「馬野周二のネオ・シオニズム研究」

 (最新見直し2007.11.4日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 馬野周二(うまのしゅうじ)氏の履歴は「馬野周二博士の紹介」に記されている。それによると、「 独自の歴史分析による文明論、政治経済論の著書多数」とある。著書が「論攷ろんこう・著書一覧」で紹介されている。これを参照する。
文 献 名 初版年 出版元 頁数 頒布価格
石油危機の幻影 A4版130頁 ¥2,500
石油危機の解決 A4版126頁 ¥2,500
アメリカ落日の論理 A4版118頁 ¥2,000
大日本技術帝国 B5版108頁 ¥2,000
アメリカ帝国の大謀略 B5版104頁 ¥2,000
日米最終戦争 B5版126頁 ¥2,000
大凶慌 B5版100頁 ¥2,000
アメリカは信頼できるか B5版117頁 ¥2,000
衰亡の法則 A4版100頁 ¥2,000
技術文明の法則 A4版111頁 ¥2,000
ダウンウェーブ A4版207頁 ¥3,500
破局の論理 A4版107頁 ¥2,000
日米逆転の大予言 B5版127頁 ¥2,000
日本の危険 B5版117頁 ¥2,000
栄枯盛衰の科学 A4版107頁 ¥2,000
日本はどう進むべきか A4版132頁 ¥2,500
日本に亡国の音(おん)が聞こえる A4版105頁 ¥2,000
経済裏陰謀の常識 B5版119頁 ¥2,000
大転換の力学(文献2010の文庫版) B5版136頁 頒布中止
世界最終戦争論 A4版136頁 未頒布
嵌められた日本 A4版175頁 ¥3,000
ロックフェラーがアメリカ経済をダメにした B5版266頁 ¥4,000
世界革命とイルミナティ A4版255頁 未頒布
アメリカの詐謀 日本の大愚 B5版124頁 ¥2,000
平成日本は本当に平成か A4版126頁 ¥2,500
米ソが仕掛ける騙しの経済 A4版143頁 ¥2,500
人類文明の秘宝「日本」
―世界破局救濟の「使命」其の根因を探る
1991.4.30 徳間書店 A4版151頁 ¥2,500
操られたルーズベルト A4版183頁 ¥3,000
ルーズベルトが二十世紀をダメにした B5版190頁 ¥3,000
対日宣戦教書 A4版159頁 ¥2,500
世界秘密結社 Ⅰ A4版171頁 未頒布
世界秘密結社 Ⅱ A4版172頁 未頒布
権力の影 A4版175頁 ¥3,000
ロスチャイルド金権王朝 A4版215頁 ¥3,500
壊される日本 A4版143頁 ¥2,500
村山政権と日本の命運 B5版100頁 頒布中止
この日本人を見よ A4版132頁 未頒布
朝鮮半島の真実 A4版152頁 未頒布

 2006.1.14日 れんだいこ拝


【馬野周二履歴】
 大正10年のお生まれ。父は朝鮮総督府の高官。「坊ちゃん」の松山中学を卒業し、慶応大学工学部、さらに同大学院を卒業、通産省の技官となる。その後ニュヨーク工科大学に招かれて教授となり、さらにはアメリカ政府の技術開発に携わり、自らの発明特許を企業化して現在に至る。こうした技術畑を歩む一方で科学的見地から政治・経済・歴史の考察を深めて「歴史工学」なるものを創始した。

馬野周二・著「村山政権と日本の運命」(コアラブックス・1994年12月発行)
 「ペリー来航から今日只今まで我が国が関わってきた重要な対外関係は一つ残らず<世界権力>と日本国家・国民の協力、抗争、衝突の歴史でないものはない」(50頁)。
 概要「今の人たちはこの大正デモクラシーというものの真実を十分ご存じないのではなかろうか。この動きの深層とは、フリーメーソンがその手を日本に伸ばそうとしたところから発生したもので(15頁)、原敬から犬養毅までの政党政治時代の首相たちはいずれも自覚していたか否かは別にして、フリーメーソン思想に浸されていたといってよいだろう。余談だが大久保、原、犬養、岡田、と言った首相が後年暗殺されたについては一貫した理由があると私は見ている。世が世ならば海部、細川、小沢の首などはどうなっているかわかるまい」。
 「将軍義満自身が臣道義と称して宋朝に臣下の礼をとり」(80頁)。「地湧精神」。「日本の地湧精神は根強く挙国一致的な一党政治体制を志向する」(65頁)。
 「細川護煕、羽田孜、そして彼らを踊らせた謀主小沢一郎、そして彼らにつき従う陣笠たち。これらはいろいろの面からたしかに並の日本人ではない。ある者は血統において尋常でない様子があり、またある者は少青年時代から何者かの手がまわった印象がある」(46頁)。
 「誰かが日本の選挙を自在に操ろうということ」。「かけがえのない村山首相」。「村山富市という仁はたいへん真面目な人で、政界を引退し田舎に帰って家でも建て替えて隠居しようと思っていたようだが、それが諸般の事情から急に総理大臣となった。このことは私から見ると、尋常な人間の小細工、パワーによるものではなく、なにか日本の土から湧き出した地湧の力の働きによるものと考えるほかはない」(39頁)。
 「読者が眼前にしている政治改革騒ぎは、この<権力>が時期至れりと速断し、小沢一郎氏その他という見え見えのエージェントを使って日本政府の乗っ取りに乗り出したものである。小沢氏ほかの政治家、マスコミ人たちの居丈高で傲慢、浅薄な態度は、彼らがいかに軽薄な男たちであったか、<権力>がどんなに日本を甘く見ていたかを証しているのだが、無形の<地湧>精神はたちまち音もなくこれらは無頼の徒を屠り去った」(51頁)。
 「かくして大東亜戦争はまさしく再開される。戦いの次元と平面は三十年前とは様変わりであるが、日本を中心として亜細亜全域を舞台とするものであることには変わりはない。国民の敗戦虚脱とそれにつけ込んだ悪人たちによって日本の過去は真っ黒に塗り潰された。しかし亜細亜、そして世界の将来は我が国の興廃にかかっている」(52頁)。
 「この戦争によって亜細亜そして世界の植民地は解放された」(158頁)。「かくてインドからインドネシアまで、中国をふくめて全亜細亜は日本をハブとして回転する。さらに問題は多いとしても、いずれ東シベリアも組み込まれる」。
 「誰の目にも見えないかも知れないが、大東亜共栄圏は確実に姿を現してきた。亜細亜の将来(中国を除く)には雲ひとつない」。
 「私はこの五、六年来、秀真伝という古い書を読んでいるが、この本なども文字のなかった大昔の日本人がそんなものを書くわけがないとされる。しかもこの本の中に「かくれんぼ」とか「めかけ」という言葉が出てくる。この本は神武天皇の神武天皇の右大臣であった櫛甕玉命が二千六百六十数年前に書いたもので、そんなことがあるわけがないという人がいるがそうではない。当時すでにその言葉はあったのだ」(148頁)。
 「歴史を歪めるというのは、ずっと古くから行われていたことで、古事記・日本書紀も影響されている。天照大御神が女性神であるというのもとんでもないことで、本当は男性の天皇であり、このことは秀真伝にはっきり書かれている。どうもこれは聖徳太子がキリスト臭くなっていたりすることと同根の歴史陰謀だろう。私も秀真伝を読んで目から鱗が落ちる思いがした。これは日本が世界の心の文明の源泉であると確信させる書だ」(150頁)。
 「マイナイ(賄賂)つかんでマメ(忠実)ならず」。「これは神代(三千年以上前)のことを書いた本であるから、すでにその時代にも賄賂は使われていたことがわかる」(80頁)。
 「伊勢神宮式年遷宮と社会事象の相関」。「金の座にお移りになった20年間は戦争と動乱と不況とが必ずやってくる」。「十七世紀以降は、この凶変に必ず外国が関係している。つまり天照神の霊を悩ませるのは、常に「金」であり外国との関係だということである」(191頁)。「いまにして考えると垂仁二六年(六四〇)から始まった大神宮の遷宮は六〇回を終わり、昨年から新しい六〇サイクルに入った。このことはわが国にとって総てが大きく変わることを意味する。(中略) 村山富市を首相とする自民、社会連合政権の登場は単なる目先の利害に動いた政治家の動きのように見えて、それは一つの歴史動力のなせる業だと考えなければならない。旧連立政権は悪魔の操ったバブルの申し子だった。それは匆々(そうそう)に洗い流された。曲折はあるだろうが、これから現れるのは、ことの底流において、おそらく千年に一度の変曲ではないだろうか」(196頁)。
 「私の歴史観照からすれば、国際勢力の営々たる数世紀の努力は西洋文明世界を覆い東洋を襲ったのち、いまや終末期に向かいつつある。その墓場はおそらく亜細亜、そしてその極点としての日本だろう。本書はその論理を説明する場所ではないが、末尾の章をじっくりとお読み頂きたい」(「おわりに」より)。

 「壊される日本 「心」の文明の危機」(馬野周二・著  プレジデント社  1993年刊)を転載しておく。
  著者が力説しているのは、単に日本経済が破壊されるというレベルのことではなく、日本の歴史や文化・伝統といった、いわゆる日本人の「心」が破壊されつつあることに対して警鐘を鳴らしているのです。しかしながら、この本が書かれた1993年から既に10年以上の月日が流れた今、わが国は著者が危惧していた通りの悲惨な状態に置かれつつあります。国民の大半は3S(スクリーン、スポーツ、セックス)に目を奪われ、世の中の大きな流れには無関心です。理解しがたいような残酷な犯罪が多発するようになり、テレビや新聞で報道されています。それらはすべて、今日の世界を支配下に置いている“ある強大な勢力”によって、意図的、計画的に実行されてきたことなのです。 「そのことに気づく人が非常に少ない」と著者は嘆いています。確かに、日本人は家畜のように、ただ毎日を楽しく暮らせればよいという低級な民族へと退化しつつあると言わざるを得ません。ここでは、その“ある勢力”による日本侵略の足跡とも言える内容を抜粋しました。ぜひこの現実を直視していただきたいと思います。(なわ・ふみひと)
 ペリー艦隊来航の工作者

  ペリーは1852年に4隻の軍艦を率いて江戸湾頭に現れ、開国と通商を強要した。ペリー艦隊はきわめて大規模な艦隊であり、有力な海兵を搭載していた。 当時の幕府はすでに幕末症状を呈しており、この武力威嚇に対して手の打ちようがなかった。ついに日米和親条約を締結したが、これは幕府の無知につけ込んだ不平等条約であった。そして日本は鎖国以来250年にして開国したわけである。

  当時の東アジアの状況を見ると、すでにインドは植民地化が着々と進められており、清国はアヘン戦争に敗れ、広東、上海等を貿易港として解放し、そこにはイギリス人を中心とする酷(むご)い貿易商人が入り込んで、中国搾取の体系を築き上げつつあった。ところで、ここでわれわれが深く考えなければならないことは、イギリスさらにはオランダ、フランスの勢力が、それまでの2世紀の間に東洋の植民地化を進めてきた事実である。今日の歴史書には、単に英・蘭・仏の政府が国策として東洋の植民地化を進めたように書いてあるが、実は、彼らの植民地化の実態は、国家が動いたというよりは、むしろ各国の一部グループ(各東インド会社)による商業的冒険主義者の連合勢力による動きだった。

 日本人は、日清戦争以後の大陸進出が政府主導というよりは、むしろ軍部主導でなされた経緯があるから、イギリスやオランダ、フランスの東洋への植民地獲得活動を、日本と同じように政府や軍人たちによる計画的な動きだと考えやすい。しかし実際はそうではなくて、むしろ商工業者(その中核の冒険商人)による経済的侵略行為が、のちにそれぞれの政府によって認知されて、植民地として政治的体裁を整えるようになったのである。
 東インド会社の正体

  ここに国家的に海外進出を行なった日本と、それに3世紀先行するヨーロッパ各国との大きな違いがある。そして、こういう動きの中心には必ず何らかの思想的、宗教的な背景があるものだ。

  イギリス、オランダ、フランスの場合は、その中心を成したのはユダヤ系の商人であったと思われる。アメリカ大陸を発見したコロンブスも、その身元を探るとやはりユダヤ人であったと見られている。つまり、海外に出て行って商売をし、そこで軍事力・政治力を打ち立てて植民地化し、独占的商業圏を築き上げ、その住民を搾取するという観念は、ヨーロッパ土着の考えというよりは、むしろ古い中東の歴史から出た考えであると見るべきであろう。

 イギリスの東インド会社が設立されたのは1600年で、これは秀吉が亡くなって2年後のことである。そして、オランダの東インド会社ができたのは、それから2年遅れた1602年、フランスの東インド会社は1604年である。 その後のイギリス、オランダ、フランスの植民地経営を見ると、現地の住民を教育するといった考えはなく、単に労働力として酷使したのである。また現地人の中で頭の良い者は、本国の大学に入れて植民地政府の従順な官吏として使った。

 さて、英・蘭・仏の東インド会社なるものは、主としてユダヤ系の勢力によって作られたものであり、その中には太古の中東から脈々と流れる精神が深く隠されていたのである。彼らの植民地支配の内容を見ると、流血と詐取と搾取の跡が歴々としている。こういうことは本来の敬虔なキリスト教徒である本国ヨーロッパ人は避けていたことであろう。たとえば中国に侵入したイギリスの行なったアヘン戦争と、アヘンの中国への無制限の持ち込みといったことは、尋常の精神で考えられるものではない。以後の中国は、上海を中心とするサッスーン財閥その他の、もともとアヘン貿易によって資産を成した者によって牛耳られていったのである。
 フリーメーソンの暗躍

  フリーメーソンの起原あるいは性格については、今日でもごく最内部にいる少数者を除いて十分に知っている者はいないと考えられるが、この東インド会社なるものの行動規範にフリーメーソンがまとわりついていることは疑う余地がない。ところで、すでにアヘン戦争を起こして中国に入り込んでいたイギリスが、なぜ日本に真っ先に来ないで、代わって米国の東洋艦隊司令官マシュー・ペリー代将が江戸湾頭に現れたのか。これは各国フリーメーソンの共同謀議の結果と見るべきであろう。彼らがアジア諸国を植民地化するに際して用いたのは、現地の王侯、大商人等をフリーメーソン組織に入れ、あるいは彼らを操って内部抗争を起こさせ、その混乱に乗じて全体を手に入れるという手口であった。インドなどはその典型である。たとえば戦前の中国は、まさしくフリーメーソンによって四分五裂の状態に陥っていた。孫文も、蒋介石を取り巻く人物の多くもフリーメーソンであった。蒋介石の婦人は宗美齢だが、この宗一家はことごとくフリーメーソンであった。そして周恩来もまたフリーメーソンであったと言われている。周恩来は若いころフランスに留学している。
 日本開国の遠謀

  それでは彼らは日本に対して、いったいどういう手を用いたか。幕末をフリーメーソンの光に照らしてみると、当時の事情が鮮明に浮かび上がってくる。ペリーの来航前、フリーメーソンは彼らの占領していた上海で日本征服の会議を開いたと伝えられている。その時期や場所、内容は現在のところわかっていない。おそらくその当時長崎の出島に橋頭堡を持っていたオランダのフリーメーソンが主導権をとって、日本征服の計画を練ったものと思われる。

  当時の清国に対してとった武力侵攻政策を日本に適用することは否決されたと言われている。それは、日本を武力で侵攻することに成功の保証がなかったからである。日本は侍(さむらい)の国であって、ペリーの来航66年も前の1786年に、林小平が『海国兵談』などで外国の攻撃の危険を説いていた。その後、多くの人が外国からの攻撃の危険を論じ、幕府はじめ各藩は海防を厳にしていた事情がある。

  アヘン戦争が1840年であるから、いかに林小平が先覚の士であったかがわかる。日本侵入に関するフリーメーソン上海会議は、アヘン戦争以後数年以内に行なわれたものであろう。日本侵入の第一着手として、アメリカの東洋艦隊による日本強制開国が決定されたものと思われる。 では、なぜイギリスではなくてアメリカだったのかという問題であるが、イギリスに対しては、アヘン戦争における清国での行状から、日本人は極端な悪感情を抱いており、またオランダは長年にわたって長崎・出島に住みつき、幕府に対しては極めて恭順の体裁をとっていたので、いずれも日本に開国を迫る当事者としては不適当であった。 そこで、フリーメーソン国家アメリカが呼び出され、その任を授けられたのがペリーであったのだろう。 極めて興味深いのは、ペリーに対するアメリカ大統領の訓令の中に、「決して武力を行使してはならない」ことが記されていたことである。つまり、日本の武士たちの対面を大砲によって破ることは、その後に計り知れない悪影響を及ぼすことを、彼らは悟っていたのである。 アメリカ海軍のペリー提督は、日本開国について十分知識を集めて研究をして来たものであり、衰弱した幕府官僚は一方的に条件を呑まされるしかなかったのである。
 内乱を起こして植民地にせよ

  このとき、フリーメーソンはどういうプロセスを経て日本を手に入れようとしたのか。それは当時の事情から分析することができる。つまり、彼らの常套手段――対抗勢力を操って内乱を起こさせる――を使ったのである。 幕府に入ったのがフランス・フリーメーソンで、フランスから相当規模の使節団を入れて借款を申し入れている。つまり薩長土肥の倒幕派に対して幕府が十分戦闘できるだけの軍資金と兵器・弾薬の提供を申し出たのである。一方、薩長側にはイギリス・フリーメーソンがついており、長崎に駐在していた武器商人のトーマス・グラバーを通じて相当の便宜供与を行なった。 こうして日本を内乱状態に陥れ、そのどさくさに紛れて日本の植民地化を図ったのである。

  この時、日本に2人の英雄が現れた。一人は官軍の参謀総長である西郷吉之助(隆盛)、もう一人は幕府軍の参謀総長・勝海舟であった。西郷と勝が小人物で、英仏フリーメーソンの影響を受け、金で買われていたならば、とんでもない大戦争になり、江戸は焼け野原になって、今日までも大きな禍根を残しただろう。 このような事情から、フリーメーソンはその後も日本への侵入と日本国家のコントロールをきわめて長期の計画で辛抱強く進めてきた。その後の日本の政財界の西洋一辺倒の風潮に乗って、彼らがその本心を隠して日本の著名な人士、勢力を持つ人物にそれとなく浸透していったことは間違いない。 当時の元老・西園寺公望などは、10年間もパリに滞在したのち帰国しているが、彼は公家出身者で公爵でありながら、完全に、しかし隠微にメーソン的思想のもとに行動した人物である。フリーメーソンは現在の日本の政財界にも深く浸透していると考えて間違いはないだろう。
 獅子身中の虫

  日本を日米戦争に導く構想が始動したのは1921年のワシントン軍縮会議である。それ以来、日英同盟の廃棄、中国における排日思想の誘発、満州における張学良を使っての日本との紛争の惹起、満州事変への誘導などの手が打たれ、さらに中国共産党と連携して支那事変を起こさせ、蒋介石を指導援助して対日抗戦を継続させた。そして最終的には、石油禁輸によって日本を絶体絶命の窮地に陥れ、ハル・ノートで戦争に追い込んだのである。この間の情勢を冷静に検討してみると、日本の政治家、軍人の非常な愚かさがあるし、また彼らの計画の水も漏らさぬ周密さが際だっている。

  1921年から41年までの20年間の日米関係、日英関係を振り返ってみると、深い謀略が周到に張り巡らされていたことが明らかである。 しかも極めて残念なことに、日本国民の中にこれらの謀略の手先を務め、決定的に日本を対米戦争に追い込んだ者たちが見受けられる。もっとも忠実な日本人であるべき陸軍軍人の中枢にさえも、きわめて少数ではあるがその筋の影響を受けて日本を戦争に追い込むのに加担したものがいたのだ。
 占領政策の内実

  こうして日本はイギリス、アメリカ、そしてそれらの意のままに動かされた中国によって自在に操られ、ついに支那事変から日米戦争へと追い込まれる。これは米英を動かしてきた中心勢力の隠微なる働きによることは明白であるが、一方、長年にわたり国内に培われていたマルキシズム、共産思想、社会主義分子によっても大きく動かされてきたのである。 戦後の日本は6年間の占領によって根本的に変えられてしまった。米国外交政策を指導するフリーメーソンにしてみれば、天皇制を廃し、自由民主主義の美名のもとに少数の資本家を中核とし、大多数の国民を従順なる羊の群れとして搾取するという構想を考えていたことであろう。 皇室はその力を削がれ、大部分の皇族は一般人となり、華族制度は解消され、財産税の無差別な適用によって上は皇室から財閥、市井の金持ちにいたるまで、すべて一様に巨大な収奪を被ったのである。 これは、要するに伝統的支配階級を滅ぼす政策であり、日本の歴史的伝統、精神的中核を骨抜きにする作業であった。これによって今日、まったく骨のない、歴史を忘れたわけのわからぬ日本人が無数に出てきたのである。日本の敗戦後の状況は、フリーメーソン、イルミナティが表面に現れないようにして日本を改変し、彼らの思う方向に誘導してきた結果である。これは半ば成功し、半ば失敗したと言うことができるであろう。 彼らは結局天皇制を廃止することができなかったし、天皇に対する崇敬を根絶することもできなかった。しかも、彼らが手を加えて大いにその衰滅を図った日本神道は、今日でも各地の神社が盛大である。少なくとも彼らが完全な成功を収めたとは言いがたいようだ。彼らからしてみれば、日本は頑強に彼らの誘導する方向に抵抗したということができよう。
 日本経済のフリーメーソン化

  明治から大正、大正から昭和、昭和から平成と、それぞれ大きな時代の変わり目であった。現在は平成5年であるが、この5年間に日本のフリーメーソン化は急激に進んでいる。 日本の企業は大挙アメリカに出て行った。そして日本の金融機関はたいへん巨額の金を海外とくにアメリカに持ち出した。そしていわゆるバブル経済がピークに達し、その破裂が起こったのもこの時期である。

  1929年のニューヨーク株式大暴落は決して自然的経済現象ではなく、周到に根回しされ、引き起こされた人為的経済現象であるというのが、私の考えである。これと同じく、一昨年初めからの株式大暴落は、1つの劇つまり人為的なものであって、まさしく半世紀前にニューヨークの市場を操ったのと同一の手によるものであると思っている。 当時ニューヨーク市場を動かしたのは、もとより米国人であったが、それよりはさらに大きいヨーロッパの勢力、おそらくはロスチャイルドやワーバーグの関係者がいたのである。つまり、当時のアメリカ金融界はなおヨーロッパのコントロール下にあった。それと同じように、敗戦以来の日本の経済、政治、あるいは社会は、ほとんど完全にアメリカの手によって操られているといって差し支えない。
 恐るべき時代の開幕

  さて、現在の日本の企業・金融関係者に世界支配中枢の手が伸びていることは確実である。しかもその魔の手はすでに官僚や学者や宗教関係者にまで伸びて、深く入り込んでいる。もとよりマスコミ関係、評論家には戦前から深く食い込んでいると言ってよい。 私がもっとも危惧しているのは、次代の日本を背負うべき児童や青少年を規制する教育関係者に、すでにこの影が入り込んでいるのではないかということだ。一般に考えられているよりもはるかに広範に、彼らの力が入っていることを恐れざるを得ない。 もちろん、彼らの力はすでに政界に深く入っている。共産党、社会党(現社民党)はまさしくイルミナティの代弁者である。そして自民党もまた、中曽根首相以来、その中枢部はこの一派によって独占されてきたように思われる。つまり、彼らと同調する以外に主要な政治家としてのキャリアを持つことができなくなっているのではないか。 今や日本が陥りつつある状況は、決して誇張ではなく恐るべきものである。本当に恐怖すべき状況にわれわれは突入しつつあるのだ。
 「見えざる植民地」日本

  われわれは第二次大戦によって植民地はすべて解放されたと思い込んでいる。アメリカ大統領ルーズベルトは、世界植民地の解放を第二次大戦を戦う有力なスローガンとしていた。しかしながら、これは他のルーズベルトの言明と同じくまったくのまやかしであった。西洋はその国家社会の本質として植民地主義を血肉としてきているのであって、それを一時の戦争によって捨て去ることなどとうていあり得ないのである。

  ところが、このことを日本人はまったく理解していない。外面の行動・宣伝に惑わされて、事の本質を理解していないものが多いのである。 なるほど法制的に見れば、世界の植民地はすべて解放されてしまった。本国が直接に統治する植民地は消滅した。しかしながら、植民地主義の妖怪は決して消えていない。植民そのものの様態が変わってしまっているのである。

  第二次大戦に際して、なぜ西洋の首魁ルーズベルトが植民地解放を呼号したかをよく考えてみなければならない。ルーズベルトの政治は、人から吹き込まれた科白(せりふ)を、巧みな演技でもっともらしく並べ立てていただけなのだが、その科白の作者たちは、はるかに遠く世の中の動きを見、将来を慮っていたのである。

  どういうことかというと、直接統治という方式はすでに時代遅れとなって、非常に高コストなものになるという事態が進行していたからである。この世界史の方向をいち早く見抜き、それに対する方策をルーズベルトに授け、そして当時の世界最大の力を持つアメリカ国家を使って世界をその方向に誘導した彼らの先見と力量は、敵ながら天晴れなものであると言わなければならない。つまり直接統治によって覚醒した民衆の反乱が起こり、それを鎮圧しなければならないといった事態の発生によって、とうてい従来の直接植民地統治は不可能になると早々と察したわけであろう。

  さてそうすると、世界植民地主義の本源とも言うべきこの世界支配中枢が、いったい何を考えて従来の軍事的、政治的植民地経営を放棄したのだろうか。それは、世界はもう軍事力だけでは動かない歴史相に入ったことを理解し、特に核兵器ができた以上、実際にこれを使用する戦争が起こることはないという認識のもとに、その植民地体制の中心を軍事・政治から商業・金融に移したものと考えられるのである。すなわち、彼らが収奪をもくろむ国家・国民を商業・金融の世界的ネットワークの中に包含し、そこからまったく目に見えない間接的な方法をもって産業的・金融的に寄生し、自ら労せずして金銭・物質等を調達しようという考えである。

  日本は世界植民地体制の覆滅を目指して第二次大戦を戦った。これはそれなりに立派なものであったが、残念ながらアメリカの武力に敗れ、よくよく見ると、今日では完全なアメリカの植民地に堕してしまった。しかもそのことに気づく日本人が誰一人としていないのである。
 再び狙われるアジアの国々

  周知のように、東洋は久しくイギリス、オランダ、フランスの植民地であった。第二次世界大戦の日本の奮戦によって、それぞれ独立国家となり今日に至っている。かつて日本の支配下にあった台湾および韓国、北朝鮮も独立している。そして、半植民地と言われた中国は今日堂々たる中華人民共和国として大国の位置についている。しかし、これらの国々の将来が新しい植民地主義から安泰であるかと言えば、これには大いに疑問符をつけるべき理由がある。

  日本自体がすでにその実態はアメリカの植民地である。このような状況がいずれこれらの戦後独立した諸国に及ぶであろうことは明らかである。

  一国ないし多国を植民地化しようとする場合、彼らの使う常套手段は、その内部に2つないし3つの勢力を分立させ、それぞれにエージェント(諜報員)を送り込み、これらを互いに抗争させて、その国家ないし社会を弱体化させ、その間隙に乗じて侵入するというものであった。この方法は、植民地方式が大変化した今日でも、まったく同じ構図のもとに応用されているものと考えてよい。複数の勢力を抗争させて相手を倒させ、自らの目的を達するという方法は、常に彼らがとってきた方法である。

  東アジアを彼らの自由にするために行なったのが日中間の離隔、そして最終的には日中戦争を起こすことであった。蒋介石政権と日本政府は幾度も和平を交渉したにもかかわらず、どこからか邪魔が入って成功しなかった。当時のすべての事態を洗ってみると、ここに隠微な陰の手が回っていたことがわかる。この日中間の抗争の中でもっとも陰謀の働いたのは西安事件と、近衛首相の「蒋介石相手にせず」の声明の2つであった。それには、かたや周恩来、かたや尾崎秀実の両共産主義者による力が大きかった。共産主義なるものが世界支配構造の1つの駒であることからすれば、すべてが割れてこようというものである。

  これは1930年代の事件であったが、1990年代には何が行なわれるであろうか。一般に報道はされていないが、デイビッド・ロックフェラーが幾度も中国を訪問しているし、すでに上海には戦前のアヘン戦争以来奥深く食い込んだサッスーン財閥も復活したと伝えられている。かたや日本にもデイビッド・ロックフェラーはしばしば来日しているが、最近の報道によるとフランス・ロスチャイルド家からも人が来ていると言われている。

  日本人は、戦後の洗脳(もちろん世界支配勢力による)によって、戦前のことをすべて忘却させられ、それを一方的に日本の悪逆によるものと教え込まれて、逆に世界中枢に通ずる筋、その最大の傀儡アメリカ政府に対するまったく無邪気な信頼が抜きがたく育ってしまっている。戦後の愚昧狡猾なる政治家たちはアメリカに追随し、彼らの言うとおりに事をなし、さらには言われない前から彼らの意向を察して事をなすといった、哀れむべき状態に陥ってしまっている。
 「金融」による新たな植民地化

  西洋文明は根元的に他民族、他地域に寄生する習癖を持つものであり、大戦による日本の努力によって全世界的に解放された旧植民地体制に代わって、新植民地体制が現れてくるのは理の当然なのである。では、いったいこの新植民地体制とはどんな様態のものなのか。

  それは金銭的、情報的支配である。

  第三世界の資源は、今日完全に西洋新植民勢力によって押さえられている。そして世界的な西洋化、アメリカ化を見ると、文化的植民地化の歴々たるものがある。すでに日本の伝統的文化は「国際化」によって危機に瀕している。スクリーン、スポーツ、セックスのいわゆる3S政策は、今日全世界を覆ったが、これは西洋植民地化の一面に過ぎない。

  今ここで私が明らかにしておきたいのは、誰も気づいていない「金融寄生」植民地化である。実は日本がその最大の被害者なのである。日本の貿易黒字は、国民の精良な日本精神から由来したものである。その貴重な日本人の生来の美質と勤勉によって得た金銭は、完全に西洋勢力によってだまし取られている。 つまり日本は、誰も気づかないうちに西洋植民地化に成り下がっていたのだ。
 終わりに

  ころは日本の幕末だった。今はむしろ世界終末の気配が濃い。いつの時代にも覚者は稀少である。だが幕末には数多くの志士が自らの想いに命をかけた。平成のとろけた若者はいったい何を思っているだろうか。 今われわれに必要なのは、真実を曇りなく見抜くことである。いつの時代にもそれは時の権力によって隠されるのが常であるが、現在は衆愚政治の広範化、金銭経済の肥大、情報技術の革命によって、事実の隠蔽、虚構の造作は驚くほど盛大に進行している。 今の世界権力とはいったい何なのか。いかなる目的を抱いているのか。――それを考える自由は誰にでも与えられている。だがそれに気づく者はほとんどいないのが実情である。世にこれ以上危険なことがあるものではない。

  人間にはそれぞれ持って生まれた性能と背負った宿命がある。世の危険を予感し察知する能力は、少数の人たちにしか与えられてはいない。それを弁知し分析する知能を併せ持つ人に至っては、ますます少ない。さらにその危険の根因に思いをめぐらし、その正体を突きとめる人に至っては稀というべきだろう。

  読者の身辺目先の話にたとえれば、先ごろのバブル(経済)の顛末を見通した人は稀だ。ところが問題はそこに留まらない。覚者の警告は大衆によって無視される。逆に世相の短気のベクトルを増幅して益もない言説を流し虚名を求める者たちは数多い。これらの者の吹く笛の音に迷わされ、どれだけの人が大金を失ったか。いつの世にも変わらない大衆の悲哀である。さらなる厄介は、稀少なる世の覚者を大衆は嫌がる。目先の欲得に水を注すからだ。

  金を失うくらいならば大したことではない。個人であれ国家であれ、元通り心を入れ替えて働けば済むことだ。しかし、もしバブルがこれらから金を抜き取る計略であっただけではなく、日本の人と社会を壊滅させる計画の一環であったならば、実に恐るべきことだろう。読者の深考を促したいところである。

  これからのわが国の政治、社会は腐敗の度を深めてゆき、長期暗夜の時代に入るおそれが大きい。かくて、どこにその根因があるかわからないままに、表面的な対症療法で時を過ごし、病巣はますます体内深く入り、ついに斃死するに至る。

  殷鑑(いんかん=失敗の先例)はアメリカにある。これは200年前につくられた人工国家である。「人工」であるからには設計図があるし、工事を指揮した者がいるはずだ。それは誰だろうか。この国と社会はこの30年間にツルベ落としに落下した。この現象も「人工」であるはずだ。200年にして壊れるように設計してあっただろうからだ。

  今にして思うのだが、日本もまた130年前、幕末維新の時、不完全ではあっても同じ手によって「設計」されていたのではなかったか。それを完成するのが「平成維新」ではないのだろうか。その手に悪魔の刻印が捺されていたとしても、それに気づく人は寥々(りょうりょう=非常に少ないこと)たるものだろう。 もとより建国や維新はその時代の要求に応じたものであり、それなりの必然性があった。それを否定することはできない。革命、戦争、恐慌もまた同じ。人心と体制は変化を拒む性質がある。しかし世は進む。変化は必然である。だが悪魔がその「間」に入ることにわれわれは注意しすぎることはない。

 「論攷ろんこう・著書一覧」の「秀真伝 研究を勧める」を転載する。(れんだいこ文法に則り編集替えした)
 秀真伝(ホツマツタヱ)が今年から数えて1870年前に編纂された文書であることは、諸方面からの検討によって確実である。しかもその内容の約7割は、さらにその時点を遡ること794年、神武天皇即位前8年(紀元前 668)に書かれていたと推測して誤りないと思われる。全編12万余字から成るこの秀真伝は、その成立の深さ、伝承の深さにおいて今日に完全な形で残る世界最古の古典と言えよう。

 始皇帝の
焚書坑儒の故事につまでもなく歴史書は常に時の権力によって弄ばれる。秀真伝もその例外ではなく、すでに仏教伝来、蘇我氏専権のころから受難が始まったのではないかとも考えられ、ついに道鏡専横の時代に社会の表面から秘匿されてしまった。ところが江戸時代安永年間(1772~1780)になって忽焉(こつえん)とその姿を現した。その間一千余年の消息は杳(よう)として知れない。琵琶湖西岸のいずこかに 密かに護持されてきたものであろう。実に不思議な生命力を持つとしか考えら れない。

 しかしこのようにして一旦は露頭した秀真伝も前途多難であった。これを
冥闇(めいあん)から世に出し多年困苦の研究の後、漢訳したのは、秀真伝作者である神武朝の大臣・奇甕玉(くしみかたま)の遥かな裔孫(えいそん)であると言う三輪安聡(みわやすとし)和仁估安聡 わにやすとし)であった。他にも律宗僧溥泉(ふせん)などが研究しているが、いずれも後継者を得ず再び世に隠れんとしたが、ここに伊予宇和島小笠原一族が現れ深く研究するに至った。小笠原家では江戸末期から大正年間まで秀真伝の研究が続けられたが、その後は中断状態になっていたところ、戦後になって松本善之助が奇縁をもってこの書物に出会い、以来鋭意専心研究に打ち込むとともに、散逸した諸本の蒐集尽力された。同氏の業は単にホツマ研究に止まらず、国史の破邪顕正の上から大書すべき功績である。

 では古代日本の真正の歴史と道統を明らかに誌したこの文書が、なぜかくも長い年月の間、幾度も世に出んとして、しかも
隠蔽されてきたのか。この疑問は日本古代史の核心に触れる問題を提起する。結論のみを述べれば、6世紀以来の外来思想、宗教、種族の流入によって古来の道統が廃(すた)れ、秀真伝が厳重に制止した《私》の利を計る《閥族》がはびこり、彼らは天皇家とその系譜、由緒、精神を明確に記した秀真伝を危険書として排除した。旧事紀、古事記、日本書紀は、この過程において出現した国定、即ち「閥族」定の史書であることは、秀真伝とこれらの内容を比較すれば直ちに判明する。我々はいまにしてこの旧紀、記、紀のむべき虚構と恣意剔抉(てっけつ)しなければならぬ。つまりこの三書では秀真伝に書かれている遠古から上古に至る真正の歴史は完全に捨て去られており、これらは秦氏、蘇我氏など閥族の都合により編纂されたものである。秀真伝と旧紀、記、紀を比較すれば、そのことは客観的に明瞭となる。

 記紀は以後今日まで歪められた古代史像を政治、社会、学術の全面に亘って強制してきた。日本古代の道統を固守すべき古社が、記紀の束縛から一歩も離れ得ないと言うのは、まことに悲しむべき状況としなければならない。日本古来の道統を研究すべき諸大学の国史学科、特に神宮皇學館あるいは國學院が、記紀の呪縛から逃れこの秀真伝の真価に一日も早く気付かれんことを願うものである。このような事実は記紀すなわち国許、官製歴史に対しては、疑うべからず、 ましてや一指も
さわるべからずと言った、萎靡(いび)したその日暮らしの心理に神道関係者が陥っていることを示す。一般の古代史学者に至っては全く驚愕すべき状況に長く止まっている。

 明治時代から秀真伝は勿論、その他『
上記(うえつふみ)』、『富士古文献』、『竹内文書』 などが世に出ているにもかかわらず、帝国大学国史学科を先頭として、アカデ ミーの世界ではこれらを完全に無視してきた。彼らにとってこれらは存在して、 しかも存在しないのである。敗戦後の今日では事態はさらに悪化していて、虚構に屋上屋を重ねる状況に至っている。この幾重にも重層された虚構のもとは、蘇我氏専横の時代に、彼らの国権纂奪の野望を遂げんとして、太古以来の天皇家の比類ない遠い歴史と高い精神を湮滅(いんめつ)させるべく、偽りの歴史、旧事紀が聖徳太子、蘇我馬子、秦河勝(はたかわかつ)らによってまれ、以後その史観が、諸種の理由によってそのまま踏襲され、一世紀後の古事記、日本書紀に至ったものであろう。以後今日までの長大な時間の間、記紀神話が疑うべからざる真理として社会に固着した結果、これを真向から否定する秀真伝が世に出るべくして出 られなかったのは良く分かる。

 奇怪と言おうか当然と言おうか、敗戦後この記紀神話は心なき歴史学者によってますます歪曲の度を強め、日本の
いわゆる神代史は醜いものに作り上げられてしまった。なかんずく悪質なものは、最も尊貴であり 人類の精神文明の根元に連なると結論される天皇家について、朝鮮半島から移動してきたと言った賎しむべき説を公布して得々たる特定の国史学教授輩である。日本書紀を忠実に解釈すれば、必ず天皇家の出目、日本国の根拠について疑いを抱くようになる。つまり記紀はそのために編纂されている。文献批判の学者・ 津田左右吉は記紀を冷静に分析して、そこに書かれている天皇家を否定したが、それは当然であった。

 ここで考えて見なければならないのは、なぜ千年の完全な埋没の後、安永年間になって秀真伝が地中から姿を現し、以来断続的に露頭し、維新前後に高度な研究が世に出、そして敗戦後の今日、
ようやく本格的に研究が興るようになったのかという理由である。すでに述べたように、今日の世相はむしろますます古代の高度な精神性から離れる様相を増していると言うのに、少数ではあるが高度な研究者が現れるに至っていると言うことは、アナクロニズム、一時の徒花(あだばな)ではないかと問うのが一応の事情を知った人達の心の内であろう。世の本質に関わる事物は、決してそれ自体の稟質(ひんしつ)のみによって顕(あら)われるものではなく、その時代の性向、思潮の内奥の動きから自ずから隠顕(いんけん)するものと思う。

 私の文明理論によれば、世界文明は全体として或る統一的プログラムに沿って変動展開して行く。日本とヨーロッパの歴史は巨視的には同時的に相似であり、概ね同時代に同様の社会状態になる。安永年間はヨーロッパでは産業革命が興り、政治革命が始まり、過去の
遺制 (アンシャン・レジーム)が崩壊していく時代であった。アメリカの建国も フランス革命もこの時に起こっている。日本での政治変化はなお極めて微温的ではあったが、社会思潮の上からははっきりと同期した変化が認められる。秀真伝が千年の眠りから揺り起こされたのは、正にこの世界普遍的社会潮流のなせる業なのである。徳川中期から国学が勃興し、維新前に強烈な国粋 理論家・平田篤胤が活動したのも、西洋の力が日本に打ちかかる事態に対する歴史の一つの仕組であろう。このような歴史理解から現在を眺めると、幾人かの高度な研究者が現れ、発行部数が万を超える秀真伝解説書が出ると言うことは、それが正しく歴史必然を示していて、その延長上には現在とは異なった世界が開けて くることを黙示していると考えられる。

 すでに私が他の書で述べたように、黒船に始まった日本VS西洋の対決は、文明の全相に亘ってその最終相を、いよいよ露呈してくる筋合いである。この衝突に際して、日本も西洋もその依るべき本源は自らのアイデンティティであるより外はない。日本の宗源は天皇であり、これが外来であると言った証言に惑わされていては敗亡の運命が待つだけである。秀真伝は皇室と日本民族の由来が千古に亘って一系であることを、精密に、そしてあふれる詩情をもって伝えている日本の聖典であり、この書が18世紀後半以来姿を現わしてきて、その研究が末広がりの状況になってきていることは、そこに一つの歴史の構造を見る気がする。

 秀真伝の言文を初めて見る人は、誰しも
怪訝(かいが)の感に打たれる。奇怪な文字でられているからだ。私もまた同様であったが、いろいろ考えて見ると、これは素晴らしい構造性、理論性を持った、世界に冠絶する、超越した最高の文字であることが判ってくる。友人である米国の文字学者は、これがイギリスで数世紀前まで残っていたルーン文字に似ていると言い、ユーラシア大陸の両端の島にこのようなものが残っている事実に注意したいと述べていた。文字がすでにこのような超越的合理性をえているが、さらにその内容に到っては真に驚倒すべき古代史の実相を伝えている。すなわち記紀では空漠たる神の座にある天照大神は、現実には男性の人体であり、神武天皇の生誕よりしばらく前、猿田彦に洞穴を掘らせて自ら隠れ給うた。後年の日本の尸解仙(しかいせん)の伝統をここに見ることができる。  

 さらに驚くべきことの一つを挙げれば、かの
西王母(せいおうぼ)が天照神在世中に3度に亘って来日している記事がある。中国に『ぼく天子伝』という古書があり、東周穆(ぼく)王(紀元前1001~947)が遠く西遊して西王母瑤池(ようち)觴(しょう)した と出ている。今日の天山(てんざん)北路ウルムチの西方46キロの天山山脈中に天池という所があり、往昔(おうせき)王と西王母が会したところとする伝承が今に残っている。  

 ここに詳細を述べる余裕はないが、深く考究した結果、私は秀真伝の記述も
天子伝の記事も正しいと結論する。すると天照神はきわめて高齢まで生きておられたことになる。秀真伝を書いた時、著者大田直根子は 234歳と述べている。余りの長寿に信を置かない人が多いだろうが、大昔の日本は非常に清浄な霊地で、この程度の寿命は実際にあったものと思う。秀真伝の他の記述の厳密性から見てこの年数は信頼し得るであろう。勲功を加齢をもって報いた風習もあったかもしれない。心なく頭脳薄弱な今日の古代史家、考古学者によって、日本古代は蒙昧な縄文時代と片付けられているが、それは現代人の倨傲(きょごう)であって、すでに今日発掘されている遺跡、遺物は高度の文明の存在を証している。多くの栽培植物 の存在、山形、富山、福井で発見された穴を穿(うが)った柱、朱漆塗(あかうるしぬり)のなどは 秀真伝の人達の日常生活を彷沸させるものである。能登半島には巨大な木造遺構が見出されている。いずれも5千年以上前の古代に遡る。さらに最近は驚倒すべき5千5百年前の大遺跡も現れている。

 秀真伝によれば、イザナギ、イザナミももとより人体であって、日本列島全体を騎乗巡回し「アワ(天地)の歌」を教え住民の言葉を正した。言葉の乱れは社会の乱れなのである。かくして和歌の
淵源(えんげん)は遥かに遠く深い。万葉集に見るような秀れた修辞は、当時のゆっくりとした時代においては、その完成に数千年を要したであろう。和歌の起源は遠く縄文時代奥深く遡る。もとより秀真伝の時代、縄文を深く遡るころから、列島は全域一元的に天皇家によって統治されていた。虚心に諸方面の情報を総合して、これは正しい。神武天皇の紀年はおろか、その存在まで否定するのが現在の歴史学会の趨勢である。不逞言うべからざる学匪猖獗(しょうけつ)としなければならないが、錯誤乱脈の根因は、彼ら個々の頭脳の問題であるのみでなく、日本の学会の因循姑息(いんじゅんこそく)にある。今の歴史学会の状況が続き、誤った日本古代史が引き続き世に蔓延(はびこ)って行くならば、日本は遠からず危殆に瀕する。われら日本人にとって秀真伝は自らの根源を明らかにする史書である。それは尊貴高潔で、しかも情緒深く、さらに霊界との交流が仄(ほの)見える人倫の至極を歌っている。この日本の本質と源郷を明らかにする秀真伝を今こそ広く江湖(こうこ)に進めなければならぬ。ここに秀真伝が一刻も早く世に広まらんことを祈念する所以である。   

 平成8年5月30日 馬野周二

(私論.私見)

 道鏡、蘇我氏の位置づけに於いて、れんだいこ史観と齟齬するが、その辺りを問わなければ、立派な秀真伝評である。

 2013.3.22日 れんだいこ拝

  2015年06月23日ブログ「私における小室直樹:白石隆時事エッセイ」。
 私における小室直樹:白石隆時事エッセイ  
 http://kiheitai.soc.or.jp/gobu/20010430.html

 小室直樹は初期の出世作「危機の構造」や「ソビエト帝国の崩壊」以来ずっと読み続けてきた。私の書棚には昔のカッパブックから始まって近刊のしっかりした装丁のものまで小室文庫と呼べる一連の著作が揃っている。初期の頃は熱烈なファンだった。よく小室の新刊の著書がないかと書店を目を皿のようにして探し回ったものだ。彼の最大の魅力はその特異な経歴と行動力にくわえ、歯に衣着せね大胆な発言にあった。それは奇を衒うというのではなく学者としての信念からほとばしり出る発言だった。私はそこを潔しとし魅了されたのだ。当時の彼は赤貧のどん底だった。世間は彼を奇人として愚弄した。彼はそんなことお構い無しで次々と当時の常識を覆す著書を世に問い続けていた。東大で自主講座を開いていたのもこの頃だ。無報酬で学生たちに彼の学識を伝えていたのである。その当時の弟子に橋爪大三郎や副島隆彦がおり、今では彼らも新進気鋭の評論家として活躍するにいたっている。当時は私も自称「小室の弟子」であった。そして小室を敬愛してやまなかったのである。

 初期の小室直樹は愛すべき学者でだった。学問探求の鬼だった。かれの学殖は数学から始まり、経済学、法学、政治学、心理学、社会学、人類学と多岐に渡っている。京都大学で数学を大阪大学で経済学を修めた後、若くしてフルブライト留学生としてアメリカに渡りミシガン大学、ハーバート大学、MITを渡り歩き、MITではサミュエルソンの直弟子として理論経済学を学んでいる。帰国後東大で政治学、法社会学、人類学、社会学を学び法学博士を授与される。すべて一流所で学んできているのであり、その学識は他を圧倒していた。しかし彼は不遇だった。当時の日本の閉鎖的な学会では彼のような学際人を受け入れる余地はなかったのである。真理を求めて自己に忠実に生きて来た結果がこれであった。彼は仕方なく食べるために著述を始めたのであった。そしてここから初期の名作が生れていったのである。

 初めて「ソビエト帝国の崩壊」を読んだ時は強い衝撃を受けた。すごい新人が出てきたと驚いたものだ。若くして共産党に入り一年も満たないうちに反党分子というレッテルを貼られて離党した経験のある私には共産党の持つ官僚制という致命的な欠点をいやというほど熟知していた。そこには個人の自由は皆無であった。小室はこの著書の中で共産主義は人民が共産主義に対する夢を失った時、肥大化した官僚制は硬直化の道を突っ走り、生産力を失ってついに自然崩壊すると結論づけていたのである。ソビエトの人民はすでにフルシチョフのスターリン批判で共産主義に対する夢を失っていた。従っていずれソビエトは必ず崩壊すると予言したのであった。その洞察は鋭く、その言葉通りに十年後ソビエトは崩壊したのである。

 以後小室は日本の官僚制に対しても鋭く批判を浴びせ無能な経済政策と腐敗の進行する組織に激しく警鐘を鳴らし続けた。日本のリーダシップをとるべき官僚組織に取り返しのつかない腐蝕と精度疲労が起こっていることを小室は以前から見抜いていたのである。しかし当時の日本株式会社は絶好調で、通産省の指導のもと世界を席巻しわが世の春を謳歌していた。米国のある学者などは日本はNO.1だと持ち上げて賞賛した程だった。右肩上がりの成長が永久に続いていくものと誰も信じて疑わなかった時代である。しかしその警鐘通り数年後バブルは崩壊し、日本の官僚が如何に無能であるかが暴露される結果となったのである。

 小室直樹の活動の舞台は広大である。私は様々な知識を彼から授かってきた。たとえば国連が軍事同盟の延長に過ぎない「連合国」であり、いまだに日本には「敵国条項」が適応されていること。山本七平との共同研究では日本人には日本教という「空気」に似た宗教がありそれが日本人の行動を支配していること。資本主義の原点にはキリスト教の予定調和説があること。田中角栄はロキード事件では無罪であること。などなど。数え上げればきりがないほど実に様々な分野の様々な知識を彼から授かってきた。今でも小室の著書を書店で見つければ必ず購入するようにしている。しかし最近はじっくり読む暇もなく積読(つんどく)することが多くなってしまった。いずれ時間に余裕ができた時にじっくり読みたいと思っている。

 以上小室を称える賛辞を贈ってきたが、私には小室に対して大きな疑問を抱いていることがある。彼には国際金融財閥を正面から扱った著作がただの一部もないことだ。彼は学者だから国際経済を論じる時は学術用語を駆使して経済理論にそって話を進め、それで読者を納得させようとする。学者らしく学問の体系と論理的整合性にしたがって事象の解釈をおこない発言することを常としているのだ。しかし彼は本気で経済現象が人間を超えた経済法則によって動くものと確信しているのだろうか。そう考えているとするなら小室は本当の「学者馬鹿」と言うほかはないだろう。経済とは人間の欲で動いているものである。それも巨大な金を動かせる人間の欲によってである。経済法則などというものはその結果を統計処理しマクロ的に解釈して法則化したものに過ぎないのだ。小室直樹はこのことをどう考えているのだろうか。

 ここに一冊の本がある。1988年〔★1987年の間違い〕に青春出版から出版された「経済裏陰謀の常識」という本だ。この本はイルミナティの経済裏陰謀を日本で初めて紹介した衝撃的な内容の本だ。イルミナティとは国際金融財閥の奥の院のことである。この本には1989年に日本経済の破局があると予言されているが、それはみごとに的中している。著者は馬野周二(うまのしゅうじ)氏。日本における陰謀論の草分け的存在である。彼は1970年代のオイルショック当時、「石油危機の幻影」という著書を著わしオイルショックが国際石油資本の陰謀であること立証し日本国民に警鐘を鳴らした人物だ。馬野氏は通産省の技官を勤めたあと戦後まもなく米国に渡り化学技術者として長く活躍したのちニューヨーク工科大学の教授を勤めた人だ。

 この著書の推薦者の一人として小室直樹が名前を連ねている。彼の推薦文にこうある。「1989年に経済破局がくる。フリーメイソンなどイルミナティの手先に過ぎない。イルミナティはアメリカ東部のエスタブリシュメントを巻き込み、虎視耽々と日本の喉笛をねらっている。大恐慌を起こしそのどさくさにまぎれて日本経済を征服しようというのだ。この大陰謀にくらべればオイルショックの円高不況でさえも児戯に類する。日本人よ無知によって生命を失うことなかれ。アメリカ研究の泰斗馬野氏渾身の力作。馬野経済史観による日本経済の将来を予測するの書。」とある。この推薦文から分かる通り小室は国際金融財閥の実態を熟知しているのである。わずか四年間のアメリカ留学生活であったが彼はアメリカに巣食う強大な権力の実態を正確に把握していたのである。渡米前、友人に必ずノーベル賞を獲って帰って来ると豪語した小室が数年後「もうアメリカから何も学ぶものはない」と言って静かに帰国した背景にはノーベル賞が国際金融財閥に奉仕した人間にだけ与えられるご褒美に過ぎないことを喝破していたからに他ならない。

 小室直樹は今やソビエトの崩壊を予言した人物として一部の学者や文化人に神様のように崇められ「天才小室」とか「学問の神様」といってもてはやされている。このようなおべんちゃらを聞くにつけ小室が堕落しはすまいかと心配になる。彼の持論である「宿命の対決-日米は二度戦う」は次第に実現の可能性を濃くしつつある。阿呆な取り巻きを一掃して、日本の命運を担う彼の人生最大の大仕事、日米対決への処方箋をじっくりと完成して欲しいものである。

 ルーズベルト(1882~1945) 63歳

 障害をちながらも4選を果たした大統領
 民主党出身の第32代アメリカ大統領であり、アメリカ史上唯一4選をはたし、重度の身体障害を持つ大統領としても知られているフランクリン・デラノ・ルーズベルト。1932年、大統領に選ばれると行政府主導の革新的立法を要求、銀行救済、農産物価格安定、失業者救済、テネシー川流域開発公社(TVA)の設立、企業活動や労使関係の国家規制、金本位制停止などの政策を次々と実現。36年の大統領選挙で再選をはたし、国民からの人気と信頼を維持しつつ40年に3選、44年には異例の4選をはたした。
   
 在任中の39年に第2次世界大戦が勃発すると、連合国側を支援することが参戦回避の道だと主張、武器貸与法などによる積極的軍事援助をおこなう。41年12月、日本の真珠湾奇襲を契機に参戦を決意し、連合国の戦争目的や戦後国際秩序の構想に指導的役割をはたした。参戦後は、アメリカ・イギリス・ソ連3大国の大同盟を重視し、カサブランカ・カイロ・テヘラン・ケベック・ヤルタなど、一連の首脳会談を通じて、戦争協力体制・戦後処理、国際通貨基金や国際連合など、戦後国際機構の構想を具体化すべく活躍したが、45年4月、第二次世界大戦が終了する目前で脳溢血のため63歳で死去した。

 死因をめぐって様々な説が飛び交う
 巷間伝えられているルーズベルトの最期はこうだ。1945年4月11日夕刻、「第二の国務長官」といわれたヘンリー・モーゲンソー・ジュニア(ニューヨーク州ユダヤ系資産家の長男。ルーズベルトのもとで財務長官をつとめた)は、ルーズベルトから呼び出されジョージア州ウォーム・スプリングスにある「小さなホワイトハウス」を訪れる。玄関まで出迎えた車いす姿のルーズベルトを見て彼は驚く。あまりの急激な老け込みぶりに彼は「身の毛もよだった」という。そして晩餐を囲みながらの会話は子供時代の話や亡くなった友人のことばかりで「なんのために私を呼んだのか」と訝った。倒れたのは翌日だから最期の晩餐である。彼の最期を看取ったのは愛人のルーシー・ラザフォードで死の間際、「私は大統領を辞めたい」と言って笑みを浮かべ、それが彼の最期の言葉となった。

 ところが、ルーズベルトは病死ではなく毒薬を投与され、殺害されたという説を唱えるのがカーティス・B・ドールと、エマヌエル・マン・ジョセフソンだ。馬野周二氏の著書『操られたルーズベルト』のなかに「世界最大の帝国の首長が、彼の長年近親し、その言うがままに動き、そのためにほとんど為さざることのなかった者たち――その首魁の一人はヘンリー・モーゲンソー・ジュニアとされている――の手によって毒を盛られ、挙句の果てには闇から闇へと葬られた」(ドール)という一文がある。さらに続けてこうも書かれている。「ニューヨーク在住の医師で、州政界でも一時活躍していたというジョセフソンは、はるかに複雑な正に驚くべき報告をしている」と。かいつまんで紹介するとこうだ。

 1943年末、スターリン、チャーチル、そしてルーズベルトの連合国3巨頭がテヘランで会談した。その会談終了直後、ルーズベルト、チャーチルの二人が謎の重病を患う。チャーチルは生命の危機にまで陥るが、ペニシリンの発見者であるアーサー・フレミングによって事なきを得た。一方、ルーズベルトも全身の激しい疲労と痺れを訴える。この症状をある医師はこう断言した。「これはアメリカン・インディアンが矢尻に塗る毒の症状に酷似している。このままではゆっくりと、確実に死へと至る」と。この毒はロシアにも存在し、スターリンはこれによって政敵であるレーニン、クラシンを葬ったといわれている。この毒薬の話はアメリカ政府関係者にも伝えられ、トップシークレット扱いとなる。

 大統領の遺体はどこに眠り、影武者は誰だったのか
 テヘランからの帰国後、彼の写真は遠くからのスナップ以外、撮ることは赦されなかった。表情にはただならぬ死相めいたものが漂っていたのであるから無理もない。ジョセフソンは想像であると前置きし「帰国して間もなく彼は死亡したのではなかろうか。それ以降、彼を演じたのは影武者だと思われる」と言っている。44年の4選を果たした際、そして45年のヤルタ会談出席、さらには最期の晩餐に赴いたのは、いずれも影武者だったのではないかというのだ。スターリンは「ルーズベルトの遺骸はアメリカにはないはずだ」と断言。それを確かめようとしたのか、ルーズベルトの葬儀の際、ソ連(当時)大使が強硬、執拗に棺を開けて検死を求めたものの、それはかなわなかった。ルーズベルトの亡骸はニューヨーク市にあるウッドロン墓地に眠っているが、同墓地は軍人および墓地管理者によって今なお厳重に警備され、何人たりとも掘り返すことは許されないままだ。

 では誰が、一体何の目的でルーズベルトを亡き者としたのだろうか。当時、ホワイトハウスと国務省の中で進行した秘密の計略を知る立場にあった前出のドールは自著で「ルーズベルトはある勢力によって操られていた」と書いてある。そのある勢力とは、「戦争を引き起こすことによって大きな利益を得る集団、すなわち国際金融エスタブリッシュメントと、国際共産主義者たちである」と。それが事実なら、本物のルーズベルトはどこに眠り、影武者は誰だったのかなど、多くの謎が残される。

 参考資料・出典
 「操られたルーズベルト」  馬野周二著 プレジデント社(1991年)

  「1358」 アダム・ヴァイスハウプト著 『秘密結社・イルミナティ 入会講座<初級篇>』(KKベストセラーズ)が発刊されました。ドイツ啓蒙主義から生まれた「イルミナティ」はフリーメーソンなど秘密結社のルールブックを制定した集団である。2013年1月21日 副島隆彦を囲む会のアルルの男・ヒロシです。今日は2013年1月21日です。今日は非常に素晴らしいニュースがありますのでご報告したいと思います。

・新刊『秘密結社イルミナティ 入会講座<初級編>』は、下記「1セット4冊」コーナーでも取扱っております。↓
http://www.snsi.jp/shops/index#book

 世界を動かしてきたなどの様々な陰謀史観(権力者の共同謀議によって歴史が動かされてきたとする考え)の中核をなすといわれるイルミナティというものが有りました。その秘密結社の創設者である、俗に「通俗哲学」(Popularphilosophie、ポプラーフィロゾフィー)の論客の一人である、ドイツ南部のインゴルシュタット大学の法律学教授のアダム・ヴァイスハウプト(1748ー1830)の著作が、日本では初めて翻訳されて、一般の書店に並ぶことになったのです。

 アダム・ヴァイスハウプト

 この業績を私たちの「学問道場」は、日本の西欧思想史研究における重要な一局面として、本書の解説者である副島先生、そして、出版を提案した出版社の編集者の方、そしてこのドイツ語の本を訳した芳賀和敏(はがかずとし)氏らとともに祝いたいと思います。

 何しろ、ヴァイスハウプトの文献は資料集としてまとまった形でドイツで出版されたのは、この本の訳者解説によれば二〇〇一年の事だったといいます。英語版の書籍検索を行なってもヴァイスハウプトが本当に書いた本の翻訳は見当たりません。

 アダム・ヴァイスハウプトの名前をイルミナティとの関連で一躍有名したのが、日本における初期の陰謀論書籍の輸入業者であった、評論家の馬野周二(うまのしゅうじ)氏が翻訳して紹介した、イギリスのネスタ・ウェブスター女史(1876-1960)の書いた、『世界革命とイルミナティ』(面影橋出版)という本です。この本を書いたウェブスター女史は、イルミナティの創始者であるヴァイスハウプトが死んでから四〇年後に生まれていますから、完全に同時代人ではありません。彼女はどうも女性評論家として活躍していて、世界革命やシオニズムやボルシェヴィズムに関する本を沢山書いています。フランス革命、一八四八年の欧州革命、一九一七年のロシア革命についての書籍を書いています。これらがすべて、イルミナティの関与によって行われたという壮大な歴史観を初めて打ち出した言論人でしょう。

 




(私論.私見)