終章&あとがき、核心的真実~または人類史の最後にしてほしい情報操作の本音の真相~

 (最新見直し2012.04.14日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「第1部第2、解放50年式典が分裂した背景」を転載しておく。

 2012.04.13日 れんだいこ拝



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ユダヤ民族3000年の悲劇の歴史を真に解決させるために(68)

終章:核心的真実 ~または人類史の最後にしてほしい情報操作の本音の真相~ 1/2

(『週ポ』Bashing反撃)「六〇〇万人の神話」の出発点は「見さげはてた即物的課題」か?

 本書のテーマはおおくの日本人、とりわけいわゆる平和主義者にとっては、たしかに刺激が強すぎる問題にちがいない。序章でしるした事例は、決して他人ごとではない。わたし自身が本当に直接、知人から露骨に「不快感をしめされ」たり、「真顔でおこりだされ」たりしたのである。相手が長年の知人の場合にはわたしのほうでも、「おれの考えかたが信用できないのか」といかりを爆発させたくなる場面もあった。だから正直にいうと、いきなり核心にせまるわけにはいかなかった。ある程度の順序を立てて資料をしめし、最後に「本音の真相」をあかかすという段どりを工夫せざるをえなかった。そうしないと、最初から反発を買ってしまい、話を聞いてもらえなくなるおそれがあったのだ。

 たとえば、「ホロコースト見直し論の父」として紹介したフランスのポール・ラッシニエの場合を考えてみよう。ラッシニエは、レジスタンス運動にくわわって、ナチス・ドイツのフランス侵略とたたかった。ゲシュタポに逮捕され、二年間にわたるナチ収容所での生活を経験した。戦後にはフランス政府から勲章を授与され、下院議員にもなっている。その「抵抗運動の英雄」のラッシニエが、みずからの実体験にもとづいて「ガス室はなかった」と主張し、各種の著作についての実証的な調査を積みかさね、自分でも何冊かの著作を発表していたというのに、なぜその主張がいままで少数派の憂き目を見ていたのだろうか。

 すでに紹介したように、ラッシニエは、『ヨーロッパのユダヤ人のドラマ』(『ホロコースト物語とユリシーズの嘘』所収)と題する著作のなかで、つぎのように断言していた。「(ホロコーストの犠牲者数の計算は)しかるべき死体の数によって、イスラエルという国家にたいしてドイツが戦後一貫して毎年支払い、いまも支払いつづけている莫大な補償金の額を正当化するための課題でしかない」。ラッシニエはさらに、「それは単に、純粋に、そして非常に卑劣なことに、即物的な課題でしかないのだ」という表現をもちいている。一九四八年までは存在していなかったイスラエルという国家にたいして、一九四五年以前の問題についての補償金を支払うという「イスラエル協定」については、その法的矛盾を指摘するとともに、「いかなる言語でも“詐欺”としか表現できない」という告発までしている。

 このラッシニエの告発は、決して突拍子もないものではなかった。永井清彦も『ヴァイツゼッカー演説の精神』のなかで「イスラエル協定」について、つぎのようにしるしている。「この協定は日本では普通、『賠償』協定と呼ばれているが、実はボツダム協定にいう賠償の枠を越えた、『償い』の協定であった。イスラエルはかねてから、ドイツからの賠償を要求していた。しかし、戦時中には存在していなかったイスラエルに、賠償請求権があるかどうかについては法的な疑問がある、というのが戦勝四大国の立場であった」。ラッシニエの言葉はたしかにきつい。だがわたしは、みずからの生命をナチス・ドイツとのたたかいで危険にさらした立場だけに、その上前をはねようとする策動へのいかりが、人一倍強かったのだと理解する。

 朝日新聞の特集記事「問われる戦後補償、下」(93・11・14)によると、一九九三年現在で、一九四九年以来イスラエルがドイツからうけとった金額は、九〇四億九三〇〇万マルク[一九九四年現在の交換レートで約五兆七九〇四億五二〇〇万円]に達している。協定の期限の西暦二〇〇〇年までの支払い予定の残額は三一七億六五〇〇万マルクで、あわせて一二二二億六五〇〇万マルク[おなじく約七兆八二四九億六〇〇〇万円]になる。そのほとんどはイスラエル、ユダヤ人組織、ユダヤ人個人向けである。イスラエルは、砂漠地帯に給水設備をめぐらせつつ、国際的にも非難されている「占領地域」にまで入植し、いまや三〇〇発以上の核弾頭を保有するという事が公然の秘密とされている超々軍事国家である。人口の増加は、軍事的な意味でも必死の課題だが、移住者をむかえるためにも資金が必要である。イスラエルの経済はもともと、ドイツやアメリカからの資金援助なしには絶対に成り立たなかったのである。だから当然、以上のようなラッシニエのきびしい糾弾の言葉は、「イスラエルという国家」、またはシオニストにとって致命傷となりうるものだった。

 「ユダヤ人戦争犠牲者の再定住」資金獲得のための必死の工作

 それだけではない。すでに第一章で紹介した『ホロコースト/双方の言い分を聞こう』でのマーク・ウィーバーの指摘を、もう一度くりかえしてみよう。「ホロコースト物語がこれだけ長つづきした主要な理由の一つは、諸強国の政府が[イスラエルと]同様に、その物語の維持に利益を見いだしていたことにある。第二次世界大戦に勝利した諸強国~~アメリカ、ソ連、イギリス~~にとっては、かれらが撃ちやぶったヒトラーの政権をできるかぎり否定的にえがきだすほうが有利だった。ヒトラーの政権が、より凶悪で、より悪魔的に見えれば見えるほど、そのぶんだけ連合国の主張が、より高貴な、より正当化されたものと見なされるのである」。

 元レジスタンス闘士のラッシニエが、「ガス室はなかった」、「六〇〇万人は神話だ」と主張しはじめたころのフランス政府は、「第二次世界大戦に勝利した諸強国」のトップを切るアメリカの「マーシャルプラン」、具体的にはドルの援助にささえられていた。ラッシニエの主張は、反ユダヤ主義よばわりをされる以前に、反米的だったのである。わたしの脳裏では、ラッシニエがおかれていた政治的構図が、当時のモノクロのフランス映画、マルセル・カルネ監督の『夜の門』の情景と重なって見えてくる。『夜の門』の主役は若いころのイヴ・モンタンである。元レジスタンス闘士が戦場からパリの街にもどる。親友の死をその妻につたえるためだ。かれはパリの街角で豪華なみなりの紳士に会い、その連れの女性としたしくなる。二人はうらぶれた庭のなかで、まだジャック・プレヴェールによる歌詞がつくられる前の名曲、『枯れ葉』のメロディーにのって、ゆるやかに踊る。豪華なみなりの紳士は武器商人だった。かたや戦争でこえふとった成金、かたや青春をたたかいにささげつくした文無しの復員兵士。ドラマは知りあったばかりの女性の死でおわる。フランス映画らしい散文詩的なすじがきの場面を、ハンガリーうまれのジョン・コスマ作曲の、やるせない音楽がつないでいた。ものの本には、この映画でイヴ・モンタンが「枯れ葉を創唱した」などとしるされているが、わたしがNHKの3チャネルで見た時の記憶では、歌声はなかったような気がする。もしかすると、あとで録音しなおしたのだろうか。どちらでも大差はないが、わたしには、歌声なしの「枯れ葉」だったほうがいいように思える。これはわたしなりの「回復した記憶」なのかもしれない。

 それはともかく、戦争がおわり、勲章が授与され、あたらしい戦後秩序が再開した時、レジスタンスはすでに過去の物語となってしまったのだ。フランスでは『夜の門』の客のいりはわるく、日本でも劇場公開はされなかったようだが、わたしは、この映画でマルセル・カルネが、いかにもカルネらしく、戦後のフランスの裏側の断面をみごとに切りとって見せてくれたと感じた。

 そのころのパリで、具体的には一九四五年一二月二一日、ドイツから取りたてる賠償金の配分を決める会議が開かれていた。『移送協定とボイコット熱1933』では、ユダヤ人自身の国際組織、「世界ユダヤ人評議会」が一九四八年にニューヨークで発行した活動記録、『離散の中の統一』の記述にもとづいて、この会議の経過を要約している。

 第一次世界大戦後の高額賠償金請求はドイツの経済を破壊し、ヒトラーの登場をまねいた。だから今度は金額は低くおさえられた。「二五〇〇万ドル」と「中立国でさしおさえたドイツの資産」および「ドイツで発見された金塊」が賠償金の基金となった。最初は、ユダヤ人への賠償という考えは、連合国首脳の頭のなかにはまったくなかった。世界ユダヤ人評議会はアメリカ政府に強力にはたらきかけた。その結果、最初の段階では、賠償金の配分を「ドイツの支配下で非常にくるしめられたもの」に優先するという原則が決まった。だが、そのときにはまだ「ユダヤ人」の名はでていなかった。以後、翌年の一九四六年一月一四日にいたるまでの「ユダヤ人組織のきびしい努力の結果、やっとのことで」、「二五〇〇万ドル」と「金塊」の九〇%、「相続者のいない資産」の九五%がユダヤ人に配分されることになった。その使用目的は、ユダヤ人組織の代理人が持ちだしたもので、「ユダヤ人戦争犠牲者の再定住」のための資金にあてるという計画だった。「ユダヤ人戦争犠牲者の再定住」、すなわちイスラエル国家の建設である。このための資金の獲得こそが、ラッシニエが「純粋に即物的」と表現した具体的な課題だったのである。「六〇〇万人の神話」は、まず最初に「しかるべき死体の数」として提示され、ドイツからの賠償金の配分獲得に役立ったのだ。

 (69) 世界ユダヤ人評議会の「情報機関」としてのユダヤ人問題研究所

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ユダヤ民族3000年の悲劇の歴史を真に解決させるために
(69)
終章:核心的真実
~または人類史の最後にしてほしい情報操作の本音の真相~ 2/2

『週ポ』Bashing反撃)

世界ユダヤ人評議会の「情報機関」としてのユダヤ人問題研究所

 最後に、イスラエル建国という途方もない国際政治工作をなしとげ、以上のような「神話」を半世紀も維持しつづけてきたユダヤ人の国際組織の全体像を見直してみよう。
 ユダヤ人の組織として先輩格の世界シオニスト機構は、ナチ党と奇妙な共生関係をむすんでイスラエルへの移民活動を展開していた。その一方では、この共生関係とはまったく相反するユダヤ人の国際的な活動がおこなわれていた。すでに紹介した世界ユダヤ人会議のよびかけによるドイツ商品ボイコット運動である。『移送協定とボコット熱・1933』というパンフレットには、その間の複雑な、一見相矛盾する両組織の活動の実情がしるされている。
 一九三六年には、世界ユダヤ人会議が発展的に解消し、恒常的組織としての世界ユダヤ人評議会が結成された。『移送協定とボコット熱・1933』では、世界ユダヤ人評議会自身が編集した評議会の記念誌、『離散の中の統一』をもとに、その歴史的経過を論評している。
 それによると、一九三六年八月八日から一五日にかけてジュネーヴでひらかれた結成総会には、三二カ国から一八〇名の代表が参加したが、ドイツとソ連からの参加はなかった。この組織の方は、最初からナチ党の対ユダヤ人政策に正面からの反対を表明すると同時に、ドイツ商品ボイコット運動を推進する立場を明確にしていた。世界シオニスト機構のドイツ同盟は、一九三九年の開戦にいたるまで、ナチ党との「移送協定」にもとづいてドイツ商品の貿易ルートをひろげる努力をつづけたが、世界ユダヤ人評議会は、このドイツ同盟の活動を非難し、中止を勧告していた。
 この両国際組織の関係の要約紹介については、すでに「まさに至難の技である。稿をあらためて検討したい」としるした。とりあえず結果だけから見ると、どちらの活動も、イスラエルへのユダヤ人移民の促進と建国にむけて、それぞれに成果をあげていることになる。
 世界ユダヤ人評議会結成の三年後の一九三九年からの準備をへて、一九四一年には、ニューヨークに拠点事務所をおく「ユダヤ人問題研究所」が設立された。理事長に就任したのはヤコブ・ロビンソン博士である。研究目的はつぎのようにさだめられた。
「スタッフに幅広い科学者を擁するこの研究所には、ユダヤ人問題の情報を世界中のあらゆる地域から収集し、敵意の時代が終了した時の講和会議に提出するユダヤ人の平和プログラムを準備する作業が委嘱された」
 一九四二年には、「戦争犯罪の処罰」が最重要課題になった。
 世界ユダヤ人評議会のジュネーヴ事務所や、三〇人をこえる研究スタッフを擁するイギリス分室との密接な連携の下に、研究所は「極秘文書」にいたるまでの「おどろくべき量の資料」をたくわえ、つぎつぎに研究成果の論文や著作を発表した。まさに、戦後に設立されるアメリカのCIA(中央情報局)のさきがけともいうべき威容である。

「ジェノサイド」を造語した大統領補佐官と援助者たち

 一九四二年末、つまり、ユダヤ人問題研究所が「戦争犯罪処罰」を最重要課題にすえた年のくれに、「ホロコースト」物語についての最初の「情報」があらわれる。
 ラカーは、「大量虐殺に関する最初の信頼すべき報告は、一九四二年末、スイスのユダヤ人機関の代表からもたらされた」(『ユダヤ人問題とシオニズムの歴史』)としるしている。ナチス・ドイツの占領地域からの脱出者の情報だというのである。
 ところが、アーヴィングが執筆した『ロイヒター報告』の序文によると、イギリスの心理戦争委員会(PWE)が、おなじ年の、おそらくその前に、ドイツ人が「ガス室」をつかって何百万人ものユダヤ人と「のぞましくないもの」の虐殺をおこなっているという「プロパガンダ」をながしはじめていた。そして、おそくとも一九四三年の八月にはPWEの責任者が内閣に、つぎのような内容の覚え書きをわたしていた。
「この噂話をながしているが、そのような奇妙なしかけ[ガス室]が存在するという証拠はまるでない。この関係のユダヤ人情報源からの噂話はとくに疑わしいので注意してほしい」
 ウィーバーに聞いたところでは、このアーヴィングの文章の原資料は、『プログレッシヴ』(47.2,未入手)だとのことである。これも追跡調査の課題だ。
 一九四二年九月二七日という、ながされた日づけまではっきりしている情報の例もある。
 シュテーグリッヒ判事は、著名なドイツ人の作家、トーマス・マンの『ユダヤ人問題に関する七つの声明』からの引用によって、トーマス・マン自身がこの日のラジオ放送で、つぎのような二つの「おとぎ話」をひろめていたという事実を指摘している。
「一万六〇〇〇人のフランス国籍のユダヤ人が、“つかわれていない軌道”のうえの“溶接で密閉した”列車のなかでガスで殺された」
「一万一〇〇〇人以上のポーランド国籍のユダヤ人が、“気密の鉄道車両のなかにいれられて”、一五分以内に“死体になった”」
 シュテーグリッヒは、トーマス・マンが、どうすれば列車を「溶接で密閉」するとか「気密」にするとかいう「はなれわざ」を、なしとげることができたのかを説明していないと指摘する。いずれにしても、トーマス・マンはその当時、ヒトラー支配下のドイツからアメリカに亡命していたのだから、これらの情報は伝聞か、つくり話以外のなにものでもない。トーマス・マンがラジオ放送で語る以前に、この種の噂話が世間にひろめられれていたのであろう。
 決定的な問題点は、つぎのような事実経過にある。
「一九四〇年からドイツ降伏の一九四五年五月まで、毎月一回、マンはイギリスのBBC放送を通じて、ドイツ向けのラジオ放送をおこなった」(『トーマス・マン』)
 トーマス・マンの情報源がイギリスの心理戦争委員会のそれとおなじであったという可能性は、非常に高いのではないだろうか。追跡調査が必要である。
 ふたたび『移送協定とボコット熱・1933』に記述にもどると、一九四三年には、ユダヤ人問題研究所が『ユダヤ人に対するヒトラーの一〇年戦争』を発刊した。この本については世界ユダヤ人評議会がみずから、「連合国の各国政府に強烈な印象をあたえ、ニュルンベルグ軍事法廷の基礎的な教科書として役立った」という評価をくわえている。また、同研究所が「アメリカの権威筋にとどけたもっとも重要な文書は『ユダヤ人民衆にたいする陰謀』と題するもの」であったが、その第一章は「ユダヤ人根絶計画の起源」であった。つまり、「ユダヤ人の根絶がヒトラーの一〇年来の計画であった」とする「ニュルンベルグ軍事法廷」の判決要旨は、世界ユダヤ人評議会が全面的にバックアップする「ユダヤ人問題研究所」の作業によって、戦争中から準備されていたことになる。
 この件については、ウィーバーも「ニュルンベルグ裁判とホロコースト」のなかで、四つの原資料の存在を指摘しながら、つぎのようにしるしている。
「ニュルンベルグ裁判における政治的性格のおおきさを暗示するものは、これらの裁判を組織するにあたってのユダヤ人の重要な役割である。一時期は世界ユダヤ人評議会と世界シオニスト機構の双方の代表をつとめたナウム・ゴールドマンは、かれの回想録のなかで、ニュルンベルグ裁判は世界ユダヤ人評議会の事務局の教え子(ブレイン・チャイルド)だったとしるしている。かれは、連合国の指導者にその企画[ニュルンベルグ裁判]をうけいれさせるために、世界ユダヤ人評議会の事務局はねばり強い努力を積みかさねたとつけくわえている」
 さらにふたたび『移送協定とボコット熱・1933』の記述にもどるが、これまた戦争中の一九四四年一二月二六日から三〇日にかけて、アメリカのアトランティック市で世界ユダヤ人評議会の「戦時緊急会議」がひらかれ、四〇カ国から二六九人の代表が参加した。そこで討議されるべき最重要文書を準備したのも「ユダヤ人問題研究所」であるが、その第一議題の主要項目の要旨は、つぎのようであった。
「戦争の結果として予期されるヨーロッパ大陸におけるユダヤ人の移住」
「ヨーロッパから他の地域へのユダヤ人の移民」
「パレスチナでの集団的定住」
 当時はまだパレスチナ地方はイギリスの委任統治下にあった。イギリス当局はアラブ人の抗議をうけて移民を制限または禁止していた。その実情を十二分に知りながらも、かららは、「ユダヤ人根絶計画」の国際的認定と同時に「パレスチナでの集団的定住」を議論したのである。それだけの規模のユダヤ人の国際的組織が存在し、活発な活動を展開しつづけていたことは、まぎれもない歴史的事実なのだ。
「ジェノサイド」という、いまではすっかり定着してしまった単語も、この目的のためにかれらの一員が「発明」したものである。
 かれらは、ナチス・ドイツがかれらにたいして「ジェノサイド」をしかけたと主張してきた。手元の英和辞典のこの項目では、「(ある人種・国民などに対する計画的な)大量[集団]虐殺」と説明している。
『ジェノサイドを発明した男』という本の表紙のイラストには、英語辞典のこの項目のコピーがつかわれている。そこでは、「第二次世界大戦後にドイツの戦争犯罪を告発するために初めて使用された言葉」だと説明している。語源の部分には、「一九四四年にラファエル・レムキンがあたらしく造語した」としるされている。ヘブライ語ではなく、ギリシャ語に語根をもとめたこの造語は、ヨーロッパ語を使用する民族の間でいちじるしい成功をおさめた。
 発明者のレムキンは、ポーランドからアメリカにわたったユダヤ人で、ニュルンベルグ裁判に「人道にたいする罪」を導入するなどのアメリカの政策決定にも、おおきな影響力を発揮していた。公式経歴では、国際連盟の一部門、刑法統一化のための国際事務局のメンバーとされているが、かくれた部分が非常におおい人物のようである。『ジェノサイドを発明した男』の著者、ジェイムス・J・マーティンがとくに注意をむけているのは、それ以前にレムキンが、ローズヴェルト大統領の戦略機関で外国経済行政の“首席コンサルタント”をつとめており、主として敵国押収資産の配分と将来の所有関係についての実務処理を担当していたという事実である。
 しかも、さらに重要なことにはレムキンが造語した「ジェノサイド」は、かれ自身の名による著書によって普及されはじめたのである。
 ラッシニエは、このレムキンの著書について、つぎのようにしるしている。
「一五年ほどの歴史調査をへて、わたしはつぎのような結論に到達した。ナチス・ドイツがはじめてガス室におけるユダヤ人の計画的大量虐殺の告発をうけたのは、一九四三年のことであった。最初の恐るべき、忌まわしき告発の著者はポーランドのユダヤ人で、イギリスへの亡命者であり、職業は法律家であり、その名はラファエル・レムキンであった。かれは、その年にイギリスのロンドンで発行した『占領下のヨーロッパにおける枢軸国の支配』と題する本(アメリカ版はニューヨーク/コロンビア大学出版、44)によって、その告発をおこなったのである。その時点では、この本はそれほど注目されなかった。わたしは、一九四三年の一〇月にゲシュタポに逮捕されたが、フランスのレジスタンスのもっとも情報通のグループにも、この本はまだ知られておらず、わたしがはじめてガス室のことをドーラで聞いたのは一九四四年の中頃のことだった。しかし、一九四五年から四六年にかけて、『占領下のヨーロッパにおける枢軸国の支配』は、ニュルンベルグ国際軍事裁判の主要法廷の舞台裏で、すべての会話のトピックになっていた」
 一方、『ジェノサイドを発明した男』の著者、マーティンは、『占領下のヨーロッパにおける枢軸国の支配』の出版には「カーネギー財団」の援助があったとし、つぎのような「観察」結果をしるしている。
「ラファエル・レムキンの名前は、『占領下のヨーロッパにおける枢軸国の支配』の表紙を著者として飾っているが、かれの著作の準備には、手強い臨時編成の援助者たちの協力があった。さまざまな重要で戦略的な立場にいた数十人の人々の豊富な援助にたいしての、かれ自身の感謝の言葉そのものが、この本が委員会的な組織の産物であることを推測させるに足る十分な証拠である」
 さきにも簡単な経過をしるしたが、「ガス室」情報はすでに一九四二年ごろから流れはじめていたようである。レムキンの名による単行本は、それらの集大成であろう。だが、一冊の本にまとめられた情報というものは、それなりの権威を帯び、ひとり歩きしはじめるものである。マーティンが指摘する「委員会的な組織」はやはり、レムキン自身と同様に「かくれた部分が非常におおい」のであろう。だが、いずれはなんらかの資料が公開され、発掘され、歴史の隠れたひだが現われてくるのではないだろうか。
 レムキン自身が、しかも、ニュルンベルグ国際軍事裁判の主要法廷に関しては、隠れもない主役の一人であった。かれは、ジャクソン主席検事の政治顧問に就任していたのである。

極秘情報暴露の「脅迫」というイスラエル建国の裏話

 ニュルンベルグ裁判の舞台裏の人事権をにぎっていた「狂信的シオニスト」、デイヴィッド・マーカス大佐の存在については、すでに第一部で紹介した。ここではもうひとつ、この「聖書の時代以来イスラエル軍の将軍の位をはじめてえた軍人」がエルサレム防衛戦で戦死する以前の、その前提条件となる国連パレスチナ分割決議の裏話を紹介しておこう。
『ユダヤ人にたいする秘密の戦争』という六七〇ページの大著が一九九四年一〇月に発行されていた。耳情報によると、日本で『マルコ』廃刊事件が起きたころには、欧米の中東関係者の間でもっぱらの話題になっていたという。早速買いもとめて、巻末資料には英文題名などを収録しておいた。共著者の二人は、ともにマスメディアで活躍中だが、共通点にはナチ元戦犯の行方追及の実績が挙げられている。代表格のジョン・ロフタスの方は、弁護士、司法省特別検察官を経験しており、かれ自身が摘発したスキャンダルについて、CIAから情報公開の許可をえている。「秘密の戦争」の主要な意味は「スパイ合戦」である。ただし、パレスチナ分割決議にかかわる部分では、「ユダヤ人にたいする」戦争というよりも、むしろ、ユダヤ人側からの猛烈な攻勢の記述になっている。国連での賛成投票集めの協力をうるために、のちのイスラエル首相ベン・グリオンらのシオニスト指導者が、イギリスやアメリカの有力者にたいして、極秘情報の暴露をほのめかす「脅迫」を再三おこなったというのだ。
 第5章の「脅迫の種子」以下で、その脅迫の材料がくわしくのべられている。主な項目だけを要約すると、つぎのようである。
 イギリス王室[エドワード8世、シンプソン夫人と再婚するために退位してウィンザー公爵]およびイギリス情報機関は、ナチス・ドイツをソ連と対抗させるために、イギリスとドイツの同盟関係をきずく交渉を戦争中もつづけていた。
 アレンダレスらのアメリカ情報機関OSS(戦略情報局。CIAの前身)は、ヴァチカン公国の情報網を利用して、二人の大統領(ローズヴェルト、トルーマン)をだましつづけていた。
 アメリカ最大の財閥ロックフェラーは、ドイツ最大の財閥I・G・ファルベンとの協力関係を戦争中も維持し、影響下にある南米の石油のドイツへの輸送をつづけていた。
 以上の材料による脅迫対象者のなかでも、中南米問題の調整役をホワイトハウスから請け負っていたこともあるネルソン・ロックフェラーの位置づけは、ことのほか大きかった。ヨーロッパの九票にたいして、中南米には一九票もあったのだ。
 ベン・グリオンらの脅迫作戦は基本的に成功した。だが、国連決議のつぎは戦争だった。
 アメリカ国内でイスラエルの建国に反対していた勢力の中心なねらいは、アラブの石油にあったが、表面的な反対理由としては、中東の軍事紛争の阻止という平和目的がかかげられていた。事実経過はあきらかである。かれらの予測通りに、直ちに戦争がはじまり、以後、半世紀を迎えようとしている。シオニスト指導者たちは、この戦争の必然性をも早くから見越していた。最新鋭の武器の合法、非合法の入手に必死の努力を傾けていた状況は、その後の経過からもあきらかである。その到達点こそが、二〇〇発以上の核弾頭つきミサイルなのである。
 以上のような世界ユダヤ人評議会とユダヤ人問題研究所、有力なユダヤ人たちの活動経過と、最初に紹介したようなニュルンベルグ裁判の舞台をまわした国際検察局の人事構成などとは、決して無関係ではありえない。もう、これ以上の論評をくわえるのは、蛇足にすぎないであろう。
 だが、これだけの執念と実行力を持つ集団が、なぜ、もうひとつ志にたかい、人類全体の平和、平等、友愛の確立にむかわなかっただろうか。または、むかいえなかったのだろうか。憎しみをこえるのは、それほどにむずかしいことなのだろうか。それとも、国際金融資本の足かせが、それほどに重かったのであろか。問いかけたいことが、まさに山ほどある。
 ユダヤ人のなかにも、アラブ人との連帯を真剣にもとめる人々がたくさんいる。その事実こそが、これからの世界を考えるうえでの唯一の救いであろう。まだまだ、やりなおしがきく人類社会であることを願いたい。心あるユダヤ人の有志の努力に期待しつつ、その努力に呼応することを、一日本人としてのみずからにも誓う。

 (70) あとがき


『アウシュヴィッツの争点』ユダヤ民族3000年の悲劇の歴史を真に解決させるために
(70) あとがき

『週ポ』Bashing反撃)

  この問題についてわたしが書いた文章がはじめて活字になったのは、一九九四年八月一〇日発売の『噂の真相』(94・9)誌上である。ときまさに日本の「終戦記念日」の直前、それも四九回目で、翌年の五〇回目、つまりは戦後半世紀目を意識するさまざまな市民運動やジャーナリズムの関心がもりあがってきた時期だった。そのためでもあろうか、賛否両論、さまざまな反響があった。
 だが、それからが大変だった。なにしろ日本には、この問題で予備知識のある人はほとんどいない。日本語の資料はほとんどないにひとしい。これまでに日本語でまとまった記事は『ニューズウィーク』日本語版(89・6・14)の二ページの無署名記事、「ホロコーストに新解釈/『ユダヤ人は自然死だった』で揺れる歴史学界」だけである。NHKの3チャンネル「海外ドキュメンタリー」(93・6・4)で放映した『ユダヤ人虐殺を否定する人々』は、デンマーク・ラジオ制作の原版に日本語をくわえて編集したものである。わたしは西岡から教えられて収録ビデオを入手したので、細部までの確認ができた。どちらも一部を紙上再録し、検討の材料とした。いうまでもなく、この両者ともいわば翻訳物で、日本人の研究者やジャーナリストの独自の仕事ではない。
 日本の戦後五〇年検証は、当然、日・独・伊の三国同盟関係の総合的な検証をもはらむ。ドイツにおける戦後五〇年検証の一環としてかかすことのできない「ユダヤ人問題」、そしてその核心的事件である「ホロコースト」の評価、それがいま、ゆれにゆれているとしたら、日本の戦後五〇年検証へのはねかえりもおおいにありうるだろう。これまでの半世紀にわたって、かぞえきれないほどの文芸作品のなかで、戦争のむごさをもっとも象徴的に表わすものしてあつかわれてきた「ホロコースト」が、実は「なかったのだ」と主張するわけだから、その影響はおおきいし、執筆し、発表する側の責任もおもい。
「ペンは剣より強し」という格言のラテン語の原形は、実は、「ペンは剣よりもむごい」だったのだそうである。本来は、まったく反対の意味で、言論の権力荷担を批判する警句だったのだ。
 言論なり報道にかかわる個人には、大変に「むごい」罪をおかす可能性がある。ペンをふるうものの個人責任は、場合によっては、殺人専用につくられた剣をふりまわす軍人の罪よりもさらにおもいのである。かるがるしくペンをふりまわすべきではない。個人責任は明確にすべきである。逃げ隠れはゆるされない。名誉をかけた正々堂々の真剣勝負の覚悟をせざるをえない。講談ならば、「やあ、やあ、遠からんものは音にも聞け、近くばよって目にも見よ」である。
 そこでわたしは、自分の覚悟を自分自身にたいしてもあきらかにするために、それまでの流儀どおり、自称「個人メディア」の『フリージャーナル』(B4裏表、一刷一〇〇〇部以上発行)の第24号(94・7・23)を発行した。題字のわきに、「戦後50年検証の視点をどこに定めるか。真相追及第一弾」としるし、『噂の真相』の予定記事を抜粋紹介した。横大見出しは「ホロコーストは『なかった?』で揺れる欧米歴史学界」である。こちらは手わたしで配るミニコミだから、すぐに直接の反応があった。代表的なのは、「重大な問題だから慎重にあつかうべきではないか」といったたぐいの忠告であった。しかし、「慎重」とか「裏をとって」とかの個人的努力には限度がある。問題はむしろ、議論が表面化しておらず、真に実証的な研究者がすくないことにこそある。本文でもくわしく紹介したように、すでに常識を訂正すべき点が多々ある。そのほかの問題点についても見直し論者の主張がまちがいならまちがいで、それが検証され、真相がよりあきらかになればいいのだ。根拠のある疑問を提出することをためらうべきではないし、ましてや、疑問の提出をさまたげるような圧力はゆるされるべきではない。
 しかも、わたしが「ホロコースト」の見直しの必要性を強く感じ、拙速の発表をえらぶ決意をした裏には、つぎのような特殊な事情があった。
 第一には、「ホロコースト否定論者」の個々人の事情であるが、日本でみずから「ドイツ現代史研究者」をなのる人物の文章などを見ると、ひとまとめにして、いわゆるネオナチの仲間としてしか認識していない。ところがこれが、まったくといってもいいほどの逆の事情だったのである。このような情報のながれの逆転、もしくは歪曲の裏には、意識的な報道操作の手がくわえられている可能性がたかい。
 第二には、いわゆる「ユダヤ人過激派」による暴力的な襲撃である。一九九四年二月二五日にも、イスラエル占領地ヘブロンのモスクで礼拝中のパレスチナ人イスラム教徒をユダヤ人過激派が自動小銃で撃ちまくるという、無残きわまりない大量虐殺がおこなわれた。ユダヤ人過激派、またはユダヤ教の狂信者は旧約聖書を根拠にして、パレスチナ地方とその周辺を神が自分たちにあたえた土地であると主張している。おなじような狂信者の集団がアメリカで「ホロコースト否定論者」または「ホロコースト見直し論」の学者たちをおそい、研究所を焼き打ちするという、ヒトラーまがいの焚書をやらかしているのだ。
 本文中でもしるしたが、一九七八年には、「ホロコースト」物語の矛盾をあらゆる角度から指摘したパンフレット、『六〇〇万人は本当に死んだか』のフランス語版を普及していたフランスの歴史家、フランソワ・デュプラが暗殺され、アウシュヴィッツ収容所関係者の組織、「記念コマンド」と「ユダヤ人革命グループ」が犯行声明を発表している。
 こういう情報の歪曲や暴力的な言論封殺は、絶対にゆるされるべきではない。また、ほとんどの場合、この種の歪曲や言論封殺をおこなう側には、真実がかけているのではないだろうか。
 本書のもう一つのテーマは、この複雑な問題の真相を解明すると同時に、その作業をとおして、これまで事実をゆがめてつたえてきたマスメディアを、具体的に批判するこにあった。だから、その目的にむけて、できるかぎりおおくの日本国内のメディアが報道した断片的材料をひろいあげた。それらの比較検討によって、真相と同時に、メディアによる歪曲の手口をもあきらかにしようと努力した。
 フォーリソンは、国際電話でわたしが不用意に「否定」という言葉をつかった際、即座に、「見直し」のほうが良い、言葉は重要だと注意してくれた。その意味では「見直し」の材料の存在を世間に知らせることが大事だろう。むしろこの際、ひろく共同研究をよびかけることに、よりおおきな意義を見いだす心境である。そのために、できるだけおおくの資料探索の手がかりをのこすように心がけた。
 一年未満の拙速の仕事なので、誤解や見落としもおおいと思うが、遠慮なく指摘していただければさいわいである。

 一九九五年五月二四日 木村愛二 以上で(その70)終わりで全編の終わり。





(私論.私見)