「アンチ・ロスチャイルド・アライアンス資料室『通産省・国売り物語』」その1

 (最新見直し2009.8.29日)

 (れんだいこのショートメッセージ)
 「アンチ・ロスチャイルド・アライアンス資料室」の「通産省・国売り物語」を転載しておく。その1として、1〜4までを採り上げる。 


 通産省・国売り物語(1)馬借

 現在の日本社会を破壊しようとしている財政破綻。これを引き起こした財政出動の垂れ流しは、アメリカによる圧力と、それに便乗した官僚・政治家・財界によって、中曽根行革による財政再建の撤回とともに始まりました。本来なら公共時に減らされて債務を削減すべきものが、外圧要因によって強化されつづけ、バブルを引き起こした挙句に不況に陥ると、さらなる財政支出を要求される。これでは財政破綻は免れませんが、業界にとってはまさに「心強い味方」だったでしょう。もし、こうした悪循環の始まりに、誰かの意図が関与していたのだとしたら、それは許されざる犯罪行為です。

 86年に書かれた「新・日本の官僚」(田原総一朗著・文春文庫)という本に、通産官僚へのインタビューで、こんな台詞が出てきます。「中曽根行革は、口では経済摩擦緩和に努力するといいながら、行革で、公共投資をはじめ、内需をムチャクチャに抑えている。これでは輸出が増えるのはあたり前で、中曽根首相はウソつきだ、と」。そういうアメリカの要求に答えて財政を拡大し、自国のことだけを考えない世界国家として「第二の開国」を受け入れよ・・・。で、そのためには「経験のある通産省に任せろ」って本音がある訳ですが・・・

 あの当時、長年の開発努力によって力をつけた企業の間で「もう通産省の指導はいらない」との認識が広がり、通産省が存在意義を失いかけていたそうです。それに対して、権力の維持を図る通産官僚の中に、アメリカの圧力を利用して、利権を再構築しようという動きがあったというのが、田原氏の説明です。上の発言は、そうした官僚のものです。そのために彼等は、アメリカの貿易摩擦を煽り、他省分野に対する外圧を利用して、縄張り争いを展開したと・・・。通信摩擦で入れ智恵したり、通商外圧の種本を作って渡したり・・・。

 そういう中に、半導体摩擦が出てきます。

 85年秋の半導体日米交渉に関する「チップウォー」(フレッド−ウォーシェフスキー著・株式会社経済界刊)での裏話は衝撃的です。商務省のプレストウィッツが交渉のさ中の時期、夜中に相手の通産省幹部に極秘で呼び出されて「通産省なら行政指導によって20%のシェアを保証できる」と持ちかけられたのだそうです。これが悪夢の始まりでした。悪かろうが高かろうがいらない種類だろうが「とにかく2割を買え」という、とんでもない条項を呑まされたのです。

 この交渉では、もちろん国内でも、通産省内部でも大きな反対がありました。そうした反対派を騙しつつ、交渉とその運用は進められました。交渉中の反対派は通商政策局、推進派は機械情報局です。そしてその推進派の意図は、通産省の行政指導に従わなくなった「半導体産業という暗黒大陸を征服する絶好の手段」として利用するためだったと、手嶋龍一氏のインタビューに応じた当時の担当者が答えています。(「ニッポンFSXを撃て」新潮社刊)

 当然、行政指導による押し売りなど簡単には進まず、87年2月、アメリカによって、見え透いた囮操作による半導体制裁が始まります。その圧力の中で半導体輸出の規制によるシェア低下や日本企業による出血サービスの技術協力・購入努力。メーカーはガチガチの統制経済に絡め取られ、通産省の業界支配は復活。そして延々と制裁は続き、再三の「ガット提訴決定」もポーズだけで実行に至らず。

 アメリカ企業での日本側のサービスに対するホクホク状態と日本側に募る不満が続く中で迎えたブッシュ政権の早々に始まったのが、89年のスーパー301条問題でした。最初は「日本をスーパー301条に指定しない」という方針だったのを、覆したのが摩擦議員とSIA(アメリカの半導体業界)でした。このスーパー301条での通産省は、「平成日本の官僚」(田原総一朗著・文芸春秋社刊)によると、実際に特定された三分野が他省の管轄だと、通産省内部では満足状態。しかも実は、「候補」が発表される一週間前に機情局某課長が本指定結果を知っていた(つまりアメリカ側ともツーカーだった?)・・・。

 そして「構造協議」が始まり、430兆もの公共事業を約束させられる。ジェトロは外国企業の対日輸出サービス機間として、半導体の「輸入拡大自主努力」は通産省の指導の元で全産業に拡大される。それで得た絶大な支配権と十兆円規模の「新産業資本」予算で、指揮した棚橋祐二氏(91年から事務次官)は「通産省中興の祖」とまで呼ばれているとか・・・。(1244財政垂れ流しを仕組んだ官僚達)

 中曽根行革が覆されたのは、87年4月の「緊急経済対策」で決めた6兆円規模の財政出動で財政再建が棚上げされた時です。これは2月に始まった半導体制裁に対処すべく、G7に合せて訪米した中曽根総理がアメリカを説得するための「手土産」として作られました。まさに半導体摩擦を梃子に、通産省の「念願」が実った訳です。

 (1245 Re:財政垂れ流しを仕組んだ官僚達)

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 半導体という「産業の米」に関する技術的リーダーシップを日本から奪い取り、味をしめたアメリカをして、強硬な「押し売り貿易」要求に走らしめた半導体協定の20%条項。半導体交渉でプレストウィッツに、秘密裏に20%の押し売り貿易を提案した通産省幹部とは、具体的に誰なのか。

 密約の発端

 少なくとも、この提案が行われた「85年秋の交渉」は、おおよそ特定出来ます。第1回の専門家会合が10月21日・22日にワシントンで、第2回が11月20日で、この第2回の時にアメリカ側が言い出したそうですので、ほぼ10月の交渉において、という事になります。

 その交渉に関しては、14日づけの日刊工業新聞で、棚橋機情局次長が急遽派遣されて話し合いを始める、と報道されています。そしてその後の21日頃に若杉審議官が本交渉に出向いたことになっています。となると、可能性のあるのはこの二人ですが、若杉氏の場合は「深夜に呼び出す」となると、チャンスは初日夜の1晩しかない。となると、14日頃から派遣されていたらしい棚橋氏によるものである可能性が、極めて高いことになります。

 実はこの本交渉では、11月3日づけの日経新聞によると、双方が持論を述べ合っただけで具体的な交渉のための話し合いはなされなかったという。つまり「要求する側」のアメリカ側が、まとまった具体的要求を出さなかった訳で、極めて異例な展開です。これが何を意味するのか。つまり、棚橋氏による「提案」をアメリカ側が検討し、対日態度を固める時間が必要だった・・・という解釈が最も妥当という事になります。

 実はこの棚橋祐二氏は、日米摩擦に関する様々な局面に登場するキーパーソンです。モトローラのガルビン氏が日米摩擦について書いた「日本人に学び日本に挑む」で、86年5月における20%押し売り受け入れの合意成立に尽力したのが棚橋氏であり、「対米交渉の前線部隊長」として、アメリカ側との交渉を仕切ったことを本人が認めています。つまり、現地での相手方との接触や情報収集を牛耳って、交渉を左右する立場にあった訳です。

 さらに彼には、類似する行動の実例があるのです。89年のスーパー301条において、「トロン教育パソコン」がアメリカの圧力によって潰された時、孫正義氏と組んで、裏でトロン潰しに画策したのが、実はこの棚橋氏である事実が「孫正義・起業の若き獅子」という本で明かされています。

 この時にもう一人、トロン潰しに加わっていたのがソニーの盛田昭夫氏でした。彼は半導体摩擦でも日本企業側の外圧受け入れの動きに主導的な役割を果たしており、プレストウィッツ氏の「日米逆転」によれば、95年春に盛田氏が、日米摩擦の場で半導体の官僚統制を言い出しています。さらに遡る83年の日米財界人会議で、モトローラのガルビン氏が要求した日米業界間談合に、盛田氏が賛同し、その実現向けて協力したのだそうです。

 そして以後、対日摩擦の火付け役として、押売り外圧利益追求者として、またSIAのリーダー格としても有名なガルビン氏と、盛田・棚橋コンビの密接な連絡によって対日が背後に存在していたことが、明らかになっています。通信摩擦で悪名高い「モトローラ方式」を日本で最も熱心に受け入れたDDIの稲森氏を、ガルビン氏と引き合わせたのも、TRON外圧で孫氏と棚橋氏を引き合わせたのも、この盛田氏でした。

 彼が何故、このような挙に出たのかは解りませんが、元々、日本の半導体産業を初期に牽引したのは、トランジスタラジオを開発したソニーでした。それが次第に日立やNECなどが大資本にものをいわせて大規模な半導体工場を作って市場を席巻した・・・と、盛田氏の目に映った事は間違いないでしょう。しかし、だからといって、それらの電子メーカーが単に「力業で市場を乗っ取った」と盛田氏が恨んだのだとしたら、それは大きな間違いです。当時の半導体はけしてアメリカなどが被害者意識紛々に言い張るような「習熟効果で金を注ぎ込んでシェアを取れば猿でも歩留まりを上げられる」ような簡単なものではないのです。

 NECなどが信頼性のノウハウを蓄積できた大きな切っ掛けは、かつて電電公社が「電話システムの電子化」のために必要としたマイコンの開発にメーカーの参加を募り、目茶苦茶に厳しい信頼性テストを伴う開発プロジェクトをやったのに参加して、血の出るようなハードな開発で経験を積んだお蔭でした。三菱などは、不良品の原因となる「極微細ゴミ」対策のため、女性技術者だけで「キャッツ」というチームを組織し、ある時は彼女たちの家族全員に三日間風呂に入れずに下着から上着まで同じのを着させ、それを洗濯した水を分析して「体から出るゴミ」の量を調べる・・・などという事までやりました。そんな血の滲むような切磋琢磨が、日本企業の世界に冠たる半導体量産技術を築いたのです。

 また、棚橋氏は単なる高級官僚ではありません。91年に事務次官に上り詰めた大物で、大臣経験者の娘婿としての閨閥を持ち、福田内閣の秘書官時代に政会に太いパイプを築いて、福田・竹下派・・・、特に梶山氏と強い繋がりがあるとか。75年頃の内閣官房グループが連夜料亭で繰り広げた豪遊を目撃されたことが「夜に蠢く政治家たち」という本に出てくるそうですが、森喜朗・福田康夫氏などを率いた宴会リーダーとして大手を振っていたのが、他ならぬこの棚橋氏でした。高杉良氏の「小説通産省」に、彼をモデルとした「松橋勇治」という人物が登場しますが、自民三役とホットラインを持ち、与野党を問わず電話一本で動かす、多くの経済記者を子分にしているとの話まで出て来ます。

 勿論、棚橋氏が通産省の対外迎合を独りで引っ張っていた訳ではないでしょう。プレストウィッツ氏の「日米逆転」には、半導体協定成立に協力的だった通産官僚として、彼が「最も能力のある交渉者」と持ち上げた若杉和夫氏、機情局長としても次官としても棚橋氏の前任だった児玉幸治氏、そして「資源派」の大物で田中角栄が最も信頼したと言われる小長啓次氏の名前を挙げています。特に児玉氏はプレストウィッツ氏とも、そして棚橋氏とも家族ぐるみの付き合いで、棚橋氏と児玉氏の配偶者は一緒に通産高級官僚の配偶者達の親睦会を仕切る仲であったようにすら、高杉氏の小説に出てくるのです。

 泥沼の押し売り交渉

 さて、10月半ばの極秘裏の提案があった後、プレストウィッツ氏は商務省の上司に伝え、「自由貿易に反する、無理だ」という反対論を説得して、押し売り路線を決めた・・・と本人は言っています。11月14日頃、米政府筋がシェア拡大に繋がる日本の譲歩の見通しを発言します。これが前月の秘密提案によるものである事は言うまでもありません。11月19日からの東京での協議では「輸入拡大」や価格監視面での協力体制で合意します。直ちに日本の半導体メーカーは日米合意に沿った行動計画に着手しました。ところがその直後のワシントンでの協議で、双方の主張は平行線を辿ることになります。これが「20%シェア保証」の要求によるものである事が明らかになるのは、後になってからです。

 11月30日にはアメリカが非公式に「輸出拡大ビジョン」を要求し、泥沼化が始まります。実際にはアメリカ国内では最低価格制を求める声多が多く(日刊工業11/16)、妥結は不可能では無かった筈でした。だから12月3日の協議で若杉審議官は半導体価格規制案を提出し、USTRが理解を示すことで、先ず決着したという受け取り方が大勢を占めたのです。

 それに対してボトルリッジ商務長官は「日本の価格カルテル提案はわれわれの自由貿易の考えに反する」という、白々しい理屈で反対し、ダンピング調査決定でぶち壊す挙に出ました。日本のマスコミではこの時、商務省とUSTRの対立を伝えていましたが、一方では「日本側の交渉態度がアメリカを怒らせた」と恐怖を煽って(日経12/13)際限の無い譲歩を要求する声が出ます。佐藤隆三氏(日経10/12)のような「損を覚悟で輸入を増やせ」というとんでもない言い分がまかり通るようになり、11月には通産省でも、事実関係を棚上げにして「現実的な解決策」(江波戸哲夫著「ドキュメント日本の官僚」)と称した妥協路線に「転換」したと言います。

 この時期には既に、田原総一朗氏の「新・日本の官僚」が指摘した「他官庁の領分の利権の侵略」のために・・・という名目で、アメリカ外圧との極秘協力体制は出来ていたようで、その85年という時期はまさに、レーガン政権が対日押売り外圧の本格化へと政策転換した時期にも当たります。ジェトロ配下の「日米貿易委員会」が出した報告書「プログレスレポート1984」が、85年の押し売り貿易交渉におけるアメリカ側のネタ本として提供したものでした。郵政省のVAN自由化の際、郵政省の決めた届出制を叩かせるために「端末500以上のVANは不許可」という嘘を、とある通産官僚がアメリカ側に吹き込んだとして問題になりました。その本人を田原氏がインタビューした時、逃げた本人の代りにインタビューに応じたのが棚橋氏でした。

 年内での解決が不可能になったとして、12月13日頃に通産省は棚橋氏をアメリカに派遣。帰国してからどんな「情報」を持ち込んだのか、通産省では「対米通商円滑化の政策転換」と称するものの検討を始め、年末には半導体輸入20%増という結果主義的目標を提案。しかしプレストウィッツは、あくまで日本全体でのシェア増加を要求して、この提案を蹴って決裂させます。

 その他の多様な摩擦分野では、86年に入ってすぐ、安部外相が訪米して僅か2日間で米政府高官に個別会談し、MOSS協議は決着したとして、マスコミの賛美を浴びます。実際には単なる一時しのぎに過ぎなかったのですが、その裏側にどんな根回しがあったのか・・・そして、半導体だけは協議継続として取り残されるのです。

 しかしその後、プレストウィッツは商務省を解任され、23日に再開された交渉で国内価格を含む半導体の「価格監視」による合意を見たのです。その前日に渡辺蔵相は日本貿易会に「輸入目標は作らない」と約束します。しかし相変わらず数値目標を要求する勢力は議会等に根強く、「アメリカ製輸入拡大」の交渉は続きます。

 そうした中、「プレストウィッツが対日和解派になって、強硬派を押さえる球として数値目標を求めている」かのような風評が流れ始め、新聞に載ります。勿論、それが数値目標を受け入れさせようという真っ赤な嘘である事は、今となっては明らかですね。そしてこれに呼応するように、通産省自らが数値目標受け入れに繋がる提案を始める一方、2月15日にアメリカが価格監視を正式要求すると、通産省は独禁法を理由に「日本市場での価格カルテル」を拒否し、代わって最低価格制を提案します。これだと独禁法に触れないのか?さらに「米独禁法の域外適用を受ける恐れがある」という不思議な理由までつけて、無意味な協議で国内の不満を外らしつつ、押売りの理不尽への批判が外らされていくのです。

 商務省も22日にはUSTRとの対立を解消。一致してシェア目標の強硬な要求を始め、3月に入ると国内規制要求を撤回。以降はシェア目標へと議論は集束していきました。それに対して通産省はなし崩し的な受け入れ姿勢を見せ始め、購入計画の調査と称して11社に圧力をかけます。

 これに呼応して、3/14日、ソニーの盛田会長とSIA・ガルビンが音頭を取って、棚橋氏も出席して日米のメーカーを集めて開いた協議で、取りまとめた「自主的買い入れ計画」を差し出します。その内容は、大手5社の社内米国製シェア約20%の購入。アメリカ側はこれに満足し、「有益だった。大きな進歩があった」と発言。「米国側のいらだちを取り除く目的が達せられた」と宣伝されたのですが、実際はその後の経過で明らかになるように、むしろ押し売り派を大いに元気付けたのです。

 27日になるとアメリカ側は態度を一変して「日本全体で確実に20%のシェアが取れなければ不満だ」と、今度はUSTRが先頭に立って激しい圧力をかけ始めます。その背景では、SIAの抱える複数のやり手弁護士の働きかけがあったそうです。商務省も負けずに日本製品に対して、FTCの否定的勧告にも関わらず、不当なダンピング指定を強行しました。

 「アメリカを宥めろ」という音頭に乗って、通産省による業種別の輸入拡大指針、四月に入っての日立の140億円の買い付け団・・・。アメリカは「日本に対しては、強気に出るほど美味しい思いが出来る」と、さらに要求をエスカレート。「4年後に30%のシェア保証」などという、途方もない要求まで飛び出します。いったい誰がこんな馬鹿な交渉をしたのか・・・。

 マスコミに「国内産業での利権故に外圧に抵抗している」と宣伝されていた通産省が、実は自立した業界への支配の復活のためにアメリカの外圧と組むため、国民を欺いて押売り受け入れへ走っていた。その中で、むしろアメリカの無茶な要求への抵抗を続けていくのは、普通なら「日米関係に利害を持って外圧屈伏に積極的」と言われている外務省でした。交渉の最終段階、通産担当者はアメリカ側に「外務省の条約局の担当者がうるさくて20%の約束を書面にできない」と説明し、USTRのアランホーマー氏は外務担当者に「お前さえ席を立てばいますぐ調印できるんだ!」と発言したそうです。

 5月に入ると、いよいよ渡辺通産大臣のトップ会談で決着・・・というシナリオが始動します。22日頃に合意の目処が立ったとしてトップ会談の日程が決まり、28日のトップ合意のセレモニーとともに、「合意内容」が明かされます。

 彼らにとっての唯一の問題は、押し売り被害者である日本国民をどう黙らせるか・・・という事に尽きます。「努力目標」と言ったところで、アメリカがこれを振りかざして「約束した」と言い張って、日本のはどんな犠牲を払ってでも実現せよ・・・と迫る事は明らかであり、そうでなければ「自立した業界を再び支配下に組み込む」という通産官僚の目的は達せられません。翌日の新聞には「国内調整は困難」という解説が乗り、早くも批判の声が上がります。実際、前もって合意内容が出来ていた筈にも関わらず、深夜に及ぶ異例の難協議の演出がなされた事を「難航をPR」することで反対派を宥めようとしたのだ・・・という推測が流れました。但し、表に出た憶測では「完勝」した筈のSIAを宥める・・・という奇妙なものでしたが。

 その後六月いっぱいは「細目の詰めで難航している」という宣伝がなされ、業界はなし崩しのうちに事態を「見守る」事を余儀なくされてしまいます。この時期、棚橋氏は大臣官房長に昇格。通産大臣の補佐役として、影から半導体協議に関わり続けます。

 7/4に決まったものは、日本企業にとってあまりに過酷でした。「コスト監視」と称して企業秘密をさらけ出し、アメリカ企業に筒抜けになる事は明白。しかも第三国市場も含めた世界規模で規制を受け、アメリカ製品は悪かろう高かろう必要品目と違うだろうの無理矢理購入を余儀なくされることになる。「これではアンチダンピングに甘んじても拒否したほうがましだ」という声が出たのですが、それも当然です。アメリカはダンピング指定を取り下げますが、そんなものはアメリカの一存でいつでも復活できる「空手形」に過ぎない事を、日本企業はやがて思い知らされる事になります。これが「安易な妥協はしない」などと触れ込んだ通産省の、あまりにも惨めな成果でした。通産省の本当の意味が知られない限りは・・・

 日本側はなおも「細目詰めで失地回復」などという虚しい慰め交渉を宣伝しますが、そんなものを吹き飛ばしたのが、アメリカ側が仕掛けたとんでもない要求・・「日本テキサスインストルメントを適用除外せよ」!おかげでこの不平等条約に対する反発は、全てこれへの抵抗に向けられ、7月31日についに本調印。

 九月に始まったMOSS協議で、この外交押し売りモデルが応用されます。「元々は関税などの制度改善を話す場なのに、今回は違う。コマーシャルベースの話を政府間協議で処理する話になってる」・・・。

 ところが、既に行政指導による輸入促進が始まっているにも関わらず、アメリカ企業はまともに売れるものを作ろうとしない。日本ではアメリカ製品購入のため、業界の参加で「外国製半導体販売促進センター」や「半導体国際交流センター」を設立しても、肝心のアメリカ企業は参加すらしない。上げ膳据え膳で黙って安楽椅子に座っていれば「世界一のアメリカ製品だから売れるに決まっている」という態度でぼろ儲けさせろ・・・。アメリカ半導体メーカーのバーブラウン社は「日本市場は開放されている」とSIAを批判します。

 また、価格監視に対しては、通産省に「半導体監視室」と「需給見通し検討委員会」を設置。多大な事務需要を産み出すことで通産省組織の肥大化に大いに貢献します。「売り上げ協力のために」との日本企業の配慮によって、インテルは松下と、モトローラは東芝と有利な提携を結んで、まさにホクホクでした。

 こんな時に欧州から、本来なら「アメリカの強制に苦しむ日本」にとっての、またとない援軍がやってきたのが、ECによる「半導体協定はガット違反だ」という指摘でした。ECの指摘は正当であり、本来なら、「世界のルール」を理由にこの不平等条約を破棄するための、世界が支持する絶好の機会だった筈です。ところが通産省は「ECに理解を求め、半導体協定を堅持する」として、この国益破壊条約の保持に汲々としたことは、これも通産官僚の真の意図を知らない者には不可解極まる話でした。

 ECは11/16日、日本をガットに提訴。間抜け極まることに、日本を叩くものに対する告発で、被害者である日本が被告席に座らされたのです。それでも日本は半導体協定を庇い、EC説得を続けたのです。半導体協定に「環境が変化した場合は一方的に破棄できる」という規定を活用する権利があったにも拘わらず。逆に、そうした「自由」をアメリカが協定で許したのも、その権利を日本側が行使しない・・・という確信があったからに他なりません。

 通産省・国売り物語(2)馬借

 そして制裁へ

 その一方でSIAは、がんじがらめに縛られている日本を、九月の発効から僅か二ヶ月しか経たない・・・、当然、商社などが協定前に買った製品が流通している時期の11月18日、「協定違反のダンピングをしている」として制裁要求を開始します。12月9日にはSIAのプロカッシーニが政府に制裁を要請。「日本が安値販売を続けている証拠を掴んだ」と主張。これが単なる「ふかし」であることは、後に出された「証拠」なるものが全く別の、翌年になってから「おとり」で作られたものであることからも明らかでしょう。実際にはその12月時点での日本企業の第三国シェアは四割・五割の激減。ごっそりアメリカ企業に浚われるという実体があったのです。

 翌1月8日には、この物言いで始まった通産省の実態調査で、なんと実際に原価割れ生産をやっていたのが、TIを始めとするアメリカ系メーカーだった事実が判明します。アメリカは大恥をかき、交渉を持ったものの文字通り「話しにならない」。にも拘わらず通産省は「アメリカの不満を鎮めるのが先決」と、メーカーの不満・公正取引委員会の批判を押し切って、強引な生産削減・輸出統制を始めます。日本メーカーは操業停止の手前にまで追い込まれていました。当の日本TIは、なんと各日本企業が減産を受け入れていた中で、独り増産に励んで利益を揚げていました。そこにようやく減産指導が及ぶのは、摩擦が爆発した87年3月に至ってのことです。

 しかもこの「ダンピング」なるものの基準である「公正価格」なるものは、アメリカ側が一方的に決定するため、アメリカ市場でも2ドル台以下が相場の中で、それ以上に設定されて日本製品が事実上締め出された状態に至ったとのこと。これはその「公正価格」決定のための資料を提出する筈の日本企業が到底納得しない水準であり、彼らの異議申し立ては全て却下されたのだそうです。日本製品が締め出された状態でのアメリカ市場でも2ドル台以下が相場・・・という事実は、彼らの言う「ダンピング」がいかに実の無い出鱈目なものであるかを実証しています。

 第三国シェアをごっそり奪ってホクホク状態のアメリカ半導体メーカーに引き換え、品不足で苦しむアメリカ半導体ユーザーはなんと「輸出規制は通産省による嫌がらせ」などと言い出して日本側に責任転嫁する始末。よく自称アメリカ通は「摩擦が荒れるのはアメリカ企業が苦しいからだ。彼らが儲かるようになれば、解決する」などとお気楽かつ、アメリカ人の楽々もうけを保障する虫の良すぎる言い分を吐けるものです。

 実は、この半導体摩擦が爆発した3月には、既に市況は好転していたのです。「通産省の内通」という官害に苦しむ日本メーカーは、品不足で顧客から矢の催促を受けて「増産したくても指導が厳しくて出来ない」という不平が出を出しました。ビジネスに汗する民間メーカーに対して、3月半ばに田村通産相は「モラルに欠ける業界を指導する」などと発言しているのは、棚橋氏が官房長を勤める大臣周辺にとっては既に日本企業は「アメリカと共通の敵」になっていたのでしょう。

 アメリカ側の横暴は、単に「自分達の儲け」だけじゃない。不公正な政治力によって日本企業の力を「潰す」のが目的であり、それまではけして止めないのは、これを見ても解ります。そして現実にそうなりました。

 この状態になってなお「日本メーカーによるダンピング」と言い張り続けるために行われたのが、強引な囮工作でした。既に日本からのまともな輸出では、半導体企業が輸出業者に対する選別を行って管理が厳しくなっていたため、狙われたのは半導体協定成立以前に海外に持ち出され、子会社でストックされていた在庫品でした。そして、根っからの自由市場として生き馬の目を抜くような手練れの商人が行き交い、コントロールなど不可能な香港市場。そしてこれに引っかかったのが沖電気だったのです。

 架空の会社を作り、旧型品の半導体を大口契約を餌にした強引な値下げ交渉で「12万個買うから、そのうちとりあえず五千個をこの値段で」と騙して送り状を書かせ、そして商売成立の十数時間後には手ぐすね引いて待っていたアメリカ筋に、報告が伝わります。品物が渡った数時間後、仕組みに気付いた本社がキャンセルを指示しますが、交渉相手は雲隠れ。そして翌20日、この露骨なヤラセをネタに「証拠を掴んだ」と、日本叩きの大合唱が始まったのです。

 実際にはこの時に売られた品は協定以前の96/8月から沖電気の香港支店で在庫になっていた旧型品で、輸出規制や減産指導とも無関係な代物だったのですが、そんな事はどうでもいい。この価格カルテルの約束を日本が「守らなかった」として、これを「貿易のパールハーバー」と称して日本を糾弾するという、まさにアメリカならではの奇怪な論理で、政府・議会・マスコミが結束して反日国粋意識を煽りました。骨絡みの対日偏見と「アメリカの力と正義」という自慰史観的思い込みが結合すれば、どんな理不尽な論理も「国家の総意」として支持されるのがアメリカという国です。

 ただ、民間レベルでも同じだったかというと、アメリカを弁護する知米派は「日本叩きで盛り上がるのは議会・政府筋だけ」とよく言います。実際この時も「競争力のある日本製品を締め出すのはおかしい」という意見も出ているのです。ところが日本のマスコミは、「日米開戦を思わせる」と、通産官僚が持ち込んだ交渉相手の様子を引用して、官僚の話を受け売りした記事で危機感を煽ります。「日本資産の凍結」という、まさに資本主義経済システムの根幹を棚上げする戦争行為を、アメリカが準備しているかのような噂まで流しました。

 実はこれは、日本が米国債購入を止めた時の対応策として検討されたものだったのですが、内政での輸入制限などとは訳が違う。私有財産を棚上げし、経済システムの根幹を揺るがす強硬措置、まさに「戦争行為」です。イラクのような武力による侵略国相手ならいざ知らず、ガット提訴すらされている押し売り貿易協定のために、実質的に戦争を仕掛けるような真似をもしアメリカが強行したら、アメリカの信頼性が被るダメージはどれほどのものか。

 だからこの噂は、噂として誰も検証しようとしませんでした。本来なら公式に確認を求めるなり、公の場に出してその不当性を追求するなり「はっきりさせる措置」をするのが政府の義務なのに、ひたすら曖昧なままに放置され、日本人を脅すためだけに機能したのです。

 仮に、ここで日本の逆制裁があれば、アメリカはここまでの強気を通すことは無かったはずです。実際、ボトルリッジに対して日本からの逆制裁の可能性を警戒して質問した記者もいました。それに対しはその可能性を全面否定します。「日本が協定を守ればすぐ解決するから」と。勿論、最初から撤回する気など無かった訳で、彼は制裁の継続を前提に「逆らわない通産省」の内実を見通していた事になります。

 こうした通産官僚の宣伝に乗せられた親米派は、まっとうな抵抗論に対して「アメリカに逆らえば経済制裁だ」と言います。けれども現実に、台湾のような「本当に中国から守ってもらう必要のある国」ですら、現実にアメリカによる半導体ダンピング制裁に対して逆制裁を行使しているのです。それが国際社会の現実です。日本では、金丸信のような政治家が「アメリカあっての日本」という属国根性に支配され、特に自民党代議士の多くが「アメリカの靴を舐めて可愛がられるのが日本の国益」と公言する始末。

 マスコミがアメリカの主張を受け売りして、実体の乏しい「自由貿易のリーダー」というアメリカの看板を、確信犯的に前提扱いし、アメリカが「怒りのポーズ」をちらつかせることで、簡単に震え上がって言いなりになる。だからマスコミ論調は極めてバランスを欠いたものになります。日経などは「日本に対する悪いイメージがある」などというアメリカの感情を振り翳して、「だから短期的な成果を約束しろ」などという無責任な要求で迫るような、ストラウス前USTR代表のインタビューを、あたかも日本の味方の意見であるかのように持ち上げて、無批判に掲載する始末でした。通産省の出来レースを「不手際」として批判することをネタに、あたかも日本側の一方的な負い目であるかのようにアメリカの不当な感情を代弁し、「買える米国製品は少ない」という事実の指摘を脅しで封じる・・・典型的なごまかし強弁をアメリカ利権擁護のために展開したのです。

 江波戸哲夫氏は「ドキュメント日本の官僚」で、「日本のメーカーが通産省の指導を守らなかったのが悪い」と、通産の業界支配指向を代弁します。しかし、彼の言う「メーカーがアメリカを甘く見てタカを括った」という主張は、要するに半導体商社が第三国のグレーマーケットに売ったかどうか・・・という話に過ぎないのです。グレーマーケットというのは一種の投機市場で、品不足局面で利益を稼ぎ、物余り局面になると損を出して売り抜けます。そして、海外市場では日本より実勢価格が高く、その舞台となった東南アジアには現地のグレーマーケット商人がいるのです。

 さらには、アメリカにはウェスタンマイクロテクノロジー社などのアメリカのディストリビューターがおり、実はアメリカに「質のいい」日本製を安く輸入していた張本人はこのアメリカ人商人だったのです。彼らは90年頃にはアメリカ半導体メーカーの圧力で、日本からの輸入をアメリカ製品に切り替えますが、「日本製品を多く輸入する」というアメリカの流通経路は、多く彼らに依存していました。彼らこそがアメリカが被害者意識を振りかざしていた「安値被害」を担っていたとしたら、まさに一連の騒ぎは「アメリカの責任」と言うしかありません。

 だから「価格統制など最初から不可能」というのが多くの論者の一致した見方で、それを承知でこのような協定を結んだのは「通産省がアメリカを甘く見た」からだと江波戸氏は言いますが、霍見芳弘氏などはむしろアメリカの圧力を期待していたのではないか・・・と指摘しています。もちろん、そうした積極的関与を指摘する意見は少数で、公式上の「通産省による激しい抵抗」をアメリカが押し切って日本に強制したのが20%の「約束」であるという前提の基で、この協定は認識されていました。そうした前提の上ですら、「出来ない約束をした通産省が悪い」と、それを強制したアメリカを正当化する主張が横行していたことは、実に奇妙と言わざるを得ません。

 当時のマスコミでは、こうした誰が見ても手のつけられない「海外グレーマーケット」の存在を根拠に「アメリカの怒りはもっともだ」と、「日本企業の第三国シェア激減」という実体を無視した外圧正当化論が強弁されてました。けれどもこれは、裏を返せば、第三国経由で輸出すればアメリカが脅しに使っていた「対日ダンピング関税」など、何の意味もなく競争継続が可能・・・という事実が浮かび上がってくるのです。

 こんなものを恐れて通産省の八百長交渉に乗せられ、自由経済破壊を呑んで「半導体立国」を放棄してしまった日本の立場は、まさにピエロと言う他はありませんでした。実は日本企業自体は、85年段階で既にアメリカの日本製半導体排斥そのものには、それほどの危機感を持っていなかったという話すらあります。86年1月22日の256KDRAMのダンピング仮決定にも「冷静に受け止めている」と。元々、85年下期からの大幅な円高で、日本の半導体メーカーは「対米輸出はあきらめている」という状態だったそうで、結局、対米関係に固執していたのは、むしろ官僚側といった方が実態のようでした。

 実際、85年あたりを中心に、かなり激しい値引き競争はありました。ところが実際にその値引き競争を仕掛けたのは、アメリカ企業でも半導体摩擦の先頭に立って日本を「ダンピング」と攻撃したマイクロン社自身なんですね。だからこのアメリカの言い分は日本企業の多くから「今更何を言ってるんだ」と大顰蹙だったのです。

 さらに言えば「アメリカ政府は味方。強硬な議会を押さえるための支援として譲歩を」というのが真っ赤な騙しだという事実は、日本のマスコミは承知済みでした。実際は政府・議会は政治的に一枚岩で「実態を見るとアメリカ通商関係者がかなり議会と打ち合わせながら決めたというのが真相(日経夕刊87−3/28)」と。

 「商務省・USTRが裏で議会を動かしている」という話まで出てきます。「日本に譲歩させなければ、議会がもっと過激な法律を作る恐れがある」などと、無茶な要求を突きつけて議会のせいにして、「アメリカ政府は味方」だなどと日本国民を騙して反発を押さえてきた訳ですが、裏ではしっかり繋がっての連携プレーで芝居を打ち、不当な利権をせしめ続けてきた・・・、それを鵜呑みにした情報を垂れ流し、お先棒を担いできた政府・マスコミの罪は万死に値します。

 村上薫氏は、この半導体制裁を仕組んだのは、実はペンタゴンだと指摘しています(「ペンタゴンの逆襲」毎日新聞社)。こうした動きがマスコミに載ったのは86年2月でした。産軍複合体関係者を動員した検討作業班を編成して「半導体は戦略物資だ」という理屈で日本製の排斥論議を始めたのです。「半導体は軍事用技術だからアメリカによる優位を続ける必要がある。そのためには日本が邪魔だ」と、関東軍並みに手前勝手な軍国思考特有の支配欲が、経済の土俵で走り出せば、独占のために日本の技術の破壊という意図へと至るのは自然な成り行きでした。それはボトルリッジ商務長官の「日本のハイテク製品そのものがアメリカ国防に対する重大な脅威だ」という発言に明確に現れています。

 それが解った時点で、ハイテク立国の成果を守るという日本の国益にとって、アメリカとの妥協など不可能だと解っていた筈です。「ダンピングなど表向き。本当の目的は日本メーカーの開発力を減速させることだ」という当時の通産省首脳の発言は、関係者の一致した認識でした。

 しかし通産省では、こうしたアメリカの軍事思考的技術独占に迎合しようという動きが始まっていました。その現れは86年6月からFSXの共同開発への転換という形で、公然化します。際限の無いアメリカの我儘にもめげずに、損を垂れ流して「共同開発路線」に付き合い続けた理由が、ここにあります。「日本は町人国家の身分をわきまえ、利益を度外視して、ノブレスオブリージの武士国家アメリカに協力せよ」(「ミリテクパワー」朝日新聞社刊)。

 そう主張したのが、通産省最強の論客と呼ばれた天谷直弘氏の「町人国家論」です。それは「ロン・ヤス」の中曾根や福田といった自民党親米タカ派の発想であり、その福田元総理は、産軍複合体に代表されるアメリカ保守派と対立するカーター大統領から「過去の波」と呼んで攻撃された人物であり、岸元総理の後継者でもあります。当然その感覚は、かつて福田氏の秘書としてのパイプで、裏で自民首脳部と一体化している棚橋氏の感覚でもあった筈です。

 なし崩しの屈伏

 しかし、この制裁に至って、我慢を重ねてアメリカの言いなりになってきた日本国内の不満は爆発します。コケにされ続けた産業界では「破棄してアメリカから締め出されても、第三国で自由に売るほうがいい」という意見が出、アメリカでもウォールストリートジャーナルに「半導体協定で日本は1杯喰わされた。協定破棄しかない」と論評された現実がありました。これに対して通産省は「我々の努力が無視された」と怒りのポーズを示し、3月26日には「半導体協定の破棄を検討」と表明します。

 ところがすぐにボトルリッジの「解決する見通し」を匂わせる発言と呼応して「制裁撤回へ努力」などという甘い期待を振り撒き、抵抗への意識は霧散してしまいます。9日からの次官級協議でのアメリカ側は解決の意思の無い姿勢を露骨に見せつけ(日刊工業4/15)、決裂に至ると、通産省では協定撤廃に代わって「制裁正式決定とともにガット提訴の決定」を発表します。

 ところが、輸入禁止に等しい制裁関税が正式決定され、即日に提訴手続きが発表されたにも拘わらず、結局ガット提訴は寸前で先送り。誰かが強硬に反対したわけです。正式決定の日、児玉機情局長等の担当官に官房長の棚橋氏を含む関係官僚の説明を受けた後の田村大臣は、記者会見で「早いうちに撤回されるだろう」などとお気楽な見通しを並べていました。さらに中曾根総理には内需拡大でアメリカの機嫌を取れば解決できるなどと主張。大臣官房主導で「外交的武装解除」が進められている様子が伺えます。

 実はこの制裁の半分以上は「シェアが達成されない」事に対するものでした。もしこれが「押売り」という本質をもって語られていたとしたら、到底日本側からの批判をかわし切る事は出来なかった筈です。しかし、ダンピング問題が強調される事で、「押し売りのための制裁」という本質は巧みに隠蔽され、制裁は既成事実として定着していったのです。

 そしてこの状況の中で、押し売り20%消化への努力は続きます。アメリカ製品即売のための、2月には100社以上集めての「外国製半導体購入促進大会」。3月には大手10社を呼び出しての輸入拡大指導。4月にはついに財政再建を放棄します。これが現在に至る財政破局の始まりであり、通産省が予てから外圧を梃子にと狙っていた事実は、田原氏のレポートの通りです。

 この六兆円もの財政出動を実現させた中心人物こそ、実は官房長の棚橋氏であった事は、91年に彼が次官に上り詰めた時の日刊工業新聞の人物紹介で明かされています。それだけではなく、東芝ココム事件や構造協議等、外圧時における「アメリカの要求を満たす」ための政策の影には、常に彼の活動があったのです。

 仕上げは、150社を集めて「輸入拡大要請会議」を開き、中曾根訪米の手土産にと、民間に強制する具体的な押し売り「自主受け入れ」輸入の品目や金額をまとめる・・・という、企業を犠牲にした大盤振る舞いでした。これをアメリカのマスコミは「制裁したから日本は動いた」と、ぬけぬけと言ってのけ、さらなる強硬策まで要求する始末でした。

 結局、交渉で抵抗するようなポーズは示しても、実際は何もしなかったのです。ひたすら言いなりになり続ければ「解ってくれる筈だ」と国内をなだめ騙し続け、国内企業は騙されて血を流し続けました。海外からも「日本を叩いて要求した相手に得をさせるようでは、相手は味をしめて要求をエスカレートさせるだけだ」という指摘がありましたが、通産省は一切耳を貸さなかったのです。

 日本側が多大な犠牲を捧げて期待した、4月月末の中曾根訪米で、結局制裁解除が実現しない事が明らかになる頃、次第にアメリカ側の圧力の力点は「シェア拡大」へと移って行きました。それによって衆目に晒される筈の、この押し売り協定そのものの不当性に対する論議を、覆い隠す上で効果を発揮したのが、シェア拡大の実現度を量る基準として、アメリカ側の計測データと日本側の計測データにズレがある・・・という技術上の問題をクローズアップすることでした。そのデータを調整の必要がある、出来ればより有利な日本側の数値を認めさせたい・・・という些末な期待へと、日本の利益を憂える人達の目を外らしている間に「シェア拡大」という目標が既成事実化されていきます。

 5月25日に再び田村通産相が主要メーカーを集めて購入拡大を要求。6月のサミット頃に解除・・・という触れ込みで国内を宥めつつ「そのためにシェア拡大を」と押売り受け入れへ誘導します。こうして制裁解除近しの甘い期待が振り撒かれる隙にアメリカ側はSIA理事会を東京で開くと称して、業界大物が大挙して来日し、20%シェアの要求を突きつけます。

 マスコミで「たいした波乱はなく、拍子抜けだ」のような鎮静化報道で反発が押さえられたものの、この時の日米業界会議においてアメリカ側は、既に需給タイト化で米企業による受注キャンセルすら出ている中で、91年に継続的な20%シェアを実現するまで制裁を継続すると、横暴な要求を突きつけます。こうした横暴に屈する背後には、盛田・ガルビン・棚橋トリオによる毎度の業界調整があった事は間違いないでしょう。

 6月8日にようやく実現した「制裁解除」は、ダンピング分の一部に止まります。さらなる強気で威嚇すべく、SIAのフェーダーマン会長が制裁一部解除に不満を表明し、競争に負けた痛手を「被害」と称してこれと同じ損害を与えろと脅しますが、通産省が散々煽った「協調復活」という甘い夢から覚めた日本側では、落胆から怒りを押さえられなくなると、再びガット提訴のポーズ。一両日中に提訴を行うと表明して期待を集め、そして密室の中での先送り。

 その一方で外国製半導体の購入指導の強化は続き、使用する半導体の種目まで踏み込んだ個別指導で、メーカーによっては30%まで引き上げようという強引な行政指導を受けます。半導体国際交流センターを使ったセミナーや展示会が相次いで開かれ、日立ではグループ各社を動員した購入促進へと駆り立てられていくのですが、そうした日本メーカーの努力をあざ笑うような、日米交渉でのアメリカ側の実質的議論拒否状態で、日本国内の不満が高まると、またも10月17日、通産省の半導体制裁ガット提訴のポーズと、「解除近し」の通産相筋情報で宥め、アメリカは小出しの部分解除。怒る日本メーカーには「明日ガット提訴します」の予告とお決まりの密室的先送りで煙幕を張り、日本民間メーカーの怒りははぐらかされ続けるのです。

 実はこの頃、政府部内で「半導体報復解除をはっきり要求すべき」という日本側の主張を貫徹する事に反対したのは、他ならぬ通産省であった事実が、エコノミスト87−9/29で報じられています。「解除された事が借りを作ることになる」などという、訳の解らない口実で・・・

 その一方で、好況に転じた半導体市場と日本の犠牲による政治的減産から生じた厳しい品不足の中で、アメリカ半導体メーカーが自国市場を優先し、日本が輸入を増やそうにも、売ってくれない。これは単なる技術問題ではない。需要の大きな家電用半導体が、安くて利幅が低いからと、アメリカメーカーが手を出さない。つまり純然たるアメリカの「強欲」の産物なのです。

 日本メーカーに対する厳しい規制で増産もままならず、「欲しくても売ってくれない」「相手には強引に購買を要求しながら、どうして自分は真面目に売らないのか」という不満が日本に充満します。ところが「シェアアップをサボるアメリカ企業が悪い」という当然の不満は、巧みに「アメリカ企業のシェアアップ」という目標を自己目的化する方向へと向けられ、そして「そのためには、日本メーカーはどんな協力もすべきだ」と・・・。

 こうして、日本側ユーザーが参加した官民合同での話し合いの場が制度化されていきます。しかしそれはアメリカ企業が日本側に技術・販売の協力サービスを要求する場としか機能しません。アメリカ企業が儲けるための「アクションプラン」を要求し、自動車制御分野のような特定分野を名指しし、日本企業が「買うべき製品」をアメリカ企業の都合に基いてリストアップ、「ここに売りたいから、ユーザーが汗を流せ」と・・・。

 日本側に対してアメリカ側は制裁解除をはぐらかし、供給努力不足への批判をはぐらかし、アメリカ製半導体の欠陥の疑いで、通信衛星CS−3aの打ち上げ延期する事件がおこり、低い信頼性を何とかしろという当然の要求に対してアメリカは「情報操作」と開き直る始末。翌88年1月には、竹下・レーガンの首脳会談で譲歩を垂れ流し、アメリカから税金で買うために、大学・研究機関では日本製締め出しの上でコンピュータなどの高価な機材を買いまくり、置き場所すら無いというみっともない有り様。半導体では、米国製品買い増し方法を探る日米官民共同研究まで始め、企業に対しては、USTRの役人を滞在させて圧力をかけ、ノウハウを一方的に差し出す提携をどんどん進めさせる・・・。

 それでもアメリカは、ひたすら「まだシェアが足りないから解除できない」の一点張り。日本国内に募る不満に通産省は2月、またもガット提訴の予告ポーズと、なし崩しの先送り。それに対してSIAは、3月3日には「追加制裁」すら言い出す始末。三菱電機は、アメリカ製購入を増やすために、自社の半導体生産を一部中止するまでの犠牲を払いました。

 そうした中で3月6日頃、ガットではついに日本の半導体圧力受け入れを「違反」と判決。ここまで来たら破棄するのが「国際ルール」です。不公正な不利益協定を是正するチャンス。次いで日立の会長がシェア重視を批判。「日米半導体協定自体も白紙に戻すべき(s4東洋経済88−3/19)」という声が高まります。日本企業にとってはまさに「神風」でしたが、通産省にとっては・・・「協定の見直しを含め、厳しい対応を迫られる」と、まるで協定見直しが日本にとってマイナスでもあるかのようなマスコミ報道・・・。何がここまで日本の知性を貶めたのか。

 これに対応するため、日米欧三極会談が決まります。日本が国際ルールを受け入れ・欧州と妥協を図るなら、それで困るのは日本を犠牲に1人で不公正協定の果実を貪っていたアメリカです。それを警戒し、日本を協定に縛り続ける「協議」を要求し、4月11日に日米協議。それで合わせた口裏で、4月15日に四極会議を開きます。日本は「アメリカを満足させる」という前提のもとに苦しい交渉を始め、国内向けには「アメリカには制裁解除を要求しますよ」とポーズを取ります。もちろん、そんな要求にアメリカが応じる筈もなく・・・。

 日経新聞5月11日にも、世論の強い要求を受けた社説が出ます。「もともと米国の無理無体な要求を受け入れて半導体協定を締結したために、我が国は解決困難な問題に直面したのである。そのことを反省した上で、日本政府がとるべき態度は何か」。どんな正論も、腹に一物の通産省には「馬の耳に念仏」でした。

 制裁解除を求めた6月1日の日米業界会談は、20%を「約束」として既成事実化する目論見を丸出しにした「宣言文への明記」に日本側で抵抗し、あっけなく決裂します。ところがその一方で、押し売りアクセスのための「アクションプログラム」だけはしっかり合意。日本の自動車工業会では、押し売り受け入れのための作業部会まで作ります。モトローラと組んだ東芝は最新技術を出血提供し、「だれが見ても東芝側の持ち出し」(「シリコンメジャー」日経産業新聞社)。

 12月にTIと16MDRAMの共同開発契約も「共同」とは名ばかりの「日立さんのメリットは何なのかな。完全に日立製作所のTIに対する技術供与でしょう」と周囲をいぶかしがらせるほどの出血サービス。TIと組んだ日電も「何を得るつもりなのか」と疑問の声に包まれます。こうした動きは、この年1月に来日したスミスUSTR次長(後にモトローラに転職)に田村通産相が差し出したプランに基づいて通産省が業界指導で強制したもので、その恩恵に与ったアメリカ企業は有利過ぎる提携に大満足、「理想的な国際協調」とホクホク。

 逆に日本企業では、「まともな半導体を作れる」ための努力を惜しんで口先だけ「アメリカ製は高品質」と言い張るアメリカ企業から輸入を増やすためには、日本側の犠牲で向こうの技術レベルを押し上げるため、虎の子の企業秘密でも何でも只で差し出すしかない。

 「多少の出血はあっても」摩擦さえ回避されればと、そしてそれが利益なんだと強調するマスコミ。「ライバルと共生していく知恵」と持ち上げて、アメリカの外圧利権は正当化されていきます。こういう「ぶったくり被害」的な提携を、福川元通産次官は「協定をきっかけに日米間の提携が進んだのだから、悪いことだけでない」などと、ぬけぬけと能天気な自画自賛をほざいているのですから、官僚の愚かさには底がありません。

 どんな目に遭っても譲歩を止めない日本に、アメリカの増長は募り、そうした中で生まれたのが「スーパー301条」でした。日本を念頭に作られたこの押し売り法に、通産省は「ガット提訴権の留保」を表明しますが、対米ガット提訴のポーズなど、今までの度重なる先送りでもう誰も信用する者はいません。その6月、棚橋氏は機情局長として再び半導体摩擦の直接担当者となります。

 協定そのもののガット違反問題や品不足問題に対して、9月にようやく半導体協定の価格監視に関する見直しに目処がつきます。しかし、肝心の20%条項は日本企業の積もりきった怨嗟にも関わらず、見直しのみの字も出ません。10月の日米欧のラウンドテーブルでも、それまで多様なハイテクを独占してきたアメリカの立場を忘れて「半導体メーカーが日本に集中するべからず」と、結果平等主義を振りかざすのは「衛星・航空機メーカーがアメリカに集中する」現実を変えるべく技術努力することを否定したアメリカの行動とは全く逆の論理でした。

 日本のみ犠牲を払う「国際協調」が不公正な要求に対して、日本側担当者は反論どころか「今までの貢献」を語る始末。その一方で、セマテックなどで再びハイテク独占へ向けて着々と布石を打っているアメリカは、自分達の研究に日本に対する閉鎖的な防壁作りに血道を上げます。IBMは90年頃、ヨーロッパ企業との半導体共同開発を行います、その協定に「日本企業に技術情報を渡さないこと」。

 アメリカで行われた研究大会からは日本人が締め出され、ネットでは多くの研究機関で日本からのアクセスを拒否する。これが「技術の公開」だの「世界への貢献」だのと御大層な羊頭看板を掲げた連中の正体であり、それをありがたく押し頂いて詐欺集団に協力した多くの日本人従米派の愚かさの証明です。

 ユーザーと日本企業を犠牲にしたカルテルによる半導体価格の上昇で、アメリカ半導体企業は空前の大儲けをせしめました。ユーザー側は自社生産能力のある日本企業自身が、この協定のために日本市場向けの電算機を作る半導体にすら事欠く有り様。相次いで生産計画の見直しを迫られます。こうした甚大な被害により、日経8/2日社説のように、まともな論文の中では協定廃止を求める多くの声が出ます。しかし、アメリカ様御機嫌大事のマスコミの大勢では「アメリカは軟化した」と協定を持ち上げ、「半導体協定は空文化した(だから正式な撤廃は無用)」などと、国民誰もが求める半導体協定の見直し要求は、妥協的雰囲気の盛り上げによって、はぐらかされ続けました。

 そのおためごかしと対照に、交渉現場ではアメリカはなおも「制裁解除」は拒否し続け、あくまで20%達成に固執します。9月のSIA年次報告では、20%シェアを日本に対する利権として主張し、追加制裁すら要求する始末。AMDのサンダース会長などは押売協定存続を擁護する発言の中で、その露骨なカルテルを「守らない」事を犯罪者呼ばわりし、「犯罪が無くなっても刑法は必要」などと放言を吐いて、大顰蹙を買います。

 その言い訳が「会長の性格を理解して欲しい」・・・。TI会長は半導体の品不足が半導体協定によるものであるという、誰でも知っている事実を強引に否定してまで「協定存続は必要」などと強弁するなど、協定存続を強要するアメリカ企業の態度は、まさに猖獗を極めたものでした。これがマスコミ粉飾者をして「軟化したアメリカ」と呼ばれたものの実体です。

 深刻な品不足によるアメリカユーザーからの矢の催促で、ようやく半導体、特に不足していたメモリーの増産が可能になったことで、日本企業にも価格上昇による利益が出るようになりました。メガビットクラスの高密度メモリーでは、技術の格差により日本企業に依存せざるを得ないためです。それによる利益から「半導体協定は日本企業にもプラスだった」と主張する人もいますが、それは現実にはそれまでの技術的蓄積を食い潰すものでしかなく、あたかも「日本でもこの協定の維持が日本の産業界自身の意思」であったかの如く主張するのは大きな間違いです。こんな日本企業だけを縛った協定など破棄しても、日本企業に何の不都合があるというのでしょうか。

 国内企業による投資コントロールによる価格維持が必要だというなら、それは国内だけで可能な筈で、現にそれ以降のそうした「守りの教訓(伊丹敬之氏『なぜ三つの逆転は起こったか』)」に基づいた行動は、伊丹氏の著作を読む限り日本企業どうしの牽制の中で行われているのです。

 むしろ半導体協定によって企業としての戦略的行動を縛られ、メモリーで韓国・台湾メーカーによる激しい追い上げを受ける一方で、より安定的で利益の上がるASICやMPUへの注力を強く意図したにも関わらず、アメリカによる激しい警戒発言の圧力と、数少ない「アメリカが売れる」半導体に20%購入努力が集中せざるを得ないために、意図的にアメリカ企業に明け渡された(伊丹氏の言う「部分供与」)という事情から、それらに対する投資にブレーキがかかっていきます。

 そして日本が得意な高密度技術が大きな意味を持つメモリー・・・、本来なら「元々の圧力の対象」であった筈の品目であるにも関わらず、日本半導体メーカーは大幅にメモリー依存度を高めざるを得なくなり、この不安定な品目への依存はやがて「メモリの罠」に捕らわれて、没落を早める要因になっていきます。実際にこのDRAMでも、アメリカ企業は日本から盗んだノウハウで256K→1Mと体制を整えていました。早くも翌89年8月頃には1Mで価格競争を仕掛けるようになっていたのです。それをやったのは、摩擦演出の中枢モトローラでした。

 11月、ブッシュ大統領候補の当選が決まると、通産省は「現政権下で解決する」と見得を切ります。その幻想とは裏腹に、SIAが強める強硬姿勢にたまりかねた日本電子工業会が9月のSIA年次報告に反論しますが、政治の裏切りを抱える日本にとって、まさに「ごまめの歯ぎしり」でした。そして89年、スーパー301条の季節がやって来ます。

 この時期、日本ではリクルート事件で竹下内閣が潰れる騒ぎが起こっていました。浜田和幸氏はこの事件を「アメリカから仕掛けられたふし」がある、アメリカの諜報機関が日本の闇組織を使って影で演出したのだとして、その人物へインタビューまでやっています。「日本の金融・情報産業を押さえるため」だというのですが、元々、竹下派は棚橋氏と近く、85年のプラザ合意で日本を円高地獄に突き落とした張本人でもあります。

 首相として「市場開放プラン」とやらを推進し、アメリカにとっては極めて好都合な人物だった筈なのですが、その竹下政権が倒れた後にも宇野総理のゴタゴタが続き、自民党は大きなゆさぶりを受けた事で、自民党全体に外圧を受け付けやすい雰囲気が醸成されていったのは事実なのです。

 89年初めごろの総選挙で海部内閣が成立。この時の選挙の間、「選挙への影響を考慮する」とか言われて、摩擦問題が沈静化しました。それをネタに「恩を売ったのだから、選挙が終わったら大きな譲歩を」という協定が出来ていたのです。

 通産省・国売り物語(3)馬借

 茶番のスーパー301条

 ブッシュ政権は、当初、2月始めに打ち出された方針では、スーパー301条に日本を指定しない予定でした。これが「選挙休戦」のためかどうかは解りませんが、実際、アメリカにとっては88年の対日交渉で牛肉・オレンジや「農産物12品目」などの大きな成果があり、また85年以来の「市場開放アクションプラン」で主な「障壁」はほぼかたがつき、むしろ関税などで日本は世界一障壁の低い国になり、「301条品目」の木材などは逆にアメリカのほうが高関税という有り様でした。その結果、アメリカでどういう事になったか。「今年は攻撃するタマがもうなくなって、何となくフラストレーションがたまっている(日経夕刊89−5/15)」。

 つまり、日本が「不公正だから攻撃する」のではなく、日本叩きが楽しいからやる・・・という実態があったのです。だからこそ「とにかく米商品が売れないのは、何か目に見えない障壁があるに違いない」などと言って、「国産愛用癖」などと消費者の選考の権利を否定してみたり、「日本人が日本語で商売をする」という当たり前の事を障壁だと言い張って、「20%が実現しないのは、競争力のせいではなく、日本市場のせいだ」と事実無視の強弁を続け、市場管理強制を正当化し続けました。

 既にアメリカは、半導体協定に味をしめた「シェア保証」による押売利益を全ての分野に拡大しようという欲望を鮮明にし初めていました。2月半ばに貿易政策交渉諮問委員会が出した提言に基づいて、USTRでは「スーパー301条の代案」と称して、石油化学・繊維・紙・コンピュータ・通信機器・原子力機器などをリストアップし、個別協定で購買強制を計る方針を打ち出し、この提言の露骨な結果主義交渉スタンスを知る一部の通産官僚が警戒を示したにも関わらず、通産省首脳は「協調的な政策転換」などと持ち上げ、「具体的な輸入拡大策が必要」などとアメリカの結果主義に迎合する姿勢を見せたのです。

 結局、この押売貿易提案も、すぐに日本では政府各所からその管理貿易主張の危険性が指摘され、警戒されるようになるのですが、民主党系シンクタンクのEPIも半導体協定での「成功」を理由に、他市場分野での押売拡大を求め、モトローラ等のハイテク企業が組合と組んで作った「国際貿易のための労働・産業連合」も市場分野別押売輸入目標の強制を要求する提言を出しました。

 一方で、半導体協定に対してガット問題で違反とされた価格監視に代わる「モニタリング方式」で2月7日頃にほぼ決着がつき、これを理由とした「協定破棄」の可能性が無くなると、猛然と日本叩きが始まります。2月中ばにモスバッカーが「年末までに20%達成しなければ日米関係は損なわれる。どんな貿易問題リストでも日本はトップだ」と、露骨にスーパー301条を匂わせて半導体で揺さぶりをかけ、20日にはSIAを始め、自動車部品工業会などの圧力団体が出した12件のスーパー301条適用要求を公表。

 2月末には20%が達成されていないとして、SIAがスーパー301条日本指定と追加制裁要求を決議し、ダンフォース・ベンツェン・ゲッパートなどの摩擦議員が、「スーパー301条は最初から日本が標的だった。外したら意味がない」と出来レースを要求。「議論はいらない、結果を示せ」と、アメリカ企業の努力不足を棚上げした無論理ぶりに、散々購入努力を強いられてきた日本企業は激怒。日本電子工業会はアメリカに反論し、「20%は約束ではない」と主張。アメリカ側は問題の協定附帯文書を公表しますが、ウォールストリートジャーナルがこれを分析し、「約束」と見るのは困難だとアメリカ側の間違いを証明します。

 結局、アメリカは毎度の如く感情硬化という脅しに訴えるしかありませんでした。プレストウィッツなどは「日本は守る気の無かった数値目標を約束したふりをして、アメリカを騙した」とか言ってますが、これがいかに恥知らずな言い方であるかは、彼自身が86年2月頃「強硬派を押さえるために、何でもいいから数値目標を呑め」と露骨に要求した事実を見れば明らかです。「怒るアメリカを宥めるために実行可能性を度外視して20%条項を受け入れる」のが騙しだというなら、その騙しを要求したのは他ならぬプレストウィッツを含むアメリカ政府だった。その経緯を承知の上で、こうしたアメリカの言いがかりを放置した通算官僚の言動は、裏の意図が無いとしたら最早白痴的と言うしかありません。その上なおもスーパー301条のヒルズ・三塚会談ではヒルズが「議会を説得する弾をくれ」などと、同じ事を繰り返すのですから、話になりません。しかもそれが、裏で議会と打ち合わせての芝居であることが見え見えなのですから、もう何をか言わんや・・・です

 これに対して日本側からは、3月頃から非公式ルートで「望ましい対日適用分野」に関する非公式メッセージを流し(東洋経済89−8/5)ていた・・・と、背後での癒着を裏付けています。4月になると、「高まる対日指定要求への対策」と称して通産省はアメリカに使節を派遣。これがスーパー301条を利用した米・通合同の対日圧力の「打ち合わせ」だった事は間違いないでしょう。

 田原氏の「平成・日本の官僚」によると、通産官僚達が、外圧を利用しての他省庁の「縄張り荒らし」を公然と自認し、内輪では何の危機感も持たず、最終的な指定三分野の内容すら知っていた、まるっきりツーカーだったという事実があったのです。そしてこの使節団に棚橋氏も同行し、帰国後には早速、半導体ユーザー会でスピーチ、「アメリカの怒り」をひけらかして「購入拡大」を要求しています。

 この使節団がもたらした「対日指定候補リスト」は4月18日に公表され、日本中を激怒の坩堝に叩き込みました。そして4月末に正式発表。三塚通産相は「アメリカを説得する」と称して渡米しますが、和気あいあい、逆に様々な譲歩の大盤振る舞いを差し出して帰国します。郵政省や外務省は激怒しますが、その「調整」は自民党・・・特に棚橋氏の秘書時代に仕えた福田氏の後継者であり、三塚氏のボスでもある阿部氏に持ち込まれます。

 そしてこの三塚訪米にも棚橋氏自身が参加し、帰国後にマイコンショーで譲歩をほのめかしたのは、言うまでもありません。半導体では譲歩しようにも日本側から出来ることなど無いのは明らかにのに、「指定は必至だ。何としても回避するため、出来ることはどんな譲歩でもせよ」と煽られ、結局は「購入拡大のためアクションプラン」の合唱で幕が降ります。

 平行して郵政省は、盛田・棚橋と組んでいたモトローラ操る通信分野の交渉に渡米しますが、その交渉の後に「夕食会」と称して民間人である筈のガルビンと会談。モトローラは自らの「通信分野」のために通商法1377条に基づくものを別枠で用意され、ガルビン会長はスミス前USTR次席代表をコンサルタントに雇って「強硬姿勢を取り続ければ日本は必ず折れてくる」などとアドバイスを受けていました。そのスミスも同席の上で譲歩を迫る・・・という露骨な政商ぶりを見せつけます。彼はブッシュ大統領の有力支援者として巨額の選挙資金を賄い、その見返りに大きな便宜を得たのです。

 日本の常識では明白な贈賄ですが、その被害者が日本人である限り、けしてアメリカの司法もマスコミも批判はしません。それが「アメリカ」という国です。ガルビンは自分の次男をUSTRに送り込み、54品目もの制裁候補をぶち上げて、早々と制裁を決定します。それを決定づけたのは「ガルビンが首を横に振ったから」だと言われており、一企業の利益を擁護する露骨な姿勢は、さらに日本市民の反発を買いました。やがてこの通信摩擦は6月になって、これも棚橋氏と関係の深い竹下派の幹部である小沢一郎氏の仲介により、IDOにモトローラ方式を強引に押しつけることで「合意」します。強引な周波数割り当て変更要求で業界には激しい反発が渦巻き、特にIDOは莫大な二重投資を迫られ、経営危機にすら直面するのです。

 通産省は、反発の大きい国内向けには「制裁を前提にした交渉には応じない」と見得を切りますが、裏では「対日指定はあったほうがいい」などと公言する始末。半導体ではしっかり5月18日から来日したフィリップスUSTR次長などと協議を行い、企業ごとに数十億の購入計画や自動車50%増を初めとする業界ごとの数値目標など、ふんだんな貢ぎ物を報告。随行したモトローラのフィッシャー社長は棚橋氏と会談するなど、露骨な連携プレーぶりを見せつけました。スパコン分野では、USTRに対する「意見書」と称して、8軒もの「購入計画」を差し出しすなど、結局「圧力の果実」を差し出す醜態に終始したのです。

 結局、五月末の本指定では、田原氏が明かした「騒ぎの一週間前に通産幹部が知っていた」通り、国民の税金で政府機関に買わせるスパコンなど三分野が指定されました。最初、19日頃に指定確実になったのがスパコンで、その他幾つかの候補が上がり、アメリカ部内での激しいやりとりの末に決まった・・・という経過が、報道では流されます。しかし結局それらは手の込んだ芝居・出来レースだった訳です。この結果を受けて日本では、マスコミが「不公正貿易国の烙印を捺された」と大騒ぎする一方で、肝心の通産省は「三分野は通産マターではない」などと涼しい顔。「これで済んだのはアメリカの良識が蘇ったため」「落ち着いた交渉態度が功を奏した」などと勝利宣言まで出す始末。

 この時、同様に候補に挙がった韓国は、国民の反米感情でアメリカを押さえ、ECも「米国貿易障壁42項目」を列挙して毅然とした態度を取ったために、本指定はありませんでした。しかし日本はマスコミの対米恐怖を煽っての「譲歩せよ」宣伝で反発の表面化は軽微なものに留まり、「日本指定」に固執するアメリカを安心させました。マスコミはさすがにアメリカの横暴さは隠せませんでしたが、「反発は感情論だから押さえろ」「アメリカの不満を自覚せよ」「紛争を拡大させないのが経済大国としての責任だ」などと、あらゆる理屈で外圧への恭順を説いたのです。

 正当性を無視した「感情論」という一括りの言葉で、アメリカの感情を容認しつつ日本側の感情を否定し、「大国」という言葉でおだてて「叩かれ役」という大国にあるまじき惨めな実態から目を逸らさせる・・・まさに詭弁の塊のような論調が横行しました。また、交渉場面をあげつらって、ヒルズ代表が議会を見え透いた噛ませ犬に仕立てて「自分は制裁はしたくないから譲歩しろ」とゴネれば「大人の態度」とおだて、日本側がアメリカ側の対日差別的態度をたしなめてモスバッカーが鼻を曲げれば「友人を失った」などと、ゴネアメリカ人の感情を優先する・・・。こうした報道で「問題の本質」から目を逸らさせたのです。

 もし、日本で国民世論による対米批判が表面化していたら、この圧力を跳ね返す大きな力になった筈なのです。在日米大使館やIBMなどは日本の反米感情を恐れて米政府に指定を避けるべく勧告し、本指定の際には日本からの反発の緩和のために半導体制裁の解除を検討したほどで、アメリカのマスコミでも「半導体などが指定から洩れたのは、日本側の反発を恐れたから」という見方が有力だったのです。5月末に開かれたOECDでは早くもスーパー301条はヨーロッパはおろか、アメリカと不離一体状態のカナダからさえ強い非難を浴び、完全に孤立していました。この状態でまともに争えば、アメリカは不利を免れなかった筈です。

 「交渉には応じない」と見得を切った筈の通産省は、騒ぎが静まると途端にその国民に対する約束を反故にしました。「財界人どうしの会合」と称して7月には、政府担当者も同席の上、実質的な政府間交渉が始まり、平行して「構造協議」が始まりました。構造協議では「双方に意見を言う」と言いつつ、その実アメリカが一方的に日本に要求を突きつけ、やがてここから、本来なら過去の不況時の財政出動国債を償還すべきバブル景気時の日本に430兆もの公共事業を義務づけるという、経済原則を無視した無茶な要求を呑まされることになり、まさに今日の財政破綻に至るのです。

 これこそ構造協議の最重要課題であり、それがいかに常軌を逸した害の甚大な要求かは、エコノミスト90−9/11の安倍基雄氏の論説に詳しいですが、構造協議で持ち出された無茶な要求は、それだけじゃない。ヤクザに差し出す「みかじめ料」にも等しい米軍駐留費負担増額すらも、この構造協議の中で持ち出され、そのために地位協定の変更すら迫られるのです。こうした屈辱的な交渉はマスコミで、「大店法」などを盛んにアピールする報道に隠れ、あたかも「アメリカは業者エゴを叩く国民の味方」であるかのような宣伝がなされ、アメリカの外圧そのものを正当化する世論操作が横行したのです。

 しかし現実には、公共事業拡大要求はまさにその「業者エゴ」の利益を代弁したものであり、それに対して表向きの抵抗とは裏腹に、実は裏で一貫して財政拡大を計って外圧と組んでいた通産省のやり方は、大店法などでも通産省の実際の行動がいかなるものであったかを如実に物語っています。大店法でアメリカの要求に抵抗したのは通産省・・・という事になっているのですが、実はこの交渉の結果、規制区域線引き等で通産省は大幅に権限を強化されていたのです。

 そしてその権限で市町村など関連団体に強い「指導」を初めており、アメリカ製品購入指導にも大きな力を振るった事は間違いないでしょう。とすると、本当に通産省は抵抗したのか・・・、実は「既定の行動」の追認に過ぎなかったのではないか。小規模なコンビニが本当の「脅威」として、単なる「店舗の大きさ」が時代遅れになる中、通産省の内部でも(田原氏の著作では)「アメリカを批判する民族派の代表」ということになっていた村岡茂生氏すら「大店法は悪法で即刻廃止すべき」と言ってる・・・とすれば、一体誰が反対したのか。

 あたかも「日本側が強く抵抗した厳しい交渉だった」かのように、日米政府がマスコミ操作による誤った印象を植えつけられた事実は、グレンフクシマ氏の回顧に出てくるそうですが、実は「通産省の抵抗」なるものは、「いつまでまとめるか」のような些末な問題でしかなく、その抵抗の中心にいたのは、棚橋氏と最も近い政治家である梶山通産相である事が、畠山譲氏の自伝「通商交渉、国益を巡るドラマ」に出てきます。あたかも抵抗したような振りをしつつ、結論は既に出ていたのですから、翌6月の妥結は「まとまらないと思われてたのに、何故まとまったのか、ミステリーだ」と疑問を持たれたのも当然で、内実「出来レース」を「自由化のため」と称して外圧と組んで、実際の目的は「省の権限強化」と多くの人員増加と補助金。これは実は半導体協定での20%保証の出来レースと同じ構造であることは、お気付きのことと思います。

 この他、建設での談合処罰や内外価格差などが俎上に上りますが、「日本市民の味方」という羊頭看板とは裏腹に、アメリカの要求によって設計や通信設備などの美味しい所しか手を出さないアメリカ建設会社の受注を保証してやる建設摩擦は、これこそまさに談合以外の何物でもありません。内外価格差の原因が実はアメリカ対日輸出業者の不当に高い利幅である事実が協同調査によって判明しかかると、アメリカはさらなる確認の調査に反対するなど、多くの欺瞞を含むものでした。

 大店法の廃止は当然でしょうが、それは既に国内世論の支持があって、それに米・通産連合が便乗したに過ぎない・・・ということは、「やる気」さえあれば国内だけで出来た筈です。それをあたかも「外圧でやりました」かのように演出し、外圧全体を正当化して不当な押し売り外圧の非を糊塗する意図は見え見えでした。

 これをマスコミは、アメリカの対日調査の成果であると持ち上げますが、この状況は通産省が85年にやった手・・・裏で日本側から情報提供した・・・というのと同じ事をやった可能性が高い事は、言うまでもありません。マスコミはアメリカ側の妙手ぶりを讃えて、こう言います。「竹下派を厚遇して味方につけたのだ」と。元々、棚橋氏と近い勢力であり、実態は「厚遇して味方につける」も何も無かったのではないでしょうか。

 これと前後する6月、棚橋氏は産業政策局長、その腹心の内藤正久氏は貿易局長に就任。その体制の元で、半導体で培った押し売り産業規制を全産業に拡大するべく、壮大な行政指導の行使が始まります。6月からは約300に対して「輸入拡大計画のヒアリング」と称して圧力を開始。「パーセンテージが一桁では少ない」と、数値目標をかざしての市場管理に走り、21日には「輸入拡大要請会議」を開催。10月末には主要数十社に「約4年で輸入倍増」を公言するほどでした。

 7月27日に産業構造審議会新施策報告を出し、「草の根輸入促進」を提言。地域レベルにまで指導の網を張って「輸入可能品目」を報告させてアメリカを潤さしめる。それと連動すべくジェトロに「対日輸出促進基金」「総合輸入促進センターパイロット事業」が新設され、輸入促進税制や頻繁なアメリカ製品商談会、外国対日輸出企業のための相談窓口、対日売り込みの便宜を図るための情報提供等々。

 これが90年8月には、関係省庁や業界人と外国人による「輸入協議会」で、300以上の主要企業に製品輸入計画を提出させ、90年提出分などは8%の伸び率が「前年度の13%に比べて少ない」として通産大臣が怒りつけて圧力をかける強引ぶりでした。

 これら全ては、棚橋氏の意を受けた内藤氏の手によるもので、これで得た莫大な権限で潤った通産官僚達は、棚橋氏をして「通産省中興の祖」とまで呼ぶほどだったそうです。

 しかし、一歩その省益の外に出れば、民間が発する疑問の声に溢れていました。「通産省は米国の管理貿易の担い手(日経90−1/10)」「通産省は押し売り取り次ぎ業か(同紙89−12/16)」・・・。これに対して開き直る通産幹部は「対外摩擦を配慮しつつ日本経済の活力を維持するためだ」と。しかし現実に日本経済の活力が維持されなかった・・・というより、正確には「意図的に破壊された」という結果をもたらしたのです。輸入優遇税制に対する民間の反応も冷たいものでした。「輸入増加10%」という義務が、その輸入者にとって、いかにも重い犠牲を伴うものだったからです。

 この時期、大前研一氏は各種統計を計算し、アメリカ系の在日子会社の販売総額が550億ドルに達し、このアメリカ系企業の本当の実績を加味するならば、対日赤字の相当部分が吹き飛んでしまう事実を立証して、アメリカの押し売り外圧のいかがわしさを実証しました。その功績に対して通産省が何と言ったか・・・。「余計な事をするな」。彼は「日本企業の保護者」という通産省の仮面の裏の、実はアメリカの権威を傘に着た経済統制に血道を上げる正体を完膚なきまでに批判しています。

 そしてこの時期、とんでもない特許が成立します。TIの「集積回路の基本特許」と称するものの中身は、電気の通る回路の線と線を離すことで絶縁するという、まるで電気を通す電線を丸ごと自分の発明だと称するようなもので、日本企業に莫大な特許料を請求し、富士通だけは裁判で抵抗しましたが、他の企業からせしめた特許料でTIは一気に黒字転換しました。TIは半導体摩擦の中心役の一つですが、通産省配下の特許庁を使った露骨な利益誘導としか思えない事例と言えるでしょう。

 こうした露骨な対アメリカ企業利益供与に関して、もちろん通産省の言い分は「アメリカの理解を得るため」である事は言うまでもありません。そして現実には、アメリカとツーカーだった通産がそんなものを一切期待していなかったことも。そのアメリカでは、半導体摩擦の被害を受けたユーザー企業が半導体協定延長阻止を旗印にCSPPという団体すら組織していました。それと共闘してSIAのごり押しと戦おう・・・という姿勢すら、通産省は見せませんでした。

 6月の半導体協議では、日本側大手が差し出した「急ピッチな押売受け入れ拡大」にホクホクのアメリカ側でしたが、もちろんそんなものは「味をしめさせた」事でしかありません。こうした行動がいかに愚かなものであるかは、既に当時、日経11/6日で富田俊基氏が論証しています。制裁を受けた日本から、対象品目を限定した逆制裁によって対抗することこそ、アメリカのような非協調を淘汰し、大きな紛争を回避する有益な行動である事が、ゲーム理論の定理であるとして、政府の行動とその結果を分析し、「米国の報復に対してはっきりと反対の意思表示もせずに、産業界に対して米国製半導体の使用を促した」ことを批判しています。同様の意見は伊藤隆敏氏(東洋経済93−7/3)が「建設的対米報復」として提言し、「対抗措置は経済戦争になって日本の破滅」・・・などという発想は全く世界の常識に反する事実を明らかにしています。

 10月に入るとSIAは圧力の強化を始めます。理事のプロカシーニ氏が20%達成困難として制裁強化検討を表明。ノイス氏やコリガン氏も相次いで来日し、20%の達成を要求します。日本電子工業会はこれを批判する一方で、10項目の購入拡大策を提案しますが、何の役にも立ちません。11月の四極通商会議ではアメリカのやり方は批判の的でしたが、国内マスコミは「アメリカに逆らう日本は世界の孤児になる」と脅しました。そうした動きを外圧によってバックアップすべく、10月にUSTRのヒルズ代表が来日します。各分野の担当大臣と会談して圧力をかけるとともに、前月の貿易委員会の「フォローアップ会合」と称して、スーパー301条指定品目の協議を要求。それに呼応して、自民党の小沢氏が「産業界全体の自主管理貿易」を提唱。政府部内で真っ向からの自由経済否定がまかり通っていきます。

 スーパー301条指定品目品目では、89年11月、さらに翌2月と行われるフォローアップ会合で、の「制裁を前提とした」協議が始まります。当然、強い抵抗が出ます。通産省では予定の事で、「翌年のスーパー301条の行方を探る」と称して、その実、抵抗省庁を屈伏させるべく、12月には通産幹部が相次いで訪米。3月末のスーパー301条候補指定前にほぼ日本譲歩の見通しが立ちます。にもかかわらず、アメリカは前年をしのぐ数の候補を列挙。曰く「スーパー301条は予想以上に有効だった」と、ぬけぬけと語る国務省筋。

 日本が拒否して制裁となれば、アメリカは孤立して窮地に陥る筈なのを、日本の「協力」が救ったのだと・・・。だから「御馳走をもう1杯」・・・と(日経90年4/1日)。そして新たにアライド社の利益を代弁してアモルファス合金を指定し、多額の購買約束などの不透明極まる要求を突きつけます。もちろん半導体なども重要な圧力分野として、既に2月半ばに「民間半導体会議」で、それまでの圧力の成果を「指針」として確立したことになりますので、さらなる「前進」を心置きなく要求する訳です。

 指定に先立っての3月16日、モスバッカー商務長官が来日して直接に日本の電子企業と会談して圧力をかけ、4/11日には武藤通産相が電子工業会などと懇談、アメリカ製の調達増加を「要請」します。そして20日には「外国製半導体マーケットアクセス拡大会議」にユーザー企業を集めて購入拡大を指導。25日に全産業で300社を集めた「輸入拡大会議」押売受け入れ指導。国内外からの圧力に、メーカーは殆ど抵抗力を失っていました。「理屈を言っても始まらない。制裁されれば世界の孤児になる」などという諦めムードを強要され、通産省にわざわざ「本指定回避」を要請するまでに、米・通産のペースに嵌まっていました。

 そして「新たな購入拡大」へと駆り立てられ、るのですが、何しろ不良率の高いアメリカ製品ですから、家電業界は「これだけ努力しても8%がやっと」と、悲愴感を漂わせながら(日刊工業4/18日)アメリカ製購入のために犠牲を払い続けました。

 この間、ECは米国の貿易障壁に関する報告書を提出して対抗し、脅される一方の日本との落差を見せつけました。アメリカは日本から毟り取った譲歩に溢れる成果を勝ち取ります。これによってアメリカ政府部内で、ルール違反の制裁でアメリカ自身が「世界の孤児になる」危険を回避するための「本指定回避」が4月末に決まると、お人好しにも日本のマスコミはその「回避」だけを取り上げて「良かった、良かった」の合唱。アメリカに管理され絞られる厳しい未来の事なんか、これっぽっちも気にしない能天気ぶりを示すのはまだマシなほうで、「アメリカは日本に貸しを作ったのだ」などと、あまりに図々しい恩着せ論理の片棒を担いで、日本を精神的に蝕んでいったのです。





(私論.私見)