、「成就する」という意味になる。「イシィノ・イワオト・ナリタ」が「人類が救われ、神の預言が成就した!」という文章になっている。

 さて、「苔のむすまで」をヘブライ語で読むと、これまでの歌詞の流れに沿った文脈となり、歌全体を完結する言葉となる。「コケノ」はヘブライ語で (kol-kano)と書き、実際の発音は「コ(ル)カノ」で、「コル」は「全て」、「カノ」は基礎、台の意味が原語にあり、合わせて「全ての場所」を示唆する。「コカノ」は「全地」を意味します。そして、歌詞の最後の「ムスマデ」は「語られる」、「鳴り響く」という意味を持つ (mooshma、ムーシュマ)。
ヘブライ語の文法上、女性形も使用されることがあり、ムーシュマッテはその女性形、それ故、「コカノ・ムーシュマッテ」はヘブライ語で「全地に語られる」という意味となる。

 「イシノ・イワオト・ナリテ・コケノ・ムスマデ」を、ヘブライ語の文章として読み通してみると、そこには驚くべきメッセージが秘められていたことになる。「人類に救いが訪れ、神の予言が成就した。全地あまねく宣べ伝えよ!」と。(成田シティジャーナル新聞の編集者で現在サウンドハウスを経営者、中島尚彦氏の記載からの引用)

 となると、それが現在の私たち日本人にどのような関係があり、イエスの世界人類にもたらした福音が全世界に宣べ伝えられた後、この世のシステムが崩壊し、千年王国がやってくる最も大切な事柄に触れていきたい。

 これは聖書の預言に関連している。 まず、旧約聖書エゼキエル書三十七章十六節から見てみると「人の子よ。一本の杖を取り、その上に、『ユダと、それにつくイスラエル人のために。』と書きしるせ。もう一本の杖を取り、その上に、『エフライムの杖、ヨセフと、それにつくイスラエルの全家のために。』と書きしるせ。」とある。その後、神はエゼキエルに一本の杖として、この国は一つの国となると約束しておられる。「彼らは二度と、偶像や忌まわしいもの、またあらゆるそむきの罪によって身を汚さない。わたしは、彼らがかつて罪を犯したその滞在地から彼らを救い、彼らをきよめる。彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。」と。

 ヨセフとそれにつくイスラエルの全家は日本であるならば、これは驚天動地の約束事が日本に成就することとなる。この預言はイスラエルの救いに関することであり、エゼキエルだけではなく、イザヤもエレミヤも預言して、選民であるイスラエル国民を励ましつづけた。

 そして新約聖書のローマ人への手紙十一章を見ると、一節に「すると、神はご自分の民を退けてしまわれたのですか。絶対にそんなことはありません」。イスラエルは偶像を拝み、退けられたことが書かれてあり、救いが異邦人に及んだ。これはイスラエルにねたみを起こさせるためだった。異邦人が全世界で祝福されているのは、現在の世界情勢を見ると明らかな事実。日本もイスラエルも世界各国がグローバル化しはじめた二〇世紀当初からその努力と奮闘にも報われなかった。政治的にも宗教的にも世界に類のない道徳的規範をもつ国民の奮闘にもかかわらず日の目を見ていないところにいた。

 そして二つの枝が叫んでいる。 「なぜ私たちはこんなにも浮かばれないのであろうか?」 この二つの国の生い立ちと変遷が全く違った道であったにもかかわらず、その類似性と運命的定めの同一性がそこかしこにある。

 パウロは二十五節で言った。 「兄弟たち。私はあなたがたに、ぜひこの奥義を知っていていただきたい。それは、あなたがたが自分で自分を賢いと思うことがないようにするためです。その奥義とは、イスラエル人の一部がかたくなになったのは異邦人の完成のなる時までであり、こうして、イスラエルはみな救われる、ということです。」
 異邦人の完成の時はすでに目の前まで来ている。預言は必ず成就するししてきた。神のことばだからである。神のことばでこの世界が造られ、維持され、そのことばどおり裁かれる。そしてこの世は次の世にバトンタッチされていく。

 ヨセフは預言の夢を見た。太陽と月が彼にお辞儀する夢だった。その後彼はいわれのない牢獄に閉 じ込められた青年時代の潮流にもめげなかった。試練を耐え忍び、練達した品性から希望を見出したように、みことばにすがる日本人、イスラエルルーツを真に受ける人たちによって、イエスの福音はこの日本で花開いていく。これは預言である。なぜなら預言者たちの霊は預言者たちに服従するから。世の中には多くの霊がうごめいている。教会の中にも諸説が入り乱れている。しかし神は混乱の神ではなく、平和の神だから、必ずみこころのままにことが進められていくだろう。この日本に残された民、ヨセフの民が七〇〇〇人いると地震の後に静かな声がする。

 田中英明「封印された日本古代史 失われたユダヤと古代日本の接点」。

 田中英明履歴

昭和17年(1942年)2月20日 東京生まれ

35年(1960年)3月     都立日比谷高校卒業

39年(1964年)3月     東京大学文学部フランス文学科卒業

41年(1966年)3月     同美術史学科卒業

41年(1966年)4月     東京大学文学部美術史学科大学院入学

41年(1966年)10月     フランス政府給費生として留学

44年(1969年)6月     ストラスブール大学ドクトラ(PhD)取得

45年(1970年)7月     国立西洋美術館研究員

48年(1973年)4月     東北大学文学部講師

48年(1973年)10月~    イタリア政府給費生としてローマ大学留学(~49年9月)

51年(1976年)4月     東北大学文学部助教授

53年(1978年)10月〜    ドイツ、ミュンヘン美術史研究所留学(~54年9月)

平成2年(1990年)2月    ローマ大学客員教授

4年(1992年)4月      東北大学文学部教授(美学・西洋美術史講座)

5年(1993年)5月      ローマ大学客員教授

8年(1996年)2月      東北大学文学博士号取得

15年(2003年)4月~9月   ベルリン・フンボルト大学招聘教授

17年(2005年)2月     ボローニャ大学客員教授

17年(2005年)3月     東北大学大学院文学研究科(美術史学講座、美学・西洋美術史専攻分野)教授を定年退官

17年(2005年)4月     国際教養大学特任教授

19年(2007年)2月     ボローニャ大学客員教授

21年(2009年)2月     同上












(私論.私見)