第3部第6章、隠れていた核心的争点

 (最新見直し2012.04.14日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「第1部第2、解放50年式典が分裂した背景」を転載しておく。

 2012.04.13日 れんだいこ拝



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『アウシュヴィッツの争点』
ユダヤ民族3000年の悲劇の歴史を真に解決させるために
(49)
第3部 隠れていた核心的争点
第6章:減少する一方の「ガス室」 1/7

『週ポ』Bashing反撃)

前線発表報道の「ガス室」は「発疹チフス」予防の消毒室だった

「ガス室」の存在については「物的証拠」の発見以前に、第二次大戦中から「戦時宣伝」がはじまっていた。
 ところが不思議なことに、戦争末期、または戦後の、「物的証拠」の発見の経過をまとめた資料が、どこからも発見できないのである。どの資料を見ても、いきなりニュルンベルグ裁判からはじまっている。仕方がないので、国会図書館で当時の『ニューヨーク・タイムズ』のマイクロフィルムを検索してみた。本来ならば、アメリカの図書館や公文書館に長期間通って、可能なかぎりの情報を収集すべきところなのだが、本書では中間報告にとどめざるをえない。
 関連記事をいくつか発見できたが、これがまた不思議なのである。死体の山の写真があったり、「ドイツの恐怖の収容所」とか「ドイツの残虐行為の証拠」とかいう見出しや、写真説明があるのに、「ガス室」という言葉はでてこないのである。「アウシュヴィッツ収容所が“もっとも恐ろしい”」(45・4・29)という見出しのベタ記事もあったが、その内容は「元アウシュヴィッツ収容者」のラジオ放送の談話の再録であって、「犠牲者が焼き殺された」ことが“もっとも恐ろしい”経験の具体例になっている。これも「ガス室」ではないのだ。この記事の日付は、アウシュヴィッツ収容所がソ連軍によって解放されてから三か月後である。
 すでに本書の八四ページに載せた写真(web公開では省略)の説明で、ダッハウ収容所の「消毒室」を「ガス室」と間違えていた経過を紹介した。この写真のような「物的証拠」がたどった経過も調べなおす必要があるだろう。
『世界大百科事典』の「発疹チフス」の項目では、「シラミが寄生するような衛生状態の不良なところに流行が発生し、〈戦争熱〉〈飢饉熱〉〈刑務所熱〉〈船舶熱〉などの別名でも呼ばれた」とし、「第二次世界大戦でも発疹チフスは将兵をおそい、多くの日本軍兵士の命を奪った。さらにアウシュヴィッツなどのナチスの捕虜収容所でも大流行」したと説明している。
 ユダヤ人の強制収容それ自体も残虐行為である。だが、わたしにも、戦後の中国からの引き揚げ家族の一員としての、ささやかな収容所経験がある。当時の衛生環境の収容所で、発疹チフスが発生したら大変な騒ぎになっただろうと思う。日本に帰国して上陸したとたんに、大男のアメリカ兵に頭から袋をかぶせられ、DDTの噴射で全身真白にされたものだ。
 となると大量の死体だとか、はだかの人の群れだとか、衣服や髪の毛の山だとか、これまでに何度も見た写真などの各種の資料についても、つぎのような説明が自然に思えてくる。
「発疹チフスの流行下でユダヤ人を大量に強制移送したドイツ軍は、かれらを収容所にいれる前に、それまで着ていた衣服を全部ぬがせ、シラミの卵がうえつけられている可能性のたかい髪を刈り、シャワーを浴びさせた。衣服は別室にまとめ、殺虫剤チクロンBで薫蒸することよってシラミを駆除した。チクロンBと薫蒸室には、毒物の危険を知らせるために、どくろマークがつけられた」
 具体例を有名なベストセラーの『夜と霧』の記述にもとめてみよう。
『夜と霧』には予備知識にもとづく想像による記述が非常におおい。だが、そればかりではない。著者の精神医、フランクルは、自分自身の直接の実体験をもくわしくしるしている。かれは、「アウシュヴィッツ到着」の直後に「消毒浴場」にむかい、親衛隊員から「二分間でお前達は全部衣類を脱がなければならん」と命令された。「他の部屋」で「毛をそられた。頭髪ばかりでなく、身体中残らず毛をそられてしまった」。「それからシャワー室に追いこまれた。われわれは整列した」。フランクルは恐怖をおぼえる。だが、「シャワーの漏斗から実際に」、(毒ガスではなくて!)、「水が滴り落ちてくるのを認めて喜んだ」のである。さらにフランクルは、シャワー室で「冗談を言いかわし」た理由として、「もう一度言うが、シャワーの漏斗から実際に水が出てきたからである」とまで、くりかえし書いている。
 フランクルはこのように、「消毒浴場」が本物であることを証言しているのだ。
 さらには、もう一つの謎もこれで一挙にとける。その謎とは、なぜ、これらの「衣服や髪の毛の山」とか、「どくろマーク」つきの「チクロンB」とか、おなじく「どくろマーク」つきの部屋とかが、そのまま強制収容所にのこされていたのかという謎である。それらの遺留品や設備はこれまですべて「ホロコースト」の物的証拠だと主張され、世界中の「ホロコースト記念展」などで写真や実物の展示までされてきた。だが、本当にそれだけの凶悪な犯罪の物的証拠ならば、なぜドイツ軍は、日本軍の七三一細菌部隊がそうしたように、撤退にさいしてそれらを破壊または焼却しようとしなかったのだろうか。この破壊作業は、要塞なみに頑丈につくられた鉄筋コンクリートの建物を相手にした七三一部隊の場合よりも、はるかに容易だったはずである。
「髪の毛」にはとくに、古今東西で「遺髪」としてあつかわれてきた性格があるから、微妙な感情的問題をはらむ。さきに紹介した『レクスプレス』(国際版95・1・26)にも、アウシュヴィッツ博物館の国際評議会内に、その展示の是非についての異議があるなどという経過がしるされている。ソ連軍による「発見」以来の経過も複雑なようである。
 わたし自身には、アウシュヴィッツ博物館で大学教授のヴォランティア案内役の説明をうけたときの、予想外の経験がある。わたしは、展示されている「髪の毛」について、人形の髪の毛用の「繊維」ではないかという説があるのを知っていたので、ガラス窓ごしにしげしげと眺めていた。外観はたしかに、その説の通りで、まったく同じ亜麻色、まったく同じ太さである。さまざまな人々の髪の毛が混在しているという感じはしなかった。すると、わたしが質問したわけでもないのに案内役の大学教授は、「ガス室で殺された人の髪の毛なので、ガスの影響で変質して同じ色になっている」と説明したのだ。
 そうなのかもしれない。わたしには、これ以上の知識はない。だが、その場合、「シラミ取りの消毒をするからという口実で髪の毛を刈った」という従来の説明とは、完全に矛盾してくる。「生き証人」、たとえばすでに紹介した映画『ショア』にでてくる理髪師アブラハム・ボンバなどの証言は、どう解釈すればいいのだろうか。かれは、「ガス室」にはいる前の裸の女の髪の毛を刈ったと語っている。「女の髪の毛の注文があった。ドイツに送られたのだ」というのが、かれの説明だった。
 現存の「ガス室」については、すでにアウシュヴィッツIとビルケナウの、たったふたつの実物に疑問があることを紹介した。ビルケナウには、「ドイツ軍が撤退にさいして爆破した」という説明の廃墟がある。これも『ロイヒター報告』の調査対象にはいっているが、「爆破」についてのくわしい経過や、元の設計図が残っているのかどうかなどの状況が、よくわからない。『ロイヒター報告』では、現在の廃墟の規模から計算して、もしもそれが「ガス室」だったとしても、最大に見積もって「一〇万人」そこそこを殺すのがやっとだろうと主張している。この数字は、すでに紹介したニュルンベルグ裁判の証拠「L・022」が主張する二年間で「一七六万五〇〇〇人」の一〇分一にもならない。
 研究論文には、巻末に紹介した「ビルケナウの火葬場IIとIII」などがある。なお、フォーリソンからの耳情報によると、ビルケナウの火葬場については絶滅論者のなかで、最初から「ガス室」として建設されたという説と、別の目的だった建物を改造したという説の、ふたつに割れているそうである。刑事裁判でいえば、検察側の意見がまとまっていないことになる。これでは、反論のしようもない。

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『アウシュヴィッツの争点』
ユダヤ民族3000年の悲劇の歴史を真に解決させるために
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『週ポ』Bashing反撃)

「記録の抹消といった巧妙な手口」という説明の矛盾

「ドイツ軍が崩壊状態にあったから、証拠湮滅作業まで手がまわらなかったのだ」と主張する人もいるだろう。では、その主張と完全に反対の、つぎの『ニュースウィーク』(日本語版89・6・15)のような文章がいたるところで目につくのは、いったいどういう理由によるものなのだろうか。
「歴史学者を悩ませる謎のなかで、最も不可解なのはユダヤ人大量虐殺(ルビ・ホロコースト)だ。なぜナチは、ヨーロッパのユダヤ人を抹殺しようとしたのか。人々をどう説得して、この残虐非道な計画の実行に当たらせたのか。事件のあまりのむごたらしさに、戦後一五年間ホロコーストの本格的な研究に取り組もうという者はいなかった。その後研究に乗り出した者も、ナチの秘密主義、命令が文書化されていないこと、記録の抹消といった巧妙な手口のため、思うように成果を上げられなかった」
 すでに「おおくの点で不正確」と批判した記事だが、そのなかでも、もっともいい加減で当てずっぽうなのが、以上のような最初の書きだし部分である。ここでは、「ホロコースト」の謎がとけない最大の理由を、「記録の抹消といった巧妙な手口」に帰している。まずはこの釈明自体がすでに、「証拠不十分」と「裏づけ調査の不足」の告白となっていることに注意してほしい。
 つぎに重要なのは、「記録の抹消」についてもまったく裏づけがないことである。ジャーナリズムの業界用語では「裏をとる」というが、その基礎作業を手ぬきした「噂」がそのまま、学術研究と称する文章にもつかわれているのが実情なのだ。実際には、その崩壊にさいして、ナチス・ドイツほど文書記録の湮滅の努力をしなかった国家権力はない。ナチス・ドイツがのこした公文書についての研究も、わたしの手元にある。
 おなじ敗戦国でも日本の場合にはまだまだ、「天皇制国家」の「国体護持」という明確な目的がのこっていた。軍隊は崩壊寸前だったが官僚機構は健在だった。
 東京都知事になった鈴木俊一とか、読売新聞会長になった小林与三次とかいう、元内務省高級官僚の思い出話が活字になっている。それらによると、天皇の側近官僚、官僚の上に立つ官僚といわれた元内務省の地方局事務官たちは、「終戦応急処理方針」を全国の末端にまで徹底させるために、無料パスをあたえられて急遽、満員の汽車にわりこんだ。その結果、ポツダム宣言受託決定の一九四五年八月一〇日からアメリカ軍が進駐してくるまでの全期間を通して、霞ヶ関一帯を典型とする全国のあらゆる官公庁から、証拠書類湮滅の煙がモウモウと天をこがして立ちのぼったのである。
 ナチス・ドイツの場合には、ヒトラー総統の自殺と腹心の逃亡などが象徴するように、中央の機能が一挙に壊滅してしまった。だから、証拠書類湮滅はほとんどおこなわれなかったのではないだろうか。
 絶滅説に立つホロコースト史家の中心人物、ラウル・ヒルバーグは、映画『ショア』のなかで、要旨つぎのように断言していた。
「[最終的解決の]記録、特定の計画、メモは、ひとつとして発見することができない」

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現代史研究所長が「ドイツではガス室殺害なし」と新聞投書

 リーフレット『収容所の解放/事実と嘘』および雑誌記事「ダッハウのガス室神話/収容所解放50周年の隠された歴史」によれば、アメリカ軍とともにドイツのダッハウなど約二〇の収容所にはいり、発見した死体を不眠不休で「約三〇〇から一〇〇〇体ほど」検死した「唯一の法医学者」、チャールズ・ラーソンは、「毒物および毒ガスによる死亡例は一件もない」と報告していた。つまり、公式ないしは非公式を問わず、当時の唯一の専門的な法医学鑑定では、事前に流れていた噂のような「注射」や「ガス室」による「ホロコースト」の実例は、まったく発見されていなかったのである。
 原資料としては、ラーソンの伝記『犯罪検死医師』(CrimeDoctor)や本人の談話の新聞記事が挙げられている。ラーソンの検死結果によれば、「死因の大部分はチフス、結核、栄養失調」であった。ラーソンは、以上の検死作業について公式報告を提出しただけではない。「アメリカ軍の検察官から三日間にわたる質問」まで受けている。しかし、このラーソンの公式報告は、長らく埋もれたままになっていた。アメリカ軍や、ニュルンベルグ裁判の検察局が秘密にしたからだけではなく、大手メディアが実地検分作業を無視しつづけたからだと考えられる。
 それでもすでに一九六〇年までには、西側占領地域にあった収容所には「ガス室はなかった」というのが、「事実上の定説」になってしまった。西側では、ラッシニエ以来の批判もあったし、それなりの地道な学術的調査がおこなわれたからである。
 しかし、この「事実上の定説」が学問の世界で確立した前後の経過は、実に奇怪至極である。
『アウシュヴィッツ/判事の証拠調べ』によると、一九六〇年八月一九日付けの西ドイツ(当時)の週刊紙『ディー・ツァイト』に、つぎのような要旨の投書がのった。
「ダッハウでも、ベルゲン・ベルゼンでも、ブッヒェンヴァルトでも、ユダヤ人ほかの被収容者で、ガス室によって殺されたものはいなかった」
 投書の主は、ミュンヘンにある西ドイツ(当時)国立現代史研究所の所長[Webにおける訂正:この投書をしたのは所長になる以前だったので研究員とする]で、歴史家のマーティン・ブロサット博士だった。本来なら、西ドイツ政府の「現代史」についての見解を代表する立場の公的な責任者だ。そういう公的な立場の人物が、なぜ、個人名による新聞投書という非公式な便宜的手段を選んだのだろうか。
 シュテーグリッヒ判事は、この投書を「ラシッシニエの発見に対する回答」だと推測している。そうだとすれば、そのさい、公式決定と公式な回答発表をさまたげたのは、いったいどこのだれなのだろうか。ブロサット博士自身の選択だったのだろうか。それとも、背後の組織の決定だったのだろうか。疑問はふくらむが、ともかく以後、「西側にはガス室はなかった」というのが「事実上の定説」になった。のちにその正体の一部をあばくが、「ナチ・ハンター」として売りだし、『マルコ』廃刊事件で威力を発揮したSWCがその名をいただくユダヤ人、サイモン・ウィゼンタールでさえも、テオドール・オキーフが執筆したリーフレット『収容所の解放・事実と嘘』によれば、一九七五年には「ドイツの土地のうえには絶滅収容所はなかった」としるしている。
『六〇〇万人は本当に死んだか』では、地図(本書一二ページ所収[Web公開では省略])によって視覚的に、この「事実上の定説」の奇妙さを強調している。
「事実上の定説」というカッコつきのもってまわった表現をしたのには、それなりの理由がある。一般むけの広報どころか権威筋の内々の公式の訂正発表さえおこなわれず、ひそかな流産のように、または、ジョージ・オーウェルがえがいた『一九八四年』の世界における歴史改竄よろしく、「西側のガス室」説が音もたてずに消えうせたのだからだ。
「事実上の定説」変更というあつかいには、結果として、事実経過をあいまいにさせる効果がある。論争は「のれんに腕押し」で終了するが、事実にもとづく歴史的な検証は一般の目にはうつらない。
 それでもたとえば、すでに紹介した『アエラ』(94・8・29)の特集記事、「アンネ・フランクは償われたか」の描写のように、当初は「ガス室」処刑場のリストにはいっていた収容所、ベルゲン・ベルゼンについても、つぎのようにしるされるようになった。
「このドイツ内陸の収容所は、アウシュヴィッツのような『絶滅』用ではなかった」
 ベルゲン・ベルゼンについては、すでに『夜と霧』の解説でも、「ガス室こそなかったが、それでも数千の人々が病気や飢餓で抹殺された」という表現になっていた。
 これらの「ガス室はなかった」と判定された収容所のそれぞれについても、「ガス室」における処刑を告発し、または自供するやまほどの「証言」があった。たとえば『夜と霧』の日本語版にはいまもなお、それらの「証言」がそのまま収録されている。
 その一方、たとえば、すでに指摘したように、テレビ朝日『ザ・スクープ』の「秘話!封印された日系米兵のナチ収容所解放▽裏で親衛隊処刑」では、せっかくのスクープをものにしながら、いまだにダッハウ収容所に「ガス室」があったという認識のままの解説がくわえられている。

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「東方移送」による「ホロコースト」神話維持は「二度目の嘘」か?

「事実上の定説」変更のあとに「ホロコースト」の現場としてのこったのは、旧ソ連占領地域の収容所であり、その中心がアウシュヴィッツだった。
 たとえば、絶滅説に立つ比較的にあたらしい著作を例に挙げると、一九九三年に日本語版が出版された『沈黙の遺産』という本では、「絶滅収容所」を、つぎのように説明している。
「ガス室をそなえ、ユダヤ人の大量虐殺を第一の目的に掲げていた収容所。ヘウムノ、アウシュヴィッツ、ベウジッツ、ソビボール、トレブリンカ、マイダネクの全六ヵ所で、すべてポーランドに建設された」
 シュテーグリッヒ判事の著書『アウシュヴィッツ/判事の証拠調べ』によると、一九五〇年代までは、アウシュヴィッツはそれほど重視されていなかった。ところが一九六〇年以降、フランクルの『夜と霧』や、それをもとにした映像作品などによって、にわかにアウシュヴィッツの「惨劇」がクローズアップされはじめた。アウシュヴィッツには間違いなしに「ガス室」があったというのだ。
 だが、ホロコースト否定論者はこういう。
「ソ連のいうことをことごとく否定してきた西側諸国の支配者が、なぜアウシュヴィッツについてだけは、ソ連の報告をそのまま認めるのか」
 すくなくとも独自の再調査は必要だろう。
「事実上の定説」変更は、もしかすると、実に陰微な官僚的策略なのではないだろうか。その結果は、ノルベルト・フライの近著、『総統国家』などにも典型的にあらわれている。 フライは、さきに紹介したブロサット博士が所長のドイツ現代史研究所の若手(一九五五年生れ)専任研究者である。フライは戦後の研究史、または裁判史、報道史の問題点にはまったくふれない。かれは、ダッハウなどのドイツ国内収容所でも「ガス室」処刑がおこなわれたことになっていたという「最初の嘘」を、完全に抹殺してしまう。そしていきなり、最初からすべての事情が判明していたかのように、アウシュヴィッツ収容所群における「ガス殺施設」を登場させる。「東部でこのように殺人機械がフル回転」するという「途方もないことがおこなわれ」、そこへむけて、「強制移送」の「お迎え」がユダヤ人をおそうという「ジェノサイド」の構図を、ものものしくえがきだすのである。実証的な資料研究は皆無にひとしい。
 シュテーグリッヒ判事は、「ホロコースト」神話の「東方移送」にたいして、「だれしもが昔のドイツの格言を忘れているように見えた」という皮肉をはなっている。その格言はつぎのようである。
「一度嘘をついたものは、二度と信用してはならない」
 ところで、新聞への個人投書という手段で「事実上の定説」の変更がおこなわれた一九六〇年という時期には、まだまだ東西の壁は厚かった。西側の絶滅論者のだれしもが、「東部のガス室」の実地検証をせずに、「ホロコースト」物語の「東方移送」に賛成していたわけである。だが、その「東部のガス室」は、西側の「否定されたガス室」とは決定的にちがう特別な構造のものだったのだろうか。だれかが、専門的な比較検討をしたのだろうか。
 現存する「ガス室」は、何度も念を押すようだが、たったふたつだけである。アウシュヴィッツIにひとつと、マイダネクにひとつだ。
 マイダネクの「ガス室」については、すでに紹介したユダヤ人のコールがビデオの映像で、ドアが内側からしか閉められない構造であることを明らかにした。かれは、西側のオーストリアのマウタウゼン収容所の“元”「ガス室」こと、「事実上の定説」では普通のシャワールームのドアの映像と比較して、まったくおなじ構造だということを、だれの目にもわかりやすいようにした。マイダネクの「ガス室」についても、普通のシャワールーム以外のなにものでもないことが、すでに立証されたも同様である。
 アウシュヴィッツIの「ガス室」については、これもすでにフォーリソンによる「戦後の捏造」説が有力になっている。
 これでどうして、「ガス室」による「ホロコースト」物語がまだ維持できているのだろうか。なぜ、おおくの知識人、ジャーナリスト、学者、研究者たちが、いまだに「ガス室」を中心とする「ホロコースト」物語をいささかもうたがおうとしないのだろうか。そのことの方がむしろ、不思議になってくるほどなのである。

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科学的で法医学的な世界初の「ガス室」検証が『ロイヒター報告』

 さてここで、いよいよすでに何度かふれた『ロイヒター報告』についてのくわしい評価にはいろう。
「チクロンB」および「ガス室」については、カナダでの裁判で、アメリカの専門業者による鑑定がおこなわれている。アメリカにはガス室での死刑を実行している州があり、実際にガス室の建造作業をした経験のある業者がいるのだ。その専門業者のロイヒターは、アウシュヴィッツの現地でのサンプル採集などの調査をおこない、詳細な鑑定書を作成し、法廷に提出している。
 報告の内容を要約すると、「ガス室」とされてきた建物の構造は、木製のドア、換気装置の不備などから青酸ガスの使用には不適当、「チクロンB」による大量殺人は不可能だとして、「ホロコースト」物語の「ガス室」の存在には完全に否定的である。
「チクロンB」から発生する青酸ガスは、コンクリートの天井、壁、床などに浸透して残留し、コンクリートの成分や鉄筋と結合してシアン化合物を形成する。日陰の場所なら最低数百年、条件次第では数千年後でも検出できるというのが、これまた別のアメリカの学者の法廷における鑑定証言である。
 ところが、「ガス室」と称されていた建物、または建物跡からは、まったくまたは「ごく微量」(サンプル一キログラムに最高で七・九ミリグラム)のシアン化合物しか検出されなかった。その一方で、「消毒室」からは、明確に大量のシアン化合物(サンプル一キログラムに一〇五〇ミリグラム)の残留が検出された。二桁以上の差である。「チクロンB」が「消毒室」で、衣類やマットなどからチフスの病原体を媒介するシラミを除去するためにつかわれたことは、すでにしるしたように絶滅論者も認める事実である。また、「ごく微量」の残留が検出された建物についても、消毒がなされた事実にあらそいがない。
「消毒室」から大量のシアン化合物の残留が検出されたという調査結果は、同時に二つの事実の証明になる。第一は、「消毒室」で「チクロンB」が使用されたという事実であり、第二は、「チクロンB」が使用された建物では数十年後でもシアン化合物の残留が消滅しないという事実である。第二の事実は同時に、「ガス室」と称されていた建物の調査の「照査実験」(コントロール、照らし合わせ)の基準の役割をも果たしている。
 手元にある一般向けの大型パンフレット、『ロイヒター報告』には、「アウシュヴィッツについてのはじめての法医学的調査」という副題がそえられている。調査作業が実施されたのは一九八八年だから、一九四五年のドイツ降伏から数えて四三年目のことになる。『ロイヒター報告』の原文は、刑事事件の裁判の証拠として、ロイヒター自身の口頭証言とともに法廷に提出されたものである。
 事件の被告、ツンデルは、カナダでパンフレット『六〇〇万人は本当に死んだか』を頒布したことを理由に逮捕され、告訴された。一審判決では一五カ月、二審では九カ月の禁固刑判決がだされ、上訴していた。
 法律的には、ツンデルの行為が刑法で禁じられている「虚偽の報道」に当たるというものであったが、「歴史見直し研究所」の『ニューズレター』(92・10)によると、一九九二年八月二七日に最高裁で勝利し、無罪が確定している。
 最高裁の判決全員一致ではなくて、四対三のきわどい過半数である。内容は「ホロコースト」についての判断を避けているというから、ロイヒターの鑑定についても同様のあつかいなのだろう。しかし、ツンデルが告訴され、地裁で有罪の宣告を受ける根拠になった刑法の条文が「結果的に少数意見を圧迫」しており、カナダの権利憲章に規定された言論の自由を侵害しているので「違法」だとする判決なのだから、ある意味では決定的な勝利なのではないだろうか。
 アウシュヴィッツIの「ガス室」の調査結果については『マルコ』廃刊事件以後、「イスラエル大使館の滝川義人報道官」が、「実験的に青酸ガスを使っただけ」という「聞き慣れない説」(『噂の真相』95.4)を発表している。
 ロイヒターの鑑定には、もう一つの決定的なポイントがある。青酸ガスは、火気にふれると酸素と化合して爆発する性質の気体である。だから、火の気のあるところのそばに「ガス室」を設置するのは危険だという主張である。
『デゲシュ説明書』には「可燃性」の項目があり、つぎのようにしるされている。
「液体シアン化水素はアルコールと同様に燃える。ガス状シアン化水素は一定の条件の下で爆発性の混合気体となる。爆発の最低限は、しかし、実際の消毒作業にもちいられる濃度よりも、はるかにたかい」
『世界百科事典』(平凡社)では「爆発限界は六から四一容量%」としている。たしかに「即死」の大気濃度「二七〇PPM」よりは「はるかにたかい」。ただし、「発火点」が五三七度Cとなっている。葬祭場に聞くと、現在の焼き場の温度は一二〇〇から一四〇〇度Cで、戦争中は薪をつかっていたが八〇〇から一二〇〇度Cはあったはずだという。爆発はしなくても、空気中で燃えて引火の可能性がある。危険を避ける「ガス室」設計をおこなうのが常識ではないだろうか。危険物の取扱に関する法律などがあったかもしれない。これも、厳密な調査が必要であろう。
「チクロンB」のマニュアルでは、使用する部屋の温度をあげるのに、遠方で熱した温風を送るように指示している。ところが、
 現実の「ガス室」と称されている部屋、とくにもっとも典型的で一般見学者がかならず案内されるアウシュヴィッツ・メイン・キャンプの建物の場合には、「ガス室」のとなりの部屋に焼却炉(写真14.Web公開では省略)がならんでいる。中間の扉はこわされて位置がかわり、穴があいたままになっているが、反対側の入り口の扉(写真15.同上)は木製で、構造上も密閉性はない。隙間だらけである。

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『アウシュヴィッツの争点』
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ポーランドの法医学調査研究所がおこなった追試調査

「ガス室」検証の歴史的経過は、「歴史見直し研究所」が発行している最新のリーフレット、「“ホロコースト否定論”とはなにか」に簡潔にまとめられている。
 それによると、すでに紹介したユダヤ人の歴史学者メイヤーの問題の著書、『なぜ天は暗くならなかったか』は、ツンデル裁判で『ロイヒター報告』が提出されたのとおなじ年の一九八八年に発表されているが、そのなかでメイヤーは、「ガス室」の真相を見きわめるために「殺人現場とその直接の周辺の[考古学的]発掘調査」をよびかけていた。
 ロイヒターの調査と報告にひきつづいて、ドイツの化学者(公認の薬剤師で博士課程の研究者)、ゲルマル・ルドルフによる調査がおこなわれている。ルドルフの研究結果は『歴史見直しジャーナル』(93・11/12)に紹介されている。実地調査とサンプルの分析にもとづくかれの結論の骨子は、つぎのよう明確なものである。
「化学的・技術的な理由により、アウシュヴィッツの“ガス室”と称される場所における青酸による大量ガス殺人の主張は、存在しなかった」
 このほかにも、アメリカの化学者ウィリアム・リンゼイと、ドイツの技術者ヴォルフガング・シュスターが、同様の調査を行い、『ロイヒター報告』の正しさを裏付けているという。
 これとは別にアウシュヴィッツ博物館が、近くのクラコウ市にある法医学調査研究所に同様の調査を依頼した。その報告書の全文英訳が『歴史見直しジャーナル』(91夏)にのっている。「“ホロコースト否定論”とはなにか」では、「いわゆるガス室ではゼロか微量のシアン化合物しか発見できないというロイヒター報告を裏づける」結果だと評価している。

追試調査報告の公表と判断をさけるアウシュヴィッツ博物館

 わたしは、アウシュヴィッツ博物館で歴史部主任のピペル博士に会ったさい、最後の第三番目の質問として、博物館がクラコウの法医学調査研究所に調査を依頼した件をもちだした。
 その質問の前提として、わたしが持参した英文の『ロイヒター報告』をしめしたところ、とたんにかれの態度は急変した。それまでに見せていた余裕がなくなった。それまではゆったりと椅子の背にもたれて、気楽に肩をすくめたりしながら語っていたのだが、わたしが『ロイヒター報告』をひろげた机に身をよせて、息をひそめるような低い声で、「この報告はドイツ語の翻訳で読んだ」という。持っているとはいわなかった。そして、あわただしく手帳に『ロイヒター報告』の題名や出版元などをメモした。
 わたしは、カリフォルニアの「歴史見直し研究所」の前述のリーフレットの該当箇所をしめし、事実経過にまちがいはないかと聞いた。ピペルは黙ってうなずく。つづいて、アウシュヴィッツ博物館として調査結果を公表したかと聞くと、ピペルは肩をすくめ、しばらく考えてからこう答えた。
「博物館としては公表していない。クラコウの研究所が医学雑誌に発表した」
 わたしは、ふたたびリーフレットの該当箇所を指さして、「ここには博物館が調査を依頼したと書いてある。基本的には博物館の仕事ではないか。なぜ博物館が公式発表をしないのか」とせまった。しかし、ピペルは肩をすくめるばかりで、これには返事をしない。わたしには、かれらの立場がわかりすぎるほどわかっている。これ以上せめても仕方ないので、つぎの質問にうつった。
「わたしは、事実にもとづく諸民族の和解こそが永続的な平和の基礎だと考えて、この問題を取材している。もしも、ガス室とされてきた部屋ではゼロか微量のシアン化合物しか発見できないという結果がでたのなら、ガス室によるユダヤ人ジェノサイド説は否定されると思うがどうか」
 この質問にもピペルは肩をすくめて口をゆがめ、しばらく黙っていたが、ついにこう答えた。
「真実を語る口は沢山ある。残留がすくない理由は、シラミの消毒の場合とちがって、人を殺す場合は短時間だったからとも考えられる」
 わたしは、この答えにたいして内心あきれながらも、仕方なしにほほえんで、やはり照れ笑いのような表情をうかべるピペルの顔をしばし見つめた。この答えは、決してピペル一人がとっさに思いついた逃げ口上ではないと感じた。博物館だけの判断でもない。東西冷戦の壁がくずれたとはいえ、否も応もなく地理的にドイツとロシアにはさまれ、アメリカやイスラエルの思惑を気にせずにはいられないポーランドの、まさに歴史的宿命としかいいようのない悲哀が、ピペルの照れ笑いの背後に透けて見えるような気がした。
 すでに一二時をすぎてもいたが、ピペルの態度には、もうこの問題は勘弁してくれという雰囲気があった。あとは直接、クラクフの研究所にアタックする以外にない。もっとくわしく状況をしりたい。平和行進の出発を見送る予定を変更してクラコウにいこうと、その場で決意した。
 そこで最後に、クラクフの研究所をたずねたいが場所はわかるか、と聞いた。ピペルは、クラクフで聞けばすぐにわかると答えた。わたしはいさぎよく礼をのべてピペルの部屋をでた。

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『アウシュヴィッツの争点』
ユダヤ民族3000年の悲劇の歴史を真に解決させるために
(55)
第3部 隠れていた核心的争点
第6章:減少する一方の「ガス室」 7/7

『週ポ』Bashing反撃)

「非常にむずかしい問題」を連発するクラクフの誠実な法医学者

 クラクフの研究所を探すのは、英語の研究所名と地図だけがたよりにしては、そんなに困難な作業ではなかった。ところが、研究所にたどりついて下手な英語のジョークをとばしたのだが、本当に「百年に一度のハップニング」によって三時間の市内放浪を余儀なくされてしまった。というのは、まず最初に英語が通じない市の警察本部で聞き、大体の位置がわかって探しはじめ、途中で見かけたアメリカの領事館にとびこんで親切に教えてもらえたのに、なんと、「角の茶色の古いビル」だったはずの建物が「改装中」でピカピカのオレンジ色にあたらしく塗りかえられ、看板がはずされていたからだ。
 おまけに、会見の予約もしていないのだから仕方ないのだが、問題の調査の担当者は仕事の都合で会えないという結果だった。しかし、わざわざ足をはこんだ効果はあった。英語が話せるという理由だけで応対してくれた研究員が、担当者の氏名と電話番号を教えてくれたし、わたしが名刺を託して「帰国してから国際電話をかける」というと、かならずそう担当者につたえると約束してくれた。
 教えてもらった担当者は、ヴォイチョフ・グバウワ博士とイアン・マルキェヴィッチ教授だった。
 実際に帰国してから国際電話をかけてみると、どちらもほかの勤務場所と兼任のパート・タイムで、なかなかつかまらない。四度目にやっとグバウワ博士と話せた国際電話の結果は、ピペルとの質疑応答の場合と基本的におなじようなものだった。要するに、「研究所の名で医学専門雑誌に発表するのが妥当だと判断した」という趣旨の、日本の役人の国会答弁と似たような逃げの返事しかえられなかったのである。だが、わたしはおどろきはしなかった。予想通りの対応だったからだ。
 グバウワの応対ぶりは、しかし、誠実であった。かれは何度も、「われわれにとって非常にむずかしい問題」だといった。「医学専門雑誌に発表」した理由は、調査の費用が「ある科学者の組織」からでているからという説明であった。わたしは、「みなさんの立場はわかっている」とつげたうえで、一応、ふみこんだ質問を発した。ロイヒター報告とおなじデータがでているのなら、おなじ結論、つまり「ガス室」とされてきた建物または部屋では、「ガス殺人」(ガッシング)は実行されていないという結論に到達するのではないか、という趣旨の質問である。これにたいしては、前述のピペルの解釈とはちがう答えがかえってきた。「残留の反応がでた箇所とでない箇所があるのは、現場が深い水につかったりする場所[昔は沼地]だからかもしれない。長年大量の雨にも打たれている。結論をだすのはむずかしい」という趣旨である。
 意外なことにかれは、わたしの名刺で住所がわかるから資料を送るという。そのうえに、「研究所に招待して説明したい」という申し出もしてくれたのだ。もしかすると、「日本人」の反応が研究所としても気になりだしたのかもしれない。わたしは、その申し出に感謝したうえで、こちらのほうで仲間と連れだってふたたびアウシュヴィッツにいく計画をしているから、それが決まったら連絡するとつたえて、この電話取材を終えた。
 翌一九九四年の一月五日に航空便がとどいた。クラクフの研究所の専用封筒のなかには、英訳の論文の抜き刷りと、裏にごく簡単なあいさつをしるしたグバウワ博士の名刺がはいっていた。
 掲載誌は『法律学の問題』(94年36号)で、論文の題名は「アウシュヴィッツとビルケナウの元集中キャンプのガス室の壁にふくまれるシアン化合物の研究」である。内容は専門誌むけの文章だから、前出の『歴史見直しジャーナル』(91夏)よりもくわしく、一般むけの『ロイヒター報告』にくらべると格段にむずかしい。雑誌の発行日付けは記載されていないが、この論文の受理の日付が一九九四年五月三〇日になっている。クラクフのチームの調査がおこなわれたのは一九九一年だから、三年後の詳細報告ということになる。全体の構成からいうと、ロイヒター(一九八八年)と前述のルドルフ(一九九三年)の二つの調査報告を強く意識した論述になっている。チームの調査にくわわった博物館側のスタッフは、ピペルともう一人の技術者だけだった。ピペルがわたしに語った「人を殺す場合は短時間」という論拠は、この論文にもしるされていた。とくにくわしい鑑定内容は、『ロイヒター報告』にはないもので、シアン化合物の残留にあたえる「水の影響」である。それによると、「かなりの量のシアン化合物が水にとけこむ」ということである。完全になくなるわけではないらしい。また、「犠牲者がガスを吸わされた火葬場」と分類されている調査箇所のなかに、かなりの残留をしめす部分がある。これを論拠にロイヒターとルドルフの調査結果への同意を留保しようとしているようであるが、正確な位置関係はしめされていない。これには消毒室がふくまれているのではないだろうか。収容所の復元図や実際に見た状況からいうと、消毒室、シャワールーム、サウナ、死体安置室、火葬場などは近接して設置されている。
 もうひとつのあたらしく提出された問題点は、見直し論者の一部が従来、シアン化合物と同一視してきた「壁の青いシミ」に関しての異論である。同論文によると、「青いシミ」はすべての消毒室に出現しているわけではない。もしかすると、一部の消毒室の壁のコーティングとしてつかわれた塗料の色素なのではないか、というのである。
 これ以上のことは専門家の研究に待つしかないので、わたしはただちに同論文をコーピーして内外の研究者に送った。その後、アメリカのウィーバーから礼状がとどき、わたしが送ったコピーによってフォーリソンほかの「ホロコースト」見直し論者が、はじめて同論文の存在を知ったことがわかった。巻末資料に収録した「化学士」ゲルマル・ルドルフの論文「ロイヒターに対抗する鑑定/科学的詐欺か?」は、同論文の分析である。クラクフの半日のさすらいの旅が、いささかなりとも国際共同研究の促進に役立ったとすれば、苦労の甲斐があったというものだ。
 ビルケナウの火葬場については、すでに論文の存在を紹介したが、建造時の設計図はのこっている。ただし、一部の部屋の用途について、見直し論者の「死体安置室」説と絶滅論者の「ガス室」説との基本的な対立があり、さらに絶滅論者のなかに「ガス室」への改造説があるといった状況のようである。米軍が撮影した航空写真までを材料にして、議論がつづいているというから、勝手な憶測をのべるべきではないだろう。
 この法医学的調査研究にかんする問題の政治的構造は、さきに論じた「東方移送」による「ホロコースト」神話維持の場合と、非常に良く似ている。『ロイヒター報告』がでたから、それには別の窓口で応じる。データは専門雑誌にのせる。この発表がさきの例の「新聞投書」とおなじ位置づけである。しかし、公式の結論はださず、一般むけの発表はしない。世間一般には、大手メディアが報道しないから、知られることはないという、まさに典型的な二〇世紀的コミュニケーションの構造なのである。
 さて、この第三部では、わたしが「核心的争点」だと考える「チクロンB」と「ガス室」をめぐる諸問題を、「再審」にむけての「新証拠」提出という想定で洗いなおしてみた。複雑な事実経過と現状をも紹介しながらの作業なので、わかりやすくできたかどうかについては、読者の批判を待つしかない。
 大筋を中間的に整理してみよう。
 まず、「チクロンB」は「大量殺人」に十分なだけのシアン化水素(気化状態は「青酸ガス」)を発生する。しかし、毒ガス一般とおなじく、その使用には危険がともなう。安全性と同時に経済効率も重要な問題だから、当時すでに「消毒」のために、密閉した無人の部屋の内部で缶のふたを開け、チップを金網に移し、温風を循環させて時間短縮と濃度の均等化をはかり、最後には、沸騰点以上の温風を吹きつけてシアン化水素を完全に蒸発させてチップを無毒にする装置までが工夫され、外国にも輸出されていた。「ホロコースト」物語には、そういう当時の技術水準が反映されていない。
「ガス室」にも、そういう当時の技術水準の最先端をいく工夫が見られなければならないが、そのような痕跡はまったくない。「ガス室」は、しかも、ニュルンベルグ裁判の当時には、ほとんどすべてのナチス・ドイツ収容所に存在したかのように思われていた。ところが、一九六〇年ごろには、西側には「ガス室はなかった」という「事実上の定説」が成立した。のこるのはポーランドの六か所のみになったが、たったふたつの現存の「ガス室」にも疑問がおおい。ビルケナウの廃墟に「ガス室」があったという主張もあるが、検察側に当たる絶滅論者の間でも、その建造の経過に関して説がわかれている。
『ロイヒター報告』以後、当局側に当たるアウシュヴィッツの委嘱もふくめて、「ガス室」に関する六回の法医学調査がおこなわれている。現存の「ガス室」については、「青酸ガス」が使用されたならば残留しているはずの「シアン化合物」が認められないという点で、すべての調査結果が基本的に一致している。
 細部の解明には、公開の共同研究が必要だろうし、その前提条件としては、この問題に関する言論の自由が国際的に保証されなければならない。
 以上、第3部では『ニューズウィーク』(89・6・15)の記事をきっかけの題材にしながら、キーポイントを広げてみた。第3部で提出した材料のほとんどは、この『ニューズウィーク』の記事が執筆される以前にあきらかになっていたものである。『ロイヒター報告』がカナダの法廷に提出されたのは、この『ニューズウィーク』の記事が発表される前の年の一九八八年である。カナダはアメリカの隣国でもあり、同じ英語を公用語の一つとし、おたがいに電波メディア報道が国境をこえる関係にある。「ホロコースト」物語とは直接の関係がない日本でならいざ知らず、この種の資料を入手するうえでは格段に有利な立場にいるはずのアメリカのジャーナリストが、なぜ、これらのキーポイントをはずした文章を書くのだろうか。これまた、おおいなる疑問である。

 (56)第4部:マスメディア報道の裏側
~無意識の誤解からテロによる言論封殺まで~





(私論.私見)