序章

 (最新見直し2012.04.14日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「序章」を転載しておく。

 2012.04.13日 れんだいこ拝



電網木村書店 Web無料公開

『アウシュヴィッツの争点』
ユダヤ民族3000年の悲劇の歴史を真に解決させるために
(5)
序章「疑惑の旅立ち」1.
……または「未確認情報」による「戦時宣伝」物語のあらすじ

収容所で大流行したチフス患者の死体を使う錯覚報道

 一九九四年の一二月七日から一○日までの四日間、わたしはポーランドのオシフィエンツムにあるアウシュヴィッツ・メインキヤンプ(以下、「アウシュヴィッツI」)、アウシュヴィッツ第二収容所のビルケナウ(以下、たんに「ビルケナウ」)、ルブリンにあるマイダネクの三ヵ所の元ナチス収容所跡を見学し、インタヴュー、ビデオと写真のカメラ撮影、資料収集と、わたしの体力で可能なかざりの多角取材をしてきた。

 いわずもがなのことだが、いわゆる『夜と霧』の物語の舞台、「ユダヤ人虐殺の聖地」とされている場所である。現地には偶然の一致だが、わたしとまったく日程をおなじくして、「インターフェイス・ピルグリメイジ」(宗派を超えた巡札の旅)の一行があつまっていた。彼らは、一二月一○日にアウシュヴィッツ、正確にはアウシュヴィッツ=ビルケナウ複合収容所のビルケナウ側にある記念碑前広場から出発し、翌年の一九九五年八月に日本の広島にいたるまでの要所をあるく国際平和行進をおこなう予定であった。もちろん、日本人の参加者もおおい。わたし自身もかなり前に、この平和行進に参加しないかとさそわれていた。現地でも長年の友人や顔見知リの市民運動の仲間にあえた。

 世界平和の実現をねがう点にかんしては、かれらとわたしの気持にかわりはない。だが、わたしが現地をおとずれた具体的な目的ということになると、見方によっては、さかさまに埋解されかねない点があった。かれらは、アウシュヴィッツを「虐殺の聖地」だと信じておとずれ、その実感を深めて出発するにちがいない。ところがわたしは、この「虐殺の聖地」という位置づけが基本的にはまちがいであり、世紀の情報操作だったのではないかという主張を検証するために、現場をふみにきたのであった。だからわたしは現地では、ごく少数の親しい友人にしか、わたしの取材目的をうちあけることができなかった。問題は、あまりにも複雑すぎるのだ。

「アウシュヴィッツにガス室はなかった」とか、「ホロコーストは嘘だった」とか、「六○○万人のユダヤ人ジェノサイド説は情報操作だった」という説があるなどというと、ほとんどの日本人は「エッ」と虚をつかれたような表情になる。とくに、平和主義者のおどろきかたは激しいし、なかには不快悪を露骨にしめしたり、「南京大虐殺はなかったというのと同じではないか」とばかりに真顔で反発しておこりだす人もいる。

 わたしにも似たような経験があるから、その気持ちはよくわかる。だれしも、この種の長年にわたって身につけてきた信条をまっこうから否定される場合には、みずからのアイデンティティを傷つけられたような気持ちにかられ、冷静さをたもてなくなるものなのだ。だが、まずは気をしずめて、本書をゆっくり読んでから考えなおしてはしい。

 すでにこの問題を「二○世紀最大の情報操作」と名づけた人もいる。湾岸戦争の情報操作の象徴が「油まみれの水烏」の映像だったとすれば、「ホロコースト」の情報操作、誤報、錯覚の象徴は「おびただしい死体の山」の映像であろう。

 アノリカ政府と軍当局は「油まみれの水鳥」を、イラクの「原油放出作戦」または「環境テロ」の犠牲者だと発表した。世界中の大多数の人々はいまだに、このアメりカのデマ宣伝を信じている。しかし、あの水鳥を油まみれにした原油は、アメリカ軍が湾岸戦争の開戦当日に爆撃して、完全に破壊しつくしたゲッティ石油の八つの貯蔵タンクから、海にあふれでたものだった(拙著『湾岸報道に偽りあり』に詳述)。

「ホロコースト」が情報操作だったとすれば、その基本はまったくおなじ構造なのである。映像のトリック、または誤解にもとづく誤報、つくりだされた錯覚なのである。「ホロコースト」の犠牲者として、ほとんどつねに無言でしめされる映像の「おびただしい死体」の死因のほとんどは、ナチス・ドイツの崩壌直前に収容所で大流行した「発疹チフス」だった。しかも、発見された当初に、連合軍当局は専門家の調査報告をうけており、大量虐殺の死体でないことがわかっていたのである。

虚報の訂正はなぜ公式に大々的になされないのか

 死体からつくったセッケンも、ランプシェードも、すべて虚報だった。セッケンについては、イスラエルの国立のヤド・ヴァシェム博物館、通称「ホロコースト博物館」ですらが、否定の発表をしている。わたしの手元には、その発表をつたえるエルサレム発のロイター電を掲載した『ザ・グローブ・アンド・メイル』(90・4・25)のコピーがある。ランプシェードが羊の皮製だったことは、すでに当時の調査であきらかになっていた。

 ニュルンベルグ裁判では、アウシュヴィッツの実地検証がまったくおこなわれていなかった。ユダヤ人大虐殺の最大の証拠として採用された元アウシュヴィッツ司令官、ホェス(ヘス)の「告白」が、「鞭」による「拷問」と「酒」づけの尋問の結果だということは、関係者には最初からわかっていた。ホェスは一九四七年にアウシュヴィッツで絞首刑に処せられたが、その尋間の経過を、死の直前に書きのこした回想録のなかにしるしていた。しかし、これらの当時から明白だった事実は、アメリカ系大手メディアの圧倒的な報道力によって、世間の表面からかき消されてしまった。この世紀の情報操作を可能にした情報伝達の基本的条件は、湾岸戦争の場合とまったくおなしだったという疑いがあるのだ。

「ホロコースト」の情報操作の場合にはとくに、「死体の山」「毒ガス」「死者への冒涜」などという、それぞれに考えただけでもおぞましい映像とオドロオドロの概念が、思考の停止と錯誤をもたらし、情報操作の目的、動機、そして、その結果としての現状の混乱の底辺の構造までをも見ぬきにくいものにしてきた可能牲がたかい。

 現状の混乱の底辺の第一は、半世紀も戦乱がつづき、いまなお混乱を深めるパレスチナである。第二は、半世紀をへた東西の統一後にネオナチの台頭になやむドイツである。

 ドイツでは一九九四年九月二三日、「アウシュヴィッツ虐殺否定発言」を最高五年の禁固刑で罰する刑法改正が成立した。わたしは、「発言」そのものへの処罰の異常さを原則的に問いなおし、緊急に真の解決策をさぐる必要があると考えている。さもないと、ネオナチの爆発がふたたび世界全体をあらたな危機においこむ可能性さえある。

「ホロコースト」物語がもし、見直し論者の主張どおりの虚報か誤認だったなら、これは、既成概念、固定観念、先入観、先入主、思いこみ、などなどの思考停止状況のおそろしさの典型である。なんとも皮肉なことに、ヒトラー総統やゲッペルス宣伝相の主張どおりに、「おもいっきりおおきな嘘」であり、「何度もくりかえされる嘘」であったがゆえに、「ホロコースト」物語は現在もおおくの人々に信しられつづけてきたことになるのである。「おおくの人を長期間にわたってだましとおすことはできない」という警句もあるが、この場合の「長期間」は半世紀におよんでいることになる。

ニユルンベルグ裁判の当時からだされつづけていた疑問の数々

 しかし、日本ではこれまでほとんど知られていなかったのだが、「ガス室」による大量虐殺を疑う趣旨の主張が欧米で発表され、論争になりはじめたのは意外にもかなり早くからのことだった。第二次世界大戦直後に、ニュルンベルグ裁判が開かれたころから論争がつづいていた。真相をあきらかにする努力を先輩からひきついできた歴史学者の一人、アメリカ人のマーク・ウィーバーは、リーフレット『ホロコースト/双方の言い分を間こう』のなかで、その研究の今日的意義をつぎのように主張している。

「過去の憎しみや感情の人為的な維持は、真の和解と永続的な平和をさまたげる」

 ウィーバーは、「歴史見直し研究所」(のちにくわしく紹介)の機関誌『歴史見直しジャーナル』の編集長でもある。

 わたしは一九九四年の二月に、ロサンゼルスの南に約一○○坪の書籍倉庫兼事務所をかまえる同研究所をおとずれた。そこで二日間、ウィーバーに質問し、意見を交換し、インタヴューのビデオ撮影をし、リュックサッグ(デイパックではなくて本格登山用)一杯の三○数冊、厚さで約1メートル分の資科を割引きで購入してきた。ことの次第は、のちに本文でくわしくのべるが、わたしなりに「歴史見直し研究所」の活動の趣旨を要約しておくと、「アメリカ中心主義の歴史観には危険があるので是正する」ということだ。「アメリカ中心主義の歴史観」を、日本の場合の「皇国史観」とおきかえて考えれば、その意味がわかりやすくなるだろう。当然、かれらの研究内容は、「ホロコースト」問題だけにかぎらない。「マルコ報道」では、研究内容の吟味なしに研究所の性格にレッテルはりをする例がみられたが、ここではとりあえず「文は人なり」という格言を提出しておく。実物を批判的に読んでみてから、個々の研究を具体的に評価すべきであろう。

 わたしのかぎられた能力で可能なことは、この「歴史見直し研究所」ほかの国際的な研究成果を紹介しつつ、資料探索のための手がかりを一般にひろめることであろう。さいわいなことに立場上、学者風の権威をふりまわす必要はないので、わからないことは素直に認め、疑問点をもしめしつつ、中間報告としての役割をはたしたい。

 本書が予測されるような物議をかもしだすさいに、わたしの気持ちのささえになるのは、ほかならぬユダヤ人の作家、思想家で、本書でも紹介する『ユダヤ人とは誰か/第十一二支族・カザール王国の謎』の著者、故アーサー・ケストラーが、コミンテルン体制への訣別にあたっての演説の最後に引用した言葉である。

「有害なる真実は、有益なる嘘にまさる」というその言葉を、ケストラーは、トーマス・マンがもちいた言葉だとことわっている。ところが、『ドイツを追われた人びと/反ナチス亡命者の系譜』という本によると、トーマス・マン自身は、ある亡命文学雑誌の創刊趣意宣言文で、ゲーテの「私は有用な誤謬よりも、有害な真埋を選ぶ」という言葉を引用していたのだそうである。

 つまり、もしかすると、さきの発言禁止法を制定したドイツは、民族のほこりとしてきたケーテの言葉にそむいているのではないだろうか、というのがこの問題の理解についてのわたしからの問いかえしとなるわけである。もちろんゲーテは「有害な真理」の「有害」さを、たとえば近世の初頭において「地動説」がひきおこしたような、一時的な体制の混乱をまねく性質のものとして理解していたにちがいない。その意味では「有害」は一種の反語である。

(6) 序章「疑惑の旅立ち」2.

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『アウシュヴィッツの争点』
ユダヤ民族3000年の悲劇の歴史を真に解決させるために
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序章「疑惑の旅立ち」2.
……または「未確認情報」による「戦時宣伝」物語のあらすじ

拙著『湾岸報道に偽りあり』の読者から資料提供の電話

 わたしが本書の執筆を決意するにいたった最初のきっかけは、すでに「はしがき」にしるしたように、一九九四年の春頃、西岡昌紀医師からかかってきた電話である。それまで西岡とはまったく面識がなかった。西岡は電話口で自己紹介したのち、拙著の『湾岸報道に偽りあり』を読んだが、「ホロコーストはなかった」という説の存在を知っているかと質問してきた。

「ホロコースト」は本来、獣を丸焼きにし、神前にささげるユダヤ教の儀式のよび名で、それがのちに「大虐殺」の意味に転用されたもの[注]である。最近ではさらに、頭文字のHを大文字で書いて固有名詞化し、「ナチス・ドイツによるユダヤ人の民族的抹殺のための計画的大虐殺」の意味に特定して国際的に通用させようとする傾向が強まっている。こうした動きにたいしては、ユダヤ人だけに特別あつかいを要求するものだとして、反発するむきもおおいようだ。

[このWeb公開への注]:これは普通の英和辞典の説明だが、その後、百科事典並の英語の大辞書、『オックスフォード英語辞典』(OED)で確認したところ、ギリシャ語源、ラテン語から英語とあったので、その旨を拙訳『偽イスラエル政治神話』の訳注に記した。

 誤解をさけるために最初にことわっておくが、わたしが紹介する「ホロコースト」の見直しの主張は、あくまでも「ユダヤ人の民族的抹殺のための計画的大虐殺」、具体的にはとくに「ガス室という殺人工場による虐穀」の存在を疑うものであって、それ以外の差別、虐待、虐殺までを否定するものではない。ナチス・ドイツのゲルマン民族最優秀説の狂気も、ユダヤ人迫害政策もあきらかな歴史的事実である。だが、「ホロコースト」物語は、その狂気への上乗せであって、その裏には別の狂気の計算がひそんでいたのではないかという疑いがかけられているのだ。

 わたしはそれまで、「ホロコースト」物語を見直せという説の存在を直接的には知らなかったが、いささか予備知識があったので、「それは十分にありうる話だ」という趣旨の返事をした。すると西岡は、手元に英文の資料がたくさんあるから、それを読んで記事にしてくれという。わたしはその申し出に感謝したが、西岡にたいしては、西岡自身が発表することと同時に、説明書をそえて、わたしだけでなく関心のありそうな人々に配ることをすすめた。ものかき個人の立場からすれば情報を独占した方が右利なのだが、わたしがあえて西岡にそうすすめた埋由には、それまでの経験からくるいくつかの考えかたがあった。

 第一に、わたしは当時、前著『電波メディアの神話』の執筆に没頭していて、余力がなかった。「ホロコースト」の問題も、将来、その延長線上でメディア論の立場から取りあげようと考えた。発表する余力のない情報を独占することには罪悪感があった。

 第二に、湾岸戦争のさいの経験から、ジャーナリスト個人が情報を独占してみても、巨大な組織を相手にする長期のたたかいには、とうてい勝てないと実感していた。

 第三に、以上のことから、情報をできるだけ公開して共有し、市民個々人が積極的に情報の発信者になるべきだという考えかたを、前著の『電波メディアの神話』にまとめていたところだった。

 もちろん、問題の大きさからくるためらいもあった。

「ホロコースト」物語に疑いをさしはさんで、見直せなどと主張するのは、一見、およそ世間常識に反した行為として受けとられるだろう。ユダヤ人問題やナチス・ドイツの歴史に関心の深い人々から見れば、なおさらのことであろう。ドイツ史の専門家でもないわたしごときが不用意にこんなことをいいだすのだから、即座に「反ユダヤ思想か」と疑われたり、「ネオナチかぶれか」という冷笑的な反応がかえってきそうである。それほどまでに「ホロコースト」は、厳然たる歴史的事実として確定されているかのように見えていた。

 だが、西岡からは、つぎつぎと資料と説明文がおくられてきた。資料のほとんどは英文の本や論文、雑誌記事のコピーである。ファイルは大小一○冊、全部をかさねると約五○センチの厚みに達した。説明文は非常にわかりやすく、説得力がある。わたしのおどろきは次第にたかまってきた。何におどろいたかというと、「ホロコースト」を否定する証拠と、その立証に努力した過去の労作が「あまりにもおおすぎる」からである。つまり、ミニコミ情報が大手メディアの情報洪水におしながされるという現代的状況の、あまりにも典型的な事例なのではないかと痛感しだしたからである。

 しかも、資料ファイルの厚みがますのと並行して、いくつかの「ホロコースト」の肯定を強いたり、または否定論を法で禁止するような動きが連発した。そうなると、さらに、逆の疑問がたかまってきた。

日本の大手メディアでは歴史の残酷な真相がわからない

 欧米での論争の歴史にも、それなりの曲折があるようだ。しかも決して、日本の大手メディアが最近になって報道しているような、「ネオナチ」による戦争犯罪否定の言動などではない。むしろ逆ですらある。背後には、戦後半世紀をつらぬくパレスチナ紛争という、巨大な国際政治の黒い影と、たえざる流血の惨事の数々がある。この国際的背景こそが、「ホロコースト」と「南京大虐殺」との決定的な相違点である。

 パレスチナ問題に関心の深い人々のなかには、「ホロコーストを経験したユダヤ人がなぜアラブ人を虐殺するのか」という強い疑問がある。だが、歴史の真相は残酷なのではないだろうか。「ホロコースト」物語が、実は、それよりも数十年先行していたシオニスト、またはロスチャイルド財閥のイスラエル建国計画の実現に向けての、情報操作の一環として宣伝されはじめたのだとしたら、つまり、「ホロコースト」の情報操作と、イスラエル建国またはパレスチナのアラブ人からの土地強奪とが最初から、まさに表裏一体の関係で展開されていたのだとしたら、ユダヤ人というよりも、シオニストまたはイスラエル建国支持派によるアラブ人虐殺は、むしろ必然的な帰結になるのである。

 いわゆる「ユダヤ人」の歴史的な定義は複雑だが、ユダヤ教では「母親がユダヤ人か、ユダヤ教に改宗したもの」とさだめている。とりあえず「ユダヤ人」としるすが、わたしは、ユダヤ人を政治的におおきく二種類にわけて考えている。イスラエル建国を推進したシオニストやロスチャイルド家などの財閥一族のユダヤ人と、それに反対する反シオニストまたは民衆派のユダヤ人である。もちろん、一般の民衆のほとんどは中間派であり、当面の生活をまもるために力関係が有利こ見える指導者にしたがう。その点では、ほかの民族、人種、国民の場合となんらかわりはない。わたし自身は、日本国内におけると同様な意味で、反シオニストまたは民衆派のユダヤ人の立場に味方するのであって、日本における支配層への批判が「反日」でないのと同様に、「反ユダヤ」主義などよばれるいわれはいささかもない。

 日本人一般、またはとくに平和主義者の日本人一般には、ナチス・ドイツに虐待されたユダヤ人という一般的なイメージが強烈にうえつけられている。ユダヤ人という概念がひとかたまりになっていて、シオニストのユダヤ人と反シオニストのユダヤ人との決定的な相違が理解しにくいようである。この両者の相違は、日本での軍国主義者と平和主義者との相違よりも質的におおきい。「相違」というよりも、むしろ「相剋」というべきであり、その「相剋」は現在もなお、国際的なパレスチナ紛争としてつづいているのだ。

 もちろん、以上のような日本人一般の認識の形成には、日本の大手メディアの欠陥報道が決定的な役割をはたしている。たとえば湾岸戦争後には、国連総会でシオニズムを人種主義として非難していた決議が多数決で撤回され、目本国内でも報道された。そのこと自体は事実なのだが、この報道の仕方にも重大な欠陥があった。アラブ諸国が一斉に退場し、棄権したという、もっとも重要な事実がまるで報道されていなかったのだ。アラブ諸国、とりわけパレスチナ人こそが、シオニズムの最大の犠牲者である。かれらがシオニズムを容認するなどということはありえない。湾岸戦争後の国際情勢は、アラブ諸国にとって不利だったから、棄権という消極的な意志表示を余儀なくされたにすぎないのである。

(7) 序章「疑惑の旅立ち」3.

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『アウシュヴィッツの争点』
ユダヤ民族3000年の悲劇の歴史を真に解決させるために
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序章「疑惑の旅立ち」3.
……または「未確認情報」による「戦時宣伝」物語のあらすじ

「ホロコースト記念館」の民族教育は根底からくつがえる?

 興味深いことに、『シンドラーのリスト』紹介記事(『ニューズウィーク』日本語版94・2・16)の末尾にも、「なかなか消えないホロコースト否定説」という見出しのかこみ記事がそえられていた。まさに意外な副産物といいたいところなのだが、このかこみ記事の趣旨は「ホロコースト」肯定の立場(以下、国際的慣習にしたがって「絶滅説」とする)であり、つぎのような否走的ニュアンスの表現で見直し論の主張を紹介している。

「ユダヤ人の死は自然死だった。ガス室はシラミ退治のための施設だった。果てはヒトラーのユダヤ人抹殺計画を、国際世論を味方につけようとするシオニストの作っ話だとする説まで飛び出した」

 だが、そこには同時に、「ホロコースト」見直し論者の主張が一応はおりこまれている。さらには、「世論調査によれば、今もアメリカ人の二五%近くがホロコースト(ユダヤ人大虐殺)は虚構である可能性があると考えている」というデータや、「今でも反ユダヤ主義者などが、欧米をはじめ世界中で活発にホロコースト否定説を展開している」という記述などには、執筆者の意図を裏切りかねない要素がふくまれている。

 もしもこの「ホロコースト」を見直せという主張のほうが正しいのならば、『シンドラーのリスト』のテーマそのものまでが、まっさかさまにひっくりかえる可能牲がある。「ホロコースト」の真偽は、とくに現在のイスラエルにとっては、近世のキリスト教世界における「天動説」から「地動説」ヘのコペルニグス的転換のような決定的大問題である。

 だが、科学が発達した現代といえども、もしくは逆にいうと、科学の技術的側面のみに偏重し、最新技術を駆便するマスメディアが極度に商業的に発達した現代ゆえにこそ、むしろ、情報操作のメカニズムもその極に違し、誤報の発生度もたかまっている。

 ここでは一例だけ、「ホロコースト」の聖地、アウシュヴィッツにちなんで、おなじポーランドにかかわる同時代の歴史的事件を思いだしてほしい。現在のベラルーシとの国境に近いロシア領、スモレンスグ郊外の「カチンの森」で、「数千人のポーランド軍将校」(『ポーランド現代史』)が虐殺ざれ、埋められていた事件の場合、戦後にソ連軍当局がドイツ軍将校の「自白」調書を作成した。「証言」もなされた。それがそのままニュルンベルグ裁判で認定され、以後四十余年、公式的にはナチス・ドイツの犯行だとされてきた。だが、ベルリンの壁の崩壊後、ソ連のトップがみずから事件を自軍の犯行だったとみとめたのである。

「ホロコースト」には「記念館」もある。イスラエルはもとより、現在、さまざまな反発をよそにしてアメリカ全土につざつぎと建設中とつたえられる「ホロコースト記念館」には、かならず、大虐殺の現場として「復元」された「ガス室」がある。わたしは、湾岸戦争の時期のテレビ・ドキュメンタリーで、エルサレムの「ホロコースト記念館」の映像を見た。密閉されたコンクリート造りの部屋に、青白い照明がなげかけられ、シュー、シューと低くささやく不気味な効果音がながれていた。ユダヤ人、またはユダヤ教徒の子どもたちは、幼児のころから「ホロコースト記念館」で、こうした民族の歴史の「実物教育」をうけて育つのだ。

 南アフリカのオランダ系入植者は、新参のイギリス系入植者におしだされて北進したさいの「トレッキング」で、現地のアフリカ人からのはげしい抵抗をうけた。そのときの幌馬車隊の死にものぐるいの戦いの浮き彫りをならべた「記念館」による民族教有が、つい最近までつづいたアパルトヘイトの精神的土台となっていた。

 日本でも、日露戦争後の「三国干渉」を「民族的屈辱」として子ども心にうえつける教育がおこなわれ、それが「東洋平和のためならば」という勝手気ままな侵略の精神的土台となった。日露戦争のさいの旅順港閉鎖作戦の死者は「軍神」にまつつあげられ、上海事変のさいには、鉄条網爆破用のパイプがみじかすぎたという上官の失策で死んだ工兵隊員が「肉弾三勇士」とよばれた。死者の名による「聖戦」の続行という「心理作戦」は、死をおそれ、死を厳粛に受けとめざるをえない人間のよわみにつけこむものだ。考えようによっては極悪の政治犯罪である。

「ホロコースト記念館」の民族教育は、「ガス室」の恐怖を幼な心にうえつけることによって、ユダヤ人の持殊な歴史的立場を教えこみ、結果として、現地のパレスチナ人から土地をうばうことになんらの心の痛みをも感じない「国民」をつくりだしてしまう。こういう教育は、はたして正しいことなのだろうか。

 そういう教青をつづけてきたシオニスト、またはイスラエルの国家指導者たちを、わたしは、いささかも信用する気にはなれない。その気持ちは、戦前の「神国日本」教育にたいする気持ちとおなじである。そういう相手にたいしてはまず、すべてを疑ってかかることが必要だ。もともと科学的精神の基本は「すべてを疑え!」なのである。

(8) 第1部:解放50年式典が分裂した背景





(私論.私見)