電網木村書店 Web無料公開
『アウシュヴィッツの争点』
ユダヤ民族3000年の悲劇の歴史を真に解決させるために
(55)
第3部 隠れていた核心的争点
第6章:減少する一方の「ガス室」 7/7
|
(『週ポ』Bashing反撃)
「非常にむずかしい問題」を連発するクラクフの誠実な法医学者
クラクフの研究所を探すのは、英語の研究所名と地図だけがたよりにしては、そんなに困難な作業ではなかった。ところが、研究所にたどりついて下手な英語のジョークをとばしたのだが、本当に「百年に一度のハップニング」によって三時間の市内放浪を余儀なくされてしまった。というのは、まず最初に英語が通じない市の警察本部で聞き、大体の位置がわかって探しはじめ、途中で見かけたアメリカの領事館にとびこんで親切に教えてもらえたのに、なんと、「角の茶色の古いビル」だったはずの建物が「改装中」でピカピカのオレンジ色にあたらしく塗りかえられ、看板がはずされていたからだ。 おまけに、会見の予約もしていないのだから仕方ないのだが、問題の調査の担当者は仕事の都合で会えないという結果だった。しかし、わざわざ足をはこんだ効果はあった。英語が話せるという理由だけで応対してくれた研究員が、担当者の氏名と電話番号を教えてくれたし、わたしが名刺を託して「帰国してから国際電話をかける」というと、かならずそう担当者につたえると約束してくれた。 教えてもらった担当者は、ヴォイチョフ・グバウワ博士とイアン・マルキェヴィッチ教授だった。 実際に帰国してから国際電話をかけてみると、どちらもほかの勤務場所と兼任のパート・タイムで、なかなかつかまらない。四度目にやっとグバウワ博士と話せた国際電話の結果は、ピペルとの質疑応答の場合と基本的におなじようなものだった。要するに、「研究所の名で医学専門雑誌に発表するのが妥当だと判断した」という趣旨の、日本の役人の国会答弁と似たような逃げの返事しかえられなかったのである。だが、わたしはおどろきはしなかった。予想通りの対応だったからだ。 グバウワの応対ぶりは、しかし、誠実であった。かれは何度も、「われわれにとって非常にむずかしい問題」だといった。「医学専門雑誌に発表」した理由は、調査の費用が「ある科学者の組織」からでているからという説明であった。わたしは、「みなさんの立場はわかっている」とつげたうえで、一応、ふみこんだ質問を発した。ロイヒター報告とおなじデータがでているのなら、おなじ結論、つまり「ガス室」とされてきた建物または部屋では、「ガス殺人」(ガッシング)は実行されていないという結論に到達するのではないか、という趣旨の質問である。これにたいしては、前述のピペルの解釈とはちがう答えがかえってきた。「残留の反応がでた箇所とでない箇所があるのは、現場が深い水につかったりする場所[昔は沼地]だからかもしれない。長年大量の雨にも打たれている。結論をだすのはむずかしい」という趣旨である。 意外なことにかれは、わたしの名刺で住所がわかるから資料を送るという。そのうえに、「研究所に招待して説明したい」という申し出もしてくれたのだ。もしかすると、「日本人」の反応が研究所としても気になりだしたのかもしれない。わたしは、その申し出に感謝したうえで、こちらのほうで仲間と連れだってふたたびアウシュヴィッツにいく計画をしているから、それが決まったら連絡するとつたえて、この電話取材を終えた。 翌一九九四年の一月五日に航空便がとどいた。クラクフの研究所の専用封筒のなかには、英訳の論文の抜き刷りと、裏にごく簡単なあいさつをしるしたグバウワ博士の名刺がはいっていた。 掲載誌は『法律学の問題』(94年36号)で、論文の題名は「アウシュヴィッツとビルケナウの元集中キャンプのガス室の壁にふくまれるシアン化合物の研究」である。内容は専門誌むけの文章だから、前出の『歴史見直しジャーナル』(91夏)よりもくわしく、一般むけの『ロイヒター報告』にくらべると格段にむずかしい。雑誌の発行日付けは記載されていないが、この論文の受理の日付が一九九四年五月三〇日になっている。クラクフのチームの調査がおこなわれたのは一九九一年だから、三年後の詳細報告ということになる。全体の構成からいうと、ロイヒター(一九八八年)と前述のルドルフ(一九九三年)の二つの調査報告を強く意識した論述になっている。チームの調査にくわわった博物館側のスタッフは、ピペルともう一人の技術者だけだった。ピペルがわたしに語った「人を殺す場合は短時間」という論拠は、この論文にもしるされていた。とくにくわしい鑑定内容は、『ロイヒター報告』にはないもので、シアン化合物の残留にあたえる「水の影響」である。それによると、「かなりの量のシアン化合物が水にとけこむ」ということである。完全になくなるわけではないらしい。また、「犠牲者がガスを吸わされた火葬場」と分類されている調査箇所のなかに、かなりの残留をしめす部分がある。これを論拠にロイヒターとルドルフの調査結果への同意を留保しようとしているようであるが、正確な位置関係はしめされていない。これには消毒室がふくまれているのではないだろうか。収容所の復元図や実際に見た状況からいうと、消毒室、シャワールーム、サウナ、死体安置室、火葬場などは近接して設置されている。 もうひとつのあたらしく提出された問題点は、見直し論者の一部が従来、シアン化合物と同一視してきた「壁の青いシミ」に関しての異論である。同論文によると、「青いシミ」はすべての消毒室に出現しているわけではない。もしかすると、一部の消毒室の壁のコーティングとしてつかわれた塗料の色素なのではないか、というのである。 これ以上のことは専門家の研究に待つしかないので、わたしはただちに同論文をコーピーして内外の研究者に送った。その後、アメリカのウィーバーから礼状がとどき、わたしが送ったコピーによってフォーリソンほかの「ホロコースト」見直し論者が、はじめて同論文の存在を知ったことがわかった。巻末資料に収録した「化学士」ゲルマル・ルドルフの論文「ロイヒターに対抗する鑑定/科学的詐欺か?」は、同論文の分析である。クラクフの半日のさすらいの旅が、いささかなりとも国際共同研究の促進に役立ったとすれば、苦労の甲斐があったというものだ。 ビルケナウの火葬場については、すでに論文の存在を紹介したが、建造時の設計図はのこっている。ただし、一部の部屋の用途について、見直し論者の「死体安置室」説と絶滅論者の「ガス室」説との基本的な対立があり、さらに絶滅論者のなかに「ガス室」への改造説があるといった状況のようである。米軍が撮影した航空写真までを材料にして、議論がつづいているというから、勝手な憶測をのべるべきではないだろう。 この法医学的調査研究にかんする問題の政治的構造は、さきに論じた「東方移送」による「ホロコースト」神話維持の場合と、非常に良く似ている。『ロイヒター報告』がでたから、それには別の窓口で応じる。データは専門雑誌にのせる。この発表がさきの例の「新聞投書」とおなじ位置づけである。しかし、公式の結論はださず、一般むけの発表はしない。世間一般には、大手メディアが報道しないから、知られることはないという、まさに典型的な二〇世紀的コミュニケーションの構造なのである。 さて、この第三部では、わたしが「核心的争点」だと考える「チクロンB」と「ガス室」をめぐる諸問題を、「再審」にむけての「新証拠」提出という想定で洗いなおしてみた。複雑な事実経過と現状をも紹介しながらの作業なので、わかりやすくできたかどうかについては、読者の批判を待つしかない。 大筋を中間的に整理してみよう。 まず、「チクロンB」は「大量殺人」に十分なだけのシアン化水素(気化状態は「青酸ガス」)を発生する。しかし、毒ガス一般とおなじく、その使用には危険がともなう。安全性と同時に経済効率も重要な問題だから、当時すでに「消毒」のために、密閉した無人の部屋の内部で缶のふたを開け、チップを金網に移し、温風を循環させて時間短縮と濃度の均等化をはかり、最後には、沸騰点以上の温風を吹きつけてシアン化水素を完全に蒸発させてチップを無毒にする装置までが工夫され、外国にも輸出されていた。「ホロコースト」物語には、そういう当時の技術水準が反映されていない。 「ガス室」にも、そういう当時の技術水準の最先端をいく工夫が見られなければならないが、そのような痕跡はまったくない。「ガス室」は、しかも、ニュルンベルグ裁判の当時には、ほとんどすべてのナチス・ドイツ収容所に存在したかのように思われていた。ところが、一九六〇年ごろには、西側には「ガス室はなかった」という「事実上の定説」が成立した。のこるのはポーランドの六か所のみになったが、たったふたつの現存の「ガス室」にも疑問がおおい。ビルケナウの廃墟に「ガス室」があったという主張もあるが、検察側に当たる絶滅論者の間でも、その建造の経過に関して説がわかれている。 『ロイヒター報告』以後、当局側に当たるアウシュヴィッツの委嘱もふくめて、「ガス室」に関する六回の法医学調査がおこなわれている。現存の「ガス室」については、「青酸ガス」が使用されたならば残留しているはずの「シアン化合物」が認められないという点で、すべての調査結果が基本的に一致している。 細部の解明には、公開の共同研究が必要だろうし、その前提条件としては、この問題に関する言論の自由が国際的に保証されなければならない。 以上、第3部では『ニューズウィーク』(89・6・15)の記事をきっかけの題材にしながら、キーポイントを広げてみた。第3部で提出した材料のほとんどは、この『ニューズウィーク』の記事が執筆される以前にあきらかになっていたものである。『ロイヒター報告』がカナダの法廷に提出されたのは、この『ニューズウィーク』の記事が発表される前の年の一九八八年である。カナダはアメリカの隣国でもあり、同じ英語を公用語の一つとし、おたがいに電波メディア報道が国境をこえる関係にある。「ホロコースト」物語とは直接の関係がない日本でならいざ知らず、この種の資料を入手するうえでは格段に有利な立場にいるはずのアメリカのジャーナリストが、なぜ、これらのキーポイントをはずした文章を書くのだろうか。これまた、おおいなる疑問である。
|
『アウシュヴィッツの争点』
ユダヤ民族3000年の悲劇の歴史を真に解決させるために
(56)
第4部 マスメディア報道の裏側
|
~無意識の誤解からテロによる言論封殺まで~
「ホロコースト」見直し論は、第二次大戦直後のポール・ラッシニエの時代から一貫して、絶滅説に立つマスメディアから、無視ないしは集中攻撃の対象にされてきた。 「マルコ報道」にも、その要素が見られたが、日本のマスメディア報道のお粗末さの典型を、そのグループの(中味ではなく)新聞発行部数の順に紹介しておこう。 『週刊読売』(2・19)は『マルコ』評価を「文芸評論家」芹沢俊介の談話にたよった。 芹沢は「原稿を掲載した背景」に「(欧米との)空間的、歴史的構造からくるニブサ」があると断定する。大手メディアだけのことではないが日本国内では当時、この題材を『マルコ』が「アウシュヴィッツ解放五〇年」に取り上げたこと自体が「国際感覚を欠いた暴挙」であるという論調がしきりだった。実際には、この論調の方が国際感覚と常識を欠いていたことは、すでに『レクスプレス』『ドナヒュー・ショー』『シックスティ・ミニッツ』の例を挙げて、くわしく論証した通りである。 むしろ、さらに呆れたのは、この『週刊読売』の署名記事を書いた読売新聞記者自身が「評論家」芹沢の起用について、「とくにホロコースト問題にくわしい方というのではなくて……」と言葉をにごしたことだった。 芹沢は、それ以前に朝日新聞文化欄の「ウォッチ論潮」(95・1・30)でも、同趣旨のことを書いていた。わたしが芹沢に直接電話して聞くと、本人も「(ホロコースト問題については)一般的知識しかない」と自認した。それなのになぜ、「廃刊と編集長解任は政治的決着であり、その意味で正しい」などと判定できるのであろうか。 朝日新聞社発行『アエラ』(2・13)では、西岡の資料の発行元の研究所を「極右や人種差別主義者の『学術組織』」と断定した。 署名している記者は記者会見にきていたから顔も覚えている。わたしは問題の研究所、IHR(歴史見直し研究所)を1994年末に訪ね、日本人で初めての訪問者だといわれた。そのことを記者会見で話したのに、署名記者は現地取材もせず、わたしにも確かめずに記事を書いている。断定の根拠を電話で聞くと、「アメリカのデータベースで調べた」と答えた。わたしが「アメリカのデータベースはアメリカの大手メディアの情報だから、大手メディアに強い支配力を持つイスラエル支持勢力の意向を反映している。なぜ裏を取る努力をしないのか」というと、署名記者は「二年間アメリカに留学した」という経歴を誇り、「そちらは英語で取材しているのか」と逆襲してきた。この若手記者の傲慢さには唖然とするほかなかった。 『サンデー毎日』(2・19)も『マルコ』記事の評価を簡単な電話取材でごまかした。 「『中吊り広告を見てすぐ買ったが、驚いた。不正確な記述としかいいようがない』というのは、ドイツ史が専門の石田勇治東大助教授。『タネ本はすぐに分かる。ロンドンで出版された「ロイヒター報告」という本で、これはネオナチのバイブル(後略)』」 本人に直接たしかめたところ、『ロイヒター報告』そのものを読んでいるどころか、実物を見てもいない。ドイツ語の見直し論批判本の名を二つ挙げただけだった。こんなズサンな肩書きだけの談話記事で、西岡が「ネオナチのバイブル」を引き写して作文したかのような印象が作りだされているのだ。 石田はさらに、「歴史研究の立場からすると、論争はまるでない」としているが、論理矛盾もはなはだしい。本人が「二冊持っているドイツ語の本」そのものが、論争の存在の立派な証明である。論争とは、権力御用、学会公認の公開論争だけを指すのではない。
マスメディアの商業的かつ権力追随的な実態は、世界各国とも似たようなものである。ラッシニエの時代から「ホロコースト」見直し論を攻撃し、その後も無視ないしは攻撃をつづけてきたマスメディアとは、まさにこのようなマスメディアそのものだったのだ。 不思議なのは、むしろ、日頃は熱心にマスメディア批判をする人々が、この問題に関してだけは、意外なほどマスメディア報道に追随しているという事実の方なのである。 この問題には、やはり、非常に複雑な時代背景がある。強烈な心理的インパクトが、あらゆる方面から投射されていると考えるべきであろう。それを解きほごすのは容易なことではないが、以下、いくつかの二次的な争点について、メディア報道を題材にしながら、具体例を通じての解明を試みてみよう。
第7章:(57) はたして「ナチズム擁護派」か
|
|
|
電網木村書店 Web無料公開
『アウシュヴィッツの争点』
ユダヤ民族3000年の悲劇の歴史を真に解決させるために
(57)
第4部 マスメディア報道の裏側
第7章:はたして「ナチズム擁護派」か 1/6
|
(『週ポ』Bashing反撃)
NHK放映『ユダヤ人虐殺を否定する人々』をめぐって
前章で指摘した『ニューズウィーク』の手法は、別に、「高度な世論操作」というほどのものではない。 論争の的となっている問題、つまりは複数のことなる意見が存在する問題については、それぞれの意見を「公平」に紹介するのが、マスメディア、とりわけ「公共性」が強調される電波メディアの原則とされている。この「公平原則」による言論の自由の「まやかし」の歴史と現状については、前著『電波メディアの神話』で、われながらくどすぎるほど論じつくしたばかりである。 わたしの主張を要約すると、「公平」「公正」「中立」などの用語に共通する「あいまいさ」こそが、言論の自由の自称を保障する「まやかし」の秘訣である。「あいまいさ」はアカデミズムの「紳士」的な援護射撃をうけ、メディア、とくに大手マスメディアの体制擁護の正体をおおいかくす。受け手だけではなく、送り手自身をも「まやかし」てしまう。送り手は、公平に判断の材料を提供しているかのようによそおいながら、または自分でもそう思いこみながら、実際にはたくみに演出意図にそう都合のいい材料だけをひろいあげ、結果として制作者の主観をおしつける。これを称して「編集」というが、マスメディアではありきたりの習慣的な作業手順なのである。 NHKが「海外ドキュメンタリー」(3チャンネル、93・6・4)で放映した『ユダヤ人虐殺を否定する人々』では、『ニューズウィーク』の場合よりもさらに手のこんだ手法がつかわれている。「発疹チフス」のようなキーワードをかくすばかりでなく、映像に特有の錯覚をつくりだし、「否定する人々」の実態をゆがめてつたえる結果になっている。 ただしわたしは、『ニューズウィーク』の編集者や、NHKの海外番組放送担当者や、その原版を制作したデンマーク・ラジオのスタッフらが、意図的に「悪質な報道操作」をしたとまでは断定しない。だが、「世論誤導」という結果責任はあきらかである。実際の世間的効果はおなじようなものだが、担当者は単に事実を知らずに不勉強なまま、既成の世間的通念にしたがっただけなのかもしれない。 NHKによる日本語版演出の部分では無知があきらかである。無知ゆえになおさら、日本語版の解説や語りの演出に原版以上の「正義派」気どりの力みが感じられる。その無邪気さがかえってこわい。 「ユダヤ人虐殺を否定する人々」の演出手法は、「ホロコースト」否定論または見直し論にたいするマスメディアの反応の仕方の一つの典型をなしているし、今後の事件検証のための基本的な材料をふくんでいるので、以下、要点を紙上再録してみる。
画面は政治集会の会場シーンからはじまる。最初はストップモーションで、右下に「海外ドキュメンタリー」という決まり文字の番組名がスーパーされている。絵が動きはじめ、カメラが引くと、会場には何百人もの人々がひしめいている。若い男女がおおくて、雰囲気はあかるい。パーン、パーンと、調子をそろえた拍手がなりひびく。色とりどりの旗が左右にはためく。旗の波の下に「制作・DR(デンマーク 1992)」の白抜きゴシック文字がスーパーされる。 調子をそろえた拍手は、集会の講師にたいする歓迎の気持ちを表現している。熱狂的な拍手でむかえる群衆の間から、典型的にいかつい四角の顔をした講師が、むずかしい表情ではいってくる。いかにもネオナチの理論的指導者風だが、すでに紹介ずみの(わたしの考えでは「軽率な」)イギリスの作家、デイヴィッド・アーヴィングである。 アーヴィングの顔のうえに、丸い白地にえがいた大型の黒のカギ十字(旧ナチ党の党章)がかさなり、ディゾルヴ(溶明、溶暗)で画面がいれかわる。赤い生地にはたくさんの小型カギ十字がうすくあしらわれている。生地は幕か壁の模様のようである。さらにそのうえに「ユダヤ人虐殺を否定する人々」の筆文字(つまりNHKが日本版用につくった文字)が回転してきてかぶさる。下には副題として「~ナチズム擁護派の台頭~」という白抜きゴシック文字がはいる。 ここまではまったくセリフがない。だが明確に、「ユダヤ人虐殺を否定する人々」と「ネオナチ」、「旧ナチ党」などの同一性を強調する画面構成である。視聴者は最初に、そういう印象、先入観念をあたえられてから、この番組の中身を見ることになる。四五分(CMがはいる民放なら一時間)という長時間番組のわりには、視聴者の判断の選択幅が最初からせばめられているといえよう。さきの『ニューズウィーク』のたった二ページの記事が、メイヤー教授を「左翼」で「ユダヤ人」などと紹介していたのに比較すると、その幅のせまさはあきらかである。
|
電網木村書店 Web無料公開
『アウシュヴィッツの争点』
ユダヤ民族3000年の悲劇の歴史を真に解決させるために
(58)
第4部 マスメディア報道の裏側
第7章:はたして「ナチズム擁護派」か 2/6
|
(『週ポ』Bashing反撃)
ヴァンゼー「会談」主催者をヒトラーにしてしまう「おそまつ」
カットインで画面はかわって、翼をのばした鳥がふんわりと風にのって舞う湖のほとり。森のなかの白い石造りの邸宅にフォーカスイン(接近)し、おもむろに解説のセリフがはいる。 「ベルリン、ヴァンゼーの宮殿。いまから五〇年あまり前、アドルフ・ヒトラーは、この建物に政府高官たちを集め、ユダヤ人問題の最終的解決を討議した」 この解説には、ニュルンベルグ裁判の誤りにみちた「事実認定」すら無視したあたらしい歪曲がある。せいぜい「豪邸」といえるほどの屋敷を「宮殿」とよぶだけの歪曲なら、ご愛嬌ですむ。だが、「アドルフ・ヒトラー」を主語にしたのは、完全なまちがいであり、もしかすると厚かましいまでの大衆欺瞞の情報操作のたくらみである。絶滅説の「事実認定」では、ヒトラーも親衛隊長のヒムラーも「ヴァンゼー会談」には参加していない。「ヴァンゼー会談」の主催者は、ゲシュタポ長官兼保安警察長官のラインハルト・ハイドリッヒだということになっている。 なお、ハイドリッヒは戦争中に暗殺されているので、ニュルンベルグ裁判の当時すでに「死人に口なし」の状態であった。 話を作品にもどすと、さきの明瞭なまちがいをふくむセリフと同時に、ヴァンゼーの邸宅の内部を移動する画面のうえに、タイプ文字の書類の文章と数表が白抜きでスーパーされる。この邸宅で「最終的解決」の「討議」がおこなわれた「事実」を、記録という「物的証拠」の存在によって強調しているわけだ。典型的なドキュメンタリー手法の画面構成である。その画面にあわせてセリフはつづく。 「そのさいにつくられた報告文書には、ヨーロッパ各地のユダヤ人の数が、ことこまかに記載されている。その数は、あわせて一千一〇〇万人であった」 文書の中の表の最後、「11、000、000」の数字がアップで強調される。 シオニストがもっとも強く実現をのぞんでいた構想は、旧約聖書のシオンの丘があると称するエルサレムを中心としたパレスチナでの建国だった。その目的地が一時はマダガスカルにかわり、この「会談」があったとされる時期にはロシアの占領地にかわっていた。だが、この作品では、「最終的解決」という用語の解釈をめぐって現在も継続中の論争どころか、そのような移住政策の事実経過さえ完全に抹殺されている。つまり、この作品は、みずからがテーマとして選んでいる「ユダヤ人虐殺を否定する人々」の核心的な主張どころか、絶滅論者による事実経過説明すら紹介しようとしていないのだ。 画面の「11、000、000」という数字を印象づけるために、すこし間をおいてから、おもおもしい調子のセリフがつづく。 「ナチスによるユダヤ人虐殺への道は、ここを起点としている。こののち、数百万人のユダヤ人が抹殺された。だがいま、歴史は風化の危機にさらされている」 「ユダヤ人問題の最終的解決」という表現にはここで、議論の余地なしに、「ユダヤ人虐殺」と同一のイメージがあたえられる。 だがまず、一九四二年一月二〇日に「ヴァンゼー会議」がおこなわれた証拠とされているのは、会議の決定を記録した公式文書ではなくて、一片の会議録、厳密にいえば筆者すら不明の個人的なメモにすぎないのである。しかもそのメモが本物だとしても、そこには「最終的解決」イコール「ユダヤ人の民族的絶滅」などという方針は明記されてはいない。 さらに決定的なのは、絶滅的に立つホロコースト史家たちでさえ、もはや、ヴァンゼー・メモをユダヤ人虐殺計画の決定文書だとは認めなくなっているという、矛盾に満ちた事態である。 ペイシーほかの編集による「ラウル・ヒルバーグに敬意を表して」という副題のエッセイ集『ホロコーストの全景』によれば、その理由の第一は、「ヒトラーの国家では、このような重要な問題の決定を官僚の会議でおこなうことなどはありえない」からであり、第二は、「虐殺は一九四一年からはじまっていた」からである。 ヴァンゼー会議がおこなわれたとざれているのは、メモの日付によれば、一九四二年一月二○日である。絶滅説の物語はこのように、つぎつぎと矛盾があきらかになり、書きなおしをせまられているのである。
「会議録」は国際検察局のケンプナーが作成の「偽造文書」という説
シュテーグリッヒ判事は、このヴァンゼーの会議録を、ニュルンベルグ裁判の国際検察局のボスだったケンプナーが作成した「偽造文書」だと主張する。その理由を簡単に紹介すると、つぎのようである。 当時のナチス・ドイツでは公式文書を作成するさい、担当官庁名いりの用箋を用い、とじこみ用の連続番号を記入し、末尾に作成担当者、または会議の参加者が肉筆でサインすることになっていた。ところがこの「ヴァンゼー文書」なるものは、官庁名がはいっていない普通の用紙にタイプされており、連続番号もサインもまったくない。そのくせ、「最高機密」というゴム印がおされているから、かえって奇妙である。連続番号がないかわりに、一ページ目に“D・・・29・Rs”という記号が記入されているが、ドイツの官僚機構は通常、こういう形式で記録の分類はしない。内容的に最も奇妙なのは、「東方移送」するユダヤ人のうちで「労働が可能な者」に「道路建設」をさせるという、実際にはおこなわれていない作業命令の部分である。当時のナチス・ドイツでは、アウシュヴィッツなどの軍需工場群への労働力供給が最優先課題だった。「東方移送」は鉄道を利用しており、「道路建設」の必要はなかった。 シュテーグリッヒ判事は別の箇所で、つぎの点に注意をむけている。 「いわゆるヴァンゼー文書は、アメリカのケンプナー検事が[ニュルンベルグの国際軍事裁判の]のちにおこなわれた“ヴィルヘルム通り”裁判ではじめて提出したものである」 ケンプナーは、ニュルンベルグ裁判ではアメリカのジャクソン主席検事の「準備チーム」に属していた。つまり、法廷では裏方だったのだが、その後、高級官僚を被告にした“ヴィルヘルム通り”裁判では主席検事になった。そこではじめてケンプナーが「いわゆるヴァンゼー文書」を提出したというのは、非常に興味深いことである。すでに国際軍事裁判で「ホロコースト」物語は認定されている。しかし、自分が主役の裁判となると、ケンプナーには不安がある。すでに一部から疑問がだされていたからだ。そこで、ゆらぐ屋台骨をささえるために「ニセ文書」をつくったと考えれば、納得がいく。 わたしの考えでは、まず、「一千一〇〇万人」という数字をことさらに強調した点があやしい。すでに第一部で紹介したように、当時の統計によれば、ナチス・ドイツの支配下に入ったヨーロッパのユダヤ人の人口は、約六五〇万人だった。生きのこりと移住をさしひくと、「六〇〇万人のジェノサイド」説は成り立たない。そこで「偽造文書作成者」、ケンプナーは、征服が完了していないロシアなどのユダヤ人の人口をもくわえて、「一千一〇〇万人」のヨーロッパのユダヤ人という基礎数字のイメージをつくりだす必要があると考えたのではないだろうか。もう一つの「道路建設」作業についても、「軍需工場群への労働力供給」と「絶滅」政策の論理的矛盾をすこしでもぼかしたいと願ったものという可能性がある。 たとえば『裁かれざるナチス』の著者、ペーター・プシビルスキは、元東ドイツの検事で最高検察庁の広報局長という立場にあった。彼の見解は、元東ドイツの公式見解だったと考えていいだろう。この本ではヨーロッパのユダヤ人を「六〇〇万人」としており、「最終的解決」「ガス室」「ニュルンベルグ」の裁判が、つぎのように簡潔に、または短絡的にむすびつけられている。 「ヨーロッパ全域にわたる六〇〇万のユダヤ人が、この『最終的解決』の過程で駆りたてられ、ガス室に送られ、『注射によって殺され』、あるいは死にいたるまで酷使されたのである。だがニュルンベルグではそのような事実は関知しない、自分に責任はない、と主張する者ばかりだった」 つまり、ニュルンベルグ裁判で「最終的解決」の陰謀にくわわったと認定された被告たちは、すべて罪状を否認していたのである。だが、このデンマーク製の映像作品には、そのような疑問点はいささかも映しだされない。「ナチス」、「虐殺」、いたましい歴史的イメージの余韻をひびかせつつ、カメラはふるめかしい邸宅の内部を移動しながらゆっくりとうつしだす。
|
電網木村書店 Web無料公開
『アウシュヴィッツの争点』
ユダヤ民族3000年の悲劇の歴史を真に解決させるために
(59)
第4部 マスメディア報道の裏側
第7章:はたして「ナチズム擁護派」か 3/6
|
アウシュヴィッツの遺影とアンネ・フランクの『日記』
画面はかわって、アウシュヴィッツ強制収容所の入り口である。 鉄の門の上の飾りにカメラはフォーカスイン。「ARBEIT MACHT FREI」(労働は自由を生む)という文章の単語を追って右にパン(横移動)する。 立っている老人にカットイン。「強制収容所に収容されていたヘンリー・マンデルバウム」というスーパー。ここでも、老人のドイツ語のしゃべり方よりもはるかに力みすぎのつくり声で、おもおもしい発音の日本語がかぶさる。 「アウシュヴィッツは事実です。二度とあってはならない事実です」 「事実」とはなにか。作品のテーマからいえば、当然、「ユダヤ人虐殺」は「事実」だということを強調したいのであろう。「事実」とはなにかを暗示するかのように、画面は写真をたくさんならべた壁にかわる。一目でわかる収容所の犠牲者たちの遺影の展示である。 遺影を背景にして荘重な音楽がはいる。 画面はかわって、赤ん坊と、ほほえむ女の子の写真。こちらには、やさしい男の声の解説がはいる。 「少女、アンネ・フランクがのこした日記には、一九四二年から二年あまりつづいたユダヤ人一家の隠れ家生活がつづられている」 子どもの声で『日記』が朗読され、やさしい女性の声の日本語がかぶさる。 ふたたび、やさしい男の声の解説がはいる。 「外の世界でなにがおきているか。かれらはイギリスのラジオ放送に熱心に耳をかたむけていた」 これにつづく子どもの声の『日記』の朗読のなかから、「ホロコースト」についての部分だけを紙上再録しておこう。 「ユダヤ人がおくられていく遠くの収容所は、どんにおそろしいところだろう。ラジオによると、ガス室があって、ほとんどは殺されるらしい。とってもこわい」 フランク一家の隠れ家の隅々をカメラがうつしだしたのちに、番組の冒頭でつかわれた「丸い白地にえがいた大型の黒のカギ十字」に切りかわる。その裏側をやはりさきと同様に、たくさんの小型カギ十字をうすくあしらった赤い生地がディゾって移動する。ナチス・ドイツの恐怖のイメージ・アップである。この合成画面は以後も何度かあらわれるので、以下、「ディゾルヴのカギ十字」と略称する。 画面は「ディゾルヴのカギ十字」から名簿に切りかわる。四行分が強い光で照らしだされ、そのうちの三行分が赤く塗りつぶされる。しずんだ声の解説のセリフがはいる。 「両親と二人の娘の名は、アウシュヴィッツのユダヤ人移送者リストにのせられている。四人のうち、戦争終結を収容所でむかえたのは、父親のオットー・フランクだけだった」 この部分にはまちがい、または意識的な省略による誤導がある。すでに指摘したように、アンネはアウシュヴィッツで死んだのではない。姉と一緒にベルゲン・ベルゼン収容所に移送されたのちに、二人ともおそらく「発疹チフス」の悪化で死んだのだ。「移送」と「発疹チフス」の説明をはぶくと、いかにも、二人の姉妹がアウシュヴィッツの「ガス室」で虐殺されたかのようなイメージがのこってしまう。 もしかすると、それが制作者のねらいなのだろうか。 ふたたび画面は「丸い白地にえがいた大型の黒のカギ十字」に切りかわり、つづいてアウシュヴィッツ収容所の金網の柵にかわる。ダーン、ダーンと、おもくるしい音楽がひびく。 画面は金網の柵のまま、やさしい感じの発音の英語が聞こえ、やはりやさしい感じの発音の日本語がかぶさる。 「オットー・フランクはアウシュヴィッツから生還しました」 声のあとから、声とおなじくやさしい卵型のツルリとした顔で、太ぶちの眼鏡をかけて、目つきもやさしい若者が登場する。おおきな机のむこう側に資料ファイルの棚を背景にして座っている。いかにもインテリ風である。 「オランダ戦争資料センター、デービッド・バーノウ」というスーパーがはいる。 だが話は、「ホロコースト」そのものではなくて、『アンネの日記』(以下、『日記』)の真偽論争にうつってしまう。 バーノウは机の上に、偽造説を宣伝する大小さまざまの出版物を積みあげる。それに対抗して行なった調査活動を語り、くわしい専門的な鑑定報告をしめす。 わたしには現在、そこまで追究する時間の余裕がないので、この件はお預けとする。拙著『湾岸報道に偽りあり』を執筆したさいにも、根づよい『日記』の偽造説があることを知ったが、あえて深いりする気にはならなかった。なぜかというと、厳密な歴史的資料研究のうえでは、『日記』はあくまでも『日記』であり、あえていえば個人のせまい体験をそのまま書いた『日記』でしかない。アンネと一家の生活については一応の一次資料にはなるが、それ以上のものではありえないのだ。 もしも『日記』が本物だとしても、さきに日本語で再録した『日記』の朗読の一部が証明するように、アンネは、「ラジオによると、ガス室があって、ほとんどは殺されるらしい」としか書いていない。裁判の証拠価値からいうと、「ホロコースト」についての記述はあきらかに、反ナチ宣伝をつづけていたラジオからの「伝聞」による二次的な認識でしかない。『日記』には、「ホロコースト」の真偽についての物的証拠としての価値は、まるでないと断言してさしつかえないのだ。 むしろ『日記』の問題点は、偽造かいなかではなくて、このような情緒的利用の仕方にある。たとえばバーノウは、確信にみちたやさしい声で、こういう。 「日記を否定することは、アウシュヴィッツを否定することへのステップにほかなりません。かれらのねらいは、ナチの罪をおおいかくすことなのです」 このバーノウの発言の仕方も、それを無意識かつ無自覚に追うメディアの手法も、決して論理的ではない。『日記』が本物だからといって、それは、この作品のテーマの「ユダヤ人虐殺」の事実の立証にはならないのである。かれらは、『日記』の信憑性によりかかり、それを絶対的な反撃の材料としてつかい、きわめて情緒的に視聴者の心情をとらえようとしている。見た目に有利な材料をさきにしめすことによって、論点をそらそうとしているのだ。 裁判の法廷技術でいうと、ツンデルやアーヴィングらの「証言の信憑性」を疑わせるための、演出的な弁論と証拠調べの手法である。陪審制度の国ならば、これらはとくに陪審員むけに有効な演出として、かかすことのできない法廷戦術のハイライトである。 ただし、その手品に幻惑される陪審員の水準を前提にしてのことであるが。
「散乱した死体」の映像を説明ぬきで挿入する「誤導」の手法
さらに心情にうったえる映像が追加される。ドイツ軍。演説するヒトラー。収容所の風景。死体の山。やせおとろえた人々。 穴の中に死体が散乱しているシーンが、なんらの説明もなしにおりこまれる。撮影場所も、撮影した日時も、撮影者も、撮影された対象の説明も、なにもわからない映像の挿入である。 すでに紹介したようにベルゲン・ベルゼンでは、チフスで死んだ収容者をイギリス軍が処理し、イギリス軍が撮影していた。ダッハウでは、やはりチフスで死んだ収容者にたいして、アメリカ軍が同じような処理をし、撮影をした。どちらも、「ガス室」における大量の計画的虐殺という意味での「ホロコースト」とは、まったく関係がない。 『二〇世紀の大嘘』の著者、ブッツ博士は、マサチューセッツ工科大学出身で電子工学を専門としているだけに、数字的なデータの追及がとくにきびしい。死体の映像の問題では、ダッハウ収容所の近くの「列車の上のそれが常に殺害されたものの標本として提示される」という問題点を指摘し、つぎのようにしるしている。 「ダッハウの列車の上の死体の数は約五〇〇である。戦争末期のドイツでは普通の乗客用列車の場合でさえ、死んだ人々が発見されるのが異常ではなかった。一九四五年の一月には、ベルリンに到着した列車のなかで、八〇〇名のドイツ人がこごえ死んでいるのが発見された。ドイツの鉄道システムは完全な混乱状態におちいっていた。一九四五年四月[ダッハウ解放は四月二七日]の状態は想像するのも困難である」 一九四四年から戦争が終了するまでの間に、ドイツ全土の都市、鉄道、道路は、アメリカ軍のジュウタン爆撃によって完全に破壊されつくくしたのである。収容所周辺も例外ではなかった。この破壊状態とチフスの大流行を無視した議論は、それ自体が欺瞞である。 問題の映像作品にもどると、意識的なのかどうかは判断のしようがないが、次第にナレーションの論点がずれていく。「ユダヤ人虐殺」または「ホロコースト」、くわしくは「ガス室による計画的大量虐殺」否定または見直しの主張が、つぎのようにあたかも、「ユダヤ人強制収容所の存在」そのものの否定であるかのようにすりかえられていく。 日本語のセリフはこうなっている。 「膨大なフィルムや資料が語るユダヤ人強制収容所の存在を歴史から消すことなど、ありうるのだろうか」 だがいったい、いつ、だれが、「ユダヤ人強制収容所の存在を歴史から消すことなど」を意図したり、宣言したりしたというのだろうか。「強制収容所にガス室はなかった」という主張は、だれが考えても「強制収容所の存在」を前提にしている。制作者は善意なのかもしれないが、あまりにも「思いこみ」がはげしすぎる。やたらと力むばかりで、事実を正確につたえるというメディアの基本的な役割をわすれている。
(60)「ナチズム擁護派の国際的なネットワーク」というレッテルはり
|
電網木村書店 Web無料公開
『アウシュヴィッツの争点』
ユダヤ民族3000年の悲劇の歴史を真に解決させるために
(60)
第4部 マスメディア報道の裏側
第7章:はたして「ナチズム擁護派」か 4/6
|
「ナチズム擁護派の国際的なネットワーク」というレッテルはり
その後の画面には、ふたたび大西洋をはさむ両大陸地図があらわれる。日本語版解説はこうだ。 「大虐殺を否定する第三の人物として、フランスにすむロバート・フォーリソンがあげられる。かれはみずからを歴史修正主義者となのっている」 西ヨーロッパの部分に、写真と「歴史学者、ロバート・フォーリソン」のスーパーがはいる。だがまず「ロバート」にはおどろいた。ローマ字では英語の「ロバート」(Robert)とおなじつづりにちがいないが、フランス人だから「ロベール」としなければならない。 フォーリソン個人にたいしては、なぜか、直接の「ネオナチ」よばわりや「カギ十字」のディゾルヴはおこなわれていない。もしかすると、すでに紹介したようなフォーリソンのきびしい対決姿勢や、「ナチズムだとする攻撃、ほのめかしのすべてを中傷と見なす」という言明などが影響しているのかもしれない。そのかわりにフォーリソンは、画質のわるいヴィデオによる演説シーンの挿入で紹介される。画質がわるいだけでなく、おなじ角度とサイズに固定したままの絵柄だから暗い感じになってしまっている。この部分は、「歴史の見直し研究所」が制作して頒布しているヴィデオからのダビング(複製)なのだが、その説明はあとまわしになっている。 紹介されている演説のその部分の内容は、同研究所の活動経過報告だけで、フォーリソン自身の研究内容や主張はまったくでてこない。フォーリソンは同研究所の代表格なのだから、なぜ本人に直接インタヴューをしなかったのかという疑問も生ずる。 解説はさらに、つぎのように展開する。 「ナチズム擁護派の国際的なネットワーク、……その一つの拠点がアメリカに存在する。カリフォルニア州にあるこの書店の内部に、歴史修正主義協会、IHRという国際組織がおかれている」 IHRに対するわたしの訳語は、すでにのべたように「歴史見直し研究所」である。解説はこうつづく。 「IHRは活動の一環として機関誌を発行してきた」 またもやあらわれた「カギ十字」のうえにおかれる何冊かのぶあつい雑誌。 「『歴史再検討のための国際ジャーナル』は完全な学術書のスタイルをとっている。本の権威をうらづけるように、執筆者の紹介欄は学問的な肩書きで埋められている」 この解説のセリフなどは、いかにも「アヤをつける」といった感じのコメントの仕方ではないだろうか。わたしの手元にも、この雑誌そのものと、この雑誌にのった論文のコピーがたくさんある。執筆者が本当に教授とか博士とかなのだから、肩書きを紹介するのが当然で、そうしなければかえっておかしいのだ。たとえば日本の大手出版社で、教授などの肩書きをわざわざかくして中身だけで勝負する販売政策をとっている例があったら、ぜひ教えてほしいものである。
「創設者」から三本の矢印で「K・K・K」につなぐ「悪魔化」
IHRについての全体的なイメージづくり、または「悪魔化」(米語でデモナイゼーション)の第一の手段は、IHRの「創設者」、ウィリス・カルト(またはカート)の「正体暴露」(米語でアンマスク)という手法によっている。解説は、つぎのようにつづく。 「アーヴィングは一回の講演につき、一万ドル以上の支払いをIHRから受けとっている。だが、IHRの巨額の運営資金がどのように集まるかはさだかではない。謎の鍵をにぎるのはIHRの創設者、ウィリス・カルトである。カルトは、アメリカの極右勢力の黒幕といわれている」 画面には、カルトが別途におこなっている資金カンパの行きさきが矢印でしめされる。解説はつづく。 「ウィリス・カルトは、アメリカの反ユダヤ活動団体、リバティ・ロビーの主導者でもある。さらに人民党を介して、デヴィッド・デュークなる人物とも親しい関係にある」 矢印がカルトからリバティ・ロビーにのび、そこからつぎの矢印が「人民党」にのびる。そこからまたあたしく矢印がのびて、デイヴィッド・デュークにつながる。解説はこうつづく。 「クー・クラックス・クランの元最高幹部であるデュークを、カルトは英雄的人物と称している」 人種差別の秘密結社として有名なK・K・K(クー・クラックス・クラン)の団員が、三角帽子の白衣装でタイマツをかざしたり、なげたりする儀式がうつしだされる。ウー、ウー、ウー、ダン、ダン、ダンと、おもくるしい音楽をバックに解説がはいる。 「デイヴィッド・デュークは、一九九一年のルイジアナ州知事選に立候補し、落選はしたが四〇%もの票を獲得した。一連の右翼系団体はカルトを中心にむすばれており、デュークやIHRは、その一部に位置づけられる」 画面の地図のうえには、カルトを中心にした組織のつながりがしめされる。 アメリカの非政府組織、市民運動の資金づくりや、運動への参加の仕方は、日本にくらべれば格段にオープンである。どの運動も、相手の政治的立場を無視して資金カンパを要請するし、だす側も運動の内容にあまりこだわらない。だから、一人の出資者が、政治的主張がまるで反対の運動に同時に資金カンパしているという現象も生じる。こうした現地の実情を知らないと、この種の「悪魔化」にはひっかかりやすい。 しかも、わたしには別に、IHRに借りがあるわけでもないし、組織としてのIHRの肩を持つ義理もない。もともと、わたしの資料収集の基本方針は、日本の調査機関の典型だった満鉄調査部などの原則に見習ったものだ。相手の組織や個人の思想、政治的立場などに一切とらわれず、可能なかぎりの関係資料、耳情報を収集して、比較検討、総合分析を心がけるのが主義である。情報のゆがみは、すべての資料にあると思わなければならない。先入観による情報の排除は禁物である。自分の目で見て判断すべきである。 そういう立場からいうと、個別の資料の「行間を読む」とか「眼光紙背に徹する」とかいうことの方が重要なのであって、資料を読みもせずに「データベース」で発行元が云々などというレッテル貼りでごまかす怠け者の記者などは、下の下の沙汰でしかない。 わたしは一応、そう考えて、このカルトの問題をたなあげにしようと思ったのだが、やはり、事実を正確に知るにこしたことはない。 わたしはカリフォルニアの「歴史見直し研究所」を直接おとずれる決意をした理由の一つは、このカルトの正体と「歴史見直し研究所」との関係をたしかめることにあった。この点でも、やはり行ってみてよかった。意外も意外の事実が判明したのである。 『歴史見直しジャーナル』の編集長、ウィーバーは、わたしは質問を聞くなり頭を強くふって、こう断言した。 「ウィリス・カルトがこの研究所の創立者だというのは嘘です。カルトとデイヴィッド・デュークの関係も間接的で漠然としたものでした。しかも、カルトは昨年、この研究所と縁が切れました。ちょっと待ってください。資料をさしあげます」 そういって立ちあがり、書類棚から取りだしてくれたのは、A4判で四九頁の「ウィリス・カルトの歴史見直し研究所にたいするキャンペーン」と題する「特別背景報告」であった。ウィーバーは説明をつづけた。 ウィーバーの説明を要約すると、研究所の中心的な創立者はアイルランドうまれの作家、デイヴィッド・マッカーデンで、一九九〇年に死んでいる。カルトは共同設立者に当たるが、資金は一セントもだしていない。日常の仕事をしたこともない。それどころか、研究所の出版物の売り上げをくすねて問題になった。ウィーバーたちは裁判にも訴えて、カルトの追放に成功した。 マッカーデンの方は、カルトと仲たがいして、途中で研究所を去ったという。 帰国後には、『クリスチャン・ニュース』(94・4・25)に掲載されたA4判で二ページの記事のコピーがおられてきた。ウィーバーが執筆したもので、さきの資料とおなじく「ウィリス・カルトの歴史見直し研究所に対するキャンペーン」という題になっていた。それによるとカルトは、リバティ・ロビーが発行する『スポットライト』という週刊新聞の紙面で、「歴史見直し研究所」にたいする攻撃をつづけているようである。 アメリカのジャーナリスト、ジェームズ・リッジウェイの著書『アメリカの極右』にも、「『リバティ・ロビー』のウィリス・カート」についての記述がある。ただし、カートがはじめて登場する小項目は「がたがたの人民党」である。以下、その要約をしるす。 「カートは最初から人民党全米執行委員会の委員となり、このカートに、ビル・シアラーとその配下のカリフォルニア・アメリカ独立党を加えた組織が、最初は党の中枢を形成した」。だが、その後、「シアラーとカートは、主に金の問題で対立した。シアラーは、カートが『党を資金集めに使って、集めた金を自分のさまざまな会社に流用している』と非難し」した。人民党は分裂し、カートが「再興」した方の人民党は、一九八八年の大統領選挙でデイヴィッド・デュークを候補者にした。 どうやらカルト、またはカートは、よくある金にきたないハッタリ専門の政治ゴロのようである。だが、これ以上の細部の追及は本論とはなれてしまう。ともかくカルトが現在、「歴史見直し研究所」を支配するどころか、完全に対立関係にあることは確実である。 マルコ』廃刊事件以後、日本の雑誌にも「歴史見直し研究所」(IHR)についての記事が、いくつか現われた。IHRそのものが独立した商業的組織ではなくて、「自由の存続のための軍団」(Legion for the Survival of Freedom)という名の親(parent)組織の下にある研究および宣伝機関だったりするので、事情はそう簡単ではないようだ。細部の論評は本書の続編に予定しているが、たとえば『宝島30』(95・4)の「差別表現問題としての『マルコポーロ』事件/ユダヤ反差別団体の対日戦略」などの記述は、予備知識がなくても気をつけて読めばでわかるように、新聞報道(わたしも入手)とSWCのようなユダヤ人エスタブリッシュメント組織が提供する資料だけで記事を構成している。これが「大学教授」の肩書きの文章とは、とうてい思えないような週刊誌風の記事づくりである。しかし、それでも、「[歴史見直し]研究所に内紛が起こり、カートー[カルト]が追放されたという」などという、「という」つきの明らかな伝聞情報部分などは、IHRの現スタッフが「反ユダヤ団体も設立」(同記事)したカルトの支配を、拒絶した事実を伝えていることになるから面白い。
(61) 集会参加者と記者会見同席者をすりかえて「ネオナチ」攻撃
|
電網木村書店 Web無料公開
『アウシュヴィッツの争点』
ユダヤ民族3000年の悲劇の歴史を真に解決させるために
(61)
第4部 マスメディア報道の裏側
第7章:はたして「ナチズム擁護派」か 5/6
|
集会参加者と記者会見同席者をすりかえて「ネオナチ」攻撃
「悪魔化」の第二の手段は、集会参加者のたった一人に焦点をあてて、それを全体のイメージにふくらませるという手法である。しかもこの場合には、別の場所の映像を積みかさねることによって、錯覚をつくりだそうとしているとしか思えなかった。そういう編集の仕かたになっていた。 このシーンの最初の画面では、アーヴィングがドイツ語で演説している。日本語版のスーパーはつぎのようになっている。 「ドイツの歴史学者は皆、意気地なしです。人をバカにしている。真の歴史を記述するために、私は国際的なキャンペーンを行なってきました。二年後のドイツについて私はこう予言します。ドイツ人は歴史の虚偽に気付き、根拠のない罪悪感から解放されるでしょう」 拍手がおこる。カメラはパンしながら会場の情景をうつしだす。テーブルのうえにはちいさな飲み物のビンがならんでいるだけで、質素な感じだ。なごやかな雰囲気の集まりである。数十人の参加者は、ごくごく普通の市民層なのではないだろうかと思える顔つきだ。 正面にカメラがもどると、アーヴィングのとなりにツンデルとロイヒターが立っている。ドイツ人のツンデルが、「イギリスからきたアーヴィング」などとみなを紹介しているところに、解説がかぶさる。 「これはドイツ南部の町、ホルツハイムでひらかれたあるキャンペーンの模様である。会場にはフレッド・ロイヒターやエルンスト・ツンデルら、一連のメンバーが顔をそろえている」 ここでカメラはいったん会場の建物のそとにでたような感じで、実は別の建物にはいっていく。キャンペーン集会とは別に、ツンデルたちは地元での記者会見をしていたのだ。ところが、こういう画面構成をされると、おおいに疑いつつ見ているわたしでさえ最初は錯覚し、混乱してしまった。ビデオのリピートでやっとちがいを確認できたが、最初に見たときには、おなじ集会の場面のつづきかなと思ってしまったのだ。実にあやしげなこきざみ編集の仕方である。しかも、そういう編集の仕方になった基本的原因は、つぎに紹介するようなゆがんだ制作意図にあるのだ。 記者会見の方の場面の解説はこうなっている。 「エルンスト・ツンデルは記者たちをあつめ、裁判で勝つ自信があることを強調した」 ツンデルがしゃべっている。かれは、自分の裁判で提出したロイヒター報告について、アウシュヴィッツの模型をしめしながら説明しているようだ。しかし、その内容は紹介せずに、解説はこうつづく。 「列席者のなかに、オーストリアのナチズムの大物がまじっていた。ゴットフリート・キュッセルは、議会外野党と称するネオナチ組織をひきいている」 ゴットフリート・キュッセルという名の「オーストリアのナチズムの大物」は、たんに記者会見の席にはいりこんでいただけである。だが、画面は屋外でのネオナチのデモの風景にきりかわる。ウー、ウー、ダン、ダン、ダンとおもくしい音楽がはいる。その音楽のものものしさのほどにはデモの迫力はない。先頭に立っているキュッセルの姿などは、大物どころか、そこらのいきがった「街のあんちゃん」程度でしかない。直後に、デモのうちあげであろうか、ネオナチの若者がよっぱらってクダをまくシーンが不気味なアングルでうつしだされる。一人の若者が腕をのばして「ジークハイル」とぼやくようにさけぶ。これもチンピラ以下のおそまつさだ。 そのほかの短いショットを積みかさねたのちに、画面はふたたびホルツハイムのキャンペーン集会の席にもどる。こうして、「一連のメンバーが顔をそろえ」たキャンペーン集会には、「ジークハイル」のイメージがべったりとはりついてしまった。
「ガス中毒死した死体」という根拠のない断定を追認する解説
この『ユダヤ人虐殺を否定する人々』というテレビ番組の制作意図は、あきらかに、「ホロコースト」物語の肯定と維持にある。 その目的のための取っておきの駄目おしは、すでに紹介した老人、「強制収容所に収容されていたヘンリー・マンデルバウム」の「証言」である。ロイヒターがアウシュヴィッツの第二キャンプ、ビルケナウの現地でサンプルを採集する情景を撮影した報告用の画質のわるいヴィデオと、「ディゾルヴのカギ十字」模様のうえにおかれた『ロイヒター報告』にかぶせるという順序で、おなじ廃墟の跡をゆっくりと歩く老人の姿がうつしだされる。 解説者は、しんみりと同情的な調子で、言葉を一つ一つ、印象づけるようにくぎりながら語る。 「おなじ現場で、一人の男性は、正反対の主張をする。五〇年前、かれは、死体を、焼却炉へ運ばされていた」 つづけてマンデルバウムがこう語る。 「たくさんの死体をここで焼きました。ガス中毒死した死体です。その数は検討もつかないほど大量でした。わたしが運んだものだけでも、数千人はくだらないと思います」 死体の焼却炉、または火葬場があったことは、『アウシュヴィッツの嘘』にもちゃんと書いてある。クリストファーセンはつぎのように、当時からあった「噂」の真相をたしかめていたのだ。 「実際、アウシュヴィッツには火葬場があるが、ここには二万の人々がいるのだし、それくらいの規模の都市なら、どこにでも火葬場があるものだという説明をうけた。もちろん、ほかの場所とおなじようにここでも人は死んだが、死ぬのは収容者だけではなかった」 ただし、この「二万人」という数字はすくなすぎる。アウシュヴィッツのメイン・キャンプだけの数字のようである。 『アウシュヴィッツ/判事の証拠調べ』によると、「アウシュヴィッツの収容所複合体は、それぞれが一〇万人以上の設計」になっていた。だが、「設計」はあくまで「設計」である。計画全体が敗戦で中途放棄されているのだから、「設計」どおりに完成されたわけではない。わたしは、「アウシュヴィッツの収容所複合体」の宿舎の主要部分であるアウシュヴィッツ・メインキャンプと、ビルケナウのI、II、IIIのキャンプのすべてを自分の目でたしかめた。現地の宿舎跡には、「一棟に五〇〇人から八〇〇人が収容されていた」という展示板の説明があった。 実際の収容人員については資料によってかなりのへだたりがあるので、帰国してから、現地の博物館で撮影してきた宿舎の配置図をもとにして計算してみた。同形の棟がすべて宿舎だとはかぎらないし、あくまで概数の計算になるが、一棟に五〇〇人として全体で約一六万人、一棟に八〇〇人として全体で約二五万人になった。中間をとると全体で約二〇万人前後といったところであろう。おなじ計算でアウシュヴィッツ・メインキャンプだけの内数を出すと、約二万四千人から約三万八千人になる。クリストファーセンの「二万人」という記述は、これに近い。展示板の「一棟に五〇〇人から八〇〇人」という説明の仕方には、「過密」を強調したいニュアンスが感じれらたので、もしかすると、実数はそれ以下だったのかもしれない。 一応、二〇万人の人口で平均寿命を五〇歳に設定すると、一年平均の死亡者が四〇〇〇人、一日平均では約一一人になる。だが、実際の収容所での死亡率はあきらかにたかかったようだ。シュテーグリッヒは「伝染病の流行」を指摘しつつ、「ある時期には一日の死亡数が六九から一七七になった」という医師の報告を紹介している。 マンデルバウムが何度も死体をはこび、何度も焼いたのは、おそらく事実であろう。 だがいったいかれは、どういう手段で、それらの死体が、たとえば発疹チフスによる病死者のものではなくて、「ガス中毒死した死体」であることを確認したというのだろうか。みずからも一介の「収容者」だったというかれが、どうやって法医学者のような作業をすることができたのだろうか。解剖をしたり、ロイヒターがおこなったような「青酸」反応のテストをやったうえでの「証言」なのだろうか。 わたしの推定では、マンデルバウムには、そのような技術的資格も物理的条件もまったくなかったはずだ。わたしのこの推定が誤りであることが確認できないかぎり、マンデルバウムの「証言」は、解説のセリフが断定しているような「正反対の主張」にはなりえないのである。 アウシュヴィッツ博物館を訪問したわたしの目的の一つには、マンデルバウムとのインタヴュー計画があった。そのための手はじめに、歴史部主任のピペル博士への第二の質問として、マンデルバウムを知っているかとたずねた。ピペルは強くうなずいて、知っていると答えた。わたしはNHKのカタカナのスーパー文字で「マンデルバウム」という氏名を知っただけなので、メモ用紙をさしだしてローマ字のつづりを聞くと、サラサラとメモしてくれた。マンデルバウムに会いたいのだがというと、「かれはアメリカに帰った」と答えた。 ピペルはたんに、マンデルバウムを知っているというだけではなかった。マンデルバウムはピペルの重要な情報源だったのだ。そのことは、ピペルとの会見の直後に博物館の売店でもとめたピペルの著書の抄訳英語版をひろげてみたら、すぐにわかかった。その七ページには、つぎのように書いてあった。 「ゾンデルコマンド[収容所内の地下組織、特別分遣隊の意]のもう一人のメンバーだったヘンリク・マンデルバウムは、一九四四年六月から一九四五年一月まで死体の焼却にあたっていたが、“仲間の話によると、全期間を通じて四五〇万人がアウシュヴィッツで死んだ”と証言した」 ピペルと会見したときのわたしは、まだこの文章を読んでいなかった。しかし、ピペルがマンデルバウムをよく知っているという感触をえたので、ズバリとこう聞いた。 「日本のNHKが放映したデンマーク・ラジオの作品のなかで、マンデルバウムは、はこんだ死体の死因はガス中毒だと語っている。しかし、一収容者のマンデルバウムには、外科的、または法医学的な、死因を特定する手段はなかったはずだが、どう思うか」 ピペルは、わたしの疑問を否定しさることができなかった。無言で何度かうなずいたのちに、おおきく両手をひろげて、ゆっくりとこう答えた。 「かれは、そのように観察(オブザーヴ)したのです。かれは目撃証人(アイ・ウィットネス)なのです」 ピペルの回答にたいしては、これ以上のコメントをくわえる必要はないだろう。その後にピペル自身の著書の文章で確認したが、かれ自身、マンデルバウムが「焼却」した「死体」について、「ガス中毒」とは表現していない。 そこで最後にわたしも、マンデルバウムの発言を「ロイヒター報告」にたいする「正反対の主張」だと断定するデンマーク・ラジオとNHKの「迷」解説に対抗して、とっておきの問題点を指摘しよう。この作品でも、さきの『ニューズウィーク』の記事と同様に、「チフス」という決定的に重要なキーワードが一度もでてこなかった。なぜだろうか。
(62) 過去の過大な賠償金支払いと、現在の過大な精神的負担との類比
|
電網木村書店 Web無料公開
『アウシュヴィッツの争点』
ユダヤ民族3000年の悲劇の歴史を真に解決させるために
(62)
第4部 マスメディア報道の裏側
第7章:はたして「ナチズム擁護派」か 6/6
|
過去の過大な賠償金支払いと、現在の過大な精神的負担との類比
『ユダヤ人虐殺を否定する人々』の画面は最後に、冒頭の政治集会の場面にもどる。きりかえの合図は、またもや「ディゾルヴのカギ十字」である。カットインの写真で会場の建物と前の広場の、戦争中と現在の風景がうつしだされ、解説がはいる。 「戦争当時、ニーベルンゲンハーレンの広場は、ナチスの政治集会につかわれていた。そして現在、……」 画面はまた会場のなかにもどる。調子をそろえた拍手のなかを作家のアーヴィングが、政党幹部らしい白髪の男とならんで演壇にむかってすすんでいる。解説がはいる。 「五〇年前をほうふつとさせる風景が建物の中でくりひろげられている。ナチズムを信奉する一政党、ドイツ民族ユニオンの集会である。この政党は一九九一年九月、ドイツ北部、ブレーメンの選挙で、周囲の予想をうわまわる勝利をおさめた」 たしかに、「五〇年前をほうふつとさせる風景」なのであろう。しかしわたしはすでに、この集会の参加者について、「若い男女がおおくて、雰囲気はあかるい」としるした。「ドイツ南部の町、ホルツハイム」のキャンペーン集会についても、「質素な感じ」とか「なごやかな雰囲気の集まり」とか「ごく普通の市民層なのではないだろうか」としるした。時代がちがうといえばそれまでであるが、政党やイデオローグの側にも、リラックスした雰囲気がある。わかりやすくいうと「票がのびる」雰囲気なのである。それはなぜなのだろうか。 五〇年前、というよりはそれ以前の七〇年ほど前のヒトラーが台頭した時代のドイツでは、第一次世界大戦の賠償金支払いが経済を崩壊した。その経済的および政治的状態への不満がナチ党発展の火種となった。その教訓から、第二次世界大戦の戦後賠償請求はゆるやかになり、西ドイツは日本と同様の経済的発展をとげた。 だが、かつての「過大な賠償金支払い」にかわるものとして、現在は「ホロコースト」という「過大な精神的負担」がドイツ人に課せられているのではないだろうか。この「精神的負担」が、もしも虚偽の報道にもとづいているのだとしたら、そして、おおくの「普通の市民層の」ドイツ人が、その虚偽を見やぶる材料と論理を自分のものとしたら、まさに「五〇年前をほうふつとさせる」以上の政治状況がうまれても不思議ではない。 すでに紹介したように、ドイツで裁判官の解任にまでいたった裁判の判決文にも、「ドイツはホロコーストを理由に、ユダヤ人の政治的、道徳的、金銭的要求にさらされて」いるという認識が明記されている。しかも、そのユダヤ人の「要求」が過大かいなかという以前に、その「理由」が虚偽の主張にもとづくものだというのだから、これはまさに質的な問題である。民族のアイデンティティにかかわる決定的に重大な問題であり、第一次大戦後の事態よりもさらにのっぴきならない不満の材料に発展する要素をはらんでいる。 「アウシュヴィッツの嘘」発言処罰の「禁固刑」を、三年から五年に延長強化したドイツ議会の法律制定行為は、沸騰点に達しつつあるボイラーの安全弁に厳重な溶接の封をかぶせるような愚行のきわみである。爆発のエネルギーは確実に倍加するであろう。 そういう意味で、この『ユダヤ人虐殺を否定する人々』という映像作品は皮肉にも、その制作者の主観的な意図をはるかにこえて、わたしに、「ホロコースト」物語の「過大な精神的負担」がもたらしたドイツの危機的な政治状況を教えてくれた。映像作品ではこのように、映像が解説を裏切ることが時として生ずるものである。しかも、解説が矛盾だらけであれば、なおさらのことなのである。
第8章:(63) テロも辞さないシオニスト・ネットワークとの対決
|