久保田栄吉氏のネオシオニズム研究

 (最新見直し2013.02.19日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ネット検索で出くわした「akazukinのブログ」のデ・グラッペ著、久保田栄吉訳編「」(破邪顯正社発行、昭和十六年(1941)十二月十二月)を転載しておく。(読み易くするため、れんだいこ文法に則り書き換えた)

 2013.02.19日 れんだいこ拝


エス・ニールス著「世界転覆の大陰謀ユダヤ議定書」の翻訳出版】
 1938(昭和13).12.25日、久保田栄吉氏が「世界転覆の大陰謀ユダヤ議定書」(エス・ニールス著、破邪顕正社、167P)を出版している。次のように解説している。

 「この書は恐るべき書である。 この書が世界的に知られるに至った経路については種々の説があるが、本書は、ユダヤ民族の世界征服の大秘密を暴露したものである。この書は、一八九七年(明治三〇)にスイスのバーゼルで開催された第一回シオン会議に於て議定されたものと云われる。 猶太の愛国者ベルンスタインは曰く「第一回シオン会議はユダヤ人に自由の時代を開拓し、彼等に新しい進路を与えた。 この進路とは何か? 曰く「バーゼルのプログラムが是である」と。 本書はユダヤ民族が非ユダヤ民族のすべての国家を革命によって崩壊滅亡させ、全世界を転覆征服し、その後にユダヤ王が現われて恐怖的専制政治を行ない、非ユダヤ民族を奴隷化、家畜化して永遠に締めつけて行なおうとする大陰謀の筋書きを具体的に書いたものである。地球上に何十億冊の書物があるといってもこの書くらい戦慄的な書物はないと云われる。

 ソ連ではこの書を持っている事を知られると直ちに銃殺されるという。 本書は正にユダヤ思想の発露であり、ユダヤ民族が非ユダヤ民族に対して抱いている憎しみ、呪い、さげすみの精神の結晶であるとされる。本書を読まずしてユダヤ問題は語れない。 必読の文献である。 日本人として一生の間に読むべき主要な四冊の本を挙げよといわれた場合、筆者は「古事記」と「管子」と、ヒトラーの「我が闘争」と本書「ユダヤ議定書」を挙げるであろう」。


【「ユダヤのタルムード」編集出版】
 別章【デ・グラッペ著、久保田栄吉訳編「世界撹乱の律法 ユダヤのタルムード」
 第一章 古代に於けるイスラエル民の反逆(6)
 (6)

 ユダヤ国に於いては、エホバ―ユダヤ教―宗教は比較的容易に保持せられていた。何となればレベアム王は、その祖父なるダビデ王の宗教的魅力とレビ等の支持によってその王位に堅立していたからである。しかし王権対モーゼの律法の闘争を惹起すべき原因はエルサレムにもあった。ユダヤの王らは、自分の権力を司祭らに分かつことを煩わしく感じていた。彼らはイスラエル国の王らの独裁権をもっていることを妬んでいた。そして終にはモーゼの律法の勢力を弱めるためにイスラエル王らの例に做って、偶像崇拝を国内に伝播せしめた。この変革は宗教上の目的と云うよりは、寧ろ政治上の目的から行われたのである。アタリヤとヨアシ王の著名なる実例はこの事を證して余りある。ヨアシ王はレビらによってアタリヤの残虐から救われ、彼らの助力によって王位についたのである。

 王位にいた彼は、程なくレビらの拘束を離脱せんとする希望に燃えた。彼はレビらと軋轢(あつれき)を起し、アタリヤの政策に立ち戻って祭司長を聖殿の入口に於てユダヤ人の死刑の一種である石撃することを命じた。ヨアシ王の後継者の歴史の大半も殆んどこれと大同小異であった。しかしユダヤ王らの敵対的態度にも拘わらず真の神の崇拝はユダヤ国に於ては連綿として絶えることなく、大多数のユダヤ人は皆なその祖先の宗教を信奉していた。

 ◇

 イスラエル人と云う名称は、神と格闘する者即ちイスラエルの意で、ヤコブの子孫全部を指したものである。またユダヤ人と云う名称は、特にユダヤの支流に属するイスラエル人で、これを広義に解釈すると、ユダヤ国に属するイスラエル人を指示したものである。イスラエル十支流がアッシリアと混血した結果、純血なるイスラエル人はユダヤ以外にいなくなったのである。ユダヤ人と称されるサマリヤ人の如きは新たにユダヤ教に転向した外国人で、殆どユダヤ人の血統を受けていないからである。〔傍註〕

 ◇

 紀元前606年にエルサレムはバビロン王ネブカドネザルの手中に帰した。そしてヤキム王とその人民の一部は、捕虜としてバビロンに送られた。残された人民のためにネブカドネザルは自ら王を選んでこれを納めさせた。この王らはその覊絆を脱しようと努力したが、ネブカトネザルは16年を経て再び攻めて来て、エルサレムを徹底的に破壊したため先に寛大にして残留を許した者の内、エジプトにも脱しなかったもの全部を捕虜としてバビロンに連れ帰った。これが即ちユダヤ人の宗教的運命に徹底的影響を及ぼしたバビロン大幽囚の初めであった。

 ◇

 ネブカドネザルは、別名をナウホドノッソルと云って、ハルデヤ王のナボボロッサルの子である。そして彼の首都をバビロンと云ったのである。ハルデヤ人は多年アッシリヤ人の権下に服していたが、ナボボロッサルの治世に至ってその覊絆を脱し、以前の統治者をその権下に服せしめた。ハルデヤ国のアッシリヤ国に対する勝利は、教化あるも、しかし純軍国的なるアッシリヤ独裁王国に対する典雅的なる旧時代の文明の勝利であった。

 第二章 バビロン幽囚とパリサイ派(5)
 第二章 バビロン幽囚とパリサイ派

 (5)

 救世主降誕の直前に於てこの進化作用は一般的となった。そしてその献祭の如きは祖先から継承したる信仰に全く離反したものであることを意識するものもなかった。しかしユダヤ国に於ける人心が、悉くパリサイ派の巧妙なる戦術に服従されたのではなかった。ユダヤ人中の頗(すこぶ)る多数者、特に比較的教育ある者、あるいは神の叡智に導かれていた人々は、パリサイ派がイスラエルを異端に誘導していたものであることを悟って、これに反抗しようと努めていた。その競争者らを支持していた政治的勢力からの妨害のために、これら正統的信仰を固く守っていたユダヤ人は、正面から彼らと闘争することを避くる外なく、殆んど皆なその祖国を棄つることを余儀なくされた。

 死海の沿岸、荒涼たる広野に彼らは修道院を建設した。ここで彼らはキリスト降臨の時に至るまで真正の信仰の約束を守っていた。ここに約四千年のユダヤ人がモーゼの神に奉仕し、預言の応ずる時を俟(ま)ちつつ修道規則に従って住んでいた。この規則の明細はヨセフ・フラウィー及びプリニーによって我らに伝えられている。彼らの高潔なる徳行生活は一般の尊敬の的となっていた。エッセイと称せられた一派の人々は、イスラエル人をしてその使命に背かしめようと努めていた人々のために少しも心を動かされなかった。彼らはモーゼの律法のすべての規定を履行していたが、しかし献祭のためエルサレムに参拝することは差し控えていた。それは彼らがエルサレムの聖域に於ける献祭を是認しなかったためではなく聖殿は彼らが深く尊崇していたところであったが、しかしこの献祭が異端者なるパリサイ派の者によって執行せられたので、そこで行くことを欲しなかったのである。

 エッセイ派は、エルサレムの聖殿に行われた礼拝式を尊崇してはいたが、しかし自身は参列しなかった。何となれば彼らの信念によれば、献祭執行者の多くは退化したイスラエル人から成っていたからである。(ネアンデル著教会史)

 エッセイ派の教導職は極めて門戸閉鎖的であったが、しかしその影響するところは、修道院の四壁内に限られなかった。エルサレムその他のユダヤ国の各都市に於ける俗人の間に、彼らの教派に帰依していた者が数多かった。これは死海の沿岸に苦行を務めていた修道士等の誠実なる信徒であって、その精神的指導に従っていた。著大なる各中心地では、これら信徒中の一人に、真の神を信ずるすべての人々を団結せしめる義務が負わされていた。この真の神の教道は旧約聖書によってその霊感的内容を与えられ、すでに遠き以前から新約聖書の根本義と完全に一致していたのである。
 

 ヨセフ・フラウィー「ユダヤ人の戦争」二の一の認めるところによると、エッセイは総てのユダヤ人の宗派中最も完全なるものであった。彼は死海沿岸修道士―ユダヤ人の戦争―について次の如くに記している。「彼らは、互いに緊密なる友愛の関係を保ちつつ生活している。そして総ての快楽を以って如何なる者も避くべき罪悪とし、節制及び情慾との奮闘を以って最も尊敬すべき善行、美徳と看做している。彼らは結婚を排斥している。それは人類を絶滅すべきものと信じているためではなく、婦人の不節制を避けねばならぬからである。しかしながら彼らは学習のため又善行の規則に於ける修養のために委託せられる児童を引き受けることは拒絶しないのみならず、彼らの肉親者のように懇切に教育する。そして総ての児童に一様の被服を与えている。

 彼らは富を卑んでいる。彼らの所有はすべて共同で、驚くべき程平等にしている。彼らの団体に収容せられる各人は、富による虚栄を避けるため、また他人を貧困の恥辱から救うがために、そして兄弟として幸福なる一致団体の中に生活するがために一切の財産と別れる。彼らは、もしその被服が十分に白ければ、それで自ら衣服に足れる者、清浄なる者と認めている。彼らは最も宗教心が強く、日の出前には信仰問題以外のことは一切口外しない。そしてその時は、神にその光を以って地を照らさんことを願うために、彼らが代々継承した祈祷を行う。その後各人はそれぞれ指定された業務に就く。十一時に彼らは一ヶ所に集会する、そして白衣を着て冷水を浴びる。その後各自の独房に別れて行く。房中には宗派以外の者の出入りを禁じている。かくの如くして清められた後、彼らは食堂に行く、それは恰も聖堂に往くが如く、そこに入った後は全然沈黙して坐す。各人の前に小さい皿の上にパンと食物が置いてある。先ず祭司が肉を祝福する、そして祭司の祈祷が終るまでは誰も食物に手を触れない。食事の終った後は、ただ神の恩恵によってのみ、食物を得るものであることを皆な感ずる。すると祭司がまたそのための祈祷を誦読する。その後、彼らは、神聖なものとされている衣服を脱いで、それぞれの職場に帰って行く。晩の食事の時も、彼らは同様に行っている。

 そしてもし訪問客があればこれを歓待する。彼らの家では、誰も騒がしい音も聞かない。そこに少しの混雑もない。各人はただ自分の順番を待って物を言う。そして彼らの寡言は外国人をして自然敬意を起さしめる。こんな節度は不断の節制から生ずる結果である。彼らが飲食するのは、ただ自ら養う必要のみに限られている。窮民を救済することの外は、何事によらずいっさい長者の許可なくしては独断行為を許されない。それも同情以外の他の如何なる動機にも因らないことを条件とせねばならぬ。もしこの貧しい者が親類であるならば、許可なくしては何物をも与えることはできないのである。

 彼らは特に憤怒を抑えることを務めている。彼らは平和を好み、約束したことは必ず実行する。それで他の人々の誓約よりも、彼らの単なる言葉が寧ろ信用し得られる。彼らは宣誓を神に対する冒涜と見做(みな)している。何となればもし信用を得るがために神を証者として呼ばねばならぬならば、既にその人が虚言者でないと他人を納得せしめることはできないからである。彼らは、その仲間入りを希望する者でも、直ぐにはその団体に加盟させないで、先ず一年間修道院の牆外に居住させ、そこで彼ら同様の生活状態を体験せしめる。

 この人々は鋤と、襯衣(シャツ)と白衣を受ける。この人々は同様の食物を用い、身を清めるために冷水浴を行うことを許される。しかしなお二ヶ年を経過せねば、一般の食堂で食事することは許されない。その二ヶ年の間は、彼らの思想の強固さと堅忍不抜さの試験が行われる。その後始めて彼らに適当な者と認められて全く収容される。しかし、一般の食堂に入られるに先だって神を敬い、心をつくしてこれに仕えること、人的関係は公平を守ること、誰に対しても、又たとえ命ぜられても意識的に悪事を行わざること、有司特に王に対しては、神より権能を受けたるものとして誠忠を守ることに就いて誓わねばならぬ。これになお附加して、他は彼らが権力を獲得した時、民を虐ぐるがためにこれを濫用しないこと、又その時、衣服その他必要とする総ての物も、彼らはその権下の民よりも多くの物を所有しないということを誓わねばならなかった。

 以上が即ち彼らの同一の生活状態を取ることを望む者に課する契約である。それはかくして彼らを罪悪から防衛するためである。万一彼らが重大な過失を行った時は、修道院から放逐されたことになっている。彼らは至って長命で百歳の高齢に達する者も少なくない。それは彼らの質素な生活と、彼らが万時に節度を守っていることに起因するものと思う。彼らは地上の不孝を軽じている。自分の忍耐を以って、艱難(かんなん)を克服し、もし重大な原因があったら生命よりも死を重んじる。

 このエッセイ派は善に向って進み、悪を避くるがために、霊魂が不死のものにつくられると信じている。善人は死後幸福なるものとなるという希望に因って、現世の生活をより善きものにしなければならぬと考えている。そして現世で悪事をなせば、このため未来永劫に苦悩を以って罰しられるであろうと信じている。この最後の点はエッセイ派の教義を、同時にモーゼの律法及びキリスト教に連絡せしめるものである。サドカイ派が霊魂不滅を信じていなかったことは既に我らの知るところである。パリサイ派は、現代の心霊論者及び神智学者と同じく輪廻説を信じている。

 ヨセフ・フラウィーは、この修道士等と並んで、ユダヤ国の諸都市に住んで彼らの教道を信奉し、彼らの権力に服していた信徒の存在していたことをも記している。この信徒は修道士と同様に、修道規則に服していたが、ただ結婚だけは行っていた。しかし、彼らは結婚をただ人類を継続する方法と認めたのみで、これを快楽とは考えていなかった。なお、ヨセフ・フラウィーの云うには、『彼等が旅行する時は、盗賊に対して自衛するための武器の外には何物をも携えない。彼らが往く所の町には、同宗派に属する誰かがいる。その人々は同宗派の来客を接待し、宿所を提供し、衣服その他の必要品を寄附する。彼らは互いに何物をも売買せず、ただその所有している物を互に交換するのみである』と。

 以上が我等の主イエス・キリストの生まれた時代に於けるユダヤ国民の宗教的情操であった。

 第三章 キリストとパリサイ派
 義人キリストの声が、パルサイ派の築いた堂宇(どうう)を震撼せしめ、この隠然たる努力を有する異端者らの偽善を暴いた時、彼らの勝利は、ここにその末期に近づいた。

 イエス・キリストの最初の奇蹟が、この人こそと待望されつつあった、メッシア(ヘブライ語の救世主)であると感じせしめた時、如何に大なる驚異がパリサイ派の人々を衝撃したかは、バイブルによく指摘されている。既にその以前にも、神の子(キリスト)は、安息日の祝典に就いての問題に於て、外面的敬神を過大に尊守することを装うて、心中窃(ひそ)かに律法の破壊を謀つていたパリサイ派の偽善を面責した。キリストの往く所に従い、その行った奇蹟を見て鼓舞されつつあった民衆は、「聖殿の売買を行う者」の権勢の終焉を予報していたかのように見えた。そこでパリサイ派はエルサレムからイエスの許に使者を遣わした。

 この使者の一団は、ゲネサレ湖ガラリヤの岸邊でイエスに会った。パリサイ派の規定した洗浄式の一つを口実として、彼らはイエスの門徒らがこの儀式を守らないことを責めて、彼に向ってこう言った。「なにゆえに汝の弟子は古の人の云い伝え(秘密教)を犯すか」と。イエスは彼らに答えて、「なにゆえに汝らは、また彼らの言い伝えによって神の戒命を犯すか」と言った。そして彼らが神の言を忘却していることを譴責(けんせき)して、なお加えて、「偽善者よ宣なるかな。イザヤは汝らに就きて能く預言せり。曰く、『この民は口唇にて我を敬う。しかれどもその心は我に遠ざかる。ただ徒らに我を拝む。人の訓戒を教とし教えて』」といった。

 この宗派にはただ一つの希望があった。それはマリヤの子キリストを殺すことであった。かくの如くにして既に以前にも、彼らをして先祖アブラハムの信仰に立ち帰らしめようと努めた多くの預言者を彼らは殺したのである。福音書の物語りは、如何にかしてキリストを亡き者にせんとしてパリサイ派の人々が企てた陰謀や、圧迫や、奸計に満ちている。彼らの悪意はキリストが町から町へ、会堂から会堂へと歴訪して、ユダヤ人の心に彼らの祖先に与えられたる神の古代よりの約束を想起せしめ、彼らが離叛した祖先の信仰の記念を喚起せしめようと努めるに隨(したが)って、ますます募るのみであった。民衆はこぞってキリストの言に耳を傾けていた。エルサレムでパルサイ派の人々が彼を見た時、彼らの憎悪はその絶頂に達した。そこで彼らの奸策に囲まれ、彼らの憎悪の気息を直感しつつ、神の子キリストは次の如き苦言を以ってパリサイ派の人々に向った。

 「禍なるかな偽善なる学士、パリサイ人よ。汝らは白く塗りたる墓に似たり。外は美しく見ゆれども、内は死人の骨と、さまざまの穢(けが)れとに満つ。かくのごとく汝らも、外は人に正しく見ゆれども、内は偽善と不法とに満つるなり。禍なるかな偽善なる学士、パリサイ人よ。汝らは預言者の墓をたて、義人の碑を飾りて言う。『我もし先祖の時にありしならば、預言者の血を流すことに與(くみ)せざりしものを』と。かく汝らは預言者を殺しし者の子たるを自ら証す。汝ら己が先祖の枡(ます)目を充たせ。蛇よ、蝮の裔よ、汝ら争(いか)でゲヘナの刑罰を避け得んや。この故に見よ!我、汝ら預言者・智者・学士らを遺さんに、その中の或る者を殺し、十字架につけ、或る者を汝らの会堂にて鞭(むちう)ち、町より町に逐い苦しめん。これによりて義人アベルの血より、聖所と祭壇との間にて汝らが殺しし、バラキヤの子ザカリヤの血に至るまで、地上にて流したる正しき血は、皆な汝らに報い来らん。誠に汝らに告ぐ。これらのことは皆な今の代に報い来るべし。ああエルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、遺(のこ)されたる人々を石にて撃つ者よ、牡鶏のその雛を翼の下に集むる如く、我れ汝らの子どもを集めんと為(な)せしこと幾度ぞや。されど汝らは好まざりき。視よ!汝らの家は廃れて汝らに遺さん」(マタイ伝二十三章)。

 神の恒忍がイスラエル民の罪悪のために力を失って、神がその仁恵をその民から取り上げ、その国権を奪って、これを他国民の間に分配する時期が到来したとの警告を、キリストは、ユダヤ人による神人の殺害、次いで彼らに及ぶ神罰を預言した次のような感動深き言葉を以って述べている。

 「また一つの譬(たとえ)を聴け。ある家主、葡萄園をつくりて籬(まがき)をめぐらし、中に酒槽を掘り、穭(?)を建て、農夫どもに貸して遠く旅立てり。果期近ずきたれば、その果を受け取らんとて僕らを農夫どもの許に遣わしたるに、農夫どもその僕らを捕えて一人を打ちたたき、一人を殺し、一人を石にて撃てり。再度他の僕らを前よりも多数遣わしたるに、これをも同じようにあしらいたえば、我が子なれば敬うならんと思いて、その子を遣わしたるに、農夫どもは、この子を見て互いに云う。『これは世嗣(せいし)なり、これを殺してその嗣業(編注:神から与えられた約束の土地)を取らん』と、これをも捕えて葡萄園の外に連れ出して殺せり。遂に主人来たる時、農夫どもに言う。『その悪人どもを飽くまで滅ぼし、果期に及びて果を納むる他の農夫どもに葡萄園を貸し与ふべし』。

 イエス言ひたまふ。聖書に、『造家者(いえつくり)らの棄てたる石は、これぞ隅の首石(おやいし)となれる。これ主によりて成れるにて、我らの目には奇しきなり』と、あるを汝ら未だ読まぬか。この故に汝らに告ぐ、汝らは神の国を取られ、その果を結ぶ国人に、これを与えらるべし。この石の上に倒るるものはくだけ、またこの石、人の上に倒るれば、その人を微塵とせん」。福音書はこれに加えて次のように述べている。「祭司長・パリサイ人ら、イエスの譬を聞く。己らを指して語り給えりを悟り、イエスを捕えんと思えど群衆を恐れたり。群衆、彼を預言者とするに因る」。

 悲しいかな三年の間パリサイ派が準備しつつあった犯罪の行わるべき日は到来した。義人は捕縛(ほばく)せられて、パリサイ派の人々が首脳部となっていた最高評議会(シネドリオン)に引かれた。そして祭司長ら及び長老ら(これら最高職位を自滅の人々から出していたパリサイ派)によって煽動されたユダヤ民衆は、当時のローマ政府の長官ビトラに向って凶悪なる強盗たるワラワを赦免して、その代りにキリストを十字架にかけることを請願した。(その当時は過越(すぎこし)の祭に十字架にかける罪人の代りに必ず一人を赦免する規則になっていた。)

 世界の救主が、すべての罪人らの上に伸ばして広く左右に開いた両手を、パリサイ派の人々は、十字架の木に釘を以って打ち附けた。十字架に釘づけにされたキリストの足下に、その門下達や、門徒及び聖なる婦人たちが泣き叫んでいた時、神の子の殺害者なるユダヤ人は、高らかな笑声をあげて、「その血は、我らと我らの子孫とに帰すべし」と、忘れ得ぬ言葉をくり返していた。

 第四章 キリスト教徒迫害の基因はユダヤにある(3)

 (3)

 後に、聖ポーロとなったタルスのパウロは、他の使徒たちと同様、彼を殺そうと謀っていたユダヤ人の絶間なき迫害に遭遇した。使途行實にこの事を次のように記してある。「次の安息日には神の言を聴かんと、殆んど町は挙って集りたり。然れどもユダヤ人は、その群衆を見て嫉みに満たされ、パウロの語ることに言ひ逆ひて罵れり。……ユダヤ人らは、敬虔(けいけん)なる貴女達及び町の重立ちたる人々を唆(そその)かして、パウロとバルナバとに迫害を加え、遂に彼らをその境より逐ひ出せり」(一三章)。

 また、ルステラに於ける聖パウロの奇蹟の後、「数人のユダヤ人、アンテオケ及びイコニヤより来り、群衆を勧め、而してパウロを石にて撃ち、既に死にたりと思いて町の外に曳き出せり」と。(同一四章) テサロニケに於ける彼の伝道の際、「ここにユダヤ人ら嫉みを起して、市の無頼漢を語らい群衆を集めて町を騒がし、……ヤソンと数人の兄弟とを町司(まずづとさ)だちの前に曳き来り、呼(よば)はりて言う。「天下を転覆したる彼の者共ここにまで来れるをヤソン迎え入れたり。この曹輩(ともがら)は皆なカイザルの詔勅(みごとのり)に背き、他にイエスと云う王ありと言う」。これを聞きて群衆と町司たちと心を騒がせり」(同一七章)。

 後に聖パウロは、使徒たちを甚しく苦しめたユダヤ人の冷酷に対して、エペソ教会の長老らに痛く訴えた。彼がエルサレムに帰った後、シネドリオンは彼に対して群衆を扇動した。彼はただ自分はローマの市民権を有する者であることを主張して、始めて危害を免れることができた。何となれば、この市民権を有する者の生命を保護することは、ローマ版図内に於ける総ての有司の任務であったからである。その後パウロの幽囚中にも彼を殺そうとの、試擧は一再ならず繰り返された。

 終に西暦64年に、ユダヤ人はパリサイ派に煽動されて、自分らの勝利の時期が到来したと決した、ローマの帝位に暴君ネロが就いた。彼はキリスト教徒迫害を発布して、彼らを死刑に処することを定めた。或る者はこう云う疑問を起している。即ちアレキサンドリヤの聖主教クレメントはこの迫害のことをその書中に記しているが、何故に彼はその原因を断然ユダヤ人の嫉悪に帰しているのであろうかと云うのである。しかし彼のこの証言は説明に難くない。ネロがキリスト教徒に対して迫害を起す動機となったローマの火災は、サーカスの附近にあったユダヤの商店から始まったのであった。自然死刑は第一にユダヤ人に宣告せらるべき順序であった。しかるにユダヤ人はネロ皇帝の宮中に有力なる擁護者を育っていた。その上ネロの愛妾なるポンペヤはユダヤ教の信者であった。彼女は啻(ただ)に皇帝を説服して赦免せしめたのみならず、ユダヤ人に及ぶべき迫害をキリスト教徒に転ぜしめたのである。そこでローマに於けるユダヤ居留民は、爾後(じご)三年間或は猛獣の牙にかかり、あるいは火焔の中に投ぜられて、甚だしき苦悩を嘗めて死んだ数千のキリスト教徒の惨状を見て満足をすることができた。西暦六七年の六月ユダヤ人は遂に久しく待ちつつあった歓喜即ち聖使徒ペテロ及びパウロの殉教者としての死去を見ることができた。

 ◇

 ユダヤ人によって惹起されたこの迫害は、初世紀以来キリスト教会に於て、こう云う説教を確定した。即ちユダヤ人は神の民なることを止めて、悪魔の民となったと云うのである。この説教の言葉を我らは「ディダスカリィ」即ちエルサレムの使徒公会の際に編成せられたと云う、今日カトリック教会に保存せられている「十二人の人及び主の門徒の教訓」に見るのである。この教訓のギリシャ語の原本は既に失われている。我らはただシリヤ語の訳文だけを得た、それはホーレルがイタリ―の町ウェロナで一つの古寫本中に古代のラテン語訳文の断片を発見した。もっともこの訳文は頗(すこぶ)る低劣なものである。以下はその直訳である。「彼(神)はその民を棄てて、その衣を裂いて荒れ果てた聖殿を去った。そして彼より己の聖霊を奪って、彼を信じたる異邦人に対した。(これは預言者ヨエルの預言した如くである。その言に曰く「我、わが霊を一切の人に注がん」)、彼は実際その民より聖霊を奪った。己の言の力と総ての己の祭司班を奪って、これを己の教会に移した。同様に誘惑者なる悪魔(サタン)も教会を攻撃するためにその民を棄てた。そして以後悪魔(サタン)はその民を誘惑しないであろう。そはこの民は自らその悪しき行為に因って悪魔の手中に陥り、同様に教会を誘惑し、これに苦悩を与え、これに対して、迫害、誹謗、偽教及び分派を起さしめるからである』。この終尾の言葉は預言的である。実際一世紀頃のキリスト教会には一つの異論もなかった。後世現われた異端は、殆んど全部ユダヤ人の背信的奸計によって起こったのである。〔傍註〕

 ◆囲み記事

 自由が若し敬神を根拠とし、服従を規定せる天地の法則に背反せるが如き平等の観念を去った同胞主義に立脚する時は、国民の幸福を阻害することなく、国家組織の中に無害なるものとして存することができる。その如き宗教と信仰とを持って居る時は、国民は地上に於ける神の摂理に従い教会に統御せられ、謙遜、柔順に精神的慈父たる牧師に従うものである。それであるから吾々は宗教の根底を覆へし、非ユダヤ人の脳裡から神霊の観念を奪い取り、その代りに個人主義的打算的利慾と肉体的享楽主義欲求とを植え付けねばならぬ。(ユダヤ議定書第四章)

 第五章 復興せられたる最高評議会及びタルムド(6)
 (6)

 一、1640年、アウィニオンに於けるカトリック教会の司祭イ・ブイの発表した著書によれば、この労作中に或る地方の修道院の文庫に於て謄写(とうしゃ)された、その当時すでに150年を経過していた二通の書翰(しょかん)の複製が載せてある。その中の一つは1489年、「サバト」の月13日、アルリ市にあるユダヤ長老会長ラウウィン・シヤモルからコンスタンチノーブルのユダヤ長老会に宛てた書翰である。この書翰中に、前者は、プロワンスの新統治者なるフランス王がユダヤ人に対して洗礼を受けるか、退去するか何れかを強要しようと欲していることを報告して、この場合如何に善処すべきかを諮問(しもん)している。第二の書翰は同年「デ・カスレウ」の月21日の日付けになっている。その中に「ユダヤ民最高司祭等」の回答が含まっている。そして「コンスタンチノーブルのユダヤ人の君主」と署名してある。そして後日キリスト教徒の上に如何にして主権を保持すべきかについて種々の方法を教示している。また彼らの生活に於て、宗教および所有権の問題に於て彼らは損害を加える方を授けている。

 1880年にプロワンス文芸作品集がこの書翰を公表した時、ユダヤ人新聞界に喧囂(けんごう)たる論議が起り、非友誼(ひゆうぎ)的態度を非難する声があがった。これに対し、この書翰の発表は1640年、まだユダヤ人反対運動のなかった時分、すでにカトリック修道院長ブイが行ったものであると云って反駁(はんばく)した。そこでユダヤ人は、然らばこの偽造も頗(すこぶ)る古いものであるといって逃げる外はなかった。16世紀の末にトレンドの古文書倉庫で発見されて、1583年にスペインのナワルラ町の或る貴族ユリアン・デ・メラノが「シルバ・クリオザ」と題するスペイン語の著書中に、発見されたスペインのユダヤ人に宛てた書翰が知られるようになった時、ユダヤ人の計画は全然失敗に帰した。かくして1489年、即ち上記の書翰の往復せられた時代に追放民の君主及びシネドリオンがコンスタンチノーブルに隠然(いんぜん)存在していたことは確実となったように思われる。

 二、1851年、ロンドンに於て発行されたモーセ・マルゴリウス著のユダヤ史によればイタリ―のフェルララ町の一ユダヤ人エンマヌエル・トンメリは虚偽的にキリスト新教を受けて、ケンブリッチ大学のヘブライ語の教授となった。そして当時の英国王室と親交を結んでいた彼は、それと同様にカトリック教会の深甚なる敵であった。そして彼は密教の秘密を授けられて女王エリザベスの寵遇(ちょうぐう)を得ていた神学者であり、またヘブライ語の学者であるヒューゴ・プラウトンの教師となった。或る時、ヒューゴ・プラウトンは、英国とユダヤとの間に真正の同盟を締結することを定義したコンスタンチノーブルの、ユダヤ人の首長なる教師(ラッピ)レーベンの公書を女王に伝達した。教師レーベンは自分の代表者となっている集会は、全世界のユダヤ人の中心となっている、とその書中に言明していた。彼は協定の交渉を行う全権を賦与(ふよ)された女王の代表者を、コンスタンチノーブルに派遣することを求め、その交換条件としてバイブルの英訳を発行するために、ユダヤの学者を派遣することを提議した。エリザベス女王はこの提議を認可することに余念がなかった。だが、女王崩御の後、ヤコブ1世スチュアルトの治世に、ヒューゴ・プラウトンは、再び同件案の解決に着手し、比較的成功を見た。例えば、彼は数世紀以前に英国から追放されたユダヤ人の帰還に就いて許可を得ることに成功した。ユダヤ人の著書から借用したこの歴史の一頁は、紀元1600年の頃、即ちアルリからユダヤ人に宛てた書翰の書かれた時から、一世紀以後シネドリオンがなおコンスタンチノーブルに存在していたことを立証するものである。

 三、1710年、パリに於て発表されたルイ・ルラン著の「ユダヤ史」によると、「ディドラクマ」の殿税は、なおその当時にも微収せられていた。彼の言うには、「この風習は保存せられていた。何となればオランダその他ユダヤ人が多少余裕を有していた国で、この国民の微収した金は先ずベニスに送られ、その所から更にフェツサロニキに送られていた。この金で聖地パレスチナの教師らの被服に必要な総ての品物を買い求めた。これらの品物はまたこの教師らを毎年の初めに公平に配置したラベリヤの大学の長老等の手に渡された。けれども、これらを輸送した舟が、途中に待ち受けていた海賊の眼を避け得ることはなかなか容易でなかった。本書の著者は、その当時ユダヤの秘密政府の存在していたことを考えたこともなかったのであるから、18世紀の初にディドラクマを徴収すると云うような、彼の為に驚くべき事実に対しても明らかに他から注入された解釈を加えている。

 彼はこの事実を慈善の目的から行われたものと認め、そして租税を微収する権利を有していたユダヤの政権とは何ものであったか、その目的が慈善であったか否かは少しも問題としていなかった。次の点もまた同様に指摘しておこう。即ちかくの如くしてベニスで徴収した金はその後コンスタンチノーブルに近い、殆んど全部ユダヤ人の町であったサロニキに送られた。それ故にその処へシネドリオンを移すことも至って容易にできたわけである。爾後(じご)の金銭の使途は全く架空の話で、ただ著者を疑惑に陥らしめる為に予定されてあったとしたら、何の為にそれをサロニキに送ったのであろう。聖地は全然この海路にあたっていないのである。

 なおここに指摘すべきことは、ユダヤ人のサロニキは今日もなお依然不安な町で、トルト(コ)青年党の革命もここから起り、団結進歩委員会もここで創立されたと云うことである。また各国のユダヤ人からディドラクマを徴収することは常に義務的であって、それが常に会堂を通じて行われていると、云うこともここに指摘しておこう。我らはこれに関する無数の証拠をドレイフス事件の際にも見たのである。

 第六章 神及びバイブルのより崇拝される預言者と「タルムード」
 第六章 神及びバイブルのより崇拝される預言者とタルムード

 「タルムード」はきわめて多くの版を重ねた。なかんづくユダヤ国民の期待と陰謀とに資することの多い、バビロンのタルムードは、ユダヤ人の間に絶大の尊崇を以て歓迎された。最も古いタルムードは1520年、印刷機の発明と同時に、ボンベルグによってベニスで発行され、これは12巻に分けられた二ツ折り型の印刷である。

 ユダヤ人が自分の聖書であるタルムードが、自国民以外の人々の眼に触れる事を非常に恐れ、シネドリオンと題する書に「ユダヤ人に非らざる者がタルムードを読む時は必ずこれらを殺すべし」と云っている。タルムードが印刷機により発行されてから30年を経た1550年、マルク・アントニ・ジュスチニアニによって、初版(印刷機によっての)に何らの改訂増補も加えられずベニスで再版が発行された。このタルムードの刊行はユダヤ人にとって一大脅威であった。と云うのは、ひた隠しに隠していた、自分達の尊守しているタルムードが、非ユダヤ人眼前の天日に曝されたからである。

 彼らは、この時まで、キリスト教徒或はキリスト教に転向したユダヤ人が、イスラエル民の信仰するタルムード教道の道徳に反するものなることを如何に指摘しても、またこれを立証するために、彼らの聖書から誤謬の章句を利用して詰責(きっせき)しても、ユダヤ人らは、無学なる翻訳者の誤訳とか、あるいは写字生の過失に罪を帰して糊塗して来たのであった。

 しかるに確実性の徴候を十分に有する決定的印行本と、その写本とを照合する著者に対しては、上述の如き姑息な釈明は公然通用しなくなった。それ故に16世紀のユダヤ人排斥論者は、官憲に対して、自分らの論難の正当なるかを確証するに不動の基礎を得たのである。これがため1581年、バーゼルに於て発行されたタルムードの第三版は、ローマ法王朝の厳重なる検閲によって、キリストとその教会に対し特に悪意を現している各ケ所を悉く削除せられた。しかるにユダヤ人は削除せられた瀆神的個所だけを別に出版して、自分らの所有していた書中に挿入増補した。これによって1600年の完全なるアムステルダム版及び1605年のクラコフ版が世に出た結果、生じた新たなる不平のためにラウウィンらは一層慎重の態度をとって、最早イスラエル民に対する武器を敵に与えないことに決した。これに因って1631年ポーランドに召集せられたユダヤ最高会議は、今後総ての出版に於ては攻撃を誘発するような個所を全部削除すべく規定した。そしてユダヤの背信行為の記念物として摘発するに足る如き措辞を以ってこれを行った。

 その規定に曰く、「故に我らはミシナ或はゲマラの今後の出版に於ては、ナザレのイエスの行績に対し善悪に拘らず関係を有する何物をも印刷せざるべく、これに違反する者は最高度の破門処分を以て罰せらるる規定の下に命令す。随って我らはナザレのイエスに関する問題を含む個所は白く残し置く事を命令す。この個所に記入する○の字の如き丸印はラウウィン及び教師のためにこの個所を専(もっぱ)ら口頭にて青年に教授すべき事の警戒となるべし。この警戒を尊守する場合に於ては、キリスト教徒たるナザレ人の学者はこの問題について我らを攻撃する動機を有し得ないであろう」と。

 上記の決定は、次に列挙する出版に於て多少完全に適用せられた。即ち最も完全なるはウィーン版、アムステルダム版(1644年)、オデル河畔フランクフルト版(1697年及び1716年~21年)、サルバッハ版(1769年)、パリ版(1839年)、及びワルシャワ版(1863年)である。しかしこれらの出版は隠匿個所があるにかかわらず、憤慨すべき厚顔無恥なる言辞に満ちている。それでヘブライ語の学者なるパリ大学教授、カトリック修道院々長神学博士オーグスト・ローリングは、上記各出版中から抜粋を作って、1878年に「ユダヤ人・タルムド学者」と題する小著を出した。この書は最初ウェストファリヤのミュンステルで出版せられたが、この書の或る引用が確実でないと攻撃した批判論文が現れた為に、他のカトリック修道院々長神学博士マシミリアン・デ・ラマルクは上記著書全部の審査に十年を費やして、1888にこの書をブリュッセルの出版業者アリフレド・ブロマンの手で新たに出版した。その際出版業者ヴロマンは、この書に含まっている引用個所中一つでも不正確なる事を立証し得た者に一万マークの懸賞を約した。

 爾来(じらい)既に25年を経過した。上記の著書はベルギー、フランス、ドイツに於て数十万部に上る販売普及を見た。多くのラウウィンらはこの書を手にしていた。それでも由来ユダヤの固有性とも謂うべき旺盛なる殖利欲にもかかわらず、一つの引用個所でもその虚偽なる事を立証して、この懸賞の獲得を試みようとの冒険を企てた者はなかった。かかる経験は猜疑心(さいぎしん)の深い人々に対する立証となることができる。故に我々はこの二人の修道院長ローリング及びデラマルクの労作を利用して、その中から我らの為に必要なるタルムードの抜粋を挙げて見よう。何よりも先に我らは第一編に於て、その長年月に亘る編纂の沿革を略述したタルムードが如何に大なる意義を、ユダヤ人の為に有するものであるかを論証して見たいと思う。

 この書を著述したパリサイ派の人々が、その第一の目的としたのは約千年に亘る彼らの凝視熟慮の成果なるこの書の教義学上の価値を誇称し且つ讃美するにあった。これに就いて彼らは十分その目的を達した。この自分等の著書を以って彼等に厭忌心以外何をも感ぜしめないバイブル以上のものと認めた。それと云うのは、バイブルは彼らにただイスラエル民の正統的信仰の時代を想い現わさしめるのみであったからである。それ故にタルムードはその多くの個所に於て、バイブルに対する自己の優越性を宣揚(せんよう)している。次の抜粋は疑いもなく之を立証している。

 「バイブルは水の如く、ミシナは酒の如く、ゲマラは芳醇の酒の如くである。世界が水なく、酒なく芳酒なく、存在し得ざる如く、バイブル、ミシナ及びゲマラなくして保持されない。神人間の約束は塩の如く、ミシナは胡椒の如く、ゲマラは芳香の如くである。しかし世界は塩その他の者なくしては存在し得ない。バイブルを学ぶ者は、それ自体善行であり得ることも、あり得ないこともあるようなことを行うものである。ミシナを学ぶ者は善行を為す。そしてこれが為にその報償を得る。またゲマラを学ぶ者は最高なる善行を表白するものである。もし人がタルムードの言葉をバイブルに移すならば、それに因って一層幸福なる者とはならぬであろう」。

 タルムードの中には、ラウウィンの創作が神の霊感を受けて書かれたる創作に、バイブルを指す卓越せるものであるとの思想が常に繰返されている。その言に曰く、「タルムードの言は、約束即ち旧約聖書の言よりも甘い」故に「タルムードに対する罪は、バイブルに対するそれよりも重い」。総ての註釈家は一斉にこれに付け加えてこう言っている。「バイブルを手にして、タルムードを手にせざる者と交際すべからず」。「我が子よ、ラウウィンの言には、約束の言よりも大なる注意を払え」。「ミシナ及びゲマラなくしてバイブルを読む者は神を有せざる人に等しい」。

 バイブルに対するタルムードの優越性についてのこの確信は、ユダヤ人の意識に浸透しているので、ユダヤ革新派の声とも云うべき雑誌「ユダヤ古書庫」は、この躊躇もなくこう言明している。「タルムードについて云う時は、我らはこれがモーゼのバイブルに対して有する絶対的優越性を認むるものである」と。

 この優越性を説明するために、ユダヤ人の伝説はこう力説している。即ち「神はシナイ山でモーゼにバイブルばかりでなくタルムードをも授けた。ただ両者の異る所は、タルムードが比較的貴重なる労作として、ただ口述によってのみ伝えられねばならぬことにあった。それは偶像を崇拝していた諸国民が、ユダヤ人を征服した場合に、タルムードが彼らに知られないが為である。のみならず又仮に、神がタルムードを書に録することを欲するとしても、地球がその書全部を載せる事ができぬからである」。かくしてタルムードを神の如く崇めたユダヤ会堂の教義は、その自然の結果として、イスラエル民のためにこの大労作を創造し、且つその保存に努力したるラウウィン階級を奇蹟的に称揚(しょうよう)する外はなかった。それ故にラウウィンは啻(ただ)に超人的尊崇の的となっているのみならず、本格的崇拝の目標となっているのである。このことは次の断篇もこれを証明している。

 ◇

 ラウウィンの言を実行せざる者はその罪死に当る。ラウウィンの言が預言者の言よりも一層美妙である事を銘記せねばならぬ。ラウウィンの日常の談話の談話は、タルムード全部よりも尊敬せられねばならぬ。自分のラウウィンに反対し、これと争論し、或は之に対して不平を洩らす者は、神の威厳に反抗し、これと争い、之に対して不平を洩らすものである。

 ◇

 ラウウィンの言は生ける神の言である。ラウウィンに対する敬畏に神に対する敬畏である。

 

 ラウウィンが、汝の右の手は左の手は、左の手は右の手であると汝に言っても、彼の言に信を置かねばならぬ。(最後の二説はアイモンドと教師ラシの言)

 ◇

 かような言を述べる時、タルムードの著者らはその良好なる道路から下る理由を有しなかった。実際「シネドリオン」と題する書にこう記されている。即ち「死したるラウウィンらは、天上で特に選ばれたる人々を教える使命を有している。また教師メナヘムが『天上でタルムードに関する重大なる問題が審議された度毎に、神はラウウィンと協議するが為に地上に降った」と力説している。これに対して或いは我らにこう論難する者があろう。即ち「タルムードの件には、その学識の蘊蓄(うんちく)を以って大いにその栄名を轟(とどろ)かしたラウウィンらが同一の問題に関して同時に述べたが、互いに矛盾している見解が数多載せられてある。もし互いに矛盾しているならば、同時に皆な正しいものであり得ない。さればこの場合如何にして誰が正しいかを決することができよう」と。これに対してまた教師メナヘムは次の如く、「すべての時代、すべての世代のラウウィンらのすべての言は、假令(たとい)我らが互いに矛盾している場合に於いても、預言者の言と同じく神の言である。誰にてもラウウィンに反対し、之に争論し或はこれに不平を洩らす者は、神と争い、神に向って不平を云う者である」との解答を与えている。

 この教義は、恰(あたか)もカトリック教会がただその教主(ローマ法王)にのみ、それもただ正確に規定せられたる場合に於いてのみ認める如き絶対無謬性を、すべての時代のラウウィンらにすべての場合に於て、しかも互いに矛盾している時に於ても認めている。かかる教義はタルムードのすべての註釈に述べられている。これは畢竟(ひっきょう)実際上に於て道徳律のあらゆる牢固たる基礎を否定することに帰省するものである。

 実際ギルレル派とシャンマイ派との間に異論がある。その論争はタルムードの中にも記述せられている。そしてユダヤ会堂の聖書も「双方の意見は神の言である。ギルレルの言も、シャンマイ派の言も神の言である」と述べている。では、この場合如何に為すべきであらうか。その結論はただ一つあるのみである。即ち「ラウウィンらのすべての言が神の言であるので、汝の心が実行の可能如何に応じて汝に示唆する所に従って行え」と云うのである。パリサイ派の理想に全然適合せる人々の行為に対する無関心は左の規定によって一層基礎付けられる。即ち「罪を犯すことは、それが密かに行われさえすれば許される」と(以上シャーグ章。ギッテェシェン章。チェブト章。トカフォット。シュルレン章。バメオット章。教師ラシ著イエバム書より)

 ◆囲み記事◆

 ローマ法王廳を根こそぎに破壊する時期が到来すると、隠れたる我々の手の指が、各国民を法王廳へとさし向けるであろう。そして各国民が其処へ殺到したら我々は、表面上法王の擁護者として登場して、流血の惨事を大きくしないように鎮静する。この策謀によって法王の信頼を完全に覆すまでは其所を去らぬであらう。(ユダヤ議定書十七章)

 第七章 神、天使及び悪魔に就いての「タルムード」の教義(3)
 (3)

 人々のために悪魔を殺す唯一の方法は、(過越しの祭の饅頭:マツツア)を作ることである。それはこの饅頭の香が彼らに耐え切れぬ苦通を感ぜしめるからである。もしノアが数万の悪魔を箱舟の中に入れるほど無邪気でなかったら大洪水の時以来疾(と)うに悪魔から免れることができたらう。その時以来彼らの数は甚だしく増加し、到る所に彼らを見るようになった。

 彼らは水飲場から帰って来る牛の角の間で、あるいは葬式の後家に帰って来る婦人の群れの中に踊るのを好む。彼らは嫉妬心に駆られて、ラウウィンらを訪れる。終に胡桃(くるみ)の樹は彼等の避難所になっている。胡桃の葉一枚毎に一悪魔が隠れている。故にこの樹の蔭で眠ることは避けねばならぬ。それは悪魔は之に対して悪戯をなすことがあるからである。タルムードは悪魔の問題に就いてはその材料につくる所を知らない。そしてその中に述べてある寓話は、中世紀時代に広く行われ、最近二十五年以来再び社会の注意を喚起している種々の術書、妖術書の基礎をなしている。破門僧ルイ・コンスタンがタルムードは妖術の基礎であると言ったのは十分根拠ある言である。悪魔、悪法、妖術といったようなことは、この書の第一頁毎に見ることができる。「寂しい場所には危険を冒して往かぬがよい。何となれば其所には悪魔が住んでいる」。「月の満ちたる時と虧(か)ける時には独居せぬがよい。その時刻こそ悪魔の跳梁跋扈(ちょうりょうばっこ)する時である」。「夜には誰にも頭を下げてはならぬ。汝らが頭を下げたその人が偶然悪魔であり得るからである』等々。「ペレザム章。ジョレデア。ベラショット」の到る所に擧例してある。

 後世最も低級な占者及び魔法使と称する詐欺師らによって、十字架に行き会う事は、近く不幸を招来する前兆だとか、金曜日は外出に最も不吉な危日であるとかその他いろいろな愚味な迷信が広付されている。就中タルムードの中に記載せられ、ラウウィンの教授課目中に編入せられている、ユダヤ人と非ユダヤ人との別なく一般に実際生活に於ける超自然なる事の価値を低くすることを有利であると認める外に、タルムード創作者なるパリサイ派の人々は、タルムードの迷信的見解に一種の象徴的意義を附していた。

 そしてラウウィンらは、現在でも多くのキリスト教信者等が、他の萬事に於ては自分の信仰を固守しながら、十字架と金曜日を凶事の前兆と認める会堂の教義を採用しているのを見て喜んでいる。自分の智慧は全知全能の神より優れて高いと誇称して逆せ上がり、迷信しているラウウィンらは、悪魔に対する大なる機能をも自ら有するものと考えるに至った。タルムードは、この権能が無限であると力説している。そしてラウウィンらが最も驚くべき魔術の実験の為にこの権能を行使しているのだと述べ、なおタルムード創作者の人らに就いても左の如く言っている。

 ◇

 「ある一人は自ら殺した人間を蘇生せしめる魔術を知っていた。まして動物の活殺の如きは問題ではなかった。であるから彼は自分の生活費を軽減するために毎晩三歳の犢(こうし)を殺して、それを同僚とおいしく食べた。そして翌朝になると殺して食べたその犢を蘇らして、晩になるとまた殺して食べる。著名なる別のラウウィンは、極めて獣類の肉が好きであったので、最も自分の得意である魔術の力を以て、南瓜を鹿に化しめ、メロンを麋(おほじか)に化しめて食べていた。教師エイゼルが南瓜が不足すると二言三言神秘的な呪文を称(とな)えると忽ち畑一面が南瓜に蔽(おお)われる」(サンヘドリン章)。

 ヤンナイも、それに劣らぬ魔術師で、水を蛇蝎(だかつ)に化しめることができたし、また或る時、彼には乗用の家畜が居なかったので、一人の女を驢馬に化せしめてこれに乗り、家に帰って来るとまた以前の人体を戻した。(サンヘドリン章)

 有名なラウウィンは、奇蹟を行ふに之を助ける魔法石を持っていた。そしてその中の一人の如きは、この石を以て塩漬けの鳥に触れると、その鳥は直ちに蘇って飛び去るのを娯(たの)しんでいた。(バイバ・バトラ)

 第八章 「タルムード」の照明の下に(3)

 (3)

 タルムードは、世の末に至ってユダヤの王なる救世主が現われて、王の乗座せるその馬車の車輪の下に総ての「ゴイ」等を轢(ひ)き潰す時に生ずべき種々の出来事の預言を以って満たされている。このタルムードによれば、その時大なる戦争が起る。そして「ゴイ(豚)」の三分の二は滅亡する。戦勝者なるユダヤ人は敗北者等の武器を焼却するに七年を費やす。この敗北者らはユダヤ人に屈服して、豊かな贈品を献じるであろう。しかし王なる救世主はキリスト教徒の貢物は受けない。彼らは算(かぞ)へ尽せないであろう。メッシャ王の富は、これを収容する倉庫の鍵だけでも三百頭の馬に負わせる荷物となるほど尨大であろう。

 一般のユダヤ人についていえば、その中の最も卑賤な者一人でも、二千八百人の奴隷(ゴイ)を所有するであろう。キリスト教徒の殲滅せられた後には、残った人々の心眼は開かれ、彼らは割礼とユダヤ教に入会する為の儀式を請願するであろう。その時全世界の住民はただユダヤ人のみとなろう。その時は地は耕さずして蜂蜜のケーキと、毛織物の衣服と各一粒の大きさが最も大きい牛の腎臓に等しい程の不思議な小麦を生ずるであろう。(サンヘドリン章)

 我らはタルムード中に「物語」と称せられているこれらすべての寓話や預言を引用することを義務と認めている。何となればこれがパリサイ派の勝利によって生じたるユダヤ人の精神的堕落を測る尺度となり得るからである。又これによって幾多世紀の間イスラエル民が呼吸していた狂的倨傲(きょごう)と、覇権の渇望との雰囲気を理解するための鍵を見出し得るからである。以上、我らは短い格言の形を以て戒命と、教義とを述べた。この教義は、従来もまた今日も全世界の各会堂の教義の基礎を成すもので、これによってユダヤ人の心が如何にして燃るが如き憎悪の念と、彼らに縁のない総ての人々に対し、特にキリスト教徒に対する極端なる不信義との結合に化するに至ったかを説明することができる。

 第九章 ユダヤ道徳教の鉄則(6)

 (6)

 タルムードがこれと同様な教示を商業方面に於てもユダヤ人に与えている。

 ◇

 「ゴイに対しては高利貸業を以って闘争することも、また彼らを欺くことも汝らに許されるが、しかし汝らが何物かを隣者―ユダヤ人―に売買する時だけは、かくことを禁じられる」。その実例としてタルムードの中の最も偉大なる学士の伝記中から左の数個引用されている。「有名なる教師(ラッピ)サムエルは、純金の器物を所有していた一人のゴイに会った時、この器物は真鍮(しんちゅう)で製したものであると、その所有するをいやがらせて、それを二足三文の値に踏倒して買った。そして支払った銭の一部を対手の隙をねらって窃取した」。「ゴイを欺き搾取するも一向差し支えなし、なおゴイに支払う銭は請求通り払う要なし」。「カナハもゴイから葡萄酒を百二十樽買ひながら百樽であると云って、それだけの銭しか払わなかった」。

 「あるラウウィンは、ゴイに棕櫚(しゅろ)の丸太を買った取引の際ゴイは買った丸太の数を違算なきやう何回も調べて、そしてその数の銭を渡した。ラウウィンはその夜使用人らを棕櫚の丸太の置場にやって、丸太の長さを伐りちぢめさせた。そして言った。『ゴイは丸太の員数はよく知っているが長さをはからなかった』と」。「ゴイが取引の際、もし計算を間違えたならば、ユダヤ人は心の中で『俺は何にも関知しない。アハーン、これはゴイがユダヤ人を試みんがために、ことさらに誤算しているのだと思へ』」。「非ユダヤ人の財産はユダヤ人の擧中に帰すまで、一時非ユダヤ人に属するものなり」。「ユダヤ人が非ユダヤ人より搾取せんとする時は、非ユダヤ人に接近して彼を欺き、すべての財を失なわしむるように務むべし」。

 「もしユダヤ人等が全一週間諸方を巡歴して、意のままにキリスト教徒を欺瞞迷惑せしめ得たならば、安息日に倶に相会して、自分らの巧妙なる手腕のあざやかさを礼讃して『ゴイらの心臓を抜き取り、キリスト教徒中の最優良者を殺さねばならぬ』と」(ジュデンバルグ、ゼッフェル・ミズウォット・ガットル)。

 「また、国家の法律がゴイの上に権力を振う何らかの便宜をユダヤ人に提供するなれば、この権力は全部イスラエル民への奉仕に利用させねばならぬ。例えば、ユダヤ人の裁判官は訴訟がユダヤ人のために如何に不利になっていようとも、同胞の勝訴となるように全力を傾注して行動せねばならぬ」。

 「もし国家の法律が、ゴイの上に権力を振う何らかの便法をユダヤ人に与えるならば、この権力は全部イスラエル民への奉仕に利用されねばならぬ。例えばユダヤ人の裁判官は訴訟がユダヤ人のために、如何に不利になっていようとも、同胞の勝訴となるように行動しなければならぬ」。

 「もしユダヤ人が非ユダヤ人と訴訟を起こした時は、汝らは同胞に勝利を与えて、非ユダヤ人には『我らの律法がかく要求する』と云うべし。萬一勝訴の見込みが全然ユダヤ人にない場合には、あらゆる策動奸策を弄(もてあ)そんで非ユダヤ人を困憊(こんぱい)せしめ、これによってユダヤ人が訴訟に勝つやうにせねばならぬ」(バーバ・カムマ)。

 ◇

 この教訓をユダヤ人に与えた教師(ラッピ)アキバはこう附け加えている。即ちユダヤ人の信用を失墜せしめざるために、偏頗(へんば)なる判決はすべて公表せざるように努力せねばならぬ。世界中何れの国家に於ても、司法及び行政機関の職務につく途がユダヤ人のために、全然閉じられている事実を説明するがためには叙上(じょじょう)の理由で充分である。
 第十章 ユダヤ道徳教の他の鉄則(4)
 (4)

 このユダヤ人の特異性は先に最も周知の事実となっていたので、裁判所ではユダヤ人の宣誓は、ユダヤ教の会堂に於てユダヤ人間に宣誓の行われる場合に、その儀式を繞(めぐ)らすところの恐るべき呪文が唱えられなければ認められなかった。この全然合理的な風習をつくるに至らしめた意図は大いに称賛すべきものであった。しかし我らの思惟するところによれば、ユダヤ人の行う宣誓の誠意を保証する為めには之だけではなお不十分である。実際タルムードの中には、イスラエル民は宣誓を行った後でも良心を少しも毀損(きそん)する事なく、無辜(むこ)のキリスト教徒を有罪と認め犯罪者たるユダヤ人に無罪の判決をなすべき勧告とその実例が記述してある。

 例えばタルムードはこう力説している。ユダヤ人はもし心の中で宣誓の意味を全く変更し得るような否定を追加するならば、宣誓を破ってもその違反にはならない。そしてその実例を示している。教師ヨナハンは一人の貴婦人から秘密の告白を聴取した。この際彼は予めこの秘密を口外しない事を誓った。イスラエルの神に余は之を洩さないと彼は言明した。貴婦人は、彼がイスラエルの神にさえもこの秘密を洩らさない義務を負うものと考えた。しかるにヨナハンは心の中で、しかし余は之をユダヤ民に洩らすと追加した。こうして彼は秘密を洩らした。しかし宣誓は破らなかった。この巧妙さをタルムードは極めて礼讃している。

 モーゼ第二世とも云うべき教師(ラッピ)アキバの主張する方法は一層簡単であった。彼について伝えるところによると、彼は宣誓の際、自ら心の中で「この宣誓は真正なものではない」と云う口実を設ければ、それだけで良心を安らげるに充分であると認めて居た。タルムードはゴイの国の官憲がユダヤに宣誓を要求する時は、その都度叙上の如く行って、差支えないと教えている。例えばユダヤ人が重罪で告訴された際、他のユダヤ人がこの事件について知っているところを供述すべく求められても、同胞を無罪による為には、心の中で否定する口実を設けつつ、宣誓の下に虚偽の供述をなす権利を有するものである。

 もし、ゴイの国の偽政者がユダヤ人にその国から出ない事を誓約すべく要求せられたならば、ユダヤ人は宣誓を行う時、「今日は国から出ない」と心の中で思っていなければならぬ。また偽政者が、ユダヤ人に決してその国から逃走せぬように誓う事を求めたならば、ユダヤ人は心の中で、「但しかかる条件に下に於て」との言葉を追加して、それを同時に最も実行し得られないような条件を案出しなければならぬ。かくの如くしてユダヤ人は宣誓を破ることなくゴイの国から脱出することができる。

 けれども、タルムードは急いで之に左の言葉を追加している。「これらは皆なゴイに悟られないように自分の宣誓を破り得られる場合に限る。もしこれに疑いがあればかく行うことが禁じられる、それは左様にしてエホバの名が毀損(きそん)せられるからである。この説明は、必ずしも我らをして法廷その他の場所に於て、ユダヤ人の行う宣誓の重要性を信ぜしめるが如き性質のものとは謂えない。

 ユダヤ会堂に於て施行せられる儀式的呪詛(じゅそ)を以って補はれる宣誓に就いていうならば、これも同様に何の保証をも与えるものでない。実際ユダヤ人は、ゴイがただ真正の人間の外形と権利とを我が物とせる動物であると、深く信じているものであることを忘れてはならぬ。もしゴイが殺されたとしたら、ユダヤ人は何時でも人間の血が流されたのでないと誓っていうことができる。もしゴイが掠奪に遭ったとしたら、ユダヤ人は左様な事は何もなかったと確信することができる。何となればユダヤ人のみ自分の財産の所有主であるからである。それ故に唯一の有数なる方法は、ユダヤ人の供述とキリスト教信者、回々教徒自至異教徒の供述とに同等の価値を認める事を法規を以って禁ずるであろう。

 かくの如き警戒の特に必要なことは、左の理由に因って明らかである。ユダヤ会堂は毎年ヨム・キプルの祭、即ち大贖罪日を設けている。これは来年中、ユダヤ人が彼等の神から解放されることを願うために設けられたのである。この日は、ユダヤ人の居住している総ての国、換言すれば全世界に於てユダヤ人は会堂の周囲に集まる。そして一番星が天に現われる時大教師或はこの祭典の司会者が左記の如き言葉を大声にて激唱する。

 ◇

 我らが唱えんとする、そして我らが履行する事を総ての盟約、総ての義務、総ての約束、総ての宣誓は、この大贖罪の日より来年のこの日に至るまで延期せられ且つ破棄せらるべし。それらは効力と価値とを有せざるべし。我らは我らの盟約が盟約たらざん事を、また我らの宣誓が宣誓ならん事を望む。

 ◇

 ユダヤ人の宣誓が、彼ら自身の眼中に於ても、何らの価値をも有せざるものであることを、これ以上明白に表現する事はできないであろう。いわんや非ユダヤ人の眼中にそれ以上の価値を有すべき理由が何所にあろうか、と一八八八年ブリュッセルに於て発行された「タルムード信奉者なるユダヤ人」の四九頁に書いている。

 (2)

 ユダヤ人は二様の意義に解せられる種々の場合を、常に巧妙に利用し来たったものである。例えばソロモン・レイナクは儀式的殺人行為に関する自分の論文中に述べて云うには、ユダヤ人がかかる行為をなそうとは全く考えられない。「何となればモーゼの律法は、獣の血さえも食物に用いることを禁じているからである」。ソロモン・レイナクはタルムード学者である、故にユダヤ会堂が「バイブルは水の如く、ミシナは酒の如く、ゲマラは芳醇の酒の如し」との本文に従って、バイブルをタルムードに従わしめていることを知っている。しかるにタルムードは前既に述べた如く、儀式的殺人行為を許しているのみならず奨励さえもしている。ソロモン・レイナクは左様な瑣事(さじ)は意に介さない、彼は読者の大多数が、彼の言明を根底から排斥しているタルムードの本文を審査するものでないことを予想している。それ故に誰もよく知られているモーゼの律法についてのみ説いている。二様の意義はこの場合に於てもその目的を達したと云うべきである。

 この矛盾を全然解除するが為に、我らはタルムードの本文を叙述するに先だって、タルムードを編纂したパリサイ派の発達した歴史的様相を明らかにした。この書を一読する光栄を我らに供与した者は、今や既にユダヤ民族の古来の宗教なるモーゼの律法と、その現代の宗教なるタルムードの律法との間には何らの交渉もないことを明らかにしたであろう。

 十五世紀の間、預言者らが宣伝した正義と仁愛の律法に対して、五百年間に亘るパリサイ派の秘密結社の活動は、漸次憎悪と虚偽の教義を対立せしめた。殺神行為の実行された刹那以来、この不義の律法は、かっては神の選民たりしユダヤ人の会堂に於て宣伝せられ、攻究せられ遵奉せらるる唯一の律法となっている。

 しかし我らの任務が之だけで完了したものでないことを、我らは敢て自ら隠蔽しない。何となれば我らに対して為し得る二つの辯駁(べんばく)が残されてある。その一は、タルムードが如何に厭忌(えんき)すべきものであろうとも、兎に角これは最も古代の記念物で、その教義を実生活に適用しようとの意図を全然別にして、単に、伝統に基づく外部的尊敬を会堂から払われ得べきものであろう。もしそうしたならば、ユダヤ人は必ずしもタルムードによって風紀を紊乱(びんらん)せられることもなく、また之によって各国民の恒久的且つ不倶戴天(ふぐたいてん)の敵となることもなかろう、と云うのである。

 その二は、現代のユダヤ会堂もタルムードの教義の総ての基礎を認め、ユダヤ人の道義的世界観全部の構成を之に準拠せしめているとしても、兎に角道徳堅固なる個人は、何時でも受けたる教義を修正することを得る。そしてユダヤ教との関係を絶つことなく、自分の社会的且つ個人的行為を一般に認められている名誉を、廉直(れんちょく)との通則に合致せしめて行くことができると云うのである。この最終の一章に於て我らは上記の弁駁(べんばく)を検討して見よう。

 第十一章 現代に於ける「タルムード」の意義(5)
 (5)

 ツール市の一人の武器製造技手ジュリアス・メニエなる者が軽量、遠距離射撃、弾丸飛行速力、速射力等、他に比較のない特徴を有する銃を発明した。彼はその当時自分の訴訟事件に因って全フランスを騒がせていた売国奴ドレイフスにこの銃を二十万フランで売却しようと考えた。ドレイフスがもしこの銃をフランスに献納したら、この美学を以って自分の無罪の貴重なる証拠を自分の後援者らに握らせることができたのであったろう。記の発明家はこの二十万フランの中から五万フランをラウウィンのブラウエルに与えてドレイフスに自分を紹介せしめ、且つ之との交渉に援助せしめようと努めた。

 

 「カトリック修道院長ウイアルの書中に彼らがこの交渉の間に交換した書簡及び公文書が掲載してある。著者の援用している証拠書類が極めて豊富であるため、ユダヤ人の首領らは、これを修正せんとしても、如何ともすることができない」〔傍註〕。

 ◇

 実に信じられないような事件ではある。このラウウィンのブラウエルはドレイフスの敵であった。この事情は左の事がその原因となっているかも知れない。即ちエルサスで商業を営んでいた彼の両親が一八七〇年の戦争の際、プロシヤ人に銃殺されたと云う事実である。彼は懇願された援助を断然拒絶し、提供された五万フランも受けなかった。そして発明家メニエフに対しドレイフスは売国奴で、当然有罪の宣告を受くべき者であるとの確信を明言した。

 この不成功に激怒した武器製造技手は、ツール市のユダヤ長老会長レオン・レウィにブラウエルを告訴した。レウィは直ちにこの事を当時ドレイフス事件の高級上演者の役割を務めて著名となっていたフランスのユダヤ大教師ザドックハンに報告した。一九〇一年一月二日ラウウィンのブラウェルは、フランスのユダヤ大教師から「辛辣なる非難」を聴取せしめられた。同月二十六日ツール市のユダヤ長老会長は、ブラウエルに対して翌月以後彼に俸給の支払いを停止すると通告した。その間に有罪と認められたブラウエルの頭上にヘルムの刑罰がふりかかって来た。そしてその峻嶮(しゅんけん)なる呪詛(じゅそ)は、その困難なる結果を彼の一身に招来せねばならなかった。即ちブラウエルはその聴と財産とを奪われ、その家から追はれ、その妻子と離別せしめられねばならなかった。

 カトリック修道院長ウイアルの書中に、この事から生じたる総ての結果に就いて必要なる総ての証拠が連載せられてある。ツール市に広く知られていた窃盗犯人を先頭としたユダヤ人の群衆は、夜中ラウウィン・ブラウエルの住宅を襲い、その金庫を破り、家具を打ち毀(こわ)し、拳銃をブラウエルに疑して、有価証券を現金と合せて一万四千五百フランに過ぎざる彼の貯蓄を横領した。そして彼の手には、わずか八十サンチムを止めたのみであった。ブラウエルは訴訟を起した。しかしそれは恰もドレイフス政権の旺盛時代に逢着したので、当時既に知られていた国賊等は検事の監視を意にも介しなかった。

 
その後数日を経て「ヨムキブル」の祭日、即ち大赦の日にあたって、ラウウィンのブラウエルが礼拝式を行っていた時、そこにいたものの内の一人が、会堂に向って彼がツール市の一の旅館で豚肉を食べたといって彼を非難した。ブラウイルは頻(しき)りに旅館の主人の供述に基いて弁解したが、その效(こう)はなかった。後に至ってこの主人はブラウエルをかって見たことがなかったと証言した。会衆は彼に襲いかかって、これを殴った。そして半裸体にしてこれを会堂の外に突き出した。「へレム」の第二の結果も実行せられた。破門者はその職を免ぜられ、三日を経て彼は此の事に就いて公然の通知を受けた。

 最後は、彼を妻子と離別せしめることであった。しかしこのことに就いては、タルムードの詭計(きけい)も失敗に終った。何となればブラウエル夫人は、これを服従せしめんとのあらゆる試みにも拘わらず、夫を離れることを拒絶した。彼女の抵抗を挫折せしめんとして、ユダヤ人らはその母をエルサレムから呼寄せて、娘にその家庭を棄てさせるため、母の感化力を利用しようと謀った。しかし総ての努力は空しくその效(こう)を奏せず、タルムードの権力は失敗に終った。

 ブラウエルの一家は、ツール市を去ることを余儀なくせしめられ、パリに居をうつしたが、甚だしき貧苦の裡に生計を営んで行かねばならなかった。終に一九〇二年前ユダヤ教師ブラウエルは国政参議院に対して自分の迫害者等を告訴した。そして法律の保護を受けることになった。しかし秘密の勢力によって事の進行は、何時までも判らず妨碍(ぼうがい)せられた。而して九年を経過した後、即ち一九一一年の末ブラウエルとその家族がカトリック教会の慈善的援助によって、餓死するに至らなかったことが確実に知られた時、この事件の審査を許可するに決した。

 本件はあまりにも明白であったので、男爵ダスタク・ロッシリドを会長に載いていたフランスのユダヤ長老会は有罪の宣告を受けた。しかし、フランスの法曹界に対するユダヤ人の勢力が頗(すこぶ)る大であったので、前ラウウィン・ブラウエルはその受けた損害に対する賠償として僅かに数千フランを受くることを以って満足せねばならなかった。

 今や少なくともラウウィン・ブラウエルの試練が、これを以って終を告げたと確信し得られようか。我らはこれを保証するに躊躇するものである。自分の高級教師らを対手どって前ラウウィンは売国奴なるユダヤ人の名誉恢復(かいふく)に対する援助を拒絶した以上に重き犯罪を新たに行った訳である。彼は、今やタルムード中のアドタ・ザラ章に記されてある左の規定の打撃に逢着(ほうちゃく)しているのである。その文に、「他のユダヤ人を裁判によって脅迫するユダヤ人もしくは単にこれをキリスト教団の裁判に起訴する意図を有するユダヤ人は、その罪、死に当る」と証してある。

 ◇

 彼は裁判の手続きを経ることなく石撃せらるべし。当該地方会堂長は第一に彼の頭上に石を投ぐべし。彼はユダヤ民の社会より排除せらるべし。何となれば唯一の神の言たるモーゼの五書の「トーラの命令を軽んぜしを以てなり。彼の不法は重く彼の上にとまるべく、全イスラエル民は石をもって彼を搏(う)つべし。彼は死せざるべからず。彼はトーラ及びタルムードの審判を見てこれを畏(おそ)るべし」と記述したものが、一九〇四年パリに於て「フランスのユダヤ大教師の反逆」が発行された。

 結論
 結論 

 
我らはラウウィン、ブラウエルの事件に多くの注意を払った。何となれば、この事件がフランスに於て、しかも二十世紀の初めに於てさえタルムードの最も醜陋(しゅうろう)なる規定がユダヤ人によって忠実に実行せられ、ラウウィンの権力が聊(いささか)もその強勢を失わなかったことを如実に示したからである。この事実によって見れば、タルムードの法律によって強要せられる陋劣(ろうれつ)な行為を行うことを敢えて拒絶するほどに端正なるユダヤ人が、いかに大なる危険に遭遇すべきかは明白である。故にユダヤ人が我らの周団に物心両方面の破壊を行いつつあることは、我らの怪しむに足らざるところである。

 我らは本書に於てパリサイ派とその道徳上の律法なるタルムードの研究を概述したが、しかしこれはユダヤ民族に対する野卑な憎悪を宣伝する目的を達成するためでは決してない。かかることは我らは毫末(ごうまつ)も考えていない。我らはただユダヤ教の有害な根底を指示し、その原因を闡明(せんめい)せんことを欲して左の如き、結論に達した。

 即ち、ユダヤ人は悪漢となるに先だって、パリサイ派の秘密を蠧毒(とどく)するところの犠牲となるのである。彼はその害毒に浸潤せられ、既に二千年の間その害毒を全世界に散布しつつあるのである。故に、我らは族祖、使徒、殉教者を活ける神に提供したユダヤ民族自体に対して武装したのではなく、タルムードによって改造せられたユダヤ人、パリサイ思想の権化、神人の殺害者、虚偽者、窃盗且つ殺人者なるユダヤ人に対して武器を執ったのである。希(こいねがわ)くはこの小著によって、あるがままのユダヤ人を認識し、これに就いて当然の判断を下すための一助とならん事を。 ファラウイアン・ブレニエ
 「久保田栄吉」についての覚書

 「ユダヤのタルムード」は、日本における最初のタルムード研究書である。久保田氏の活躍した時代、日本政経学会(昭和十一年~二十年)という猶太研究機関が存在した。大東亜戦争期(第二次世界大戦)敗戦を経過してGHQによる日本占領七年、焚書、情報封鎖で中座、解散したにも拘らず、現代、さらなる研究がすすめられた。この訳書が出版されて以来約70年、シオニストは次の戦争を狙っていることもあきらかにされている。この著者にもあるように、民族紛争にあおられることなく冷静に対処するために本書を参照されることを望む。訳者の久保田栄吉については、詳しいことは知られていない。しかし、次の冊子からわずかながら、様子をうかがい知ることができた。

 大原社会問題研究所雑誌 No.566/2006.1
 片山潜,在露日本人共産主義者と初期コミンテルン (山内昭人 九州大学大学院人文科学研究院教授)49頁。
 次に抜粋する。

 次に、「シベリアゴロ」とも表記されていた久保田栄吉については、つとに鈴木茂三郎による曖昧なプロフィールが出ているが(鈴木茂三郎「労農露西亜の国賓として」(日本評論社、1923、189-193)、本名は寺田二三郎であり、1909年「旭川第七師団附大尉松本誠一カ特命ヲ帯ヒテ入露スルニ当リ……随行スルコトゝナリ。その際、久保田栄吉名義ノ旅券ヲ交付セラレ、入露シタル以来、同氏名ヲ用ヒ居レリ」とのことで、最初から密偵の影がつきまとう(太田政弘警視総監の若槻礼次郎内務大臣,幣原喜重郎外務大臣ほか宛1925年11月21日付け機密文書,外交史料館,4.3.2.1-1(17))。

 1921年1月、「従前知合ヒ居リタル『ポポフ』[エス・エル党出身]ヲ便リ浦塩ニ趣キタルカ余[久保田]ハ稍露語ニ通スルヲ以テ同人ノ斡旋ニ依リ在莫斯科共産大学日本語教授トシテ一ヶ月五百円ノ給料ヲ受クルコトゝナリ同人ト共ニ同年五月『チタ』経由莫斯科ニ入ラムトシタルカ同地ニテ倉重特務機関大尉ノ紹介ニ依リ大庭柯公并富永宗四郎ノ両人ニ初メテ面接シタル」。「尚余ハ共産党ニ共鳴セサル為遂ニ大庭ノ為ニ密告セラレ日本軍事探偵容疑者トシテ同地ニテ拘禁セラレ……」以来1923年「八月迄莫斯科浦塩間前后一七箇所ノ監獄ニ転々移送拘禁セラレタリ殆ト満二ヶ年間獄舎生活ノミ継続シタル」とのことである(阿部広島県知事の内田外務大臣ほか宛1923年8月20日付機密文書,外交史料館,4.3.2.1-1(15))。

 国会図書館蔵書調べ

 久保田, 栄吉 (1887-)∥クボタ,エイキチ

◆ ロシヤ共産党及び労農政府の支那赤化対策に就て. 第1編 / 久保田栄吉. -- 日本新聞社, (大正15)
◆ 中野問題に就いて我が国民諸君に訴ふ / 久保田栄吉. -- 日本新聞社, (大正15)
◆ 赤露二年の獄中生活 / 久保田栄吉. -- 矢口書店, (大正15)
◆ 世界革命の実現に活躍するロシヤの政治組織 / 久保田栄吉. -- 内外書房,(昭和4)
◆ ユダヤ議定書 / エス・ニールス[他]. -- 訂3版. -- 破邪顕正社, 1940(昭和14)
◆ ユダヤの「タルムード」 / デ・グラッベ[他]. -- 破邪顕正社, 1941(昭和16)
◆ 歌聖関屋敏子女史 / 久保田栄吉. -- 破邪顕正社, 1942(昭和17)
◆ マソン結社の秘密 / 久保田栄吉. -- 破邪顕正社, 1944(昭和19)

 次に、「ユダヤは日本に何をしたか」(渡部悌治著、成甲書房、2003年初版(101~102頁)より抜粋。

 「ゾルゲが日本に来ての初めての仕事は、諜報工作に使う女として、著名な若い歌姫・関屋敏子を篭絡して情婦としたことであった。…(ゾルゲ)検挙の日の夜、ゾルゲ・ルートの手で縊死させられて葬りさられた」。

 □関屋敏子(1904年3月12日 - 1941年11月23日)

 久保田栄吉は関屋敏子の義理の兄にあたる。評伝的著作「歌聖関屋敏子女史」には、もちろん、日本初の世界に通用する歌姫を称賛するにとどまり、上記にあるようなことは書かれていない。「久保田は軍事探偵の疑いを受けてイルクーツクに六十余日入獄していた」時の詳細は、自著に書かれていると思われるが、確認していない。

 稿を終へて 訳編者(4)

 

 さて、前述の如く世界征服の毒蛇の頭は、一八八一年まではソ連に足溜(あしだま)り、いな首溜りをしているが、それから既に六十年を経過している。六十年前といへば、わが国の明治十四五年の頃である。その後、毒蛇の鎌首は何処に向って進んだのか。恐らくユダヤの秘密文書の中には、その鎌首の行方が明示されてあらうが、遺憾ながら筆者の手許にはその秘密文書が入手されていない。然しながら、我らは確信を以て言える。即ちその蛇は、第八の足溜りの予定地になっていたトルコ行きを変更し、新たなる好餌を発見して大西洋を横断し、アメリカ大陸に上陸し、大陸を西に匍(は)って更に太平洋に向っていることを。何となれば、アメリカの国情は、思想、経済、政治、外交、軍事等悉くユダヤの蛇の目的とするがままに動いているからである。殊に、金貨をその金庫に流れ込ますために、あらゆる国際国の闘争を画策し、アメリカ自身が既に事実上の参戦をしていることは、明らかに毒蛇の思う壺に嵌(はま)り込んだものである。いな嵌り込ませたのである。今やアメリカにおけるユダヤ人の有力者は、その経典にある「超政府」を組織しその逞(たくま)しき力によって、アメリカの一切を自由自在に操縦しつつあるのだ。

 彼らユダヤ人の「超政府」と称するのは、国家の政府にあらずして、その政府以上の実力を有する個人的結合、いはゆる同志的結合である。むろん、この中にはユダヤ人ばかりでなく、彼らに利用され、あるいは買収され、あるいは彼らのために都合よくでっちあげられた「理論」に魅惑されて、それが真理であるかの如く信じながら、真剣にユダヤの提灯持ちをやっている者もあろう。即ち、ユダヤ人が非ユダヤ民族を去勢するために拵(こしら)えた「自由主義」、「民主主義」を擁護せんとして、起きあがった者がそれである。賢(かしこ)さうな顔をしていても、ユダヤ人から見れば、人面の顔をして労働している家畜にすぎないのだ。

 我らは、アメリカのユダヤ人が、「いよいよ幾千年間待望せるわれ等の時代が近づいた」と、歓喜しながら、ありとあらゆる手段方法によって大車輪の活躍をなし、さらに世界各国に散在するユダヤ人は、これを鼓舞激励するために一生懸命になっていることをハッキリと見定めることができる。

 八

 しからば日本はどうであるか。支那はどうであるか。果して毒蛇の影響を受けているか、いないか。既に毒蛇は太平洋を渡って日本に上陸しさらに支那大陸に上陸しているような様子はないのか。ここでも筆者は確信を以て言はう。

 正しく毒蛇は、日本を経て支那大陸まで延びていたと。そして、満州事変及び支那事変は、この毒蛇を払い除けることが、一つの大きな動機であったと云うことを。そして今や毒蛇は完全に日本及び大陸の主要地から払いのけられ、太平洋を遠く迂回してフィリッピンに出で、さらに豪州、蘭印を過ぎ、マレイ半島の南端シンガポールを横ぎり、ビルマのラングーンに上陸して北上し、ビルマ・ルートを過ぎて、いわゆる蛇の執念により、執拗にも雲南を経て好餌重慶にその鎌首を擡(もた)げている。

 彼の尻尾(しっぽ)は、未だ東地中海の附近にあるから、既に地球を一巻きしようとしている形だ。ここで我らは、毒蛇が日本に禍ひしていた時代の世相を思い起してみる必要がある。筆者がこれを詳述するまでもなく、読者諸賢は、往時を顧(かえり)みて明らかに当時の状態を思い浮べることができるであらう。

 即ち、ユダヤ人の企図するままに自由主義に基く資本主義の跋扈跳梁(ちょうりょうばっこ)によって、一部階層のみ富の集積をなし、且つ国防費の支出を以て国力を消耗するものとしてこれを阻害し、自由経済の幣(ぬさ:おかね)、滔々(とうとう)として止む所を知らず、また政治的には民主主義的政治が全盛を極め、思想的には自由主義、共産主義が公然と、又は地下鉄運動をなして国体を不明徴にし、甚だしきは国体を変革せんとするが如き不逞(ふてい)極る企図をなす者さえあった。

 而して、この経済機構、この政治体制、この思想の潮流は、次第に国家の伸暢力を衰退せしめ、遂に世界各国より我が国を軽侮するに至らしめ、なかんずく隣邦支那は、侮日、排日、抗日の攻勢的態度に出で、果てはわが同胞が血によって贏(か)ち得たる満州の特殊権益を奪還せんとし、さらに支那大陸より全面的に日本勢力を駆逐せんとしたのである。

 しかもなお国民の大多数はこれを対岸の火災視し、奢侈(しゃし)、虚栄、享楽を追ってひたぶるに亡国の一途を辿っていたのである。これは、いふまでもなくユダヤの策謀の陥穽(かんせい)にかかって踊れる姿であった。また、支那が同文同種、堅く相(あい)提携して東亜の安定に協力すべき日本に対し、かくの如き暴挙に出たことも、これ亦明らかにユダヤの謀略によるものであった。

 かくて我が国は遂に起きあがった。即ち満州事変、支那事変がこれである。つまりユダヤ謀略を一掃せんとするための聖戦である。而して日本及び満州、支那大陸の一部よりは完全にユダヤの蛇を駆逐したが、前述の如くユダヤの蛇は東亜こそ近代における唯一の好餌として、執拗に東亜侵略を志し、遂にA・B・C・D包囲陣を形成するに至った。しかるに、わが国民中には、いまなお毒蛇の吐き散らした毒菌に禍いされて、この重大時局を顧みず、依然として間接敵国に加担するに等しき行為を継続している者が少なくない。これが果して戦時国民の態度と云えるかどうか。今後もし、我が国がより重大なる危機に立ち至った場合は、陰険なるユダヤの策謀はますます熾烈(しれつ)を極め、遂に我が国をして前大戦にドイツが敗戦したる原因に等しき国内紛争の魔手を振ることは火を見るよりも明らかである。我ら国民は、今こそユダヤの正体、ユダヤ謀略の真相をハッキリと認識し、以てこれに対処し、これを撃滅することに全力を挙げねばならぬ。

 筆者は、過去二十年間にわたって、専らユダヤ謀略の研究に没頭してきたものであるが、今や彼らの毒手がこの重大時局に当ってますます猛威を発揮しつつあるの状態を見、拱手傍観(きょうしゅぼうかん)するに忍びず、これが撲滅の一端に資せんとする微衷(びちゅう)の下に本書を世に問わんとするものである。読者諸賢が本書に記述せる以外、更に言外の意味を汲み、以てユダヤ謀略排撃の一資料となされるならば、筆者の本望これに過ぎない。なお、本書刊行に当り、筆者が財的に孤立無援なることに同情し、また今日の国民の姿を見て憤慨してユダヤ謀略排撃の急務なることを痛感し、多大の援助を与えられたる任侠憂国の士印刷技術家渡辺熊吉氏並にスメヨ夫人に深甚の謝意を表するものである。

 昭和十六年十二月二十五日発行






(私論.私見)