仲小路彰氏のユダヤ研究

 (最新見直し2007.11.4日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 
 2006.1.14日 れんだいこ拝


 「ウィキペディア仲小路彰(なかしょうじ あきら)」参照(目下は他に情報がない)

 1901年2月26日 - 1984年9月1日)は、日本の思想家哲学者、歴史哲学者。

 1901年2月26日、仲小路廉の二男として、東京市赤坂区氷川町生まれ。1906年、麻布区広尾町に移る。東京府立四中を経て、夏目漱石に憧れ五高入学。五高時代は、学業成績ではほぼ仲小路が一番、佐藤栄作が二番という順であった。その他に、池田勇人、浜口巌根らがいた。

 1921年、東京帝国大学文学部哲学科入学、翌1922年、処女作『沙漠の光』はマホメットの生涯を描いた長編戯曲であり、当時ベストセラーとなる。1924年、東大哲学科卒業。この頃、父の廉が急逝した。1930年、小島威彦らと科学アカデミアを創立。同人に、佐々弘雄三枝博音飯島正富沢有為男唐木順三渡辺一夫服部之総ら。同年、伊藤吉之助編『岩波哲学小辞典』の執筆にも関わった。1940年、スメラ学塾を開校。塾頭に末次信正海軍大将が就いた。のちのミッドウェー海戦前には、西進及び大東亜戦争の短期終結を軍上層部に訴え、終戦後、グローバリズムの探求にあった。佐藤首相時代、私的なシンクタンクの役割を果たしていたとされている。

 思想系譜では新カント派に属する。大正末期から昭和にかけてのロマン主義運動(のち日本浪曼派)の時代空気のなか、大川周明と共に、戦前日本の国粋主義[3]者と規定され、その中心的存在の一人であったとされている。哲学的には、ヘーゲル的な観念弁証法体系(テーゼ)があり、このアンチテーゼとして唯物弁証法が位置づけられ、歴史的には同じくマルクス主義が該当する。これら一つだけでは不完全であり、この二つの矛盾・闘争を止揚するものとしてジンテーゼがあり、このジンテーゼで弁証法的発展が完結するが、このジンテーゼにある文明原理を一貫して探求。ヘーゲル流にいえば、“世界精神”を実現することであるが、普遍的価値を基礎とすることが文明的必然であることを示した。

 著書

  • 『太平洋侵略史 1〜6』(国書刊行会、2010年8月) - 復刻版
  • 『世界史話大成』
  • 『日本世界主義体系』





(私論.私見)