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『アウシュヴィッツの争点』
ユダヤ民族3000年の悲劇の歴史を真に解決させるために
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第2部 冷戦構造のはざまで
~~米ソ賛成、アラブ総反対のパレスチナ分割決議の背景~~
第4章:イスラエル・コネクションの歴史的構造 1/9
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パレスチナ分割決議を強行採決した国連「東西対立」のはざま
「南京大虐殺」と「ホロコースト」の具体的な相違点の第一は、「ホロコースト」物語がはたしてきた国際政治における歴史的役割である。 表現をかえると、この「情報操作」には「目的」があったのだ。すでに「はしがき」でも簡単に指摘したが、「情報操作」という手間のかかる作戦を「目的」または「動機」なしにおこなうはずはないのである。さらには、この「目的」または「動機」の可能性を解明してみることによって、「アウシュヴィッツの嘘」発言処罰法制定の真の目的と政治的性格があきらかになるかもしれない。 ネオナチが便乗して騒ぐのをやめさせるのが本当の目的ならば、そのためにもっとも有効な方法は、積極的に真相を究明することである。そうすれば、ネオナチの言い分がなくなる。「ホロコースト」物語の真相があきらかになっただけで、ナチ党が犯した数々の暴力犯罪、政治犯罪、戦争犯罪が消えてしまうわけではない。 真相をかくす「刑罰による発言禁止」をつづけていけば、ひそかに真相を知った若者は不満の吐け口をネオナチにもとめる。むしろ、ネオナチへの幻想をたちきり、ネオナチを封じこめるためにこそ、すべての真相をあきらかにすべきなのだ。 どうしてそうしないのか。もしかすると、「刑罰による発言禁止」の根源が、イスラエルを建国したシオニスト神話の維持にあるからではないのだろうか。 イスラエルという国家は、「はしがき」でも若干ふれたように、現地のアラブ諸国こぞっての反対をおしきって採択された国連決議によって建国されている。国家としての存立基盤が不確かなのだ。一九四七年にパレスチナ分割を決議したさいの票決は、賛成三三(アメリカとソ連をふくむ)、反対一三(全アラブ諸国をふくむ)、棄権一〇(それまでの委任統治国イギリスをふくむ)というきわどい結果だった。 そのうえに決定的な問題点がある。それは「賛成三三」のなかにソ連がくわわっていたこと、つまりは「米ソ協調」だったということである。ソ連やアラブの王族の思惑については複雑な経過があるようだが、ともかく以後、国際的な社会主義運動の中でも、パレスチナ人は「世界の孤児」のあつかいをうけてきた。これはおおくの日本人が見落としがちな問題点なのだが、パレスチナ人は、「東西対決」の冷戦時代の間、どちらにも所属しない「はざまの存在」だった。 この「はざまの存在」という問題点は、ドイツの一般庶民にも共通して作用している。東西冷戦時代、東ドイツを従属化していたソ連も、西ドイツを従属化していたアメリカも、ともに「ホロコースト」物語を維持してきた。そして現在の統一ドイツは、その両者を引きつぐ形で、「ホロコースト」物語を維持し、同時にパレスチナ分割決議を支持しているのである。 パレスチナ分割決議は、内容そのものも、当時の人口比率で約三分の一、国土の七%しか所有していなかったイスラエル側に約五六・四%の土地を配分するなど、問題点だらけだった。 もともとパレスチナ地方に住んでいたユダヤ教徒の人口比率は、一九世紀半ばまで五~七%だったと推定されている。以後、イギリスの植民地支配下にあったパレスチナ地方にむけて、有名な国際的ユダヤ系財閥、ロスチャイルド一族らの援助によるヨーロッパからのユダヤ教徒の入植がつづき、人口比率を押しあげたのだ。この入植の経過自体、現地のアラブ人が非難するように、「移民による侵略」にほかならなかった。 一九四七年の国連による歴史的なパレスチナ分割決議で、旧宗主国のイギリスは棄権にまたわった。推進役はもっぱらあらたな超大国アメリカだったが、いまよりもはるかに価値の高かったドルをふんだんにばらまいて、相当に強引な根まわしをしたようである。 中東を専門分野とするイギリス人の国際評論家、デイヴィッド・ギルモアは、豊富な当局側資料を駆使した著書『パレスチナ人の歴史/奪われし民の告発』のなかで、この経過をつぎのように描きだしている。 「パレスチナの運命を決定したのは、国連全体ではなく、国連の一メンバーにすぎないアメリカだった。パレスチナ分割とユダヤ人国家創設に賛成するアメリカは、国連総会に分割案を採択させようと躍起になった。分割案が採択に必要な三分の一の多数票を獲得できるかどうかあやしくなると、アメリカは奥の手を発揮し、分割反対にまわっていたハイティ、リベリア、フィリピン、中国(国府)、エチオピア、ギリシャに猛烈な政治的、経済的な圧力をかけた。ギリシャを除いたこれらの国は、方針変更を“説得”された。フィリピン代表にいたっては、熱烈な分割反対の演説をした直後に、本国政府から分割の賛成投票の訓令を受けるという、茶番劇を演じさせられてしまった」 イスラエル建国を支持するパレスチナ分割決議を推進した当時のアメリカの大統領、トルーマンは、それ以前に、日本が降伏の条件を探っていることを知りながら原爆投下の命令にサインしていた。まさに残虐このうえない組織官僚の典型だ。このトルーマンらがパレスチナ分割決議を推進するために利用した最大の政治的根拠こそが、「ホロコースト」だった。ナチス・ドイツが犯した歴史上最大の「民族皆殺し」という大罪、「ホロコースト」をつぐなうためという名目の根まわしにのって、欧米のキリスト教諸国はイスラエルの建国を支持したのである。ただし、このいかにも偽善的な国際外交の裏の裏には、さら深い悪魔の取り引きがひそんでいた。その裏話を解く鍵は本書の最後に紹介する。
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『アウシュヴィッツの争点』
ユダヤ民族3000年の悲劇の歴史を真に解決させるために
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第2部 冷戦構造のはざまで
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第4章:イスラエル・コネクションの歴史的構造 2/9
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ユダヤ系富豪に再選の運動資金をあおいだトルーマン大統領
翌一九四八年五月、トルーマン大統領がイスラエル国家の承認にふみきるさいには、元ニューヨーク・タイムズ記者ジョージ・レストンの「回想録」(『朝日ジャーナル』92・2・7)によれば、もっとも重要な閣僚だった国務長官ジョージ・マーシャル元帥が、「すかさず」反対したという。しかも、…… 「反対したのは彼だけではない。ディーン・アチソン、ロバート・ロベット国務次官、ソ連問題専門家のジョージ・ケナン、E・ボーレン、ジェームズ・V・フォレスタル国防次官、それに当時国務省国連担当室長だったディーン・ラスクがいた」 レストンによると、マーシャル元帥は「トルーマンが『生あるアメリカ人で最も偉大な人物』とみなしていた」ほどの、当時のアメリカで最有力の人物だった。そしてこの元帥は、「イスラエル承認」問題について、トルーマンが「一九四八年の大統領選挙で勝利するため」に「『見えすいたごまかしをした』と考えていた」という。 トルーマンは一九四八年秋に再選されるが、そのさいの政治資金をユダヤ系富豪のフェインバーグにあおいでいた。ユダヤ系アメリカ人のジャーナリスト、セイモア・M・ハーシュは、イスラエルの核兵器開発とアメリカ政府の「見て見ぬふり」のダブル・スタンダード政策を暴露した好著、『サムソン・オプション』の中で、フェインバーグをつぎのように紹介する。 「下着とアパレルで財をなしたニューヨークの実業家で、一九四八年の大統領選挙では敗色濃厚だったハリー・S・トルーマンに選挙運動資金を提供した。一九六〇年の大統領選挙では、民主党にとってユダヤ人支持者のなかでおそらくもっとも重要な人物になっていた。主張は明快だった。資金を提供しましょう。民主党のみなさま、今後もイスラエルを支援して下さい」
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ユダヤ民族3000年の悲劇の歴史を真に解決させるために
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第4章:イスラエル・コネクションの歴史的構造 3/9
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「ホロコースト」の「欺瞞」の犠牲者はパレスチナ人という主張
だが、このイスラエル支援の「つぐない」のあやしさはまさに犯罪的だった。「ホロコースト」を理由にして、「ホロコースト」とは何のかかわりもない現地のアラブ人の居住権をふみにじる計画だったからだ。この「つぐない」は、イスラエルとヨーロッパのキリスト教社会のみに通用する勝手気ままな免罪符発行でしかない。アラブ人にいわせれば、かつてのョーロッパ諸国による十字軍の再現にほかならなかった。こうして、ユダヤ人を先兵とする欧米諸国のあたらしい中東侵略の犯罪が、国連を舞台にして堂々と犯され、以後、半世紀続き、今後もなおつづくことが確実な国際紛争の原因となったのである。 「ホロコースト」物語の見直しを主張する歴史家、たとえばフランスのフォーリソンは、決してナチズムの共鳴者などではない。本人も『ガス室の疑問点』のなかで「わたしにたいしての、ナチズムだとする攻撃、ほのめかしのすべてを中傷と見なす」と宣言している。もっとも重要なのは、つぎのような、すでに「はしがき」でもしるしたかれ自身の見解である。 「この欺瞞の基本的な犠牲者はドイツ人(ただしドイツの支配者ではない)およびすべてのパレスチナ人だ」 フォ-リソンの「ホロコースト」物語にたいする評価は、このようにパレスチナ人を「基本的な犠牲者」として見るものであり、「欺瞞」という表現をもちいるほどのきびしさをはらんでいる。そのきびしざは、研究そのものの深さをしめすと同時に、その研究にたいするシオニスト過激派のしつような攻撃などへの積もりに積もった怒りの表現でもある。 「歴史見直し研究所」が発行した「特別報告」、『シオニスト・テロ・ネットワーク』によると、フォ-リソンは、一九七八年から一九九三年までの一五年間に一○回の襲撃をうけている。一九八九年の襲撃は、刺激性ガスのスプレーで目つぶしをかけておいてから、三人の襲撃者がなぐる、けるの暴行をくわえるという狂暴このうえないもので、フォ-リソンは全身から出血し、くだけたあごの骨とあばら骨の手術に四時間半もかかるという瀕死の重傷を負わされた。『シオニスト・テロ・ネットワーグ』に掲載されている顔写真を見ると、まぶたはふくれ、唇はきれ、目から血がふきだし、顔全体が無残にはれあがっている。 襲撃者たちはみずから「ユダヤ人の歴史を記念する息子たち」という組織名を名のり、つぎのようなおどし文句がはいった声明を発表した。 「フォ-リソン博士が最初で、これが最後ではない。ホロコーストを否定する連中に、気をつけろといっておけ」(ル・モンド89・9・19) 「ホロコースト」物語はこうして、「誤報」から「情報操作」、ついには真相を暴力で押しつぷすというような段階につきすすんでいるのではないだろうか。
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ユダヤ民族3000年の悲劇の歴史を真に解決させるために
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第2部 冷戦構造のはざまで
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第4章:イスラエル・コネクションの歴史的構造 4/9
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反ナチ・ユダヤ人救助のレジスタンス闘士が「見直し論」の父
フォーリソンもそうだが、「ホロコースト」にたいして疑いの意見を提出しはじめたのは、一般につたえられているような「ネオナチ」などではなくて、むしろ「左翼」なのであって、いわゆるユダヤ系の学者までがくわわっている。 この点では、日本での、または日本にながれてくる報道のありかたも問題にしなくてはならない。日本国内では、ネオナチの宣伝にたいする規制としてしか、発言処罰法の問題は報道されていない。だが、事件の表面にあらわれた法的判断の裏には、非常に複雑な歴史的事情がひそんでいる。もともと不勉強な狂信的ウルトラ右翼や、右翼団体の集会で講演したりする軽率なイギリスの作家、アーヴィングなどは、それらの研究に便乗しているにすぎない。むしろ、この問題の複雑な内容や経過を考慮にいれると、狂信的ウルトラ右翼を煙幕に利用するための意図的なヤラセさえ疑ってかかる必要があるだろう。すくなくともネオナチの動きが、たくみに煙幕として利用されていることだけは間違いない。 ただし、この場合の「左翼」の事情は複雑である。「左翼」とはいっても、一般に「左翼」という言葉から連想されるような「組織」ではない。ソ連は、すでに指摘したように、一九四七年の国連によるパレスチナ分割決議、およびイスラエルの建国を支持していた。当時のソ連の思惑にはさまざまな憶測があるが、ともかく、イスラエル建国支持の底流には「ホロコースト」物語の承認があるし、ソ連当局はその立場だった。 ナチス・ドイツの収容所での「ガス室」の存在を否定した最初の人物は、フランス人の元レジスタンス闘士で「左翼」の歴史地理学教授、ポール・ラッシニエ(一九六七年没)である。ラッシニエの主要著作を再編集した「歴史見直し研究所」発行の英語版、『ホロコースト物語とユリシーズの嘘』の著者紹介によると、一九〇六年に農夫の息子としてうまれている。歴史地理学の教授になったのち、一九三四年には社会党にはいり、戦争がはじまった一九三九年にはベルフォール地方の最高責任者になっていた。第二次世界大戦中には、ドイツの占領下にあったフランス北部で非合法の対ドイツ抵抗運動(レジスタンス)にくわわった。しかも、注目すべきことにはラッシニエが参加した「北部解放」の組織活動の中には、スイスにユダヤ人避難民をおくりこむ「無抵抗のレジスタンス」がふくまれていた。ラッシニエが「反ユダヤ」主義者などであるはずがない。 ラッシニエは一九四三年に悪名たかいドイツの秘密警察、ゲシュタポに逮捕され、一九四五年の終戦までは、ブッヘンヴァルトなどのナチス・ドイツの収容所にいれられていた。二年間にわたる何カ所かのナチ収容所経験の持ち主である。戦後には社会党から下院議員に選ばれたが、収容所生活でチフスにかかり、健康をそのねていたので一年で引退した。フランス政府からは、レジスタンス活動にたいする最高の勲章を授与されている。 第二次世界大戦の直後には、「ホロコースト・タブー」とよばれる状況があったらしい。ナチの犯罪追及が熱心におこなわれている時代のことだから、その最悪の犯罪として話題の中心になっていた「ホロコースト」に疑問をなげかけるのは、「タブー」だったのだ。 その社会状況にあえて挑戦したラッシニエは、没後の現在、「ホロコースト・リヴィジョニズムの父」とよばれている。 「リヴィジョニズム」を「修正主義」と訳している例がおおい。だが、「修正主義」という言葉は、いわゆる「中ソ論争」のさいにソ連への批判として派手につかわれていた。もっぱら非難の意味が強いし、手垢がつきすぎている。日本の歴史学の場合には、一九六九年(明治二年)に発布された「修史の詔」によって、いわゆる「皇国史観」による歴史の偽造がおこなわれている。「修正」も「修史」も、「修正インク」のように、「偽造」のイメージが濃厚だ。 だからわたしは単語の原意をとって、「見直し論」と訳すことにする。
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『アウシュヴィッツの争点』
ユダヤ民族3000年の悲劇の歴史を真に解決させるために
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第2部 冷戦構造のはざまで
~~米ソ賛成、アラブ総反対のパレスチナ分割決議の背景~~
第4章:イスラエル・コネクションの歴史的構造 5/9
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西ドイツ当局がアウシュヴィッツ裁判傍聴で入国を拒否
ラッシニエは、自分の収容所での実際の経験にてらして、「ガス室による大量虐殺」という話が世間に広まっているのにおどろき、戦後ただちに「そんなものはなかった」と発言しはじめた。そのころのラッシニエの立場は、さきにしるしたように社会党の下院議員、またはレジスタンス活動にたいする最高の勲章授与者である。ところがラッシニエは、その証言をマスメディアから無視されだけでなく、非難の的となり、はなはだ当惑した。 そんな経験からますます「ホロコースト・タブー」の実情に強い疑問を感じたラッシニエは、『赤道通過』(一九四八年刊)、『ユリシーズの嘘』(一九五〇年刊。『ホロコーストとユリシーズの嘘』所収))などのいくつかの著作で、「ガス室について決定的判断をくだすのは早すぎる」という趣旨の主張を発表していた。真相をたしかめるために、一九六三年から六五年にかけておこなわれたアウシュヴィッツ裁判のさいには傍聴を希望したが、西ドイツ当局から入国を拒否されて不可能になった。 ニュルンベルグ裁判の状況についてはすでにくわしく紹介したが、その後に継続してひらかれた「ホロコースト」関連裁判の状況も同様だった。アメリカ人のブッツ博士は『二〇世紀の大嘘』の中で米独の研究書を引用しつつ、つぎのような欠陥を指摘している。 「一九六一年のアイヒマン裁判」では「被告側の証人は許可されなかった」。同裁判でも「一九六三年から一九六五年のアウシュヴィッツ裁判」でも、被告側弁護士は、書証を十分に調べるだけの訓練をへた調査助手のスタッフをまったく持たず、それにくわえて、かれらが入手できる書証のすべては検察側の力で統制されていた。 もともと「書証」については、ニュルンベルグ裁判でも検察当局の一方的な選別によって法廷に提出されたもの以外は、まったく利用できなかったのである。それにくわえて、ラッシニエのような批判的意見の持ち主を「入国拒否」して、傍聴を制限するのであれば、これまた「裁判公開の原則」の無視にほかならない。 ラッシニエの主著を再編集した英語版の『ホロコースト物語とユリシーズの嘘』は、「歴史見直し研究所」で入手してきたが、四六五ページの大著である。 かれは「ガス室」の存在を否定しただけでなく、ナチス・ドイツはユダヤ人を移住させる以外の政策を立てたことはないと強調していた。とりわけ重要なのは、戦後の初期に発表された「ホロコースト」物語の真相をあばくための、つぎのように実証的な姿勢である。 「かれはその死をむかえるまで、[ユダヤ人]絶滅政策説に立つ著作を調べつづけ、その著者の追跡をこころみた」(『六百万人は本当に死んだか』) その結果、「ガス室」の存在について、ある著者は「ほかの人から聞き、それ以後、自分が目撃証人であるかのようにふるまってきた」ことを認めた。ある著者は「漠然とした噂以外になんらの証拠をもしめせなかった」。ある著者の情報源だった「目撃証人は、その著作が出版される前に死んでいた」。「六〇〇万人」の根拠をしめすことができた著者は皆無だった。 ユダヤ人で、オーストリアの社会民主党の指導者でもあったベネディクト・カウツキーの場合には、ラッシニエとの会見が以後のドラマチックな展開につながった。『悪魔と罪』という著作の中で、かれは、「アウシュヴィッツで何百万人ものユダヤ人が抹殺された」と主張していた。かれは実際に一九三八年から四五年まで、アウシュヴィッツの三カ所をふくむ各地の収容所に収容された経験の持ち主だったが、ラッシニエとの会見の結果、「抹殺」説は「他人からの伝聞」であることを認めた。その後の著作ではラッシニエとの約束にもとづいて、そのことをしるした。 こうした実証的調査の積みかさねのうえに立って、ラッシニエは『ヨーロッパのユダヤ人のドラマ』(『ホロコースト物語とユリシーズの嘘』所収。第三部)のなかで、絶滅論に立つユダヤ人のホロコースト史家、ラウル・ヒルバーグのニュルンベルグ裁判研究を批判しながら、つぎのようなきびしい言葉で論じていた。 「(ホロコーストの犠牲者数の計算は)しかるべき死体の数によって、イスラエルという国家にたいしてドイッが戦後一貫して毎年支払い、いまも支払いつづけている莫大な補償金の額を正当化するための課題でしかない。(中略)端的にいえば、それは単に、純粋に、そして非常に卑劣なことに、即物的な課題でしかないのだ。(中略)ドイツは約六○○万人の死者数を基礎に計算した賠償金を払っている。ところがさらに、そのイスラエルヘの賠償にくわえて、六○○万人のうちのすくなくとも五分の四が実際には戦後まで生き残っていて人数が計算できるわけなので、それらの諸外国に現在も住んでいる人々、およびその後に死亡した人々ヘの補償金の受取人にたいして、ナチズムの犠牲者としての実質的な賠償を支払っている。このことは、六○○万人のうちの莫大な多数部分にたいしてドイツが二度支払っていることを意味する」 これらの、きびしい主張をもりこんだ著作は、マスメディアから一斉キャンペーンの攻撃をうけた。ラッシニエは、序文の執筆者、出版者とともにうったえられ、一審は無罪、二審は有罪で罰金と執行猶予の禁固刑の判決、最後にふたたび無罪をかちとるという苦労をしいられた。改訂版もだしたが、以後、マスメディアは無視という戦術にでた。 現在、ラッシニエの業績をひきついで「ホロコースト見直し論」の中心になっているのは、やはりフランス人で、すでに紹介ずみのロベール・フォーリソン博士である。フォーリソンはもともと、フランス文学の研究で「文書鑑定」を専門としていた。一九六〇年になってはじめてラッシニエの著作にふれて「ホロコースト」への疑問をおぼえ、以後、見直しの研究をつづけることになった。
(36)「左翼」でユダヤ人、プリンストン大学の著名な歴史学教授
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『アウシュヴィッツの争点』
ユダヤ民族3000年の悲劇の歴史を真に解決させるために
(36)
第2部 冷戦構造のはざまで
~~米ソ賛成、アラブ総反対のパレスチナ分割決議の背景~~
第4章:イスラエル・コネクションの歴史的構造 6/9
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「左翼」でユダヤ人、プリンストン大学の著名な歴史学教授
『ニュースウィーク』(89・6・15)の記事「『ユダヤ人は自然死だった』で揺れる歴史学会」で紹介されているメイヤー教授も、やはり「左翼」の歴史家であり、しかも、ユダヤ人である。メイヤーは一九二六年にルクセンブルグでうまれた。同誌は、「アメリカ屈指の外交研究者として敵味方を問わず一目置かれているプリンストン大学のアーノ・メーヤー教授」という書きだしで、つぎのように紹介する。 「左翼をもって任じるこの著名な教授は、自らもヒトラー支配下のヨーロッパからの亡命者だ。一九四〇年、家族とともにルクセンブルグから逃れてきたが、祖父の一人は強制収容所で亡くなっている」 記事の内容は、メイヤー教授の新著『なぜ天は暗くならなかったか』にたいする関係者からの批判、「歴史学者の論争」にはじまっている。 「いま繰り広げられている論争は、論客の顔ぶれや応酬される毒気の強さからいって、類を見ないといえるだろう」とある。『ニュースウィーク』が取りあげざるをえないような熾烈な議論が、アメリカの歴史学界を舞台に展開されていたのだ。 フォーリソンが執筆した書評記事によると、まず、メイヤーのプリンストン大学での一九八九年度の正式講座名は「ヨーロッパ史」となっている。フォーリソンによると、一九八二年にソルボンヌで開かれた国際会議に参加したさい、メイヤーの発言がイスラエルの歴史学者を激怒させたという。この会議でメイヤーは、「ホロコースト」に再検討の余地があるという趣旨の発言をしたらしいのである。しかもなぜか、その際のメイヤーの発言は、三年後に発行された会議の記録、『ナチス・ドイツとユダヤ人の民族的虐殺』には収録されていない。 『二〇世紀の大嘘』によれば、メイヤーのほかにも、いわゆるユダヤ人のホロコースト否定論者が何人もいる。 たとえばヨセフ・ギンズブルグは、ナチス・ドイツ支配下のルーマニアで迫害をうけた経験の持ち主で、戦後、イスラエルに移住した。だがそこで、次第にシオニズムにたいする批判をいだくようになり、「六〇〇万人」とされてきた「ユダヤ人虐殺」の数字に疑問を呈したり、偽名で「ガス室による大量虐殺」を否定する著作を何冊か発表したりした。一九六九年にミュンヘンにある妻の墓をおとずれたさいには、ユダヤ人過激派におそわれ、ひどくなぐられた。
(37)「ユダヤ人問題の最終的解決」の意味するもの
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第2部 冷戦構造のはざまで
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第4章:イスラエル・コネクションの歴史的構造 7/9
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「ユダヤ人問題の最終的解決」の意味するもの
もっとも根本的な疑問は、「ユダヤ人絶滅」が果たして強制収容所の目的であったのかいなか、または「ユダヤ人絶滅」という「計画」が本当にあったのかいなかである。 ナチス・ドイツの文書類は、すでにニュルンベルグ裁判の項で紹介したように、戦後ただちに収集され、「記録センター」で整理されている。アメリカ軍が押収した分だけでも一、一〇〇トンに達するという。だが、それらの文書の中からは、ただのひとつとして「絶滅計画」計画の証拠になるような公式文書は発見されていない。「証拠湮滅」説もあるが、わたしはとらない。その理由はのちにくわしくのべる。 「ユダヤ人問題」の「最終的解決」という政策上の表現が、絶滅説の根拠になっている。だが、この言葉自体には「殺す」という意味はないが、ニュルンベルグにおける軍事裁判以来、英語で「エクスターミネーション」と同義語の取りあつかいを受けつづけている。 『六〇〇万人は本当に死んだか』によると、問題の「エクスターミネーション」がナチス・ドイツのユダヤ人問題で使われだしたのは、一九三六年の反ナチ宣伝書以来のことだった。当時のナチス・ドイツの対ユダヤ人政策は「移住」だった。つまり、最初は「移住」政策が「抹殺」につながるとして非難していたのだ。さらには『移送協定とボイコット熱1933』によると、すでに一九三三年、アムステルダムで「ドイツ商品ボイコット」の宣戦布告を協議した「世界ユダヤ人経済会議」の決議文では、ヒトラーの政策がユダヤ人を「結果的にエクスターミネイト」するものだと表現していた。 いずれにしても、単語の解釈だけでは水かけ論か、よくある口喧嘩の難癖のつけあいになりかねない。やはり実際におこなわれたことと照合してみる必要がある。 ヒトラー、またはナチ党の政策の目玉はゲルマン民族浄化のための「ユダヤ人排除」だった。一般庶民の胸の中にあったユダヤ人資本への不満を、そういうウルトラ民族主義のさけびであおり、首尾よく政権を獲得したのだ。だから、「ユダヤ人排除」のさけびは、庶民的かつ戦闘的でなければならなかった。 事実経過をたどると、ユダヤ人の「東方移送計画」はすでに一部が実行にうつされていた。ナチス・ドイツ当局は一九三三年に、アングロ・パレスチナ銀行のロンドン代表部と、数通の書簡からなる「移送協定」をむすんでいた。パレスチナへの移住ばかりでなく、そのさいのユダヤ人資金の移送にも協力していた。その作業は第二次世界大戦の勃発まで公然とおこなわれていた。しかもそのかげには、ナチ党とシオニスト機構中央との知る人ぞ知る密約の関係があった。 「歴史見直し研究所」をおとずれる以前にも、わたしの手元には、この事実を指摘する『移送協定とボコット熱・1933』という論文など、シオニズムとシオニストについての大量の英文資料があった。厚めの単行本のコピーも二冊分あった。レニー・ブレナー著の『総統の時代のシオニズム』はA4判で二七七ページある。ジョージ・ロブネット著の『パレスチナ構想』は、やはりA4判で四〇八ページもある。この二冊を全部読み通す時間はないので、要所を見るだけにした。「歴史見直し研究所」発行の雑誌論文の方は短いから全部読みとおした。ところが、実際に研究所をおとずれてみると、この関係だけであらたに七冊の単行本を購入することになってしまった。とても目をとおしきれない。関心のある皆さんにカタログでもくばって、共同研究をよびかける以外に方法はないだろうと観念した。本書の巻末にもリストをのせる。 ただし、これまでに一応目をとおした資料の範囲だけから見ても、基本的な事実関係は明らかである。事態はまさに複雑かつ怪奇である。まずは大筋の年代を追ってみよう。 一八七八年のベルリン条約以後、ロスチャイルド家がパレスチナ地方の土地を逐次買収し、ユダヤ人移民を送りこみはじめた。 一八九八年にはユダヤ人にとっての最初の国際組織、シオニスト機構(のちに世界シオニスト機構と改称)が設立された。 一九三二年、まさにヒトラーが政権をにぎる一年前に、世界ユダヤ人会議の準備会が開かれ、一九三六年には恒常的組織としての世界ユダヤ人評議会の結成にいたった。 つまり、世界中のユダヤ人を組織対象とする組織が二つできたわけだが、この二つの世界規模のユダヤ人組織が第二次世界大戦の裏側でおりなしてきた歴史を要約して紹介するのは、まさに至難のわざである。稿をあらためて検討したい。とりあえず指摘しておくと、ナチ党と「東方移送計画」の作業についての密約関係をむすんだのは、世界シオニスト機構の本部とシオニスト・ドイツ同盟である。
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第2部 冷戦構造のはざまで
~~米ソ賛成、アラブ総反対のパレスチナ分割決議の背景~~
第4章:イスラエル・コネクションの歴史的構造 8/9
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シオニストとナチ党の共生関係にこそ最大の歴史的疑問符
『ユダヤ人とは何か/ユダヤ人』(三友社)という日本語の資料もある。この本は一二人の研究者による共著だが、金沢大学教授(当時)で中東現代史専攻の前田慶穂が、「だれがアンネ・フランクを見殺しにしたのか/ホロコースト・シオニズム・アメリカ」の章で、「ナチとシオニストの協力」関係をえがいている。 ナチ党が政権を獲得した直後の一九三三年、世界シオニスト機構の議長代理だったヨアヒム・プリンツはこう書いていた。 「強力な勢力(ナチズム)がわれわれの支援に訪れてくれ、われわれを改善してくれた。同化論は敗れた」 ナチズムがユダヤ人の組織を「支援に訪れ」たとは、意外も意外の表現だが、これには切実な理由がある。当時のユダヤ人社会の中には、西欧文化に「同化」しようとする人々と、「異化」してイスラエル建国をめざすシオニストとの対立があった。狂信的な「異化」論者のシオニストにとっては、「同化」論者のユダヤ人こそが、打倒すべき当面の敵であった。だから、ユダヤ人全体の排斥を政策とするナチズムは、「敵の敵は味方」という戦国の論理で、「味方」に位置づけられたのだ。 この一見奇妙な関係の力学は、現在もつづいている。おなじ本の中の「ユダヤ人問題の理解のために/差別はどこからきたのか」の章で、東京大学教授(当時)でやはり中東現代史専攻の板垣雄三が、つぎのような実情を指摘している。 「欧米ではしばしばユダヤ人が嫌いで、ユダヤ人に対して強い偏見を持っている人に限って、イスラエルという国は大好きということが見られる。(中略)自分たちの社会からユダヤ人に出て行ってもらいたいから、出て行く先があるのは大いに結構だ、つまり、いわばゲットー国家としてのイスラエルの存在は大いに結構だということになるのである」 ナチ党の場合も、理論的指導者のアルフレッド・ローゼンバーグが一九三七年に発表した論文「転換期におけるユダヤ人の足跡」の中で、「シオニズムを積極的に支援すべきである」とし、「相当数のドイツのユダヤ人を毎年パレスチナに向けて送り出すべきだ」と論じていた。 板垣雄三はまた、「ナチズムとイスラエル」(『世界』78・7)と題して、つぎのような歴史的事実をも指摘していた。 「シオニストにより設立されたパレスチナ船舶会社は、ドイツ客船を購入して『テル・アヴィヴ号』と改称し、船長はナチ党員、船尾には船名のヘブライ文字、マストにはナチの鉤十字を掲げて、一九三五年ブレーマーハーフェン・ハイファ間に就航し、移民の輸送にあたった。(中略) 一九一九年パレスチナのユダヤ教徒の人口は住民の九%だった。ところが一九三九年には、パレスチナの『ユダヤ人」人口は全体の三〇%を占め、イシューヴ(パレスチナ・ユダヤ人社会)の自立的経済が成立するに至った。一九三三年を転換点として、中・東欧からの『ユダヤ人』入植者が激増したからである。ナチズムなしにはイスラエル国家の誕生はありえなかった、ともいえるであろう」 アイヒマンといえば、いかにも冷酷なユダヤ人虐殺の頭目のように見なされているが、ここにもやはり、つぎのような意外な経過がある。 「一九三五年頃、SSの公安部(SD)のユダヤ人問題担当官に就任したばかりのアイヒマンは、上官の勧めでシオニズムの父テオドール・ヘルツルの『ユダヤ人国家』を読み、シオニズムに心酔していた」(『ユダヤ人とは何か/ユダヤ人I』) シオニストとナチ党とは、ウルトラ民族主義と、暴力的手段の行使の二つの主要な柱で一致している。この両ウルトラ民族主義集団は奇妙な共生関係をたもっていた。世界シオニスト機構のドイツ同盟は、ナチ党の支配下で唯一のユダヤ人組織として機関紙発行をゆるされ、当局との交渉権をにぎり、急速に成長した。第二次世界大戦勃発の二ヵ月前、一九三九年七月はじめには、シオニスト組織をふくむすべてのユダヤ人組織が、ナチ党の御用機関、「帝国ユダヤ人同盟」にまとめられた。 大戦勃発以後、事態は急変した。だが、以上の経過がしめすように、人造国家イスラエルの建国という途方もない巨大計画は、一時的にナチス・ドイツの協力をえながら具体化され、ある段階から逆に「ナチ批判」、「ホロコースト批判」を跳躍台にして、第二次世界大戦の廃墟の上に展開されたのである。 ナチス・ドイツによる「東方移送計画」の最初の目標地は、すでにユダヤ人の入植が進んでいたパレスチナだったが、パレスチナの信託統治権をにぎっていたイギリスとの間で費用の問題などの話がつかなかった。以後、フランス領だったマダガスカル島が候補にあがったり、占領下のロシアという話になったり、まさに二転三転した。 その間、さまざまなルートをつかったパレスチナへの移住はつづいていた。 『アウシュヴィッツ/判事の証拠調べ』では、つぎのような意外な事実をしめす発掘資料を紹介している。 「一九四四年というおそい時期にいたってさえ、ドイツ海軍の援護の下に数隻の船がルーマニアから黒海をぬけて、ユダヤ人移住者をはこんでいた」 シオニストの目的は、あくまでパレスチナの「シオンの地」での国家建設にあった。戦後には、ふたたびマダガスカル島を候補にあげたイギリスの植民地担当大臣、モイン卿が暗殺されるという事件がおきた。結果として、一八七八年以来、ロスチャイルド家が土地買収をつづけてきたパレスチナに、ユダヤ人の国家が建設されるのである。
(39) シオニズムに「好意的な立場」の学者もみとめる「移送協定」
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『アウシュヴィッツの争点』
ユダヤ民族3000年の悲劇の歴史を真に解決させるために
(39)
第2部 冷戦構造のはざまで
~~米ソ賛成、アラブ総反対のパレスチナ分割決議の背景~~
第4章:イスラエル・コネクションの歴史的構造 9/9
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シオニズムに「好意的な立場」の学者もみとめる「移送協定」
以上のような世界シオニスト機構ないしは世界ユダヤ人評議会の組織活動については、いくつかのことなる見解がある。くわしい比較検討も必要であろう。 とくに、ナチ党と世界シオニスト機構の間の、具体的にはそのドイツ同盟の活動についての「密約」関係は、いわゆる裏面史に属する。イスラエル国家としては、ぜひとも記録から抹殺したいところであろう。 『情報操作』という元イギリス情報部員が書いた本でも、この両者の「密約」説を「ニセ情報」の一種、「反シオニズムのプロパガンダ」だとしており、つぎのようにしるしている。 「一九八五年一月十八日、ソ連の国営タス通信は次のような驚くべき報道をおこなった。 一、シオニストはナチ政権のパートナーだった。(以下、略)」 だが、表現はどうあれ、これらの歴史的事実をさけてとおることは、とうてい不可能である。たとえば、『ユダヤ人問題とシオニズムの歴史』は、日本語版が一〇〇〇ページをこえる超大著である。著者のウォルター・ラカーは、一九三八年にナチス・ドイツをさったユダヤ人で、一九七八年に出た日本語版の著者略歴によると、その当時、ロンドンの現代史研究所所長、ワシントンのジョージタウン大学国際研究所の国際研究評議会議長などをつとめていた。ラカーは、みずからシオニスト運動に参加し、その後、反シオニストの立場となった。だが、日本語版の「訳者解題」でも「シオニズムに対する著者の好意的な立場」という評価がなされている。ラカーは実際に、シオニズム擁護およびイスラエル支持の基本的立場を明確にしている。 当然、前の項で紹介した論文の著者たちとはシオニズムの評価がことなるが、この超大著、『ユダヤ人問題とシオニズムの歴史』の中にも、「移送協定」をめぐる歴史がくわしくしるされている。 まず、留保的な表現のほうをさきに紹介しておこう。 ラカーによれば、ヒトラーの政権獲得以後のドイツにおける「シオニズムの発展は、ユダヤ人のシオニズム批判家を困惑させた。その一部は、ナチズムとシオニズムは密かに結託しているとまで主張した」。ラカーはまた、「ナチスとの協力ないしは結託についての非難は、きわめて有害で意味のないことである」とし、「シオニストはナチス・ドイツのなかで、特別な関係を享受しなかった。彼らの指導者や印刷物も、他と同様の制限や迫害を受けたのである」としるす。 だが、その一方でラカーは、つぎのようにもしるす。 「ドイツのユダヤ人社会のなかで、シオニストはいつも比較的小さな少数派だった。ヒトラーが権力に上った後では、ドイツ・ユダヤ人の間の彼らの影響力は飛躍的に増大した。突然、パレスチナに関するあらゆる事物に関心が向けられるようになった。過去二、三〇人しか出席しなかったシオニストの集会に、何百人ものユダヤ人が押し寄せた。シオニスト新聞の発行部数は上昇し、到るところでヘブライ語教室が開かれた」 ラカーは、この現象がドイツ以外の諸国でもそれ以前からはじまっていたとし、その原因を「ユダヤ人が危機を感じた」ことにもとめている。また、「ナチスは、時にはパレスチナ移民を促進させる努力を奨励したが、同じような便宜は、世界の他の場所への移民を援助している非シオニスト組織にも、与えられていたのである」とする。 世界シオニスト機構は、ヒトラーが政権を獲得した年の一九三三年に、プラハで第一八回シオニスト会議をひらいた。ラカーは、「ドイツのシオニストは、一九三三年のシオニスト会議に姿を見せることを許されなかった」としるす。ヒトラー政権が出席をさまげたという文脈である。だが、この会議では、ドイツのユダヤ人問題がおおいに議論の的となった。 「移送協定」の先駆をなした「パレスチナ拑橘会社の支配人サム・コーエン」の「活動」にたいしては、ドイツ商品ボイコット運動に対する「裏切り行為」だとして「激しく攻撃」するものもいたし、「賛成」するものもいた。ラカーは、この間の事情をつぎのように解説する。 「コーエンは一九三三年にドイツ経済省との間で、ドイツで購入されパレスチナで販売されることになる総額一〇〇マルクの農具をパレスチナに移送することを定めた協定に、調印していたのである。これはシオニスト運動(パレスチナの銀行を通じて行動)とドイツ人との間の、はるかに野心的な移送(Ha'avara)協定の先駆であった」 「移送協定」が実行に移された国際的背景について、ラカーは、つぎのように分析する。 「西欧列強もソ連も、ドイツとの貿易関係を減少させたり、断絶させることなどは片時も考えてはいなかった。他方協定が、何千人ものユダヤ人の入植を可能にし、パレスチナに於けるユダヤ人の立場を強化し、ひいてはその吸収能力を高めることになる好機が存在したのである」 さらにラカーは、一九三三年の第一八回シオニスト「会議は、ワイズマンの指揮下にドイツ・ユダヤ人のパレスチナ入植のための中央事務所を設立することを決定した」としるす。ヴァイツマン(ワイズマンは英語読み)は当時、世界シオニスト機構の議長であり、一九四八年にはイスラエル初代大統領に就任した最有力のユダヤ人長老である。 以上、評価の仕方と表現のニュアンスにちがいはあるものの、「移送協定」によるドイツ・ユダヤ人のパレスチナ入植促進という活動が、ヒトラー政権と世界シオニスト機構の合意のもとにおこなわれていたという事実については、もはや議論の余地はないというべきであろう。 つぎの第3部では、すでに紹介した『ニュースウィーク』の記事、「『ユダヤ人は自然死だった』で揺れる歴史学会」と、NHKが放映した『ユダヤ人虐殺を否定する人々』などを題材にして検討しながら、「ホロコースト」物語の材料と場面をさらに広げてみたい。この検討作業を通じて、重要な核心的争点を明確にすることによって、無駄な論争の時間をはぶくことにもつながるであろう。 「無駄な論争」とあえていうのは、実証作業ぬきの感情的な議論のことである。 第3部では、「ホロコースト」肯定論もしくは「絶滅説」の支持者が、いかに実証作業を軽視し、または意図的に核心的な争点事実をさけているのではないかという疑いが、具体的な素材の内容の批判を通じてあきらかになるであろう。
第3部:隠れていた核心的争点
(40)「マスコミ・ブラックアウト」の陰で進んでいた科学的検証
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