第3部第5章、隠れていた核心的争点、

 (最新見直し2012.04.14日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 ここで、「第1部第2、解放50年式典が分裂した背景」を転載しておく。

 2012.04.13日 れんだいこ拝



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『アウシュヴィッツの争点』
ユダヤ民族3000年の悲劇の歴史を真に解決させるために
(40)
第3部 隠れていた核心的争点

『週ポ』Bashing反撃)

「マスコミ・ブラックアウト」の陰で進んでいた科学的検証

 一九四九年には、アメリカの上院でシンプソン陸軍委員会の報告書が公表された。わたしの手元には、A4判でびっしり二四ページにもおよぶ議事録がある。
 報告書は、ドイツのダッハウでおこなわれた捕虜にたいする数々の拷問が、いつわりの自白を引きだし、判決をゆがめるにいたったことを認めていた。シンプソンらは、まだ生存中の死刑囚にたいしての減刑をもとめていた。だが、減刑も再審も実行されなかった。それどころか、……
「報告書を提出した以後にも、減刑をもとめた対象のうちの五名にたいして絞首刑が執行された。全部で、調査対象とした一三九名のうち、一〇〇名はすでに死亡した」
 報告書は最後に、のこりの三九名の死刑囚をすくう司法上の可能性と、拷問の実行者たちを起訴して裁く必要性を指摘したのち、つぎのような一節でむすんでいる。
「われわれが、これらのアメリカ人が犯した罪を、わが国内でみずから公表しない場合には、アメリカの威信とアメリカの正義は、永久にとりかえしのつかない被害をこうむるであろう。もしも、われわれが率先して罪状を調べあげ、公然と非難し、それをゆるさない立場を表明するならば、われわれにはまだ誤りを部分的につぐなう余地がのこされている。もしも、われわれがそれをためらい、われわれの敵が国外でわれわれの罪状をあばきたてるのを待つだけだとしたら、われわれには頭をさげ、恥じて事実をみとめる道しかのこされていない」
 シンプソン陸軍委員会の三人のメンバーの一人だったファン・ローデン判事は、すでに紹介したように、この報告書の内容を一九四九年一月九日づけのワシントン紙『デイリー・ニューズ』および同年同月二三日づけの英紙『サンデー・ピクトリアル』に暴露した。報告書が提出されたのは、その前年の一九四八年だった。新聞紙上での暴露という非常手段に出た理由の一つは、以上の経過からも容易に読みとれる。つまり、「報告書提出以後にも五名の絞首刑」という、のっぴきならない実情が目の前で展開しつづけていたからだ。新聞紙上での暴露は、「ストップ・ザ・ハンギング!」という痛切なさけびだったにちがいない。
 ローデン判事が暴露を決意したもう一つの事情は、当のシンプソン陸軍委員会の内部における意見の相違、あるいは対立にあったと思われる。『二〇世紀の大嘘』には、ローデン判事以外の主要メンバーの変節の有様が簡単に紹介されている。そのままにしておいたらローデン判事は少数派となり、調査報告は「極秘」あつかいで数十年も埋もれてしまったのかもしれない。
 アメリカの議事録を調べてみると、二つの新聞記事がでた直後の一九四九年一月二七日に、上院で大統領にたいする短い質問があり、副大統領が答弁に立って報告書の要約の議事録への記載をみとめている。以後、同年二月八日、七月二六日と、次第に長時間の議員側の意見陳述があり、報告書の全文公開がなされたという経過である。
 だが、「拷問の実行者たちを起訴して裁く」だけで、本当の解決がえられたのだろうか。 ニュルンベルグ裁判も東京裁判も、特殊で一時的な戦争終結作業の一環であった。国際法上の明文規定はない。だが、裁判という形式を主張した以上、すくなくとも純理論的な意味では、本来の裁判における「上訴」「上告」「差し戻し」「再審」といった手続きの必要性を否定しさることは不可能であろう。判決の重要な要素となった被告の「自白」が、拷問という不法行為によって獲得されたものであることが判明した以上、本来の裁判ならば、審理をやり直さなければならないはずなのだ。
 シンプソン陸軍委員会の調査は、アメリカ軍がダッハウ元収容所の裁判でおこなった拷問についてのものであるが、ニュルンベルグ裁判の主要法廷であった国際軍事裁判および、その後の関連裁判についても、同様の問題点を指摘しないわけにはいかない。
 そこで本書を仮に、きたるべき「再審」請求への準備作業として位置づけてみよう。
 そのさいの仮定的な「再審」で決定的な重要性を持つのが、「新証拠」ともいうべき「チクロンB」と「ガス室」についての「科学的かつ法医学的な調査結果」である。
 この「新証拠」は、裁判の用語でいえば「物証」である。これまでは「被告の自白」や「生き証人」の「証言」という「人証」が絶対視されてきた観がある。すでにのべたような「生き証人」インタヴューの必要性についての議論も、この延長線上にある。
 ここではまず最初に裁判所の制度上の、高裁とか最高裁の例をとって考えてみよう。
 最高裁のことを悪口で「最低裁」と呼ぶ法律家もいる。だから、高裁とか最高裁とかに例をとるのは、決して中身が優れているという意味ではない。あくまでも制度上の位置づけである。
 上級裁判所といわれる高裁や最高裁は、下級裁判所の判決をくつがえしたり、「差し戻し」や「再審」の決定をくだすことができるが、そのさい、「事実審理」といわれる作業を法廷でくりかえさなくてもよい。高裁や最高裁も法廷での「事実審理」や現場検証はできる。だが、制度上は、「事実審理」は下級裁判所が一応おこなっているというのが建て前だから、下級裁判所から送られてきた記録の書類審査だけで判決をくだすことができるのである。「事実審理」、またはその一種としての「証人調べ」の義務はない。単に「手続きのあやまり」を発見しただけでも原判決は破棄できる。最高裁は原判決を破棄する場合には「口頭弁論」を開く習慣だが、わたし自身が傍聴した例では、まったくの形式的手続きでしかなかった。
「ホロコースト」見直し論の場合にも、すでにニュルンベルグ裁判以来の一連の「ホロコースト裁判や、数多い著述を前提にして、その不合理性を指摘しているのだから、あらためて直接的な「証人調べ」のやり直しを絶対視する必要はないのである。
 むしろ重要なのは、すでに何度も指摘したような、「新証拠」に相当する「チクロンB」と「ガス室」の科学的調査の、理論的な位置づけ方である。
 この場合、従来の判決の最大の根拠となっていた「証言」または「人証」と、「新証拠」の「物証」とは、どちらかが成り立てば「有罪」という関係ではない。「物証」のあたらしい発見、または再検討にもとづく論証が正しいとなれば、「ガス室」の存在と、「ガス室」による大量虐殺を主張してきた「証言」の方は、足元からくずれ、まったく成立しなくなるのである。
「新証拠」または証拠の再検討が、それ以前の判決を完全にくつがえした例はおおい。戦後日本の一連の謀略事件のなかから、被告が最終的に無罪になった典型的事例を紹介しておこう。
 松川事件では、被告が列車を転覆させる目的で線路のレールを外したとされていた。検察側は、その証拠として、線路のレールを外すのに使ったと称する「バール」を提出していた。警察が被告の仕事場で発見したというのだ。ところが、実験してみると、この「バール」では線路のレールを留めている犬釘を外すことはできなかった。
 白鳥事件では、被告が白鳥刑事を殺害する目的で「集団謀議」をおこない、実弾の射撃訓練をしたとされていた。検察側は、その証拠として、峠の土のなかから掘りだしたと称する「銃弾」を提出していた。ところが、この「銃弾」には、長期間土のなかに埋もれていた場合には、かならず発生しているはずの「腐食応力割れ」という現象が見られなかった。
 菅生事件では、被告が交番を爆破したとされ、「目撃証人」の警察官は「シュルシュル」という音で導火線が燃えているのに気づいたと証言していた。ところが、「シュルシュル」という音は、映画で工夫された効果音にすぎなかった。本物の導火線は音を立てずに燃えるのだった。
「ホロコースト」見直し論者は、現在、「チクロンB」と「ガス室」の科学的調査を、このような決定的かつ核心的な「新証拠」ではないかという意味で提出している。この「新証拠」を根拠にして、裁判なら「再審」に相当する「見直し」をおこなえと要求しているわけである。裁判の法廷としてもすでに、カナダのツンデル裁判で『ロイヒター報告』が提出されている。その裁判の結果と意義については、のちに紹介するが、最高裁は「ホロコースト」についての判断を避けながらも、「虚偽の報道」に関する罪に問われていたツンデルを「無罪」と判断した。
「生き証人」の「証言」や被告の「自白」などの「人証」の証拠価値の再検討の方は、むしろ、「新証拠」の評価をさだめたのちに、この「物証」と照らし合わせながらの共同作業として、あらためて大規模に展開されるべきなのではないだろうか。

第5章:未解明だった「チクロンB」と「ガス室」の関係
(41)「ユダヤ人は自然死」の意見は紹介するが「チフス」を無視

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『アウシュヴィッツの争点』
ユダヤ民族3000年の悲劇の歴史を真に解決させるために
(41)
第3部 隠れていた核心的争点
第5章:未解明だった「チクロンB」と「ガス室」の関係
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『週ポ』Bashing反撃)

「ユダヤ人は自然死」の意見は紹介するが「チフス」を無視

「ホロコースト」物語についてもっとも疑念をかきたてられるのは、これまでの報道や論評に、これは「争点隠し」ではないかと思える記述が、いかにもおおいという事実である。
 日本語で唯一のまとまったものとして紹介した『ニューズウィーク』(89・6・15)の記事「ホロコーストに新解釈」の場合も、NHKが放映したデンマーク製の映像作品『ユダヤ人虐殺を否定する人々』の場合も、実のところおおくの点で不正確である。意識的か無意識的かは判断しにくいが、問題点が非常におおい。
『ニューズウィーク』の記事の場合、見直し論者の立場から観察すると、とにもかくにも評価できるのは、つぎのような点だけである。
第一に、「ホロコースト」物語に疑問をいだき、「ヨーロッパの全ユダヤ人を殺戮しようという意図的計画は、本来存在しなかった」と主張する著名な歴史学者が、一人ぐらいはいるという事実を知らせたこと。
第二に、メイヤーをネオナチの仲間あつかいせずに「左翼」と紹介していること。
 ほかの点では逆に、歴史的事実をぼかすことに終始している。なかでも最大の問題点は、つぎの部分である。
「アウシュヴィッツの圧倒的多数のユダヤ人は、ガス室で虐殺されたのだ。この事実に異を唱える歴史家は事実上いない」
『ニューズウィーク』の無署名記事を執筆した編集者の意図は、この「事実上いない」という断定的表現だけでもすでにあきらかである。かれ(またはかれら)は、「ガス室で虐殺」を「事実」と断言したうえで、「異を唱える歴史家は事実上いない」という誤った結論的解説をおしつけている。
「ホロコースト」物語に「異を唱える歴史家」は何人もいる。本書ですでに紹介した人々は、そのごく一部にしかすぎない。この記事は、その事実を読者にたいしていつわり、できるだけメイヤーを孤立させ、その主張をあやふやに見えるようにしていると非難されても仕方ない。
 もう一つのわかりやすくて決定的な具体例は「チフス」というキーワードの隠蔽だ。
 この記事には「『ユダヤ人は自然死だった』で揺れる歴史学会」という副題がついている。それにもかかわらず、「自然死」の説明がとくにお粗末である。メイヤーの「自然死」説については簡単に、「多くのユダヤ人は、過酷な労働と飢えによって死んだ」などと要約してしまっている。「ホロコースト」の真偽以前の問題として、「自然死」の最大の要因が「チフス」の流行だったことは、すでに広くみとめられている。メイヤーがそれを指摘しないはずはない。問題になったかれの著書、『なぜ天は暗くならなかったか』は絶版[注1]なので入手できていないが、該当部分のコピーをフォーリソンが航空便で送ってくれた。やはり、メイヤーは、「おそるべき割合のアウシュヴィッツにおける病死と“自然死”」について、「過度の労働」だけではなく、「猛威をふるった疫病」とか「破壊的なチフスの伝染にとりつかれた」経過を理由にあげている。
 それなのに『ニュースウィーク』の無署名の編集者は、「チフス」に一言もふれようとしていない。なぜなのだろうか。

注1:「絶版」情報は『マルコポーロ』廃刊事件の当事者、西岡昌紀の早トチリだった。私にも、その情報の確認を怠った責任があるのだが、その後、某出版社が日本語訳を計画して、原本を入手した。この訳出計画は、その出版社が情勢不利と判断したので中止となっているが、お陰で、私は、原本の全体を通読することができた。

(42) アンネ・フランクがもっとも有名な「発疹チフス」患者

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『アウシュヴィッツの争点』
ユダヤ民族3000年の悲劇の歴史を真に解決させるために
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第5章:未解明だった「チクロンB」と「ガス室」の関係
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アンネ・フランクがもっとも有名な「発疹チフス」患者

 当時大流行した「チフス」、正確には「発疹チフス」によるユダヤ人の死者として世界中でもっとも有名なのは、アンネ・フランクである。彼女はソ連軍の侵攻直前にアウシュヴィッツからベルゲン・ベルゼンに移送された。つぎに紹介する『アエラ』の描写を借りれば、「チフスにかかって、そこで死んだ」のである。
 アンネの最後については、おりよく『アエラ』(94・8・29)が組んだ戦後五〇年特集「アンネ・フランクは償われたか」に最新情報がのっていた。この特集は残念ながら、「ホロコースト」物語そのものを信ずる立場で書かれているが、あえてその部分もふくめて紹介しよう。
「……アンネに墓はない。……
 ……ドイツのベルゲン・ベルゼン強制収容所に逆送され、チフスにかかって、そこで死んだ。収容所が英軍に解放される約二ヵ月前、一九四五年三月だった。……
 入り口の資料センターの歴史家トーマス・ニーエさん(三七)は、
『アンネがどの棟にいたか、正確にはわかっていない。アンネが死んだ三月、チフス感染で一万八千人が死んだ。死者は合計五万人、解放時の生存者は六万人だった』
 映写室で、解放直後に英軍が撮影した8ミリを見た。目を覆う惨状だった。死体が地上いたるところに散乱し、囚人棟の間に山積みされている。
 このドイツ内陸の収容所は、アウシュヴィッツのような『絶滅』用ではなかった。焼却炉は一つしかなかった。死体を処理しきれなかったのだ。英軍のブルドーザーが死体を数十体ずつ押して、大きな穴に落としてゆく。アンネもその一つだったのだろう。……」
 この「英軍が撮影した8ミリ」の話はぜひ覚えておいてほしい。「英軍のブルドーザーが死体を数十体ずつ押して、大きな穴に落としてゆく」のだ。「『絶滅』用」の収容所ではなかったのだから、死者の死因は「ガス室処刑」ではない。だが、このあまりにも有名なフィルムのシーンは、突如、「ホロコースト」物語の動かしがたい物的証拠であるかのように、無言でインサートされることがおおい。その歴史的状況どころか、死者の死因、撮影者やブルドーザーの運転者の国籍など、なんらの説明もないのだ。さきに紹介したハリウッド映画『ニュルンベルグ裁判』でも、検事が法廷で上映する記録フィルムのなかに、このシーンがあった。リチャード・ウィドマーク扮する検事は、イギリス軍の作業であるとはいったが、「チフス」にはふれなかった。
 さて、アンネとオットーのことにもどるが、この有名なフランク家の父親と末娘の運命は、当時のドイツ支配下にあったユダヤ人一家のひとつの典型なのである。
 一家の四人がアウシュヴィッツに強制収容された。アンネの母親はアウシュヴィッツで死んだ。しかし、ほかの三人はまだ生きのこっていた。アンネと姉のマルゴーはアウシュヴィッツからドイツの西側のベルゲン・ベルゼンに移送され、そこで「発疹チフス」におかされて死んだ。オーットーはアウシュヴィッツで「発疹チフス」にかかって入院し、回復し、一九八〇年にスイスのバーゼルで死ぬまで、九一歳の寿命をまっとうしたのである。
 もう一度いう。フランク家の四人がアウシュヴィッツに強制収容された。そのことはたしかに悲惨な経験ではあるが、ともかく三人はアウシュヴィッツでは死なずに生きのこっていたのである。
 フランク家の姉妹がソ連軍の侵攻前にドイツ国内に移送された事実も、注目に値する。『アウシュヴィッツ収容所/所長ルドルフ・ヘスの告白遺録』の解説によれば、これらの国内移送は、ベルゲン・ベルゼンが「疾病抑留者の受入収容所に指定」されたためである。その結果、それまでは一万五千人のところに五万人をつめこむという超過密状態となり、この状態がチフスの流行に拍車をかけたとされている。
 アンネ・フランクも、もしかするとすでにアウシュヴィッツでチフスにかかっていて、「疾病抑留者」として移送されたのかもしれない。
 だがなぜ、「絶滅」する予定の「疾病」ユダヤ人を手間ひまかけて「ドイツ国内に移送」したのだろうか。ここにも「絶滅説」の巨大な矛盾がある。

(43)「発疹チフス」予防用「殺虫剤」の「チクロンB」で人を殺せたか

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ユダヤ民族3000年の悲劇の歴史を真に解決させるために
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第3部 隠れていた核心的争点
第5章:未解明だった「チクロンB」と「ガス室」の関係
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「発疹チフス」予防用「殺虫剤」の「チクロンB」で人を殺せたか

「発疹チフス」は決定的に重要なキーワードである。「発疹チフス」がユダヤ人強制収容所で大流行したことを知らないと、「ホロコースト」物語の謎はとけない。もうひとつの重要なキーワード、「チクロンB」も、「発疹チフス」と密接な関係がある。
「ホロコースト」の犯行現場は、強制収容所の「ガス室」ということになっているが、「ガス室」は「場所」、または「装置」でしかない。たとえ本当に「ガス室」があったとしても、そこで殺人用の「ガス」、正確にいうと「致死量を超える殺人用の毒ガス」を所要時間内に吸入させることができなければ、虐殺はおろか、一人の人間も殺せない。
 ではまず、「大量虐殺」の決定的な物的証拠、「凶器」そのものの「毒ガス」は、いったい何だったというのだろうか。
「ガス室」で使用された「毒ガス」は「チクロンB」だとされ、そのラベル入りの缶はあらゆる映像作品に出現する。
 だが、シュテーグリッヒ判事は、「チクロンB」があったことを「虐殺」の絶対的な証拠であるかのように主張する論理にたいして、それなら「斧」を持っていたら殺人者か、という皮肉な質問をなげかえしている。
 わたしはそれに、あらたな論理をつけくわえて考えたい。たしかに薪わり用の斧でも果物ナイフでも殺人は可能である。しかも、相手の抵抗さえなければ、殺人者の身に危険はない。ところが、毒ガスの場合には、必殺のために濃度をたかめればたかめるほど、それだけ殺人者の側も危険になる。だから、毒ガス、または毒ガスを発生する「チクロンB」が「連続大量殺人用の凶器」になるためには、「濃度」「場所」「遮蔽」「換気」といった精密な条件を完全に満たさなければならないのである。
 さて、すでに第二章でも簡単に紹介したが、「チクロンB」は一九二三年に開発された「殺虫剤」である。第二次世界大戦当時のナチス・ドイツの集中キャンプでは、大流行中の「発疹チフス」の病原体の微生物、「リケッチャ」を媒介するシラミ退治につかわれたものなのだ。ただし、あるドイツ人の医師によると、「チクロンBをつかったのは失敗だった」とのこと。どうやら「チクロンB」では、衣服の縫い目の奥底に卵を生みつけたりするしぶといシラミを、完全に退治することができなかったらしい。『医学大辞典』の「リケッチャ」の項目には、「自然界では節足動物に共生的に寄生しており、経卵的に垂直伝播」などという難しい説明がある。要するに「リケッチャ」は、シラミなどの成虫を全部殺しても、すでに生みつけられていた卵を通じて子孫に代々つたわるのである。
 シラミの駆除には、その後、アメリカ製のDDTが決定的な効果を発揮した。そのためもあってか、DDT以外のシラミの駆除に関する文献の有無は、だれに聞いても分からない。ただ、平凡社の『世界大百科事典』を見ると、「殺虫剤」の項目の前に「殺ダニ剤」があって、そこにはこう書いてある。
「殺ダニ剤には殺卵性、殺幼虫性、殺成虫性と異なった生育ステージに効果を発揮するものもあるので、使用にあたってはこの点も十分配慮する必要がある」
 薬学の専門家に、シラミの駆除についてもおなじことがあるのだろうか、と質問してみたところ、「シラミのデータは見たことはないが、卵というものは一般的に外部からの影響をうけないように保護する役割を持っている」という返事だった。
 そのためでもあろうか、つぎに紹介するような「チクロンB」の効能書きにもかかわらず、明らかにナチス・ドイツは「発疹チフス」の予防に失敗している。なぜなら結果から見て、「発疹チフス」による死者の数は激増の一途をたどっているからだ。つまり、「チクロンB」ではシラミの完全な駆除ができなかったらしいのだが、そんな性能の「殺虫剤」で本当に大量殺人ができたのだろうかという疑問が生じる。
 わたしの判断の一部だけをさきに表明しておくと、いささかまわりくどいが、「人を殺すのは不可能ではなかった」ということになる。
 なぜならまず、「チクロンB」の主成分は、人間にとっても猛毒の「シアン化水素」(気体状態の通称が「青酸ガス」)だからだ。問題になった『マルコ』記事のリードは編集部責任の作文だが、「しかもガス室は密閉性に欠け、使用されたガスは科学者の眼から見ると、とても大量殺人に使用できぬものであった」となっている。「ガス室」の構造を別にすれば、後半の部分の表現は「科学者の眼」を持ちだすわりには不正確である。「青酸ガス」が発生するのだから、それを使用する場所の「ガス室」さえ適格な構造になっていれば、使用者側が安全な「大量殺人」も不可能ではないはずだ。もちろんそれ以前に、さまざまな条件の検討が必要であろう。
「再審」を想定する議論は、このような条件のひとつひとつを正確に、厳密に押さえる作業から、はじめなければならない。

(44)「青酸ガス(チクロン)」フォア「害虫駆除(消毒)」の順序

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「青酸ガス(チクロン)」フォア「害虫駆除(消毒)」の順序

「チクロンB」と「ガス室」の問題については、すでに「世界ではじめての科学的・法医学的な実地調査」をおこなったアメリカ人、フレッド・ロイヒターの報告書と法廷での証言がある。『六〇〇万人は本当に死んだか』を頒布して有罪に問われたカナダのツンデル裁判の鑑定証拠であるが、ツンデル裁判についてはのちにその経過をくわしく紹介する。
 わたしの手元にあるA4判六七ページの『ロイヒター報告』は、それらを要約したものである。
「チクロンB」が「殺虫剤」だというのは、「珍説」や「奇説」どころか、「新説」ですらない。『ロイヒター報告』には、カナダのツンデル裁判で証拠として提出されたたくさんの資料のコピーが収録されている。「チクロンB」のくわしい資料としては、本来の製造元であるドイツのデゲシュ社が作成した「チクロンB」の業務用のとりあつかい説明書(以下『デゲシュ説明書』)と、戦後にナチス・ドイツを裁いたニュルンベルグ裁判の記録と、二種類の英語訳の資料がある。
 ニュルンベルグ裁判の資料には、本来の業務用のとりあつかい説明書とめだってちがう部分がある。端的にいえば「青酸ガス」の強調である。
 まずは標題だが、ニュルンベルグ裁判の資料のほうの標題は、『害虫駆除(消毒)のための青酸ガス(チクロン)の使用法の指示』となっている。英語の順序を日英のチャンポンでしめすと、「使用法の指示」オブ「青酸ガス(チクロン)」フォア「害虫駆除(消毒)」であり、「青酸ガス(チクロン)」のほうがさきになっている。本来の業務用のとりあつかい説明書の標題は簡単で、『チクロン』と副題の「害虫制御」だけである。『青酸ガス(チクロン)』とは書いてない。
 つぎは内容だが、ニュルンベルグ裁判の資料のほうでは、とりあつかいかたの説明を簡略化して後半にまわし、いきなり冒頭に、業務用のとりあつかい説明書にはない「一、青酸ガス(シアン化水素)の特性」という大項目を立てている。「青酸ガス」の毒性、とりわけ人を殺す「特性」があることを強調したいという意図が、作成者の側にあったのではないだろうか。連合軍当局の要請に応じて構成を変えたものではないかと思えてならない。しかし、執筆責任は「プラハのボヘミアおよびモラヴィア保護領の衛生協会」である。一応の専門家の仕事だからデタラメではないだろう。
「暖血動物への有毒効果」の項目には、「人間を殺すには体重1キログラム当たり1ミリグラムで十分」とある。平均体重を六〇キログラムとすれば、致死量は〇・〇六グラムとなる。

約二五〇人に一、二鑵の「チクロンB」というホェス「告白」

 最大の問題点は、人間を殺すための致死量の何倍が「チクロンB」の一缶にふくまれているかであるが、たとえば『夜と霧』の日本語版にも、すでに紹介した元収容所長ホェスの「告白」にもとづくつぎのような解説がある。
「衣類を脱がされた囚人たちは、警備の指図で一回に二百五十人くらいずつ部屋に連れ込まれた。扉には錠が下され、それから一、二鑵の『チクロンB』が壁に特殊に造られた隙間から注ぎ込まれた。『チクロンB』ガスはこのような目的のために用いられるものであり、青酸の天然の化合物を含んでいるものなのだ。犠牲者を殺すに要する時間は天候によって異なるが、十分以上かかることは希であった」
 つまり、約「二百五十人」が「一、二鑵の『チクロンB』」によって「十分」程度で死んだという「告白」である。だがこれで、「致死量をこえる殺人用の毒ガス」という条件がみたされているのだろうか。すくなくとも、そういう厳密な研究の成果をつたえる文章にお目にかかったことはない。
『デゲシュ説明書』によると、「チクロンB」は、木片、チョーク、硅藻土、酸性白土などの粒に青酸ガスを吸着させ、缶に密閉したものである。ホェス「告白」では、「チクロンB」をさきの引用のように「青酸の天然の化合物を含んでいるもの」としたり、「結晶化された青酸」と表現したりしている。これは明確なまちがいである。もしかするとホェス、またはホェスを尋問して調書を作成した担当者は、「チクロンB」を見たことがなかったのかもしれないのである。

サハリン中央部とおなじ北緯五〇度の気候で「あたためる話」なし

『デゲシュ説明書』によると、空気をあたためて換気装置で室内にいきわたらせる方が効果的である。デゲシュ社は、温風を室内に送りこむための装置や、温風装置付きの移動式消毒室さえ製造販売していた。ただし、『デゲシュ説明書』には、「かならずしも事前に室内をあたためなくてもいい」とも書いてある。温度がひくければ、それだけ気化がおそくなり、消毒作業の時間がかかるだけのようだ。デゲシュ社の商売としては、「温風あり」と「温風なし」の二段がまえだったのだろう。「暖めよ」の指示があるのは、一五度C以上の室温を必要とする残留ガス成分テストにかんしてだけである。
 以上の温度の問題をも正確に認識しておく必要があるだろう。まず、シアン化水素の沸騰点は二五・六度Cである。ただし、沸騰点一〇〇度Cの水が〇度C以下の氷の表面からでも蒸発するように、シアン化水素(または「液体青酸」)も沸騰点以下で気化して「青酸ガス」とよばれる状態になる。問題の『マルコ』記事では「長時間の加熱」を必須条件のように強調しているが、それはいいすぎである。
 それにしても、『夜と霧』の解説のなかのホェスの「告白」に、「殺すに要する時間は天候によって異なる」とあるだけなのは、いかにも簡単すぎる。そのほかの関係書にも「あたためる話」はまったくでてこない。
 アウシュヴィッツの地理的位置は、北海道の北のサハリン中央部とおなじ北緯五〇度である。日本の気候なら北海道なみで、二五・六度C以下の時期のほうが長いはずなのに、この点も不可解である。わたしは、一九九四年の現地取材で一二月六日から一一日までポーランドに滞在していたが、その際、温度計を日本から持っていった。いわゆる「ガス室」の内部もふくめて随時たしかめたところ、連日五度C前後であった。平凡社発行の『世界百科事典』によると、ポーランド中心部の首都ワルシャワの一月の平均気温はマイナス一度C、七月の平均気温は一九度Cである。アウシュヴィッツもマイダネクも、ワルシャワよりはすこし南だが、そんなに差はないはずだ。

(45) 死亡「一○分」除去「二○分」「気化」「換気」の所要時間は?

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『アウシュヴィッツの争点』
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(45)
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第5章:未解明だった「チクロンB」と「ガス室」の関係
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死亡「一○分」除去「二○分」「気化」「換気」の所要時間は?

 つぎには、所要時間の問題がある。
 さきにしめしたホェスの「告白」などを見ると、すぐに目につく点検項目は、「死亡」するまでと、死体を「除去」するまでの所要時間である。だが、まずその途中に、シアン化水素の「気化」に要する時間の計算がなければならない。「チクロンB」にふくまれるシアン化水素の成分が、空気中に青酸ガスとして放出され、一定時間内に致死濃度に達しなければ、「ガス殺人」は実現しないからだ。つぎには「換気」が必要である。そうしないと、死体の除去作業はできないし、後続の「ガス殺人」の用意もできないからだ。
『デゲシュ説明書』をまず見ると、「チクロンB」による燻蒸の所要時間は、二時間から七二時間とか、害虫の種類によって二四時間、四八時間、七二時間が必要などとなっている。このような全体の所要時間から考えると、この途中の、シアン化水素の気化にも相当の時間がかかりそうな気がするが、「気化」の所要時間についての説明はない。
 消毒作業が終了したのちには、換気をおこなわなくてはならないが、『デゲシュ説明書』では、「強制換気」は「かならずしも必要ではない」、「自然の通気でガスは急速に除去される」とし、そのうえで、換気に要する時間は「最低一○時間」としている。
 さらに、換気を一定時間おこなったあとにも、試験紙を使ってシアン化水素の成分の残留のテストをすること、翌日までは室内に長時間とどまらないこと、室内で睡眠しないこと、などの注意をもしるしている。室内に品物がおおくて、それらの表面の面積がおおきいと換気に時間がかかるとか、衣服やベッドの寝具をたたくと換気の時間が短縮されるという説明もある。つまり、「青酸ガス」が物体の表面や繊維の内部に滞留していて、完全に離れるまでに時間がかかるのではないのだろうか。
 以上のような『デゲシュ説明書』の時間にかんする記述は、あまり厳密ではないのだが、もともとの目的が「短時間の大量殺人」ではなくて、「害虫駆除」にあったわけだから、日本でいえば「虫干し」作業の延長である。数日間の作業を想定した製品だったのではないだろうか。
 換気の所要時間については、これとはちがう計算もある。
 ざきに紹介したニュルンベルグ裁判の資料の方では「最低二○時間」となっている。
 フォ-リソンはリーフレット『ガス室の疑問点』で、そのほかのニュルンベルグ裁判の資料をも根拠にして、つぎのよう主張している。
「チクロンBには表面に付着する強い牲質があるので、その除去は、強力な換気装置によっては不可能であり、二四時間たっぷりの自然通気によってはじめて可能になる」
 以上の所要時間の問題については、さらに厳密な共同研究が必要であろう。
 散布するときの説明写真では、作業員が防毒マスクをつけている。人体にも危険があるからだ。本当に「十分前後で人間を死に至らせる」ことが可能な青酸ガスの濃度を急速につくりだすことができたとすれば、なおさらのことである。ところが、『夜と霧』のホェス「告白」にもとづく解説では、つぎのようにまるで簡単な手順になっている。
「三十分後に扉が開かれ、死体はここで永久に働く囚人の指揮者の手で除去され、穴の中で焼かれた」
 ホェスの「告白」には、いくつもの自己矛盾がある。最初に紹介したのはアウシュヴィッツでの犠牲者の総数についてだった。「三○○万人」だったり、「一一三万人」だったりしていた。『遺録』の解説にさえ、ホェスが犠牲者総数の明細としてあげた数字について、「アウシュヴィッツで虐殺されたユダヤ人の調査のためには、何ら信ずるに足る基礎を示すものではないことは、はっきりと明記されねばならない」とある。
 テキスト自体にも、拷問の件で指摘したように、記述が異なるという問題点がある。
「ガス室」の換気については、『遺録』と『夜と霧』の解説との間に重要な相違点がある。『遺録』の方では、「ガス投入三○分後、ドアが開かれ、換気装置が作動する。すぐに屍体の引き出しが始められる」となっている。つまり、『夜と霧』の解説にはない「換気装置」が、『遺録』では、あったことになっている。ただし、アウシュヴィッツIの「ガス室」には「換気装置」の痕跡もなかった。
 さて、以上のような「チクロンB」についての使用上の留意点と、「がス室」との関係を一応指摘したうえで、「チクロンB」で「人を殺すことは不可能ではなかった」という、わたし自身の判断にもどろう。

(46)「チクロンB」の主成分、青酸ガス(シアン化水素)の殺傷能力

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『アウシュヴィッツの争点』
ユダヤ民族3000年の悲劇の歴史を真に解決させるために
(46)
第3部 隠れていた核心的争点
第5章:未解明だった「チクロンB」と「ガス室」の関係
6/8

『週ポ』Bashing反撃)

「チクロンB」の主成分、青酸ガス(シアン化水素)の殺傷能力

「チクロンB」の定性的、定量的特牲については、これまでに目を通した「絶滅説」の書物のどれにも明確な説明がなかった。わたし自身の資料探索の試行錯誤の経過については、ここでは省略するが、『ロイヒター報告』の付属資料として縮小版で収録されている英文資料、デゲシュ社のパンフレットの商品一覧表のなかに、各種の缶にふくまれるシアン化水素(HCN、別名「青酸」)の重量がしるされている。
 オンスとグラムの二種類の製品群があるが、グラムに統一して計算しなおし、重量の大きい方から記載すると、つぎのようになる。
 一缶につき、各一九三四、一五○○、一○○○、五○○、四五三・六グラム。
 シアン化水素による人間の致死量は『世界百科事典』(平凡社)などによると、○・○六グラムである。だが、「ガス室」殺人の場合、気化したシアン化水素(青酸ガス)の全量が人体に吸収されるわけではないので、別の計算が必要になる。
 青酸ガスの濃度別の毒性について、財団法人東京連合防火協会編『危険物データブッグ』では、一八一ppm(百万分の一単位)で「一○分後に死亡」、二七○ppmで「即死」としている。一人当たり、たかさを三メートル、前後左右を各一メートルの空間を想定して計算すると、「即死」ないしは「数分後に死亡」には、約一グラムのシアン化水素があれば確実のようである。
 つまり、以上のそれぞれの一缶で殺せる人数は、その各グラム数で考えればいいことになる。
 だが、つぎの問題は、所要時間と事後処埋の関係である。
 ホェスは「十分以上かかることは希であった」としている。つまり、「十分以内」に致死量のガスが発生していなければならない。
 ざらには、「三十分後に扉が開かれ」、死体の処理が始まるとしている。『遺録』の方では、さきのように「ガス投入三○分後、ドアが開かれ、換気装置が作動する」となっている。そうだとすれば、「三○分後」には「換気装置」を使って、「ガス室」は安全になっ、死体を運びだす作業員がはいれるはずなのだ。
 では、以上のような「一○分以内」と「三○分後」の状態を、「チクロンB」は実現できたのだろうか。これらの時間的説明は、すでに指摘しておいたように、さきに紹介した『デゲシュ説明書』の記述と一桁以上ちがうのだが、そういう時間短縮は可能だったのだろうか。わたしは一応、「チクロンB」で「人を殺すことは不可能ではなかった」と認めたが、そのことは、すでに指摘しておいたように、もう一面で、殺す側の危険をも意味している。「殺傷能力のたかさ」は「毒ガス」の場合、もろはの刃なのである。時間短縮のために濃度をたかめるとすれば、それだけ危険性も増大するはずだ。
 本来ならドイツ、または戦争犯罪の証拠を大量に押収した連合国に、デゲシュ社のくわしい研究資料があるはずなのだが、現在までのわたしの資料探索の段階では、それらが十分に公開されているという気配は感じられない。もしも、それらが押収されたまま隠匿されていて、公間討論が禁じられているのだとすれば、そのこと自体に重大な間題点がひそんでいる。とりあえず、この疑惑は宿題として残し、日本国内でこれまでに発見できた資料と、その要点を紹介しておこう。

(47)「毒ガス」発生のメカニズムと「ガス室」の性能の相互開係

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「毒ガス」発生のメカニズムと「ガス室」の性能の相互開係

『噂の真相』(1994.9)では、「分かる人がいたら、ぜひ教えてはしい」とうったえておいたところ、同誌の翌月の投書欄に「匿名希望」の読者からの手紙が寄せられ、陸軍工兵少佐中村隆壽著『化撃兵器輯録』(1934年刊)と、東京都技師奥田久司著『防空化學』(1942年刊)の二冊の該当部分のコピーを提供された。戦前の日本でも「チクロンB」が知られていたことがわかる。
 その後、『マルコ』廃刊事件のケガの功名といっても良いのだろうか、あらたに関心をいだく市民研究者が現われた。国会図書館で資料検索したという武本敦志からは戦前の日本の専門書『新訂/農用薬剤学』(1937年刊)の該当部分コピーを提供された。
 以上の三冊の戦前の日本の専門書の記述には若干の相違があるが、比較検討して推定すると、「チクロン」の商品系列には、「チクロン液」「チくロンA」「チクロンB」の段階的発展があるようだ。最初に、シアン炭酸メチールエステルとメチール塩化炭酸の混合液、「チクロン液」がつくられたが、これは「発売を禁止され」(『新訂/農用薬剤学』)ている。つぎには、この液をチップに吸収させたものか「チクロンA」として発売された。「チクロンA」からシアン化水素が発生し、それが気体化して「青酸ガス」となるためには、空気中の水分と化合する過程が必要である。ところが、「チクロンB」は「液体青酸」をチップに吸収させたもののようであるから、商品名は似ていても成分はちがう。水分の必要なしに、そのまま気体化して「青酸ガス」となる。
「チクロンB」の主成分が「液体青酸」であることは、『デゲシュ説明書』にもしるされている。おなじく『ロイヒター報告』の付属資料のニュルンベルグ裁判書証では、単に「青酸」であるが、基本的には一致する。「ドイツのシラミ退治消毒室」(『歴史見直しジャーナル』1986年春)という最近の研究論文でも、やはり「液体青酸」となっているから、これはまちがいないだろう。『アウシュヴィッツの医師たち』では、「チクロンB」が「注入されて酸素と結合すると、直ちに青酸の蒸気が発生」するとなっているが、青酸(HCN)には酸素(O)はふくまれないので、奇妙な物語だといわざるをえない。
 気化の所要時間については残念ながら、以上のどの資料にも明確な記載がない。
「ドイツのシラミ退治消毒室」は、「ホロコースト」見直し論者が参加している研究所の機関誌の掲載論文である。「一方的な主張」だという見方もできるだろうが、そこには気化の所要時間について、つぎのように書いてある。
「チクロンの小粒の、または紙製のディスクからシアン化水素が蒸発する速度は、瞬間的ではない。シアン化水素はチクロンBの缶が開けられるやいなや、ただちに多孔性の素材から遊離しはじめるが、すべてが一時に遊離するわけではない。むしろ逆に、通常の条件で、六八度F(二○度C)ぐらいの通常の室温の場合、ほとんどのシアン化水素が遊離するのには約半時間かかる。チップからすべてのシアン化水素が遊離するのには、さらに時間が必要である」
 室温が「二〇度C」より低ければ、この過程はもっと遅くなる。だから、さきにも紹介したような温風を吹きこむ装置や、室内の空気の循環させることによって「青酸ガス」の濃度を平均化して効果をあげる装置などが工夫されて、一般向けにも売りこまれていたのである。「ドイツのシラミ退治消毒室」ではとくに、「循環装置」についての記述がないことを、「ホロコースト」物語の不合理性として指摘している。
 さて、通常の条件であれば「約半時間」のち、つまり、さきのホェスの「告白」の「三○分後」とおなじ時刻にはまだ、「チクロンB」のチップにふくまれる「液体青酸」が気化して「青酸ガス」が発生しつづけていることになる。殺す方の時間を短縮するためだけならば、経済効率は悪いが、「チクロンB」の使用量を増やすという方法もあるだろう。ただし、その場合には、「三○分後」の室内の「青酸ガス」の濃度も、「青酸ガス」を発生しつづけているチップの数も増えることになるし、その増加率に反比例して、経済効率は下がる。
 ところで、まったくどの著述にもでてこない問題がある。それは、チップの処理、または行方である。デゲシュ社はチップを回収して再利用していたようであるが、回収される前のチップは、どこにころがっていたのだろうか。『デゲシュ説明書』は、あくまでも害虫駆除を目的とする使用法の説明だが、倉庫の床に「均等に散布する」を強調している。その方が効率が良いのである。
『夜と霧』の解説のように、単に「壁に特殊に造られた隙間から注ぎ込まれた」とか、『遺録』の方のホェスの「告白」の一部のように、「缶入りガスの中味が、特殊の小穴を通して室内に噴射された」という説明のとおりなら、「均等に散布する」のはむずかしい。それはおくとしても、「チクロンB」のチップは、無造作に床にバラ撒かれた状態になっているとしか推定できない。ところが、よく考えてみると、それが大問題なのだ。
『遺録』の方のホェスの「告白」には「換気装置」という言葉がでてくる部分がある。だが、いくら換気しても、「青酸がス」を発生しつづけているチップをさきに片づけなければ、人がガスマスクなしで室内にはいることはできないはずだ。床にバラ撒かれた状態で、しかも、「青酸ガス」を放出している最中のチップを吸い上げることが可能な、強力な高性能掃除機のような装置が当時、果たしてあったのだろうか。しかも、その床には、累々と死体が積み重なっているはずなのである。死体の下敷きになっているチップの除去となると、いまの日本の電器メーカーの技術者でも、とうてい製造は不可能というのではないだろうか。死体を動かせば、その下に溜まっていた「青酸ガス」が作業員をムワッと襲うのではないだろうか。
『デゲシュ説明書』では、長時間の換気ののちにも室内にはいる作業員は「ガスマスクをつけなければならず」、しかも、室内作業は「一○分から一五分だけ」にして、「皮膚中毒」の予防措置として「半時間の休憩をとること」となっている。『遺録』の記述を根拠にして、あれはユダヤ人収容者のゾンダーコマンド[特別作業班]にやらせたことだから、安全性を無視したのではないかという意見がでるかもしれない。だが、絶滅説に立つ新鋭著作『アウシュヴィッツの医師たち』では、「犠牲者の死が親衛隊の医師によって確認されてから、死体の焼却が認められた」としているのである。「親衛隊の医師」にも危険があるではないか。
 そこで意味ありげに見えてくるのが「空気穴」という言葉である。ホェスの『遺録』の「ガス室」についての説明は転々と変化しているのだが、「床までとどく空気穴の中に、ガスを投入する」という説明の部分もあるのだ。この場合なら、チップは「空気穴」のなかにとどまって、床には散らばらずに「青酸ガス」を発生するのだろうか。だが、この「空気穴」の構造と機能についての説明は、やはりどこにもない。
 現在のアウシュヴィッツIの「ガス室」にも、「空気穴」の痕跡はない。といっても、構造がまったくわからないものについて、「ない」と断定するのはおかしいのではあるが。
 ここまでの一応の結論としていえることは、「チクロンB」であろうと「エンジン排気ガス」であろうと「サリン」であろうと、毒ガスで人を殺す場合には、毒ガスの発生、使用、排除、死体の処理といったすべての段階について、殺す側の安全性が絶対に確保されるような建物の構造が必要だということである。
『遺録』のホェスの「告白」にも、「ガス使用後は、建物全部の換気に少なくとも二日を必要とした」ので、場所をかえたとしている部分がある。しかし、「喚気のため」の「ガス室」の構造の工夫についての説明は明確ではない。問題の鍵は、「チクロンB」の殺傷能力よりも、むしろ、「ガス室」の構造の方が重要なのだという点にあるようだ。「ホロコースト」物語の場合には、その点で確信が持てるような説明がないし、現存の「ガス室」なるものには、そのような構造はまったく備わっていない。

(48)「科学の粋を集める」どころか民間で実用化の技術も無視?

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『アウシュヴィッツの争点』
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第3部 隠れていた核心的争点
第5章:未解明だった「チクロンB」と「ガス室」の関係
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「科学の粋を集める」どころか民間で実用化の技術も無視?

 たとえば『夜と霧』の「出版者の序」では、「ナチズム哲学の具体的表現ともいうべき強制収容所の組織的虐殺」が、つぎのように評価されていた。「これは原始的衝動とか一時性の興奮とかによるものではなく、むしろ冷静慎重な計算に基づく組織・能率・計画がナチズムの手足となって、その悪魔的な非人間性をいかんなく発揮した」
 この評価を、当時の戦争技術、または殺人技術の異常な発達に照らしてみると、「ガス室」の建造にも、やはり、当時の最高の水準の技術が傾けられていたと推定するのが、自然であろうと思われる。しかも、「チクロンB」を製造販売するデゲシュ社を支配していた財閥は、アウシュヴィッツにも巨大な化学プラントを建設していたI・G・ファルベンである。日本の三菱や三井をうわまわる国際的政商の代表格であった。戦闘機でいえば、日本のゼロ戦やドイツのメッサーシュミットに対応するような技術の粋が、「ガス室」に注がれていたとしても不思議はない。事実、そのような記述をふくむ物語は、ニュルンベルグ裁判以後にいくつも現われたのである。
 ところが、当時のドイツの専門誌や特許の記録などを発掘して研究した論文、「ドイツのシラミ退治消毒室」(前出)および「チフスとユダヤ人」(『歴史見直しジャーナル』1988~1989年冬)などによると、現存の「ガス室」どころか、これまでのあらゆる「ガス室」物語のすべては、当時の民間で実用化されていた技術水準すら、無視していたことになってしまうのである。
 本書では概略にとどめるが、デゲシュ社は一九三四年から実用化していた技術について一九四○年に特許をえており、おそくとも一九四三年までには数百の「循環装置」、または「循環装置」付きの「消毒室」を輸出さえしていた。「ドイツのシラミ退治消毒室」の付録資料、『衛生技術家』(1944, 67号)の図面付きの説明などによると、この「循環装置」をつかえば、「チクロンB」の使用にさいして、作業員はガスマスクを着用して入室する必要がない。消毒室の内部に温風を循環させるパイプが通されており、内部に事前に設置しておいた「チクロンB」の缶を無人状態で開け、チップを「金属製の網のバスケット」に投げこむことができる。そのバスケットを通過して「青酸ガス」をふくんだ温風が室内を循環する。最後には、シアン化水素の沸騰点以上の温度の温風を吹き付けて、チップを無害にし、空気を完全にいれかえる。
 考えてみれば、それほどむずかしい技術でもないし、そんなに費用がかかるとは思えない。
「チフスとユダヤ人」の方の付属資料、『衛生技術家』(1943, 66号)によると、この装置付きの大型の例には貨物車を丸ごと消毒する建物があり、ハンガリーで建造されていた。ニワトリを運ぶ貨物車にダニが住みついてしまうので、消毒が必要だったのである。「チフスとユダヤ人」の執筆者は、なぜこれとおなじものをアウシュヴィッツで使わなかったのだろうか、という疑問を提出している。
 こういう状況では、「冷静慎重な計算に基づく組織・能率・計画」による「ガス殺人工場」の存在を信じることは、とうてい不可能である。わたしは、すべての収容所跡の調査をおこなったわけではないから、あえて、「がス室はなかった」とまでは断言しない。だが、「ガス室があった」と確信することができるような物的証拠も、論理的説明も、いまだに発見できないということだけは、絶対に断言できる。
「殺人工場」の処理能力、所要時間などについては諸説あるが、いちばん重要なのは、すでに指摘したとおりの「実地検証なし」という問題点である。第二次世界大戦終了後の一○年間、ソ連、またはその従属下にあったポーランド当局は、アウシュヴィッツヘの立ちいりを全面的に禁止していた。これだけ重大な、しかも、人類史はじまって以来ともいうべき大量殺人事件の告発だというのに、ニュルンベルグ裁判では、実地検証がまったくおこなわれていなかったのである。
 こういう細部の疑問が解消しない場合には、「疑わしきは罰せず」という近代法の原則からすれば、被告を処罰はできないはずである。すくなくとも、専門家の鑑定や現場検証をもとめる努力がなされたのかいなかについては、徹底的な問いなおしが必要であろう。

第6章:減少する一方の「ガス室」
(49) 前線発表報道の「ガス室」は「発疹チフス」予防の消毒室だった





(私論.私見)